じりりっ……虫の唄声が闇の中に響き渡る。 家から一歩出れば、見渡す限り田んぼはしかなく、何キロも離れた家を見ることが許された景色。今は夜のせいか、月のおかげで明るい紺碧のなかに、ぽつ、ぽつと地上に輝く優しいオレンジ色が目にとまる。 大人の腰ほどに育った稲は、風があるたびにさわり、さわりと音をたてて揺れる。水分を孕んだ冷たい空気が頬を撫でた。 驚くほどに静かだ。 エドガー・ウォレスは居間の窓の前に仕掛けたまま空色の瞳を細めて、息を吐いた。 自然災害、紛争地といった非常事態に対応する救援活動に従事した医者であるエドガーは、気が遠くなるような多忙な日々を送っていた。 つい、先日紛争地に赴き、何の罪もない幼い少年を看取った。そのとき己の無力さと現実の空しさを……今までだって何度も感じていたことだが、いつまで経ってもその喪失は慣れることはなく、ひどく落ち込んだ。 それを心配した母の親類が、夏はこちらで過ごさないかと誘ってきたのはひと月前のこと。 父はアメリカ人だが、母は日本人。 エドガーは幼いころは日本の大阪府で暮らし、そのときに日本の文化に慣れ親しんだ。自分の半分のルーツである日本は、どれだけ長く離れていても故郷の一つとして愛していた。 疲れ切った心に、親類の誘いは魅力的だった。それも休暇中に居候するだけではエドガーが気を使うかと思ったのか、畑仕事を手伝ってほしいとの言われたのが決めてとなって、日本行きのチケツトを手配した。 飛行機に乗り、電車を乗り継いでやってきた土地は見渡す限り田んぼばかりでなにもなかった。喧噪から遠いたとき、心がふっと軽くなるのを感じた。 トラックで迎えにきた親戚に案内された家の二階の奥にある部屋を与えてもらい、そこに荷物を置いて、親戚たちに挨拶をした。顔を知っている母の兄妹の末の妹さん、その旦那さんに子供たちが上は高校生、下は幼稚園――五人もいる大家族だ。 子供たちはわらわらと寄ってきて興味津々に見つめてきた。 「青い目、すごくきれい。髪の毛もきれー」 「おっきい。おっきい!」 「えーと、ハロー?」 「ばかだな。エドガーおじさんは、ちゃんとあいさつできるんだよ。ねっ」 「おじさん、サムライはいないんだよ」 素直な子供たちの反応にエドガーは笑った。 「この目も髪の毛を褒めてくれてありがとう。……日本にサムライがいないことは知っているよ。あ、けど」そこでエドガーは身をわざと屈めて、特別な秘密を口にした。 「ニンジャが本当はまだ日本にいることは知っているよ。けど、ばれちゃいけないから、滅んだことにしてあるんだよね? 大丈夫、ばらさないから」 子供たちは目をぱちぱちさせ、夫婦は噴出した。 昼間は畑仕事で汗を流し、子供たちの宿題を見たりして過ごした。夕飯に採れたての野菜で作られたサラダを食べるのは何にも勝る贅沢だった。 「ごめんね、せっかくの休暇なのに」 銀砂をまいたような星空を見ていると、不意に声をかけられてエドガーは目を瞬かせた。 「子供たちの相手、大変でしょう」 「そんなことはないですよ、とてもいい気晴らしになります。あ、先にお風呂もさきに」 「いいのよ。気にしないで。うちのわんぱくどもはそろそろ寝付いたけど、どうする?」 「じゃあ、俺もそろそろ」 田舎の夜は驚くほどにはやい。そもそも周囲に田んぼしかなく、遊ぼうにも車で、一時間もかかる隣町にいくしかないのだ。家にある娯楽はテレビくらいのもの。夜は夕飯で腹を満たしたあと風呂にはいったら寝るしかない。 エドガーは、与えられた二階の客間へと移った。 戸を開けると濃い畳みの香りと蚊取り線香の臭いが――充満している。 部屋の電気はわざと点けず、かわりにスタンドの電気をつけた。淡い明かりで十分に部屋を照らせる。 そっと窓を開けて外を見た。 星が驚くほどに近い。 休みになったら読もうと思っていた本をここにくるときに持ってきていたのだ。それに手を伸ばそうとしたとき、星の海の中に、輝きながら駆けるものを見えた。 エドガーは目を見開く。星ではない、ましてや流れ星とも違う。こんなにも点滅するはずがない、それもそれはだんだんと地上に近づいてきている。 きらり、きらりと瞬き、光の線を描きながら、地上へと降りていく。――あれは…… 見ているとそれはここから歩いて数分ほど先にある小ぶりの山へと降り立った。確か子供の足で登る十五分ほど、頂上には神社と広いグランドがあるとだけだと聞いた。 「あれは……」 見間違いだろうか。 じりりっと虫の鳴く声に混じって、爆ぜる音が耳に届き、ぎくりっと身が強張った。 それは何度も戦争で、紛争地帯で聞いたような爆発に似た――咆哮。 無意識のうちにエドガーは立ち上がった。 ★ ★ ★ レオンハルト=ウルリッヒ・ナーゲルは仲間たちとともに地上に降り立った。 濃い草の匂いの広がる闇。 張り詰めた緊張が肌をぴりぴりと突き刺し、何かとてつもない敵が出現したことに命という命が恐怖から沈黙を守った静寂。 「寒い」 仲間の一人が、ぽつりと呟いた。 温度そのものが低いではない、ここ一帯に漂う恐怖が闇から闇へと伝染し、気温が下がっているように感じるのだ。 世界図書館からの依頼で壱番世界のファージ討伐へとやってきた。 山の中では逃げ道が多いということで、二手に別れる作戦を採用した。この土地の情報はすでに司書から得ていたので、山の頂上に誘い込み、全員で一斉攻撃という手筈となっている。誘導はレオンハルトが担った。あと一人くらいは必要かと尋ねられたが、大勢で動くと作戦そのものが失敗する可能性もあると、断った。 レオンハルトの強さを知っている仲間は反論せず、自分たちの持ち場へと動き出す。 レオンハルトは一人きりになると無表情のまま、肩に止まっている蜘蛛に一瞥を向けた。小さな蜘蛛は赤い目をせわしく動かし、自らレオンハルトの肩から飛び降りると、その姿を一瞬にして女のものへと変えた。 ブラックウィドウ、男を殺された女たちの憎悪が形となった魔物。長い髪の毛を貴婦人らしく結い上げ、黒い品あるドレスに、頭には黒のトーク帽、顔は見えないが、紫色の唇が形よく笑みを浮かべている。 レオンハルトの赤い目が闇を突き刺す。それにブラックウィドウは敬愛する主人の静かな殺意をいちはやく感じ取り、地面を蹴って、飛ぶ。 敵は目の前だ。 火薬を爆ぜるような咆哮が轟いた。 ★ ★ ★ 山までは、自分の足で行くことをエドガーは選んだ。 それは単純に自分の足で行ける距離であることと、もう一つは最悪の事態を――この平和な日本で――考えての行動だ。 音を聞いたあと、すぐさまに衣服を着替え、今手元にある治療のための道具を詰めた鞄を――ここにくるときに不要だと思ったが、どうしても手放せなかった。それを片手に駆け出していた。 ただ虫の声だけが囁かれている道路は、周りが田んぼばかりで、電灯もないため闇に目が慣れるまでは少しばりかかった。幸いだったのは月が出ていたことだ。 山の前に来るとエドガーは再び心臓の高鳴りを覚えた。言い知れぬ、激しい拒絶と恐怖。それを凌駕する好奇心。 ここでなら、まだ引き返すこともできるのだと頭のどこかで声がしたのを無視して先へと進もうとするのは冷静さを欠いているといってもいい。だが抗いがたいなにかがエドガーの足をそそのかして、前へと進ませるのだ。 重々しい雲が月を隠し、視界を奪うほどの闇が広がっても、それがエドガーの足を躊躇わせることはできなかった。 石で作られた鳥居をくぐったとき、ぞくりと肌を突き刺す痛みを感じた。 まるで戦争地の緊張だ。 呼吸することが圧迫されて苦しいとすら感じる。寒いと思うのに額から汗がにじみ出る。 なにかがおかしい。なにかがある。 ――音が、していない。 虫も、鳥も、植物たちも、音という音が沈黙を守っている。 そろそろと周りを警戒しながら先に進む。 ごつごつと形の悪い石の階段を一歩、一歩、踏みしめていく。高さも、大きさもまちまちの石の階段は、長年雨風にさらされて、苔に覆われているせいか注意しないと、それだけで足を滑らせる恐れがあった。ペンライトを取り出して足元を確認しながら進むと、またしてもぞくりっと肌が泡立った。それはここにきたときの比ではない。なにかが、なにかがこちらに向かってきている。 右手の闇から、それか飛び出してきた。 「!」 はじめに目に飛び込んできたのは金色。そのつぎには黒。 重い雲が晴れて、月灯りがその人物を祝福するように照らす。 銀の月光に照らされたのは、野生の獣ではなかった。否、それよりもタチが悪い存在。 血のような赤い瞳と目があったときエドガーはその人物を――レオンハルトを認めた。 レオンハルトもまたエドガーを見つめた。 鮮血の赤と澄んだ空の青が、邂逅する。 それは時間にしておおよそ一分にも満たない。 レオンハルトの傍らにいたブラックウィドウが警戒を放つ。 「――っ!」 迫ってきたそれが二人の間に飛び込んできた。 それをなんといえばいいのか、エドガーは瞬きも忘れて見つめていた。 それは、エドガーに気が付いて手を伸ばそうとした。が、その手に赤い糸――レオンハルトの放ったものが巻きついて動きを制した。 「あっ」 声をかけようとして、言葉が見つからずエドガーは途方にくれた。そうしている間にもレオンハルトの傍にいる黒い貴婦人はその細見に似合わない飛躍し発揮し、それの前におどりでると口から白い糸を吹きかけて巻きつける。 敵の視界と動きを封じたのを確認するとレオンハルトは銃を、迷いもなく撃った。飛び散る血とくぐもった悲鳴。それはエドガーからレオンハルトにターゲットを変えて駆けだす。狙い通りにそれが自分たちへと襲いかかるのにレオンハルトと黒い貴婦人は無駄のない動きで走り出す。 時間としてはせいぜい一分弱。 だが、驚くほどに濃厚な時間が過ぎたのにエドガーはその場にヘたれこんだ。膝が震えている。 あれは、なんだ。 喉がからからに乾き、ひきつる。不愉快な汗が零れ落ちて、心臓が高鳴る。 この周辺で映画の撮影でもしているのか、と周囲を見回すがそれらしい影はない。そもそもそんな話題は聞いていないし、こんな辺鄙な田舎で噂になっていないのはおかしい。 あれはなんなんだ。 目の前で起こったことはエドガーの理解の範疇をやすやすと飛び越えすぎていた。 もう一度、彼に会えば 月光を受けて輝いていた金髪は鬣のようで、すらりとした肉体は美しい黒馬のようだった。 だが、なによりも印象的だったのは血を、固めたような瞳。 エドガーは拳を握りしめて駆けだした。 ★ ★ ★ ファージを引きずりだすことに成功し、全員で一斉攻撃をしかけて滅したあと、レオンハルトは仲間たちが列車へと帰還するのを見送った。なにかあるのかと怪訝な顔で仲間に尋ねられたときには、片付けがあるとそっけなく答えを濁した。 レオンハルトも、この依頼が終わればさっさとターミナルに帰るつもりでいた。たが、見られたことが気になった。 晴れ渡った夏空のような青い瞳。 些末なことと、捨ておくことにはどうしても出来ずに、その場にとどまった。彼が、ここにこれば責任を果たすしかない。こなければ帰るだけだ。 レオンハルトがじっと待っていると、月明かりのなかに、一つの影が見えた。 地上に落ちた青空を見つけてしまったとき、レオンハルトは諦念にも似た気持ちで赤い目を伏せた。 「……っ、きみは、あれはなんなんだ」 エドガーは息を荒く、レオンハルトに駆け寄ると尋ねた。 先ほど見たそれはもうおらず、この場にいるのはレオンハルトと、その傍らに寄り添う黒い貴婦人だけだ。 「覚醒させてしまったようだな。私のミスだ」 「覚醒?」 レオンハルトは頷くと、自分の属する世界図書館について包み隠さず、淡々とした口調で説明した。それがレオンハルトのとるべき責任だ。 「そんな、そんな映画や漫画みたいじゃないか……」 説明を聞き終えて、エトガーが困惑した。 「いや、きみの、いうことが信用できないじゃなくて」 「……これを見ても信じられないか?」 レオンハルトは片手をあげて合図した。それにブラックウィドウが、その身を女性から、蜘蛛に変えて、レオンハルトの肩にとまった。 「! ……そんな、」 驚きに目を丸めてエドガーは蜘蛛をまじまじと見つめる。その姿は良く見れば可愛らしい、かもしれない。 そう思うとエドガーのなかの好奇心が疼いた。 「……触っても?」 「彼女が許すならば」 レオンハルトの言葉にエドガーは恐る恐る片手を伸ばすと、レオンハルトの肩にいるブラックウィドウは赤い目は敵意に爛々と輝かせて、持ち前のプライドの高さを発揮すると、細く小さな足で無礼な手を蹴った。 「あっ……蹴られてしまったのは、俺のことがお気に召さなかったのかな? 礼儀知らずは嫌いだって」 エドガーは手をひっこめると、指の先に感じたわずかな痛みに目を眇めた。 そっと顔をあげると、赤い瞳と目があう。 ふっとエドガーは強張っていた肉体から緊張が解かれるのを感じた。 「わかった。君たちと行こう」 「……構わないのか?」 「今更だね。そりゃあ、怖いけれど、君は悪い人には不思議と見えない。それにそんなものがあるならぜひ見てみたい。俺は土壇場でいつも肝が据わっていると周囲には言われるんだよ。ただ行く前に一つ聞いてもいいかな?」 「なんだ」 「君の名前は? 俺は、エドガー・ウォレス」 「レオンハルト=ウルリッヒ・ナーゲル」 レオンハルトの無愛想な挨拶にエドガーは微笑んで、右手を差し出した。 「よろしく。レオンハルト」 「……ああ」 無表情のまま、レオンハルトは握手に応じた。
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