時々、考えるんだ。僕はどうして産まれてきたんだろうって。 生まれつき体も弱かったし。人並に家の手伝いも出来なかった。楽しいことなんかひとつもなかった。来る日も来る日も殴られて。痛いと泣けばうるさいと叩かれた。やめてと叫べば黙れと蹴飛ばされた。ただ痛みに耐えるだけの毎日だったんだ。「この穀潰し! 誰のためにこんな仕事してると思ってる! 誰のために稼いでやってると思ってる!」 母さんは口紅を塗りたくった顔で、唾を飛ばして僕を殴るんだ。母さんは酒場で男相手の仕事をしてる。嫌な仕事なんだって。だけど、それもこれも僕のためなんだって。 父さんはいない。顔も写真でしか知らない。僕が小さい頃に出て行った。母さんと一緒に暮らしてる男は母さんと一緒になって僕を殴るだけ。誰も助けてなんかくれなかった。 写真で見る父さんの顔は優しかった。僕は写真を見ながら父さんのことばっかり考えてた。父さんはどんな人だったんだろうって。どんな素敵な人だったんだろうって……。 そしたらね、聞いてよ。父さんが助けに来てくれたんだ。 ――立派なたてがみの天馬になって。 少年は見た。空を切り裂くように翔ける天馬を。 白銀の稲妻の如きそれは、父の髪と同じたてがみを揺らし、父と同じ目をして街へとやって来た。 美しき天馬はすべてを蹂躙した。白銀の天馬はすべてを破壊した。少年の母も、母の仕事先も、母と恋仲にある男も、すべてを消し炭へと変えた。 無傷で残ったのは少年だけだった。天馬はなぜか少年にだけは手を出さずに空へと還ったのだ。「……父さん」 ありがとう、と。 廃墟と化した街の中、少年は頬を紅潮させて天馬を見送っていたという。「ヴォロスにて竜刻に暴走の兆しが見られました。よって回収をお願いいたします。破壊の天馬を呼び寄せる竜刻です」 リベル・セヴァンは旅人達に封印のタグを差し出した。「三か月ほど前、ある国の外れにある街が半日もせぬ間に壊滅しました。目撃証言によれば、突如空から巨大な天馬がやって来て街を蹂躙したとのこと。調査の結果、原因が竜刻であることが判明しました。少し前に外部の商人によって持ち込まれた石が竜刻であったようです」 ヴォロスの各地を回る商人がその街を訪れたのは偶然であった。露店で宝石や貴金属を広げていると、一人の少年が物珍しそうに覗きに来たという。傷と痣だらけで薄汚い彼は商売の邪魔であった。商人は少年を追い払うために荷物の中の石ころ――質の良くない原石だと思っていたそうだ――を与えたのだが、どうもこれが竜刻であったらしい。「生き残りはほんの数人。そのうちの一人、竜刻を持っていたアンヴィという少年だけがほぼ無傷でした。竜刻の所持者は天馬にとってあるじのようなものなのでしょう。街の壊滅後、少年はあてもなく放浪していたようなのですが……別の国に入ったところで何者かに襲われ、攫われました。こちらをご覧ください」 リベルは地図を広げた。小国がふたつ並んでいる。片方にはカルナ、もう片方にはトゥダイと記されていた。「この二国は長年対立関係にあります。竜刻を持つ少年の現在位置はここ……カルナ国の外れです。少年は木の蔓で編んだ籠に入れられ、人里離れた山中の崖に吊るされています」 まさか、と旅人達がざわめいた。彼らの心中を察したようにリベルは淡々と肯く。「天馬をおびき寄せるつもりでしょう。どちらの国が仕組んだことかは分かりません。カルナが仕組んだことであれば、トゥダイの謀略だと言いがかりをつけて戦争に。トゥダイが仕組んだことであれば、天馬襲撃の混乱に乗じてカルナに攻め入る可能性があります」 しかし、どちらの国の仕業か調べている暇はないし、調べても無意味だ。どちらの策謀であっても、天馬の襲来はそのまま開戦のきっかけとなる。「天馬は既に竜刻の元へと向かっており、皆さんの到着とほぼ同じタイミングでカルナに達する見込みです。天馬の迎撃は同時に派遣する別班が行いますので、皆さんは竜刻の回収にあたってください。竜刻が暴走すればヴォロスの自律作用に影響しますし、天馬の力が暴走して国までもが滅ぶかも知れません。迅速な対応をお願いいたします。ただ、問題は」 リベルはわずかに眉を曇らせた。「少年が天馬を救い主と見ているようなのです。親から虐待を受け続けていた彼は天馬の襲来によって“助かった”わけですから。おまけに、天馬の外見的特徴が生き別れた父親に似ているとか――」 少年は天馬に恩を感じ、思慕の念さえ抱いている。父親が天馬になって助けに来てくれたとまで思っている。「少年自身に特別な力はありません。しかしそうたやすく竜刻を渡してはくれないでしょう。力ずくで奪うことは容易ですが、少年の精神状態が竜刻の魔力に影響しないとは言い切れません。穏便な解決をお願いいたします」 崖に吊るされたアンヴィはまさしく籠の鳥であった。それなのに、どうしてなのだろう。彼は籠の格子に縋りつき、うっとりと吐息をこぼしながら空を見上げているのだ。「父さん。また会えるんだね」 ドクン。 肌身離さぬ石ころ――この石が天馬を呼んだことにアンヴィは気付いている――が、不吉に脈打つ。「僕を助けてくれるのは父さんだけだ。だって、誰かに助けられたことなんか一度もなかったもの」 写真の中の父は色が白く、銀髪に赤い瞳をしていた。白銀の体に白銀のたてがみ、紅蓮の如き眼(まなこ)を併せ持つあの天馬は父の化身に違いない。「ねえ父さん。籠から出してくれるよね。街を滅ぼした時みたいにさ」 ドクン。「父さん。早く来てよ。僕、父さんになら殺されてもいいんだ。父さん。父さん……」 ドクン、ドクン――ドクン。
切り立った崖の中腹から斜めに木が生えている。蔦で編まれた鳥籠はその幹に括りつけられるようにしてぶら下がっていた。 まず動いたのはルツ・エルフィンストンと虚空だった。崖の上でも下でも、とにかくアンヴィを安全な場所に移さねばならない。右腕一本で器用に崖に取りついたルツは素早く籠の傍へと降りて行く。しかし籠の中のアンヴィは反応らしい反応を示さなかった。彼の心は白銀の天馬に奪われている。 虚空が手を貸し、ルツと籠を一気に崖の上へ引き上げる。蓮見沢理比古の小太刀が寡黙に籠の網を断ち落とした。 春秋冬夏はリュックサックを背負っていたが、アンヴィの姿を見た瞬間、肩に食い込む重さを忘れた。 骨の浮いた体。襤褸雑巾にも等しい着衣。垢と土と埃で黒ずんだ肌。それなのに、落ち窪んだ眼窩の中の瞳だけはきらきらと輝いているのだ……。 理比古はかすかに唇を震わせた。虚空もそれに気付いている。“虐待”が、理比古にとってどうしても素通りできない言葉であることを虚空は知っている。 「だってさ。愛してほしい、優しくしてほしい人に殴られたり蹴られたりするって、痛いよりも辛い事だろ」 ロストレイルの車中、膝の上で拳を握り締めた理比古はそんなふうに呟いていた。 ティンパニーをロールさせるような雷鳴が遠く、近く轟く。自然の雷なのか――それとも。 「良い空だ。この世界の黄昏を見たいものだが、そうも言っていられないね」 深山馨はオウルフォームのセクタンを空へと放った。天馬の動きを監視するためだ。同時にルツも魔法を発動し、流れ弾に対する警戒網を張り巡らせる。 アンヴィは柔らかな毛布の上に横たえられた。理比古が持参した品だ。傍らで虚空が湯を沸かし、冬夏が荷物を広げている。中身は消化の良い飲食物に包帯、ターミナルで分けてもらった傷薬と湿布だ。彼らの様子を見つめながらルツは青い瞳をすいと細めた。 (少年を吊るしたのは誰?) カルナ国とトゥダイ国の陰謀が背後にあるという。しかし真相を探っている暇はないとリベルは言った。 時折、地鳴りのような振動を足の下に感じる。天馬の迎撃は既に始まっている。 「アヤ、いいぞ」 「サンキュ」 理比古はくだけた口調で虚空に応じた。湯にタオルを浸し、アンヴィの痩せた体を丁寧に拭き清めて行く。理比古の腕の中、強張った体がゆっくりと解きほぐされていくのが誰の目にも見て取れた。理比古は更にアンヴィの栄養状態や外傷の有無等を素早く確かめた。体は痩せ衰えているが、幸い致命的な外傷は見られない。虚空は理比古が持参した医療キットを開き、傷口の洗浄と消毒に努めた。交わす言葉こそ少ないが、理比古と虚空の連携は滑らかだった。 大きな傷には冬夏が包帯を巻いて行く。ごく普通の少女にしか見えぬ冬夏の手つきに、虚空は「手慣れたもんだな」と感嘆した。 「私、しょっちゅうこけたりぶつかったりしてるので。手当ては慣れ……あ」 虚空に応じながら、冬夏ははたと手を止めた。 服のポケットから滑り落ちたのだろうか。アンヴィの足の下に、皺の寄ったセピア色の写真が落ちていた。銀色の髪と赤い目をした男が赤ん坊を抱いて微笑んでいる。 冬夏が写真を拾い上げた瞬間、それまで反応らしい反応を見せなかったアンヴィの瞳が初めて動いた。 「父さん。父さん」 そして、痩せた手であっという間に冬夏から写真を奪ってしまった。そのまま写真を抱き締めるようにして体を丸めてしまう。その姿はまるで胎児のようだ。 頑なな態度に冬夏はわずかに眉尻を下げたが、努めて微笑を作った。 「籠に閉じ込められてたらお腹空くよね。喉も渇いてない?」 持参した飲食物を並べてみせると、アンヴィの表情がわずかに変化した。同時に、甘く優しい香りが漂う。虚空が持参したホットチョコレートだ。 「お前の痛みはお前のものだから、判るなんて言うつもりはねえけど……」 虚空はホットチョコレートをマグカップに注ぎ、一緒に持って来たサンドイッチを添え、 「……辛かったな」 言葉少なにアンヴィに差し出した。 アンヴィはカップを受け取ろうとはしなかった。虚ろな瞳でカップと虚空を見比べるばかりだ。虚空はアンヴィの手にそっとカップを握らせた。ホットチョコレートの香りと温度に安堵したのか、傷ついた少年は吸い寄せられるようにカップに口を付けた。 「アヤも、ほら」 「いや、それはこの子のための」 「いいから」 「ん」 虚空はなぜか理比古にも同じ物を勧め、甘党の理比古は遠慮しつつも嬉しそうに受け取るのだった。 清潔な衣服――これも理比古が持参した――に着替え、綺麗に顔を拭いたアンヴィの姿は、傷だらけで極度に痩せていることを除けばごくごく平凡な少年だった。ホットチョコレートを一口すすったアンヴィは幼い瞳をいっぱいに見開いた。初めて口にする味だったのだろうか。決して高価でも稀少でもないこの飲み物すら味わったことのない生活はどんなものであったのか……。 「沢山あるよ。良かったらこれも持って行って」 冬夏は柔らかな白パンをアンヴィに勧めた。各種のジャムが詰められた小瓶もある。保存食があったら助かるだろうと、彼女が手ずから作って持って来たのだった。色とりどりの瓶を物珍しげに眺めるアンヴィの横顔を虚空が黙って見つめている。 時折、アンヴィのズボンのポケットがうっすらと光を放つ。目的の竜刻だろう。だが、誰も手を伸ばそうとはしなかった。アンヴィを動揺させれば魔力に影響しかねないとリベルは言ったが、旅人達が竜刻に触れようとしないのは他に理由があっただろう。 「……父さん」 カップを握り締めたアンヴィが不意にぽつりと呟いた。 「ねえ。父さんは?」 落ち窪んだ、しかし倒錯した生気を放つ瞳が旅人達を順々に見つめる。見ず知らずの旅人達が何故此処に居るのか、何故自分を助けに来たのか、それらの疑問はアンヴィにとって重要ではないらしい。 「あなたの父親は」 口を開いたのはルツだった。 「あなたが小さい頃に家を出て行ったと聞いているけれど、違うの? ……訳あって、あなたが母親と一緒にどんな生活を送っていたか、ここにいる皆が知っているわ」 「父さんは戻って来たんだよ。助けに来てくれたんだ。きっともうすぐ来てくれる」 「私たちは、あなたの父親じゃなくて天馬が来ると聞いたの」 「父さんだよ。あの天馬は父さんだもの」 「……そう」 帽子からこぼれる三つ編みを揺らし、ルツは小さく眉根を寄せた。話が噛み合わない。目の前の少年はあまりに無垢で、盲目だ。 「僕を助けてくれるのは父さんだけだよ。だって、誰かに助けられたことなんてなかったもの。だから僕、父さんに殺されるって決めてるんだ」 支離滅裂な言葉とともに、少年は無邪気に微笑む。見ず知らずの旅人達が温かい物をくれたことすら忘れて。 「……そうだね。ずっと傷付けられてきたんだから」 理比古はそっとアンヴィの頭に手を置いた。 「きみは悪くないよ、何も悪くない。大人たちの心にもっと余裕があって、君を慮る事が出来ていたなら、決して起こりはしなかっただろう」 竜刻をどうこうではなく、この少年の痛みを癒したい。子供の頃から夢に現れ続ける『誰か』を救いたいのと同じように。 アンヴィは答えない。大きな手の下から、きょとんとして理比古を見上げるだけだ。 あどけない笑顔とは裏腹の、死を望む言葉。少年の倒錯した振る舞いは、魚の小骨のように冬夏の喉に引っ掛かり続けていた。 だが、 「……今まで頑張ったね。偉いね」 違和感の正体を考察するより早く、体が、感情が動いた。 「………………?」 冬夏にそっと抱き締められ、アンヴィは幼い瞳をぱちぱちとさせている。 「ねえ。いつかアンヴィ君自身の手でこの温もりを手に入れることが出来るかもしれないよ」 欠片でも良い。知って欲しい、人の温もりを。 抱き締めたからといって上手く伝わるとは限らないが、何もしなければ何も変わらない。 「死を――」 知らず、声が震える。現代日本の“普通の高校生”である冬夏にとって――冒険に赴くコンダクターとなって尚――、生々しい“死”は縁遠い。 「……死を、望まないで。死は終焉だから」 「何言ってるの?」 「未来は、様々な可能性を秘めているから。未来だけは、誰にも奪えないから」 「みらい? 何、それ?」 あどけない子供そのものの問いの前に冬夏は違和感を覚えたが、今はそれを飲み下すことしかできない。 「我が儘で身勝手だけど、何の力にもなれないけど――」 自分達は旅人だ。どんな綺麗事を言っても結局はアンヴィを置いて去るしかない。それでも、 「私は、貴方に生きて幸せになって欲しい。だから、死を望まないで」 それは、冬夏の真情だった。 馨は軽く目を閉じていた。竜刻の大地を渡る風も、雲も、馨にとっては心地良い旋律だ。 ゆっくりと瞼を開けば、右目のモノクルに少年を抱擁する少女の姿が映る。 (死を望まないで……か) だが、穏やかで温かな筈の光景を、馨はわずかに眉根を寄せて見つめるのだ。 「誰だって生まれてきた意味なんか知らないよ。だって、自分で見つけなきゃいけないんだもん」 寡黙で雄弁な視線の先、冬夏は精一杯の言葉を紡いでいる。 「どんなのでも自分でこれだと思えたら、それでいいと思う。……私の生まれてきた意味は、色々あるけど、一番は……知る為だって思う」 「しる?」 「うん。色んな事を見て聞いて知りたいって思うの。アンヴィ君は、何かしたい事はないの? ないなら、それを探さなきゃ。探そうよ」 「どうして?」 「……え?」 「どうして、そんなことしなきゃいけないの?」 無垢な問いの前に、冬夏は小さく体を震わせた。その拍子に、腕を放してしまった。 痩せた少年はただただ朴訥な疑問を浮かべて冬夏を見つめている。 「僕は父さんに会いたいだけなのに。どうしてそんなことしなきゃいけないの?」 「それは」 「どうして死を望んじゃいけないの? だって、生きてても何もいいことなんかないんだよ?」 「だから、ね? 何か、したい事を探――」 「どうしてそんなことしてまで生きなきゃいけないの?」 ああ、堂々巡り。伝わらない。噛み合わない。どう言えばいいのだろう? 「冬夏、だっけ? ちょっといいかしら」 というルツの声で冬夏ははっと顔を上げた。 「あなた、死を望んだ事はある? 誰もが一度くらいは自殺願望に囚われるものだろうけど、実際に、確たる意志と意図をもって死のうとした事は?」 ほとんど歳の変わらぬルツの前で冬夏は目を揺らした。どう応えて良いのか分からない。それをいらえと見なしたのかどうか、ルツは帽子を被り直して口を閉ざしてしまった。 「君は日本の高校生だね? 見たところ、彼と君では住む世界が違うようだ。……恐らく、彼には生きる“動機”がない」 馨の指摘は穏やかで、的確だ。 「生きる動機を奪われるような思いをした者と、生きることを肯定できる環境の者。――後者と前者には決定的な差異が存在する。それを鑑みることなく正論を説くのはアンフェアかも知れないね。理の正しさと、説得力の有無は別の問題だよ」 深く静かな洞察の前で、無垢な少女は言葉を失った。 正論は綺麗だ。綺麗すぎるから、綺麗な世界で暮らす者にならそのまま伝わっただろう。 (私……は) 冬夏は伝えたかった。生きて幸せになってと、たとえそれが利己であっても、見ず知らずの人間がアンヴィの幸せを願っていることを伝えたかった。 だが、小骨のような違和感の正体に冬夏はようやく気付いたのだ。 「あ、美味い」 という理比古の声で冬夏は慌てて顔を上げた。甘党の理比古は冬夏お手製のジャムをつまみ食いしていたのだった。 「これ、きみが作ったんだっけ?」 「は、はい」 「凄いな。市販のより断然美味い。虚空、今度作り方教えてもらえよ」 「……俺に作らせるのが前提なのか」 「他に誰がいる?」 「あー、はい、はい」 それどころではないのに、理比古と虚空の軽妙なやり取りに冬夏の表情がほんの少し和んだ。 「美味しい物を作る人はみんな素敵な人だよ。だって、美味しい物……特に甘い物は人を幸せにするんだから」 年齢に不釣り合いなほど無邪気な理比古の言葉と笑顔は、 「多分、伝え方がほんの少しうまくいかなかっただけなんだ。ね」 間違いなどではないと、冬夏の気持ちは貴いと、言外にそう告げている。 「……はい」 溢れそうになる感情をこらえるのが精いっぱいで、冬夏は泣き笑いの表情を返すことしかできない。それを確認した理比古が嬉しそうに笑うから、虚空も唇の端をかすかに緩めた。 だが、端正な忍の面(おもて)がにわかに険を帯びる。 地鳴りが大きくなっている。破砕音とも爆発音ともつかぬ音響が地を這って来る。天馬のいななきに声をかぶせるように、馨が「まだ遠い」と告げた。 「父さん」 アンヴィの頬に紅が差す。ポケットから取り出した竜刻を握り締め、胸の前で手を組み合わせる。神に仕える敬虔な信徒のような姿に、理比古は苦しそうに目を眇めた。銀にも灰にも見える不思議な双眸の上をよぎるのは“悲しみ”の一言では括り切れない複雑な色合いだ。 「天馬はきみを護るかもしれないけど、人間としてのきみを殺してしまうよ。俺はそれが悲しい」 アンヴィの柔らかな髪の毛を手で梳いてやるようにしながら、理比古の脳裏に異母兄たちの顔がよぎる。 両親が存命の頃から人知れず虐待を受け、年の離れた異母兄二人に身も心も傷つけられながら成長した。妾の子と蔑まれ、人には言えないような仕打ち――それは“調教”にも均しい――を受けて、それでも兄たちを慕い続けた。彼らに愛されたくて出来る事は何でもしたが、無駄だった。 かいつまんで語られる過去に、アンヴィの視線が初めて理比古の顔を捉える。理比古はにこりと微笑んだ。アンヴィの倒錯した微笑とは違う、陽溜まりのような笑みだった。 理比古はアンヴィと同じ筈なのに、こんなにも違う。 「きみは悪くないよ。何も悪くない」 虚空や『家族』が居る。夢に出てくる見知らぬ『誰か』を救いたいと、荒唐無稽な願いを抱き続けている。だから理比古は何とか生きている。そうでなければ、兄達に壊されていた。 「俺みたいな人間でも素敵な人たちに出会えた。痛みや辛さを知っているきみはきっと、もっと人に優しく出来るだろうし、愛される喜びが判ると思うんだ」 すぐに何もかも良くなるとは思わないが、前へ進めると信じている。 しかし、その時。 ど、ん。 突き上げるような揺れが一行を襲う。張り巡らせた魔法が一部突破されたのを察知し、ルツは機敏に身を翻した。 「大丈夫。大丈夫」 竜刻を握り締めたアンヴィの手を冬夏の両手が包み込む。 「もし攻撃とか来たら……アンヴィ君は絶対守るからね」 上手く避ける自信などない。だが、守ることはできると信じたい。 「天馬ではない」 素早く、流れるように銃を抜き放った馨は、 「礫(つぶて)のようだ。そちらの三名は任せよう」 苦無を抜いた虚空に背中で告げ、タンッ――と軽やかに地を蹴った。 雷を帯びた岩の礫が飛来する。翼をもがれ、地に叩きつけられた天馬の足掻きだ。三つ編みを跳ね上げ、右腕一本でルツが舞う。靴の踵を打ち鳴らして馨が踊る。タタン、タン、タン、銃声の合間に、それは優雅なタップダンスだ。 弾丸が放たれる度、ある者は馨の影が巨大な鳥の姿を取る瞬間を見た。ある者は馨の背に禍々しい鴉の翼を見た。しかし馨は意に介さず、翼の力を借りて舞い上がるようにステップを踏み続ける。アンヴィを護り抜くのだと、アンヴィを助けに来たのだということを彼自身に知ってもらいたい。 冬夏に肩を抱かれたアンヴィは瞳を震わせていた。彼の目の前で、ルツのスティレットが、馨の弾丸が、礫を精確に粉砕して行く。ルツの隙は馨が補った。馨が弾丸を装填する間はルツが前に出た。息の合ったダンスパートナーのように舞う二人の姿は場違いなほど美しく、しかし、確かに“戦い”の様相で―― 「チッ」 それでも馨の脇を複数の礫がすり抜け、 「十時!」 ルツが峻烈に警告する。応じた虚空が十時の方向に炎を放った。彼の苦無はまさに炎の弾丸だった。砕かれる礫、爆ぜる雷、猛る炎。ばちばちと飛び散る火花はどちらの力なのか。 火花から庇うようにアンヴィに覆いかぶさった冬夏は、 「!?」 アンヴィごと理比古の腕に抱きすくめられて息が止まりそうになり、 「あ――」 次の瞬間、瞳をいっぱいに見開いていた。 しかし冬夏は悲鳴を上げなかった。懸命にこらえた。痛いのは、自分ではないのだから。 咄嗟に理比古達の前に立ち塞がった虚空がゆっくりと振り返る。 「大丈夫か」 虚空の肩には硝子の欠片のような礫が突き刺さっていた。破れたTシャツの下に覗く鎖帷子は所々千切れ、焦げている。音もなく流れる血の色は、肌の白さと相まって戦慄するほど壮絶だった。 冬夏とアンヴィは震えるように肯くだけだ。理比古が何事か叫び――それが虚空の本名であることを知る者はこの場には居ない――、虚空の体を支える。虚空は何でもない事のように応じて礫を引き抜いた。 「馬鹿。俺だけでも庇えたのに」 「アヤもその子達も護りたかった」 率直な言葉に理比古は「馬鹿」と繰り返し、アンヴィは決定的に表情をこわばらせた。 「本当にこれが父親なの?」 振り返ったルツが問う。 「あなたを護ろうとする人を傷付けるモノが、あなたの大好きな父親だというの?」 透徹した言葉の前で、少年は答える術を持たなかった。 「俺は……いや、俺も、か」 理比古の応急処置を受けながら、虚空は誰にともなく口を開いた。 男児は長男次男以外不要物という家で、生まれた時から両親に存在しないものとして扱われた。彼らに抱かれた記憶も、本名を呼ばれた覚えもない。 だから――理比古が少年を救いたいと強く願っているから、というのと同じくらい、親から虐待を受けて育ったという少年が他人とは思えない。 「憎いんだか哀しいんだか判らねえってずっと思ってたけど」 少しだけ、両親の顔が脳裏をよぎる。 「……本当は、ただ愛してほしかったってそれだけなんだよな」 自らの過去を語る虚空の横顔を見つめるアンヴィはくしゃりと顔を歪めた。虚空は彼の頭を撫でてやろうと手を伸ばしかけ、途中で止めた。 似ているから、触れることすら躊躇ってしまう。あまりにも近すぎるから、どうしてやればいいのか判らない。 「それでも、俺はアヤに会えたから。お前にも、アヤみてえな人と会ってほしいから」 それでも、否、だから、 「――お前と俺は兄弟みてえなもんなんだよ、きっと」 万感の思いを込めてアンヴィの頭を撫で、肩を抱く。温もりを、心配している人間がここにいるのだということを伝えるために。 大きな手の下でアンヴィは唇を噛んでいる。だが、俯いたまま、小さな手が虚空の怪我を案ずるようにおずおずと肩に伸ばされた。 虚空はアンヴィの頭をもう一度撫で、負傷など忘れたかのように晴れやかに笑った。 「俺は、アヤを護らなきゃならねえ。でも、お前だって放っておけねえ。……どっちも諦めねえのが俺の欲張りな所でな」 理比古と同じく、虚空も竜刻にあまり興味はない。ただただアンヴィの心が癒されることのみを願っている。 「でも……父さんは……父さんが……」 「間違えてはいけないよ」 弾丸のネックレスを静かに揺らし、馨は滑らかな所作でアンヴィに歩み寄った。 「君にとって、父親はたった一人だ。それは白馬ではない、れっきとした人間だろう?」 去りゆく人間は遺された人の想い、記憶一つで繋ぎ止められている。だから、それが脚色され、歪んで行くことは避けられないのかも知れない。だが、間違えてしまえば哀しむのは父親本人ではないか。 「大切な想い出を捻じ曲げてはならない。……それは遺された者の責務でもあるのだから」 そう、例えば、大切な人達の記憶を遺すために生きている馨のように。 「君が父親を間違えてしまえば、彼はもう二度と姿を見せる事は無いだろう。だが、君が確かに彼を覚えて……認識しているならば、必ずまた逢えるだろう。本当の父親と」 本当の、という語を強調する馨の声はどこまでも深く、静かだ。 謎めいた色彩の瞳が理比古へ、虚空へ、冬夏へ、ルツへ、そして最後にアンヴィへと向けられる。 「此処に居るのは君のために集った者ばかりだよ。君を助けたいと思う人間も、君が死んで哀しむ人間も此処に確かに存在する。天馬はその人達を傷付けた。……この先、君が大切なものを得たとしても、天馬はそれをも壊すだろう」 だから、そうなる前に竜刻を渡してくれないだろうか。 深く静かなバリトンの前で、小さく頑なな手から竜刻が転がり落ちた。 封印のタグを貼り付けられ、薄く光を放っていた竜刻は平静を取り戻した。見た目はただの石ころだ。 唯一のよすがを失った少年はくたりとその場に座り込んだ。無造作に投げ出された彼の手に冬夏がそっと写真を握らせた。アンヴィの父と、赤ん坊のアンヴィが映った写真だ。 茫とした目が冬夏へと向けられる。冬夏はにこりと微笑み、幼子を諭すように小首を傾げた。 「大事な物なんだよね。ちゃんと持っておこうよ。ね?」 アンヴィは答えなかったが、小さく首肯を返した。 役目を終えたフクロウ型のセクタンが帰還する。セクタンの視覚を通し、天馬が無事倒された事が馨から皆へと伝えられた。肩を震わせたアンヴィの頭を理比古が撫でた。天馬が父ではないことに気付いてくれたと信じている。 だが、誰も彼もが寡黙だった。 彼ら彼女らは旅人だ。任務が終われば帰還するのみ。そしてまた別の地へと旅立ち、決してひとつところに留まることはない。 「アンヴィ。あたしたちは帰るけれど」 ルツはアンヴィの前に片膝をつき、落ち窪んだ瞳をじっと見つめた。ルツの青い目は強靭で美しく、静謐だ。 「明日から先はあなたの領分よ。誰かの助けが必要なことはあっても、あなた自身にしかできないこと、決められないことなのよ。……ね?」 子供には厳し過ぎると知っている。 だが、生きるというのはそういうことだとルツは思っている。 「今日だけは、お休みなさい」 右腕だけで痩せた肩を抱き寄せ、髪の毛を梳いてやる。 「明日からは……ゆっくりでも、歩けるように」 ルツの左腕はだらりと下がったままだ。この左腕を抱擁に加えることはできない。だが、それでいい。両腕で抱き締めてしまえば感情が直に伝わってしまう。 「ジャムと……あと、これ、はちみつ。とっても栄養があるんだよ。疲れた時に舐めるだけでも違うから、使ってみてね」 冬夏はリュックごとアンヴィに差し出した。それは気遣いであり、優しい宣告でもあった。自分たちはアンヴィを置いて帰らなければならないのだと、彼に、そして自分自身に告げていた。 「これくらいしかできないけど……祈ってる、から。ううん……やっぱり身勝手、なのかな。なんて言えば……」 「僕」 逡巡しながら言葉を選ぶ冬夏にアンヴィが声をかぶせた。 「このジャム、好き。美味しいもん」 「……うん。うん……」 ありがとうと口の中で付け加え、冬夏は眉尻を下げて笑うしかない。 「どうした?」 あらぬ方向を見つめている馨に気付き、虚空が表情を緊張させた。 まさか、まだ天馬が生きているというのか。 「……いや」 馨は緩やかに微笑し、ゆったりと振り返った。 「良い黄昏だね」 空は、優しいはちみつ色に染まり始めている。 「血縁と愛情って、同じようで違うのかもな」 帰りの車中で理比古がぽつりと呟いた。 兄たちとは母親が違っていた。それでも、半分は血が繋がっていた。それなのに憎まれていた。単純な憎悪ではないことを理比古は知らないけれど。 反対に、今は血の繋がらない『家族』がいる。血縁は重要であって重要でないのかも知れない。 「でも、さ」 異母兄たちの顔を思い描き、理比古は対面の席に苦笑を投げた。そこに座っているのは虚空だ。 「やっぱり……慕ってる相手に愛されるなら、そっちのほうが嬉しいよな」 はは、とわざと声を上げてみせる理比古を虚空は寡黙に見つめるだけだ。虚空が何を抱えているか、誰も知らない。誰にも――そう、理比古にすら――悟られてはならぬ。 「しかし……母は子に本能的な愛を抱く生き物では無いのだろうか」 流れるように顎に手を当て、馨が静かに呟いた。アンヴィの母親が本当にアンヴィを嫌っていたのか、ずっと気になっていた。もしかすると母は息子を愛していたのではないか? 「愛情と憎悪が表裏をなす感情だとしても」 車窓に頭をもたせかけて口を開くのはルツだ。 「子供がみんな望まれて産まれてくるとは限らないわ。だって、子供は愛ではなく男女の交わりから産まれるのでしょう?」 「まじわ……え、あ、その」 婉曲的で直截的な単語に冬夏はわずかに頬を赤らめる。冬夏とほとんど歳の変わらぬルツは醒めた表情で肩を揺すった。 「愛情があろうとなかろうと、交わりさえあれば子供はできるんじゃない? たとえそれが意に沿わぬ行為であっても……例えば力ずくのものであったとしても、ね」 皮肉で迂遠な言い方だが、真理だった。愛と受胎は似て非なる現象だ。 「その通りかも知れないし、その通りではないかも知れない。……夢を見過ぎなのかも知れないけれどね」 それを確かめる術は無いとしても、と付け加え、馨は遠ざかる大地を見やった。 旅人達の背中を見送り、アンヴィは乾いた大地に膝をついた。 父は写真の中で笑っている。父は実の父ではないと母が言っていた。だったら、父が出て行ったのはそのせいだったのだろうか? だが、父は写真の中で笑っている。 「……父さん」 考えても判らない。確かめる術などありはしない。 ――必ずまた逢えるだろう。本当の父親と。 不思議な翼を纏った男の声が耳の奥でこだまする。 「逢える? ……どうやったら……」 温かなものを沢山もらった。だが、清潔な着替えは時間が経てば擦り切れるし、受け取った保存食も暫くすればなくなるだろう。 ――明日から先はあなたの領分よ。 この先どうすれば良いのだ。生まれ育った街は失った。身寄りやあてもなく、体も弱い。そんな孤児が住まいや職など探せるのか。籠から出されたところで、結局浮浪児として生きるしかないのではないか……。 「………………っ」 嗚咽をこらえたら、肩が震えた。渡されたリュックサックを放すことだけはしなかったけれど。 遠くで、他人事のように汽笛が鳴った気がした。 (了)
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