「やぁイェンス! 久しぶりじゃないか」 扉を開けて顔を出した楊が、陽気に笑う。 イェンスが尋ねたのは、先だってとある探偵からの依頼を受けて知り合った知人の家。 インヤンガイの一角にある富裕層のすまう区画の中ではほどほどの部類、月並みな言い方をするならば、中の上、というべき程度の家だった。 最も、あくまでも富める者達が住むこの区画においてはという話であり、当然貧民街にくらす民等からすればどれも変わらないというレベルでの話である。 招き入れてくれた男は楊子規。 古美術商を営む風変わりな男だったが、その商いの中でうっかりと手に入れてしまった呪いの品にまつわる事件を片付けたのが、二人の出会いだった。 その事件の際に仲睦まじい様子で相伴していた妻が彼にはいるはずだが、と招き入れられた部屋を見回し、イェンスは想う。 不思議とその妻の気配がなかった。 なるほど――イェンスは心中で一人呟く。 見回す程に、周囲の調度品の数々は雑多な様で、それが楊の仕事半分、趣味半分であることは疑いようがない。 一幅の血にまみれた掛け軸の横には何を意味するのかわからない呪文字が刻まれた青銅の皿があり、精緻な硝子細工が所狭しと飾られたアンティークの展示棚の背景として、壁にはめ込む形で等身大の女神像がある。 以前にこの部屋で酒を嗜んだ時よりもまたさらに密度が増しているようだった。 『子規は、子供みたいなところがあってね、見せたくないけど大事なものを、このコレクションの山の中に、目立たないように隠すのよ』 いつでも見ることができるが、隠されているとしらなければそれとわからないように工夫を凝らすのだと。 「老仏酒でいいかい?」 奥から瓶を一つ手に掲げ、楊が戻ってきた。 イェンスが椅子に腰を下ろさぬまま様々なコレクションを眺めていたらしきことを悟り、もうすぐ壮年にいたろうという楊は少年のような笑みを零した。 「前に来た時よりも増えているだろう?」 「そうだね――ここの棚のものは、新しく手に入れたの?」 以前夫婦と飲み交わした時にはなかったものばかりだった。 「そうとも。是非全て見ていってくれ。皆私の愛する宝物達だからね」 莞爾と笑みを浮かべる楊の表情は心からのもののように見えて、イェンスはほんの少し、頭の芯に鈍い痛みを感じてしまう。 滑らかな乳白色の液体がそそがれた玻璃のグラスが、イェンスの前にそっと置かれた。 「これも美術品かい?」 「道具として生まれたものは、使われてこそ輝きを放つものさ」 悪戯を見つかった子供のように肩をすくめる楊に、イェンスも微笑む。 小さく硝子の合わさる音が響き、数瞬の沈黙が訪れる。 少しのため息。 「この前のよりも、少し味が深まっているような気がするね」 と感想をこぼせば、それはよかったと、また楊は笑う。 その感覚が、ちょっとした予感によるものだと思えてしまうのは、この家を尋ねるきっかけとなったうわさ話のせいだろうか。 「ところで楊さん、詠華さんはどうしたんだい? 彼女の為のおみやげも持ってきているんだが」 「妻は今少し旅に出ていてね」 楊は少しだけ眉間に皺をよせ、応じる。 「僕にも黙って姿を消してしまったんだ。今まではニ、三日だったんだけど――ま、彼女は何時でも僕の側に寄り添ってくれていると思っているから、何の問題もないよ」 「そうかい? それは仲が良くて結構なことだ」 いやいや、と楊は照れたように笑う。 だが、不意にその目からあたたかみが失われたような感覚を覚えて、イェンは数度瞬きをする。 「つかぬことを聞くけどね」 楊が真面目な表情のまま、囁くように声を潜めて問いかけてきた。 「この前君と妻が二人だけになった時があったろう? 何か妻は君に話をしただろうか。その、今回みたいにいなくなった時のこととか」 視線の落ち着かない楊。そんな彼を見やりながら、イェンスは数秒、考えた。考えるふりをした。 「いや、特段大した話はしてないよ――君の事が好きなんだなと思わされるエピソードを聞かされてただけだね」 そう、例えば――そう前置きして、イェンスは言う。 「貴方は大事なものを、木の葉を森へ隠すように、コレクションの中に、その本来の性質を悟られないようにして隠すところがあって、それがとても可愛いんだ、とかそういう惚気話だよ」 「それは――」 参ったな、コメントに窮したように言って頭をかく楊。 そんな彼に、懐中から詠華用にと購入した小さなオルゴールを卓上へと置いてみせ、「詠華さんに渡してあげてください」、と言うイェンス。 「ああ、ありがとう。もう帰るのかい?」 「ええ、久闊を除すという目的は果たせましたからね」 「なんとも残念だ。また詠華も加えて三人で語り明かせる日を楽しみにしているよ」 壁にかけさせてもらっていたままのコートを手にとり羽織るイェンスに、楊が扉を開けながら言う。 「こちらこそ。今日は奥さんとお話することができなくて残念です――楊さん、奥さんを大事にね」 それは傍から聞けば何気ない一言だったろう。 だが散りばめられたこれまでのいくつかのキーワード。 それは、楊の罪悪感と結びつき、イェンスが意図しない他意を読み取らせる。 「――知ってるんですね」 底冷えのするような声に、立ち去ろうとしていたイェンスは、足をとめて振り返った。 その瞬間、鈍器のような、確かな存在を持った影が、イェンスの側頭部を強かに叩いた――実際にどうだったのかはわからない。 だがその衝撃に誘われるかのように、イェンスは意識を闇の底へと沈めていった。 その闇の縁。 イェンスは霞む視界の中、懐かしい存在の姿を見出した。 それは、ほんの一瞬だけ。 亡き妻の微笑む口元だけが、それとわかる程度に視界の隅に居座っていて。 ――迎えにきてくれたのかな? そう想う彼の意識は、やがて静かに溶け消えていく。 ‡ 「イェンス!」 楊の屋敷の外で、イェンスに言われるままに待機していたヴィンセントが門を破り、扉を壊してその部屋へと飛び込んだ時――楊の博物館でもあった居間は、酷い惨状と成り果てていた。 ――あの人をお願い 先ほど自身の意識に語りかけたその声は、今はっきりとした姿をとって黒髪の青年の前に現れていた。 その容貌は生前と異なり、振り乱された髪はしとどに濡れて、身体を濡らす血は黒く変色してしまっている。 「化物め! ――貴様も仲間か!」 その声のする方を見やれば、血塗れの女と対して立つ楊の姿。 富裕層の余裕は微塵もない、彼の本性の顔で睨みつけてくる。 「影兵、疾く壊れ!」 声とともに、楊の足元から立ちあがる黒衣の兵は、確かな実体を持って部屋を満たし、ヴィンセントと女ごと、押しつつもうとする。 そこに至って初めてヴィンセントは彼女の足元にある存在に気がついた。 「イェンス!」 叫ぶヴィンセント。その声に触発されたかとでも思わせるタイミングで、女が叫ぶ。 それは魂すらも壊す鳴音。パンシーのように聞くものの心の闇を揺さぶり、無機の黒影兵すらも、散り散りにしていく。 それでも健気に主の命に従いイェンスやヴィンセントの身を引き裂こうと近づいてきた者達は、女の両の手に掴まれた。 掴まれ、振り回され、引き裂かれる。 部屋に、静寂が訪れた。 心を揺さぶる魂の叫びに影響を受けなかったのは、眠ったままのイェンスと、一部始終を見届けたヴィンセントのみ。 女は再び首をだらりとさげて、幽鬼はかくあらんとでもいうべき様相を呈した。 それでも、周囲から脅威が消えた事を把握したのだろう。 ゆっくりと、その存在が薄まっていく。 「――っ!」 思わず見知った者の名を叫びそうになったヴィンセント。 その気配に呼ばれたかのように、女は首を上げ、振り向いた。 その一瞬だけ、ざんばらな髪は綺麗に結い上げられ、蒼白の肌は桃色に彩られた生前の姿を取り戻す。 ほんのすこしだけ見せた、ほほ笑み。 そうして姿を消した幽鬼の存在は、もはや微塵も感じ取れぬもの。 深くため息をつくヴィンセントの目前には、パンシーの絶叫により心を壊された楊が一人。 いや、その背後に、もう一人。 「僕は悪くない、悪くないんだ、そうだろう、なぁ詠華。愛しているよ詠華。どこにもいかないで。ああ僕の千年の華」 『もう良いの』 男の背後にたつ女が微笑んだ。 楊の妻、詠華。その暴霊。 彼女はきっと最初からそこに存在したのだろう。 それでいて、夫に寄り添うことを選び、だからこそ姿を現さないことを洗濯したのだろう。 狂ってしまった悲しい夫の首に、妻の嫋やかな手が添えられる。 『おやすみ、可愛いあなた』 鈍い音とともに、狂った男のつぶやきもまた、部屋から消えた。 後に残されたのは床に眠るイェンス。 そして、困ったようにその身を抱き上げる、ヴィンセント。 『ありがとう、ごめんなさい――そう伝えてくださいな』 夫の首を持ったまま、女は笑う。 そうして彼女は周囲に火を走らせ――自身は、棚の裏に収められた女神像へと溶けこんでいく。 早く出て行きなさいと言われた気がして、ヴィンセントは小さく頭を下げ、イェンスを背に乗せて歩み出す。 二人が出た直後、屋敷は一層強烈に燃え盛る炎に包まれる。 見知った夫婦の不和の噂を聞いたイェンスが訪れた時には……もはや全てが、終わった後だったのだ。
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