海の天気は陸(おか)とは異なる。だからといって、こうも気まぐれに、性急に変化するものなのだろうか? 風が湿り気を帯び、急速に黒雲が広がって行く。熟練した船乗りでさえ目を疑う速さだ。慌てて天候の変化を告げた時には雨が降り出していた。 風が轟き、海は暴れ、船は木の葉の如く翻弄される。ああ、猛り狂う海の前で人はあまりに矮小だ。ガマガエルのように這いつくばって震えることしかできないのだから。 ローレライは嵐の中で歌い続ける。 白く砕ける波の狭間で、張り裂けた喉から血を噴き出させながら歌い続ける。 しかしそれは歌の体裁をなしていなかった。あえてたとえるならば金切り声であった。 金属で硝子を引っ掻くような、けれどひどく哀切に満ちた音は聞く者の心に刃を突き立てる。 ある者は見た。船と一緒に浪間に沈む父の姿を。 ある者は見た。病床の娘が血を吐いて絶命する瞬間を。 ある者は見た。目の前で海魔に喰われた友の骸を。 誰も彼もが心を引き裂かれた。 誰も彼もが我を失い、錯乱していた。「あ……ああ……あああ!」 ある者は頭を抱えて床を転がった。ある者は苦しい記憶から逃れるように壁に頭を打ち付けた。ある者は混乱して甲板へと飛び出し、そのまま時化の海へと投げ出された。 どうどうと風が、海が唸る。 降り注ぐ水が塩辛いのは、逆巻く波が雨と一緒に落ちてくるからなのだろうか。 乙女は恋人の不実に絶望して川に身を投げ、船乗りを惑わす水の精“ローレライ”と化した――。壱番世界にはそんな伝承が存在するという。「この度、依頼をシドより引き継ぎました。今後は私が担当させていただきます」 旅人達の前でリベル・セヴァンは口を開いた。「私からお願いしたいのはブルーインブルーでの海魔討伐です。ある海魔が船と船乗りに害をもたらすことになります。これは導きの書に顕れた予言で、確定した未来です」 海魔の名は、とロストナンバーの一人が問うた。「“ローレライ”。――これより対象をそう呼称します。人魚型の海魔で、歌……というよりも無秩序な絶叫を繰り返しています。よって人間並の知能及び自我はないものと推測されます。こちらからの呼び掛けには反応するかも知れませんが、双方向のコミュニケーションは成立しないと考えて良いでしょう。次にこれまでの経緯を説明させていただきます」 元々、ローレライはハープを鳴らして船乗りたちを眠らせていたという。そのため船が航路から外れたり岸壁にぶつかったりする事例が生じていた。とある商船の航海中にローレライが現れるという予言をもたらしたシドが船舶護衛の依頼を出し、五人のロストナンバーが海へと赴いた。ローレライのハープを聞いた者は例外なく良い夢を見たそうだ。「詳しい記録は書架に収載されておりますので必要ならばご参照ください。しかし今は事情が変わっています」 事務的な口調で説明を重ねながら、褐色の手が機械的な動きで導きの書をめくる。平素通りのリベルの表情にはローレライへの同情や憐憫は見当たらない。「ローレライの声を聞いた者は――声を防ぐことはどうやってもできないようです――必ず悲しみや苦しみに襲われています。トラウマの記憶が再現されたり、起こってほしくない未来が唐突に見えたり、内容は様々であるようですが。ローレライ自体に戦闘能力はありません。精神的揺さぶりをはねのけさえすればどうにでもなるでしょう。ただ……問題は、ローレライの声が対象を錯乱させるほど強力なものであるという点と、現地が嵐に見舞われているという点です」 混乱した船乗りが舵を握ることなどできない。操り手を失った船は転覆するか大破するかだ。「直接の関係があるかどうかは分かりませんが、情報をいくつか。まず、ローレライに似た外見的特徴を持つ女性が行方不明になっています。名はリーラ、酒場の娘です。そして、彼女の恋人であるスニールという男性は何年も前に失踪しています。この点に関して、さきの依頼に参加したロストナンバーはスニールが<覚醒>したのではないかと考えたようです。しかし彼の名は世界図書館の名簿には存在しませんでした。もっとも、世界図書館はすべてのロストナンバーの存在を把握しているわけではありませんので真相は分かりませんが。……リーラはジャンクヘヴンのとある酒場の看板娘で、ステージの上でスニールのピアノに合わせて歌を披露していたそうです。かつてスニールはリーラに手製のハープを贈ったとか。リーラはスニールを探して単身海へと漕ぎ出し、そのまま行方不明になったとのこと」 リーラが恋人を探してローレライと成ったのではないかと考えたロストナンバーもいた。しかし人間が海魔になり得るかどうかなど誰にも分かりはしない。ローレライの正体を知っているのは海だけだ。「ローレライの命はもう長くはないでしょう。だからといって捨て置くことはできません、現地では既に死人が出ておりますので。よって世界図書館はローレライの討伐を依頼します。頼りになるのは異能や戦闘能力ばかりではない筈。――よろしくお願いいたします」 海は女であるという。なぜなら唐突に、極端に様子を変えるからだ。その変貌ぶりは理不尽で、時に不条理ですらある。 雄大で美しい景色の名残はない。空も海も濃灰一色に塗り潰され、暴君の如く猛り狂っている。ジャンクヘヴンに降り立った旅人達は待ち合わせ場所に指定された酒場へと向かった。出迎えたのは仁王立ちになったジュードと、隅の席でうなだれた店主だ。ジュードが預かる商船の乗組員たちも顔を揃えている。「よろしく頼むぜ傭兵さん達。船を出せばローレライはきっと現れる。俺達じゃ戦力にはならねえが、操船は任せてくれ。……死んだのは俺の仲間の部下でね。弔い合戦ってわけじゃねえが、このまま放ってはおけねえ」 旅人達は黙っていた。ジュードが船を出す理由はそれだけではあるまい。彼はスニールの弟だ。 ごうごうと風が、雨が轟く。簡素な造りの酒場はガタガタと震え、壁掛けの写真の中で微笑む男女の姿がいびつに揺れる。店の奥のステージの上には古ぼけたピアノが無言で鎮座していた。「海は広い。俺達が知ってるのは海のほんの一部にすぎねえ。だが……人間が海魔になるなんざ有り得ねえよ。――ローレライはリーラじゃねえ。海魔だ」 写真の中で肩を寄せ合うスニールとリーラを見つめ、ジュードは苦虫を噛み潰した。 船と港のようだ。船は出て行く。港は船を待ち続けることしかできない。だが、港がなくなれば船は帰る場所を失う。 喉から血霧を噴き出させ、ローレライは虚ろに、壮絶に歌い続ける。 海に縛り付けられたまま。傷だらけのハープをよすがのように抱き締めながら。 女は己の内に相反する二つの相を抱くという。 ――すなわち慈母と夜叉であると。
知っていた、知っていたのか 僕がいつも空を見ていたこと この海じゃなくてあの空を 遠い遠いあの空を…… ◇ ◇ ◇ 人見広助はステージ上のピアノに無機質な一瞥をくれた。それは十三歳の少年らしからぬ眼差しであったが、彼の纏う雰囲気のせいだろうか、不思議と不自然ではないのだった。 対照的に、ピアノに掌を当てたアルティラスカはかすかに瞼を震わせた。何らかの能力で何かを読み取ったのかも知れないが、広助には関わりのないことである。 「ねえ。もしローレライがリーラさんだったとしたらどうするの」 代わりに広助はジュードに問うた。 「人間が海魔になるなんざ有り得ねえ」 「耳、聞こえてる? 俺は“もし”って言ってるんだよ。――ローレライに言いたいこととか、ない? 今を逃したらもう恨み言も言えなくなるかも知れないんだから」 「……ローレライはリーラじゃねえ。海魔だ」 「それは貴方の願望じゃないの? ま、いいけど。好きにすれば」 頑ななジュードに広助は冷めた声を返した。 その傍らで、ロイ・ベイロードは目を閉じて嵐の音に聞き入っている。 (ローレライ……か) 人間が海魔になることなど有り得ないとジュードは繰り返した。だが、人間が魔物に変化すること自体は有り得ない話ではないとロイは思う。 (ならば心を取り戻させるべき……と思ったが、無理であるようだな) ロイの鎧と同じ色である筈の空と海は暗澹たる色彩に塗り潰されている。 「であれば、この剣で討つしかあるまい。……残念ながらな」 外では嵐が猛り狂っているというのに、ロイの独り言はいやにはっきりと皆の耳に届いた。 ごうごうと風が、海が猛る。 テーマパークのアトラクションなどよりもよほど揺れる船の中、クロウ・ハーベストは何度目かになるくしゃみをした。奇妙なことに、彼はこの嵐の中で半袖姿だった。左腕にはアームカバーを着けているが、右手首には禍々しい見目の腕輪――痩身の彼には不釣り合いなほど武骨だ――が嵌まっている。 嵐と揺れに顔をしかめつつ、クロウは憂鬱な溜息をこぼした。 (ローレライの歌……か。厄介だな。やっぱり“アレ”が出てくるんだろうなぁ……) 傷が塞がっても痛みの記憶が消えるわけではない。 「船ってこんなに揺れるんだな……」 というツヴァイの声でクロウは我に返った。見れば、ツヴァイの顔色は少々すぐれないようだ。視線に気付いたのか、ツヴァイは顔を赤くしてクロウに食ってかかった。 「ち、違うぞ! これは船酔いなんかじゃない、ただ気分が悪くなっただけなんだからな! かっ、勘違いするんじゃねえぞ!」 「いや……それだけ元気なら心配ないだろ」 「悪いな、普段は快適なんだが。あいにくこの時化じゃそうもいかねえ」 舵を握るジュードは声を張り上げた。そうでもしなければ会話すらままならない。海の嵐は陸とは違う。頭上からも左右からも風雨が吹き付ける上に、足の下さえも絶えずどうどうと轟いているのだ。 「なんか色々ありそうだが……生憎推理は全然ダメでな」 ジュードの横顔をちらと盗み見てクロウは呟いた。 「何も考えないで普通に“海魔ローレライ”を退治させてもらうさ。……まあ、リーラって人はかわいそうだとは思うけど、それだけだ」 ジュードは答えない。睨みつけるように前方を注視しているだけだ。 一方、ツヴァイは顎に手を当てて思案顔を作った。 「行方不明になった女に、ソイツに似てるローレライ、ねえ。……ん? そうか」 「お、何だ」 「ローレライはリーラってヤツのドッペルゲンガーなんだ!」 「……あ?」 拳を握って宣言したツヴァイにクロウは目をぱちくりさせた。 「そうだろ、それしかねえじゃん。なんでドッペルゲンガーがハープ持って歌ってんのかは知らねぇけど、悪趣味なドッペルもいたモンだぜ……」 ツヴァイはひとり得心顔で肯いている。クロウは軽く肩をすくめた。だが、ツヴァイのおかげで船内の緊張が和らいでいることも確かだ。 「さてと。ジュードさん、だっけ?」 ツヴァイはロープを取り出した。 「わりぃけどさ、手首か何か掴ませてくれねぇか。ローレライの声で錯乱しちまった時に備えて、さ。頭打っても耳塞いでもダメなら、これ位しか方法思い浮かばねーや」 「分かった、頼む。そのロープは?」 「これは俺が使うんだ。誰かに頼んでその辺に体を括り付けてもらうよ。戦う前に海に投げ出されたらかなわねーもん」 時化の中の船は子供に掴まれた玩具と同じだ。上下に突き上げられ、左右に振り回され、絶えず弄ばれるしかない。 広助は黙って彼らのやり取りを聞いていた。さすがに少し船酔い気味だが、彼の寡黙さはそのせいばかりではないだろう。平素ならヘッドフォンで人の話し声を遮るところだが、今だけは違っていた。 「危なそうならつつけ」 気遣わしげに嘴を寄せるオウルフォームのセクタンを撫でながら、手の中に剃刀を握り込む。 ◇ ◇ ◇ 知っていた、知っていたよ 君が不安を感じていたこと 僕は空ばかり見ていたのだから ここには海しかないのだから…… ◇ ◇ ◇ 慌ただしく走り回る船員たちの足音が絶えず響いている。アルティラスカも静かに船の中を歩き回っていた。女神の名にふさわしい神秘的な美貌を持つ彼女だが、船乗り達も今日ばかりは美女に口笛を鳴らす余裕はないらしい。 アルティラスカは船を見物しているわけではなかった。船のあちこちにひたと手を置き、魔力の種を撒いていく。 人が海魔になることは有り得ないとジュードは言う。だがアルティラスカにはひとつだけ気にかかっていることがあった。 ――もし『ローレライ』が憑依型の海魔だとしたら? 「そうであれば『彼女』を救えるかも知れません」 願いにも似た独り言は嵐の狂騒に掻き消される。滅びた文明の実験によって生まれた存在が海魔だと言われているから、そもそも憑依型の海魔というものが存在するのかどうかすら分からない。しかし出来ることは全てやってみるつもりだ。 (推測違いなら……この手でまた命を摘む覚悟をするだけ) 白い繊手を胸に押し当て、美しき女神は嵐を見据える。 一方、ロイは揺れをものともせずに甲板に立っていた。吹きつける風と水は海からのものか、天からのものか。濃灰一色の海と空の狭間で、彼の青い鎧は一層輝いている。 船に乗り込むのは元の世界での魔王討伐以来だ。海や船はどこの世界でも似たようなものなのかも知れない。海は気分屋だし、船は海の前では成す術もない。 全ての生命は海から生まれた。海は命をはぐくみ、恵みをもたらす。しかし母なる海は時に夜叉と化して全てを呑み込む。ならば、海とはまさに女なのだろう。 「魔よけの指輪よ……俺を守ってくれ」 武骨な指におさまるリングにそっと手を重ねる。 まさにその時であった。風雨の隙間を縫うように女の絶叫が届いたのは。 「む――」 金属的な、しかしひび割れた声が耳朶を打つや否や、ロイの意識は一気に引きずり倒されていた。 ローレライは歌う。嵐の中で、ハープを抱えて。 声よ届けと、叫び続ける。 何も知らずに。 求める相手が海に居ないことすら分からずに。 ロイはカッと目を見開いた。 視界を埋め尽くすのは暴虐な炎。町が、村が、城が燃えている! 真っ赤な炎の中を黒々とした影が闊歩している。下劣に笑う彼らは何かを抱えていた。武器であったり、人の首や手足であったりした。 「……おのれ」 渦巻く業火は人々の悲鳴さえ掻き消す。あるいはもう何も聞こえないのかも知れない。炎に舐め尽くされ、全ての人々が息絶えてしまったのかも知れない。 「おのれ魔王、よくも!」 ロイは咆哮とともにロングソードを引き抜いた。理性的である筈のロイが今確かに怒り狂っていた。彼の怒りは雷(いかずち)と化す。電撃魔法を纏った剣がモンスターたちを次々と斬り裂き、消し炭へと変える。 魔王は此処には居ない。此処に居るのは魔王の配下のモンスターばかりだ。モンスターをいくら倒したとて魔王には届かない。 「よくもやってくれたな腐れ外道!」 斬っては捨てる。斬っては捨てる。それでも後から後から魔物は湧く。 「おのれええええ!」 炎の中、血を吐くようなロイの雄叫びばかりが轟いている。 広助も同じ色彩の中に居た。 すなわち、夕焼けだ。 声が聞こえた気がする。だが、それは広助の願望であったのかも知れない。本当は何も聞こえない筈なのだから。 夕焼けは炎の色だと広助は思う。全てを理不尽に奪う炎と同じだと。 けれど、夕焼けはこんなにも静謐だ。西の空は静かに、不気味に燃え上がりながら天球を犯すばかり。 広助の視線の先、マンションの屋上から、ふわり――と何かが飛び立つ。 鳥でも飛行機でもヒーローでもなく、それは。 (……あ) スローモーションのようであった。サイレント映画のようであった。 映画であればどれだけ良かっただろう。 だが、どれもこれもが現実だ。 屋上から飛び降りたのは紛れもなく広助の姉だったし、姉の体は広助の目の前に叩き付けられて嘘のように弾んで壊れたのだ。 「あ。あ――」 姉は何も残さなかった。何ひとつ口にはせぬまま――理由はおろか、救いを求める声さえも――、広助の前で身を投げてみせた。 だから、広助はただ立ち尽くすことしかできなかった。 姉の体の下に血溜まりがのろのろと広がって行く。 真っ赤な血に真っ赤な夕焼けが照り映え、凄絶な色彩を作り出している。 アルティラスカの着衣もまた同じ色に染まっている。 目の前にもまた、同じ色に塗りたくられた女の姿。 「アティ! アティ!」 狂ったように笑う彼女は、神。しかし神の面影はそこにはない。全身を朱に染め、アルティラスカの愛称を繰り返しながらがくがくと頭を揺するだけだ。 「アティ、ねえ、ねえええ、アティいいいいいいいい」 裂けた喉から血潮と空気を噴き出させつつ、狂った創世神はアルティラスカに手を伸ばした。美しかったその手はもはや朱に塗れ、繊細な指は何本か吹き飛んで見当たらなくなっていた。 「痛い、痛いい、痛いのよおおおおお、ねえええええ」 血の涙を流しながら、狂った友はアルティラスカの両腕に縋る。瀕死の筈の友の爪は、アルティラスカの柔肌にがっちりと喰い込んで新たな血を流させた。 アルティラスカは長い睫毛を伏せて唇を噛んだ。 目の前に居るのは神だ。神であり――大切な友だ。 「アティ! アティいいいいい」 アルティラスカの腕を掴んだ手がずるりと落ちる。それでも友の高笑いはやまない。血塗れの姿で地べたに這いずりながら、けたたましくアルティラスカの名を叫び続ける。 それなのに、どうしてなのだろう。 狂った哄笑の合間に――かつての笑顔が見え隠れしているのは。 クロウの目の前にも朱に染まった女が倒れていた。 まだ少女と呼んでも良い年頃の彼女を見紛う筈がない。彼女はクロウの幼馴染だ。 名を呼ぶことすらできず、まろぶように駆け寄る。抱き起こせば、血。べったりとした血糊が遠慮も容赦もなく掌に付いてくる。幼馴染の金髪も血糊でべっとりと穢されていた。体はわずかに温かいが、その温もりもすぐに消えてなくなるだろう。彼女の美しい碧眼は頑なに閉じられている。 「――――――!」 知らず、息を呑んだ。 幼馴染の下にクロウの恋人が倒れている。幼馴染にかばわれるようにして、幼馴染と同じ金髪を同じように血に染めて。 ほんの少しだけ息がある。しかしまさしく虫の息だ。恋人は幼馴染と同じ色の瞳を一度だけ開き、そのまま二度と動かなくなった。 腕の中の二人――本来なら、年頃の娘特有のしなやかな肢体である筈だ――が急に重さを増したように感じられた。 遺体は重いのだといつか耳にしたことがある。命が抜けた体なのに、どうしてこんなにも重いのだろう。それとも、命が抜けたからこそ重くなるのか。 彼女達はもう笑わない。彼女達はもう泣かない。一緒に大音量で音楽を聴くことも、口の周りにケチャップを付けてホットドッグを食べることもない。 クロウは何も出来なかった。クロウはこの場に居なかったのだから。クロウが駆け付けた時には全てが終わっていたのだから。 クロウは何も出来なかった。 何も。何も。何も。 ツヴァイの前に広がっていたのは鉄であった。 人のいない、茫洋とした無機の群れであった。 「……どうして」 きちきち、と金属が軋む音がする。操り手を失った機械が断末魔にも似た稼働音を上げながら彷徨している。 争いが無い筈の世界だ。では、天災か。それとも、内紛や戦乱が起こったとでもいうのか? 考えても無意味だ。全ては終わった。――国は、滅んだ。 無言で聳える鉄の間をふらふらと歩く。何を求めるでもなく。求める何かが残っているわけでもなく。城も民家もすべて鉄で出来ている。だが、その内側で息づいている筈の人間はいない。 鉄は頑なだ。その頑強さが人を、国を守ってくれる。だが、人を失った鋼はこんなにも無機質で、冷たい。 無表情に立ち並ぶ灰色の底で赤き皇子は膝を折った。地面までもが硬く、冷ややかだった。 ぐらり、と世界が揺れる。 重苦しい鉄の群れが左右から倒れ掛かって来るかのような錯覚にさえ囚われる。 「どうして……」 鮮烈な赤毛が虚ろに靡く。モノクロの世界の中、色彩らしい色彩を纏っているのはツヴァイだけだ。 いや――目を上げれば、遠くにもうひとつの色が見える。 それはまるで春の陽溜まりのような―― ツヴァイははっと目を見開いた。 「ジュードさん!」 そして絶叫した。握り締めていたジュードの手首は釣り針から逃れんとする魚のようにびちびちと暴れ狂っている。 「クソッ」 ナイフで素早く縄を切ったツヴァイは舵にがっちりと手を添えた。錯乱したジュードに任せるよりはましだ。耳障りな金切り声が絶えず神経を、精神を揺らす。皺を寄せた眉間に嫌な汗がどっと噴き出す。 「私は……」 アルティラスカは震える唇を開いた。伏せた瞳から一筋の涙が溢れて頬を伝う。 「神殺しの咎……いえ、友を殺した罪をずっと背負って私は生きます」 罪と向き合い、決して逃げない。それは女神の覚悟であり、誓い。 再び開かれた金眼は静謐で、しかし凛とした光を宿していた。 「まずは船員達の命を守らねば」 女神のこめかみ、そこから生える翼の花が七色に輝きながら羽ばたき始める。彼女が撒いた“種”が一斉に芽吹き、開花する。ツヴァイは弾かれたように顔を上げた。優しいピアノ。穏やかな歌声。時折混じるぎごちないハープ。出発前にピアノに刻まれた想いと記憶を手に入れたアルティラスカは、二人の思い出の曲を封じた種を船じゅうに仕込み、魔力で増幅させて鎮静の歌となしたのだ。 船内の動乱が徐々に静まっていく。子守唄を聞かされた子供のように。同時に、船が少しずつ自律を取り戻し始める。 「……っ」 掌に痛みを感じ、広助はわずかに眉を顰めた。同時に現実へと帰還した彼は、同居人からこっそり借りて来た剃刀の刃が己が手に食い込んでいるのを見た。 姉を染め上げた血と同じ色だ。 「……だから何」 無言で掌にハンカチを巻き付け、揺れに足を取られながら甲板へと飛び出す。 どうどうと波が、風が吼える。 甲板にひざまずいたクロウは青い髪と目を震わせていた。体の芯が冷たいのは吹きつける嵐のせいばかりであるのか。 それでも悲鳴は上げない。……しかし。 傷が塞がっても、同じ場所に刃を突き立てれば同じように痛いのだ。 それでも、クロウはきつく唇を噛み締める。 (……こんな……) ――こんな姿を思い出している事を知ったら、彼女達はきっと怒る。 濡れた甲板に拳を叩き付け、クロウは荒い息とともに立ち上がった。 「……ハタ迷惑な声持ちやがって」 低く、呻く。彼の双眸は青い炎のようであった。青い炎は静謐だが、赤い炎より何倍も熱い。 「今、楽にしてやるよ」 腕輪を嵌めた右腕が一瞬にして怪物のそれへと変ずる。 凍てつくほど熱い視線の先には――甲板を這いずる金髪の人魚。 ◇ ◇ ◇ 知っていた、知っていたのか 僕は君の全てを愛した 君の声に包まれたいと 君の腕に包まれたいと だから僕はここに居るよ 海しかなくても、君が居るから…… ◇ ◇ ◇ ――ロイ。ロイ……。 ぼうやりと、視界の中に光が灯った気がした。同時に炎が消え失せ、ロイは唐突に冷静さを取り戻す。 ――ロイよ。主は邪悪な夢の中にいるのだ。 (……指輪……が……?) ――邪悪に踊らされてはならない。ロイよ……起きろ! ロイはカッと目を見開いた。 青い鎧を打つのは炎ではなく嵐だ。ロイの目覚めを見届けたのか、光を放っていた指輪が徐々に静けさを取り戻して行く。 「これが海魔か……」 神経に障る金切り声が耳をつんざく。しかしロイは動じない。目の前には、喉から血を噴き出させ、何かのよすがのようにハープを抱えた醜い人魚。 「さて……覚悟はいいな?」 剣と盾を構え、青き勇士が戦端を開く。 それを待たずして飛び出すのは広助だ。手には銀色のワイヤーが幾重にも巻き付いている。 「貴方のことは少し好き。……でも、大嫌いだ」 家族も友人も捨てて恋人を追いかける姿も、全てを捨ててただ恋人への想いだけを抱いている姿も潔いほどに身勝手だと思う。海になど行かずとも、町で待っていれば良かったのだ。そうすれば反吐が出るくらいの時間が風化させてくれただろうに。 だから――それが我慢できなくて追いかけたというのなら、その力強さは少し好ましい。 しかし、 「何も言わない、何も残さない。貴方はそれでいいかも知れないけど」 一度も周りを振り返らずに思い続ける姿は大嫌いだ。広助はローレライの中に別の人物の姿を見ていた。 どうどうと天が、海が轟く。その隙間を縫うようにピアノが、女声が、ハープが流れる。それはあまりに場違いなBGMだ。アルティラスカが操る種の効果は今も尚続いている。ローレライも鎮静対象に含めているが、どういうわけか目立った効果は見られない。 「倒すのは『ローレライ』です」 白い繊手が矢をつがえる。戦女神の如く背筋を伸ばしたアルティラスカが放つのは白銀の矢だ。魔力で具現化したこの破魔の矢で『ローレライ』を祓うことが出来たなら。 しろがねの矢はローレライの肩へと精確に突き刺さる。しかし、それだけだ。ローレライはローレライのまま悲鳴を上げ続けている。推測は外れたのか? 「……ならば」 女神は怯まない。次なる矢は、黄金。ピアノから得たスニールの想いを矢に変え、急所目がけて次々に撃ち込む。突き刺さる度にローレライの体が弓のように反り返る。ローレライの体を貫くのはスニールの想いだ。思い出のピアノに刻まれた二人の記憶だ。 彼女は何を見ているのだろう。スニールの想いに射抜かれて、どんな映像を見ているのだろう。 「ギガボルトぉ!」 ロイの放つ電撃が嵐の中を疾駆する。青い雷は精確に海魔を撃ち据える。その隙に青き炎がローレライに肉薄した。瞬間移動を駆使したクロウだ。 「面倒臭いんだよ、能力使うのは」 彼の横顔は一見冷静だが、胸の奥では嵐の如き激情が渦巻いている。 異形の腕が、一閃。絶叫。ごとりと甲板に落ちるハープ。 ローレライの両腕が勢い良く吹き飛び、時化の海へと落下する。特殊能力で自らの戦闘力を上げたクロウは冷徹にそれを見下ろすだけだ。 両肩から血潮を、喉から血霧をしぶかせながら叫び続ける女の姿にツヴァイはわずかに顔を歪めた。 彼女の顔を濡らすのは雨ばかりであるのか? 「ローレライ……お前も辛かっただろ。喉から血が出るまで歌い続けてさ」 何が彼女をそうさせたのか。前触れもなく消えたスニールか。それとも、帰属を見失った“異物”を放逐する“世界の摂理”なのか。 スニールは別の世界へと旅立った。しかしこの世界には海しかないし、彼女は海に縛られている。海から離れることすら出来ないのだ。 だからこそ、 「……早く楽にしてやんなきゃな」 ファイティングナイフを抜き、ツヴァイはしなやかに甲板を蹴る。 広助の手が昏く閃く。躊躇いなく放たれるのは冷たい鋼線。 「大事な声も聞く人がいなければ意味がない。その喉ごと、止めてしまおうか」 刹那、絶叫が止んだ。 銀色のワイヤーが海魔の首に巻き付いたのだ。 広助は一気にワイヤーを引いた。絶叫が断末魔の悲鳴へと変わる。ツヴァイのナイフがローレライの喉に突き刺さる。アルティラスカの矢がローレライの胸を貫く。矢が刺さる度に流れる金色の光は息を呑むほど美しい。 壮絶な痙攣と血がワイヤーを渡って広助に伝わる。しかし知ったことではない。広助は更にワイヤーを繰ってローレライの首を切り裂いた。 「とどめだ!」 ロイが甲板を蹴って跳躍する。 紫電を纏ったロングソードが、哀れな女を一刀両断にした。 びょうびょうと波が、風が渦巻く。 海魔の骸は暴風に攫われ、荒れ狂う海へと落下した。 甲板には傷だらけのハープだけが残されている。アルティラスカは嵐の空を仰いで目を閉じた。逆巻く波を含んでいるのだろうか、降り注ぐ水は塩辛い。まるでローレライの涙のように。 「……クソ兄貴が」 ジュードは苦々しく舌打ちして帆柱を蹴りつけた。スニールはいつも空を見ていた。海は見飽きたから空に行ってみたいと冗談交じりに口にしていたこともあった。 後にはスニールとリーラの思い出の曲ばかりがゆるゆると流れている。ひどく静かに。切ないまでに優しく。 ああ――リーラの歌声は、慈母のように穏やかだ。 ◇ ◇ ◇ 知っていた、知っていたよ 君の望みはちゃんと知ってた 僕の気持ちも君と同じさ だからいつまでも歌っておくれ 僕のピアノで、僕の隣で…… ◇ ◇ ◇ 幸い、死者は出なかった。アルティラスカの魔力の種が功を奏し、錯乱した船員たちも比較的早く正気に戻ることができたからだ。壁や柱にぶつかってすり傷を負った者が何人かいた程度だった。 船がジャンクヘヴンへと帰還する頃には嵐も幾分弱まっていた。ねずみ色の雲も徐々に薄くなりつつある。酒場の主人――リーラの父は憔悴した顔で一行を出迎えた。ジュードは店主の肩を抱いて何事か告げているようだが、旅人達の耳には入らない。 「……彼は彼女を愛していました。いいえ……愛しています。きっと、今も」 アルティラスカが静かに告げた。目を腫らした店主がぼんやりと顔を上げる。 「そのピアノに込められた想い……私が全てこの手で触れました」 二人が共に作った曲。交わした言葉。スニールがリーラのために作ったハープ。恋人の気持ちに応えようと懸命にハープを練習するリーラ……。何もかもが、昨日撮ったばかりの写真のようにピアノに刻まれていたのだ。 「だが、スニールは」 という主人の掠れ声にアルティラスカは小さくかぶりを振った。 「彼がどこに行ったのか、なぜいなくなったのか……私には分かりません。きっと誰にも分からないでしょう。けれど、彼が彼女を忘れたのならこんなに鮮明な想いは残らない筈です」 全てを金色の矢に乗せて撃ち込んだ。ローレライに、リーラに届けと撃ち込んだ。矢を受けたローレライが何を見たのか、アルティラスカには確かめようもないけれど。 「なあ、傭兵さん達。あんた達はローレライを倒したんだろう。ローレライを見たんだろう」 店主の傍らには金髪のリーラが微笑む写真が立てかけられている。 「ローレライの正体は――」 「さあな。俺達は“海魔ローレライ”を倒しに来ただけさ。……さっきも言ったが、推理はからきし駄目なんだ」 クロウはがりがりと頭を掻いて酒場を後にした。 気を抜けば、今も幼馴染と恋人の最期が脳裏にフラッシュバックする。痛みの記憶はこの先も消えないだろう。 クロウは低く顎を引いた。 (……いけね。また怒られちまう) かつても同じ方法で立ち直った。痛みが甦ったら、何度だってそうするだけだ。 「っくしょい」 とくしゃみをした時には、クロウの横顔は気さくな少年のそれに戻っていた。 「いつまでも半袖なんか着てるからだ」 「あ?」 鼻水をすすりながら振り返ると、いつの間にか外に出ていた広助が無表情な一瞥を投げてよこした。 「まあ、あのゴツい腕じゃ長袖なんか着られないか。風邪を引かない人種なら関係ないだろうけど」 幼ささえ残す筈の広助はどこまでも無感動で、クロウが肩をすくめた時には既にヘッドフォンを装着して口を閉ざしてしまっていた。 鉛色は徐々に遠のき、空と海は本来の色を取り戻しつつある。 静まり始めた海を眺めながら、ロイは指輪にそっと手をやった。 (悪夢を見せられるとはな……しかし、助かったぜ) ロイを救った反動だろうか、美しかった指輪は今やぼろぼろになってしまっていた。しかし、時折放つ鈍い光はどこか誇らしげでもある。 「それにしても……ローレライは……」 強靭な双眸を初めて曇らせた時、 「なあーに落ち込んでんだよ」 不意に背中を叩かれ、ロイは続きを呑み込んだ。肩に腕を回して人懐っこく笑いかけてくるのはツヴァイだった。 「俺達が倒したのはドッペルゲンガーっていう化け物、だろ?」 「……そう、なのか」 ロイは困ったように、ツヴァイにつられるようにして笑った。 ローレライの正体は誰も知らない。リーラの行方も誰も知らない。全ては海の底に沈んだ。きっと、それでいい。 「へえ、ぼろぼろだけどいい指輪だな。お守りか何かか?」 「そんなところだ。俺を悪夢から引き戻してくれた。……そういえば、おまえはどうやって悪夢をはねのけたのだ?」 「ん? 過去や未来の出来事には現在の出来事で対抗してやろうって決めてただけさ」 ツヴァイは快活に笑った。彼が見たのは“見たくない未来”であったのだろう。しかしあの時、無機の世界に春の陽溜まりのような色が差し込んだ。柔らかなそれが、モノクロの中で膝を折ったツヴァイを包み込むようにして引き上げてくれた。 「現在の出来事とは?」 「ま、いいじゃねえか、その話は」 その金色がある少女の髪の毛の色と同じであったことはツヴァイしか知らない。 同じ青という言葉で表されてはいても、海の色と空の色は全く異質だ。水平線で真っ直ぐに隔てられた両者はどこまで行っても平行で、決して交わることはない。 だが、太陽が水平線に近付くほどに両者は同じ色に染まる。初めはシャンパンゴールドに。日が沈めば、真っ黒な闇色に。空と海はそうすることでしか重なり合うことができない。 ローレライは甲板の上にハープを残したまま絶命した。だが、船がジャンクヘヴンへ戻った時にはハープはどこにもなかった。 時化の揺れで海に落ちたのか。それともローレライが“持って行った”のか。真相はローレライと一緒に海の底に沈んでいる。 その後、日が暮れると時折ハープの音が聞かれるようになったという。 弱々しい音色は潮騒にたやすく掻き消され、空には決して届かなかったそうだ。 ◇ ◇ ◇ 知っていた、知っていたのか 本当に僕を知っていたのか? 遠くになんて行く筈がない だってここには君が居るだろう 僕の行き場はその腕の中だけ…… (了)
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