しゃん、と錫が鳴った。 鮮血で彩られた石造りの床に、見るからに怪しげなローブをまとった男が炎を前に座している。 霊力を源として動く様々な機械が物々しく動く中、彼が奏でる祝詞の唱和はその木霊と協和して音叉のように不気味に響き渡る。 インヤンガイには、危険な暴霊の潜む街区はいくらでもある。 その危険のひとつである「暴霊域」と呼ばれる街区があった。 危険な暴霊が渦を巻き、怪奇現象や暴霊の発生する特殊な力場に、それは作用する。 インヤンガイの人間はそれの対処をいくつも心得ていた。 例えば、霊域の中心となっている暴霊を無力化すること。 例えば、物理的な破壊力を持って街区ごと吹き飛ばすこと。 例えば、敗北を認め暴霊域を封鎖することで被害を拡大させないこと。 今回、彼が取った方法は三つ目の選択肢だった。 今回、暴霊域として指定され、封鎖される地区となったのは比較的新しい墓場だった。 のら犬のように野垂れ死んだインヤンガイのクズどもがゴミのように打ち捨てられる。 とは言え、暴霊の恐怖をしっている住人は、適切な対処を行っていた。そのはずだった。 きっかけは一体の暴霊を駆除しそこねただけの、ほんの些細なこと。 その暴霊は、墓場という格好の力場を得て、仲間を呼ぶ。 魅かれた暴霊はこの地に留まり、また新たな仲間を引き寄せる。 もはや空気そのものが澱んでいるように、空間すら捻じ曲がっていた。 「まるでパーティ会場だ。もはや、きっかけとなった暴霊を祓ったところで、集まった連中はどうにもならない……な」 街区ごと封鎖することが決定してから三日後、名乗りあげたのはたった一人の専門家だった。 彼の手により、小さな祭壇が組まれ、封印の祝詞が奏上される。 「おいおい、大丈夫かよ。こんな小さな結界で……」 除霊に挑む男の横、護衛を引き受けた探偵モウ・マンタイはトレンチコートの内ポケットからタバコを取り出し、火をつけた。 ふぅっと噴出した紫煙も心なしか霊の具現化に見え、あわてて首をふり妄想を追い出す。 不意にモウの背後から、相棒であるメイ・ウェンティの声がかかる。 「大丈夫なわけないネ。こいつ、今夜には暴霊の仲間ヨ。モウ、逃げる算段はついたネ?」 「逃げちゃ金にならねぇだろ。もう、明日の包子(パオズ)買う金もねぇぞ」 「あー、モウはカイショナシだから仕方ないネ」 緊迫した現場に似合わず、彼女、メイはきゃらきゃらと笑って見せた。 「今回はロストナンバーが助けてくれることになってる。到着したら後は任せりゃそれでいい」 「そこまで肝っ玉腐ってるあたり、さすがに最低男ネ」 祭壇の男は一人 彼は霊具を手に一心不乱に呪文を唱え続けている。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 目を閉じて思いっきり声を張り上げる。 「そういうわけで、インヤンガイだよ。今、暴霊域に結界を張ろうとしてる人がいるんだけど、そこはお墓で、ゾンビが邪魔をしにきてるの。後から後から沸いてくるゾンビの群れを蹴散らして、結界が張られるまで突破させない。以上っ!」 そういうと彼女は「聞かない、見えない、怖い、怖い」と耳を塞いで目を閉じた。 「ぐちゃっ! とか言わないでいいーっ! 目が飛び出て、充血した血とゼリーみたいな半透明のゲル状が混ざってるとか聞かせなくていいっ! 腐った肉ってまず酸っぱい匂いがするんだよとか、お酢やレモンの酸っぱい香りと一緒にできないとか、そんなトリビアいらなーいっ! 脂肪の感触知ってる? やっぱりラードが一番近いんだけど、人間の脂肪って黄色がかっているんだよとかも言っちゃだめ! 腐った内臓や脳が液状化して、それを支える皮膚も腐ってるからゾンビが立ち上がると二日目のカレーみたいな色と感触のどろっとした肉が地面に落ちるとか絶対に言っちゃだめっ!!」※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 除霊を執り行っている男の祝詞はいっそう激しさを増していた。額に浮かぶ汗も玉と散る。 事前の打ち合わせによると、それは一時間もあれば終わるらしい。 モウが腕時計に目をやり、ついで墓場の大時計に目をやったときだった。 ぼこり 墓場から腕が生えている。 最初は木のように見えた。だが、腐り落ちた指が大地をつかみ、腐肉が自重でひしゃげ、茶色の液体がぐちゃりと土を濡らす様は死体が動いているとしか形容できない。 気がつくと二つ、そして三つ。 腕だけではない。頭をもたげ、もはや生気も張りもない皮膚でかろうじて繋ぎ止っただけの間接や骨を動かして、彼らはやってくる。 あるものは這いずり寄ってくる。 あるものは立ち上がり、木石を手に表情さえ浮かべてみせる。 白骨のみとなっても、まだ刃を手に立ち上がるものもいる。 ぐちゃぁ、と糸を引く腐肉から、つんと鼻を突く酸っぱい匂いに胸から嗚咽がこみ上げてくる。 「グロいのと臭いの、どっちも苦手ネ」 メイは手元にあった爆薬を適当にゾンビの集団の中央部めがけて投げつけた。 激しい音がして、散り散りになった手足や皮膚、腐った血液が巻き散らかされる。 同時に酸味の強い香りが、あたりに立ち込める。 茶色の汁が彼女の上着にシミを作った。 「さ、最低ネ。この服は高かったヨ」 メイがぼやいたのとほぼ同じ時刻、隣で人が引きずり倒される音がした。 ぐぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……。へぶっ。 熊のような咆哮が響く。 メイの視界の端、首を食いちぎられ、内臓を抉り出され屠られているモウがいる。 血飛沫を吹き上げながら絶命しきれない間に、腕をもぎ取られ、目玉を抉り出され、もはや悲鳴をあげることすらできない口をぱくぱくと空しく動かしていた。 目じりから涙が一筋こぼれおち、その透明さすらも血に混じる。 腐臭と腐敗の茶色い世界で彼の血だけが、深紅の鮮やかな彩りを描いていた。 背後の足音で振り向いたメイは、その足音が援軍の――ロストナンバー達のものである事を知る。 安堵からか。 それともそういう性格なのか。 彼女はこの状況で屈託無く笑った。 「もうちょっとだけ、遅かったネ。ロストナンバー達。世界図書館に依頼してたモウ・メイ探偵事務所はついさっき、ただのメイ探偵事務所にナタヨ。援軍、三百人は欲しいって言ったのに、たった四人? 世界図書館、案外けちネ」 数え切れない程のゾンビの群れを前に、彼女はそう言って笑った。 「あそこでキモい呪文唱えてる人を一時間だけ守ればいいネ。結界張ったら用済みだから、保護は考えなくてもいいヨ。結界張ってもゾンビはこっちにこれなくなるだけで消えたりしないから、私の逃げ道だけは確保して欲しいネ」 彼女はそう言って炎の前で鎮座し、一心不乱に呪文を唱えている男を指差した。 逃げ道の車はすでにゾンビに占領されているようだ。 やる事はふたつだけ。 一時間の間、正面から群れ襲ってくるゾンビの群れを食い止めることと、その後、無事に逃げること。「とりあえず、ロストナンバー達、お腹すいてナイ? 後で焼肉奢ってヨ。いいユッケの店があるネ」
うぞ……、うぞ……、と。 足元の砂利を踏みしめ、腐敗した体を引きずるように死体が歩く。 発酵しきった頭皮は髪をつなぎとめることができず、緑色に変色した体液とともに地面に落ち、小さな茶色の山を築く。 モウ探偵は、すでに事切れていた。 すべてが茶色のその地獄において、モウはその場でただ一人、鮮度ある死体となる。 生命の力を口より取り込めば、自らにもその力を吸収できると信じたかのように、ゾンビの群れはモウの死体をすすりはじめた。 見る間に遺骸はゾンビの山に埋もれ、彼らの足元、体液の隙間から見える朱色だけがモウの名残を残すのみだった。 新鮮な食料にありつく事ができなかった死体は、新しい餌を発見して歓喜する。 破れた肺は、生前の名残を元に愉悦の声を発そうとするも、空気に圧力を与えることもできず、ただ、彼らの歓喜の歌は「ぐぇっ、げぇっ」と言う蛙の合唱に似た音を発した。 ぐげっ。 ぐげげっ。 その光景を目の当たりに、クロウはゾンビの群れに背をむけた。 「……えー。マジで? アレと戦うのか?」 「ほら、ロストナンバー達。ビビってないで、早く何とかするネ。モウを食べ終わったらアイツら、こっちに来るヨ」 いつのまにか、メイは手ごろな椅子に腰掛けている。 「……そりゃ悪かったな」 きまりの悪そうな返事を返し、クロウは皮肉られたか、あてこすられたか、と、複雑な表情で頭をかいてみせた。 「しっかしあんた、えらい元気そうだな。グロいの平気なのか?」 「もちろん苦手ヨ、アタシみたいなうら若きオトメに死体は似合わないネー」 「苦手?嘘付け。」 「ほらほら、おしゃべりしてないでさっさと倒して焼肉食べに行くネ」 そう言ってメイはゾンビの群れを指差した。 彼女の指先には骨を残して、食い散らかされ、文字通りに骨までしゃぶられたモウの残骸がある。 もはやそこで口を動かしていても得はないと悟ったか、茶色の人だかりの中に立ち上がり始めたものがいる。 「……やっぱグロいの苦手って嘘だろ。」 冷めたクロウの呟きに、メイは微笑を持って返答した。 ぴっと電子音がした。 黄金の毛並みに覆われた精悍な顔は、しかし、非常にしかめられている。 その手にはファンタジックな彼の風貌に似合わぬ、小さなストップウォッチ。 60:00:00と刻まれた数字は、直後、59:59:99へと変わり、そのまま時を薄暗い液晶に表示させて行く。 直立歩行する黄金の狼に形容されるオルグ、彼は幻想的な容姿とうらはらにサラリーマンのような事務的な動作でストップウォッチを上着のポケットへとしまいこんだ。 ゆっくりと迫ってくるゾンビの群れ。 彼の顔に風があたり、彼は鼻先を押さえて思い切り目を瞑った。 「オイオイオイ……いくらなんでも数多すぎだろ!? うっぐ、鼻が利く俺にとっちゃこの腐臭なんか拷問レベルだぜ……」 酸味、えぐみ、夏場に卵を腐敗されたかのような胸からこみあげる悪寒。 鋭敏な嗅覚は、それ自身が彼を苛む拷問の小道具と化している。 「とにかく一時間、一時間だけガマンすりゃいいんだろ」 赤いハンカチで鼻先を覆うように覆面し、心底イヤそ~な顔でゆっくりと移動してくるゾンビの群れを眺める。 ストップウォッチを鳴らしてから数十秒しか経っていないにも関わらず、今月分のしかめっつらを全て放出した気分になった。 オルグは後ろを振り返り、声をかける。 「俺は結界張ってるオッサンを守りに行くが、おまえらはどうする?」 彼の後ろから歩み出る椙 安治 (スギ アンジ) は、猛烈な腐臭を前にニヤリと笑みを浮かべてみせた。 清潔さを感じさせる彼の白い帽子に白い服。 ここがインヤンガイの墓場でさえなければ、今の今まで厨房に立っていたと言われても信じられるだろう。 高級レストランのシェフを彷彿とさせる――と言うより、それそのものの服装で、椙は躊躇無く進み出て、つかつかつか、と真っ直ぐ進み、ゾンビの頭をわし掴むと、ぐちゅっと言う音と共に握りつぶした。 「うあ……」 心底イヤそ~な顔で、オルグが目を逸らす。 その様子を見て、椙は何故か満足気な表情を浮かべた。 たった今、ゾンビの頭部を握りつぶした手の中には脳幹、黄土色に変色した脳の一部は辛うじて原型をとどめていた。 「刺身にするにゃ、ちーっと発酵が進んでるねェ」 「おいおいおい。お前、流石にソレは食材にならないと思うぜ? いや、それ以前に喰うなよ……? 腹壊すぞ!?」 オルグの忠告に椙はニヤっと微笑み、手にした脳幹を放り投げた。 弧を描いて落ちるその残骸を、空中でキャッチした影。 地面に着地したそれは、一見して大きな犬に見える獣、ハイエナ。 前足に装着した赤い腕輪が印象的だが、それ以上に、オルグの視線はくっちゃくちゃと動かしている口に釘付けとなっていた。 「食ったのか!? 今のを!? マジか!?」 オルグの叫びに、椙はケケケケケケケケ!! と甲高い笑い声で応じた。 「世の中ッつーかターミナルにはよォ、腐りかけとかぐずぐずの腐肉を好むヤツも居てだなァ。なァ?」 「(なァ? ではありませんわ。腐った肉より、新鮮なのがいいわよ。贅沢は言わないけど)」 獣、もといハイエナことファリアは小声で応じた。 ロストナンバーに連絡を取るメイならともかく、祈祷を捧げる男の前で堂々と喋り、これ以上この場を混乱させてしまわないよう、彼女なりの気遣いである。 意思疎通さえできればOKとばかり、うぃーうけけけ、と嗤い声をあげる。 「おう、ハイエナさんよォ。新鮮な脳みそのお刺身、数ヶ月モンはお気に召したかい?」 「(まぁまぁですわ。酸味がキツいのが難点ですわね。今度は新鮮なモノを調理していただけますかしら?)」 「へぃへぃ、口は驕ったお客さんは大歓迎だぜ。ちぃと待ってな、食いきれないくらいの即興料理を見せてやっからよォ!」 僅かに腰を落とした椙は、そのまま弾かれたようにゾンビの群れへとつっこんでいった。 二人のやり取りを見つめ、信じられないという表情を浮かべたオルグの横から、ファリアもまた群れの中心へと駆け出した。 「うぇ…聞いちゃぁいたが、この臭いマジで半端ねえな……。この中で一時間、か。絶対服以外にも臭い付くよな……」 戦いが始まると、引き裂かれて四散した体は、さらなる悪臭を風へと送り込む。 一心不乱に祈祷を捧げる彼を、ゾンビの群れから守れるよう陣取った。 一生分の辟易した顔を使い果たしたぜ、とオルグが彼の横へと並ぶ。 「良かったぜ。お前だけでもまともな言葉を吐いてくれたな」 「まともな……?」 「ほれ、あいつら見ろよ」 オルグが指差した先。 火炎をまとってゾンビをなぎ倒す椙は、薄暗い墓地で一等、よく目立った。 腐肉が焦げる匂いは、オルグにとってシャレにならないらしく、歪んだ眉の下で目を細める。 その周囲、分身を遂げたハイエナの群れ、二十体のファリアがゾンビと戦う姿はまるでハイエナの群れが人を食い殺している姿に見え、非常に心地悪い。 もっとも、実際は五体ほどのハイエナが、ぐずぐずになったゾンビの肉を引き裂いて胃の腑に納めているのだから、そっちの方がよっぽど胸に悪い。 彼らの獅子奮迅、悪鬼のような活躍でゾンビの群れは祈祷師のところまで近づくまでもなく、大地へと沈む。 「頼もしい仲間じゃねーか」 「絶対そう思ってないだろ」 分かるか? と返事を聞きつつ、オルグは鞘から剣を引き抜いた。 右手にオレンジ色の短剣【日輪】、左手には仄かに青白い長剣【月輪】 すらりとした金属の波打つ刃先に、オルグの意思が研ぎ澄まされる。 「いい武器じゃん。料理とかに使えそう?」 「まぜっかえすな」 椙やファリアは、最前線でいわば撹乱と殲滅を同時に担っている。 それはゾンビの群れに最大の被害を与える戦闘方法ではあったが、ゾンビを通さない戦い方ではない。 畢竟、あぶれたゾンビは一体、また一体を祝詞を奉じる祈祷師へと近づいてきた。 「ここにいて、寄ってきたのを片っ端から潰し続けりゃいいか。マジ作業だな……こんな嫌な作業聞いた事ねえ」 クロウの呟きに、オルグが「同感だ」と応じる。 近づいてきた最初のゾンビに駆け寄ると、オルグの長剣【月輪】は、ゾンビの眉間から後頭部へと貫き通される。 もろくなった骨は易々と貫かれ、ゾンビが崩れると同時に勢いよく振った剣からこげ茶色の汁が飛んだ。 クロウはその液体を避けるため、思い切りのけぞる。 「うお」 「悪い、飛んだか?」 「いや。……どうせ、すぐに諦めることになりそうだからな。服はもう捨てる。覚悟は決めた」 「いい心がけだ。オレはイヤだが」 軽口を飛ばしつつ、二人は思い切り腰を落とし、近づいてくる次のゾンビへと飛び掛った。 「まずは皮や骨を飛ばしてェ!」 椙は大きな声をあげ、ゾンビの腕を掴み取る。 ごきりと肩から関節ごともぎ取った腕の皮を剥ぎ、素手のまま肉を骨からこそげとった。 「次によォく炙りまァす」 蝙蝠を彷彿とさせる羽根から、真紅の炎が零れ落ちる。 いつのまに取り出したか、トラベルギアでもある熊手の先で零れる炎を受け止め、たった今、開いたばかりの肉片を炙る。 目をつく強烈な酸っぱい香りが広がるが、椙自身はニタニタと笑みを浮かべていた。 腕からそぎ落とした肉は高温の炎の炙られると、脂が溶けてじゅうと音を立て、地面へと滴り落ちる。 肉そのものの持つ脂が溶け、高温により蛋白質は凝固し、筋肉だった部位は縮み上がった。 どろどろと溶解していたアミノ酸は胸が悪くなるような悪臭を漂わせる。 「ソースは血と体液とラズベリーの……、ん~、二ヶ月モノってトコかねェ?」 どこからか取り出した瓶の中身は赤く、まるでそれこそが本物の血飛沫であるように焼かれた肉へと振りかけられる。 実際の血は紫がかり、カビとコケに侵食され、鮮やかな赤は見る影もなくなっている分、帰ってベリーのソースは悪趣味に飾り立てられる。 「一品目ェ、ゾンビの手羽先。真っ赤な血飛沫のベリーソースを添えて、ってトコだぜェ。おい、ハイエナァ。食うかい?」 返事も聞かず、彼は空中へと料理を放り投げた。 地面に落ちた肉を近くにいたファリアの分身が口で受け、飲み込む。 「おいおい、ちったぁ味わえよォ?」 「ふん、新鮮な生肉が一番ですわ」 「ひゃぁーっはっはぁぁっ、ここには腐った肉しかないぜェ?」 「慣れてますわ」 ファリアの分身はぶっきらぼうに言い捨てると、再び「自分の群れ」へと戻る。 地を蹴り、勢いをつけ、後ろ足で大きく跳ねると、ゾンビの肩口へ食らいつく。 普通の人より遥かにグズグズとした歯ざわり、舌から鼻先へと抜けるおぞましい腐臭。 がちりと歯が食い止ったのは鎖骨だろうか。 ファリアは一息にそれを噛み砕いた。 ごりっ、ごりっ、と噛み砕き、そのまま嚥下する。 「死体。……それも腐りきったもの。うぃっく、うけけけけけけけけけ。……仕方ないけど、骨まで食うわ。本来、ブチハイエナは生きた獲物を狩る事が多いけどね。どうせ、いつもライオンに横取りされているわよ。たった一時間……、でも一時間。今回のために、何も食わないで来たわよ」 不服そうな声と裏腹に、くちゃくちゃと音を立てて死体を貪る。 馬乗りになり、破れた腹に牙をつきたてて、さらに引き裂き、溶けた臓物をすすり上げる。。 数体の「自分」が、腕に、足に、首に、頭に、それぞれかじりつき、無残な咀嚼をはじめていた。 「自分」に負けじと、「自分」も食事を始める。 ツンと鼻につく喉越し。 それに比べると、先ほどの一口は、そう椙の出した『料理』は別格といえたかも知れない。 「あの人間、いいえ、あの悪魔。わりと腕がいいのかも知れませんわね」 もちろん、生鮮な生肉にはほど遠いのだけれども。 「うぃー……。うけけけけけけけけ」 ファリアのうちのひとつが大きく唸った。 ハイエナなりの咆哮である。 獣の太い筋肉を思わせる腕が、服の下で躍動する。 常人の二倍以上に膨れ上がり、体毛に覆われた腕は締め付ける柔らかな布を容易く引き裂いて顕現した。 「服を捨てるって諦めたら、楽なもんだな」 言い捨てるようにクロウ。 その獣の腕を迫り来るゾンビの肩といわず、顔と言わず、当たるを幸いと突き崩し、なぎ払い、抉り取り、貫いて壊す。 その横では、こちらは二足歩行の獣そのものであるオルグが長さの異なる二振りの剣を華麗に操り、こちらもゾンビを近づけまいと踊るように刃先が舞わせる。 一匹のゾンビが頭部をつらぬかれ、びくんびくんと痙攣すると崩れ落ちた。 「頭を貫けば流石に動かなくなるだろ……うおおっ、ヘンな汁飛んできたっ!? この服気に入ってるのによぉ……、テメェら黒炎で纏めて焼き払うぞゴラァ!」 通常の敵であれば、返り血などは気にするものでもないが、悲しいかな、相手は腐敗の申し子のようなゾンビである。 「オマエはいいよな、服を着替えるって気楽に言えてよ」 「毛皮は大変そうだなー」 「人事だと思いやがって」 「人事なものか、後でモフらせろって約束、まだ覚えてるぞ」 「……おお。そういえばそんな約束もしたな。よし、こいつら片付いたら最初に抱きつかせてやろう」 「シャンプーとリンスしてからな。三回ずつだぞ」 軽口を叩きあいつつも、動きは鈍らない。 だが、彼らの後ろで方陣に囲まれて祈る祈祷師の声は、だんだんと弱まっていた。 無数のゾンビを擁することができるだけの暴霊の大群である。 霊力で拮抗することはもちろん、ここに壁を立てようとするだけで体力は削られるのだろう。 それでも全精力を傾け、一心に祝詞を奏で続けている。 クロウが自分の腕を見つめ、血ならまだしもなぁ、とため息をつく。 「……ぬるぬるしてきた」 「言うな。もうそろそろ時間が経ったはずだ」 不意にオルグの胸ポケットでアラームが鳴る。 戦闘がはじまる直前に彼が仕掛けたストップウォッチが、一時間という時間が経過した事を告げた。 「っと、アラームが鳴った! オッサン、結界張れたか? 張れたよな!? 張れてなかったら承知しねぇぞジジィ!! 張れたんならこんなトコからはとっとと撤収だ! あああああ、もう鼻が限界なんだよ!!」 思わず振り返った彼の眼の前、祈祷師は方陣の中央で横たわり、ぐったりと動かなくなっていた。 「うわ、ちょっと待て。終わったんだろ? 終わったんだよな!?」 あまりの臭気、しかも鋭敏な嗅覚が、オルグの脳髄を根本から揺さ振る程のダメージを与え続けているため、彼の理性もかなり微妙なラインにあった。 駆け寄り、倒れた祈祷師の口元に手をあてる。 わずかな呼吸を感じられたところを見ると、まだ生命はあるらしい。 体力が尽きた、ということか。 「とりあえず、死なれちゃ後味悪りぃからな」 オルグの手から白い炎があがった。 倒れた時に打ったのか、祈祷師の額に浮かんだ痣に翳された白い炎は、僅かずつ傷を癒していく。 「大丈夫だ。死んじゃいねぇ。……けど、こりゃ疲労困憊もいいところだな」 オルグの背後、数メートルの地点でクロウがゾンビを屠り、怒鳴る。 「うおおおおおいっ。俺一人に任せるなっ!」 声に呼応したか、ファリアの分身が二体ほど駆けつけ援護の体勢をとった。 もっとも、真横で獣が腐った死体を貪る状況は、たとえ味方でも心地よくはない。 クロウが大きく首をふって、まだまだ消えないゾンビの集団を睨む。 「そんで、結界は?」 「まだネ。げーむおーばー、ヨ。そのキモいオッサン。ただの役立たずだったネ」 メイは「仕方ないネ。そこらへんの町が襲われてる間に逃げるヨ」と祭壇から宝石、金属の類を自分のバッグにつめ始めた。 「仕方ねェなァ、てめェら後でオレの料理食えよ?」 椙がにやぁぁっと笑顔を作る。 「いやだ」 クロウの返事に再びケケケと言う笑い声をあげて聞き流し、椙は自分の腕を引き裂いた。 血飛沫がぼたぼたと垂れ流す。 「うおっ、椙、だったか。おまえ、そういう……。聞いた事があるが」 「クケケケケケケ! そうそう、オレだってそれくらいの事ァ、できンだぜェ?」 「……できれば、そういう性癖は戦闘の後にだな」 「何が性癖だァァァーっ!!!!」 思わず叫んだ椙の手に赤いチョークが生まれていた。 血液を結晶化させた、悪魔の小道具のひとつである。 椙はクロウの前で、自らの唇を指でなぞってみせた。 「口に濡りゃ、艶っぽくなるかも知れんゼェ?」 「そりゃいい。友人にそういうのが好きなヤツがいる」 「ケケっ! オシゴト済んだらクれてヤるよっ!」 蝙蝠を彷彿とさせる黒い翼から煙をあげ、燻っていた祭壇に炎を点す。 これまでと比較するまでもなく、猛烈な火勢が黒煙を舞い上げて空を焦がした。 「燃えろ、燃えろ!! ケケケケケっ!! 料理も結界も、火力がイノチだぜェェ!!!!!」 心底楽しそうに笑い声をあげる。 「炎か、火力があればいいんだな?」 「オウよ。燃やせるモン、全部持って来いヨ!」 「任せろ」 灼熱の赤の中点に、一瞬、黒い空間が浮かび上がった。 高温の純然たる空間が護摩壇の祭具すら、炭化させはじめる。 「これくらいでいいか?」 思わず振り返った椙に、ニヤリと微笑んだのは黄金の狼。 護摩壇を受けて瞳に黒い炎の照り返しを宿し、椙に親指を立てた。 「ヤるじゃねェの。オルグだっけか? アンタ、人狼かよ? 眷属にしてやろうかァ?」 「冗談はさっきの料理だけにしておけ」 「ケケケケ、さっきの料理が冗談なら、これからのフルコースは悪フザけが過ぎンぜ!? 心臓の弱いヤツぁ、一歩前へ出な! 止まった瞬間の心臓を無理矢理動かしてから、活け造りに変えてヤんぜェ!」 護摩壇の炎の前、鮮血で作ったチョークで禍々しい紋様を描いていく。 完成までに多くの時間はかからない。 ぴ、ぴ、と指差して四方を確認し彼は、完成だ、と呟いた。 「よォーっし! 押し返せェ!!!!」 椙の叫びと共に、散っていたファリアの群れがゾンビの体と言わず、足と言わず、牙と爪で雪崩のように襲い掛かった。 ハイエナの突撃を受けたゾンビがあまりの勢いに吹き飛ばされる。 ことここに至り、百を超える同士が崩れ落ちても、ゾンビは退却しない。 ――ならば。 「実力で押し返すまでですわ」 ファリアの一匹が鋭く鳴いた。 同時に、二十の分身が雄たけびをあげる。 直後、突撃した彼女『達』は文字通り、ゾンビを押し返した。 「俺もやるぜ。っしゃあ! ホームラァン!!」 クロウは棒切れでゾンビの頭を打ち返したようだ。 「おい、えげつないぞ」 倒れていた祈祷師を背負ったのはオルグ。 目でクロウに先を合図する。 その視線の先に、椙の炎が結界を編み上げていた。 炎が地面と垂直に面を作る。 赤と黒のストライプという極彩の壁は弾けるように消えたが、ゾンビはその壁のあった場所の前で立ち尽くした。 「ケケケケ、封じられた空間の中で、一生さまよいやがれ。気が向いたら空間ごと消滅させてヤるぜ!」 炎を前に椙は両手を広げ、背を逸らせてクケケケケケ! と狂気染みた声をあげる。 椙の高笑いにメイとオルグが顔を見合わせた。 「……あの白高帽子も、正義の味方に見えないネ」 「オレもそう思う。おい、ハイエナ。もういいぞ。脱出だ! っつーか、オレはもうダメだ。オレのことはいいから勝手に逃げろ。オレは誰よりも先に、この臭いのしねぇ所まで走る! クロウ、先陣は任せた、祈祷師はオレが運ぶぜ」 オルグの叫び。 椙の高笑い。 最後の貪りを吼えたファリアの鳴き声。 そして、それらの中にあって「なんで俺はここにいるんだろう」という哲学的な問いが頭を駆け巡ったクロウ。 四人の思惑はそれぞれ違っても、とりあえず、後は逃げるだけ。 「あ、ちょっと待てよ。結界の外に出てるゾンビはどうするんだ? ほっといたらそのうち立ち上がってくるんじゃねぇか?」 「おいしくありませんでしたわ」 「……あ、そういうことね」 ぺちゃり、と舌なめずりしたファリアは、満腹ですわ、と欠伸をひとつあげた。 「あの……」 ファリアが口を開く。 インヤンガイのド真ん中、彼女は必死に犬のフリをしていた。 クロウとオルグは「シャワー!」と声をあわせて銭湯へ駆け込んでいったし、椙はあれだけ返り血や返り汁を浴びたはずなのに清潔である。 料理人は清潔じゃなきゃなァ? という理屈らしい。 ファリアにはよくわからなかったが、まぁ、そういう事なのだろう。 メイはと言えば、逃げ回ったおかげか特に被害はない。 「モウの遺産、ちょっとくらいは役に立ててやるネ」 どうやら、服だけは良いものに買い換えたようだが。 銭湯から出てきたオルグの毛はふさふさと風になびいていた。 ようやく人心地がついたという表情の彼の頭に、後ろからふさっと手が乗せられる。 しばらくもふもふと動かしていた手はクロウのものだったようだ。 「よーっし、今度こそモフったぞ」 「やれやれ」 満足そうな表情とともに、二人はぱちんと手を打ち合わせる。 けらけらと笑い始めた二人の横で、椙が腰を屈め、ファリアと視線をあわせた。 「アンタ、さっき何か言いかけてなかったか?」 「ええ。あの、この後の焼肉。あの、……たぶん、私は店に入れませんから、焼肉弁当のお持ち帰りをお願いしたいと思いますの」 「へっ、そんなコトか。だったら気合いれて俺が作ってやるぜ」 「本当ですの?」 目をきらきらさせたのはファリア。――だけ。 後の三人は、……とりあえず、戦闘中の「料理」を思い出し、手近な焼肉店へと飛び込むのだった。
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