白いタイルの敷き詰められた部屋は、さながら研究室のようだった。 30畳程はあろうか、壁も白で統一された窓のないその部屋は、無機質だと感じられる。 真ん中にポツリと置かれているのは三人がけソファとローテーブルのセット。ワインレッドのソファと黒のローテーブルは酷く目立つ。 異様さで目を引くのはソファとローテーブルに向かい合うように置かれたロッキングチェアだ。それだけ見れば磨き込まれた焦げ茶色の、時代を感じさせる椅子だが、その上に座らされているのは白い人形なのだ。 木綿の布でできた袋に何か入れているのだろうか、それぞれ頭、胴体、手足に見立ててた部位が銀色の紐で括られている。椅子に寄りかかるようにして座らされているが、顔の部分は真っさらなのでなんだか少し、不気味だ。「その手をとりますか? 夢幻であったとしても?」 声をかけたのはウィル・トゥレーン。ターミナルでトゥレーンという店をやっている主人だ。 本来、このラボの持ち主はウルリヒのはず、その困惑を読み取ったウィルは微笑んだ。「『ヒトガタ遣い』であるウルリヒから仕事を任せられたんです。御安心ください。すでに『ヒトガタ』には魔力が込められているので通じよう通り発動します。御存じのように『ヒトガタ』が変化したその人は、記憶にあるまま。顔も、声も、温もりさえも。勿論、会話も成り立ちます」 夢でいいから会いたい、話をしたい、現実に会っていない人物でも可能という。例えば想像上の人物や、理想の人物なども思えば手に入る。 ただし、イメージが曖昧だと、望んだものには変化しないというから注意が必要だ。 夢。 どこまでも優しく、ときには残酷な。それをより完璧なものへと。「そうですね、せっかくです、私がチェロを弾いてもよろしいですよ? そうすれば、あなたが想う気持ちが人形に宿るかもしれません。そう、あなたの強く考えた過去に音と人形は反応し、そのときのことを再現してくれるでしょう」 一.その人と会えるのはこの部屋の中だけです。 特別必要なものがあれば、ある程度は持ち込みを許可されている。 二.『ヒトガタ』がその人の姿をとるのは、基本的には30分だけです。 延長も短縮も可能だが、それはウルリヒにしか不可能なりで今回は30分きっかり。 三.その人と会っている間の出来事は、『ヒトガタ』に記憶される。 四.『ヒトガタ』がその人に姿を変えるには、あなたの記憶が必要です。 あなたの記憶の中にあるその人のイメージや過去の出来事を読み取り、『ヒトガタ』はその人の形を取ります。 五.その人は、本物のその人ではありません。 あなたの記憶やイメージから再構成された、ダミーであることをお忘れなく。 しかし、ウィルのチェロによってその『ヒトガタ』は思う過去の感情をそのままに宿す。「たとえば、あなたがその人物との喧嘩したことを思いだして手をとれば、その過去がそのまま再現されます。やり直したり、そのときのことを繰り返したり……けれど注意してくださいね? なぜなら、所詮は夢なのですから」 ウィルは微笑んだ。
薄青緑色の瞳を細めたクロウ・ハーベストはウィルの言葉に苦い笑みを口元に浮かべた。 空色の髪を白いヘアバンドで後ろに撫でつけ、ひょろりとした手足、身長は均等がとれてモデルと言われても納得できる男性の理想体型、右手首についたトラベルギアの輪だけがやや大きすぎてアンバランスという点を除けば装いも今、流行のものでセンスがいい。 「ただ、会いたいんだ、二人きりで」 「了解しました。では、ヒトガタにどうぞお手を、はじめましょう。終わったらお呼びください。後片付けは私がしましょう」 ウィルが示すヒトガタをクロウは好奇と多少の恐怖を交えて見つめる。右手がゆるゆると躊躇いがちに伸びる。 背中にウィルの視線を感じる。一応、ヒトガタが出来るまでは見守るつもりらしい。 ごくりと喉を鳴らす。なぜか心臓にひどく冷たいものを押し当てられたような不安が込み上げて、いやな具合に高鳴る。 触れると手のひらにひどくいやな感触が広がる。これが、彼女になるのかという不安とやはり本物ではないのだと、はっきりと告げられた気がした。それでも、今更ここでやめることはできない。 クロウは眼を伏せる。 握りすぎてつぶしてしまわないように力加減に注意しながら頭のなかで彼女のひとつひとつの姿形を脳裏によみがえらせていく。 太陽の下がよく似合う、金色のきらきらした髪の毛、クロウの瞳よりもやや濃い、海色の瞳。 髪の毛はポニーテイルにしていつも揺れていた。その髪の毛を下ろすと、どきりとするほどに女性的になる。 クロウよりもいくぶんか低い背丈、健康的に焼けた肌は活発さと芯の強さを感じさせ、キュートで思わず抱きしめたくなる可愛らしい容貌 ジェシカ ターミナルに来ても一度だって忘れたことのない。いつだって覚えている、大切な人。 クロウを人間でいさせてくれた存在 朱色の血、蜘蛛の巣のように広がる髪の毛、重なり合った――フラッシュ、バック、ロスト 「!」 クロウは頭に痛みを覚えて、はっと目を開けた。何か、とても悪い記憶が一瞬通り過ぎて消えた。気がした。 「あ」 握りしめた手は温かい。見つめる瞳は碧色で、優しさと慈愛深さを滲ませてクロウを包むように微笑む。 動きやすくてチャーミングな白のブラウスにミニスカ姿。 「ジェシカ」 「クロウ」 声も、ジェシカだ。 「……おはよう」 クロウは微笑む。ジェシカも微笑む。 「おはよう、クロウ」 クロウはジェシカの手を握ったまま、あいている手を伸ばしてゆるゆると壊れ物のように抱きしめる。ジェシカはクロウの胸の中に体を預けながら、自分もあいている手でクロウを抱擁した。 当たり前の挨拶。額にキスを落とすとジェシカもクロウの頬に手で触れて、キスを返した。 「立ったままってのも変だよな? 座ろっか」 「うん!」 クロウが振り返ると、部屋には自分とジェシカの二人しかいなかった。いつの間にかウィルは出ていったらしい。 クロウはジェシカの細い手を壊れやすい宝のようにそっと引いて、ソファに導く。 クロウが腰かけると、ジェシカはその右手に甘える子猫のようにすり寄るのに自然と右手をジェシカの肩にのせて、抱き寄せる。 あたたかい。 「そうだ。御菓子があるんだ」 「本当? 私の好きやつもある?」 「もちろん」 塩味のポップコーン、コーラと二人で話すときの定番をテーブルに用意していた。 ジェシカは嬉しそうにコーラに手を伸ばすとまずはクロウにコップを渡して、自分の分をとって膝の上にはポップコーンのはいった丸い器をのせた。 ジェシカはクロウを見て微笑む。長い髪の毛がさらりと揺れ、かきあげる。 「最近さ、面白いことがあったんだ」 「なに?」 「それがさ、仲間たちとチョコレート作りのためにある世界にいったんだけど、そこで殺人カカオがあってさ」 「なにそれ」 ぷっとジェシカは笑うのにクロウは手振り、身振りをくわえてあれこれと話す。 ジェシカは身を乗り出して聞き役にまわり、ときには目に涙すら浮かべて笑い転げ、ポップコーンを食べて、コーラを飲む。 クロウも笑う。平和で、面白くて、楽しい話をいくつもいくつも思い出して。 違う。いつもは逆だ。クロウはいつもジェシカの話の聞き役だった。 ――聞いてよ、クロウ ――面白いでしょ? ジェシカは毎日起こる可笑しなことを語る天才だった。彼女が話すと、その現場にいなかったのに見たように感じられるほど巧みに説明してくれる。 けど、もうジェシカにはしゃべるネタがない。 なにもかも同じなのに、小さな綻びがクロウの胸を締め付ける。楽しんでいるのに冷静な頭が冷たく現実を受け止める。 違うんだ。これは クロウはそれでも目の前のジェシカに笑いかける。ジェシカはクロウの知るジェシカで、笑うとキュートなえくぼが出来て、くすくすと可愛らしい声がクロウの耳を愛撫する。 クロウは無意識にジェシカの手をとっていた。 フラッシュ、バック、ロスト――赤鉄色の水たまり、広がる髪の毛、折り重なった二人の少女 じりりっ! 不意に聞こえてきた音にクロウはびくっと肩を震わせた。約束の時間の一分前に鳴るようにセットした目覚まし時計。夢から覚めた瞳で、それをじっと見てクロウは下唇を噛みしめる。 「クロウ?」 ジェシカは微笑みながらクロウの顔を覗き込む。クロウはジェシカを見つめる。なにもかも同じ。けれど違う。 目が合う。ジェシカの愛情に満ちた瞳。クロウは衝動的に両腕を伸ばして抱きしめていた。 あたたかい、 やわらかい けれど ジェシカの匂いはしない。彼女の柔らかな香水の匂いは目の前のジェシカからはしない。それが真実を語っている。 「クロウ?」 ジェシカの声。 手が伸びてクロウの頭を撫でる。 「……っ、ジェシカ」 クロウはゆるゆると顔をあげてジェシカの顔を覗き込む。目があう。クロウはゆっくりと首を伸ばしてジェシカの唇に自分の唇を押し当てた。 さよならと、告げたくない。 けど コイツはアイツじゃない。アイツに届かない。 ぐらりと、それがクロウの腕のなかに崩れ落ちる。それはもうジェシカの形もぬくもりも声も出はしない。 夢が覚めた。 クロウは虚ろな視線をそれに向け、そっと撫でた。 「……さようなら」 ゆっくりとそれをソファの上に置いて立ち上がる。 いつか、俺も帰るのか? それとも再帰属して進むのか? なにをしていいのかもわからないのに? それとも 望むのはただ当たり前の、大切な人たちと笑いあう平凡な日々。 けれどクロウには力がある、これは普通ではない 力があるのに、どうしてなにもしないの――ずっと夢はクロウを責め続ける。 ジェシカ、弱い俺をいつもみたいに叱咤してほしかった。けれどそれ以上にその両腕で黙って抱きしめて、包んでほしかった。 ここは夢の場所。 だったら少しだけ、まだ進めない自分を、少しだけ癒してほしかった。 「このまま消えるのかな」 ぼそっと呟いてクロウは苦笑いすると虚しい夢の残骸から背を向けた。 ささやかな願いが叶ったあと、心にはさらなる虚しさが待っていた。
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