本日は、チョコレート業界屈指の掻き入れ時――もとい、恋する乙女達の決戦日、セイント・バレンタインデー! どこが「聖なる日」なのかとか、難しい事を考えてはいけない。想いを抱く相手がいて、告白する切っ掛けがある。そここそが重要なのだから。 市内の中学校に通う田中志乃も、今日に備えて闘志を燃やしていた一人だった。年明けから流行のリサーチを始め、実際の準備は一週間前から。最大の難関であった、当日が日曜日という点。これもポジティブに考えれば、学校ではなくキチンと待ち合わせて渡すのだから、あげる方も貰う方もそれなりに本気だと察する事ができる――はず。お願い、察して! 意中の相手、安永君に電話をした時は、流石に心臓が破裂しそうだった。学校だと友達の前なので無理だったのだが、電話越しに一対一の会話というのもかなり緊張するのだと後悔したものだ。「うん、いいよ」 呆気無いくらいの返事。しかし彼女は心の中で、オリンピックの金メダリストも真っ青なガッツポーズをしたのだった。 待ち合わせ場所は市営の動植物園。お世辞にもイケてる場所ではないが、二人の共通する点が「動物好き」である事でこうなった。 動物を見てお互いリラックスして、帰りに街で食事。「楽しかったね」と優しく笑う彼に、夕日の中で手作りチョコを手渡すのだ。完璧! 我ながら完璧過ぎる……! そう、計画は完璧だったのに……「ま、待ってぇ!」 志乃の懇願するような声に待つわけもなく、その影は小馬鹿にするように鳴き声を上げながら逃げていった。 一瞬の出来事だった。どこからともなく現れた猿が彼女の手からバッグを奪っていったのだ。当然、その中にはチョコの包みも入っている。 おのれ、エテ公が! 霊長類としての格の違いを見せてやる! 怒りと使命感に燃え、追い掛ける彼女は気がつかなかった。 厳重に檻の中に囲われ、毎日恒例の「ふれ愛タイム」でもないのに、どうして猿が外で自由気ままに活動していたのか――●「『お猿さんみたいね』と言われると、男性が落ち込んだり、逆に興奮したりするという話は本当ですか?」 それは多分、どこかで頭を打った人だから病院へ連れて行ってあげて下さい。 物静かで、どこか世間ずれしている銀髪の女司書は相変わらずであった。 そして、いきなり仕事の話になるのもお約束なわけで。「壱番世界に『ディラックの落とし子』が浸食しました」 端的に告げる言葉に、ロストナンバー達の緊張が高まる。「日本という島国の、動植物を集めて鑑賞する施設のようですね。生産性は無さそうに見えるのですが、現地の人々にとっては必要な施設なのでしょう。なかなか興味深い文化です」 『落とし子』は本来、世界の外に広がる『ディラックの空』以外に居場所が無い。それはつまり、どの世界に存在するにしても、依代となるべき肉体が必要だという事になる。「寄生されたのは、同施設内にいる猿です。群れの中にいる上、普通の動物に擬態化している可能性も高い為、まずは特定する事が問題でしょう」 そして、寄生を果たした『落とし子』は周囲の普通の猿をも操る為、一筋縄ではいかない事が予想される。「深刻な被害や異形化が始まるまで、現地の人々の避難は難しいかと思われます。予想外の事態も待ち受けているかもしれませんので、お気をつけ下さいませ」 す、と差し出されるチケット。 こうして、壱番世界は地球の片隅で、二つの決戦が幕を開けるのだった。
●バレンタインなんて関係無い! 2月14日。壱番世界の片隅、小さな島国のこれまた小さな動植物園は、冬の冷たい風と穏やかな陽射しの中で、いつもと変わらぬ営業を行っていた。 世間的にはバレンタインデーという大イベント中だが、市営の地味な動植物園ではカップルの来場者も数える程で。せいぜい、売店で動物の形をしたチョコレートを販売するくらいだ。 デートの予定も無く勤務のシフトが入った女性従業員などは、半ば意地になっていつもの五割増しで仕事に励む有様である。 「男が何よ、男が何よ! 男がな……に……」 ふと上げた顔が、ほんのりと朱に染まった。 「ふむ。ここが件の施設か」 爽やかな青色に縁取られた純白の布地が、軽やかにはためく。 入場ゲートをくぐったアインスの姿は、ただそこにあるだけで場違い感を存分に振り撒いていた。髪や瞳の色だけならば外国人観光客にも見えるが、舞台衣装もかくやあらんといった感じの服装と、何より洗練された身のこなしが周囲の風景から浮き上がっている。 だが、そんな事はどうでもよろしい。思わぬ形で、干上がった乙女心に潤いが―― 「コレット、すまないが案内を頼めるかな? こういった場所は初めてなのでな」 「私も、幼稚園の遠足以来だから……」 長身の陰からぴょこんと出てきた姿に、従業員の持つ竹箒がみしり、と軋む音を立てた。 腰を越えて伸びる豊かな金髪に、質素ながらも上品な印象を抱かせる白のワンピース。アインスのインパクトが強過ぎて目立ってはいないが、ほとんどの男が彼女の姿にはっとなる事だろう。 悔しい。悔しいが、かなりの美少女だ。そしてお似合いである。自分の日に焼けた肌と筋肉のついた二の腕では太刀打ちできない。 がっくりと打ちひしがれる従業員を不思議そうに見ながら、新たな人物が案内板の前に立った。藤枝 竜は表記されている動物の名前をざっと一望すると、期待を込めた眼差しを向けて従業員に話し掛ける。 「ねえ、チュパカブラはどこですか?」 「は?」 聞き慣れぬ単語に、従業員の目が点になる。しばらくの沈黙の後、ようやく情報を脳味噌の隅から手繰り寄せる事ができた。でもこれは…… 「えーっと、UMAですよね? それって」 「はい!」 元気良く頷く竜。従業員の頬を、何とも形容し難い汗が伝った。 「……もし展示していたら、世界中からお客さんが押し寄せてくるんじゃないかな」 「いないんですかぁ。――あ、じゃあフクロオカミは?」 これまた聞き覚えの無い名前だが、チュパカブラよりは早く思い出せた。一応は、真っ当な動物の範疇だ。だがしかし。 「……絶滅していると思うんだけど」 自分としては当たり前の事を言ったつもりだが、目の前の少女は激しいショックを受けたらしい。 「えー! いないんですかぁ!?」 今にも泣き出しそうな表情を浮かべ、案内板と睨めっこしながら何事か考えていたかと思うと、 「……あの……じゃあ犬は……?」 いきなり大幅にグレードダウンした。これはこれで、正反対の理由で動物園にはあまりいないと思うのだが。従業員は分岐する遊歩道の一つを指差し、 「サーカスショーの前後三十分間は専用のドッグランで一緒に遊べるけど、まだ時間があるわね」 「そうですかぁ……」 気落ちした様子で歩き始める竜。「悪い事をしちゃったかな」と思いながら従業員が見送っていると、遥か前方で手を振る姿があった。 「あ、竜ちゃんじゃ~ん! クロウさんも。ヤホー!」 「綾さんじゃないですか!」 二人は小走りで歩み寄ると、手に手を取り合ってキャイキャイとはしゃぎ始めた。どちらもこの辺の学校の制服じゃないみたいだけど、友達かな? 懐かしい雰囲気……竜ちゃんはさっき話した彼女だとして、クロウさん? 「よう」 軽く手を上げながら二人に近づく青年の姿を認めると、従業員の瞳が再びハートマークに染まった。 まるでモデルのような長身痩躯に、どこまでも高い青空を思わせる髪がさらりと揺れる。アインスのような貫禄は無いが、これはこれで母性本能を―― 思わず嫉妬する事も忘れ、しばし悦に浸る従業員を、通り掛かった来場客が不気味そうに見ていたとかいないとか。 ●君はFunky monkey baby? 「ま、待ってぇ!」 まだ幼さを残す少女の悲鳴に、廻 イツキは足を止めて振り返った。 訝しげに細める瞳の見つめる先で、必死の形相を浮かべた少女が猿を追い掛けて走り去っていく。 「猿……まさか!」 思考を巡らす前に、彼は駆け出していた。 「おい!」 ロストナンバーである事を差し引いても、少女とイツキでは体力の差は明らかだ。あっさりと追いつき呼び掛けると、少女は猿を睨みつける視線はそのままに反応を返してきた。 「何よ!」 「あのバッグ、お前のか? ――っと、俺は廻 イツキだ」 「そうよ、大事なチョコが入ってるの! 今日が何の日かは知ってるでしょ!? これ以上言わせないで! ――田中志乃!!」 思い出したように名乗るイツキに、少女は半ばヤケクソ気味にそう怒鳴った。 もちろん知っている。彼にとっては、自宅に引き籠ってひたすらベーグルを作っていたい一日だ。それにしても、あの中にあの甘ったるい茶色い悪魔が…… 一瞬眉をしかめるイツキだったが、目の前に迫っている危機を思えば些細な事。ぐっと不快感を押し殺し、なおも甲高い鳴き声と共に逃亡を続ける猿へと視線を移す。 「あれが『落とし子』なのか、操られているヤツなのか……あ、こっちの話な」 志乃の視線を感じ、言葉を濁した。まぁ、こちらの事情を話しても信じてはくれないだろうが、パトカーや救急車を呼ばれてしまうかもしれない。イツキ自身、当事者でなければにわかには信じがたい話だ。 「それはそうと――」 このままでは、目の前の少女が危険に晒されてしまう可能性が高い。どうしたものかと悩みながら、イツキは次の言葉を探していた。 一方その頃。動物園内を回るアインスとコレットは。 「あ、象だ。おっきーい」 「なるほど、生体実験が行われたため、鼻が長くなってしまったのか……可哀相に」 「え?」 そして。 「あれはキリンね。餌あげてみる?」 「生体実験の結果、あんなに首が伸びてしまったと言うのか。嘆かわしい……」 「……えーっと」 取り敢えず。コレットは顎に手を当ててしげしげと動物を眺めているアインスに向き直り、恐る恐る尋ねてみる。 「……何か勘違いしてない?」 「む? 何をだ?」 「ここは動物園なんだけど」 すると彼は自信たっぷりに大きく頷き、 「うむ。生体サンプルを集め、地下では数々の陰惨な生体実験が行われている公共施設なのだろう? 思ったより和やかな雰囲気だが、偽装されているのか。その悪行を白日の下に晒す瞬間が楽しみだ……クックック」 「違うわよ……!」 説明するのにたっぷり十分は掛かってしまった。周りの客の視線が痛い。 我に返り真っ赤になるコレットの隣で、アインスをしきりに首を傾げている。 「動物などその辺に沢山いるだろうに……わざわざ集めて愛でるとは。壱番世界には変わった風習があるのだな」 これはこれで、壱番世界出身者としては変人扱いされているようで複雑なものがあるが。 実に対象的な様子の二人の前を、一陣の風が横切っていった。 「ウキャ、ウキャキャッ」 「こら待てー!」 女物のショルダーバッグを持って逃げるニホンザルと、拳を振り上げて追い掛ける少女。 「いいから俺に任せとけって。悪い事は言わないから」 そして少女に合わせて走りながら、何やら必死に語り掛けている青年の姿。残念ながら、少女が説得に応じる様子は無さそうだ。 「だったらあなたも追い掛けてよ! 一人より二人の方が捕まえ易いでしょ!?」 理に適った正論だ。まさか本当の事を言うわけにもいかず、青年――イツキは渋面で猿を見遣る。 (とっとと捕まえて、避難させるか……) これが本命の猿だとしても、自分が守れば良いだけの話だ。自分の手に負えなさそうなら、この小娘を担いで一目散に逃げよう。 一気に加速するイツキの勢いに、猿も心なしか真剣な様子で逃亡を始めた。 まるで嵐のように通り過ぎていった光景に、コレットとアインスは思わず足を止めて見送ってしまっていた。 「お、追い掛けなくちゃ!」 パン、と胸の前で手を合わせたコレットが慌てて追い掛け始める。続いて、アインスも颯爽と駆け出した。 「レディの危機とあれば、助けないわけにはいかないな。――ふむ。ただのチョコレートのようだが、レディにとっては非常に大切な贈り物らしい。毒殺用か?」 早速少女の思考を読み、おそらく全く見当外れの事を呟いているアインスを見上げながら、コレットは新たな危機感を抱いていた。 (もしかして、お仕事の事完全に忘れてる……?) そして綾、竜、クロウの三人はといえば、園内のイートインでテーブルを囲んでいた。 「『ふれ愛タイム』は二時から始まるんだって。色んな動物が出てくるから、そこに紛れ込まれると厄介かも」 パンフレットを広げる綾だが、傍らに置いたリュックから顔を出す彼女のセクタンが身じろぎする度に、周囲からは好奇心に満ちた視線が注がれている。 「アヤ、エンエンは隠しておいた方がいいんじゃないか?」 クロウが指摘するも、彼女はとんでもないと言わんばかりにぶんぶんと首を横に振り、 「セクタンをパスケースに仕舞うなんてムリ! 考えらんない!」 「……そうか」 まぁ実際のところ、どうしてエンエンが注目を浴びているのか、彼にはいまひとつ分からなかったし――狐の姿なのは元より、チロチロと燃える火が首元から見え隠れしているのが大きいのだが――、どうでもいいと言えばどうでもいい事なので、あっさりと引き下がる。 「綾さん、エンエン大好きですからね」 楽しそうに笑った竜がストローに口をつけた。三人の前には、それぞれにハンバーガーとドリンクがトレイに載っている。これからの事を考えたら、腹ごしらえは非常に大切だ。 「で、どうする?」 「とにかく『落とし子』を見つけないといけないから、まずは猿山かな?」 「ですね。綾さん、どちらが早く見つけるか勝負ですよ!」 「私だって負けないんだから! ――あ、ちょっと待って! 先にお土産の鳥のヌイグルミ買わなきゃ」 「なるほど!」 「そうなのか?」 脱線しても修正する人間がいないものだから、話が横道に逸れる逸れる。いつの間にか、お互いの近況報告になってるし…… 「それでですね――」 身振りも交えて話していた竜の手から、ハンバーガーが突然消えた。 「え?」 反射的に追った瞳が、ハンバーガー越しにこちらを見る視線とぶつかる。 「ウキャ」 「……ファージ発見!」 つまり、殲滅して良し! 独自の理論――個人的な恨みともいう――で断定した竜は椅子を倒しながら立ち上がると、怒鳴り声と共に猿を追い掛けていった。おぉ、小さな体が(私怨に)燃えている。心なしか、周囲の風景が歪んで見えるようだ――と思ったが、どうやら目の錯覚ではないらしく、本当に陽炎らしきものが起きているようだ? 「追うのか?」 尋ねるクロウに、拳を握りながら頷く綾。 「もちろん!」 若干、まだ食べ終えていないハンバーガーが心残りだったりもするのだが。迷いを振り払うように勢い良く持ち上げたリュックの中では、エンエンがぬいぐるみのフリをしようと不自然に固まっていた。 ●日曜日の決戦 騒ぎは徐々に大きなものへとなっていった。 園内の各所で報告される猿の被害に、猿達が本来いるはずの猿山へ向かった担当飼育員が見たのは、大きく裂かれた金網。網といっても、猿の悪戯で壊れないよう、その頑丈さは折り紙つきだ。力任せにこじ開けられたような痕跡から、人間が工具を使ったとも考えにくい。 前代未聞の事態に動植物園側の対応は遅れ、身の危険を感じた来場客は被害を受ける前にと避難を始めていた。たとえ被害に遭っても、怪我するよりはマシだと泣き寝入りを覚悟する者がほとんど。田中志乃のように憤然と追い掛ける人間はいなかった。 そんな中、早足で出入り口へと急ぐ人々の間を縫うようにしながら、全く正反対の方向へ駆けていく者達がいる。 「このっ」 イツキはトラベルギアを投擲して果敢に攻撃するが、猿は驚異的な反射神経でもってその全てをかわしていた。 行動を共にしている志乃が、驚きと焦りの混じった顔を向けてくる。 「っていうか、それベーグル? 何でベーグルがフリスビーみたいに飛んでるの!? それに、私のバッグに当たったらどうするのよ!」 そんなヘマはしないと言いたいところだが、保証はできないし納得させるのも面倒だ。ならば、と今度は一気に距離を詰めて捕まえようとするが、猿は街路樹やフェンスを巧みに利用して手の届かない位置へと逃げ延びる。 (間違いない……!) 疑念は確信へと変わっていた。ファージが寄生しているのはこの猿だ。反応が並外れている。 「ならば、これはどうかな?」 少し遅れて追跡していたアインスが、走りながらも器用に腰のホルスターから拳銃を取り出した。動き回る猿に狙いを定め、引き金に添えた指に力を込める。 「だ、駄目ッ!」 その腕にコレットが跳びついた。アインスは寸でのところで自らの指を制する。 「コレット、危ないではないか。暴発したらどうするつもりだ?」 続けて「誤射の心配なら無用だ。この銃はホーミング機能が付いている」と告げるが、コレットは両腕を絡めたまま首を横に振り、 「他の動物が驚いちゃう!」 大きな音を嫌う動物は多い。野生の中で危険を回避するには、音は重要な要素だからだ。コレットはそれを指摘している。 「ふむ。では、どうする?」 「えっと、えっと……」 コレットは足を止めると地面に屈み込み、自前の羽ペンで何やら描き始めた。やがて、硬いアスファルトから浮かび上がるように複数の巨躯が現れる。 それを見上げ、アインスはぽつりと一言。 「……随分と可愛い熊だな」 「だ、だって、細かく描いてる時間なんて無いんだもの……!」 真っ赤な顔で弁解するコレット。必要最小限の線と点で構成された熊っぽいモノは、一昔前の3Dポリゴンを思わせるユーモラスな姿を揺らしながら、猿を追い込むべく動き始めた。 「できれば挟み撃ちにしたいが、ここは少々広過ぎるな……」 再び足を動かしながら、アインスはどうしたものかと思案する。そんな彼の耳に、避難する人々の雑踏とはまた違った声が届いてきた。 「ドカーン!」 土管? 確かにあの中に追い込めれば、逃げ場は無かろう。そのまま両端を密閉すれば、窒息死も狙える。うむ、それは実に愉快だ。クックック…… アインスの迷走は続く。 「ドカーン!」 燃え盛る小振りな剣を手に竜が叫べば、我が物顔で暴れていた猿達が一斉に散り。開けた道を、彼女は盗られたハンバーガーまっしぐらに駆け抜けていく。 操られている為か、すぐに集まってくる猿達の本能を、今度は綾のバラ撒いた蜜柑や袋菓子が刺激した。 「キミらはオヤツでも食ってなさい!」 それにしても、この追いかけっこはいつまで続くのだろうか? 手持ちのお菓子が心許無い。 そんな胸の内が顔に出たのか、クロウは無言で頷くと足を速めて大きく迂回を始めた。正面、あるいは側面に回って猿の動きを妨害するつもりなのだろう。 綾も力強く地面を蹴ると、クロウとは別の方角から猿を猛追した。鼓動が早まり、筋肉を満たす乳酸の苦しみとは裏腹に、風を感じる心は歓喜に打ち震える。 丁度三角形を描くように猿を包囲すると、まずは綾が仕掛けた。 「しゅっ」 鋭く息を吐きながらの回し蹴りを、猿は大きく跳び上がってギリギリのところで回避する。 そのさらに上を押さえるように跳び掛かりながら、クロウはトラベルギアで自らの腕を―― 「……ん?」 違和感を覚えたクロウは思い直すと、既に変化を始めているのとは逆の腕をにゅっと伸ばした。もちろんその動きは常人と比べれば早いものの、あっさりと猿を捕まえた事に拍子抜けする。 「あれ?」 クロウに続こうとしていた竜も目が点だ。取り敢えず、クロウはすっかり怯え切った様子の猿からハンバーガーを取り上げると、彼女に向かって放り投げた。 「あ。ありがとうございます」 両手で受け取りほっとした表情を浮かべる竜だったが、 「皆、早く避難するのよ!」 引率の先生に連れられた小学生らしき集団に一瞬にして呑み込まれてしまった。 「わ、ちょ、うおぉー……」 人の波の中で竜の姿が面白いようにクルクルと回り、ようやく抜け出せたと思ったら―― ハンバーガーが無かった。 「あ゛ーーーーー!!!」 地面の上で無残にも踏み潰されたハンバーガーを発見し、がっくりと膝を着く竜。この有様では三秒ルールも何もあったものではない。いや、そもそも年頃の乙女が三秒ルールを適用しようと思っていた事が問題かもしれないが。 「コ・ノ・ウ・ラ・ミ――」 怒りの炎に熱せられた大気が、比喩無しでゴゴゴ、と唸りを上げている。 「ハ・ラ・サ・デ・オ・ク・ベ・キ・カーーーーー!!!!!」 見たものを射殺すのではないかとさえ思える視線を向けた先では、本能的に危険を感じたのか、猿がさっさと逃げ出していた。 「クロウさん、捕まえてて下さいよ!」 「あの猿を殺したところでハンバーガーが戻ってくるわけじゃないだろ。『落とし子』でもなかったみたいだし」 「でも、でもぉ……!」 一転して涙目でぐすぐすと鼻を鳴らす竜の頭を撫でながら、「ファージは一体どこに……」と漏らした綾の視界に、どこかで見たような光景が飛び込んできた。 「ウキャキャキャ」 「「待てーーー!」」 逃げ回る猿と、追い掛ける人々。何故かこんな場所でエプロンを着けている青年――イツキが三人に向かって声を張り上げた。 「捕まえてくれ! そいつがファージだ!」 「「えーーーーー!?」」 少女二人が驚いている間にクロウが反応し、大きく腕を振りかぶる。 「……本当みたいだな」 グロテスクな形に合わせて倍程の太さになったクロウの腕が地面を深く抉り、目にも留まらぬ動きで宙へと逃れた猿を青い瞳が静かに見上げる。 その時だ。とうとう激しい動きに耐えられなくなったのか、バッグのストラップが根元から引き千切れ、本体部分が落下した。「あぁっ!」、突然目の前で始まった漫画のようなバトルに腰を抜かしたのか、志乃は座り込んだまま手を伸ばす。 間一髪、滑り込んだイツキが仰向けの体勢でキャッチした。 「ぐおっ」 今朝まで一生懸命作っていたのだろう。中の包みは元より、バッグ全体から甘い香りを感じ悶絶する。追い掛けるのに夢中だったから気づかなかったが、志乃本人も似たようなものかもしれない。 極力口のみで呼吸しながら、イツキはバッグのなれの果てを志乃へと渡した。 「ほら。これで、もうここにいる必要はないだろう? もう一騒動ある。さっさと逃げろ」 「でも私、立てな――ひゃあっ!」 「クマさん、お願い」 コレットの指示を受け、志乃を抱えた熊っぽいモノはのっしのっしと去っていった。聞こえてくる悲鳴を考えると、これはこれで問題がありそうだが、全てが終わった後にチケットの力が何とかしてくれる事を願うしかない。 それより、今なすべきは―― ロストナンバー達に囲まれる中、身動きを止めた猿の瞳が爛々と妖しげな光を放っている。 ウキャ、ウキャキャ――ウガアァァァァッッ!! 肉が弾け、鳴き声が咆哮へと変じ、禍々しい風がロストナンバー達の頬を打つ。 「何かもう猿じゃない何かに進化してますよー?」 竜の言葉通り、それはもう、四肢を残した怪物に過ぎなかった。 「発砲を許可願えるかな?」 「う、うん」 律義に尋ねるアインスに、コレットは頷くしかない。多少驚かせる事になっても、目の前の異形をいち早く斃す事こそが、動物達の為にもなろう。 できる事ならこの付近一帯を檻で囲みたいところだが、彼女のトラベルギアはあくまで「描く」必要がある。巨大な物を描くには、それなりの時間と労力が必要だ。それを待っていてくれる相手ではないだろう。 「……想像以上の気色悪さだな」 話には聞いていたので、ある程度は覚悟していたが。不快感を隠そうともせず、イツキはトラベルギアを握り締める。 「エンエン、狐火操り!」 最初に仕掛けたのは綾だった。声に応じてリュックの隙間から炎が放たれるが、『落とし子』は一足飛びに移動して身をかわす。 それを追うように、同じような炎がいくつも飛来した。 「フ、逃がすか」 遠慮はいらぬとばかりに銃を連射するアインス。しかし『落とし子』が腕を一振りすると、炎を纏った弾丸は分厚い肉に阻まれてしまった。 「まだまだですよ!」 今度は竜の口から火の玉が吐き出された。足の止まっていた巨躯を炎が丸ごと包み込む。そこへさらに、綾とクロウが踊り掛かった。 「でやあぁぁぁっ!」 「とっとと消えろ!」 鋏のように左右から放たれた蹴りとフックが、『落とし子』の身体にめり込んだ。轟く苦悶の声。だが、振り抜くには至らない。 振り回される両腕に弾かれ、二人が地面に転がる。受け身は取っているが、舞い上がる土煙がその衝撃の強さを伺わせた。 と、『落とし子』は身を屈め、全身のバネを使って大きく跳躍した。 「な!?」 あまりの速さに、トラベルギアを投げようとしていたイツキの反応が遅れる。『落とし子』が着地したのは――コレットの目の前だ。 「キャアァッ!」 反射的に描いた円が盾となって彼女を守るも、小柄な身体はいとも簡単に吹き飛ばされてしまった。「コレット!」、アインスの悲鳴に近い絶叫が響き渡る。 なおも追いすがろうとした『落とし子』に、イツキのトラベルギア、そして残っていた『クマさん』が行く手を阻む。狂ったように殴り掛かられ、『クマさん』達がぐしゃぐしゃに潰される中、駆け寄ったアインスがコレットを抱き上げた。 「大丈夫か!?」 「う、うん……」 言った端から咳き込むコレット。直接ではないとはいえ、腹を殴られたのだ。無理もない。 「それよりも、早く何とかしなきゃ……動物園が滅茶苦茶になっちゃう……」 可愛い動物達を守りたい。抱く想いはそれだけではない。 それは数少ない幸せの思い出。人混みの中、パンダを見たくて必死に背を伸ばしたあの日。 人に言わせればただの感傷に過ぎないのかもしれないが、それでも。ここでの一日が将来救いとなる子供だっているかもしれない。 そんな大切な時間を、こんな化け物に邪魔させるわけにはいかなかった。 アインスは安心させるように頷くと、今度はぞっとする程冷たい笑みを浮かべ、 「あぁ。レディに手を上げるような無礼者は、磔にして火炙りにしてやらねばな」 コレットを物陰に下ろし、再び銃撃を開始した。 その言葉通り、四肢と脳天を狙った弾丸は立て続けに『落とし子』の身体を打ち、身動きを封じる。着弾後も燃え続ける炎は、彼の心を映しているかのような激しさだ。 「……捉えた!」 いつの間にか立ち上がっていたクロウが一直線にダッシュすると、引き絞る弓のように構えた腕を渾身の力で突き出した。握り締めた拳は肉の壁を突き破り、堅い骨すら砕くと、『落とし子』の背中から顔を出す。 が、まだだ。まだ倒れない。 そのまま抉るように腕を捻るクロウ目掛けて、『落とし子』の両腕が振り上がる。 「させるもんかぁっ!」 腕目掛けて跳び掛かったのは、クロウと共にダメージから復活していた綾だった。そのまま全身で相手の腕を包み込むように関節を極める。いわゆる『跳びつき腕ひしぎ逆十字固め』と呼ばれる技だ。蹴り技を主体とする綾がこのような行為に出た事が、余裕の無さを表している。 もう一本の腕にはイツキの放ったトラベルギアが突き刺さり、傷口との隙間からは大量の体液がクロウの頭へと滴り落ちていた。 「ハアァァァァッ!」 高く。とにかく高く。 太陽を背に跳躍した竜の持つ剣から、激しい火柱が噴き上がる。 「落ちろおおぉぉぉぉぉっ!!」 全ての力を込めた一撃が、断罪の劫火となって『落とし子』の肉体を滅した。 ●聖バレンタインデー 「ふぅ、やっと捕まえた。――それにしても、こんな狐、見た事無いわね」 腕の中でバタバタともがく狐を目の前まで持ち上げると、女性従業員は首を傾げた。熱くはないけど、何か首がメラメラ燃えてるし…… 園内の騒ぎを収拾するべく駆け回っていた彼女だったが、突然目の前に現れたこの狐を捕まえる為に随分と時間を使ってしまった。 そしていつの間にか、さらに原因も分からぬまま、騒動は終わったらしい。暴れていた猿達は急に大人しくなり、今は担当の飼育員を中心に一匹ずつ確保している。自分も応援に行かねばならないが、この子はどうしよう? どう見ても、うちの動物じゃないし。 「あ、クルミ!」 その時、聞き覚えのある声と共に女の子が現れた。目の前まで走って来ると、肩で息をしながら頭を下げる。 「ごめんなさい。その子、私の友達なんです」 「うちはペットの入園はお断りなんだけど……いやいや、その前にこの子って――」 なんて種類? と尋ねようとした従業員の意識は、一瞬にしてピンク色に染まってしまった。 「コレット、見つかったのか?」 「うん。この人が……」 アインスに見つめられ、胸が早鐘のように鼓動を打つ。あぁ、久し振りの感覚。これはまさに――恋! 「これはこれは。大変お世話になりました。麗しきレディよ」 アインスは従業員の手を取ると、片膝を着いて恭しく口づけする。彼女が覚えていたのはそこまでだった。 「そういえば、コレットのお目当てだったパンダとやらはいないようだな?」 卒倒した従業員をベンチに横たえると、アインスはコレットの横に立って歩き始めた。 コレットは少しだけ残念そうな表情を浮かべるも、 「うん。――でも、今日は今日で、大切な一日になったから……」 眩しそうに目を細める。自分が倒れた際、激昂してくれたアインスの心が嬉しかった。本人は「当然だ」と言うだけだろうが、自分にとっては重要な事なのだ。 「もう少しだけ見て回って帰ろう?」 自分でも吃驚する程自然に手を繋ぎ、コレットはアインスと連れ立って歩き始めた。 「こ、これ! 受け取って!!」 騒ぎの余韻にざわつく空気の中、少年に向かってチョコの包みを差し出す志乃の姿があった。 その光景から空へと視線を移し、クロウはほう、と息を吐き出す。 「俺も、あいつと動物園に行った事があったな……」 友達以上恋人未満の二人を見ていたら、ついつい思い出してしまった。もうあの頃には戻れない現実がそこにある。 「あれ? クロウさん、何か黄昏てる?」 「少し疲れただけだ」 素っ気無く答えると、綾は「そうだよねー」と頷き、 「まだこっち見てる人がいるし、早めに逃げる?」 居心地悪そうに身じろぎすると、そう提案してきた。 戦闘が終わった後、好奇心で騒ぎの中心地点へと集まってきた人々を誤魔化すのは大変だった。全員にピエロのような赤い着け鼻を渡し、「ハイ今のは手品でした~! 私たち流しの大道芸人でーす! 火も噴けまーす!」と強引に押し通したのだ。実際に火を吹ける竜の活躍もあってその場を乗り切る事には成功したが、少しでも冷静に考えれば色々おかしいのは明らかだろう。 「そうだな。俺もさっき、目当ての場所を回ってきたし。――藤枝?」 最後の連れを振り返ると、そこには口一杯にベーグルを頬張った乙女の姿が。 「うぅ、人の情けが身に染みます……廻さん、ありがとうございますぅー」 「職人冥利に尽きるが、そこまで感動されてもな……」 自分もお手製のベーグルを食べながら、イツキは頭を掻いた。結局、寄生された猿は木端微塵。仕方ない事だと割り切っているつもりだが、後味の悪さは否めないものだ。被害を最小限に防げたと信じて、早く普段の生活に戻りたい。 竜はイツキのトラベルギアをじっと見ると、やおら鷲掴みにし、 「……もっちもち。もしかして、これも――」 「心配しなくても食べられないぞ」 機先を制したツッコミを放ち、イツキは綾とクロウに向かって声を掛ける。 「商品が無くなったんで店仕舞いだ。居座ってる客の回収を頼む」 「はーい」 「分かった」 両脇を抱えられ、竜は慌てた様子で二人を交互に見る。 「え!? 私、ずっと食べてて動物見ていないんですけど? ワンちゃんのサーカスも楽しみにしてたし……」 「こんな状態じゃ、サーカスなんて中止だろ」 「ロストレイルの出発も近づいてるし」 「まだ全然見てないのにぃ~!」 問答無用で連行される竜の悲鳴が、壱番世界の青空に吸い込まれていった。 (了)
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