深く、暗い森の中。 静寂を貫くように、木々の間から月の光が降り注ぐ。 その光に浮き彫りにされて初めてわかる、大樹の側の影。 黒銀の毛並みのそれは、静かに呻いていた。 喰らえ、襲えと内なる獣の本能が叫ぶ。 その度に脳裏に映し出されるのは、己がまだ幼く無力であった頃に、慈しんでくれた者の貌。 それはいつも、あの時のまま。恐怖に歪んだ貌のまま。 その貌を思い出す度に、衝動を抑えつけようとする。 或いは同じ"四つ足"を襲い、苟且に飢えを満たす。 されど彼は知っている。己というものが、消えていこうとしていることを。 誘惑に負けそうになる自己を。 強すぎる力が、かつて人の友だったモノの心を砕き。 月光に看取られ散る木の葉の如く記憶は儚い。 ひらりひらりと散っていく。「ここにね、おっきな角が生えてます」 ぽふぽふと、その肉球で自身の額を示しながら、犬の形をした獣人が、集まった数人を見上げている。「黒き獣。元は犬だったモノ。彼を倒し、彼の額に根付いた竜刻を、回収してきてくれますか」 どうかな、と伺うように見上げながら、司書はいう。「場所はヴォロス。その辺境。小さな村のその外れ。人里ではあるけれど、限りなく、人界の境に近い場所。そこに在る、森の奥。竜刻そのものは安定している。でも、宿主への影響は、甚大」 小さな手で抱えた『導きの書』をもう一度開き、予言を確認。 彼のしっぽがだらん、と力なく項垂れた。「哀れな子。己の主人を見失っている。その子の主人もまた、その子を愛している。だから、"今は"互いに何もしない」 それでも、と彼は言う。「その子はとても頭がいい。周りの罠も見破るし、余人に住処を悟らせない。本能で襲い知能で避ける。だから、主人の助言欲しいところ。可能なら協力も。本能を抑えるの、理性だけ。彼を知るのは主人だけ」 獣について何かわかるか、との問いに、司書は「少しだけ」と応じた。「書は語る。それは黒き翼もつ巨大な魔狼。長き尾刃は大樹を倒す。額に生える異形こそ、切り札であり泣き所。決して近寄ること無かれ。彼が傷つけない者は、彼の愛する者ばかり。遠間に狙うはよき。されど光有り。これ貫けざる無き槍なり。相対すべからず」 あと、その子のことではないけれど、と司書は続ける。「無策で挑む。これは危険」 場合によっては死もあり得る。それ程の強敵だと言外に告げてなお、彼は哀願するように目前のコンダクター達を見上げる。「それでも。とても哀れな子。餓えへの嫌忌。本能と理性。狭間に揺れて、壊れる間近。もう元には戻れない。でもまだ、彼は彼のまま」 その小さな耳をぺとりと倒し、潤んだ瞳をゆっくりと閉じて。 尻尾をゆらゆらと揺らしながら、司書はいう。「あなたたちなら出来ると思う。その子の魂を救って欲しい」 導きの書を胸に抱きかかえ、司書は再び目を開いた。「お願い、できますか……?」 獣が月に照らされ眠る頃。 獣の潜む森の外。 人里より森の方が近い家の中、一人の女性が破璃越しの月を見上げている。 名はエルミナ。歳は二十歳を過ぎたばかりの彼女は、今では魔獣を呼び寄せた厄災の素として、村人から忌み嫌われていた。 彼女の頬には治りきらぬ一筋の切り傷。 服に隠されてはいるが、肩にも獣の爪が刻み込まれている。 身じろぐ度に、鈍痛が彼女を責め苛むが、それを気にする様子はない。「私はあの子をもっと傷つけてしまったもの……」 窓硝子に顔を預けた女性は髪の先を指で弄び、自身を苛む痛みが当然のものであると、一人頷く。「ごめんね――あなたはあんなにも、私を助けようと頑張ってくれていたのに、私は気づいてあげられなかったわ」 村の人々は、数日おきに家畜が消えることを嘆き、罠をしかけた。 ほかにも、あの手この手で愛した子犬を殺めようとする。「どうしたら、あなたを解放してあげられるのかしら」 呟く声は、硝子の板を微かに揺らし、迷いは唯々深まるばかり。憂いは唯々重なるばかり。
霧の谷に降り立ってしばらくの旅。 ヴォロスの世界の一角に、その村はあった。 大国と大国を繋ぐ街道を外れて数日の旅程。 国境の一部となっている大きな森の入り口にある、小さな小さな村だった。 街道を行く旅人が、何らかの事情で訪れることもあるのだろう。 一軒だけだが、きちんとした営業が為されている宿があったため、一行はその宿に一旦身を落ち着けた。 その宿の主人を通じ、村長と呼ばれる人物へと渡りをつける。 話を聞いたのは、ヴィヴァーシュと、ヴァンスの二人。 他の面々は、事前の相談により、魔狼の飼い主の下へと向かうということで、とりあえずの話がついていた。 ◆ 「あの化物を退治したいと、そう申されますかな」 案内された村長の家。屋敷と表現するにはささやかな家であり、やはりささやかな広さの居間でしばらく待たされていた二人に向かって、村長は開口一番そう問いかけてきた。 「ええ、ちょっとした依頼が我々のほうへありまして。こちらで暴れているらしき魔獣を退治してほしいというものです」 応じたのはヴァンス。ヴィヴァーシュのほうはその横に座したまま、じっと村長の様子を観察している。 「依頼ですか。一体どこから」 「それは申し訳ありませんが、明かすことはできません。――ただ、私たちがこれから行うことは、貴方方にとって、頭をいためている事象を解決するものである、ということをご納得いただきたく、こうして話を通しているのです」 村長の疑問をあえて遮り、ヴァンスは協力の要請だけを行うにとどめている。 目の前で、自分達を胡散臭そうに見ている老人の様子には聊かの補足が必要だろう。そう考えたヴィヴァーシュが、少し考えて、口を開く。 「私どもの要望は簡単です。魔物退治の為に、情報を知りたい。この村の家畜も何匹か襲われていると聞きましたが、これまでに襲われた日時や、場所――失敗した対策も含めて、教えていただけませんでしょうか?」 落ち着いた口調で淡々と言葉を紡ぐヴィヴァーシュと、微かな笑みを浮かべて先を促すヴァンス。親子ほどに年が離れた二人の視線を受け、村長は居心地が悪そうに視線を移ろわせる。だが、それでは話が進むはずもないと理解したのだろう。ようやく話始めた。 「応援や、情報提供ならいくらでもさせてもらおう。じゃが、村の資材や人員を貸すことはできんぞ。ただでさえ貧しいというのに、あの魔女がつれてきた災厄のせいで、今のわしらの生活はどん底なのでな」 いきなり援助はしない、との発言は我々をたかりとでも見たということか。魔女――そう吐き捨てるように言った村長の言葉も合わさり、ヴィヴァーシュの目が少しだけ細められる。 「あの化物はほぼ同じような感覚で村の放牧場から家畜を奪っていきよる。前回の襲撃を考えると、おそらく今日明日あたりにくるじゃろうな」 何か、対策を? そう問いかけるヴァンスに目線を向け、村長は溜息とともに首を横へ振った。 「最初は柵を強化したり、獣道に罠をしかけたりもしたさ。じゃが奴は空を駆ける。見たものの話によれば、牝牛一頭を加えて軽々と飛び去ったそうでな。次は村の若者が総出で迎え撃ったが――散々に蹴散らされたわい。近郊の騎士団に依頼してみたが、金ばかりもっていきよって形ばかり警護しては帰って行くしのぅ。全く、こんなことになるとわかっておれば、あの魔女の手元におったころに始末しておくんじゃったわ……」 なるほど、その役立たずな騎士団と自分達を同列に見ているというわけか。 たかり扱いに良い気持ちがしていなかったため、まずそちらに考えをやったヴィヴァーシュであったが、ヴァンスは別の部分に興味を覚えたらしい。 「失礼ですが、先ほどから仰っている魔女というのは、村外れに住まわれているという、魔獣の主人だった女性のことですよね?」 一応は村の住人であろう人物に対する態度とも思えない村長の口調に、ヴァンスが、余計とは思いつつも確認を取った。 「そうとも。元々流れ者の親から生まれた娘でな。わけのわからん薬やらを作るしか能が無い上にわしらのことを馬鹿にした態度をとりおる。時々売りにくる薬が効くから、お情けで住まわせておいてやったらこの様よ」 鬱憤が溜まっていたのかもしれない。しかしそれだけではなく、"所詮は余所者"とでも言うべき感情の発露がそこにあった。 その後も、一頻り村長からは魔獣の元飼い主への罵詈雑言の類が吐き出される。 もう充分だ、そう二人は視線でやりとりし、席を立つ。 「ご協力どうも。――あぁ、村長さん。私たちはその魔女さんに協力を依頼して、どうにか魔獣を退治しようと思っています。くれぐれも邪魔をなさらぬように。危険ですから、森にも近づかないでくださいね」 「む……うむ。まぁ期待せんでまっとるわい……どうせ今日もまた一匹やられるんじゃろうがな……」 さっさと扉を潜る二人の背後から、諦めきったような呟きが聞こえてきて、二人はなんともいえない心地で屋敷を後にすることとなった。 ◆ 太陽が空で最も高い位置にあるその時間体。彼女の視界は、その光をほんの少しだけ受け入れ、うすぼんやりとした世界を構成している。 少しだけ影になっていることで、そこにある、と分かるお気に入りのカップをとり、用意したばかりの紅茶を注ごうとした丁度その時――扉が小さく叩かれる音がした。 珍しい。その感想がまず第一だった。 「どちらさまでしょう?」 扉越しに声をかけると、「突然もうしわけない」という声が返る。 はっきりとした意思の感じられる声だった。取り立てて特徴があるわけではない、しかし何かしらの決意を抱いている者が発する、独特の声。 「……少々、お待ちを」 聞き覚えのないその声の音と質に、ほんの少しの迷いを見せつつ、彼女は取っ手に手をかけた。 ◆ 「今、お茶を淹れますね」 室内に案内された三人は席を勧められ、大人しくそれに従う。最も、小型犬程度の大きさのまま室内へと入ったシンイェについて言えば、何故かシュノンの腕に抱かれている。 当人は、とてもとても嫌そうにして最初それを拒んだのだが、シュノンがじぃ、と何事かを訴えかけるような――あくまでも無表情ではあるのだが――目を向け続けたため、当面の間好きにさせてやることにしたらしい。 そんな二人の様子に少しだけ笑みを浮かべると、フアンは目の前の女性の所作に気をやった。 す、と時折台上で手を滑らせ、目的の小瓶や茶器を探しては、一つ一つ膳に載せる。 沸き立てのお湯を数度掬い、器に流し込んでお茶を淹れる様子を見ていて、ふと一つの可能性が思い浮かぶ。 「失礼ですが、目は……?」 テーブルに戻り来ると、フアンとシュノンの二人に――シンイェは言葉を発しないため、彼女にはただの獣に見えているのだろう――お茶を淹れていくエルミナ。 淹れ終わると同時に席につく彼女に対し、フアンは唐突にそう尋ねた。 「あぁ、少しいためてまして、余り見えませんの。昼間でしたら、光が強いですから、少しだけ影が見えますのでどうにかこうしておもてなしもできるというところです」 気を悪くされるかもという懸念を承知で発した問いにも、エルミナは笑みを浮かべ応対していた。 「そう、ですか。村の人から聞いた話では怪我をされた、とお聞きしていたのですが……いやはや、驚きました。殆ど見えない事を感じさせないのですね」 「器用さだけが取り柄ですから。――それで、本題はどういったものでしょう」 光を受け入れる力に乏しいと、そう語った瞳が二人を見据える。 薄ぼんやりとした影としてしか見えていないだろうに、何故か内面を覗き込まれるような気分を覚える。不思議な瞳だな、と息をつくとフアンはゆっくりと語りだした。 自分達が、依頼を受けてこの一帯に脅威を与えているものを倒しにきたこと。 独自の調査の結果――まさか予言書が言ったとは言えないし説得力もない――同様に、竜刻によって存在を変質させられたモノが、何れ自分自身を失うこと。 そうした場合においてまず犠牲となるのは、間違いなくこの村であること。 「こうして説明していくのも心苦しいんだが――その子はとても頭がいいと。生半可な罠や仕掛けじゃこちらが逆にやられてしまう恐れがある。どうだろう……協力してもらうわけには、いかないだろうか……? 話を聞かせてくれるだけでもいいんだ」 じっと黙りこくっているシュノンやシンイェを横に置き、フアンが、内心の苦々しさをできるだけ抑えて締めくくる。 全く嫌な役回りもあったもんだよ。そう溜息をつきたくなるフアンをひた、と見据える女性。 「こういう言い方もなんだが……オレは、貴女達の運命に同情を抱いている。竜刻の影響で異形化してしまうなんて天災のようなものだ。だが、それで人々に危害が及ぶなら、それを止めなきゃいけない。それも、『彼』がまだ『彼』である内に」 後半のフアンの言葉に動揺したのだろう。エルミナがカップを置く際に、微かな音が響く。 「――私の頬の傷が、見えますか?」 数度の逡巡の後、彼女はフアンに目をむけ、そう問いかける。 「……えぇ、大分薄くなってはいますが」 「これは、あの子につけられたものです。肩にも――ですが、それ以来、何もありません」 数秒間の沈黙が、空間を支配する。その間、エルミナは思考を整理しているかのように、何度か口を開こうとしては、閉じるのを繰り返した。 そして、淡々と彼女は語る。 最初にかの魔獣が暴走した際に、自身が村に薬を売りにでていたこと。 たまたま魔獣の目についた子供を庇った彼女を、獣が傷つけたこと。 その際に、自分は間違いなく死ぬことを確信したと。 しかし直前で爪は自分を避け、ほんの少しの傷を残して彼の獣が森の奥へと走り去っていった事。 「あの子は、あの子のままでいてくれてるんだと、私は信じたいんです――」 「どう、して……?」 不意に、シュノンが言葉を発する。 「その、あなたの飼い犬は、このままでは村人を襲い、あなたを襲い……近隣の街を襲うかも、しれません」 ぴくり、とシュノンの腕の中にいるシンイェの耳が動く。 「その可能性がとても高いと、あなたは分かっているように、思え……ます。でも信じたいという。何故、でしょうか……?」 言葉を飾るということをどこかに置き忘れたような、少女の無垢な問いかけ。 エルミナは、ぎゅ、と彼女の両の手を膝の上で握りしめる。 「だって……」 搾り出される声は、辛さを内に秘めきれなくなったようで。 それまでの淡々とした声ではなく、どこか、湿り気を帯びている。 「あの子、最初はこんなに小さかったんです――身体も、凄く弱くて。だから私、母から習った知識で、頑張って世話してあげて……あの子凄く頭もいいんですよ。村の人が私に嫌がらせしようとすると、吼えて庇ってくれたりも、したんです。私にとって、唯一の家族、なんです……」 それを殺さなければいけないと聞かされて、平気でいられますか? そう続けるエルミナを前に、フアンはかける言葉を捜し、天井を仰ぐ。 その横で、シュノンはまたしばし考えこみ、口を開いた。 「家族……それは、相手を『愛する』と、そういう関係なのでしょうか……」 それは、問いかけとも独白ともとれる、微かな声。 「どうかしら……ただ、あの子があの子のままでいてくれようとしているのに――私が、それを裏切ることはしたくない……そう、思うの」 少し前から伏せたままであった顔をようやくに上げ、エルミナはそれに応じた。 その瞳は、フアンが先ほど感じたように全てを見通す理知的な色合いが薄れ、情愛に満ちた、それ以上に迷いに満ちた瞳となっていて。 「……やっぱり、わからない……」 エルミナが例えどれほど強い思いで信じようと、今現に進行している事象は進行していく。 人間の意思外のモノに、人間の祈りが届くことは、ほぼありえない――異形化した獣は、遠からず予言どおりに暴走するだろう。 であれば、その獣が、まだ理性を保っている今の内に倒し、事態を沈静化させるべきはず。 それも、できるならば飼い主であった目の前の女性の手を借りて。 そしてその必要性を、エルミナもわかっているのだろうと、シュノンは思う。 わかっていて、あえて動けない。――その理由が、わからない。 「エルミナ」 しばし、天井を見据えて黙考していたフアンの声が室内に響く。 扉を叩いた時と同じ。意思を、決意を込めた声。 その声に誘われるように、エルミナの視線がシュノンからフアンへと移る。 「オレは、『彼』がまだ『彼』であるからこそ――今を逃せば、もう違った存在になってしまうであろうからこそ。そうなってしまった時、きっと『彼』が最も望んでいなかったことがおこると思うからこそ……『彼』を、『彼』として終わらせてやりたい。その為に、最も『彼』と深く接していた貴女から、話を聞かせてもらう必要があるんだ――話してくれないだろうか、エルミナ」 フアンの真摯な瞳が、エルミナと視線を交わらせる。 シュノンには、その瞳や声に、見覚えがあった。 ◆ 「エルミナ嬢への協力の説得はオレがやってみる。だが、彼女を囮として戦術を組むのには反対させてくれ」 「しかし、それが最も成功率の高い作戦だとは思います――確実に、魔獣の動きは鈍る」 ヴィヴァーシュの立てた策に、フアンが反対の意を表明していた。 どちらかといえば、シュノンはヴィヴァーシュの案のほうが確かによいと、そう感じていたが別に他の者であってもよい役目だという認識だった。 目標物を限定することができるのは有利だが、その目標物の違いが、それほど大きな影響を対象に与えるとは思えなかったから。 だから、特に何か口を挟むということもない。 「魔獣は我を忘れた際に、エルミナ嬢を傷つけていたと聞く。それはお互いの心にきっと深い傷を残しているんじゃないかと思うんだ。だからこそ、再び『彼』にエルミナ嬢を襲わせるような策を取りたくない。わがままですまんが、ここは譲ってもらえないか……?」 じっとヴィヴァーシュを見据えてそう語るフアン。ヴァンスもまた思案を重ねていたが、横を歩いていたシンイェが、珍しく口を挟んできた。 「おれもフアンの意見を支持しよう。無力な者を囮にするのは、かなりの危険を伴うし、な」 それが根幹の理由ではないと分かる言葉。 だが、あえて理由を明らかにするつもりは無いようだった。 「わかりました。では私たちは村長に話を聞くことにしましょう――できれば魔獣の巣では対峙したくないのですが……無力な村人を危険にさらすことでもありますし、ね」 そんなヴィヴァーシュの様子に、少し微笑みを浮かべてヴァンスが後を継ぐ。 「ただし、村長とエルミナからの話から、魔獣を誘い出すことが可能で、周囲への被害を及ぼさない場所まで誘導できるようならばそこで対峙する。――それでいいかい?」 最後は、シンイェとフアンへの問いかけ。 二人ともから、頷きが返された。 ◆ 「わかりました――私の知る限りは、お教えします」 フアンの言葉のどこかが琴線に触れたのか。 渋々、といった様子は隠せないがそれでも情報提供に応じるというエルミナ。 けれども、と彼女は続ける。 「条件が、あります。私を、一緒に連れて行ってください」 「なっ……!」 ほっと胸をなでおろした直後の、予想外の言葉。 「危険だ! 彼はまだ理性を残しているとはいえ、戦闘になればどうなるかわからない。何より、戦いの場では何が起こるかわからない」 「ですがっ……!」 「――その辺で、折り合いをつけるべきだと思うよ、フアン」 不意に、第三者の声が割り込む。 声の主を探してみれば、いつの間にか家に入ってきたヴァンスが、部屋の入り口に佇んでいた。その後ろから、ヴィヴァーシュもまた現れる。 「ノックをしても誰も反応してくれないものだからね。悪いけどそのまま入らせてもらったよ――そちらが、エルミナ嬢かい?」 あぁ、と頷くフアンを他所に、ヴァンスがエルミナの元へと近づく。 先ほどまでの張り詰めた雰囲気を敢えて無視するかのように、にこやかに笑みを浮かべた青年は、目の前の女性へと語りかけた。 「僕はあなたの意思を尊重したい。『彼』と我々の対峙を見届ける権利があると、そう思うから。それに、『まだ諦めるには早い』と思っているのでは?」 首をほんの少し傾け、ヴァンスはエルミナの表情を伺う。 それにはっきりとエルミナが応じたわけではない。 だがしかし、あぁ、と納得したような表情を見せているのも確かだった。 もやもやとした、自分自身だからこそ、形にできない思いの一欠けら。 それを言葉に表すとそのようなものになると、そう思い至ったのだろう。 「一つ、忠告しておく」 問いかけたヴァンスでも、それに応じようとしたエルミナでもない、低く響くような声がした。 声の主を探すように周囲を見渡したエルミナが、びく、と思わず背を震わせる。 うすぼんやりとした世界に突如、黒色の塊が現れていたからだ。 元の体積を取り戻したシンイェは、エルミナを試すかのように、顔を女性の下へ近づけ、どこから発せられているのか定かではない声で語りかける。 「彼のモノは、今正に飢えていると聞く。――だが、それ以上に己を失くすことを恐怖していると聞いた。おれにはよく理解できる。その立場から言わせてもらえれば、だ」 一拍の呼吸。 「おれならば、そんな姿をかつての友に、家族に、見て欲しいとは思わない。会いたくも無い。現に、おまえの前に、彼のモノは最初の時以来、姿を見せていないのだろう?」 エルミナの表情が強張るのが見て取れた。 それでも、彼女はシンイェから視線をそらせようとはしない。 数秒だけ思考を整理するかのように目を閉じたあと、再び開かれたその眼からは、シンイェが語りかける前、僅かに残っていた迷いが、完全に払拭されていた。 「それでも、私はあの子に会いたいと、そう思います」 神への宣言の如く、その言葉は力強い。この数週間、煩悶とした日々の中で捜し求めていた――否、実際には一度たりとも見失っていない、ただ近すぎて見えなかっただけの、自己の意思。 「私にとって、あの子はかけがえのない家族ですもの。――どんな時でも、一緒にいたい。あの子が味わう苦しみは、私も一緒に理解したい。それに……」 そういって彼女は、くす、と微笑む。 「家族が――息子が悪いことをしたら、しっかり叱ってあげなくちゃ。だから、どんなに私を拒絶しようとも、私はあの子に会いに行く。会いにいって、『この馬鹿っ』って言ってあげるの」 そこに、フアン達が訪れた時の、ただ惑い、立ち止まるだけの儚げな女性はいない。 はっきりとしない視界の中で、しっかりと己の目標を見定め、来客者であり、きっかけともなったフアン達へ茶目っ気たっぷりに宣言した彼女こそが、本来の姿なのだろう。 そう理解してようやく、フアンは頷いた。 「貴女の勇気に敬意を表する。その決意をしかと受け止め、オレは貴女の盾となろう」 立ち上がり、そう言って手を差し出すフアン。エルミナは、くすぐったそうに、その手を握り返した。 そんな二人をじっとみていたシュノンとヴィヴァーシュだったが、不意に、ヴィヴァーシュがエルミナに歩み寄る。 「よろしいでしょうか?」 なんだろう、と視線を向ける彼女の頬を示して。 「できれば、私に貴方の傷を、癒させてはいただけませんか?」 「傷……でも、これは……」 何事か言おうとしたエルミナに、一つ頷いて言葉を続けた。 「先ほどからのお話を聞いていて、何故貴方が傷を放ったままにしているのか、理解できた気がします。自分自身の弱さ――『彼』を救って上げられなかった、自身への咎めの意思がそうさせているのでは?」 返る言葉はない。しかし、彼女の表情が、是、と答えを返していた。 「ですが、『彼』のことを思っていただけませんか? きっと――傷ついたままの貴方を見たら、貴方の家族であった『彼』ならば、酷く気に病んでしまうのではないかと、そう思うのです」 ですから、と青年は言葉を続ける。そっと手をエルミナの頬に当て、治療への同意を願った。 自らの顔の右半分を白い眼帯で覆った青年の言葉の何かが、エルミナの心を動かしたのか。 彼女は、自分の意思で、最後まで心の奥に沈みこんでいた咎めの想いを解き放つ。 「お願い、できますか――?」 彼女の言葉に、ヴィヴァーシュは微かな笑みを浮かべて頷く。 フアンにヴァンス。そしてシンイェも。 シュノンだけは事の成り行きを不思議そうに見ているだけであったが、その場にいたその他の面々にも、微笑みが浮かんでいた。 ふと、フアンは聞こうと考えていたことを思い出す。 「エルミナ、貴女に一つ聞きたいことがある」 何でしょう? そう問い返す彼女に、フアンは質問を投げかけた。 それは、フアンにとっては必要なこと。 フアンが『彼』と相対するために、絶対に必要な問いだった。 ◆ ――夜が、訪れる。 彼は夜が嫌いだった。 どうしようもなく、その身がざわめくから。 今日もまた、額に突き出た"それ"が、鈍い痛みを訴えてくる。 それに呼応するかのように……彼の意識は、少しずつ闇へと解け出て行った。 飢えという動物の本能に従おうと巣としていた森の奥の巨木――既に彼は、ここが彼の主人と、かつてよく訪れていた採草の場所であることなど覚えてはいない――を飛び立とうとする。 そんな彼の前で、闇が凝った。 最初は仄かに光る、小さな虫のような光だけが見えた。 だが次第に、それがただの虫でないことに気付く。 密度を徐々に増していく闇は、爛々と燃える金色の宝玉を持ち、やがて彼と似たような四足の姿をとる。 何事か、言葉をかけられた気がした。 けれども、今の彼にとってそれは何らの意味ももたない。 ただ、己を邪魔する者が目の前にいるのだと、その認識だけを抱くだけだった。 ◆ エルミナから「恐らくは」と伝えられた場所へ先行したシンイェ。 確かにそこに魔獣はいた。 それを認めた彼は、トラベラーズノートを介し、位置を仲間へと知らせる。 しばし静観するべきか、仲間を待たずに出て行くべきか――悩んだのは、数秒だった。 眠りの体勢を解き、飛翔しようと羽を広げてゆっくりと事前運動を行う様子は、見過ごすには少しばかり難しすぎた。 薄く張り巡らせた己の体を、シンイェは徐々に中央へ向けて凝らせる。 おれはここにいるぞ、と。そう主張するかのように、彼は尋常でない本来の質量で、獣の前へ姿を現した。 獣が自身に気付いたことを認め、シンイェは穏やかな声で語りかける。 「よくぞ、というべきか――」 魔獣が、明確な視線と殺意を向けてくる。邪魔者であると認識されたことを、シンイェは正しく理解したが、それでも語りかけることを止めようとしない。 「おれの言葉も殆ど理解することはできていまい。それだけの狂気に縛られて尚――よくぞ、家族を殺さずにこれまで過ごしてこれたものだ。大したものだと、そう思うぞ」 だが、と彼は続ける。 「これ以上おまえが村を襲うことは、彼女の立場を悪くしていくだけでしかない。何より、もう、限界だろう? 負けるなと叱るには遅きに失したようだが――ならば、せめてその痛み……"おれ達"にぶつけるがよい」 轟、と空気がはじけた。 一瞬の後、シンイェがそれまでいた場所に、深々と獣の前肢が突き刺さる。 紙一重で横へと跳んだシンイェを追い、魔獣が地を蹴ろうとする。 だが、本能がそれを押しとどめたか。急激に翼を広げると、飢狼は後方へと無理やりに飛翔した。その瞬間、魔獣のいた位置に、氷槍の雨が降ってきた。 「流石に、野生の勘は侮れませんね」 シンイェの後方。多少の息をきらせつつもヴァンスがそう言って笑みを浮かべた。 「遅いぞ」 「無茶を言ってもらっちゃ困る。こちらは生身の二足歩行だよ、シンに追いつくだけで精一杯というところさ」 ふん、とさりげなく愛称で呼ばれていることに気付いたシンイェだったが、特に気にする風もない。 「配置にはついたのか」 「あぁ」 「ならば、戦闘開始だ――」 厳かに告げる、黒色の獣。 双翼を持つ獣にとっては、初めて会うであろう自身を脅かす存在。 どう動くか、注意深く観察するシンイェの耳に飛び込んできたのは、強い意思を持った、女性の声。 「アルゴス――!」 自分に気づけ、と必死で訴えかけているかのごときその声。 意図に沿う形ではないが、それは獣の注意を惹くには充分なもので。 女性に向かって相対する獣は、それがかつての主人であることを、理解しない。 『獲物』 そう認識し、とびかかった獣の爪を、細身の剣が受け流した。 「残念ながら、彼女を襲うなら、まずオレからだ、アルゴス」 不適に微笑みを浮かべ、剣と一対になった赤い布で覆うようにして、フアンがエルミナを背後に庇う。 「あ、ありがとうございます」 背後から囁かれる声は、悲しそうな響きを乗せていて。 その声に、フアンはギリ、と奥歯を噛み締め、目前の魔獣へと相対する。 「アルゴス」 届かぬと分かっていてなお、フアンは声をかけた。 「お前のsuerte<運命>には同情する。だが、だからこそ、オレ達はお前を倒さねばならない。アルゴス、お前がお前の魂を取り戻すために。今宵今晩――オレのsuerte<闘牛技>をお前に捧げよう」 ◆ 数度、獣の爪が地を抉る。 その顎は容赦なくシンイェの残影の軌跡を食み、尾が強烈な一撃をもってヴァンスの槍を打ち据える。 それでいて、常にフアンとエルミナを脅かす。 『決して近寄るな』という予言書の言葉は至当だった。単純にこの三人だけで挑んでいるのであれば、やがて窮していたかもしれないな、とヴァンスは苦笑を浮かべた。 けれども、と彼は思う。 「足止めだけならば、いかな貴方であろうとも、なんとかなるというもの、だよっ!」 ここぞと見込んだ瞬間、ヴァンスは生死のぎりぎりの境に踏み込む。 迫り来る尾の刃が肩口を掠めるのに構わず、彼はコキュートスを突き込んだ。 強烈な一撃一撃に対応するため、程よい長さを保っていた槍は、瞬間、尾刃と同程度の長さへと変化し、後肢の腱を貫いて、地へと獣を縫いとめた。 時間にして、ほんの一瞬。 だが三人が戦いを繰り広げたのは、その一瞬を作り出すことが目的で。 「精霊達よ――!」 その瞬間、青年の声が響く。 視覚化されるほどに濃密な風の矢が魔獣の頭部を襲う。 同時に、尾刃の根元に能力を付与された弾丸が着弾する。 「1発……目」 シンイェが常に庇うように動いているその背後から、少女が冷静に呟く。 目に見えて、魔獣の動きが鈍っていた。 「麻痺を、込めました。今の内、です――」 ガキン、と金属音を鳴らし、シュノンが次の弾薬を送り込む。 その間にも一矢、二矢と放たれる風の刃を、獣は本能で回避する。 だが次々と打ち込まれるシュノンの弾丸が、その本能にノイズを齎していく。 「悪いが、ここを逃しては厳しいんだよねっ」 かく、と脚を折りかけた獣の空中。 青年の声に応じるかのように、氷の刃が無数に生み出されていた。 「是は君を捕らえる極寒の檻。――悪いが、チェックメイトだ」 鈍い地響きが当たりに染み渡る。決して致命傷が与えられたわけではない。 本当に危険な攻撃自体は鈍い動きの尾で弾き飛ばした獣だったが、それすらも計算に入れたヴァンスの魔法に、閉じ込められる。 「これが、最後……です」 数えて八発目。 好機と見、その引き金を引こうとした瞬間、シュノンの本能が警鐘を鳴らした。 何が……一瞬の思考は、自己の立ち位置を認識した瞬間、明確な予感となって脳内に閃いた。 狙いをとりやすいように位置を動いたシュノン。 空中からふらされた氷の刃の破片からそれを庇うために動いたシンイェ。 そのほんの一瞬、獣とシュノンの間からシンイェが消えていた。それに、シンイェもまた気付く。 ヴン、と空気の共鳴する音が響く。シュノンの銃の先で、火花が散る。 その瞬間、空間は、白い光に支配されることになる――。 ◆ 「あの子は、天空の雷をその身に宿しているの」 そうエルミナは一行に語っていた。 それが、彼女の視界を焼いたものである、とも。 「心配いらん」 そう言ったのは、黒色の影で構成される、闇の存在。光を糧とし、己の力を高める、闇に生きる強者の一人。 ◆ 白い光が、シュノンを貫くことはなく――そして、他の者の視界を焼くことも、なかった。 「なるほど――事前に聞いておかねば、危険きわまりないな」 空間に満ちるはずであった光を喰らいつくしたのはシンイェだった。 戦いながら、徐々に自身の体を再び周囲の夜陰へと溶け込ませ、万が一に備える。 タイミングを失えば無意味な戦力の拡散でしかない戦術であったといえるだろう。 その為に、これまでの戦闘の間シンイェは本格的な攻勢にでず、状況の把握と、自身を囮にするための動きにのみ徹していた。 「だが今この瞬間に限って言えば、遠慮する必要はなかろうな!」 轟、とその蹄が地を蹴りこんだ。 巨大な質量の塊と化したシンイェは、衝撃で破砕された氷の檻から抜け出そうとする魔獣を踏みつける。 狙いは一つ。その動きの、完全なる制御。 「ありがとう……ございます」 「すまない。これが最後だ――」 二人の、落ち着いた声が響いた。 同時に唸る風の音と、甲高い銃声の音。次いで、打ち終わりを示すかのように、弾室の弾き飛ばされる音がキィン、と響いた。 額の角の付け根を抉った弾丸。それに追い討ちをかけるように、数本の、鋭利な風の矢が魔獣の額を打ち抜いた。 クオオオン――。 それは、魔獣の断末魔の悲鳴。 大樹を中心とした自然の広場を照らし出す月に向かって上げられた咆哮を最後に、魔獣は静かに崩れ堕ちた。 「やっと、終わったね――」 ヴァンスが転がった竜刻を回収する。 「あぁ、ようやく、かな」 フアンが、その言葉に応じ――そして、魔獣であったモノ……アルゴスへと、歩み寄っていった。 ◆ うっすらとかかっていた靄が、晴れたかのようだった。 鈍く響く痛みが微かに意識を繋ぎとめている。 そんな自分を抱き上げる何者かの腕を感じた。 「よく、頑張ったな」と、そう穏やかな声をかける褐色の男の声。 その彼が、自分を誰かに預ける。 鈍くなった嗅覚が、それがよく知った自分の家族の腕であると、そう告げた。 「お帰り、アルゴス――もうどこかに行ってはだめよ……?」 ぽたり、と顔に落ちる雫を感じ、無理やりに頤を持ち上げる。 上手く開かない目の中に入ってきたのは、彼女の顔。 空ろな記憶の中で切り裂いたはずの頬が、綺麗なままで酷く安心する。 クゥン。 泣かないで。そう告げたくて声をあげるが、それが通じたのかどうか、アルゴスには分からなかった。 ただ、頑張って伸ばした舌が彼女の頬に届いた感触と、抱きしめられている事への安心感が、自身の心を満たしていくように思えて。 ゆっくりと消えていく意識の中で、優しく自分を抱きしめ、「馬鹿」と優しく囁いてくれた彼女の声を聞いた気がした。
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