広大なる大地ヴォロス。 かつて規模の大きな争いが展開されたその樹海が穏やかで平和な日々を取り戻して一年以上が経とうとしている。 揺らめく木々と、夏の始まりを告げるかのように盛大に木魂する鳥達の声。 かつて攻め込んできた無数の兵達により破壊された爪痕は自然の回復力により最早跡を辿る事も難しく、緑の海は一冬を乗り越えて、更なる豊穣の日々を迎えようとしていた。 芽吹く花々の香り立つドラグレットの里。 その外れで遥か遠くに設置した的へ矢を射かけていた女が、ふと目当てを外し、自身からほど近い大樹側の地面に向けて矢を放つ。 「やっほ」 出てこい、という無言のメッセージを寸分たがわず理解し、悪びれなく大樹の陰から顔を出す青年。 「またあなたですか――」 翡翠の姫と呼ばれるドラグレット族の姫、エメルタが、苦笑して青年へと歩みよった。 「いやぁなんか懐かしくなっちゃってさ」 「前に来てから一月ほどしか経っていない気がしますけれど」 「それはそれということで一つ」 肩をすくめて笑う小竹の様子に、「子供達は喜ぶでしょう」と言い村へ引き返すエメルタ。 「えー、エメルタ姫はー?」 楽しそうに問いかける青年の声に、竜人の女性は応えない。 振り返る事もなかったから、小竹からその表情は見えることはなく。 でも、なーんとなく微笑んでくれてる気がするんだよねー。 後をついて村の広場へと足を進ませつつ、心の中でそう呟く。 現実だったらかなり嬉しい。 ――これは、彼が位層を超えた場所に保管された竜の身体に一体化するほんの少し前。 まだ、天空を雲が無尽に漂い、遥か離れた地にある大地が血に塗れる前のこと。 ‡ 久方ぶりにこの地を訪れても、小竹のやることは変わりない。 狩りに向かうとなればそれを手伝い、家の仕事を終えて暇を持て余した子供達と一緒に広場を転げまわり、彼らの知らぬ世界を旅して見聞きしたことを、面白おかしく語って聞かせる。 嘘だー、という声には、「いやほんとなんだって!」と言い返す。 そしてそういうやりとりがされる場面では、実際本当であることの方が多かったりもする。 夜になって食事が始まれば、宴となる。 盛り上がった頃に毎回繰り返される事――集落の武人達に、立会を挑まれる事。 「いやいやいや無理無理! オウガンさん本気だし、なんかすごい殺気だし!」 「ほう、逃げるというのか?」 腰を引いて超絶ご遠慮気味に叫んでいた小竹だったが、わかりやすい挑発にぴたりと押し黙る。 「むぅ、しょうがない、そこまで期待されてたらね! ここで逃げたら小竹さんのドラケモ魂が地に落ちるってもんさ。一つ盛大に散って見せましょうじゃないの」 「そう来なくてはな」 そう言って口の端を薄く歪める首狩りオウガンからは、得も言われぬ気配が漂いだす。 歴戦の武人のみが持ちうる気。幾多もの修羅場を潜ったその果てにようやく持ちうるその鬼氣。 「あ、これ俺ほんとに死んじゃうんじゃね?」と内心思ってしまった小竹の背後から、そんな気も知らずに別の若者が声をかけてくる。 「オウガンどのの次はそれがしがお相手つかまつるゆえ、倒れてはなりませんぞ」 「無茶いうなー!」 棍を構えたまま思わず叫ぶ小竹。 それが、開始の合図となった。 ‡ 「無茶するな」 ずたぼろになって広場の隅に転がっている小竹の横に座り込み、アドンは語り掛ける。 人の身でありながらドラグレットの中にあり、己をドラグレットの一員であると既定した少年。 人でありながらドラグレットの里を度々訪ね、共に大戦を乗り越えた記憶があるとはいえ、いつの間にか完全に村に溶け込んでしまっている青年。 似たようで非なる存在の横に腰を下ろしたアドンは、傍らの小竹に半ば呆れたように声をかける。 「お前と言う奴は珍しいな。何度もこうしてわざわざ俺達に会いに来るなんて」 一々遠いところを旅して、ただ日常生活を共にし、転げまわって遊び、食事をして帰っていく。 それだけの為にこの里を訪れる者など――そもそも客からして殆どいないのだ――他にいはしない。 「好きな人達に会いに行くのに理由がいるかい?」 ぐったりと横たわっていたかと思えば、アドンの眼を見上げてにやっと笑う小竹の表情はふてぶてしいもので。 (でもまぁ、竜涯郷の方がより心惹かれるのは事実だけど)という心の声までは、悟り様もない。 「小竹は竜になりたいのか?」 「んー、どうかなー。それで竜の仲間に囲まれて暮らせるなら超天国だしそうでなくても俺が竜ってだけで十分自分を愛でて天国じゃねーっていうのは置いといて――ひょっとしてアドン、まだ見た目とか気にしてるの?」 よっこいせ、と掛け声一つで起き上がった青年が、横に座ったままの少年に視線を投げかけてくる。 「気にしてなんか、ない」 十六年ちょっとの歳月。 ――彼等の同士でありたい。異端と言われるのは、嫌だ。 そう思って過ごしてきた日々を、見透かされるような、その視線にアドンは少し落ち着かない気分になる。 自分は彼らの一員なのだと、信じたい。 そんなアドンの内心を見透かしたように、小竹が笑って肩に手をおいてきた。 「ヒトはな、やろうという意志が大事なんだ。だから気持ちをしっかり持てよ、アドン少年。君も立派なドラグレットになれる」 「俺は人間じゃない!」 思わず、かっとなって言い返す。 あぁ違う、そうじゃない。言いたいことはわかる。「この場合のヒトってのは人間だけを指す言葉じゃないんだけどなぁ……」と呟いているが、まさしくそのとおりなんだと思う。 けど、それはじゃあだからといってすんなり理解できるかといったらそうではないという、微妙な感情の域にかかるもので。 でもこの考えを突き詰めていくと、まだしばらくはろくでもない方向に向きそうだと感じるくらいには、少しは客観的に見えるようになってきたのも事実だった。 だから敢えてそれ以上は何も言わず、話題を変える。 「お前、好きなタイプは誰だ? 人間の好みというのは興味あってな」 何を言ってるんだと思わず心の中でぼやいたが、思考を放棄するために少年が無理やりひねりだせた話題は、その程度のものだった。 「……エメルタ姫かザクウさんかなぁ」 「はっはっは!面白い冗談を言う。相手が人間ではないぞ」 「冗談じゃない。結婚して欲しいレベル」 真顔で言う小竹の顔を見て、アドンはふと思う。 小竹にとっては、愛すべき姿としての認識はあっても、見た目が違うから違う存在である、ということはないのかもしれない、と。 ‡ 「そんじゃねー! また来るんでそんときゃまたよろしく」 楽しい時間というのはあっという間に過ぎ去るものだ。 それは小竹一人だけの旅路であっても、当然例外にはならない。 0番世界へ帰還するロストレイルの発車時刻までは、ここから暫定の停留所までの移動時間を考えるとぎりぎりというところだろう。 「今度はより奥深い地域に案内しよう――飛龍達が羽根を休めるのに格好の渓谷があるのだが、同時によき狩場でもある」 「今度は秋口にでもいらっしゃればよいでしょう。森の実りが盛りの時期ですので」 どうせまた来るんだろう、という前提の下に投げかけられる言葉の数々。 今度来るときは何をしようかなぁ、等と妄想しながら帰途につく小竹の後ろ姿を、消えてなくなるまで村の外れで見送るドラグレットの里人達。 それは、互いに知る事のない、終の別れの時。 この後彼らの道が再度交わる事はなく――ただ、高く透き通った空に、雲がゆくばかり。 次第次第と消えていく雲の影。 まだ誰も、それが遥か遠く離れた地で起こる事象の先触れだとは知らず。 ただ、平和な別れの光景がそこには描きだされているのみだった。 ‡ ――それから数か月の後。 「奴め、あれから全然来ぬな」 「そうですね――まぁ彼の事ですしそのうちに……」 オウガンの言葉に頷くエメルタ。 ふとした予感に誘われるかのように、彼女は上空に目を投じた。 季節は既に夏の終わり。 遥かなる高みまで澄み渡っていた空にもいつしか穏やかな雲が浮かぶような時節となっていた。 だから、それは決して珍しくないはずのものだった。 青く、白く。薄く、濃く。 たなびく雲は自在に姿を変え、時に雨となり、時に風となり、地表に生きる者達に様々な恵みや災厄を与えゆく。 薄くたなびく雲は陽光を遮ることもない。 空は明るい色のまま。 細やかな雨が、たださらさらと降り積もる。 そんな雨をもたらす雲に、何故か一つの想いを抱いた。 「小竹――?」 呟く声は吹き往く風に攫われて。 遥か空から降る雨は霧の如くに消えていく。 薄くたなびく雲もまた、空の彼方へ溶け逝きて。 森に響く、秋冷告げし鳥の声。 別れの時は突然に。 それはそうとは知らぬまま。 ただ何気なく、訪れる。 それをそうとは知らぬまま。
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