封箱地区には暗房と呼ばれる場所がある。 暗房は家屋の内部、特に地下にあることが多く、入り口となるのは現時点では数カ所しか確認されていないとのことだが、なにぶんにも封箱地区に住む住人たちは暗房に対する疑念や畏怖といったものを特に持ち合わせているわけでもない。ゆえにその正確な数は実のところ不明だといったほうが正しい。ひとまずのところ、かつてはジンジュウを迎え賑わっていた龍活劇場に入り口があるというのはすでに確認済である。 暗房に長く立ち入った者は、その迷路のような空間の中で迷い、やがては囚われて二度と現世に戻ってくることが出来なくなってしまう。己の抱く妄想が事実であると思いこみ、変飛と呼ばれる異形へと変じてしまうのだ。 「暗房に行ったままの兄から電子郵件が来るのよ」 封箱飯店の中にある少ないテーブルについた女はそう言って小さな息を吐いた。 彼女――もっとも身体的な性別は男なのだが、男人路で働き日々を賄っているためもあって、見目はそこいらの女よりも美しい。数多くの顧客を持っているという彼女は蓮と名乗った。 蓮が言うには、彼女には双子の兄がいて、その兄が暗房に入ったまま出てこないのだという。龍活劇場とは違う場所に暗房の入り口が確認され、彼はその内部の確認のために立ち入っていったのだというが。「前に、暗房の中の電気系統を直してくれた方がいるのよ。いいえ、この辺の人間じゃないみたいね。そのときも暗房で事件があって、どこからか何人かで来てたみたい」 どこから来たのかなんか知らないわ。蓮はそう言ってかぶりを振る。「そういえば、あなたたちもこの辺の人じゃあないわよね。どこからいらしたのかしら。まあ、どうだっていいけど」 眼前の客人たちを一瞥すると、彼女はテーブルの上のグラスを口に運び、一息に干した。「内容はね、最初は普通だったのよ。確かに電気が通っているだの、明るいから影魂たちが出てこれずにいるだの。兄がどうやって電子郵件を送ってきているか、ですって? わからないわ。兄が言うには、暗房の所々に機械があるのですって。兄はターミナルって呼ぶようにしたようだけど」 けれど、と、彼女は表情を曇らせた。「それが少しずつ変わってきたのよね」 言いながら、彼女は灰色がかった目を移ろわせた。まるで壁の向こうを凝視するかのように、ゆっくりと首をかたむける。 兄の名前は律。ふたりは幼い頃から繰り返し見る不思議な夢を共有していた。緑と赤が点滅する部屋の中、兄がうずくまっている。弟が兄の名前を呼ぶと、兄はゆっくりとこちらを振り返る。「媽が来る」 視線をどこか遠くに向けたまま彼女はそう呟いた。 蓮、蓮。聞いてくれ。夢のことだ。分かるだろ? あの、例の夢のことだ。媽がいたんだ。俺たちには媽の記憶なんかないが、俺には解った。媽だ、確かに俺たちの媽だ。 媽が、俺たちに力を貸してほしいと言っている。暗房に秩序をもたらすためだ。 俺たちのような者が他にも何人もいる。揃って呼ばれるってことはないみたいだ。一人は蓮のように外にいなくちゃダメなんだそうだ。ああ、おまえにも媽を会わせてやりたいな。 引き合うんだ、蓮。俺たちのような者は引き合うんだよ。覚えているだろう? 夢だよ 緑と赤が繰り返すようになった これが秩序らしい おまえに郵件を送っていて気がついたが、俺はどうも他の奴らの郵件も送っているらしい 媽がわらっている 最近はどうも意識が途切れがちだ「兄がどうなっているのかを調べてきてほしいのよ」 蓮はそう言って顔をあげた。「暗房のどの辺でどうなっているのかを知りたいの。兄が言う媽がどういう女なのか知らないわ。でも調べたのよ。私たちの媽はもうとっくに死んでるの。媽を語って兄に近寄った女が何者なのかも知りたいわ」 言って、蓮は「お願い」と小さくため息をついた。
「媽、なァ。普通のおかんっちゅうことはまずないやろ」 言いながら、晦は赤錆てキイキイと軋んだ音を鳴らす金網に手を延べた。 男人路とはつまり男娼が集う場所のことだった。かろうじて人がすれ違うことのできる程度の、細い路地だ。路地の両脇には路面を圧すように、数階建ての建物が並んでいる。小さな窓から時おりこちらを覗き見ているような視線がいくつかあるようだが、どれもこの地に住む者たちのものだろう。視線を感じ、ちらりと目を向ければ、そこに若い男たちの顔があるのが知れた。 金網は路地の突き当たりを示している。本来ならば金網を抜け向こうに渡ることは滅多にないのだろう。もっとも、金網の向こうにあったのは古い賓店だ。今では営業すらしていないらしい。 「この地下に、暗房への入り口が見つかったのよ」 ため息を落とすような口ぶりで蓮が言った。 「本当は私か誰かがついていってナビを担当するべきなのよね……」 「暗房の中は迷路のようになっていると聞きました」 賓店のドアをしげしげと見つめていたシーアールシーゼロが振り向き、銀色の大きな目を瞬かせる。 「迷い込んで出て来られなくなってしまうなら、迷わないよう、しるしをつけたりしてみてはどうかと、ゼロは思うのです」 「……そうね」 ゼロの言葉に、蓮は肩をすくめた。 「でも今のところ、この入り口から暗房に入っていった人は、兄を含め誰ひとりとして戻ってきてはいないの。目印をつけたかどうかすらわからないわ」 「龍活劇場からも暗房には通じていると聞いたが」 続いて姿を見せたのはサーヴィランスだ。屈強な全身をアーマーで包み、その上から羽織っているマントのフードで顔を覆っている。顔面に残る大きな二本の古傷は見るからに痛々しい印象だが、彼はまるで何ということもなさげに表情ひとつ浮かべてはいない。 「暗房が中で繋がっているのかどうかも、今のところわからないみたいね」 蓮の応えに、サーヴィランスは「なるほど」といったように小さく首肯した。 つまり、龍活劇場側から入ってきて男人路側から出てくることが可能なのかどうなのか、今のところわかっていないということなのだろう。 「とりあえずは入ってみなければ分からないということだろう? あまり長く留まり続けると囚われてしまうというなら、探索は早期に進めるべきだ」 賓店のドアに手をかけながら口を開いたのはハクア・クロスフォードだ。 「ところで一つ確認しておきたい。晦もさきほど触れていたが、“媽”という存在についてだ。媽は、確か母親のことを指している言葉だったように記憶しているが、今回、おまえたちの母を騙りおまえの兄である律に寄っていったらしい人物に関しては、何か情報はつかめていないのか?」 たずねたハクアの言葉にゼロが顔を持ち上げて首をかしげる。 「おかあさん、のことだったのですね」 言って、改めて蓮の方に目を向けた。蓮はゼロの目を見据え、視線だけでうなずくと重たげに口を開けた。 「媽は私たちが八つのときに死んだわ。殺されたのよ。珍しくもないことでしょう? このまちでは娼婦なんて毎日捨てるほど殺されているわ。なんていう取り柄もない人だったけど、子どもを捨てたり殺したりしなかったぶん上等な母親だったわ。そうね……媽を騙ってる人がいるとしたら、その目的なんかは検討もつかないけど」 ドアを開ける。宿泊客の気配など当然に感じられない。しかしどこか生活臭のようなものをわずかに感じられるのは、この建物を何らかのかたちで利用している者がいるということを示唆しているのかもしれない。マフィアなどもごろごろと見受けられる世界なのだ、何ら不思議な点もないだろう。まして、だからこそ暗房への通路ができたことも知られたというところだろうか。 地下に続く階段はドアをくぐりすぐのところに見つかった。酒蔵かなにかに用いられていたらしい痕跡が窺える。細く、急な勾配のある階段だ。足もとを照らすものは蓮が用意してくれた小さな懐中電灯があるが、その光もずいぶんとこころもとない。三人は必然的に一番小さな少女の見目をもったゼロを気遣ったが、ゼロは危なげなくふわふわとした足取りで階段を下りきってしまった。 両開きのドアがある。漂う空気はどこか重々しく、それまでと比べ一変したものとなっていた。 「ところで」 晦が口を開く。 「あの姉ちゃん、……いや、兄ちゃんか? どっちでもええわ。姉ちゃんは“律”の現状を知りたいっちゅう話はしとったけど、安否を知りたい、とか、連れて帰ってきてほしいっちゅうような言い方はせえへんかったな」 「……なぜ救出を請わなかったのだろうか」 サーヴィランスがドアを押し開けながら続いた。晦はサーヴィランスの隣に立ち、その顔を仰ぎ見ながら肩をすくめる。 「手遅れ、っちゅうことやないんかなあ」 「……手遅れ?」 「長く留まりすぎると、殺されてしまうか囚われてしまうんやろ? 姉ちゃんは律がどうなっとるか、もう知っとったんと違うんかなあ」 「どのようにしてだ?」 訊ねたサーヴィランスに、晦は「さあ?」と言ってドアをくぐる。 「まあ、姉ちゃんのとこに電子郵件……まあメールみたいなもんなんかな? メールもよう知らんけど。送ってきてたんやろ? ほいだらそれを送ることのできる場所……なんちゅうたかな」 「ターミナルだ」 ハクアが口を挟む。 「ここに来る前、暗房に関連した依頼の報告書に目を通してきた。暗房に長く留まると、どうやら物に変わってしまったりするらしい。それが事実なら、律やその他の者たちもこの中で何か別のものに変じてしまっているかもしれない。蓮は何らかの手段でそれを察知したということではないだろうか」 言を落とすハクアの横を、ゼロがするりとすり抜けてドアをくぐり抜けていった。手にはどこから持ち込んできたのか、スプレー缶を持っている。 「目印を残しておくのです」 言いながら、ゼロはドアをくぐりすぐ向かいの壁にスプレーでマルを描いた。それから左右をきょろきょろと確かめた後、くるりと振り向いてやわらかな笑顔を浮かべる。 「ゼロは思うのです」 歌うような口ぶりで言葉を述べた。ふわふわとやわらかに波打つ銀色の髪と、身につけているのは白いワンピース。仄暗い暗房の中で、彼女の姿はどこか小さな光のようだ。 「迷路というのは、妄想が筋道だった思考に取って代わった人の精神を象徴しているようだと。迷路に囚われたから妄想に憑かれ変飛となるのか、囚われ変飛となった人々の妄想が暗房を迷路としたかのようなのです」 すらすらと編むように続けたゼロの言葉に、三人の男たちは思わず押し黙り、歌うように口を開き微笑む少女の姿に注視した。 「だから、暗房の中に明快な筋道を通してみれば、もしかするとこの中に囚われた人たちに何か変化が出るかもしれないのです」 言う間にも、少女の姿は見る間に大きく変化を帯びる。あっという間にサーヴィランスの身丈をも超えて、ゼロの体は通路の天井に阻まれ腰を曲げる格好となってしまった。 空間がめきめきと音を鳴らし始める。天井からはぱらぱらと石材のようなものが砕け降ってくる。 「ちょ、ちょ、危ないからやめとき!」 晦がゼロを留めようとして歩み寄った。ゼロは変わらずふわりとした笑みのまま「だいじょうぶです」と応える。 「崩れないようにします。迷路になっているなら、このまま壁を壊して直進すればいいのです」 「律がどこにいるのかも判らないのに、か? 見つかるまで壁を壊し続けるのか?」 サーヴィランスが腕を組みゼロの顔を仰ぐ。 「見たところ、この空間は比較的に脆い構造になっているようだ。こちらがどんな手を用い“大丈夫だ”と考えたところで、それこそどんな変化を生み出してしまうかも分からん。君はスプレーを持ってきたのだろう? 壊すのではなく、それで目印を残していけばいい」 表情ひとつ変えることなく述べたサーヴィランスの言に、ゼロはわずかに首をかしげた後、再びもとの大きさに戻ってぺこりと腰を折り曲げた。 通路の中は、仄かにではあるが、電気のようなものが通っているようだった。壁ごしの弱い間接照明のような光が辺りを照らしている。そういえば前に暗房を訪れた者が電気系統を修理していったとか言っていただろうか。だからこそ、この内部から外部に向けてのメールを送信することも出来るのかもしれない。 数メートル進むごとにスプレーで矢印を描き残しているゼロの横で、晦が周囲を検めながら首をひねった。 「影魂っちゅうのが出てくるんと違うんか? ひとっつも出てけえへん」 「……対策は考えてきたのだが」 ハクアが目を細める。 「ところで、気になることがもうひとつあるんだ」 「気になること?」 晦が問う。ハクアは晦に目を向けた。 「蓮と律が小さい頃から見ていたという、夢の内容だ」 「……緑と赤が点滅する部屋の中、ですか?」 ゼロが訊ねると、ハクアは小さく首肯する。 「例えば暗房という空間が、人の持つ妄想に実体を与えたりもたらしたりするような場所であるとしてだ。この中に囚われた律が、この中で出会った何か――あるいは何者か、か? いずれにせよ、それに対して母親の姿を重ね見たとした場合に、それの姿が媽に変じて見えたとしても、何らおかしなことはない」 「?」 ゼロは首をかしげる。 「求めるものの姿を重ねて見てしまう、とか、あるいは求められるものの姿に変じることの出来る何かがいる、ということですか?」 「なるほど」 サーヴィランスがうなずいた。 「“俺たちの媽”が意味する“俺たち”が“律と蓮”を指しているわけではないとすれば」 晦が小さくうめく。 「なるほどなあ。なんや、面倒くさいやつがおるみたいな感じやな」 ほどなく、広い空間へ抜け出たところで四人は足を止めた。ゼロが矢印を描いてから空間の中を駆け回る。 「階段があります」 言って、見つけた階段を数段降りる。だが、 「壁が進路を塞いでいるのです」 階段の進路を塞ぐ壁を探りながら、ゼロはわずかに残念そうに目を瞬いた。 ゼロを追い歩き進めていたサーヴィランスが、空間の奥に伸びる通路の先に目をやって眉をしかめる。その表情のわずかな変化に気がついたハクアがサーヴィランスに近付いたのと同時に、晦の声が三人を引きとめた。 「これと違うか?」 晦が見つけたのは壁に埋め込まれる形で飾られていた小さな扉だった。金庫のようにも見えるそれは、しかし、容易にその扉を開けて中を検めさせてくれた。 パソコンのようだ。が、キーボード的なものはない。簡単な数字と文字入力ぐらいは出来そうな押しボタンが画面の横についているだけだ。ただ、カードを差し込むためのものだろうと思しきくぼみがついている。画面は真っ暗なままだ。 「これが“ターミナル”か?」 ハクアが晦の後ろから覗き込む。晦は小さくうめきながら首をかしげた。 「残念なことに、わしの機械知識はほんっとうに残念なもんや。どう触ればいいのかもよう分からん」 言いながら恐る恐る指を伸ばし、沈黙したままの画面をつつく。 「俺も詳しくはないが」 言いながら、ハクアも同じように指を伸ばして押しボタンに触れた。“電源”と書かれた、比較的大きなボタンを押してみる。 「あ!」 ゼロが声をあげたのは、ハクアがボタンを押したのとほぼ同じタイミングだった。サーヴィランスがゼロを庇うように立ってトラベルギアを構え持つ。 晦とハクアがふたりのもとに走りより、サーヴィランスがねめつける方向に目を向けた。 通路の奥に女がひとり立っている。煌びやかな袍を身にまとった壮年の女だ。華美な扇子で口許を隠してはいるが、その顔が笑みを浮かべているのは手に取るようにわかる。 「媽……か?」 晦が口を開ける。と同時に、それまでは無色の光を放っていただけの照明が大きく明滅し、その後に赤い光を照らすようになった。女は扇子をゆるゆると振り、何事かを告げたようだ。が、その声が四人の耳に届くことはなかった。女は再びゆるりと笑い、そうして軽やかな足取りで通路のさらなる奥へと進んでいった。 「待ってくださいなのです!」 ゼロが女のあとを追い通路を走る。赤く明滅する照明は、何かの危機感をあおっているようだ。 サーヴィランスもまたゼロを追って走り出す。ほどなくしてその目が捕らえたのは、通路の曲がり角――女が姿を消した方角から楽しげに踊るような足取りで現れた数体の人形の姿だった。 ハクアもまたふたりを追い走り出そうとしたが、ふと、横目に晦の姿を見とめて足を止めた。晦は先ほど見つけたターミナルを前にして眉をしかめている。 「どうした」 声をかけながら近付いたハクアが見たのは、真っ暗だったはずの画面いっぱいに映る男の顔だった。男の顔は苦しげに歪み、あるいは幸福そうに笑いながら、画面をにゅるりと抜け出して顔面を突き出し、そうして数度の瞬きをした。 「……われが“律”か」 晦の言葉は疑問というよりは断定のそれに近かった。 画面の中から顔を覗かせた男の顔は、蓮のそれにとても酷似していたのだ。 男は瞬きさせた両目を大きく開き、ぎょろぎょろと周囲を確認するように見渡した後、こそこそとささやくような声で応え始める。 「あんたたち……媽に見つかってはいないだろうな?」 現れた人形たちは子ども程の大きさをしていた。見事な技巧の施された、劇や何かに用いるようなものなのだろう。とても滑らかな動きを見せながら、背にしていた刀剣をすらりと抜き取り構え持った。踊るような動きでゼロに近付き、刀剣を一閃、横薙ぎに滑らせる。が、その切先がゼロの体に触れるよりも前に、ゼロを守り庇うように立ったサーヴィランスのギアがその動きを押しとどめた。 火花のようなものが散る。赤い光は変わらずに明滅し、なぜかすべての音がその中に吸い込まれているかのようだ。サーヴィランスのギアが人形のひとつを破壊し、同時に二つ目に向けて投げられる。まるで無声映画の中にいるようだ。――否、これは ゼロはサーヴィランスの横をすり抜け、影魂たちの間をぬうように走って女のあとを追った。もちろん、女の姿はもうないだろう。だが、たぶん。 「媽は、楽しみたいんだ。ただ単に、自分が楽しくあればいいのさ」 律はそう言って顔を歪める。次の瞬間には別の男の顔になり、またすぐ後に別の顔になる。どの顔の苦しそうに歪み、どの顔も幸福そうな笑みを浮かべた。不安定な中で、律は深いため息をつく。 「知っているか? 双子は引き合うんだ。俺たちがここに、蓮たちは外に。そうしてお互いが死ぬまでお互いを考えあい、引き合う。そこに生じる力を、媽はなんと言っていたかな……。蓮が生きているかぎり俺は死ねない。ここでこのままぶぅんぶぅんと動き続けるしかない。少しずつ……少しずつおかしくなっているのがわかるんだ。俺が誰なのか、何なのかわからなくなってきている……ぶぅんぶぅんって動くんだ」 言って、律はきししと笑った。黄ばんだ歯が見えるが、それが律のものなのかどうかもわからない。 「戻って蓮に伝えてくれ。……そのうち、気が向いたら会いに来てくれよってな」 声がいくつも折り重なっている。「来ちゃだめだ」という、弱々しい声も混ざっているような気がした。 「まるで劇の中にいるようだと思ったのです」 階段をのぼり、賓店の出入り口のドアを前にして、ゼロはそう言って三人の顔を順に仰いだ。 「音がないのです。いっさいの音が消えていたのです」 赤く明滅するあの空間の中に立ったときから、ゼロには、サーヴィランスの動きや影魂たちの動きがどこか他人事のもののように思えていた。まるでテレビや映画を観ているような感覚だと。だから、人形の刀剣が自分の身に押し迫っていたときも、危機感のようなものはどこか遠くにあるような心地でいたのだ。サーヴィランスが庇ってくれていなければ、ケガのひとつも負っていたかもしれない。 「俺たちがいたあたりは普通だったな」 言って、ハクアが晦を振り向く。 思えば、ハクアと晦がいたのは赤くもなく緑でもない、ごく普通の照明に照らされた場所だった。 「赤と緑が点滅する部屋の中でうずくまる兄ちゃんの夢、か」 呟き、晦は眉をしかめてアゴをなでる。 女を追いかけたゼロが観たのは、緑色に明滅する空間だった。その中には精巧なつくりのなされた人形が数知れず転がり、地の底から響いているかのような怨嗟の声が一面に満ちて広がっていた。 「あのお人形がすべて影魂なのだとしたら、きっと、影魂は誰かが故意に作り出しているものだと思うのです」 ゼロの言葉に迷いはなかった。 サーヴィランスはギアで切り伏せた数体の人形を思い出した。まるで人を斬っていたかのような感触が、今も手の中に残っている。 「人形ではない……」 呟いたサーヴィランスにハクアが眉をしかめた。 「外部との連絡をつないでおけば、よほどのことがない限りは暗房内に足を寄せる者も出てくるだろう。……そういうことか」 ハクアの言に、ゼロもサーヴィランスも押し黙った。晦だけが小さなため息を吐いた後にドアを開ける。インヤンガイの薄汚れた空気ではあるが、暗房のそれに比べれば心地よくすら感じられる風が賓店の中に流れ込んだ。 「ひとまず、今回の依頼は結果が出て仕舞いや。姉ちゃんのところに戻ろか」 転がる人形をひとつひとつ愛でながら、女は慈愛に満ちた目で笑みを作る。 「かわいいかわいいわらわの稚児たち。さあ、もっとこの慈母を愉しませておくれ」 言って愉しげに笑みをもらす。 その声が響く中で、ターミナルの画面がじじじと揺れた。
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