至厳帝国皇帝クルクス・オ・アダマースが私室を訪れた時、元ロストナンバーであり皇帝の側近でもあるロウ・アルジェントは久々の休息時間を得て惰眠をむさぼっているところだった。 何せ、トコヨの棘と呼ばれる正体不明の悪意から異世界シャンヴァラーラを救うべく、連日あちこち飛び回っている身である。元々異界の竜神だったロウは、シャンヴァラーラ人が驚くほど頑丈だが、それにも限度というものがある。 ロウはこの一ヶ月、ほとんど不眠不休で各【箱庭】の調査に当たっていたのだ。 シャンヴァラーラへ帰属する際、人間として生活するに不自然さや不便のないよう、創世神にして守護神でもあり、元ロストナンバー仲間でもある夜女神ドミナ・ノクスに竜神としての己を封じてもらっているのもあって、さすがにそろそろ倒れるかもしれないと思っていたところだった。 きちんとしたベッドでまとまった時間を睡眠に使えるのがいったい何日ぶりなのかも判らない。 武装を解くのももどかしくベッドに倒れ込み、ブランケットを頭からかぶったとたん意識が途切れたことは覚えているが、気づけば、「ロウ、起きろ、出かけるぞ」 ――何故か、皇帝陛下にブランケットを思い切り剥がされていた。 体機能を何十倍にも上げ、様々な衝撃から肉体を保護してくれる帝国の最新バトルスーツに身を包んだものものしい様子から何かあったのだろうとは思ったが、それで釈然としない気持ちが消えるわけでもない。「……まだ三時間しか経ってないじゃないか……」 ううともああともつかぬ唸り声とともに身体を起こす。「三時間眠れればましなほうだろう」「それ、俺のこの一ヶ月の総睡眠時間を知ってて言ってるか」「知らんな」「この冷酷非道皇帝陛下め……俺の怒りで頭髪が死滅してしまえばいいのに……!」「生憎だが毛根は丈夫なほうだ」 しれっと返し、クルクスがブランケットをぽいと放り投げる。 ロウを見下ろすクルクスは、眩しいような金髪に理知的で鋭い碧眼、白磁を髣髴とさせる肌の、二十年三十年前はさぞかし若い娘たちが騒いだだろうと思われる美壮年だ。高貴さをにじませた美貌といい、五十を超えてもたるみのない引き締まった身体といい、彼には至厳帝国皇帝としてのカリスマが溢れている。 ――といっても、中身を知れば知るほど、その外見とのギャップに遠い目をしたくなるのも事実なのだが。 ロウは溜息をついてベッドから降り、上位の武官であることを示す青い軍服に袖を通した。「……で、なんだって? 本当に、俺から貴重な睡眠時間を奪ってまで行かなきゃいけないような案件なんだろうな?」 無論、クルクスが行くというのなら、たとえ半身が千切れてでも同行するのがロウの役目であり誓いだが、自分の百分の一も生きていない人間に散々振り回されて喜べるほど被虐趣味でもない。 ベルトを締めながら問えば、皇帝陛下はいつの間にやら遠距離通信機で誰かと会話しはじめていた。転送機器に関する内容がちらほらと聞かれたから、クルクス直属の技術者たちかもしれない。「……」 能力制御用のブレスレットをはめながら、ロウはまた溜息をつく。 手にした遠距離通信機、要するに壱番世界でいうところの携帯電話の高性能版だが、それにうさぎのぬいぐるみのようなファンシーで可愛いストラップがついているのにも慣れた。よほど身近なものしか入ることを許されない皇帝陛下の私室が実は綺麗な色合いの総レースで彩られていたり、寝室に可愛らしいぬいぐるみが山のように置かれていたりするのにも慣れた。 慣れたが、バトルスーツの肩口付近に可愛い花柄のステッカーが貼ってあるのを見つけてつい生暖かい眼差しになってしまうロウを責められるものは恐らくいないだろう。「俺、なんでお前の側近やってんのか時々判らなくなるわ……」 家族で親友で側近。 絶望のあまり覚醒して異世界を彷徨っていたロウが、救いを得てこのシャンヴァラーラに帰属する道を選んだ理由には間違いなくクルクスが関わっていて、確か、彼らがここに至るまでにも、わりといい話が積み重ねられてきたような記憶があるのだが、「それはもちろん、お前があの時『子分にしてください』と泣いて頼んだからだろう」「あーうん、ごめん、言った俺が馬鹿だった」 この、いつでもどこでも、言動が本気なのか冗談なのか判らない皇帝陛下の前では何もかもが空しい。「……で、なんだって? 転送機を使うからには他の【箱庭】絡みなんだろう」 放っておくとどこまで脱線するかわからないので本題に入る。「発芽直前の棘が見つかった」「! どこに」「『晶鳴宮(しょうめいぐう)』だ」「ああ、あの綺麗な……くそ、俺が調査しきれてなかったところだな。《異神理(ベリタス)》の種類は?」「『苦痛』。ありとあらゆる精神防御を突き抜けて送り込まれる痛みだ、相当な耐性のあるものでも相対するには苦労するかも知れん」「……深度は。発芽直前というからには、もう?」「ああ。すでに、全体に根を張っている。恐らく、あの【箱庭】は助からん」「住民の避難は……まぁ、済んでるんだろうな、お前のことだから」「当然だ。恭順を選んだ【箱庭】の民はすべて帝国の貴い財産。ひとりたりとして無駄死にさせるわけには行かんだろう。とっても、そもそも小規模な【箱庭】だ、それほど手間でもなかったがな。……あとは、【箱庭】の最期を見届けるだけだ」「で、その格好ってことは……確かめに行くつもりか」「何か、情報が得られるかも知れないからな」「俺とお前のふたりで、か。……色気のない道行きだな」「だが、私とお前以外に、誰が行ける?」「そりゃまあ、そうだ」 やれやれとこぼしてから、皇帝陛下の視線に気づいて首をかしげる。「なんだよ?」「お前の友人たちを招待しても構わないぞ。あまり嬉しくない旅ではあるが」「あ? ロストナンバーのことか。だが……いや、ああ、そうだな」 滅びを迎えようとしている小さな【箱庭】の調査。「彼らに、ひどい痛みを押し付けてしまうことになるのかも知れないが……」 トコヨの棘がもたらす、魂を貫く痛みと、救うことのできない無力感への痛み。 本来なら、彼らが味わう必要のない苦しみだ、それは。「……今更、か」 しかし、もうすでに、充分巻き込んでいる。この世界に心を傾けてくれるロストナンバーもいる。このまま、何もなかったような顔をして突き放すほうが無責任なのかもしれない。 ならば、この世界が直面している『滅び』の凄まじさを、目の当たりにしてもらうことも必要なのだろうし、もしかしたらそれがこのシャンヴァラーラを救うヒントになるのかもしれない、と、「すぐに連絡を取る。……少しだけ時間をくれ」 ロウは、通信機を手に取った。
1.逍遥 煙水晶の枝に白銀の葉が揺れる。 鏡のように周囲を映す花弁を携えて、足元の可憐な花も揺れている。 「すごい」 森間野 コケが口にするのは、先ほどからそればかりだ。 「アレも、これも?」 「ああ」 「あっちの木も、こっちの花も?」 「あの鳥も、あの蜻蛉も、あのやわらかそうな土もだ」 「ぜんぶ、鉱物?」 「ああ。もう別の【箱庭】へ避難させたが、ここに住んでいた人間も皆鉱物の身体を持っている」 「……すごい。こんなところ、初めて来た」 「そうか」 「あの花、綺麗。コケも生やせる、かな?」 「あれはプラチナベースのコランダム花だな。ん……生やすというのは、そうかそなた、植物性のヒトか。ほう……一度眼にした植物をそうして再現出来るのか、面白いものだ」 頭から、白金の茎葉に眼に痛いほどの真紅の花を咲かせたコケを見下ろし、皇帝が感心の目をする。 「あ……はしゃいでばかり、ダメ」 ふるる、と頭を振り、コケは空を見上げる。 彼女の視線の先で、蒼穹はサファイアの色をして輝いている。 「別に構わんぞ。それはそなたにとってこの【箱庭】が美しいという事実に他ならぬのであろうからな」 「ん……でも。コケ、最後に晶鳴宮を知る機会が欲しくて、来た。もしここで消えてしまったら……もう一生、訪れること、出来ない、から」 「そうか。ならば、この光景をすべて灼き付けてやってくれ。最期を看取られることは、晶鳴宮にとっても幸いだろう」 「うん。でも、コケ……」 言いかけて詰まり、コケは視線を足元に落とす。 本当は滅びなど見たくはないのだ。 救う方法があるなら、全力を尽くしたいと思う。 しかし、彼女にはその方法が判らない。 だから歯痒くて、何も言葉には出来ないのだ。 「……綺麗な世界だよね、ホント」 小さな拳を握って黙り込むコケの傍らで、藍玉色に透き通った樹から紫水晶の色をした果実をとり、蓮見沢 理比古が微笑む。彼が、透明な光沢を持つ果実を口に含むと、ふわり、と甘い芳香が漂った。 「あ、美味しい。不思議だな、手触りは石なのに……ちゃんと果物だ」 細い、しなやかな指先が、慈しむように樹の外皮をなぞる。 「ここが、もうなくなっちゃうなんて……嘘みたいだ」 やわらかい灰色の眼に、明るい陽光が映り込み、銀の光沢をまとわせる。 「世界が滅びるって――《異神理》が、壊すんですか? 何故?」 「判らぬ。否、《異神理》について我らが理解出来ていることのほうが少ない。そして、シャンヴァラーラの住民で、《異神理》の存在を知っているのは私とロウだけだ。――ああ、今はそなたらも、だが」 「え、どうして? こんな大変なことになってるのに。『華望月』の人たちだって、《異神理》を見たら判ってくれるんじゃ……?」 「……見せられぬのだ。特に、強い神を持つ【箱庭】ほど」 「それは、どういう……」 言いかけた理比古の眼前を、銀色に透き通った蝶が、純金の粉をきらきらと零しながら飛んでいく。 理比古がそれに意識をそらされた間に、皇帝は足を速めロウたちのいるほうへと行ってしまった。 「シャンヴァラーラの住民には見られない? ……『この世』の住人である彼らに、この世ならざる『深部』にある《異神理》を見ることは出来ない……? じゃあ、何故彼は、《異神理》を知ったんだろう?」 ロウと言葉を交わす皇帝の鋭角的な横顔を見つめつつ呟く。 傍らを歩くコケが理比古を見上げた。 「コケ、判らない、けど」 「うん?」 「――どうしたら、誰も泣かなくて済むか、それが知りたい」 「ああ……そうだね。俺も、それが一番知りたいよ」 《異神理》、トコヨの棘によって崩壊してゆく【箱庭】たち。 そこには確かに命があり、営みがあるはずなのだ。 「自分を包む世界がなくなる。コケ、想像も出来ない。その時の、気持ち」 「うん。……《異神理》って、どこから来たのかな。世界を簡単に破壊してしまうような強い力を持つものに、創生の女神ですら気づかないのはどうしてなんだろう」 皇帝とロウを見る。 ふたりの横顔は静謐で、ただ強い意志によって律されているようにしか見えない。 * * * * * ムジカ・アンジェロの視線の先で、金の混じった瑠璃の色をした小鳥が、繊細な囀りとともに飛び去ってゆく。 「美しい世界だ」 緑がかった灰の眼を細め、ムジカは晶鳴宮の最後の光景を愛でていた。 まるで氷のような水晶の林を抜け、液体のダイヤモンドで満たされた湖を通り、銀の隕鉄が突き立ったかのごとき草原を抜けて、ロウと皇帝に先導されるまま、進んで行く。 「終焉……か」 ムジカの足取りはゆったりとして、迷いも焦燥もない。 「おれは、見届けるよ」 世界の死を。 消えていくものの、最後の輝きを。 それでも残る、なにものかを。 己にとっての神とすら言える弟を喪った、あの日から続く永遠の夜を受け止める者として。 絶望も哀しみも悼みも苦しみも、すべて。 「……クアールから言わせりゃ、ここにも色んな物語があったんだろうな」 傍らを行く蝙蝠人、ベルゼ・フェアグリッドの独白に頷く。 「きっとさ、いい話も悪い話も同じくらいあってさ、それはどれも、くだらねぇケドどっかしら輝いてたんだろうな。そういう話が無数に積み重なって、歴史とか記憶とかをつくってたんだろうな」 ベルゼは、世界崩壊の原因が探れないかと、晶鳴宮の住民たちの集落を通った際、特殊能力を使って看板などから過去を読んでいたが、そこにはただ人々の営みの記憶があるだけで、トコヨの棘に関する情報は何もなかった。 ベルゼは少し落胆すると同時に、自分自身が愛した普通の営みとなんら変わらない、それぞれの日常の光景を、共感と悼みを持って見つめたのだ。 「【災禍の従者】……」 小さな独語は、少し前を、小鳥の声に耳を傾けながら歩くムジカには聞こえなかったようだ。 「あの世界に災厄を齎した俺が……今更何かを救いたいだとか思うなんて、笑っちまうよな」 黄金に輝く太陽を見上げ、眩しげに目を細める。 数多の死を撒き、憎悪と怨嗟にまみれた自分が、こんなことを願うのはおかしな話だろうか。 (なぁ、英雄) 世界を救った金の狼人を脳裏に思い描き、 「お前だったらどうやってここを救う? なあ……教えてくれよ。……俺や、俺の親父の命を助けたときみてぇにさ」 益体もない問いと知って、小さく口にする。 前を行くロウと皇帝が立ち止まり、 「ここだ」 ロストナンバーたちに、黒く輝く岩で出来た洞窟の入り口を指し示した。 めいめいに周囲を観察していた面子が歩み寄り、促されるまま中へ足を踏み入れる。 「……なあ」 それに倣いつつ、ベルゼは気になっていたことをロウに問うていた。 「箱庭が統一されりゃ、世界はひとつになる……ってさ。シャンヴァラーラっつうひとつの【箱庭】が出来上がるって認識でいいのか?」 「まあ、そうだな。正確には、元に戻るということなんだろうが」 「ああそうか、元はひとつだったんだったか。でもよ、じゃあ、統一をやり遂げたあとも休めねぇよな? だってさ、統一された【箱庭】をブッ壊す《異神理》が出てくるかもしれねぇってことだろ?」 「ん? ああ……そうかもな。とはいえ、【箱庭】が統一されるのが先か、すべての棘が動き出すのが先か、って話なんだが」 「え? なんだって?」 独白に近いそれを捉えきれず、尋ね返すと、かすかな笑みだけが返った。 「いや、なんでもない。それより、足元に気をつけろよ、ベルゼ。ここから先はこの世ならざる地……常世とも称される、深部だ」 * * * * * 漆黒に輝く洞窟は、黒に包囲されていながら明るかった。 黒水晶を髣髴とさせる鉱石が、滑らかに――眼を射るほどの強さではなく、ふわりとした光を宿しているからだ。 「これが……崩壊寸前とはな」 雄々しい虎の姿をしたグランディアが、いったいどれだけの高さがあるのかも判らない天井を見上げて唸る。 「おいロウ、この先にその……トコヨの棘ってのがあるんだな?」 「ああ。属性は『苦痛』、記憶の中から最大級の痛みを引きずり出してきて突きつけるやつだ。ヘタをすれば苦痛に取り込まれて動けなくなる。気をつけろ」 「言われるまでもない」 返しつつ、グランディアの記憶の中には、彼がその生の中で味わった最大の苦痛がよみがえっている。 「痛みか……二度と味わいたくないと思っていたが。俺様も、あの時のな……」 独白しかけ、頭を振る。 「しゃらくさい。そんなもの、ねじ伏せてくれるぜ!」 王者たらんとするものに、恐怖や躊躇があってはならぬのだ。 油断なく辺りを伺うグランディアより少し後方を、周囲の光景を目に焼き付けるように見つめつつサーヴィランスが歩いている。 今まではずっと黒い覆面で顔をおおっていたサーヴィランスだが、今日は素顔だ。 雄々しく意志の強そうな、それでいて深い知性を感じさせる顔には、大きな、醜く無残な傷跡が残っている。傷跡を隠すために覆面を被っていたサーヴィランスだったが、今はそれを気にしている様子もなかった。 青の眼差しは強く、それでいて静かだ。 「サーヴィランスさん、マスクしてないんだ? 酷い怪我をしたんだね、知らなかった」 以前、同じ時期にシャンヴァラーラでの依頼を受けた理比古が不思議そうに彼を見ている。いっしょに行動したわけではないが、何か不備があっては困るからと顔合わせだけはしていたので、それで覚えているのだろう。 「ああ、過去に少し。……気味が悪いなら、」 「ううん。傷なら俺も持ってるよ、見せられる位置じゃないけどね。それに、俺たちに見せても平気になったっていうのは、サーヴィランスさんが何か見つけたってことなんだろうから、すごく貴いと思う」 おっとりと微笑む、良家の子息然とした理比古のどこに傷があるのかは少し気になったが、同行者らの誰も彼の傷跡を厭いはしなかったし、悪し様な罵り言葉や、侮蔑や憐れみの視線を寄越すものもいなかった。 サーヴィランスは、更に荷が軽くなったような気がして、唇の端でかすかに笑んだ。 「そうだな。実を言うと、それはこのシャンヴァラーラのお陰だ」 「そうなんだ? じゃあ今日は」 「……世界が終わる瞬間をこの眼に焼き付けに来た」 すべてを見届ける。 シャンヴァラーラを救う手がかりを見い出すために。 「私は、私の心に大きな転機を与えてくれたこのシャンヴァラーラを、心から愛している」 この世界で大切な光を見つけた。 この世界で憎悪と向き合った。 この世界が彼に、生きることそのものが両親に報いる行為であり、彼が生きる限り顔の傷さえ誇りだと教えてくれた。 そう、この世界が、彼に、覆面を外す勇気と、憎しみのためではなく戦う意味を思い出させてくれたのだ。 「私は、この世界を何としても、守りたいのだ」 黒く煌く砂鉄が流れ落ちてゆく滝の傍らを通り、いくつもの気配を感じながら――生きたものではないようだ――、ロウと皇帝に導かれるまま進んでゆく。 「俺も、シャンヴァラーラに生きる希望をもらったよ。だから俺も、気持ちはサーヴィランスさんと同じ。どうしたら、この世界の誰も哀しまずに済むかなあって。ね、コケ?」 緑色の頭に真紅の宝石花を咲かせた少女は、理比古に話しかけられると真面目な顔でこっくりと頷いた。 「コケ、この世界のこと、あまり知らない。でも、何かしたい気持ち、同じ。――ここに来た皆、きっと、同じ」 「……そうだな」 強い意志を宿して煌く少女の金瞳が、進む先をじっと見つめる。 溶けた金属が混じりあい、間欠泉となって噴き出す奇妙な領域を通り、眩しいほどの黄金の木々が聳え立つ旧い森を通ってなおも進む。 地上を含め、美しくも力強い景色が、晶鳴宮の歴史と営みを想像させ、それがはかなく失われて行くことに、サーヴィランスは恐怖ともせつなさとも取れぬ思いを抱くのだった。 「……無常だ」 そして、彼は、無力だ。 出来ることをするのだと決めた。 出来ぬことに歯軋りするのはやめた。 ただ最善を尽くすのだ、と。 しかし、それでもやはり、己という存在の小ささが、今は空しい。 * * * * * 真遠歌は、初めてシャンヴァラーラという小世界群を訪れた。 よって、【箱庭】がどうとか、誰と誰が争っているとか、世界を壊す正体不明の悪意だとか、そういうもろもろの詳細は知らないし、自分がいて何が出来るのかなどと思いもした。 しかし、 「誰も、見届けるものがいなくては寂しいでしょうから」 鬼と人とのあいの子である自分が痛みに強いことは知っていて、何か役に立てることがあれば、と依頼を受けたのだった。 「大丈夫か、真遠歌」 岩や、鉱物で出来た植物に触れながら進む真遠歌に声をかけるのはムジカだ。 彼は、真遠歌の目が見えないことを気にかけているらしい。 真遠歌は小さく頷いた。 「はい、視覚こそ閉ざされていますが、他の感覚はむしろ鋭敏になっていますので。お気遣い、ありがとうございます」 手を伸ばした先には、深い海の色をした柱。 触れると、それは、海風の匂いを真遠歌の鼻腔に届けた。 「深部、というのでしたか……ここは、地上にもまして不思議な場所です。晶鳴宮の持つ様々な顔を、石に託して見せてくれる」 真遠歌の眼はもうない。 しかし、真遠歌の持つ鬼の血は、彼を生かすために視覚以外の感覚を鋭くし、常に助ける。 「見ることは出来ないけれど、匂いを、感触を、音を、空気を覚えておくことは出来ます。……この世界が最後に見せてくれるすべてのものを、記憶しておきたい」 そっと触れた緑柱石色の壁からは、地上で通った輝く森の、木々が立てる葉の音が聞こえた。 「見えないからこそ見えるものがある、ということかな。真遠歌の意識に映る晶鳴宮は、美しいか」 「はい。美しくて、生きた音がします。それが、過去形に変わってしまうことが、残念です」 黄金に輝く回廊をくぐる。 壁に触れたとき、太陽の匂いと暖かさが真遠歌を包み、彼は微笑した。 晶鳴宮のすべての営みが、この深部には凝縮されている。 それは過去のものであったり、もう喪われたものであったりするのかもしれなかったが、確かにこの世界が生きていた、今もまだ生きている証のように思えて、真遠歌はそのひとかけらも余さず覚えていよう、と手のひらに意識を集中させる。 ――そんな彼らの足元から、身を切るような冷気が這い上がるまで、それほど時間はかからなかった。 2.断罪のたなごころ 黄金の回廊を抜けた瞬間、空気が変わった。 「あれが……《異神理》?」 誰かがぽつりと呟く。 痛いほどの冷気が周囲を取り囲み、肌をちくちくと刺していく。 「ンだよ、この、寒気……痛ェ」 ベルゼの声がかすかに震える。 『それ』は、大地に突き立つ巨大な楔のかたちをしていた。 大きさにして、五階建てのビルくらいだろうか。 色はすべての喜ばしさを吸い込むような黒。 ――しかし、それだけではなかった。 それの表面には、無数の『顔』がびっしりと張り付いて、恐ろしいほどの苦悶の表情で呻き声や叫びを上げ続けている。 顔、顔、顔、顔。 百や二百ではきかないそれらは、人間のものだけではなかった。 人間の他に、動物や魔物、妖怪や神聖な生き物まで、ありとあらゆる顔があった。唯一の共通点が、苦悶の、苦痛の、絶望の、見ているこちらが息苦しくなるような表情だった。 しかも、その顔が時折動くのだ。 それと同時に、歪んだ口元からぞろりと舌が零れ落ち、絶叫と慟哭を撒き散らす。 『顔』の上げる叫びで、鼓膜が震えるほどだ。 「痛いって……泣いてる?」 コケが呆然と塔を見上げる。 「痛くて痛くてたまらないのに、死ぬことも狂うことも出来なくて?」 吐く息が白くなる。 手が、足がかじかみ、感覚をなくす。 (痛い、痛い、痛い、痛い) (助けて、痛い、助けて、助けて) 『苦痛』の《異神理》が泣き叫ぶ。 それと同時に、楔全体が大きく震えた。 「――来るぞ」 こんな時でも静かな皇帝の声。 それが最後まで発せられたところで、トコヨの棘から重苦しい波動がほとばしり、 「……!!」 その場にいた全員を飲み込む。 全身を、激痛が包んだ。 * * * * * 「小さい」 生まれ落ちて、初めて聞いた言葉がそれだった。 「ひとりっきりで、こんなに小さいなんて……前例がない」 彼女らの種族は、生まれた時からそれなりに意識がある。 彼女ほど明晰なものは稀で、周囲の者たちはまさか彼女が聞いていたとは思ってもみるまいが。 「不吉な……凶兆じゃないのかい、これは」 「こんなに小さくて、大人になんてなれるもんかね」 口さがない言葉が、母を、自分を抱く人を苦しめているのが判った。 母が弱ってゆくのが判った。 身体だけでなく、心までが。 (……コケの、せいで) 「親に向いてなかったんじゃ」 「他の姉妹はたくさん生んでいるのに」 「腹が小さかったから、こうなるんじゃないかと思っていたんだよ」 「祝う準備をしたのに、ひとりだけじゃあねえ……」 成長した今では普通にやり取りをする近隣の住人たちが、このことを思い出すと怖くなる。 「ごめんね」 母が赤子を抱きながら泣いている。 祝いに来たはずの人々は、母をひとりぼっちにして、皆、帰っていた。 「ごめんね、寂しい思いをさせて。ひとりしか、生んであげられなくて」 彼女らの種族は多産が基本だ。 三つ子、五つ子、七つ子などはごくごく普通のことで、むしろひとりしか生まれないというのは、ほとんどあり得ない出来事だった。 (違う) 彼女が少し成長してからも、近所の目はどこかよそよそしかった。 ひとりで、小さな身体で生まれてきた彼女を心配してはくれたが、どこか距離を置かれている気もしていた。 「お母さんは悪くない」 口にしたら、全身が痛んだ。 指先から微塵に刻まれるような、寒気を伴った激痛にふらりとよろめく。 「痛い……」 それを心の痛みと理解するのに時間は要らなかった。 「嫌い」 身体がちぎれそうだ。 近所の人々の心ない言葉が、ではない。 「……嫌い」 呟くごとに、身体が切り裂かれるような錯覚を覚える。 「お母さんをひとりにしたコケなんて、大嫌い」 無力だったあの時の自分。 子どもが生まれる先を選べないものだとしても、母を病ませ、歪ませた自分自身を、コケは許せずにいるのだ。 「痛い……」 両腕で身体を抱いて、ずるずると座り込む。 誰もいない。 ここには、コケだけだ。 「ひとり、怖い」 苦痛の暗闇が、コケに覆いかぶさり、彼女を隠してゆく。 * * * * * 全身が痛い。 殴られ、蹴られ、熱湯を浴びせられ、どこかに打ち付けられたから。 ――人には言えない痛みもたくさん与えられた。 しかし、本当の痛みはそのせいではなかった。 「何故お前が歴史ある蓮見沢の家に生まれてきたのか判らん」 「出来損ないの愚図が、恥さらしな」 「何故この程度のことが出来ない! 無能な落伍者を飼っていられるほどこの家は慈悲深くはないぞ!」 「お前に兄と呼ぶ許しを与えた覚えはない」 「蓮見沢の姓を名乗ることを許されただけでも最大級の慈悲と思え」 「まだ終えていなかったのか、愚図め。その仕事が終わるまで食事も休息もなしだ、判ったか!」 「――出て行きたい? 恩も返さぬままどこへ行こうと? これだから妾の子は。まだ躾が足りないとみえる」 「お前の生まれてきた意味を言ってみろ。その意味を与えてくれるのがなんなのかを。――お前に、ここ以外で生きる意味などないんだ」 「出来損ないの憐れなお前に、ここ以外のどこに居場所があると? 笑わせるな」 物心ついた頃から投げかけられてきた言葉。 幼い頃から刷り込まれてきたのは、自分の根っこへの否定だ。 そして、自分が生きていることへの疑問と、身動きも出来ず囚われたままの自身に対する絶望だ。 「ごめんなさい」 痛みに立っていられず、膝を折り崩れ落ちる。 激痛にかぶせるように与えられる、罵倒と侮蔑と嘲笑が、理比古から抵抗する気力を奪っていく。 「俺は、何で生きてるんだっけ」 四肢が捻じ切れそうだ。 内臓が砕けて粉々になりそうだ。 「行かないと。だけど……どこに行けばいいんだった?」 激痛が思考を覆い尽くしていく。 大切なことがたくさんあったはずなのに、何も思い出せない。何も考えられない。 「痛い……痛いよ、にいさん」 無様に転がり、身悶えながら、何かを掴もうと伸ばした手は、途中で怯えたように拳をつくり、地面に落ちた。 「でも……本当は、知ってる」 乾いた笑みが唇をかすめる。 「俺にはこれが相応しいんだって。――そうだよね、にいさん」 痛みに全身を震わせながら、理比古はくすくすと笑っていた。 * * * * * 何もかも理解してここに来た。 何が起きるか、どうなるかまで予測して。 「兄さん」 「ああ」 「僕の大切な兄さん」 「ああ」 「可哀想な、兄さん」 「……ああ」 目の前にいるのは、彼の弟。 二年前に病で逝った、彼の『神』。 弟の描き出す世界が好きだった。 ――否、好きなどという言葉では生ぬるい。 あのめくるめく日の世界を愛していた。 ――否、愛などという言葉では届かない。 あの唯一絶対なる世界に心のすべてを預け、魂のすべてを捧げていた。 だからこそ、弟を喪ったムジカには、ぽっかりと穴が空いた。 すべてを飲み込む虚ろな穴が。 「逢いたかった」 「僕は会いたくなかったよ」 「……ただ、お前の姿を見たかった」 「僕なんて見て、どうしたかったの。何を許して欲しかったの。何を求めて、こんな馬鹿みたいな夢を見るの」 「忘れたくないからだ」 「……こんなふうに、痛めつけられても? 傷つけられても?」 「ああ」 「傷も痛みも贈り物だと? ――なんて愚かで可哀想なんだろう、兄さんは。僕はもう、いないのに」 投げかけられる冷ややかな言葉のひとつひとつが、ムジカの心を、身体を抉り、彼を血まみれにしていく。 ――けれど、ムジカはずっと微笑んでいた。 繊細な細工物のように美しい弟が、ムジカの身体に傷を刻むたび、意識が揺らぐような激痛とともに喜びがこみ上げる。 「偽者の僕に傷を与えられて喜ぶの、兄さんは。――どうして?」 身体中が砕けてばらばらになりそうな痛みの中、それでもムジカは笑っている。 嬉しそうに、幸せそうに。 「お前がおれに痛みをくれるたび、おれの中のお前が色濃くなるから」 二年前からずっと、そうしてきた。 心に痛みを与えることで、忘れないようにしてきた。 弟のつくりだすすべてが、ムジカにとっての世界だった。 「……ありがとう」 偽者の弟が浮かべる侮蔑の笑みですら、 「これでまた、お前を忘れないで済む」 ムジカにとっては至上の愛の証明だった。 * * * * * 初めはひとつの痛みだった。 「つ……ッ」 何かに斬り付けられたような、鋭い痛み。 しかしそれはすぐ、何百、何千もの痛みとなってベルゼを襲った。 弾丸に貫かれ、剣で斬られ、巨大な棍棒で殴られ、矢で射られ槍で貫かれ炎で薙ぎ払われ、死に値する痛みが次々とベルゼに重ねられる。 「あ、ああ、あああ……」 呻き声には絶望が混じる。 ――これが、何の痛みなのか判る。 激痛に含まれた怨嗟の声が判る。 「俺が……俺たちが、殺したんだ」 【災禍の従者】、そう呼ばれた頃のベルゼたちが、無慈悲に手にかけていった人たちの末期の苦痛。 あの最後の日、英雄に額を貫かれたときのような、――もしかしたらそれ以上の痛みを伴った無数の『死』だ。 泣き叫ぶ声が聞こえて、ベルゼはびくりと震えた。 あれは、子どもを殺された母親の嘆きだろうか。 恋人を殺された男の怨嗟の叫びだろうか。 いずれにせよ、それがベルゼたちを呪っていることに変わりはなかった。 ――望んで撒いた死ではなかった。 けれど、奪った命に変わりもなかった。 「痛ェ……」 立っていられず、膝から崩れ落ちる。 身体を丸めて、頭を抱えた。 「ンなこと、判ってんだよ」 咳き込んだら、血の味がした。 「――罰なんだ」 自分はこうなるべき存在なのだと知っている。 否、これでも足りないと思ってさえいる。 殺して、奪って、死を撒いた。 壊して、焼いて、滅ぼした。 たくさんのものを、心まで壊し、たくさんの運命を狂わせた。 「数え切れねェくらいたくさん、命を奪った、罰だ」 償うには、まだまだ足りない。 ベルゼの魂が、後悔の懊悩に苦く吼えている。 * * * * * 気づけば、真っ白な牙が咽喉元に食いつき、彼を地面へと叩きつけていた。 「な……ん、だ……!?」 脳裏が真っ白に染まるような激痛に、何が起きたのか判らずもがく。 しかし、身体はぴくりとも動かない。 「俺様は、さっきまで、確か……っぐ!?」 《異神理》とかいう正体不明の何かと、それが壊す世界を見届けに来ていたはずだった。 いったい何が起きたのかと巡らせた視線の先に、純白の鬣が雄々しく揺れる。 「貴、様は……!」 グランディアの目が見開かれる。 雄々しくも美しい純白の獅子。 かつてグランディアを満身創痍にまで痛めつけた百獣王レオが、彼の咽喉笛を食い破らんと、鋭い牙でグランディアを貫いているのだ。 「ぐ、おぉおおぉ!」 首ごともぎ取られそうな痛みが全身を灼く。 もがいてももがいても、牙はグランディアに食い込んでいく。 ――苦痛の咆哮は、誰の耳にも届かない。 * * * * * 顔が、斬り裂かれていく。 やめて、助けてと叫ぶ幼子の顔に、無残な傷が刻まれてゆく。 溢れる血が床を汚す。 気づけば、その血は彼が吐いたものに変わっている。 全身が砕け散りそうに痛む。 内臓が溶け崩れそうに熱い。 顔の傷が、そこだけ心臓になってしまったように脈打っている。 「う……」 食いしばった歯から、低い呻き声がもれた。 己を守って両親が死に、幼い彼は辛酸を舐めた。 犯罪者を許せず、狩り尽くすことを決めた。傷ついて傷ついて、血塗れになりながら今まで走り続けてきた。 「私は、」 言葉はかたちにならず、苦痛の声にまぎれて消える。 全身を苛む痛みが死の幻影をつれてくる。 血塗れで事切れた両親の、見開かれたままの目が脳裏をちらついた。 「あ、ああ……」 もう何十年も前の記憶が鮮やかにフラッシュバックし、サーヴィランスの身体は怖じたように震える。 否、事実、彼は恐怖していたのだ。 両親の死に。 自分自身の間近にあった死に。 そして、それをきっかけに噴き出して来る、精神の奥深くでいまだ根を張るいくつもの傷。 絶望、憎悪、憤怒。 苦渋と闘争に満ちた半生の記憶。 安らぎなどお前には二度と得られないと、もうどこにもないと嗤う、サーヴィランスの中の虚無。 ――顔の傷が、痛い。熱い。 「私は」 何かを掴もうと、手が伸ばされる。 * * * * * 「ごめんね、ごめんねぇ……」 母が泣いている。 泣きながら、彼の眼を抉り取っていく。 母の、痩せた白い指が自分の眼窩へと潜り込むのを、真遠歌は光が映る最後まで見つめ続けた。 「ごめんね、真遠歌。もう、こうするしかないの。こうするしかないの」 頑是無い童女のように泣きじゃくり、母は真遠歌の眼を抉る。 血の、生臭いにおいが周囲に漂い、彼の視界は闇一色になる。 痛みが全身を襲い、がくがくと身体が震えたが、真遠歌は平静だった。 (判っています、お母さん) 啜り泣きながら抱きしめる母を、真遠歌はそっと抱き返す。 ――覚えている。 もう、この頃にはすでにほとんど狂ってしまっていた母だった。 けれど、もう引き返せないところまで狂ってもなお、母が真遠歌に憎しみや怒りをぶつけたことはなかった。 母は心の底から真遠歌を愛してくれた。 (お母さんがわたしにこうしたのも、また、村でいっしょに暮らしたかったから) 人とは違う鬼の眼さえなければそれは叶う、と。 村人たちは、母子を受け入れてくれる、と。 愚かで憐れな願望だ。 けれど、必死で切実な、祈りのような願いでもあった。 「これで、真遠歌も母さんも幸せになれるから。皆といっしょに幸せになれるからねえ」 知っていたから、受け入れたのだ。 やせ細った、か弱い母の腕を振りほどく気にはなれなかったのだ。 (お母さん、わたしがあのとき、一番辛かったのは) 今でも、もう癒えたはずの傷が酷く疼くことがある。 (――あなたに眼を抉られたことよりも) 母が村人に殺されたときも、真遠歌がその村人たちを殺したときも、自分に生きろと願ったたったひとりを自分の手で送ったときも、泣けないかわりとばかりに酷く痛んだ。 (お母さん、あなたの顔が、もう二度と見られないということでした) 哀しみが痛みに変わり、真遠歌を引きちぎろうとする。 そして、痛みが、遠い遠い哀しみを身近な場所へとつれてくる。 3.Accept 激烈な痛みが肉体を、魂を責め苛む。 それはまるで永遠の如き長さで彼らの中に尾を引いたが、 「――……判ってる」 本当は、皆、知っていた。 長い長い、人生という旅の中で、そして、ロストレイルに乗って行く旅の中で、少しずつ気づき始めていたのだ。 苦痛の持つ意味を。 「ひとり、怖い。ひとりにするのも、怖い。だけど……でも」 コケが眼を開くと、その先には『あの人』がいた。 「……ひとりにするの、嫌だった。それは、自分がひとりになるのが怖かったから? それだけ?」 冷たく重たい荷物を背負う『あの人』に、寂しい思いをさせたくない。 ひとりで哀しい場所にいさせたくない。 それは、結局、自分がそうなりたくないからというだけなのではないか、と。それはなんと利己的で汚い情動だろうかと、胸の内に問いかけて、 「ううん、そうじゃない」 コケは首を横に振る。 「あの人の今も昔も、コケの今と昔も、全部、全部大切」 受け入れる。 『あの人』の全部を受け入れて、受け止める。 そう決めた。 『あの人』の笑顔が見られたら、コケは幸せなのだ。 「過去だけ見たって、仕方ない。未来を向いて、いきたい」 小さな拳を握り、『あの人』の幻に向かって叫ぶ。 「だから……痛みなんかに、負けたくない!」 ――瞬間。 全身を覆っていた痛みが消え、そして。 理比古はゆっくりと顔を上げ、身体を起こす。 「だけど、痛いって、生きてる証拠だから」 唇に、困ったような笑みが浮かんだ。 「生きてなかったら、痛いなんて感じられないから」 もはや与えられないものの重さと苦しみを知っている。 二度と会えない人たちへの哀惜なら、今でも理比古を縛っている。 「だけど……やるべきことがあるんだ、兄さん」 本当は、最初から、徹頭徹尾、判っているのだ。 「あなたたちに会いたい。会って、叱って欲しい。殴られたっていい、罵られてもいい、会いたい。だけど……」 滲んだ汗を拳で拭う。 立ち上がり、空へ向けた視線には、もう、穏やかな……しかし強い光が戻っている。 「無様にのた打ち回ったって、やり通すって決めたことがある。だから、ここで折れるわけにはいかない」 高らかな宣言に呼応するように痛みは消え、それから。 「……知ってる。覚えてるよ」 弟の最期の願いを知っている。 自分に囚われず、先に進んで欲しいという願いを。 「お前もおれを愛してくれてた。前を向いて生きることはきっと、遺されたものの務めなんだ」 だが、ムジカにはそれが出来なかった。 忘れるくらいなら自分を止める。 呪縛はむしろ、ムジカを生かす楔だ。 「臆病な兄でごめんな」 許しを乞い、苦痛の棘を胸に抱いたまま、偽物の弟に背を向ける。 この痛み、この諦観さえ捧げた魂の証であるのなら、それで構わない。 ――たとえ停滞が選択であろうとも、それはひとつの覚悟だった。 「判ってるよ……そんなこと、判ってるけど!」 握り締めた拳の熱さでベルゼは覚醒した。 叫んでいることは、意識の中でも現実でも同じ。 「償いきれねぇほどの罪だって判ってる! でも、俺はやっぱり助けたいんだよ、ホントに今更だけどさ!」 彼の手は、奪って、壊して、殺して、数え切れない罪にまみれた。 望んで犯した罪ではない。 けれど、だからといって赦されるはずもない。 「俺は英雄になりたかったんだ。誰かを助けて幸せにする、英雄になりたかったんだ」 戯言をと笑い飛ばされ、吐き捨てられる願いかもしれない。 それでも、もう【災禍の従者】ではないベルゼは、父と彼を救ってくれた英雄に憧れる。 「だから……今は、無理でも! 誰かを助けられる力が欲しいんだ。そのためにも、見届けなきゃならねぇんだ!」 突きつけられた滅びを最後まで見つめる。 次の滅びを防ぐためにも。 全身の骨をへし折られたような痛みの中で、グランディアは吼えた。 「憎しみ……そして苦痛かよ! そいつは、生物が持つ感情じゃねぇか!」 どこより来たったとも知れぬ悪意の塊が、何故感情などというものを攻撃の手段としているのかは判らない。 しかし、対抗する手段なら、わかる。 「心を無に、すべてを受け入れて耐えろ……って、ことか!」 もはや白獅子レオの姿はない。 ただ痛みだけがグランディアの中でたゆたっている。 「ふざけんな……俺様を誰だと思ってやがる……!」 怒りに満ちた咆哮が、辺りの空気を震わせた。 その苦痛の中、サーヴィランスは倒れもせず、膝を折ることすらしていなかった。 痛みが呼び覚ますのは、絶望や怒りだけではなかった。 伸ばした手は、そっと、むしろ慈しむように顔の傷に触れ、 「私は、生かされた」 力強い拳をつくる。 「私は、誓った」 父は、母は、彼が生きて幸せになることを望んだ。 最期まで、彼の幸いだけを願っていた。 「私は……戦う。戦える」 この世界が見せてくれたもの、与えてくれたものを忘れない。 想彼幻森は彼に、孤独な魂を照らしてくれた幾つもの光を思い出させた。 《異神理》の欠片は彼に、己の中に眠る幼く弱い憎悪を突きつけた。 結果、彼は、少しずつ強くなれたのだ。 「すべて受け入れ、私は進む」 この傷も、この苦痛も、すでにサーヴィランスの一部だ。 生きてきた証と思えば、いとしさすら感じる。 ――唇が、わずかに、やわらかい笑みを刻んだ。 身じろぎをしたら、手が硬いものに触れた。 それは、真遠歌が今住んでいる家の鍵だった。 「おとうさん、おにいさん」 言葉にすると、くすぐったい。 ふわり、と、痛みが和らいだ。 真遠歌の痛みを癒したのは、覚醒した先で出会った義父と義兄だった。 彼らと暮らす今、傷は驚くほど痛まなくなった。 「あなたたちが、待っていてくれるから、わたしは、歩けます」 真遠歌、と彼を呼ぶ優しい声、笑顔。 真遠歌もまた笑みを浮かべる。 「……大丈夫、すぐ帰ります。心配しないで」 見えない彼のためにあえて大きくつくられた鍵をぎゅっと握り締める。 それだけで、また、痛みは和らぐ。 ――そうして、痛みを抜けた先で、彼らは見た。聴いた。 顔も姿もなにひとつ見えない『誰か』が身悶えるのを。 声も言葉もなにひとつ聞こえない『誰か』が泣き叫ぶのを。 見えない手が宙を掻き毟り、のた打ち回り、聞こえない怨嗟の声を吐き出すのを。 そして、狂い歪んだ眼が、かたちも姿もない眼が、彼らを見据え、どんな言葉であったかも判らない呪いを彼らに叩きつけたのを。 確かに見、聴いたはずだ。 そこになにひとつ、証明する手立てがなかったとしても。 あの、魂まで凍えるような一瞬を、なかったことに出来るはずがない。 4.Sob 最初は、どこかで金属質の石同士が触れ合っているような、さらさらという音から始まった。 やがて世界全体が微弱に振動を始め、すぐ、いくらかくすんだように思える陽光を受けて輝いていた大地に、蜘蛛の巣のようなひびが入る。 ぴしっ、ぱきん、ぱりんっ。 薄いガラスが割れるような、繊細で甲高い音が聞こえる。 そこからは、あっという間だった。 ひびの隙間から、《異神理》の色をした黒いもやが噴き上がると同時に、割れて砕けた地面が崩れ落ちていく。 美しい宝石の花々も、鋼色の山も、黄金の森も、何もかもが、黒い虚無の中に飲み込まれていく。 最後まで、美しく輝きながら。 「ああ……」 彼らはそれを、白銀の竜の背から見下ろしていた。 コケが、ベルゼが、グランディアが、真遠歌が、言葉もなく崩壊を見つめている。滅びていく世界の奏でる、最後の音を聴いている。 「……歴史も、思い出も営みも、全部持って行っちゃうんだね……」 理比古がぽつりと呟く。 「《異神理》の滅びって、こういうことなんだ。……同じ光景、見たくないな」 その傍らでは、ギアの六弦ギターを手にしたムジカが、難しい表情で眼下を見下ろしていた。 「帝国は、こういうことを起こさないために侵略を繰り返してるんだと思っていたけど」 銀竜の尾の辺りから地上を――地上であった場所を見ている皇帝にちらりと視線をやってから、銀の鱗に眼を落とす。 「帝国領になった【箱庭】で、何故《異神理》が目覚める? ――ロウ、もう少し踏み込んだところまで教えてくれてもいいんじゃないか。あれはいったいなんなんだ? 帝国は何故、【箱庭】を侵略し続ける」 「……」 「それに、異世界の理を持ち込むべきではないと判っていて、どうして俺たちに頼むんだ?」 初めは、《異神理》を、夜女神が帰還した際に触れた異世界の理ではないかと思っていた。シャンヴァラーラと異界の理が拒絶反応をぶつけ合った結果が世界の崩壊なのではないか、と。 しかし、あれは違う。 今はそう思う。 「ロウ、どうなんだ」 「……クルクスが他の【箱庭】を帝国に吸収し続けるのは、そのほうが《異神理》を探りやすいからだ。帝国領になったら《異神理》が動かないわけじゃない」 「つまり、帝国が他の【箱庭】を我が物とし続けるのは、《異神理》を抑えるためではなく、早期に見つけ出すためにはそうするしかないから……?」 「そうだ。それは即ち、帝国に屈していない数百の【箱庭】すべてが、いつ《異神理》が発芽するか判らない危険な状況にあるということだ」 「じゃあ、他の【箱庭】を救うには、その【箱庭】を護ってる神を光神に吸収させるしかねぇってことか」 ベルゼの言葉に、銀竜が頷く。 「強い神が護る【箱庭】の深部に、シャンヴァラーラの住人は入れない。当然、《異神理》を見せることも叶わない。……お前たちは少し違うな。だからこそ巻き込んでしまったというのもあるんだが」 「あ、そうか、俺たちはここの世界の住人じゃねェから」 「俺たち元ロストナンバーもそれほど困難なことではない。光神の加護を受けるクルクスもまた。だが……アレを知り得るものは、やはり、驚くほど少ない」 「それ、他の陣営に属してる元ロストナンバーには?」 「……【箱庭】に眠る《異神理》を破壊するためにお前たちの神をすべて寄越せと言って、はい判りましたと答えが返ると?」 「それは……」 「正直、時間はあまりないと思ってる。この短期間に棘がふたつも目覚めた……以前なら、あり得ないことだ」 しかし、だからどうすればいいかと問われれば、誰にも答えなど提示し得ないのだ。 出来ることは限られているのに、危機は迫っている。 その、恐るべき焦燥感。 * * * * * 「……不躾だが」 サーヴィランスが声をかけると、皇帝は視線だけで続きを促した。 「【箱庭】に必ずひとつある《異神理》を集めるために統一を急いでいるのか? 神を集めるのは、光神にその力を束ね、《異神理》と相殺もしくは中和するつもりでいるからか」 まっすぐに見つめた皇帝の眼は、強い意志によって律されている。 「私が気がかりなのは、君が最後には『すべての神を消した者』の汚名を被って消える気なのではないか、ということだ」 報告書にもあった。 皇妹ローザが、兄の中に死を見ていると。 それゆえの問いに、皇帝は小さく笑った。 「統一を急ぐのは、すべての《異神理》を早急に把握する必要があるため。神を集めるのは、そうだな、『その時』の切り札、ということになるか」 「その時とは?」 「……お前の言うそれは汚名ではない、事実だ。円滑な後世のためにも、責任を取る人間が必要だろう」 懸念が杞憂ではなかったことを知り、サーヴィランスは眼を見開く。 覚悟と静謐に満ちた横顔に、何を言える気もしなかったが。 ――いつの間にか、ムジカが別れの歌を奏で始めていた。 激しくも哀しい、美しい音が、崩れ落ちていく世界に捧げられる。 「永遠なんて存在しないから、これほどに美しいんだろうな」 独白が皆の耳を打つ。 「俺が生きている限りは、覚えているよ。この美しさを」 未だ回避されたわけではない危機の中、今だけは、と。 百様のトルバドゥールが奏でる最後の歌が、虚無へ堕ちた世界に響く。
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