オープニング

 ――行ってしまうの?
 ――漂泊が僕ら一族のさだめだ。けれど、君の視力を取り戻す方法を見つけたら必ず戻って来る。
 ――……やっぱり行ってしまうのね。
 ――まじないをかけておこう。この蝋燭が全て灯った時、君の願いが叶うように。
 ――わたくしの願い?
 ――ひとつしかないだろう? 君の願いは。
 ――わたくしの、願いは……


 雨は恵みだが、度が過ぎれば天災となる。
 太陽も同じだ。
「やめといたほうがいいと思うがなあ……」
 関所の番人は、ラクダにまたがった人物――体格からして男だろう――を見て露骨に眉を寄せた。
「おまえさん、よそ者だろう? この先は“咎の砂漠”だ。迂回のルートを教えてやるから、この砂漠はやめとけ」
 ラクダの上の男は無言で首を横に振った。番人は再度説得を試みた。かつて数多の旅人がこの先の砂漠に挑んだこと。しかし何人も行方不明者が出たこと。稀に生還する者もいたが、彼らは決まって頭髪が真っ白になっていたり生気を失っていたりしたこと……。
 しかしラクダの上の男は聞かなかった。彼の顔はターバンで隠されていて窺えない。
 番人は「参ったな」と呟きながら渋々関に向かって手を振った。男たちが声を合わせて滑車を引き、丸太を組み合わせて作った門が重々しく開かれて行く。
 ターバンの男はしわがれた声で礼を言い、通行料を差し出した。ゆったりとした衣装の間から覗いた手首には太陽のモチーフが彫り込まれた腕輪が嵌まっていた。
「ほう、いい腕輪だねえ。ずいぶん凝ってるな。どこの品だい?」
 男は答えずに砂漠へと消えた。
 門を閉めた後で、近隣の村から回覧の書状が関所へと届いた。
「なになに……日照りが続いてるから干ばつに備えろ、だぁ? は、砂漠で干ばつもへったくれもねえだろうがよ」


「竜刻に暴走の兆しが見られました」
 リベル・セヴァンは平素通り淡々と告げた。
「場所はヴォロスの辺境、広大な砂漠です。その砂漠を通行中の男性が所持する竜刻が対象です。男性の名はキークス、竜刻の形状は腕輪。竜刻を削り出して腕輪に加工した物です。……竜刻の暴走はヴォロスの摂理に影響を与えます。ヴォロスの自律作用が弱まってディラックの落とし子に侵入される原因にもなりますし、放置すれば他の世界群にまで影響が及びかねません。そのため、誰かの所有物を奪うことになる場合でも回収をお願いしております。理不尽に聞こえるかも知れませんが、ご理解ください」
 言って、リベルは荷札のような品を差し出した。この“封印のタグ”を竜刻に貼り付ければ対象の魔力を安定させることができるという。
「ただし、目的は竜刻の暴走を防ぐことです。今回に限っては、竜刻自体は必ずしも回収していただかなくても構いません。封印のタグを使わずに竜刻の魔力を安定させることができればそれはそれで問題ありませんので。こちらをご覧ください」
 旅人達の手元にカード大の資料が配られる。太陽の文様が彫刻された腕輪――これが目的の竜刻だろう――と、三日月形の刃を持つ短剣が描かれていた。
「本来、この腕輪と短剣は対になる物でした。ヴォロスのとある辺境の森に建つ城に代々伝わる家宝です。現在、短剣はその森の城の女主人が所持しています。女主人はこの男性の恋人です。彼女はかつて愛の誓いとして男性に腕輪を贈ったのですが、流浪の術師の一族である男性は彼女の元を離れざるを得ませんでした。しかし、対として存在する物をむやみに分かてば何らかの不具合が生じるもの。短剣と離されたことによって腕輪の魔力が少しずつ歪み、暴走の兆しが生じたと考えられます。彼が通った街や村が例外なく干ばつに見舞われているのもその影響でしょう。……ええ。お察しの通り、短剣の魔力も腕輪と同じく不安定な状態にあります。短剣に関しては皆さんの出発後に別の依頼を出しますので、そちらで対処していただくことになります」
 要は腕輪と短剣を一緒にすれば良いのだと続け、リベルは導きの書をめくった。
「短剣を持つ女主人は今も恋人を待っています。彼女は“森の民”と呼ばれる少数民族の末裔です。森に生まれ、森を守り、森に縛られる一族……森を出ることは彼女にとって死を意味します。よって、腕輪を彼女の所に持って行くしかありません。砂漠から森への移動手段が必要ならばこちらで用意いたします。男性と腕輪を探し、女主人の所に連れて行っていただくのが最も穏便な解決方法ですが、どうしても説得できない場合は封印のタグを用いるしかないでしょう。それから、もうひとつ――」
 リベルはゆっくりと顔を上げた。
「現在男性が居る砂漠は“咎の砂漠”と呼ばれています。自らの咎を砂漠に置いて行くことができるとか。……ただし、砂漠には人々の咎が転がっており、不可解な力が渦巻いています。下手をすれば自らの罪をまざまざと見せつけられることにもなりかねないそうです。砂と幻影に呑まれぬよう、お気を付け下さい」


 ラクダはゆっくりと、確実に進む。
 蹄の下で乾いた枝が踏みしだかれる。しかしここは砂漠だ。木の枝などあろう筈もない。
 すなわち、それは骨であった。獣、人間、エルフ、獣人……。ありとあらゆる種族の骨が砂の上に点々と見え隠れしている。
 しかしそれもすぐに砂と化すだろう。
(この身とて同じだ)
 キークスは腕輪をさすり、乾いた咳をひとつした。
 恋人の元には一万本の蝋燭を残した。誰かが城を訪れて土産話をする度に蝋燭が一本ずつ灯るように。
 近々全ての蝋燭が灯ることになる。しかしキークスはそれを知らない。エレイラが今どんな姿でいるかもキークスは知らない。
 見れば、無秩序に散らばる骨の上では透明な何かが絶えず揺らめいているように思える。
 旅人を妖しく手招きするのは蜃気楼か、それとも――。

品目シナリオ 管理番号349
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
クリエイターコメントこんにちは。前のめり気味の宮本ぽちです。
こちらは同日同時刻公開の『宵闇の囚人』と対になるシナリオです。
募集こそ同じタイミングですが、『宵闇の囚人』は、この『真昼の旅人』の依頼が出た後に0世界を出発する内容になっています。
同一PCさんで両方のシナリオにエントリーすることはご遠慮ください。

こちらのパートでは“咎の砂漠”に入って男性を見つけ、どうにかして森の城に連れて行ってください。
腕輪だけもぎ取って森の城に持って行くのもありですが、その場合、キークスを待つ女主人は動転するでしょう。

プレイングには“咎”を何かひとつお書き添えください。併せて、“咎の砂漠”に関して思うところがあれば。
字数制限の都合上、深い描写は出来ませんが、善処いたします。

それでは、灼熱の砂漠へと参りましょう。

<ヒントになるかも知れないもの>
・一万本の蝋燭が灯るには一万人の来客が必要です。辺境の森で一万人の来訪者を待つなんて、気の遠くなるような話ですよね。キークスはなぜわざわざそんなまじないを施したのでしょう?
・恋人は盲目です。キークスは彼女の視力を取り戻す方法を探して旅を続けていますが、未だに彼女の所に戻らないのはどうしてでしょう?
・恋人の願いとは何でしょう?

参加者
清闇(cdhx4395)ツーリスト 男 35歳 竜の武人
アルティラスカ(cwps2063)ツーリスト 女 24歳 世界樹の女神・現喫茶店従業員。
璃空(cyrx5855)ツーリスト 女 13歳 旅人
クージョン・アルパーク(cepv6285)ロストメモリー 男 20歳 吟遊創造家→妖精卿の教師
アインス(cdzt7854)ツーリスト 男 19歳 皇子

ノベル

 むっ――と砂漠の空気がまとわりつく。太陽と砂礫が発する熱。腐臭に似た死臭。
「原罪の溜まり場だねここは」
 クージョン・アルパークはそれすら楽しむように笑った。旅行鞄から日傘を取り出し、ラクダに跨る彼の姿はまさに旅人そのものだ。
「旅の恥は掻き捨てか。作品でもないのに、皆自分の恥を見られても平気なのかな?」
 そこここに骸が転がっている。白骨化したものもあったし、肉や体毛が残っているものもあった。じりじりとあぶられる遺骸から立ち上るのは陽炎なのだろうか。
「そちらのご婦人……いや、女神様かな。よろしければ、日傘をご一緒いたしませんか? この日差しは粗暴過ぎる」
「ありがとうございます。私はこれで大丈夫ですので……」
 クージョンの丁寧な誘いにアルティラスカは静かに会釈した。彼女が日避け代わりに羽織っているのは薄い羽衣に過ぎないが、これはトラベルギアだという。
「行こうぜ。肌を刺す熱気ってのも快いじゃねえか、なア?」
 暑さも日差しも意に介さず、清闇が飄々と一行を促した。
 彼の一粒だけの赤眼は――眼帯の下の金眼は、一体何を見ているのだろう。


 乾いた空に鳥が飛び立つ。探索のためにと璃空が放った式神だ。用意周到な璃空は日差し対策にフードを被り、自身の周りに弱い風を纏わせていた。肩掛け鞄の中には水と栄養価の高い食料も入れてある。
 だが、璃空の意識は暑さよりも別の場所へと向けられている。
(咎……か)
 この砂漠には、人が置いて行った咎が死体と一緒に転がっているという。
(命を奪って来た私は咎だらけだな。……だが、亡霊の恨み言等で揺らぎはしない)
 彼女の横顔は少女らしからぬ硬質さを帯びていた。
「しかし……さすがに少し暑いな」
 滴る汗を拭いながらアインスが呟いた。涼しげな青の髪と瞳に細身の体躯を持つ彼の容貌は氷を思わせる。暴君の如き太陽の下で溶けてしまうのではないかとつい心配になるが、これしきでへこたれるアインスではない。地道に歩く傍ら、自らのテレパシーで他者の感情を探りながらキークスの行方を追っている。
「お水が欲しければおっしゃってください」
 アルティラスカがアインスに声をかけた。彼女は魔法で水を産み出すことができる。しかしアインスは不敵に笑った。
「お気遣い感謝。しかし、男は女性に助けられるものではなく女性を助けるものだ。私はそう教わった」
「魔法は無粋だよ。水もあるけど、まずはこの砂漠の暑さを堪能しなくちゃ」
 クージョンは厭味なく言って笑った。それが彼流の旅の楽しみ方なのだろう。
 ゆらゆらと。太陽に熱せられて、透明な何かが揺らめいている。大気のひずみのようにも、砂漠に満ち満ちる亡霊のようにも見える。
 璃空の足がふと止まった。
「どうかしましたか?」
 怪訝そうに問うアルティラスカに璃空は「いや」とだけ応じた。虚空を見つめる彼女の瞳はわずかに見開かれている。
「――音」
 引き締まった、しかし、あどけなさを残す唇からこぼれ落ちたのは誰かの名なのだろうか?
 アルティラスカは璃空の視線を追った。しかし女神の視界には乾いた空と砂が広がるばかりだ。他の者も同じであるだろう。きっと、璃空にしか見えていない。
 彼方の地平線で蜃気楼がたゆたっている。璃空を手招きするかの如く。あるいは、惑わせるかの如く。それは今まで屠ってきた妖たちなのか――それとも。
 蜃気楼が足許に這い寄る。助けを求める手のように。
 だが、璃空は静謐に目を眇めてそれと正対するばかりだ。
「どうかしたか?」
 アルティラスカの視線に気付き、今度は璃空が問うた。アルティラスカは静かに微笑んだ。
「いいえ。ただ、強いのですね……と」
 思いがけぬ言葉に璃空は目をぱちくりさせ、その後で晴れやかに笑った。
「私は未熟だ。だから躊躇しない。――揺らぎはしないさ」
 この咎は死ぬまで、否、死してからも背負う。それだけの覚悟を持って命を絶って来たつもりだ。
 今更咎を捨てる気などない。


 蜃気楼は雲と同じだ。見る者の目によって様々に、いかようにでも姿を変える。
 この砂漠に足を踏み入れた者は亡霊の如き蜃気楼にまとわりつかれて身も心も憔悴するという。
 だが、人々が囚われたのは真に蜃気楼であったのだろうか。
 キークスも、彼を追う旅人達もまた――。


 アルティラスカは言葉少なに砂漠に種を落として行った。その度にこめかみの翼の花が繊細に羽ばたき、輝く。魔力の種の根を砂の中に張り巡らせ、大地と同調しながらキークスの位置を探っているのだ。清闇は砂と空に交互に目をやりながら苦もなく砂上を進んでいる。世界の成り立ちと交感できる彼が太陽や砂礫の精霊にキークスの居場所を尋ねていることに気付いた者はいただろうか。方向確認を担うのはラクダの上のクージョンだ。
 キークスの位置は程なくして判明するだろう。探索自体を困難だと考える者はいなかった。気にかかることは他にある。
「キークスが彼女の元に戻らない理由などはっきりしている」
 口火を切ったのはアインスだった。自信と確信に満ちた様子に一行の視線が自然と集まる。
「キークスは実は女だったのだ!」
「な、に?」
 璃空はぱちぱちと目を瞬かせた。
「考えてもみろ、これほど女々しい奴が男である筈はない。恐らく女主人を騙してしまった事を気にしていて、今更帰りにくいのだろう」
 アインスの弁に答える者はない。キークスの性別はともかく、彼が女主人の元に帰らない理由に関しては一理ある。
 しかし、アルティラスカだけは羽衣の下で睫毛を伏せた。
「蝋燭は……彼女の希望になると同時に、彼の定めた刻限だと思っています。一万本の蝋燭が灯る間に彼は彼女の視力を取り戻す術を探すつもりだったのでは。辺境を訪れる旅人の話は彼を待つ間の彼女の心を癒し、外の世界を感じさせるためのものではないでしょうか」
「……そうだな」
 清闇は真逆の可能性を脳裏に描きながら肯いた。女神の推測は無垢な願いのように聞こえるが、彼女の言う通りであれば良いと思うことに変わりはない。
「けれど、推測にすぎません。本人に尋ねてみなければ――」
 アルティラスカは唐突に言葉を切り、息を呑んだ。
『アティ! アティ!』
 耳の奥を、けたたましい笑い声が揺さぶる。
 足許が唐突に、音もなく、鮮烈な朱に染まって行く。
『痛い。痛いのよ。ねえ』
 “それ”はぬるりと、陽炎のように湧き出した。
 静かに耳を震わせる女神の後ろでクージョンはすいと目を細めた。立ち尽くしたアルティラスカは、きっと“何か”を見ている。
 狂ったように笑う幻影――それは神であり、アルティラスカの友でもある――は血まみれの手でアルティラスカに縋りついた。
 眩暈がしそうだ。
 何もかもがあの時と同じだ。掴まれた腕は痛いし、友は狂った哄笑の間に無邪気な笑みを覗かせているではないか。
 世界を守るために神を殺したことを悔いてはいない。――けれど。
(罪であろうと……向き合います)
 友の心を救えなかったことこそが“咎”だ。
「逃げません。咎を置いてなど行きません。そうやって生きると、決めていますから」
 嵐の海で立てた誓いを繰り返した瞬間、
『アティ』
 幻影は満ち足りた子供のように笑って霧散した。はっとして瞬きをしても、そこには砂漠と空が広がるばかり。
「――……ラ」
 唇に乗せた友の愛称は乾いた風に吹かれて消えた。
 すべてを背負うと覚悟して友を殺した。彼女の最期の笑顔は今も忘れられぬ。
 だが、それこそが友の願いであり思惑であったと、アルティラスカは知っているのだろうか。


「“咎の砂漠”ねえ。そもそも人は生まれながらに罪を負っているんじゃなかったっけ? 本当に、原罪とはよく言ったものだよ」
 ラクダの上で、クージョンは飄々と笑う。彼方の砂上では相変わらず蜃気楼がたゆたっているし、視界のあちこちには乾いた骸が転がっている。しかし、死肉に群がる獣はおろか小蠅の姿さえも見当たらない。咎の他に在るのは太陽と砂と死ばかりだ。
「同感だな。咎を抱えぬ者などいない」
 半ば独り言のように賛意を示すのはアインスだ。
「じゃあ、貴方にも咎が?」
「無論だ」
 青き皇子はわずかに目を伏せた。「……此処に立っていること自体が私の咎だろう」
 彼方の地平線で蜃気楼がたゆたっている。アインスを手招きするかの如く。あるいは、惑わせるかの如く。
 蜃気楼は雲と同じだ。見る者の目によっていかようにも姿を変える。
 ゆらゆらと揺れるそれは、アインスの目には故郷の景色となって映るのだ。
(……私は)
 アインスを呼ぶ民の声が聞こえた気がする。アインスの前で笑う民らの顔が見えた気がする。
 いかなる理由があろうとも、第一王位継承者たる自分が国を捨てて異郷の地を彷徨っている事実に変わりはない。少なくともアインス自身はそう考えている。自分を皇子だと認めてくれた人々を裏切ってここで暮らし、あまつさえその生活も悪いものではないと感じてしまっている。王族としての誇りと責任感は鈍い刃となってアインスを苛み続けていた。
(私は、責任を放棄してしまった)
 アインスの足許が沈み始める。
 流砂だろうか。アリジゴクの巣に嵌まったかのように、砂もろとも体が呑み込まれて行く……。
「所有同盟が言っていたよ。ユートピアがデストピアとはよく言われたものだけど、だから何だ」
 というクージョンの声でアインスは我に返った。慌てて周囲を見回せば、同行者達の姿がある。流砂は錯覚だったのだとようやく知った。
 ラクダの上で、クージョンは薄く笑っていた。クージョンの目はアインスを見ているようで見ていない。クージョンはアインスの遥か先に横たわる地平線を見つめていた。彼の目に何が映っているのか、アインスには分からない。
『偽善者め』
 声なき声がクージョンの耳の奥でこだまする。ゆらゆらとたゆたう蜃気楼は数多の人の姿を取り、めいめいにクージョンを指差しながら嘲笑い、眉を顰め、罵倒する。
 クージョンの故郷では皆が享楽的に生きていた。なぜなら其処は“そういう世界だから”だ。彼らはあらゆるものを自己の楽しみの対象とする。そう、例えば人助けさえも娯楽の一環と解釈できるのだ。そんな彼らは傍から見れば偽善の塊には違いない。
「だから何だ」
 もう一度繰り返し、クージョンは細い目を更に細めた。
「百の世界に百の正しさ。人が咎というなら、この咎さえ楽しもう。――僕はこの咎を禊ごうとは思わないよ」
 嘲りの声は消え、姿なき人々は何の変哲もない蜃気楼へと還って行く。
「何でも楽しむのが僕らの流儀さ。それが粋ってものだろう?」
「……そうなのか」
 冗談めかして片目を瞑るクージョンにアインスは小さく笑った。
「それよりもキークスだ。彼も自身の咎を見せ付けられているのだろうか」
「さて、な。本人に訊いてみりゃ分かるんじゃねェか?」
 アインスの言葉に清闇が答え、斜め前方を顎でしゃくる。同時に、アルティラスカが張り巡らせた種の根も“それ”の存在を感知した。
「御苦労」
 帰還した鳥を労い、璃空は紺碧の双眸をその方角へと向ける。
 ラクダに跨った旅人の背中が彼方に見える。アインスの能力は、その旅人がキークスであると告げた。


 真っ先にキークスに声をかけたのは清闇だった。キークスの腕輪と恋人・エレイラの持つ短剣が竜刻であること、両者が共に暴走しかけていること、短剣と腕輪を一緒にすれば暴走を防げることを手短に説明した。
「彼女の元に戻れ」
 清闇は単刀直入に告げた。ターバンに覆われたキークスの表情は窺えない。しかし、布の間からちらと覗く目がかすかに揺れるのが見て取れた。
「戸惑わせてしまって申し訳ありません。私はアルティラスカ。訳あって各地を旅している者です」
 女神は羽衣を取って丁寧に名乗り、清闇の説明が全て真実であることを付け加えた。
「竜刻の件もそうですし……何より、彼女の元に戻ってさしあげて欲しいのです」
「……それは」
 ラクダから降りたキークスはようやく口を開いた。しわがれた声はまるで老爺だ。
「出来ない」
 端的な、しかし明快な回答に清闇は眉を跳ね上げた。峻烈な気配に気付いたのか、キークスはのろのろと清闇に顔を向けた。
「僕が戻る必要はない。腕輪はお返しする。これを彼女の元に戻せば一件落着。違うか?」
 腕輪が外され、清闇へと差し出される。清闇は受け取ろうとはしなかった。キークスの弁は正しい。だが、違う。
「その前に、ひとつ訊きたい」
 氷の色をしたアインスの瞳がじっとキークスを探っている。
「君の行く先々で干ばつが発生していた事を知っているか? それはその腕輪と恋人の持つ短剣が離れ離れになったせいなのだが」
「……ああ、知っていた。僕も術師の端くれだ。だから」
「ここに来た……と?」
 それまで黙っていた璃空が初めて口を開いた。
「干ばつを引き起こしても砂漠なら影響はない。ましてや此処は滅多に訪れる者もない“咎の砂漠”だ、誰かに見咎められることもないだろう。……誰も居ない場所で独り終焉を迎えようとでも考えたのではないか? ロマンチストと言えば聞こえは良いが、な」
 キークスは答えない。璃空の瞳からそっと目を逸らすばかりだ。璃空の視線を受け止めるのは底なしの深淵を覗き込むのに似ている。そして、そんな勇気はキークスにはないらしい。
「貴方が恋人の元に残したまじないのこと、僕らも知っているよ。まじない……いや、呪い(のろい)なのかな。興味深いとは思わないかい? 呪いと書いてまじないと読むんだ」
 クージョンはひらりとラクダから降り立ち、帽子のつばを持ち上げて言葉を継いだ。
「顔を見せてもらってもいいかな?」
 キークスの肩がぴくりと震えた。
「訳あって、彼女のことも此処にいる皆が知ってる。あの呪いは貴方が若い頃にかけたもの。そう、もうずっとずっと昔に」
「なのに、彼女は今も若い姿でいるそうだ。なア……おかしいよな?」
 射るような目でキークスを見据え、清闇はゆっくりと手を伸ばした。
「おまえはどうなんだ? おまえの姿は――」
 有無を言わせずターバンを剥ぐ。
 一同は小さく息を呑んだ。
 ――現れたのは、憔悴し、歪んだ老人の顔であったのだ。


「男性みたいだけど?」
 というクージョンの言葉にアインスは唇をへの字に曲げた。
 クージョンとアルティラスカはキークスが老人の姿になっていると考えた。反対に、清闇はキークスがエレイラと同じく若さを保っているのではないかと推測した。
 結果的にはどちらの予測も当たっていた。
 キークスの顔は青年のそれなのに、眼球は老人のように濁り、声は老爺の如くしわがれているのだ。
「これも腕輪のせいなんだろう。短剣と離れ離れになり、魔力に不具合が生じて……」
 若い顔を両手で覆い、老いた声でキークスは呻く。
「蝋燭のまじないが呪いだというなら、きっと彼女も僕に呪いをかけたんだ。この腕輪こそが呪いだ。これではいずれ彼女の所に戻るしかないじゃないか。彼女が追って来るんだ。蜃気楼が全部彼女の姿になって、どこまでもまとわりついて離れないんだ……」
 ずっと昼なのだと。だから蜃気楼も消えないのだと。むせび泣きながら、熱砂の上に膝をつく。
 ロストナンバー達は一様に押し黙っていた。キークスの心は老いた。だが、肉体の時間は竜刻の魔力によって止められた。それはあまりにアンバランスな生命の姿だ。
「レディを待たせるなど、男のする事ではないさ」
 ただアインスだけが低く呟く。
「早く彼女の元に戻れ……と言いたいところだが、キミは戻るつもりなど無いのだろう? まじないをかけたのも彼女に自分を忘れて欲しかったからではないのか?」
 いらえはない。
 老いることも、若いままでいることも出来ぬ男はただ乾いた慟哭を上げるだけだ。


「おまえが一万本もの蝋燭を残したのは、自分が戻るまで絶望せずに待っていてほしいと思ったから……じゃねえな?」
 やがて清闇が口を開いた。
「一万という数に彼女が諦めてくれるように、か? おまえがあそこに留まることは出来ないから?」
「ではどうすれば良かった。彼女と一緒に森に縛られろというのか。彼女と二人だけで、暗い森から死ぬまで出られずに暮らせというのか?」
 清闇はゆっくりとかぶりを振った。立場の違いは悲劇ではない。今もまだ想い合っているのなら、ずっと傍には居られなくとも何か手立てを講じれば良い。
「ひょっとして、今も若い彼女が新しい恋を見つけるために一万人の客と話せるようにでもあるのかな? 自分が彼女の多くの恋の思い出のひとつであればそれでいいと思っているんじゃないのかい? その証の腕輪……貴方の恋の思い出を胸にね。でもそれじゃいけないんだ!」
 やや語気を強め、クージョンは細い目を開いた。
「初めから戻るつもりはなかったのかい? それとも……今となってはその顔を見られるのが怖いとか? 視力が戻ればその歪んだ姿を見られてしまう。ただ一度、貴方を心から愛してくれた人に。けれどそんな心配は無用だよ。彼女は貴方の心に惚れたのだろうし、恐らく今も待ち続けているんだ」
 竜刻が暴走すれば彼女の命はないだろうと付け加えるも、キークスはただ目を伏せるばかりだ。
「残された時間はそう長くない。帰りたくないのなら好きにしろ、腕輪は私達が森に運んでやる。腕輪自体に未練はないのだろう?」
 璃空が示した案は現実的で合理的だった。しかし、彼女自身がすぐに「ただ」とそれを打ち消す。
「竜刻の魔力は不可解だと聞く。……所有者の精神状態が影響しないとは言い切れまい。腕輪だけが帰ったのを見て、短剣の所有者である彼女が動揺せねば良いが」
 キークスもエレイラの元に戻るべきだと。何事も要領良くこなす筈の璃空が暗にそう告げている。
「森の城には近々一万人目の来客があるが、彼女の望みはキミの帰還だ。これ以上女性を悲しませる前にさっさと戻れ」
「同感だね。彼女は目が見えるようになりたいんじゃない、貴方と居たいんだ。きっと」
 アインスとクージョンが口をそろえると、キークスは老いた目を小さく見開いた。視力の回復こそがエレイラの願いだと思っていたのだろうか。
「彼女の願いは愛する人と共に居る事……キークスさんの見るすべてが、それを語る声が彼女の視界となるはず。貴方が彼女の“眼”なのでは?」
 アルティラスカはキークスの前にひざまずき、外されたままの腕輪をそっと手に取った。
「それに、大切な人がいない世界が見えても何になるでしょうか。眼が見えても見えなくても、いいえ、きっと――貴方の姿が変わってしまっていても、彼女は変わらず貴方を愛し続けるでしょう」
 白い繊手がキークスの手首にそっと腕輪を戻す。
「どうかお戻りください。貴方と彼女は共に在らねばいけません」
 それは女神の願いでもあったのかも知れない。
 柔らかな陽溜まりの如き、しかし凛とした双眸に見つめられてキークスは唇を震わせた。
「しかし……彼女の願いは……」
「まだ分かんねえのか。彼女の願いなんざ、おまえともう一度逢うこと以外あり得ねえ」
 清闇は舌打ち混じりに告げ、
「おまえはどうなんだ? 逢いてえのか、逢いたくねえのか?」
 竜刻よりもそちらのほうが大事だと断じた。


 ゴッ――と砂と風が渦巻く。
「ははっ。凄いや」
 クージョンは興奮を隠そうともせずに目を輝かせた。
 そこに居たのは、巨大な黒竜。全長は壱番世界の単位で25メートルはあろうか。竜の武人たる清闇のもうひとつの姿だ。
「しっかり捕まっててくれ。一等客車とは行かねえが、ま、乗り心地は悪かねえ筈だ」
 清闇は漆黒の首を地に下ろして一行を促した。キークスは竜の姿にたいそう驚愕した。かつて竜が支配していたヴォロスに住まう者なら無理もない。しかし細かい説明をしている暇はなく、ロストナンバー達はキークスを引っ張り上げるようにして清闇の背中に乗り込んだ。
「………………?」
 ふと、人でも精霊でもない気配を感じて清闇は首をもたげた。
 彼方の地平線で蜃気楼がたゆたっている。清闇を手招きするかの如く。あるいは、惑わせるかの如く。 不定形の蜃気楼は雲と同じだ。見つめている間も刻々と姿を変える。
『――――リ』
 久しく呼ばれていなかった名が鼓膜を震わせ、清闇は小さく息を呑む。
 咆哮が大地を揺さぶった気がした。
 ぐわり――と天を衝くような巨体が立ち上る。地平線から現れたそれは、二頭の金竜。清闇にしか見えぬ、清闇の両親。
 蜃気楼はゆらゆらと揺れ続ける。
 だが、清闇の目には両親の懊悩と苦悶に映るのだ。
 頭を抱え、身をよじらせ、時に凶暴な咆哮を上げ――それでも、父も母も清闇を抱き上げ、清闇に笑顔を向け、時には叱り、共にかけがえのない時間を過ごした。
 だから、清闇は両親を殺した。
 魔性と呼ばれる金竜。その強大すぎる力ゆえに両親は呑まれ、蝕まれ、狂って行った。愛したものを忘れ、破壊して行った。血の涙を流しながら。だから殺した。愛する両親を救うために。
 咆哮が断末魔の絶叫へと変わる。
 蜃気楼に似た幻影、しかし清闇の目には生々しい実体をもって迫る金竜の姿は、瞬く間に朱に塗りたくられて行く。
「――さあ……発とうか」
 それは背中の五人に向けた言葉であったのか。
 金竜は吼える。金竜は叫ぶ。だが、彼らは紛れもなく父の顔で、母の顔をしている。
(彼らは俺を慈しんでくれた。愛してくれた)
 黒竜は地を蹴り、咎の砂漠に訣別を告げる。
(俺は、俺に出来る最善を尽くすだけだった)
 悔いてはいない。忘れたいとも思わない。だから、地平線を見つめたまま一気に空へと翔け上がるのだ。
 蜃気楼が再び黒竜の名を呼ばわる。
 一度瞬きをして応じれば、父母の姿は穏やかに融け、消えた。


 目立たぬように雲間を飛翔し、黒竜は一路森を目指す。
「素晴らしい空の旅だ、僕も負けてはいられないね。一つ詩ができたんだ」
 クージョンは帽子を取って一礼し、即興の詞(ことば)を朗々と詠い上げた。風の音は伴奏代わりだ。すれ違った恋人どうしの心情を詠った内容に、キークスの目がかすかに震える。
 璃空は黙っていた。最終的に、エレイラの元へ戻ることを決めたのはキークス自身だった。しかしキークスは今もエレイラを愛しているとは最後まで口にしなかったし、まじないをかけた本当の理由も明かさなかった。
 璃空にはキークスの心底は分からない。だが、キークスは腕輪を捨てずに身に着けていた。それに彼は咎の砂漠でエレイラの幻影に苛まれたという。それが彼の咎であるならば、彼は――まじないをかけた意図はともかく――少しもエレイラを好いてはいなかったのだろうか?
「そういえば、どうして腕輪と短剣なんだろうね? 対にするようなものなのかい?」
 クージョンがふと思い出したようにキークスに尋ねた。
「腕輪は短剣をふるう者に力を与える。男は森を守るために剣をふるい、女はその腕に森の加護を与えると聞いた」
「ならば短剣は君が、腕輪は彼女が持っているべきではないのか?」
 アインスの指摘はもっともであったが、答える術を持つ者はいなかった。
 雲が灰色へと変わっていく。清闇が空の精霊に頼んで雨雲を集めたのだ。
 黒竜は飛ぶ。静かに雨を降らせながら、キークスの旅路をなぞるように翔ける。雨雲を呼んだのは自らの姿を隠すためでもあったが、干ばつに見舞われた地域には恵みの雨となった。
 慈雨に喜び空を仰いだ人々は、雨雲の間に見え隠れする竜の姿に気付いたかも知れない。


「見えた」
 璃空が告げるまでもなく、星が一同の視界に入った。それは地上の星であった。夜に覆われた森の中、湖に建つその城だけがちかちかと色彩を瞬かせている。
 黒竜は逆白波を立てて湖の浅瀬に着水した。旅人達が一斉に降り立つ。竜の姿を解き、城に向かおうとした清闇ははたと足を止めた。
 ――精霊が。宵闇の精霊が、湖の精霊が、ざわめいている。
「どうかしたのか?」
 アインスが気付いて振り返った。
「一万本、灯ったみてえだ」
「良かったではないか。これで彼女の願いが叶う」
「……かもな」
 清闇は言葉少なに一行の後を追った。
 出迎えたのは、蝋燭。ありとあらゆる色彩の炎が揺れている。宝石を惜しげもなく散りばめたような光景に六人の足が刹那止まる。だが感嘆している暇はない。螺旋階段を駆け上がり――そして。
「……エレイラ」
「キークス――」
 扉の向こうでは七人の男女が茶を囲んでいた。うち五人はロストナンバーだろう。親しい少女の姿をみとめて璃空は軽く手を挙げた。
 あとの一人は恐らく執事、ならば、濃紺のドレープドレスを纏った妙齢の女は――。
「ああ――」
 まろぶように、女主人が駆けてくる。
「キークス。キークス」
 ドレープが翻り、ゆったりしたドレスの下に隠し持った“それ”がちらと露わになる。
「やっと。ああ。願いが叶った」
 エレイラは恍惚の表情で“それ”を抜き、
「よせ!」
「……まさか」
 思わず声を荒げた璃空と、目を見開いたアルティラスカの前で、
「共に――ずっと」
 “それ”……即ち、竜刻の短剣を振りかざして恋人の胸に飛び込んだのだ。


 どつ、り。


 エレイラははっと目を見開いた。
 キークスの胸を貫く筈の短剣は、分厚いガイドブックを刺しただけであったから。
「約束を違えてもらっては困る」
 二人の間に身を滑り込ませ、ガイドブックを盾代わりにかざした少年は静かに告げた。
「良くない事は起こらないと言うから僕は土産話を渡した。貴女も人を騙すのか?」
 少年の声を聞きながら、清闇はゆっくりとキークスの前を離れた。良くない事が起こると精霊達から聞いた清闇は咄嗟にキークスの前に立ち塞がったのだ。
「……わたくしは、お客様に無礼はしないと申し上げたまでです」
「経緯は知らないが、これだけは言わせてもらう。心中劇など、客人に見せるものではない」
 アインスの言葉にエレイラはがくりと膝を折った。
「成程、これが願いか。女性が持つべき腕輪を彼に渡したのは自分で剣を持っておくためというわけだ」
 クージョンの語り口は相変わらずだったが、その表情は目深にかぶり直した帽子に隠れて窺えない。
「彼女は森の民、彼はさすらいの一族。同じ場所には留まれはしない。だから、一緒に死――」
 ぐらり、と色彩の波が揺れる。
 一万本の蝋燭が倒れる。璃空は小さく舌打ちした。術が完了し、魔力が切れたのだろう。ならばこれは単なる炎だ。
 ごう、と火の手が上がる。隅から隅まで木で造られた城は瞬く間に燃え上がる。極彩色の炎だ。全ての色彩をごちゃ混ぜにした、混沌の炎だ。
「……エレイラ」
 キークスは諦めたようにエレイラに微笑みかけた。
「こうなっては逃げられない。君の願い、聞き届けよう」
 美しい炎の中、キークスの腕に抱かれ、満たされた女主人は急速に老婆へと変じていく。
「エレイラさん――」
「お引き取り下さい」
 アルティラスカの前に立ち塞がったのはエレイラの執事――女主人の実弟だった。
「次代を担う子を為すことこそ森の女の使命。使命を果たすまでは子を産める体であり続けねばなりません。姉上が若いままでいたのもそのせいです、竜刻の影響もあったでしょうが。しかし……姉上は老いました。姉上は森から解放されました、森に見放されました。これで姉上の願いの一端は叶ったやも知れませぬが」
 森に見捨てられては生きては行けないのだと厳かに続ける。璃空と親しい少女が飛び出し、「通して!」と叫びながら執事の胸をでたらめに殴りつけた。璃空は小さく目を見開いた。温和な筈の親友が、執事と戦おうとしている。
「もういっぺん言おうか」
 清闇は低く口を開いた。
「傍に居続けることが全てじゃねえ。共に死ぬ前に、共に在る方法を考えてみたらどうだ」
 ふわり、と葉巻の香りが漂う。こんな時だというのに、茶会の客とおぼしき壮年の紳士が葉巻をくゆらせている。立ち上る煙はなぜか赤紫色だ。
 不可思議な煙に絡みつかれ、老執事が、エレイラが、キークスさえもその場に倒れ伏した。


 城は孤高に、孤独に燃え上がる。森は静謐だ。湖の中心で燃える城のことなど知らぬかのように、まさに対岸の火事だという風情で夜風にさわさわと囁くばかり。
「最悪の悲劇は回避……といったところかな」
 クージョンは横目でちらと呟いた。彼の隣には眠りから覚めたエレイラとキークス、老執事が立ち尽くしている。葉巻の煙で眠った三人を旅人達が手分けして担ぎ出したのだ。
 アルティラスカはエレイラの頬に手を伸ばした。指先が汚れるのも厭わず、煤と涙と皺にまみれた顔を拭ってやる。老婆の濁った眼球がアルティラスカへと向けられた。アルティラスカは視力のない眼を静かに見つめ返し、老いた女主人をそっと抱擁した。
「……貴女と彼は共に在らねばいけません」
 いらえはなかったが、女神の腕の中の肩は小刻みに震えていた。
 清闇は無言で炎を見つめていた。精霊に雨を降らせてもらって鎮火することはたやすい。だが、そんな気にはなれなかった。
 この城はまるで牢獄だ。少なくとも清闇の目にはそう映っていた。
(燃えてしまえばいい)
 牢獄がなくなったとて、真の意味で囚人が解き放たれるとは限らないけれど。
 壮麗な炎はしばし燃え続けた。
 やがて城は灰へと還り、宵闇は暁闇へと移ろっていく――。


「ん。さっきの詩の続きが出来そうだ」
「どんな内容だ?」
「もうちょっと煮詰めたら披露するよ」
 帰りの螺旋特急の車内。クージョンは創作に耽り、その様子をアインスが興味深そうに眺めている。
「どうせなら彼に聞かせたかったけど……あくまで僕の推測だからね。的を射ているかどうか」
「推測か。そうだな。キークスの本心はキークスにしか分からない」
 アインスはわずかに目を伏せた。
 短剣と腕輪はあっさり回収できた。キークスはそもそも腕輪に執着していなかったし、エレイラのほうは茶会に出席したロストナンバーから説得を受けたらしい。キークスとエレイラ姉弟は一行に礼を言って夜明けの森へと消えた。彼らがどうする気なのか、誰も知らない。
 璃空は無言のまま窓枠に頬杖をついていた。彼女は元々饒舌なほうではないが、先程からやけに寡黙だった。
 キークスは自らの砂漠に終焉を求めた。だが――旅人達の説得があったとはいえ――エレイラの元に戻ると決めたのはキークス自身だ。それなのに、キークスは結局エレイラへの想いを口にはしなかった。蝋燭のまじないをかけた本当の理由も謎のままだ。
(……不可解だな)
 少女の頭でいくら考えても答えは見つからない。キークスがエレイラを愛していなかったと仮定して突き詰めれば矛盾が生じる。逆の仮定を行ってもまた然りだ。
「彼の心は彼にしか分からないんじゃないかな?」
 アインスの台詞を真似たクージョンは璃空の心中を見透かしたように笑った。
 茶会に出席した五人の旅人は五つの物語を語ったという。彼らはエレイラにも物語を求め、エレイラは自らの物語を話し、キークスもそれに倣った。


 ある所に鳥がいた。鳥はあちこちを飛び回っていた。理由なんかない。鳥とはそういう生き物だからだ。
 鳥はある森を訪れた。森には女が住んでいた。鳥は森から出られない女を憐れみ、自らが見聞きした出来事や物語を話して聞かせた。女は鳥の物語をいたく気に入り、もっと聞かせて欲しいとせがんだ。女の元に留まるうちに鳥はいつの間にか彼女に恋をしていた。
 いや……鳥は疲れていただけかも知れない。飛び続けて疲弊し、止まり木を求めていただけなのかも知れない。それでも、鳥が彼女の所に止まったのは何か理由があったのかも知れない。
 おかしいだろう? 鳥は、自分で自分の気持ちが分からなかったんだ。
 女は鳥を籠に入れて留めようとした。しかし、鳥は再び空へと飛び立った。籠に入れられるのはごめんだったから。すると、途端に太陽が沈まなくなった。鳥の周りだけ、ずっと昼になってしまったんだ。
 鳥が休めるのは夜の間だけだ。どれだけ疲れても、太陽のあるうちは飛び続けねばならない。鳥は今も果てのない昼を彷徨い続けている……。


(了)

クリエイターコメントありがとうございました。
『真昼の旅人』、お届けいたします。

キークスが蝋燭のまじないを施した理由は「彼女を諦めさせるため」でした。
他にも「成程なあ」と唸ってしまう推測が沢山寄せられましたが…ストーリー展開の都合上、採用できませんでした。申し訳ありません。

ちなみに、女主人の願いは「恋人と一緒に居続けるために、恋人を殺して自分も死ぬこと」でした。
こちらに関しては皆さんが「恋人と再び逢うこと」「恋人と居ること」と書いて下さいました。
これらも不正解ではありませんが、ずばり正解というわけでもありませんので、バッドエンドとまではいかずともノーマルエンドの扱いといたしました。

鳥は暗くならないと休めないそうですね。わずかでも明かりがあればそれに反応して活動し続けるそうです。
お楽しみいただければ幸いです。
尚、一人称や二人称はプレイングの記述を優先して描写した部分があります。ご了承ください。
公開日時2010-03-19(金) 19:20

 

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