「『彼方の光』という名前だそうです」 鳴海が告げた名前に、ゴシック系の漆黒のドレスに身を包んだ東野楽園は金の瞳に冷笑を浮かべる。「ずいぶん飾った名前ね」 頬にさらさらと短い髪が鳴る。「悪魔崇拝らしいじゃないか」 瀬尾 光子は快活に笑った。黒いセーラー服、ショートボブ、眼鏡の奥の黒い瞳は冷ややかで強い。「人が縋るものが何かよく心得ているよ」 インヤンガイからの依頼だった。それほど大きな街区でもない、『生魂花園』の裏ぐらい、そこで小さな新興宗教の教団が立ち上がった。インヤンガイの『それ』を悪魔と呼んでいいものかどうか悩むところだが、『潤潤』と呼ばれるものを崇め奉る集団、教祖はワレハルと名乗る壮年の男だと言う。「巻き込まれかけたのは、流しの男娼です」 少年は少女のように装っていた。言葉巧みに教団の礼拝へ誘い込まれ、そこでワレハルが自分好みの美少女を周囲に侍らせて、『祈祷』と呼ばれる儀式のたびに衆人環視の中で慰みものにしているのを見た。しかも少女達は大量の麻薬を与えられ意志を奪われ監禁されていた。繰り返される儀式と麻薬で心身ともに使い物にならなくなった者は、『定め』と称する特別な祈祷で『潤潤』に生贄として捧げられるということだ。 少年は男であったために儀式には不適当とされた。口封じに殺されるところをあわやのところで逃げ出して、けれど体を冒した麻薬のために命を落としてしまったらしい。「麻薬…どんなものを使っているのかしら」 楽園は微笑む。「感覚まで封じてしまってはつまらないでしょうね。感覚は残すような類かしら」 ひんやりとした口調でトラベルギアの鋏を取り出し、じっくり眺め、二度三度握って片付ける。「実際に悪魔を召喚してるのかどうか、その『潤潤』とやらはあたしの知ってるものなのか、そのあたりも興味があるね」 光子も薄く笑う。「まあ、いろいろなついでに教団が潰れたり、教祖がいなくなったりしても、そういう事情なら別にお咎めはくらいそうにないね?」「ええたぶん」 鳴海は目の前の少女二人に引き攣りながら頷く。「というか、むしろなくなって欲しいというところでしょう。教団に入れば自分の望むままに美少女を抱けるという噂が広まって、男性信者が入り浸り始めており、遊郭などからも疎ましがられつつあるようです」「へえ、遊郭がねえ」 光子がくすくすと笑う。「けれど、美少女が永遠に供給できるわけではないでしょう?」 楽園が小首を傾げてみせるのに、鳴海が大きく頷く。「実は、今後教団は信者を先兵に、周囲の街区に美少女狩りを行っていく未来が一つ、示されています」「変に力を蓄えられても困るね、片付けておこうか」 光子はチケットを受け取り立ち上がった。「内側から切り裂いておきましょう」 楽園も続く。 物騒な宣言を知らぬげに、二人の少女のスカートがふわりと翻る。「ワレハル様、新たな信者にございます」 広間の正面には巨大な黒い像がある。胡座を組み、両手の先に一つずつ珠を掲げて牙を剥き、三つ目を怒らせている男性の像、肩から腕から組んだ膝にも赤い布、金の布がひらひらと掛けられている。「どうれ」 けばけばしい赤と黒と金に彩られた祭壇の前で振り返ったのは、坊主頭に真っ黒な頭巾、ずるずるひきずる黒い衣を金の帯で縛った男だ。一文字に繋がりそうな太い眉、大きな丸い目、分厚い唇と二重あご、太鼓腹の、およそ敬うにも敬えないような風貌だが、振り返った瞬間に両手を広げて階段を下りる仕草は柔らかかった。「おお、おお、何と言うことだ」 楽園と光子の隣に居た、痩せこけた少女に走り寄り、体を丸めた彼女の手を取る。よくよく見て見ると、汚れてはいるが、かなり愛らしい顔立ちだ。「こんなに痩せて。可哀想に。すぐに温かなものを用意させよう。これ、誰ぞ、この者に衣類を。もう案じずともよいぞ」「も…もったいない…」「よいよい、さあ顔を上げよ、おお、おお、澄んだ目じゃ、案ずるな案ずるな、『潤潤』様がおられる、導いて下さるぞ」「どうぞ、こちらへ」 少女は歩み出た青年に手を引かれ、広間の外へ出て行く。周囲からは安堵の溜め息、教祖様はお優しい、ここに来られてあの子も幸せだ、と声が響く。「そなたは一体どうしたのじゃ」 次にワレハルは楽園に屈み込んだ。「追い詰められておる顔じゃ、苦しみがあったのじゃな、こんなに体をちりちりとさせて。痛みがあったのじゃろう、しかしもう安心じゃ、ここには『潤潤』様がおられるぞ」「…有難き…」 楽園はうっとりと黄金の瞳を細めてみせる。今にも涙が零れ落ちそうな潤みが、まさかこれから揮える鋏さばきを思っての興奮だとは、さすがに相手も気づかないのだろう、ごくりと喉を鳴らして魅入る。「案ずるな案ずるな、そなたもすぐに『祈祷』に入ろうぞ」「こちらへ」 壁際の青年が立ち上がって楽園を導く。「おお、そなたは何か昏いものを抱えておるな」 ワレハルは光子にも心配そうに屈み込む。「今にも押し潰されそうなのじゃろう、そうに違いない違いない、じゃがもう安心じゃ、『潤潤』様は広大無辺なお方、必ずそなたの業にあっても、彼方の光を見せて下さるぞ、まずは信心信心じゃ、案ずるな案ずるな」「は…」 畏まったふりで頭を下げた光子もやってきた青年に導かれて広間を出る。「ここへ入れ」 青年の居丈高な声に楽園は相手を振り仰ぐ。薄笑いした男の顔には奇妙な喜びが漂っている。示された部屋を覗くと、薄ぼんやりと霞んだ空気が感じられた。「…香料のような形のものね」「は?」「……他にはどんなものがあるのかしら」 楽園は目を細めて、もう一度相手を見上げる。「ここへ入れ」 ぼそりと唸られて光子は相手をみやる。楽園は数個隣の部屋の前で、同じように青年と立っている。「早く入れ」「まあ、そんなに慌てなくてもいいじゃないか」 光子はにやりと唇を引き上げる。 『彼方の光』は二つの闇を招き入れてしまった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>瀬尾 光子(cebe4388)東野 楽園(cwbw1545)=========
「きゃ」 どん、と手荒く突き倒されて、楽園は眉根を寄せて青年を見る。倒れた先は粗末なベッド、固いとまではいかないが、この上で組敷かれるのはいささか辛かろう。 「これから『祈祷』を行う」 薄く煙る部屋の中で青年は薄笑いを浮かべながら楽園の乱れたドレスの裾をたくし上げる。 「身動きするな、『潤潤』様の力を今、俺から注ぎ入れてやるぞ」 押さえた声音と反対に荒くなる呼吸に楽園は静かに手を伸ばした。 「動くなっ」 「ねえ、貴方」 かっと目を見開いて叫ぶ相手に動じもせず、 「お名前は何ていうの。これから親しくなる相手の名前位知っておきたいじゃない」 「親しく? …俺は潤節だ」 「そう、潤節さん…嬉しいわ、あなたが私の『祈祷』をして下さって」 うっとりとした声音で囁きながら、楽園はゆっくりと相手の髪に指を絡ませる。戸惑った表情になった潤節が動きを止めるのに、 「それにしてもこの部屋……臭いわね。私ね、病院の跡取り娘なの。だから今ここでどんな薬が使われてるかわかるわ」 「おかしな言いがかりをつけるな、この薬は麻薬などではない、人を安らがせ心癒す貴重な薬だ、それをワレハル様は人々の救いのために惜しげもなく使って下さっているのだぞ!」 「ああ、声を荒げないで」 楽園は微笑み、自ら衣服を解いていく。それに気づいた潤節がごくり、と唾を呑み込み、食い入るように晒されていく白い肌に魅入っていたが、ふいに瞬きをして固まった。 「気づいた? そうよ、この手首、酷い傷でしょう?」 細い手首に幾筋も幾筋もついた切り傷の痕。その傷の一本一本が、まだ切れない、まだ死ねない、そう呟いているかのように見える。 「どう…これでもまだ抱く気になれる?」 「こんなものがどうした、俺は」 開かれ晒された胸に、噛みつこうとでもするような勢いで顔を伏せた相手に、自ら抱きつくように滑らかな腕を絡ませて、楽園は男の耳元で囁いた。 「ねえ……こんな薬に頼らなければ、愉しませる自信がないの?」 薬に酔っていては誰に抱かれたかもわからないじゃない。 「随分と子供騙しね」 わかってるでしょ、と楽園は囁きながら、男の体に自分の体を寄せた。やんわりと押しつけた下半身、微かな隙間の熱を感じて震える相手にくすくすと笑う。 「私はもう待ってるの……潤節…あなたを感じたいわ……でも」 この煙が息苦しくて、あなたが誰かわからなくなりそう。 「いいえ……私はそんなことを考えちゃいけないのよね? あなたに抱かれたいなんて考えないで……『祈祷』を受けなくてはならないのよね…?」 熱を帯びた囁きにゆらりゆらりと楽園の体が揺れる。誘うように引く腰を抱えた潤節が不安そうに楽園を見返し、部屋の隅の香炉を見やり、また楽園を見つめる。 「いいわ……諦めるわ……もうあなたでなくてもいいわ…限界よ」 囁きながら唇を寄せていく、その楽園の顔を掬い上げた潤節が、一瞬迷って次の瞬間、香炉を蹴り倒した。むわりと上がった煙は、すぐに広がり霧散して消える。そちらに潤節が意識を逸らした瞬間、楽園は毒を含んだ。 「あんた、名前は…っ」 息を荒げながら覗き込んだ潤節の顔に、この上もなく優しい笑みを返して楽園は唇を押しつけ、開いた口に中身を注ぎ込む。 遠い所でガシャリと何かが割れる音がした。 「…っは…っ」 粗末なベッドに転がって、自分の上で忙しく息を弾ませながら体を動かす相手を光子は冷ややかに眺めている。 (……どこの世界でも同じこと考えるやつはいるもんだね……ま、お膳立ては十二分にしてくれてんだ、なら利用させてもらうかね) 「……性魔術なんてあんましないんだが」 「…は…?」 思わず口に出た呟きは、状況から言えばあまりにも違和感のある台詞、さすがに男の方が訝しそうに見返してくる。 『ほんと、光子様ときたら、頂けるものは頂いていく、頂けないものでも頂けるように叩きのめして頂いてくる、見上げた根性ですわよね!』 シャーロットが側にいたら、きっとそう呆れ果てていることだろう。 (ああそうともさ) 性エネルギーはうまく扱わないと術者を食いまくる野方図な力だ。ことさら乱暴に始められた行為は、制御されていないだけに使いやすくするのに手数がかかるが、理性の枷がかかっていないのは有難い。 (不安を煽り恐怖を加え) 薄目を開けて相手を眺めると、今まさに絶好調にあるはずの男の表情は紅潮している顔と裏腹に何かに怯えているようにも見える。 (二度と手に入らないような悦楽の幻想と、自分を切り刻まれる瀬戸際に命が放つ光を味わった後は) 体の中に注がれてくる力を舌なめずりしながら溜め込み練り上げ、ゆっくり見開いた瞳に満たして相手を凝視する。 「…ふ……っっひ」 相手が悲鳴を漏らしたのは、光子の瞳から溢れ出した暗黒の波に心を食い破られていくのを感じたのだろう。動きが止まり、唇が開き、それでも目を逸らすことができず、かたかたと歯を鳴らし始める。 「ワレハルのことを話してみな?」 するりと体の下から擦り抜けた光子を追うこともできず、四つん這いのまま男は震えている。無防備に向けた裸の尻を背中に、光子はセーラー服を着ながらことばを重ねた。 「何を知ってる? 教祖の部屋はどこだ?」 「ワレハル様は、かつて、小さなお堂の守り人で、『潤潤』様を祭っていた」 「ふうん」 やっぱりそうか、と光子はスカーフを結びながら呟く。話を聞いたときから、全くのあてずっぽうな気はしなかった。『潤潤』の存在が悪魔かどうかは微妙なところだが、インヤンガイにあった信仰の対象の一つというやつだろう。 「……ま、少し間違ってるがね」 古い力を利用するにしても手順が間違っているし、力の蓄え方も不正確だ。元がどんな神であれ、必要な手はずと配置を狂わせていては、動くものも動かないだろう。 「ワレハル様は、『潤潤』様を、怒らせてはならないと、最近は『祈祷』の間、お部屋で、祈りを捧げておられる」 「そうかい、わかったよ」 ごくろうさんだったね。 くるりと振り返ってぶるぶる震えながらベッドの上で拝跪している男の尻を軽く突いた。 「ぎゃっっ!」 絶叫した男が股間を押さえて悶絶する。白目を剥いて泡を吹く男に薄笑いして、 「あたしが抱けたんだからもう思い残すこたないだろ、今後は真面目に生きな」 この先、男にこんな場面は二度と訪れないだろう。 光子はセーラー服のポケットから、薄紅の半透明の板が重なり合ったものを取り出した。 「ソロモンに語りし叡智の泉、天空の図象、数の神秘、荒れ狂う大海を覇して、来よ、四十八軍団の長、クローセル!」 握り潰した瞬間、掌から紅と青の光が波打ち零れ落ち、見る見る室内を満たしたかと思うと、その波の中から一人の天使の姿が浮かび上がった。翻る衣服には精緻な刺繍がされており、頭上には金色の輪が輝いている。背中から広がる翼は二対、それは純白ではなく青みがかった灰色で、表情の冷淡さと呼応していた。天使の姿はしているが、ソロモン七十二柱の魔神の一柱、地獄の四十八軍団を従えるとされている公爵だ。 「影の住処は?」 『闇を装う影はどこに潜むか』 「影は光の産物だ」 響いた声に光子は応じる。 「光を遮るものを示せ」 『闇が満たされる。出口を受け取る』 クローセルは姿を消した。ここから『逃げられる』可能性を奪われたが、脱出出来ないわけではない。 「ぶっ壊せ、か。教祖はこの建物を全て見ることができる場所にある…そこで『潤潤』の実態も知れるかね」 影は闇の中に潜んでいる。姿を見透かされないと侮り、巨大な闇にうまく隠れたつもりになっている。だがしかし、闇は影の存在を許すようなものではない。所詮影は光がないと存在できないが、闇は光がなくとも存在するのだ。 「……信仰もくそもない、こんな連中に扱えるもんでもないと思うがね」 光子は部屋を抜け出た。数部屋隣、楽園の入った部屋の扉ももう開かれている。そこから漂う臭いに光子は微かに嗤う。 「とんでもないものを引き入れちまったようだね、ここは」 楽園が死臭を撒き散らしながら進んでいることを、次第に大きく凄まじくなる悲鳴が教えている。 光子は影が隠れた場所へ歩き出す。 おそらくは、あの『潤潤』の像の近くに隠し部屋があるのだろう。 「大変…大変よ…」 熱に浮かされた様相で楽園は鋏を手にしたままふらふらと歩く。 「『潤潤』様の祟りよ……ああ、手が止まらないわ!」 「ぎゃあっ!」「うわあっ!」「ひいいっ」 金色の瞳をあちらこちらと彷徨わせながら、楽園は信者達を次々と屠る。 「少女達はどこ? 私に捧げられた体はどこにあるの?」 『祈祷』の果てに正気をなくした娘達をたびたび見てきた信者達は、楽園もその一人だろう、捕まえて部屋に閉じ込めようと近づいては、あっけなく、ふいに振り上げられる鋏の餌食となる。 「うあああっっ」「誰か…っ!」 近寄っては耳を飛ばされ、鼻を削がれ、必死に逃げ惑ってはふわりふわりと漂うように襲い掛かる楽園に切り裂かれていく信者達は、恐怖に怯え、求めに従って少女達を閉じ込めた部屋に彼女を導く。 「扉を開けなさい……私に見せなさい」 歌うような美しい声が暗闇の牢獄に響き渡る。煌めく鋏とことばに操られるように、信者達は次々と少女達の檻を解き放つ。 だが、少女達はほとんど身動きしなかった。ある者は虚ろな笑みを繰り返し、ある者は開かれた扉に恐怖して泣き叫び、震えながら扉に向かって這いずっては悲鳴を上げて引き下がる。繰り返された暴虐に、彼女達の意志も思考も、既に根こそぎ突き崩されているのだ。誰一人として牢獄から逃れようとしない。 一生廃人のままでも命があるだけマシ、監禁されて命を終えるのは哀れ過ぎる。 楽園のその想いは空回りする。誰かが手を引き、背に負うて、助け出そうとするならまだしも、そのままでは少女達は逃れることさえできないのだ。 それを知った楽園の金色の瞳は怒りに燃える。 「もっと来なさい……もっと……もっと!」 高く響き渡る声、それはまるで天上の歌声のようにきららかに鳴る。しかし、その歌声は一呼吸ごとに鮮血と肉片を散らせ、『彼方の光』を食い破っていく。 楽園の前に引き攣った顔をしたワレハルが現れた。後ろを振り返り振り返りしつつ必死に走る姿は、さきほどまでの威風堂々とした姿はない。まるで巨大な竜巻か悪臭吹きつける竜にでも襲われかけたかのような怯え、よく見ると振り返るワレハルの視線の先には、この血肉と悲鳴、怒号が満ちる場所には不似合いなほど静かな顔をした光子がいる。 「ど、どうしたのだ、ええ、そなたら!」 ワレハルは目の前に立ち塞がった楽園に気づき、その周囲に散らばった肉塊や屍体に息を呑み震えながら怒鳴った。 「何をしておる、救いを前に、なぜ従わぬ、なぜ受け入れぬ!」 両手の拳を握ったり開いたりしながら、楽園と光子を忙しく見やる。頭巾が滑り落ちた坊主頭を汗で光らせて、ワレハルは光子に声を張り上げた。 「そなたは抱えた業に乗っ取られておるのじゃ! 昏き影に呑み込まれたそなたを救えるのは『潤潤』様だけじゃぞ、信心じゃ!」 「あんた間違ってるよ、あたしの心なんてもんは当の昔に押しつぶされて……今ここにあるのは、単なる抜け殻さ」 光子がうっそりと笑った。ポケットがら取り出したもう一つの魔術媒体、赤錆色に鈍く光る小さな球体を掌に握り込む。 「ならばそなたじゃ!」 ワレハルがうろたえたように楽園を振り返る。血に塗れた漆黒のドレスに包まれた白い肌にごくりと唾を呑むが、 「そなたの痛みを癒すのはこの『潤潤』様をおいて他にない! 『潤潤』様の御声を聞き、そのお告げを伝えるのは、このワレハルのみじゃ! いいか、このワレハルのみが」 「大仰な物言いをしなさんな」 くつくつと光子が暗く嗤った。 「あんたは元々街の隅に打ち捨てられたお堂に住み着いた流れ者だ。遠くの街の噂で奇妙な人死にが続いたのを、自分に都合のいいように解釈して、祭られていた『潤潤』という神の名を挙げるのに使った騙りだ」 全く、多少はインヤンガイの悪魔とやらを拝めると思っていたのに、とんだ小物さね、暇潰しにもなりゃあしないよ。 胸の内で吐き捨てる声とは裏腹に、さっぱりとした物言いで光子は掌を強く握りしめる。 「それに縋る奴とそれを使役する奴、どっちが凄いかはすぐに分かるさ」 楽園が開放した牢獄で身動きできない少女達の姿を見た。信者達の数人は、光子に恐れを為したのか、それとも楽園のもたらす破滅から逃れる手立てとしたかったのか、少女達を背負って逃げるのがいて、それはとりあえず放置した。 「そんじゃあ、戯言の続きは地獄でやってな豚野郎」 先のクローセルの召喚で傷ついた掌のまま、球体を握り潰す。 「漆黒の乗り手、邪悪の結び、叡智を欺く影を知らせ、隔てられるものを砕き新たな壁をたてよ、ヴィネー!」 さらさらと砂のように舞い落ちた魔術媒介が吹き上がった風に竜巻となって立ち上がる。天井をみしみしと揺らしながらそそり立った風に僅かな切れ目が入ったかと思うと、そこに内側からがしりと獣の爪が掛かった。渦巻く風を無理矢理こじ開けるように広げて現れたのは白目を剥き泡を吹きながら猛る黒馬、その上に跨がったのは黄金のたてがみをふりたてるライオン、振り上げた前足には真っ黒な蛇を巻きつかせている。 どおん! どおん! どおん! 立て続けに竜巻の周囲に石柱が立った。近くに居たものを押しつぶし、或いは掬い上げて天井へ叩きつける柱に、信者達が逃げ惑う。もちろんワレハルも例外ではない、化け物だあと子どもじみた悲鳴を上げて、楽園に向かって突進するのは、もう何が恐怖かわからなくなってしまったのだろう。 「…食らえ…ヴィネー、恐怖はまだまだ溢れるぞ」 薄笑いした光子の背後、竜巻は勢いを増し天井を削り飛ばしつつある。がらがらと崩れる瓦礫、戸口から逃げようとした信者達は目の前を巨大な石壁に遮られた。ライオンが咆哮する声に絶叫しながら、出口を求めて走り回るその先端に居るワレハルの前、楽園は嫣然と微笑む。 「残念。潤潤が器に選んだのは教祖様じゃなくて私みたい……今度は貴方が跪く番ね。さあ、どんな芸をしてもらおうかしら」 「き、さまああっっっ……ぎゃあああぐぶっっ!」 楽園の小さな体が飛びかかったワレハルの巨体に押しつぶされるかと思った次の瞬間、ばっちん、と奇妙な音が高らかに響いた。ふいに立ち止まったワレハルが驚いたように両手を広げて立ちすくむ。だがその首は軽々と切り飛ばされ跳ね上げられて、楽園の手に納まっていた。ばしゃばしゃと溢れ散る血潮を浴びながら、楽園はワレハルの首を持ち運び、『潤潤』の像に歩み寄った。首を灯火のように掲げ、床を蹴り飛び上がって、『潤潤』の像の首を鋏で切り飛ばし、その切り口にうやうやしくワレハルの首を置いた。 「新しい信仰対象の誕生よ。神となり永遠の生命を得る。これが望みだったんでしょう?」 自分に何が起こったのかわかっていないぽかんとしたワレハルの死顔に囁く。 「残った信者は……どうしようかしら。わざわざ手を下すまでもないけれど、少女達を壊した責任はとってもらわなくてはね」 ワレハルの首に甘えるように身を寄せて振り返る。ついに天井の一部は崩壊したのだろう、風が擦り抜け、微かな光が楽園の後方から差し込む。広間は既に破壊に満ち、生き残っている者は絶望を浮かべながら、楽園とワレハルの首を見上げている。そのどこかすがるような眼差しに、楽園は黄金の瞳を細めた。 ゆっくりと像の肩に腰掛ける。翻る朱に濡れたゴシックドレス、裾から覗く白い素足、きわどく妖しい美をたたえた教祖の首を抱く少女は、紅の唇で柔らかく命じる。 「破滅から救ってあげよう…香を焚きなさい」 石柱の隙間に踞り、封じられた出口にすがりつき、光子の前に泣き笑いしながらへたり込んでいた信者達がのろのろと動く。もう思考などしていない。意志もない。香など焚かなくても、この破滅から逃れるためには誰でも何でもするだろう。そもそも、少女達の命を『祈祷』だの『定め』だのですりつぶすことを受け入れた時から、彼らはもっとも暗い魔性と取引を済ませたのと同じだ。 「対価は支払わなきゃならないさね」 光子は嗤う。楽園のやりそうなことは想像がつく。 「さあ、お前達」 楽園は華やかな笑みを零れさせる。 「自殺はできなくとも、赤の他人なら殺せるわよね?」 ワレハルの首にもたれ、くすくす嗤う。 「女王の寵愛が欲しくば最後の一人になるまで殺し合いなさい。血の生贄を捧げなさい」 信者達は光子を振り返り、楽園を見上げる。お互いを見やり、周囲を見回す。 求めた光は微かだった。一瞬救われるのではないかと思った。だが、その彼方の光が、崩れ続ける瓦礫と埃に見る見る薄らいでいく様子が、光が差し込む前より暗い自らの居場所を明らかにする。 所詮もうどこにも逃げ延びる場所などないのだ。 少女達を蝕んだ嘆きと絶望が彼らの心をとっぷりと包む。 「う…おあああああ!」「うわあああっっっ!!!」「ぎゃああああああ!」 互いを襲い合い喰らい合い始める信者達を見下ろす光子と楽園の微笑の前、救いはどこからももたらされなかった。
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