「ヌマブチさん……!」 少女の悲痛な絶叫を背後に、ヌマブチは円盤へと足を踏み入れる。 断絶、訣別、離散、壁。言葉は何でもいい、ともかくそういう重たいものが、厳然たる態度でもって彼らの前に横たわる。 ヌマブチは振り返らなかった。 振り返って何になる。少女に余計な哀しみ、苦しみ、痛み、期待を与えてしまうだけだ。ましてや、これからは敵同士として戦わなくてはならない局面が訪れるかもしれないのだ、中途半端な希望を残すことで、彼女に不利の種を蒔くわけにはいかない。 ドアの閉まるかすかな音を意識の片隅に聞きながら奥へと進む。ナレンシフの内装には興味を払わず、彼は示された場所に腰を下ろした。 すぐに、わずかな浮遊感、それから振動。 円盤が飛び立ったのだろうが、彼らの座った場所に窓はなく、外の様子はうかがえない。無論、うかがえたところで何をどうすることも出来ず、また、そのつもりもないのだが。 『本拠地』までは時間がかかるのだろうか、同乗の世界樹旅団員たちが、めいめいにくつろいだり解析を始めたり通信を行ったりするのを視界の隅に認めつつ、ヌマブチは無言だった。 傍らで手を組み、真っ直ぐに前を見つめている三日月 灰人もまた。 「……」 「……」 乗り合わせた旅団員たちは、無言を貫く彼らにことさら絡むでもなく、特別警戒するでも、気にするでもなく、それぞれ自分の作業に精を出している。それが、彼らにとっての普通、日常なのだと言わんばかりに。 その光景を見ていると、思わざるを得ない。 在りかたを異にしようとも、彼らもまたロストナンバーなのだ、と。 結局のところこれは、世界図書館と世界樹旅団という、性質の異なるロストナンバー集団の戦いにすぎないのだろう、と。 円盤は滑らかにディラックの空を渡っている――の、だろうか。 外の様子が見えないのではどうとも言い難いが、他団員たちの慣れた様子からして、いずれは到着するはずだ。 ヌマブチは黙ったまま、座席の背もたれに身体を預けた。 力を抜き、疲労と緊張に凝り固まった身体の回復につとめる。 「……」 灰人の視線が、ふと、天井付近へ移る。 不思議に思って見上げれば、オウルフォームのセクタンが小さな翼をせわしなくはばたかせていた。 「綻」 灰人が呼ぶと、セクタンはゆっくりと降下して、伸ばされた彼の腕にぽすっとおさまる。灰人は、ほんのわずかに張りつめていた空気と目元を和ませて、セクタンの青い翼を撫でた。セクタンは、小首をかしげるような仕草をしたあと、軽くはばたいて灰人の肩に陣取り、翼をたたんだ。 そこからまた、しばしの沈黙。 静けさに耐え切れず無意味なおしゃべりに走るような性分でもなく、到着まではまだ少しあるようだし、体力の回復もかねて少し寝ておこうかと、ヌマブチが現実的な選択をしようとしたところで、 「……ヌマブチさん」 低い声で灰人がささやいた。 「?」 視線だけで続きを促せば、彼は組んだ両手をぎゅっと握りしめ、 「後悔、していますか」 そう、小さく問うた。 「……」 ヌマブチは一瞬の沈黙のあと首を振った。 「自分の判断に誤りがあったとは思わないのであります」 「そう、ですか」 「某は傷を負い、武器もなく、無事に仲間たちのもとへ逃げ切れる可能性は限りなく低かった。あの局面において申し出を受けたことはもっとも妥当で、現実的な判断だったと」 ヌマブチとて、世界図書館や、そこに所属するにぎやかで愉快で『何でもアリ』な面々に愛着がないわけではない。親しく言葉を交わし、ともに冒険し、烈しい戦いを潜り抜けてきた隣人たちの幸いを願う気持ちに変わりはなく、これまでの日々に、唾し後脚で砂をかけるような真似がしたいわけでもない。 それでも、 「……生きねば」 「ええ」 生き残り、生き延びる。 ヌマブチの行動理念とはそれだ。 故郷であっても、覚醒後であっても、その理念に変わりはない。 下っ端一兵卒として、常に極限の地でのぎりぎりの戦いを強いられてきたヌマブチにとって、己が生存と存続はすべてにおいて優先され、実行される。 彼は生きなければならないし、生き延びて帰るべき理由も持っている。誰かのためになどと、きれいに飾ったおためごかしをいうつもりはないが、戻らねばならぬと思う事情と背景は確かにある。 そうやって、彼は生きてきたのだ。 だからこそ、彼はいつも通りに考え、行動した。 ただ、それだけのことだった。 「だが……」 「え?」 「……いや、なんでもないであります」 ぽろりとこぼれかけた心情に、灰人が不思議そうな声を上げる。 ヌマブチは首を振った。 言葉にして外に出すには、あまりにも自分本位な感情だと思ったからだ。 ――判断を悔いてはいない。 生きることに意義があるのなら、この選択は必然だった。 しかし、けれど。それなのに。 (ヌマブチさん……!) なぜだろう、彼を助けようと駆けつけたあの少女の、叫びと涙が忘れられないのは。 「……某は、この選択を悔いてはいないのでありますよ」 自分に言い聞かせるように言葉を重ねてみるが、彼女の涙を思い出すたびに、自問が首をもたげる。それを止められない。 (本当にあの判断は正しかったのか?) (自分はただ、助けに来る仲間たちを信頼しきれなかっただけではないのか?) (仲間……そう、仲間だ。僕は、彼らを確かに仲間だと思っていた。今でも、おそらく……たとえ殺し合うことになったとしても、たぶん。それに、彼らのことだ、この期に及んでも僕をそう思っているに違いない。結局のところ僕は、そんな連中を、信じきれなかっただけではないのか) (彼女に涙を流させてまで、本当に、この選択をするべきだったのか?) (今さら後悔はしない。出来ない。後悔するわけにはいかない……生きるためにも。だが……) 胸の中を抉り込んでくる、寄せては返しながら何度も突きつけられる、頑是なくも鋭い一点の自責は、妥当で現実的な、ふさわしい選択だったと結論づけようとする理性を揺さぶり、ヌマブチの眉間にしわをつくらせる。 生き残る。生きて帰る。 その最優先事項、理念にわずかな変化もない。 けれど、 (ヌマブチさん) 少女の涙が、いつまでも意識の片隅に引っかかっている。 思い出すたび、胸の奥から自責が湧きあがる。 ヌマブチは、それをどうすることも出来ない。 * * * 前を見据えて黙り込むヌマブチを見つめながら、灰人は双子座ロストレイルで遭遇した少年を思い出していた。 「ヌマブチさん、私は」 「……ああ」 「旅団にくみした、くみせざるを得なかった子どもたちと話がしたいんです」 アクアーリオと名乗った少年の悲鳴がこびりついて離れない。 (死んじゃうもん!) パパ・ビランチャとママ・ヴェルジネなる人物が彼にとっての『親』で、パパのためならなんでも出来ると言いながら、『仕事』を果たせなければいい子でいられないのだと、ごめんなさい嫌わないでと怯えている。 傷つけ破壊することを躊躇わず、しかし、決して自分から望んでやっているわけではない子ども。 「私が出会った子、アクアーリオと名乗る彼は、パパ・ビランチャに拾われたと言いました。子どもそのものの無邪気さでアイスクリームを羨ましそうにしながら、同じ口で、パパのためにこの車両を破壊するのだと」 世界図書館には行けないと、自分のやりたいことなんて探せないと、それはパパとママの命に背くことなのだと狼狽し悲鳴を上げるアクアーリオを、灰人は放っておけないと感じた。ロストレイル襲撃に加わった世界樹旅団側のロストナンバーに、年端もいかぬ子どもが少なくなく見られたことにも、灰人は衝撃を受けたのだ。 そして、決意を固めた。 「ヌマブチさん、私ね、もうじき子どもが生まれるんですよ。妻はアンジェリカっていいまして、美人で料理上手で笑顔がとんでもなく魅力的で、そりゃあもう気立てのいい奥さんなんですが、そんな奥さんと私の子が可愛くないはずがないですよね。いやもう本当にご近所でも評判の奥さんで、」 延々とのろけ続ける勢いで、妻の素晴らしさについて語ろうとした灰人だったが、主題がそれではないことに気づいてなんとか方向転換する。平常時ならこの十倍は語るところだが、今はそれどころではないのだった。 「だから私、本当は、早く故郷に帰らなきゃいけないんです」 妻愛のあまり目尻を下げただらしない笑顔から一転、唇を引き結んだ灰人の言葉に、ヌマブチが視線だけで続きを促す。 「私はもうすぐ、人の親になるんです。私は、我が子というひとつの命を、愛情と責任を持って、ひとりだち出来るまで育まなければなりません。私がそうやって育まれたようにね。命を次代へと引き継ぐとはそういうことなんでしょう」 妻が恋しい。 早く、生まれてくる子どもに会いたい。 きっと赤ん坊は、妻に似て優しく美しく、聡明で、笑顔の素敵な子どもに育つだろう。 だから、本当は、一刻も早く故郷へ帰りたい。 「でもね、だからこそ、旅団に囲われた子どもたちを放ってはおけないと思うんです。子どもたち自身に善悪の判断はないんですよ、彼らはただ、自分がそこで生きていくため、大人を喜ばせるために従うだけなんだ。善悪の価値基準とはその集団が決めるもので、大人が彼らに押し付けているにすぎません」 アクアーリオは、パパ・ビランチャに従い続けることで、本当に幸せになれるのだろうか。パパ・ビランチャが喜んでくれることだけが、アクアーリオの生きる道なのだろうか。 ――そのために、自分の中のなにもかもを犠牲にして? 「私は彼らに、せめて違う道があることを提示したい。服従しなければ悪い子と呼ばれ、捨てられる、そのことに怯え、本当の願いに気づけないまま大人のいいように操られ自分をすり減らしていく、そんな子どもたちが確かにいるのに、見て見ぬふりをすることは出来ない」 これから生まれてくる我が子を、強く深く想っている。 我が子を抱き、泣き顔も笑顔も仕草も、すべてを記憶に留めたいと願う。 ――だからこそ。 「妻子が恋しいです、ヌマブチさん。今すぐに帰って会いたい、離れていたぶん、思い切り抱擁したい。しかし、迷える子どもたちが目の前にいるのに、見捨てていくことは私には出来ません」 きっと、神もお赦しにならないでしょう、と、ロザリオを握り締めてつぶやくと、ヌマブチの赤い眼が灰人を見やった。奇妙な光がちらりと揺れ、灰人は首を傾げる。 「ヌマブチさん?」 「某、神などというものとは最初から縁もゆかりもない、が」 「?」 「灰人殿が願われるように、子どもらが少しでも救われればいい、とは思うであります。灰人殿が、一刻も早く故郷へ戻るためにも」 「……はい」 現場主義一辺倒の、合理的で現実的な、神や信仰とは無縁にも思える武骨な――どうしてでも生き抜かねばならぬ理由と事情の見受けられる男の、精いっぱいの気遣いに灰人は微笑んだ。 「まずは、いきましょう。これからどうなっていくにしても、何もかもが、相手を知ることから始まります。それを始めなければ、何も進みません」 「そのようでありますな」 ナレンシフの振動が変わった。 同乗の旅団員たちが、日常の顔で、今回は長かったなーなどと声を掛けあっている。どうやら、もうじき到着するらしい。 「さて……」 軍帽を深くかぶりなおしながら、誰にともなくヌマブチがつぶやく。 「腹を、くくるとするか」 ナレンシフが着陸の体勢に入る旨が通達される。 高度を下げていく円盤の中で、奇妙な浮遊感に包まれながら、灰人は手の中のロザリオを再度握り締めた。 そして祈る。 誓いと願いを込めて、神に、故郷で待つ妻子に。 (もう少しだけ、待っていてください。すぐに、帰りますから。――この使命を果たして) 人を導く聖職者として、人の子の親として恥じない態度で、必ず帰る。 そのための一歩を、灰人は今、踏み出そうとしていた。 * * * (灰人さん、あなたを、絶対に取り戻す) (ヌマブチさん、諦めないわ……必ず、もう一度) (絶対に、辿り着くから) (それまで……どうか、無事で) (身体を大切に、元気で) (よし、ふたりが戻ってくるまで、彼らの無事を祈願して一杯やろうではないか。――彼らのツケで!) (ヌマブチさん太っ腹! さすが!) (じゃあ灰人さんのツケで、えーと) (早く戻って来ないと、借金で首が回らなくなるよー) 諦めない、折れない、くじけない、愉快で破天荒で、騒がしくも頼もしい連中が、ふたりを奪還するための機会を虎視眈々と狙っているなどとは、無論、その時の彼らには知る由もないことだったが。
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