「さて、と……あ」 買いそろえてきたものをテーブルに置き、料理にかかろうとしてエプロンをかけ、無意識に髪を払う仕草をしかけ、セリカ・カミシロは手を止めて、くすりと笑う。 「癖ね」 長い金髪はばっさり切った。今はショートカットで、その時に使っていた白いリボンを右手首に巻いている。なのに、体は髪の毛が長いことを覚えていて、ふとした拍子にそれを思い出させるような仕草で伝えてくる。 帰属してからもそうだろうか、とセリカは考える。 インヤンガイに帰属してしまってからも、セリカは今と同じく、ふとした自分の体の動きで、自分がここで、ターミナルで暮らしていたこと、元の世界のことを思い出すだろうか。 「スイートは甘いものが好きだけど、甘いものばかりも栄養が偏るし」 食材を並べ、必要な食器を確認する。帰属準備のために、必要最低限のものを残して処分を始めている。もっとも、置物やぬいぐるみの雑貨類は手つかずだ。スイートが気に入るものがあれば、プレゼントしていこうと考えている。 「オムライスにポテトサラダ……缶詰みかんを入れてもいいわね。野菜が少し足りないから、ガスパチョを作ろう」 スイートは外見よりも中身はまだまだ子どもだ、色合いも鮮やかで、食べるのも楽しいものがいい。いろいろ考えながら料理していくのは、いずれアデル家のガーディアンとして入った時に役立つだろう。キサという小さな子どももいることだし。 スイートの顔が脳裏に浮かんだとたんに重なるキサの顔、それにつきり、とした傷みを感じて思わず手を止める。 まだ、スイートに話していない、インヤンガイに帰属するということを。 先日に依頼で関わった孤独な少女の一件で、セリカはスイートに耳が聴こえないことを打ち明けた。同じように孤独に生きてきたスイートの心を感じ取った。 なのに今まだ、離れていくことを伝えていない、スイートをターミナルに残していくことを知らせていない。 「……どうやって、伝えよう」 再び玉ねぎを刻み始める。 セリカにも苦しい時間があった。生きていくことが苦痛だった時間があった。けれど、スイートを含めた周りの人達が支えてくれた、だからこそ、今、前を向けている。アデル家のガーディアンという、全く新しい場所へ踏み出そうとすることができる。 その感謝をどう伝えればいいのか。 スイートは苦しんでいる。母親を殺した記憶が蘇るとともに、自分がどれほど愛されていなかったのかにも気づいて、拠って立つ場所を見失っているようにさえ見える。エマリアにはヴァロがいたが、スイートにはいない。 そのスイートから、セリカは離れていくことを決心している、その決心は揺らがない。 「いたっ」 小さく包丁で指先を傷つけてしまい、慌ててくわえた。滲む血の味、血液体液が毒で、それらに触れ合うほど深く関われば、相手を殺してしまうスイート。それをよく知っていて、自分の使った食器は必ず人に使わせないようにしているスイート。幼い横顔が、悲しげに歪むのを何度見たことか。 スイートが笑顔になれるように、今度はセリカが支えになりたいと強く願っている。その気持ちは帰属しようと変わらない。 それをどうやって伝えよう。 カットバンを指に巻いて、セリカは真剣に野菜を刻み始める。 どうかおいしくできあがって。 今までで一番おいしくできあがって。 食べるスイートの笑顔が見たい。 「えっとぉ、何を持っていけばいいかなぁ?」 ターミナルの店を覗き込みながら、スイートは首を傾げる。ピンクのツインテールが風に揺れ、持っていた手提げ鞄に結んだピンクのスカーフが翻る。 パジャマ、タオル、歯ブラシセットはちゃんと持った。タオルも数枚ある。使った食器はしっかり洗って帰ろう。滅多にないけれど、万が一怪我とかしたら迷惑かけちゃうから、そのためのカットバンと包帯も持ってきた、うん、大丈夫。 今日はセリカの部屋にお呼ばれでお泊まりだ。セリカがおいしい御飯を準備してくれると言ったから、スイートは何かおやつを持っていこうと思っている。 「キャンディとチョコレートはあるから……んー、おいしそう、迷っちゃうなぁ」 きつね色のマドレーヌ、ふんわり焦茶で真っ白なクリームをコーティングしてあるシフォンケーキ、こっくりした茶色のチョコケーキ。色鮮やかなジュレを載せたフローズンヨーグルトもいいし、パフェみたいに飾られたフルーツゼリーも捨て難い。 悩みに悩んで、ジュレとクリームで飾られたいちごショートと、クリームとフルーツが乗ったプリンを選んだ。 「こんにちはぁ」 「あ、いらっしゃい!」 ノックしてドア開けると、嬉しそうに出て来てくれたセリカは紺色のエプロンをかけていた。短い金髪が輝く顔は太陽のようだ。ほっとして、体中がほんわかと暖かくなる。きっと誰だって、こんな笑顔でおかえりなさいと言って欲しいはずだ。 「今日は、よろしくお願いします!」 改まって頭を下げると、セリカが吹き出した。 「なになに、スイート、入って! もう準備できてるのよ!」 「ほんと、いい匂い!」 いそいそと入っていって、気がついてケーキの箱を渡すと、まあ、と喜んでくれた。嬉しい。セリカが喜んでくれるのは、本当に嬉しい。自分がとても価値ある存在になったような気がする。 ハハオヤゴロシではなくて。 「うわあ、おいしそう! これ、スープ? ピンク色、冷たい!」 「ガスパチョって言うの、壱番世界で夏に好まれるスープなんですって」 「ふうん、何が入ってるの?」 「トマトにキュウリ、ピーマンににんにく、ビネガーも」 スイートはくんくん、と香りをかぎながら、別の皿にも視線を向ける。 「これは?」 「オムライスの予定。スイートは卵、どっちがいいかしら」 「どっち?」 「薄焼き卵でくるんとケチャップごはんを巻くのと、オムレツにしてごはんの上に載せて切れ目をいれて、とろっとさせるのと」 「ううーん」 スイートはにこにこ笑うセリカの顔に一所懸命に考えるが、首を振った。 「選べない、どっちもすごくおいしそう」 「じゃあ、ごはんをちょっとずつにして、両方しましょうか」 「うん!」 セリカはまた料理のレパートリーが広がったようだ。 「ああ、それにスイート、見て欲しいものがあるの」 「何?」 「…あのね、ぬいぐるみとか少し多くなり過ぎたの。好きなものを上げたいんだけど」 「ほんと? あ、じゃあ、あの奥のピンクのくまさん!」 スイートはつい口走ってしまった。実は入った時から両手を小さく上に上げたポーズといい、くるんとした茶色の愛くるしい目といい、ちょんと小さな黒い鼻といい、可愛いなあと気になっていた。後でねだって抱っこさせてもらおうと思っていたのだ。 「いいわよ、これね」 セリカはすぐに持ってきてくれた。よく見ると足の裏に何かが書かれている。 「?」 「それは名前よ。『私の名前はハニーです』って書いてあるの」 「ハニー…いい名前だね」 「気に入った?」 「うん!」 スイートはくまをぎゅっと抱き締めて頬ずりする。今日は何だかすごく良いことが続く。何だか特別な日なんだろうか。でも。 「どうしたの?」 「ううん、何でもない、それより、セリカ、来る途中でね」 胸の内に動いた不穏な靄をスイートは押し殺して笑った。 話し損ねてしまった。 セリカは更けていく夜に小さく溜め息をついて、側で安らかな寝息をたてて眠るスイートの横顔をそっと見やる。 何だかスイートがあまりにもはしゃいで楽しげで、それこそ、一所懸命なほど元気に笑ってくれたから、何だか話せなくなってしまった。 けれど、寝る時間が来た時、スイートがそっと控えめに申し出た、『セリカちゃん、一緒に寝ていい?』 「知ってるのかな…」 一人ごちた呟きは夜に飲まれる。 スイートもロストナンバーなのだ。報告書にはある程度目を通すだろうし、セリカの名前があるものならば、注意して読んでくれているだろう、ちょうどセリカがスイートの関わった依頼を注意して読み込むように。 ならば、セリカがインヤンガイに魅かれ、アデル家に惹かれ、そこへ深く関わっていく経過も、多少なりとも気づいているかもしれない。普段のスイートらしくない、ケーキのお土産も、それとなく無意識に、今日が特別だと勘づいていたのかもしれない。 「……ふう」 でも、話さなくちゃ。 大事だからこそ、言いにくい話だからこそ、きちんと伝えなくてはならないことを、セリカはインヤンガイで学んできた。自分の選ぶ道をはっきりと伝えて踏み込むべき時があることを教わった。 明日こそ。 そう思って目を閉じた時、 「ふ…ん……や……いや……ママ」 「…スイート?」 「いや…いや、……いやだあ……っ、いやっ!」 「スイート!」 隣に寝ていたスイートがいきなり身悶えして悲鳴を上げ、跳ね起きた。セリカが悩んでいる間に怖い夢でも見たのだろうか、汗びっしょりになった顔を覆い、やがて肩を震わせてなきじゃくり始める。 「ごめんなさい…ママ…殺しちゃった……スイート殺しちゃったママを…ママを!」 大好きだったのに、どうしてママ、どうしたらいいの、これからスイートどうしたらいいの、ママ、ママ…ママぁ。 「スイート……スイート」 たまらなくなってセリカはスイートを抱きかかえた。 「スイート、起きて、起きてスイート」 「大好きだったの、大好きだったの、なのに、なのに…っ」 「うん、うん」 「なのに、殺し、殺しちゃっ…ママ」 「うん、うん」 「どうしたらいいの…っ、ママ、大好きだったのに…っ」 「うん、うん、わかってる、スイート、わかってるよ」 思わず強く抱き締める、そのセリカの頭からはスイートの体液が毒だということが吹っ飛んでしまっている、いや、実はすぐにそれは思い出したのだ、だが。 「スイート、スイート、私の大事なスイート」 声をかけ、慰め、抱き締める、その間近に毒が迫る恐怖を、セリカはゆっくりとしたたかに乗り越えていく、インヤンガイで生きていくと決めた日のように。 「ママ……ママ…」 「スイート、スイート」 「ママ…ま……っ! セリカちゃんっ!」 セリカの胸に潜り込むように甘えていたスイートがはっとしたように彼女を突き飛ばし、慌てて枕元のタオルを掴む。急いでそれをセリカに差し出しながら、 「ごめんっ、これで拭いて、涙ついちゃったかも、唾とか、お願い急いで着替えて!」 悲鳴のように続いた懇願に、セリカはゆっくり首を振った。 「平気」 「でもっ」 「平気よ、ねえ、スイート」 私、インヤンガイに帰属するの。 「っ」 びくりとしたスイートが固まる。 「インヤンガイは危険なところよ、でもそこに帰属するんだもの、スイートの涙ぐらい平気」 大きな目を見開いて、タオルを抱えてこちらを見返しているスイートに、なおも笑いかけると、視界が一気に滲んだ。 そうだ私はスイートを残して帰属する。こんなに一人に怯えている友達を置いて。こんなに誰かを求めている子どもを置いて。けれど、けれど。 「私も、なにもかもうまくいかなくて、生きるのが嫌になった時があったの」 でも、スイートやみんなが居てくれた。支えになってくれた。 「だから、たとえ帰属しても、どんなに遠く離れても、私はいつでもスイートの味方だから、ね?」 「セリカちゃん…」 「まだ、朝は先だよ」 一緒に寝よう、スイート? 零れ落ちる涙、差し出した両手にスイートの顔がくしゃくしゃと歪んだ。 夢にまで見た幻が目の前にある。 差し出された両手。スイートの体液が毒だと知りながら、それでも受け止めてくれようとする、この両腕。 「セリカちゃん…ばかだぁ」 「…なによ」 体が細かく震え、嘲笑おうとした響きを裏切る。 「ほんと……ばか……だぁ……」 俯く。堪える。けれど、喜びは、全てを押し流して溢れ出る。 「ばか……」 「スイート…」 俯いたまま、ことばを続ける。 「出身世界には帰れないけど……スイート、もう一度がんばってみる」 「スイート」 いつかきっと、もっと苦しい夜があるかもしれない。苦しくて、それでも泣けない夜があるかもしれない。 それでも、今この差し出された腕の真実は、きっと未来永劫揺らがない。 「…やく、そく」 きゅ、と唇を尖らせ、それからぐいっと顔を上げて、精一杯、溢れる涙の中でにっかりと笑ってみせながら、スイートは小指を差し出した。 「いつかきっと、また逢おうね!」 「…うん、約束」 同じようにぽたぽた涙を零して笑いながら、セリカも小指を差し出した。
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