「……先日の騒ぎを覚えているか?」 世界司書、贖ノ森火城が切り出したのは、先日、異世界シャンヴァラーラにある【箱庭】のひとつ、竜涯郷の深部で起きた事件に関することだった。「そうだ、あの、憎しみを司る《異神理(ベリタス)》だ」 自分が気づかないうちに己が内で育て上げた、自分自身への憎悪。 それを増幅し、さらには捻じ曲げて、周囲に存在するすべての存在を狂わせ慟哭させる、正体不明の悪意が、竜涯郷に根付いていた憎しみの《異神理》もしくはトコヨの棘と呼ばれるなにものかだった。 それは、先だって、ロストナンバーたちの働きで破壊されたはずだったが、「それの欠片の放つ波動が、竜涯郷の一角で観測された」 一部は、まるで断末魔の足掻きの如くに残り、竜涯郷のいずこかへと運ばれていったのだ。その欠片が、見つかったということだろう。「規模が小さいので、ひとりでも充分に対処出来るはずだ。……もちろん、精神の戦いだ、油断は決して出来ないが」 森深く埋もれた憎悪の欠片と対峙し、それを破壊する。 今回の依頼を端的に言うと、そうなる。「残滓とはいえ、充分に気をつけてくれ。『トコヨの棘』と対峙するものは、皆、ひとりとして余さず、己が内の憎悪に貫かれ、突きつけられたそれとの対決を余儀なくされるのだそうだ。それは、我が身の軋むような痛みだと、先の参加者たちが証言している」 《異神理》の力とはそういうものなのだと告げ、「――……前にも、言ったが。それと同時に、憎しみと向き合うに必要なものが何なのか、そもそも憎しみとは何であるのかを、自分の中に構築しておくことも重要かもしれないな」 独り言のように呟くと、火城は、ともあれ武運を、と言って旅人を送り出すのだった。 ※ ご注意 ※ こちらのシナリオは同時募集の「【竜涯郷】星色遊戯」と同じ時間軸で進行しています。同一PCさんでの、双方のシナリオへのエントリーはご遠慮ください。万が一エントリーされ、両方に当選された場合、充分な描写が行えない場合がありますのでご注意を。
1.Meditation どこを見渡しても広大な緑、空、大地。 獣が、鳥が、竜が、のんびりと――悠々と、厳しくもエネルギッシュな生を謳歌しているのがあちこちで見られる。 「……豊かな場所だ」 瑞々しい緑に包まれていると、気持ちが穏やかになる。 サーヴィランスは覆面の内側でひっそりと笑み、すぐに表情を引き締めて探索を開始した。出来ることなら、このまま、あふれるような緑の中でゆったりと微睡んでいたいが、まだ、やるべきことは終わっていない。 油断なく辺りを伺いながら、森の奥へと進んで行く。 「トコヨの棘、か」 それは、自分が、自身も気づかぬような深い場所に育て上げたものなのだという。 ――憎悪。 サーヴィランスにとっては、ひどく身近な感情だ。 そのために、彼は、たったひとりの自警団員として、二十年もの長い時間を戦い抜いてきたのだから。 「私にとっては、諸刃の剣、なのかもしれないな」 ぽつり、呟くと同時に、何かの鳥が切羽詰った声で鳴きながら飛び立っていった。 じわり、と、奇妙な冷気が周囲を満たし始める。 「自覚はある。間違いなく」 空気が変わりつつあることを認識しつつ、瞼の裏側に映る過去の光景に唇を引き結ぶ。 犯罪への憎悪ゆえにこの生き方を選び、その憎しみに駆り立てられて生きて来たサーヴィランスである。 両親を殺し、幼いサーヴィランスの心と身体をずたずたにした挙句たったひとりにして、孤独と絶望の中へどっぷりと漬け込んだ連中への燃え盛る憎悪こそ、サーヴィランスがここまで生き抜いた原動力であり、彼の戦いの根源なのだ。 だから、今回の依頼を受ける時も、そのことはしっかり念頭に置いてきた。 しかし、サーヴィランスには、今の自分が憎悪だけの存在ではないという自覚もあった。劇的な、とは言えないものの、幾つかの依頼を経て自分が少しずつ変わり、今もまだ変わり続けていると、そう、確かに感じている。 「そうだ……今の私は違う。私は、憎悪だけの存在ではない」 それは確かに、サーヴィランスをかたちづくる一因ではある。 しかし、それだけではないのだということを、彼はこの異世界の旅を通して思い出しつつあった。 「……きっと、これは、私向きの仕事……の、はずだ」 呟くサーヴィランスの目の前を、不意に、ひとりの少年が横切っていった。 「!?」 やわらかな金髪に透き通った青の双眸の、まだどこかあどけなさを残した少年だった。 しかし、サーヴィランスの呼吸が途絶したのは、こんな場所に幼い子どもがたったひとりでいたことへの驚きからではなかった。 「待っ、」 ――引きとめようと手を伸ばした瞬間に振り向き、怒りと嘲りを込めて笑った少年は、幼き日の自分だったのだ。 憎悪の棘が、じわりとにじり寄る。 2.Apparition 顔に、未だ塞がらぬ醜い傷痕を残した少年を、サーヴィランスは言葉を失って見つめる。 這い上がる恐ろしいほどの冷気に、手足が感覚をなくしてゆく。 「……君は、」 問いかけたら、 『きみがよわいからとうさんもかあさんもしんだんだ』 抑揚のない声で、断罪の言葉が突きつけられ、サーヴィランスは息を飲む。 彼へ向けて手を伸ばそうとしたところで、サーヴィランスは、自分の身体が指一本動かせなくなっていることを知った。 ――棘の欠片に取り込まれたのだということも。 『はんざいをなくすって、ちかったんだよね? ――なくせたの?』 まだサーヴィランスではなかったころ、サイモン・サマーズという名前だった少年が、 『なんにもかえられてないんだね。――ばかみたい。ばかみたいにちっぽけで、むりょくだね、きみ』 侮蔑もあらわに言い捨てる。 彼こそが、サーヴィランスの憎悪なのだ。 あの日に立ち尽くしたまま、傷ついたままの、脆い魂の奥底に眠る。 「……私は、」 『せかいはあんなにひろくておおきいのに、きみはこんなにちいさいんだね。こんなにちいさいくせに、いったいなにができるとおもってるの? なにを、だれをすくえるとおもってるの? ばかだね』 「違う。私は、これ以上君や私のような人間を増やしたくないと」 『だけど、ふえつづけてるじゃない』 「!」 『きみのたたかいやいかりは、けっきょく、むりょくなじぶんへのにくしみを、はんざいへのにくしみにすりかえて、せきにんをおしつけていただけなんだ……どうしてそれがわからないかなあ? それがどんなつみだか、きみはわからないのかなあ?』 サイモンは、淡々と……しかし容赦なく、サーヴィランスの内心を、罪と傷を暴き立て、突きつける。サイモンの言葉が、心臓を中心にして全身へ根を張り、サーヴィランスを雁字搦めにしてゆく。 まるで、もう、『それしかない』かのような焦燥感に襲われ、 「わ、私、は」 声が震えた。 冷気が全身を包み込む。 と、不意に、顔を激痛が襲った。 「っ!?」 激痛は、もはや過去のものとなっているはずの、顔の傷から来ていた。 あの日、両親を殺した悪漢たちに、面白半分でつけられた傷だ。 彼らは、恐怖に泣き叫ぶ幼いサイモンを押さえつけ、にやにやと厭らしく笑いながら、手にしたナイフで彼の顔を抉り、斬り裂いた。骨にまで達する傷は、顔の内部の筋肉をもあらわにするほどで、サイモンはしばらくの間表情を作ることすら出来なかったのだ。 「あ、ああ……」 あの時の、あの痛み。 いっそ死んだ方がましだと、けれど死にたくないと、誰か助けてと、両親を呼んで泣き叫び、のた打ち回っては無様に――必死に許しを乞うた、あの日の痛みが、絶望とともにサーヴィランスに襲い掛かる。 「あああ、あああああああッ!!」 足っていられなくなって、その場に倒れる。 しかし、自分が横転したことすら、声の限りに叫んでいることすらサーヴィランスには判らなかった。 痛みが彼の全身を、思考のすべてを侵す。 呼吸も出来ない。 ――何も考えられない。 ただただ、自分の無力さだけが押し寄せる。 『いいきみだ。きみなんか、もう、いなくなっちゃえばいいんだ』 クスクスと笑うサイモンの足元を転がりながら、サーヴィランスは、ただひたすらに己が無力を痛感していた。 3.Sublimation そのまま、どのくらい悶え苦しんだだろうか。 永遠にも思えるような長い時間を苦痛とともにのた打ち回り、サーヴィランスは泥だらけになっていた。激しく地面を転がった所為か、覆面などはすべて外れ、普段は決して見せようとしない素顔があらわになっている。 しかし、その素顔に、竜涯郷の泥が跳ね、土の匂いが鼻腔をくすぐるに至って、サーヴィランスの意識はわずかにクリアになった。 激痛に霞む眼で見上げた空の青さが、彼の意識を少し軽くした。 (……そう、だ) それは半ば無意識のことだった。 (苦痛はただの信号に過ぎない。肉体を傷つけられたわけでは、ない) あれは過去の痛みだ。 あれから三十年以上が経ち、古傷はただ痕を残すのみ。 (これは記憶がもたらす幻の痛みに過ぎない……怯むな。怖れるな。正気を保て。――師にもそう教わったはずだ) それは少年期のすべてを捧げた修行の賜物だった。 わずかな善き人、善き師との出会いが、傷つき絶望したサイモンに力を与え、使命を与えた。 「……ああ、そうか」 呟き、再度空を見上げると、呼吸が楽になった。 「私は、無力だ。きっと、それは、ずっと変わらない」 無力さを嘆く前にやるべきことがある。 前を見て進むしかないこともある。 そう、教わったはずだ。 師は、厳しい生き方を選ぼうとしている少年に、ありったけの言葉と思いと技術を託し、彼を送り出した。それが人々を救う力になると同時に、少年をも護ってくれるようにと。 「――……思い出した」 『無力さの憎悪』は常にともにあった。 しかし、憎悪が駆り立ててくれたから、今、ここに自分はいる。 「そうだ。そのお陰で、私は」 無数の世界の、本来ならば関わることも出来なかったはずの命を救うチャンスを得た。様々な風景、事象に関わり、新たな思いを得ることも出来た。 そのことを思い出せば、もう、痛みはサーヴィランスの敵ではなかった。 「――サイモン」 憎々しげにこちらを睨みつける少年へ手を差し伸べる。 「ともに行こう、サイモン」 憎悪と、痛みと絶望を宿した少年の眼を見つめ、語りかける。 『よわいくせに、ばかじゃないの』 「そうだ、私は弱い。そのくせ世界は無窮の如くに広い。――だが、世界が無限であることに絶望する必要もないだろう」 絶望が消え去ることはないのかもしれない。 しかし、サーヴィランスが忘れていた両親の愛を取り戻したように、希望もまた無限にあるはずなのだ。 「私は、君とともにいきたい。君がいたから、私はここまで来られたんだ」 希望がある限り絶望はしない。 絶望の泥海をもがきながら進み、たった一輪でもいい、希望の白花を見つけてやろうと思う。 「私は君を受け入れる。君と、無力な自分とを受け入れ、すべての希望のために最後まで戦い続ける。――だから、サイモン、ともに行こう」 サーヴィランスはサイモンへと手を差し伸べ、穏やかに微笑んだ。 「君がいてくれれば、私はもっと強くなれる。私には君が必要なんだ」 『ふざけないでよ』 「私は、大真面目だ」 ぱりん、しゃりん、くしゃり。 何かが砕ける音が聞こえる。 ああ、棘が砕けているのだと悟ると同時に、冷気が和らいでゆく。 サイモンは顔をくしゃくしゃにしていたが、 「サイモン」 もう一度、名を呼ぶと、泣き笑いの顔になった。 『あのさ。きみのそのすがお、あじがあってわるくないとぼくはおもうよ』 それだけ言って、サーヴィランスに駆け寄り、彼に抱きつくように、消える。 「……そうだな」 不吉な赤の欠片が砕けて消えゆくのを視界の隅に見遣りつつ、サーヴィランスは顔の傷を撫でる。 「確かに、この傷ももう、私の一部だ」 拾い上げた覆面を被りなおす気にはならず、またそんな必要も感じず、それらを小脇に抱えたまま、サーヴィランスは踵を返した。 「さて、では報告を……」 唇に浮かぶ、充足の笑みの理由を知るのは、彼とサイモンだけだっただろう。
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