クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
管理番号1151-12470 オファー日2011-10-23(日) 20:59

オファーPC 深山 馨(cfhh2316)コンダクター 男 41歳 サックス奏者/ジャズバー店主

<ノベル>

「ご機嫌よう、諸君」
 深山馨はマイクのスイッチを入れ、流れるようなしぐさで教壇に両手をついた。
「諸君はドッペルゲンガーを知っているだろうか? そう、もう一人の自分、自己像幻視などと呼ばれることもある。ここでは、江戸時代の日本で用いられていた<影の病>、<影のわずらい>という呼称に注目したい。アイロニカルとは思わないかね? 影は影のみでは存在し得ず、必ず本体があるからだ。決して幻ではないからだ。然らば、ドッペルゲンガーを見た者は近々に死ぬという伝承は非常に暗示的ではないだろうか」

   ◇ ◇ ◇

 男の名は吉野京秋(ヨシノミヤアキ)といった。
 ならば、吉野の眼前に立つ男もまた吉野なのだろう。男は吉野と同じ貌をしている。
「誰だ」
「君は自分が誰であるか真に証明できるのかね」
「なぜここに」
「君は自分がここにいる理由を説明し得るのかね」
 どちらが問うてどちらが答えているのか。
 深更の濃闇が吉野の部屋を満たしていた。鎌のような三日月は叢雲のヴェールを纏い、脆弱な明かりを注ぐばかりだ。暗闇はまるで影のようであった。影がそのまま投網を広げ、世界を支配してしまったようにすら思えた。
「お引き取り願おう。君が誰であれ、このような刻限に訪いを受ける覚えはない」
「訪い?」
 男は低く笑った。よく通る、芳醇な洋酒に似たバリトンの声で。
「私が君の元にやって来たとでもいうのかね。ああ、君は愚かだ。何という傑作だろう」
 男はもったいぶった、流麗ですらある所作で吉野を指した。黒革の手袋に包まれた指先が銃口のように吉野を狙っている。
「私は悲しい」
 次いで胸に手を当てた男はそっと眉を顰めてみせた。ひどく芝居がかったしぐさだった。
「暗示的な物言いも度が過ぎれば回りくどい」
 吉野もまた眉根を寄せ、唇を歪める。
「冗長な台本は観客を興醒めさせる。時には直截的な台詞が必要なのではないかね」
「では考えてみたまえ、吉野君。施錠されていたこの部屋を私がどう訪れることができるのだろうか。私は最初からここにいた。例えばそのサイドボードの影に。そこのカーテンの影に。あるいはそのロッキングチェアの影に」
「……やめたまえ」
「そう、私は常に君の傍に、君と共に在った。そうは考えられないかね?」
「やめたまえ」
 吉野は声を荒らげた。暗闇が波紋のように震える。男は密やかに笑い、男の影も笑うように揺れ動く。彼の影は猫の形をしている。逃げるように影から目を逸らす吉野を男の双眸が迎え撃った。吉野はモノクルの下で瞳をこわばらせた。男の目は、黒と紫の、猫によく似た異色両眼だったのだから。
「なるほど、確かに傑作であるようだ。これほど悪趣味な演出を私は知らない」
「ああ、やはり傑作だね。君はどこまでも暗愚、どこまでも滑稽」
 かすかな月影が窓から忍び入り、男を照らし上げた。スポットライトと呼ぶにはあまりに弱々しい光の中、彼の着衣がはっきりと見て取れた。まさに影のようであった。一分の隙もない黒衣なのだ。それは告解を受け止める聖職者、あるいは咎人に沙汰を下す判事のようであった。
「悪趣味と言うなら君自身はどうなのかね」
 月明かりの下、黒革の本が開かれる。
「忘れたと言うなら説明して差し上げよう。何度も。何度でも」
 月の照明は吉野の元には届かない。暗闇に沈んだ吉野は息を殺して聞き入っている。言葉は乾いた口の中で凍りついていた。喉がこわばって、呼吸すらままならなかった。
「君の友人は死んだね。崖から落ちて。私は覚えている。彼の紅茶色の髪が風にちぎられそうになりながら遠ざかる様を鮮明に覚えている。君もそうだろう? 何せ彼は君の目の前で転落したのだから」
 罪状のページがめくられる。
「ところで彼には妻がいた。髪が黒く、肌が白く、そのたたずまいは病的な脆さと儚さを湛え」
 男の能弁は続く。聖書を読み上げるように、静かに、厳かに。吉野はさっと踵を返した。この部屋から逃れるために。
「けれどもたいそう美しい、そう、まさに君好みの美女である」
 しかし男はいつの間にか吉野の前に立っていた。男は影のように吉野に付いて離れない。
「君は彼女に恋をした。彼女を愛した。友人の妻である彼女を」
 穏やかな糾弾は止まらない。吉野の呼吸が浅く、速くなる。鬢に奇妙な汗が滲み、モノクルがわずかに曇る。
「君は伴侶を失った彼女の支えになろうとしている。ああ、何という偽善。何という茶番。彼女が愛しているのは君ではなく夫だというのに」
「やめたまえ」
「君では彼の代わりになれないというのに」
「やめたまえ」
「分かっているのだろう? 死者こそ永遠、死者に追いつくことなど永劫にできぬと。そう、君は彼に嫉妬し続けている。永遠にだ。何と醜い。何と浅ましい」
「やめ――」
 声が掠れた。膝が震える。ひゅうひゅうと、全力疾走を繰り返した後のように喉が鳴る。
 男は本から顔を上げ、物憂げですらある風情でそっと嘆息した。己が演技に陶酔する大根役者のような所作だった。
「繰り返すよ、吉野君。私は悲しい。なぜなら」
 黒光りする革手袋の指が吉野に突きつけられる。
「君はあまりに蒙昧で無責任だ。己の所業と向き合おうとしないのだから」
 膿んだ傷口に杭が打ち込まれる。
「自分でも知っているのだろう? 彼を殺したのは己だと」
 月が、隠れた。
 真の暗闇が降ってくる。男の目だけが優雅に瞬き、細められる。
「サ、ツ、ジ、ン」
 スローモーションのように男の唇が動く。さつじん。殺人。繰り返される密やかな囁き。吉野は両手で耳を塞いだ。それなのに、どういうことなのだろう。男の声は変わらずに鼓膜を揺らすのだ。まるで頭の中で響いているかのように。
「違う。私は」
「君は彼を殺した」
「違う。彼は」
 懸命に記憶を手繰る。眩暈がする。
「仮に違ったとして、それがどうだと言うのだろう。君は心のどこかで彼を消したがっていたのではないかね? 彼さえいなければ彼女をと考えたことはただの一度もなかったと誓えるのかね? 何と醜い。何と汚らわしい」
 吉野は子供のように自分の腕を抱き締めた。きつく、きつく。指先が冷えていく。だが、体の中は焼かれるように熱い。
「君が殺したのだよ。これは紛れもない真実だ」
 とうとう吉野の膝が折れた。男の足元で猫の影がぐわりと膨張する。獲物を捕える獣の動きだ。吉野を捕まえて、襤褸雑巾になるまでいたぶろうとしているのだ。
「なるほど、都合の悪い現実から目を背け、耳触りの良い言葉だけを侍らせるのも生き方だろう。しかし借金取りのような現実は決して私たちを見逃してはくれないよ。夜叉と化して地獄の果てまで追って来るだろう。そして君は膨大なツケを身の破滅という形で支払わされることになるだろう。君は間違っている。なぜ向き合わぬのだ。己の罪と。醜さと。汚らわしさと」
 吉野は膝をついたまま逃げ出した。猫の影から。降り注ぐ糾弾から。四つん這いになって――それは平素の彼からは考えられぬほど無様な姿だった――、出口を求めて部屋を彷徨った。
「どこへ行こうというのかね。逃げ切れると本気で思っているのではあるまいね?」
 男の声はどこまでも追いかけてくる。不意に、硬質な物が吉野の指に触れた。反射的に縋りついた吉野は目を見開いた。拳銃だ。いつから床に落ちていたのか訝る前に掌中に握り締めていた。冷たく硬い感触にただただ安堵した。
「終わりだ」
 黒光りする銃口を男へと突きつける。男はうっすらと笑う。
「To be, or not to be――」
 口上を述べたのはどちらであったか。
「それはもはや問題ではない」

 銃声。
 死神の鎌のような月がヴェールを脱ぎ、惨劇の全貌を露わにする。

 銃口が絹糸のような硝煙を引いている。吉野と同じ姿をした男が吉野の足元に崩れ落ちていた。頭を撃ち抜かれた彼が生きているのかどうか、確かめるまでもない。それよりも、吉野は飛び散った血肉を嫌悪した。壁と床の掃除に難儀しそうだ。
「随分と汚れてしまった」
 吉野は笑っていた。自虐、あるいは虚無の笑みだったのかも知れない。虚無でないのなら何と言おう。自分と同じ貌が砕けるのを目の当たりにして、けれども自分は変わらずここに立っていて、ああ、眩暈がする。気が狂いそうになる。
「……また、罪を重ねた」
 密やかな告解を聞いた者はいない。

「少し時間が余ってしまった。雑談でもさせてもらおうか」
 翌日、吉野はいつも通り教壇に立っていた。
「諸君はドッペルゲンガーを知っているだろうか? そう、もう一人の自分、自己像幻視などと呼ばれることもある。ドッペルゲンガーを見た者は近々に死ぬそうだが、私は昨夜それとおぼしきものに遭遇した」
 生徒たちがざわつく。吉野は謎めいた笑みをもってざわつきを静めた。
「非常に興味深い事例だ。私が本当に死ぬかどうか、諸君の目で確かめてもらいたい。少なくとも、今この場で死ぬことはなさそうだがね」
 朗々と語る。深く心地良い声が生徒たちの間を浸していく。これが吉野の日常。吉野の部屋に男の死体が転がっていることは誰も知らない。
 やがて夕闇が訪れ、吉野は平素通りに帰途に就く。
「ご機嫌よう。良い黄昏だね」
 という声に息を呑む。
 昼とも夜ともつかぬ薄闇の中、部屋に落ちる影から滲み出すようにして「彼」が立っていた。
「誰だ」
「君は自分が誰であるか真に証明できるのかね」
「なぜここに」
「君は自分がここにいる理由を説明し得るのかね」
「君は。昨夜、殺し――」
「殺した? 誰を?」
 吉野と同じ貌で、男は洗練された微笑を浮かべた。
「君が殺したのは友人だろう?」
 太陽が地平線を焼く。静謐に燃え上がる斜陽が闇を煮詰めていく。
「私はいつでもここにいる。例えばそのサイドボードの影に。そこのカーテンの影に。あるいはそのロッキングチェアの影に。吉野君、天と地の間には君の哲学では思いもよらぬ出来事が随分あるのだよ」
 今宵も同じ惨劇が始まる。

   ◇ ◇ ◇

「不条理で悪趣味な夜が幾度となく繰り返された。自分で自分を客観視することほど居心地の悪いものはない。彼は夜毎糾弾され、自分を殺し、罪悪感と絶望を濃くするばかりだった。彼はその後どうなったのか、と? さあ、それは誰も知らない。影に取りつかれて死んだのかも知れないし、あるいは彼の方こそが影のドッペルゲンガーであったのかも知れない。真相は藪の中というわけだ。では、今日はここまで」
 繊細な指先でマイクのスイッチを切り、馨は静かに微笑んだ。
「ところで……彼は、深山馨という人物によく似ていたそうだよ」
 密やかな告解を聞いた者はいない。
「この世には自分に似た人間が三人はいるという。ならば、階層世界に同じ自分が存在しないなどと言い切れるだろうか」
 講義室は空だ。馨一人が、取り残されたように教壇に立っている。

(了)

クリエイターコメントありがとうございました。ノベルをお届けいたします。

見覚えのある台詞をいくつか引用しましたが、ニヤリとしていただけたでしょうか。
冒頭とラストの講義室は最初から空です。世界の中に馴染んでいるように見えて、その実世界の外側に立っているようなイメージで。

楽しんでいただければ幸いです。
ご発注、ありがとうございました。
公開日時2011-11-02(水) 23:00

 

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