「――あれ」 「おや」 ばったり出会った、というにはあまりに特殊な場所だ、とムジカ・アンジェロは思った。 「あんたは、確か……」 「君は、ムジカ君、だったかな」 穏やかに笑った男は、深山 馨といったはずだ。 彼とは知人にも満たない程度の知り合いだが、飾り気のない、モノトーンのシンプルな服装に――といっても、これが、彼の理知的で静かなたたずまいに驚くほどよく似合っているのだ――、右目のモノクルを見間違うことはさすがにない。 「珍しいところで会うもんだな。物見遊山か?」 彼らがいるのは、異世界シャンヴァラーラの【箱庭】のひとつ、『電気羊の欠伸』だ。金属を主体とした生命体が無数に存在する、奇妙で風変りだが穏やかな世界である。 シャンヴァラーラと世界図書館のかかわり、ロストナンバーの行き来が始まって一年半ほどが経つが、中でも、不思議で不条理で美しい自然現象と、ひとの心に訴えかけるさまざまな事象を引き起こす『電気羊の欠伸』は物珍しく、観光客としてのロストナンバーが絶えることはないのだ。 それゆえのムジカの言に、深山は小さく首を振った。 「逢いたい人がいてね。ただ、なかなか難しい相手なものだから」 「へえ」 永劫連結異相構造体と呼ばれる、階層の無限の連なりによって出来ている『電気羊の欠伸』のうち、神の一柱たる黒羊プールガートーリウムの支配する領域には、心や記憶や魂といった不可視の事象に深くかかわる場所が数多く存在する。 物見遊山でないロストナンバーの大半は、それを目当てにここを訪れるのだ。 ムジカもまた、さきほど、《鏡》と呼ばれる少年の姿をした内省機関と相見えてきたばかりだった。 「沈着冷静、ってイメージのあんたが『逢いたい』なんていうと、ちょっと不思議な感じがするな。生き別れた恋人、とか?」 「はは……そうだね、そんなものだ」 ムジカの軽口に、深山が笑う。 「じゃあ、想彼幻森に?」 「足を運んでみたが、駄目だったよ」 「そうか……あそこの果実は、人を呼ぶというから」 「ああ、次に来た時には、もしかしたら別の何かがあるかもしれないね。ムジカ君は、ここで何を?」 「ん? そうだな、確認に来た、ってとこかな」 肩をすくめる。 今は亡き弟への、もはやどうしようもなく刻みつけられ、焼き付けられた愛。 喪失の痛みを抉り、流れ出す血を絶望ごと掬い上げて諦観の杯で乾し、ムジカは常に確かめる。 弟が、自分の中にいることを。 彼を、喪う前と同じく、もしくはそれ以上に愛していることを。 愛しているがゆえに痛いのだ、と。 その痛みを抱いて、内へ内へと回帰してゆく。すべての救い、慰め、いたわりを振り捨てて、苦悩の中に埋没している。 弟は哀しみ、人は憐れむかもしれないが、それはムジカにとって至上の、彼がこの世界で生きる絶対の意味だ。 だからこそ、ムジカの浮かべる笑みには幸福がある。 「そうか。望むものを確かめられたのかな?」 それをどう受け取ったのか、深山が微笑む。 「ああ、この上もなく」 ムジカもまた、穏やかな笑みで返した。 と、 「――嵐の音がする」 唐突に声がして、光沢のある黒水晶のような地面から夢守が生えた。 材質のよく判らない漆黒のスキンスーツと、身体のあちこちからプラグやコードやコネクタをはやしたそれは、『電気羊の欠伸』をかたちづくる神の化身であり、【箱庭】の守護者たる夢守としてのスタンダードな形状だ。 「一衛か。三時間ぶり、くらいかな?」 前触れもなにもない、フリーダム極まりない出現は、この夢守が黒羊の領域を守護する化身だからだが、人間のにおいがしないとはいえ、ヒトのかたちをしたものが突然地面から生えるというのは心臓に優しくないのでは、などとムジカは思う。 「ところで、あんたっていつもこういう登場の仕方なのか?」 とはいえ、一衛とは《鏡》の領域で別れたばかりだったので、特に驚くでもなくムジカは尋ねる。 「夢守としてはごく普通の移動方法だ」 「地面から生えるのが?」 「領域と同化してデータを瞬時に転送・再生しているといってくれ。というより、地面から夢守が生えることに何か問題が?」 「いや、そう返されると自分の質問の正当性そのものを疑いそうなんだけど……」 なぜ問われるのか判らない、といった様子の一衛に、ムジカは首を傾げた。 そのやり取りがおかしかったからか、深山がくすりと笑うと、穏やかなその面へ、一衛は楔状の瞳孔のある黒眼を向けた。奇妙な金属光沢を伴って、双眸が薄く光る。 「……猫の影なら、ここにはないぞ。この領域にはいない」 いったい何を見たのか――そういえば、『スキャン』すればいろいろなことが判ると言っていた――、ムジカには不可解なそれに、深山はすうっと紫色の眼を細めた。表情は穏やかなままなのに、空気の質感が変わったような気がして、ムジカは興味を覚える。 「そうか、ありがとう。しかし、この領域には、ということは」 言葉を正しく受け取っての問いに、 「本当にいるかどうかは知らん。だが、いるかもしれない場所なら、知っている」 金属の指が、黒水晶の道をまっすぐに指し示す。延々と続く道が、途中から、白と銀と琥珀の色をした美しくも非現実的な森へと差し掛かっているのが見える。ここから何km先なのか、遠近感が掴みにくくて測りがたいが。 「皈織見(カヘリミ)の森という。巡り、回帰し、繰り返す場所だ」 「……それは?」 「ヒトは、時折、過去を顧みると聞いた。『あの時、ああしていれば』と、過ぎ去った選択肢を思うとも」 「そうだね」 「そういう『自分』と出会うことがある」 「そこに……? しかし、私は」 「ほかにも、自分であって自分ではない誰かと逢うこともあると聞く」 淡々とした物言いに、深山の眼の奥が光を帯びた。 「へえ、不思議な場所だな。ドッペルゲンガーみたいなものか?」 「同じ世界にいるもうひとりなのか、別階層の自分なのかは、この世界に固定された私には判らないが」 「それは……興味深いな。そこは、断りなく入ってもいいのかな?」 ほんの少し高揚した声で、深山が幻想の森を見晴るかす。 一衛はかすかに頷き、 「ただ」 道と同じ黒水晶で出来た、高い高い――それはもうほとんど明るい夜空のようだ――天井を見上げた。 「幻迷嵐(マドイアラシ)の音がする。じきにこの辺りも影響を受ける。今はやめておいたほうがいい」 「幻迷嵐?」 「黒羊の支配する領域は、魂や精神に通じている。そういうものをかき乱し、肥大させ、時に吹き飛ばしてひどく狂わせる嵐だ。人間が備えなしに飲み込まれれば、自我を保っていられなくなるかもしれない」 人間の魂や精神は、その美しさ豊かさのためにとてもやわらかいから、と一衛が言い、さすがに無謀ではない深山がそれなら日を改めてと答えた、そのときだった。 ざざざ、ざざざざざざッ。 風や嵐というより、ノイズのような音が、辺りを包み込んだ。 同時に、浮き上がってきた黒い錆のような何かに視界を妨げられ、何も見えなくなる。 「前触れがなさすぎる。しかも、速い……?」 不思議そうな一衛の声は、奇妙に遠い。 自分がどうなっているのかも判らないまま、背骨がぞわぞわするような浮遊感に包まれて、ムジカは眉をひそめた。おそらく幻迷嵐というやつだろうが、物騒な話を聞いたばかりだ。さすがに、このまま飲み込まれるのは遠慮したい。 「おい一衛、これ」 「妙だな、演算が追いつかない。何か理由があるのか……」 「は?」 「現状では対処できない。あとで探しに行くから、今は素直に飛ばされておいてくれ」 揺らぎひとつないそれを要約すると、この場では見捨てるから諦めて行ってらっしゃい、ということになるだろうか。 「待て、自我がどうこう言ってなかったか、あんた」 「仮プロテクトをかけた、多少は持つはずだ」 本当に大丈夫なのか不安になるほど淡々とした声が言う。 そして、 ざざッ、ざ、ざざざざざざざざあああああッ。 黒いノイズに、すべてがかき消される。 * * * 馨が眼を開けると、そこは白と銀と琥珀で出来た森の中だった。 「皈織見の森、か」 身体を起こし、ぐるりと見渡して、息を吐く。 「……美しいところだ」 純白の幹に銀の枝、琥珀の葉。 幹には雲母状の、きらきらとした輝きがあった。 「さて……?」 ムジカもおそらくここに飛ばされてきている。 そんな、確信に近い予感があって、ひとまず合流すべく馨は歩き出した。踏み出すたび、足元がさくさくと音を立てる。小気味よさに見下ろせば、地面には、折れて枯れた銀の枝や琥珀の葉が分厚く降り積もっているのだった。人間には永遠にも均しい時間、この枝葉は降り積もり続けているのだろうか。 さくさく、さくさくと音を立てながら森を行く。 穏やかな漆黒に満ちた想彼幻森とは違い、ここはまぶしいほどに明るい純白と静謐によって覆われている。時おり風が枝葉を揺らし、鉱石が触れ合うような涼しげな音――どうやら小鳥の囀りらしい――が聞こえてくる。 どこまでも静かで、非現実的で、美しい光景だった。 「心があらわにされるようだ」 純白の幹に触れ、雲母めいたきらめきに指を這わせる。 さくり。 背後で足音がした。 ムジカか、と微笑とともに振り向いて、 「ならば、君の心を、罪を暴くものがいなくては、面白くないだろう?」 彼は、『彼』と出会った。 「――君は」 黒と紫、色違いの双眸。 足元には、猫のかたちをした影。 「この森はまるで牢獄のようだ。罪人はここで眠れと言わんばかりの」 姿も、声も馨と同じ、ただ何かが決定的に違う、正体も目的も判らない彼の影、ドッペルゲンガーとでもいうべき謎の男。 「君はまだ目を背け続けるのか。その、醜悪な在りかたを続けると?」 男は、馨と同じ顔で穏やかに微笑みながら、馨の罪を暴き、罪から眼をそむける彼を弾劾する。 馨は、この男に与えられた絶望がもとで覚醒したのだ。 「なぜ、罪を認めない。なぜ、償おうとしない」 言葉が馨を貫く。ああ、と馨は嘆息する。 あの時と同じだ。 「己を、自分の欲望のためならば友さえ殺す穢れた存在だと、なぜ理解し向き合おうとしない。それこそが、何よりの罪だというのに」 男は、やわらかな微笑とともに馨の中から罪を暴き立て、目をそむけようとする彼を弾劾する。穏やかな、激昂などからは遠い調子で、しかし慈悲も容赦もなく。まるで、馨に責め苦を与えることだけが己が使命だとでもいうように。 物静かな断罪に責め立てられ、あの日味わった苦悩が、絶望が、じわりと記憶の中から浮かび上がる。 しかし、 「違う」 嘆息はすぐに、失望の呼気に変わる。 「君は、違う」 なぜなのかは判らないまま確信する。 と、ざざざっ、と音がして、男の身体に黒いノイズが走った。 穏やかな悪意に満ちた笑みが、立体感を失ってざらざらと揺れる。 「幻迷嵐の見せる贋者、か」 あの日彼を追い詰め、覚醒させた猫の影の男。もう一度まみえたいと、確かめたいと――対峙し決着をつけたいと思って探し続けているが、どうも、容易なことではないらしい。 「……やはり、“私”ではないようだ」 落胆し、吐息をひとつ落とし、黒いリボルバー式拳銃を構えると、『彼』が何かを言うより早く、慣れた仕草で引鉄を引く。 銃声。 悲鳴はなかった。飛び散った血が白い森を汚すことも、倒れた骸があのさくさくという音を立てることも。 「……さて」 馨は、何ごともなかったような表情で歩みを再開する。 邪魔が入ってしまったが、ムジカと再会して、夢守に見つけ出してもらわなくてはならない。皈織見の森には、幻迷嵐とやらが落ち着いてから、改めて訪れればいいだろう。 さくさくと小気味よい音を立てながら森を行き、大樹を通り過ぎた辺りで目的の人物を見つけた。特徴的な珊瑚色の髪を見間違えるはずもない。 しかし、ムジカはひとりではなかった。 「お前はどうしようもなく愚かで、臆病で、無能だ。お前とおれが同じものだなんて、到底信じられない」 「……ああ、そうかもな」 彼は、寸分たがわぬ姿かたちの男と向き合っている。 「弟が何だっていうんだ。『神』? ふざけるな、お前にはプライドがないのか? 神が存在するというなら、ギフトを与えられたのはおれだ、間違いなく」 まったく同じ顔なのに、別人のように見えるのは、『ムジカ』の顔つきのせいだろう。あれは、己が才能への絶対的な自信が見せる傲岸さであり、驕りだ。ムジカの表情が静謐で穏やかなだけに、なおさらそれは目立った。 「このギフトを、『神』とかいうものと出逢ったからと容易く棄てたのか。自分自身が神になる気概もなく? ――腑抜けが」 『ムジカ』の嘲弄を、ムジカは黙って聞いている。 『ムジカ』は――夢守の言葉を借りるならば、おそらく別の世界軸で生きるもうひとりの彼は、そんなムジカを嘲り笑った。そこに、羨望にも似た憎悪があると感じたのは、きっと馨の錯覚ではないだろう。 だから、馨には、ムジカがどう答えるのかも、実は判っていたのだ。 「……それでも」 「なんだって?」 『ムジカ』がいぶかしげに眉をひそめる。 「それでも、おれは幸せだ。お前よりも、ずっと」 ムジカの、満ち足りた微笑には、己の持たない『何か』への憧憬と、『何か』に固執し囚われ続ける醜さへの憐憫があった。それに気づかぬはずもなく、『ムジカ』が苛立たしげに、憎々しげに、 「――黙れ」 「おれは絶対を見た。見ることを許された。この至福が判らないのか」 「黙れよ」 「おれはこれからも神の絶対を許され続ける。お前は、薄っぺらなギフトを驕って地を這いずり続ければいい」 「黙れッ!」 どこか幼子が泣き叫ぶように、『ムジカ』が拳銃を抜く。 ムジカもまた同時に、同じ銃を抜いた。 互いの額に銃口を向け、そして、――嚆矢のごとくに響く銃声。 しかし、音は、ひとつだけ。 すぐに、沈黙が辺りを支配する。 鉱石の触れ合うような、鳥の囀りがどこかから聞こえてくる。 馨は、やはり何ごともなかったような微笑とともに片手を挙げてみせた。 「やあ」 「どうも」 ムジカもまた、何ごともなかったように肩をすくめてみせただけだ。 どちらともなく、森の一方向を目指して歩き出す。誰に教わったわけでもないのに、そちらが出口だと心が告げている。ムジカも同じなのだろう、足取りから不安や疑問はうかがえない。 「迎えに来てると思うか」 「そう願いたいね」 「おれ、友達と出かける約束をしてるんだ。時間に遅れると不機嫌になりそうだから、なるべく早めに来てほしい」 「お詫びとお土産に、ここの産物でも持っていくというのは?」 「すでに遅れる前提だな。でもあいつ、なんでだか知らないけど『電気羊の欠伸』が苦手らしいから、そんなことをしたらもっと不機嫌になる」 「おや……いったい何があったのだろうね、それは」 他愛ない会話を交わしつつ、さくさくと白い森を行く。 目にしたもの、出逢ったものについてはお互い口にしなかった。 する必要もない。 「とはいえ、なかなか面白い経験ではあったよ」 「ん? 何か言ったか?」 「いいや、ひとりごとだ」 馨がくすりと笑うと、ムジカはそうかとうなずいた。 降り積もった白と銀と琥珀をさくさくと鳴らしながら、森を進む。 視線のずいぶん先に、ふたりを待ち構えるような態勢の夢守が見えた。 「……次は」 つぶやきの先は言葉にならなかったが、含む意味は誰よりも馨が知っている。 ざざ、ざざざざざッ。 黒いノイズの残滓が、ふたりを見送るように鳴って、消えた。
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