雨の匂いが頬を撫でた。土は柔らかに湿り、濃密な香りを放っている。見上げる天は薄灰にくすみ、深山馨のモノクルに曖昧な陰影を落とした。 「ああ、いい風だ」 対照的に、ムジカ・アンジェロの足取りは軽やかだ。湿気を堪能するように目を細めるムジカに馨は静かに微笑んだ。 「梅雨が好きかね」 「どの季節もそれぞれに美しい」 「私は多湿を憂鬱に思うこともある。纏わりつかれる感じがどうも、ね」 馨は流れるように鬢の辺りを撫でつけた。整えられた頭髪が湿気を吸って重くなっている。ムジカの髪もわずかにうねっていたが、彼のヘアスタイルはそもそも無造作だ。 「梅雨なんだから仕方ないさ。それに湿気は天に昇って雨になる」 ムジカはしなやかに笑いながら前方を顎でしゃくった。 「彼らにとっては恵みだろう?」 二人の行く手には紫陽花畑が広がっている。 群生する花は静かに、圧倒的なグラデーションを描いていた。 口紅のように煽情的な赤。魔女のマニキュアに似た暗赤。かと思えば艶めかしい紫も混じる。赤みがかった紫は、血色を失いかけた唇のように妖しい。 「なるほど」 ムジカは先に立ち、視界を埋め尽くす紫陽花の中を歩み始めた。 「この辺りの土壌はアルカリ性なのかな」 「土のpHは花色を決める要素の一つにすぎないよ。花が持つ補助色素、土壌のアルミニウム、開花からの日数……。いくつもの因子が絡み合って色が決まる」 馨は静かに応じた。彼の瞳は紫だ。 「美しい。とても」 ムジカはゆるゆると馨に視線を向けた。 「で、紫陽花を愛でに来たのか?」 「私の柄ではないとでも?」 馨の口元が自嘲で歪む。ムジカは軽く肩を揺すった。 「おれにただ花を見せたかったのかなと思ったんだ」 「美しいものを見たら誰かに伝えたくならないかね。理由付けなどできない、素朴な情動だよ」 「確かに、感動は共有したくなるものだ」 紫陽花の葉がさわさわと囁いた。鋸葉状の、青々とした緑だ。ムジカは何気なく手を伸ばし、滑らかな葉を愛撫する。馨が低く笑った。 「気を付けたまえ。この花には毒がある」 「知っている」 ムジカは瑞々しい緑の上に接吻を落とした。葉が、はにかんだように揺れる。ムジカの視線はゆっくりと這い上がり、鞠のような花の上で止まった。小さな花が寄り集まってできた鞠は何を語るでもなくそこにあった。 空気が密やかに揺れる。用心深い風のようにも、誰かの溜息のようにも思えた。 「――ごく私的な事情だよ」 馨のバリトンが風と共にムジカの背を打った。 ムジカはゆっくり振り返った。馨はうっすらと笑ったようだ。目尻に、消し難い皺が刻まれている。 「弔いのために毎年訪れている。この場所で死んだ男がいてね」 皺は、傷口のようにいつまでもそこに残った。 「彼とは長い友人だった」 「過去形なのか?」 「彼は亡くなったのだから」 「友情まで無くなるわけじゃない」 紫陽花畑を渡りながら意味深なやり取りが続く。二人の傍で、紫陽花の色は赤から紫へと移り変わっていく。 「彼は私を友人と思ってくれていただろうか」 馨の言葉は湿気と一緒に宙に浮いた。質問のようでも、独白のようでもあった。 「さあ、おれには分からない。だが」 ムジカはさらりと笑って言葉を継ぐ。 「興味深いモチーフではあるかな」 「ほう?」 「紫陽花の花言葉は浮気、移り気」 戯れの詮索だった。気安い友人どうしが相手の反応を探るように。 「花の色が移りゆく様を指して七変化と呼ばれるそうじゃないか。そんな場所に友情が眠っているなんて、想像を掻き立てられる」 「些か意外だ。君がこれほど饒舌だったとは」 「本当に能弁なのは沈黙さ。黙っていても色に出る……とてもヴィヴィッドに」 ムジカの人差し指が手近な花の上を滑る。グリッサンドのように、滑らかに。 「例えばあれは何を謳い上げているのかな」 次いで、緑灰の双眸が一株の異変を捉えた。 それはまさに異彩であった。赤や赤紫の中に、真っ青な紫陽花が寡黙に佇んでいる。 「……珍しい、色合いだ」 馨の返事は一拍遅れた。喉仏がかすかに上下したようだ。それに気付いたのかどうか、ムジカはターンでもするように爪先の向きを変えた。向かうは青色の紫陽花だ。 「待ちたまえ」 馨の声が追いかけてくる。ムジカは聞き入れない。大股に歩を進め、目の覚めるような青にぐんぐん近付いていく。 「さて。あんたの真実は何だ?」 青い紫陽花が戸惑いに似て揺れた――あるいは震えたのかも知れない。 花の根元にひざまずいたムジカは素手で土を掘り返し始めた。手指の汚れすら厭わない。音楽に携わる者なら忌避すべき振る舞いだが、今のムジカを衝き動かすのは好奇心だ。 ようやく馨が追いついて来る。彼にしては珍しく、息を切らしていた。 「……やめたまえ」 制止の声は諦念に似て静かだ。ムジカは一心不乱に、宝探しに夢中になる少年のように土を掘り続ける。 風が重い。水蒸気が飽和し、行き場を失っている。今にも滴り落ちてきそうなほどに。 ムジカの指先が硬い物に触れた。 「出てきた」 逸る心臓がスタッカートを打たれたように拍動している。躊躇なく、しかし傷付けぬよう慎重に掘り起こしていく。 馨が緩慢に嘆息した。彼は何も言わなかった。代わりにムジカが笑った。 「宝のように隠しておきたい物、かな?」 ムジカが掘り当てたのは錆びついた拳銃だった。 「合点がいったよ。金属の錆が土と花を変質させたってわけだ」 ムジカは五線譜にペンを走らせるような手つきで拳銃を弄び始めた。しなやかな手の中でくるくると回される拳銃は頑なに沈黙を守り続けている。異彩の紫陽花も、馨もまた。 「友人が死んだ場所からこんな物が、ね。偶然とは思えないが」 ムジカの口と手がふと止まった。銃は古く、重厚な型式である。びっしりと錆に覆われているのに原型を留めているのは幸運と言えるだろう。 それよりも――手に馴染まない、この違和感は何なのだろう。 「お察しの通りだ」 沈黙の均衡を破ったのは馨のほうだった。拳銃を見つめていたムジカが顔を上げると、馨はうっすらと微笑んだ。さざなみのような皺と一緒に広がるのは自嘲、あるいは達観だろうか。 「彼は私が殺した。その銃を使って」 ひどく静謐な自白を聞いたのはムジカと紫陽花だけだった。 気圧が下がり始めた。薄灰の雲は密度を増し、低く重く垂れ込めている。刹那、ムジカの呼吸が緊張した。馨が懐に右手を差し込んだのだ。 「安心したまえ。銃を呑んでいるわけではない」 馨は見透かしたように薄く笑った。 繊細な指先が取り出したのは封筒だった。中にはセピアに褪せた便箋が収められている。 「彼からの最後の手紙……結果的には遺書となってしまったが」 ムジカは黙って受け取り、紙を広げた。 文面は横書きだった。性急に文字を連ねたのだろうか、インクがあちこち擦れ、滲んでいる。しかし判読は容易だ。 「忘れてくれ」。手紙は、懇願とも拒絶とも達観ともつかぬ一言で結ばれていた。 「どういうことだ?」 ムジカはゆるゆると視線を持ち上げた。目の前の馨は赤紫の紫陽花を背にしている。分厚い雲に濾された鈍い陽光がモノクルに反射した。 「君は推理が得意ではなかったのかね?」 馨の喉が低く鳴った。笑ったつもりなのだろうか。ムジカはひょいと肩をすくめた。 「手掛かりが足りない。予断と先入観は好みじゃないんだ」 「推測や憶測でも構わない。組み立ててみせたまえ」 馨は抵抗を放棄するように、あるいは油断を誘うように両手を広げてみせる。ムジカは「参ったな」と襟足を掻きつつ、サングラスの下の目を油断なく眇めた。 「この手紙を書いた彼はどんな人だったんだ?」 「若い時分からの友人だ。私の根幹を形作る者の一人だよ。紅茶色の髪の、明朗な青年で――」 詩を吟ずるように朗々とした馨の声が止まる。 「――元ロストナンバーで」 間に小さな吐息が挟まり、 「美しい、妻がいた」 それを吐き切るように言葉を結んだ。揺らぎと見たのかどうか、ムジカは唇と眉を挑発的に持ち上げた。 「亡くなったから“元”か?」 「彼は消失を選んだ」 「パスホルダーを捨てた……と?」 軽やかな尋問だった。そこにあるのはどこか少年めいた、無邪気ですらある好奇心だ。馨は静かに肯いた。 「彼が自らの意志でしたことだ」 「何故?」 「彼の心は彼のみぞ知る。どれだけ親密であろうと私は他者にすぎない」 「推測や憶測でも構わない」 ムジカはうそぶくように馨の言葉を真似る。馨は「これはこれは」と苦笑いした。 沈黙が降りてくる。土と葉の匂いがもったりと二人を押し包む。 やがて馨の口許がわずかに歪んだ。苦い物を口にした時の反応に似ていた。 「では憶測を述べよう」 ざわざわと紫陽花が鳴る。渡る風が、雨を孕み始めている。 「彼の奥方は覚醒しなかった。私は……彼が、彼女に寄り添うためにパスホルダーを手放したのではないかと疑っているのだよ」 ロストナンバーの時間は覚醒と同時に停まる。近しい者の傍に留まり続けたとしても、同じ時間を共に歩くことはできない。 「成程」 ムジカは意味深に目を細めた。そして、錆びついた拳銃をくるくると回しながら問うた。 「だから殺したと?」 一瞬、馨の息が止まったようだった。 ぽつ、ぽつ……ぽつ。 馨の頬に雫が滴り、ムジカの髪が湿っていく。ムジカはサングラスを外して空を振り仰いだ。天は静かに、優しく泣き出している。 馨は黙して語らない。何よりも雄弁な肯定のように。ムジカは裸眼のまま馨を見据えた。 「経緯は分かった。動機は?」 「それを解き明かすのが探偵ではないのかね」 「あんたの心はあんたにしか分からない」 ムジカはサングラスを胸ポケットに突っ込んだ。天と地が湿っていく。馨の視線はムジカから外れ、空と土の間を漂った。細い雨の中、静かに濡れ始めた紫陽花は地面に向かってうなだれている。 「おそれ……だ。彼が選んだ、終着への」 馨の唇がかすかに濡れ、言葉を紡いだ。ひどく曖昧で不完全な自白だ。ムジカは補完を促すように紫陽花を顎でしゃくった。 「恐怖のことか? それとも、畏まるほうの?」 緑灰の双眸の先、濡れた青紫陽花がますます鮮やかさを増している。燃え上がるような赤紫陽花を背負った青はどこまでも静謐だ。 「さあ。どちらだろう」 「自分のことなのに分からないのか?」 「いけないかね。この世には不可解なことがいくらでもある……百年旅をしていても解き明かせるものではない」 馨はゆっくりと、物憂い右手で頭髪を掻き上げた。柔らかな雨に打たれ、整髪料が落ちかけている。 「そろそろいいかね」 「何がだ?」 「私はすべて自白したよ。動機も、殺害方法も。証拠品を返してくれないか。思い出の品でもあるのでね」 雨で曇ったモノクルがムジカの手を見つめる。彼の手中にあるのは錆びついた銃と手紙だ。手紙の文字は雨に濡れ、涙のように滲み始めていた。 「すべて? 本当に?」 ムジカの右手でくるくると銃が回る。手品のように、鮮やかに。見る者を翻弄するように回転する手は銃を構え、持ち上げた。 「やめたまえ」 馨の声が警告めいて尖る。 右手で銃を構えたムジカが、自らのこめかみに銃口を押し当てたのだ。 「この命と引き換えに――なんて、三文ミステリではありがちだが」 ムジカは悪戯っぽく笑って引き金に指を置いた。 「あんたなら知っている筈だ。この状態では撃てやしないと」 さああああああ……。 紗のように、雨の幕が降り注ぐ。ムジカの睫毛が濡れ、刹那、視界が滲んだ。紫陽花の群れが煙っていく。赤も青も、馨までもがヴェールの向こうだ。 「この銃は左利き用だ」 瞬きをして雫を落とす。目の前の馨の姿がクリアになる。ムジカはくるりと銃を下げ、無造作に手紙を差し出した。 「それに、このインクの擦れ方。手紙の主は左利きじゃないのか? 左手で左から右へ字を書けば手が常に字に重なるから」 「回りくどい言い方はよしたまえ」 「あんたは右利きだろう。さっきから右手ばかり使ってる」 ムジカは軽快に喉を鳴らし、 「この銃の引き金を引いたのはあんたじゃない。この手紙を書いた彼だ、彼は自殺だ。違うか?」 朗読劇のように謎解きを続ける。馨は答えない。 「簡単に分かることじゃないか。不可解だ……というより、有り得ない。あんたがこんなミスをするなんて」 ムジカは雨に濡れた目を細めた。 「真実はどこにある。――紫陽花の下の、もっと深い暗がりか?」 真っ青な紫陽花は細い雨に震えている。 馨はやはり答えない。彼の眼は青でも赤でもない。両者を合わせた、深く謎めいた紫だ。赤の熱気と青の静謐が溶け合い、変質した色彩だった。 やがて馨は静かにムジカに歩み寄った。そして、ムジカの手から銃を摘み取った。 「チェックメイトだ、探偵君」 馨は左手で滑らかに拳銃を構え、筒先をムジカに向ける。 「はは。戯れはよせ――」 言った後で、ムジカはかすかに喉仏を上下させた。 馨のモノクルは相変わらず雨に濡れ、右目を隠蔽している。だが表情を読み取るには左目だけで充分だった。馨は本気だ。 「今度はおれが追い詰められるわけか」 「覚えておきたまえ、好奇心は猫を殺すと。ちなみに私は猫が嫌いでね」 「参ったな。本当に三文ミステリだ」 ムジカはうそぶきながらそろりと後ずさった。馨が静かに前進する。ムジカは紫陽花の中を後退する。馨はムジカを逃がさない。濃く深く、何もかも呑み込んでしまいそうな紫眼がムジカに照準を合わせている。 「告げた筈だよ、チェックメイトだと」 紫陽花だけが二人を見ている。紫陽花は語らない、動かない。 「右利きでも引き金くらいは引けるものだ」 銃声が雨の紗を引き裂いた。 錆びた筒先から絹糸のような煙が立ち上る。 ムジカは眼を見開いた。火薬の焼ける臭い。鼓膜にこびりつく残響。空砲だ。 「何。すべては戯れだよ」 馨は銃口に唇を寄せて硝煙を吹いた。細い煙は、歪んだ螺旋を描きながら雨の中に溶けていく。 「百年以上前の拳銃がこれほど良い状態で残っていると思うかね? それに、この手紙だが」 濡れ、字の消えかけた手紙もムジカの手から奪われた。息がかかるほど間近で馨の左目が笑っている。 「本当に彼の手で書かれた物なら、縦書きか、右横書きの方が自然である筈だ。時代背景から言ってもね」 「……やられたよ」 ムジカは芝居がかったしぐさでお手上げのポーズを取った。 手紙の文字が雨で溶けていく。言葉も、筆跡も、何もかもが輪郭を失っていく。もはや証拠の用はなさないだろう。馨は青い紫陽花の前にひざまずき、ムジカが暴いた穴の中に銃と手紙を埋葬した。 「なした事実は借金取りと同じだ。つけを払うまでは解放してくれない……永遠に。絶対に」 紫陽花の青が寡黙に馨を見下ろしている。いくつもの要素が絡んで顕れた、鮮やかな罪の色だ。 「来年も青い花が咲くだろう。証は、こうやって受け継がれていくのかも知れないね」 ちぐはぐな罪悪感を埋め立て、馨は謎めいた笑みと共に踵を返した。 後にはムジカと、紫陽花だけが立っていた。 「ああ。謎が残ってしまった」 緑灰の瞳の先で、馨の背中が雨に霞んでいく。 戯れと言いながら、馨は何故こんなやり取りを仕掛けてきたのだろう。何を隠しておきたかったのか。何を暴いて欲しかったのか。 「何か知らないか?」 紫陽花たちに向かって問いかける。馨の友人がここで死んだのなら紫陽花は真相を目撃しているやも知れぬ。しかし返るのは艶やかな沈黙ばかりで、ムジカは苦笑をこぼすしかなかった。百年以上前の株が残っているわけもない。 「彼の心は彼にしか分からない、か」 青い紫陽花を軽やかに弾き、散歩でもするような足取りで立ち去った。 真実は、移り気な花の下。 (了)
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