公然の秘密、という言葉がある。表向きは秘密とされているが、実際には広く知れ渡っている事柄を指す。秘密とはこの世で最も脆いもののひとつ、それを打ち明け共有出来る友を持つ者は幸いである。胸に抱えた秘密の重さは人に話してしまえば軽くなるものだし、更には罪悪感を連帯所有することで深まる絆もあるだろう。 ……さて。あなたはそんな、誰かに打ち明けたくてたまらない秘密を抱えてはいないだろうか?それなら、ターミナルの裏路地の更に奥、人目を避けるように存在する『告解室』に足を運んでみるといい。 告解室、とは誰が呼び始めたかその部屋の通称だ。表に屋号の書かれた看板は無く、傍目には何の為の施設か分からない。 ただ一言、開けるのを少し躊躇う重厚なオーク材のドアに、こんな言葉が掲げられているだけ。『二人の秘密は神の秘密、三人の秘密は万人の秘密。それでも重荷を捨てたい方を歓迎します』 覚悟を決めて中に入れば、壁にぽつんとつけられた格子窓、それからふかふかの1人掛けソファがあなたを待っている。壁の向こうで聞き耳を立てているのがどんな人物かは分からない。ただ黙って聴いてもらうのもいいだろう、くだらないと笑い飛ばしてもらってもいいだろう。 この部屋で確かなことは一つ。ここで打ち明けられた秘密が部屋の外に漏れることはない、ということ。 さあ、準備が出来たなら深呼吸をして。重荷を少し、ここに置いていくといい。
ヒトの一生。長すぎるような、短すぎるような、とにかくちょうどいい長さでは終わることの出来ないらしい時間の中、決して自分自身の目で見ることが出来ない、どうにももどかしいものが、多くの世界に存在する。そう、自分自身の顔だ。 決して見ることが出来ない、それは見てはならないからだと捉えてもいいだろう。だから壱番世界の各地に散らばる伝承……ドッペルゲンガー現象、影のわずらいなどと呼ばれる『もう一人の自分』は、見てしまった自分自身に何らかのペナルティを課すのかもしれない。 ◆ コンダクター・深山馨は告解室のソファに背を預け、告解を受ける者が構えているであろう小窓から目を逸らすように天井を見上げた。言わんとしていた言葉は、氷を飲み込んでしまった時のように、喉の奥で苦しげに痞えている。飲み干そうとしてグラスを深く傾けた、ただそれだけなのに。 「話さないのかな」 「……私はこの場所が嫌いでね」 小窓の向こうから、窺うように響く声に否定の旋律は無い。 無いのだけれど。 「それはそうだろう。ここに来る誰も彼もが、己の中に見たくないものやよく見えないものが"在る"と認めているのだから。……しかも、君はどうやらそのどちらもをお持ちのようだし」 「何故、そうと言える?」 「それはこの部屋の第一級機密だね」 壁越しに。口元から。馨の耳へ交互に届く、とても、よく似た、声。何とも奇妙な感覚だ。まるで……。 「(あの小窓の向こうに居るのは、黒の……まさか)」 ありえないことだが、この部屋にもう一人誰かが居たならば、その声に差異のあることを証明してくれるだろう。馨の感じる相似はあくまで、馨の頭蓋骨を通じてでしか聴くことの出来ない、馨だけがそれと分かる声と比較してのことなのだから。だからこそそれに似ている声を聴くことは馨にとっておそろしく居心地が悪い。自分にしか知りえない声を外側から聴く恐怖は、いまだ馨から離れようとしない。 例えば、今背を預けているソファの脚、その影に。小窓の格子が見せる、碁盤の目のような影のどこかに。あるいは、採光窓の光を受けて馨自身の脚がつくる影に。己の与り知らぬ、または見たくないが為見ないふりをしている自分自身が居ないと、誰が証明出来ようか? 「……君は」 重い口が開かれる。それは罪の告白というよりも。 「思念が人の背中を物理的に押すことが出来る。あるいは、人間の身体には見えざるもう一本の腕など決して生えていない。このどちらかを証明することは出来るかね」 謎かけのようでいて念押しのようでもある、曖昧な問いかけはただ、ひとつの罪をめがけて細い糸を紡いでいた。……いや、罪の方が糸を紡いでいると言うべきかもしれない。 「ここに座っておいて何を、と思われるかもしれないが……赦しなど求めてはいない。ただ聞いて、そしてそれが真実か否かを考えてくれるだけでいい」 「いいだろう、聞かせておくれ」 そして彼は始める、自問自答という名の犯人探しを。 ◆ 男が二人。女性が一人。 もう大体の筋書きは分かるだろう? いつの時代も、男は女性の見えないところで馬鹿げた争いを繰り返す……もしそれが一人相撲だったとしたら、こんなに滑稽なことはあると思うかね? いや、それすらもありふれた人の営みにすぎないのかもしれない。 恋い慕う気持ちとは、届かない事が明白であるほどに、伝える術が少ないほどに、いつまでも美化すらされず燻るものなのだと、私に教えてくれた女性(ひと)が居た。新月の夜空で染めた絹糸のような黒髪、儚く白い肌、いつも見せる困ったように眉を下げた笑顔……伏し目がちなあの瞳の奥を、一度見つめてみたかった。土台無理な願いだったことくらいは分かっている、彼女が最初から見つめていたのは私の瞳ではなかったのだから。女性とは、愛されていることを知ってさえいればああも無邪気に、残酷になれるのだね。それを教えてくれたのも彼女だったよ。 だけどどうして彼女を憎む事が出来ようか。本当に、何と愚かな男なのだろうね、私は。 彼女を憎めない。それは、彼女の選ぶ全てを憎めないのと同義ではないのだよ。かつて私の友人だった男、彼に寄り添う彼女が幸せそうに笑う、だからこの火が消えることは決して無かった。それでも、彼は私の友人であり続けてくれたし、その時の私は彼を無二の友人だと思っていた。 そんな彼を。 「殺す機会があった?」 ……ああ。 お人よしで、無防備で、快活で、私に何の遠慮も気負いもしない、無二の友人で、恋敵。そんな男が私を信じきって、背を向けて崖に立っていたのだから。今なら、と、思わずにおれなかった。 もう一度聞くとしよう。思念が人の背中を物理的に押すことが出来る。あるいは、人間の身体には見えざるもう一本の腕など決して生えていない。君はこのどちらかを証明することは出来るかね? 「成る程、それが完全犯罪のトリックというわけか」 ◆ フラッシュバック。 そこにあったはずの地面が消失したかのように、重力に誘われる友人の身体。 赤、青、黄緑、赤紫、とりどりの紫陽花が咲き乱れる記憶のなか強く残ったのは、白色。 「そういうことになるのだろうね。……私の目には事故にしか映らなかった。私の手は、彼を捉える事さえ叶わなかった」 それすらも後からいくらでも思い込める記憶の美化にすぎないと、馨の自嘲じみた呟きがため息に消える。 「私は人殺しなのだろうか?」 問いは唐突に、謎掛けの答えを求める。 罪が罪としてここに在るのなら、その重さにふさわしい弾劾を。もしそうでないというのなら、哀れなアザゼルの羊を主の手に取り戻せるだけの論拠を。 「仮に君が人殺しなのだとしても、私は探偵じゃあない」 「構わない、君の思う真実を聞かせてくれないか」 格子窓の向こうで、もの言いたげな沈黙が紡がれる。謎を突きつけられた素人探偵は何度か逡巡し、それまで馨から得た言葉たちのなかから、ただ一つの文節だけを引用した。 「叶わなかったのだろう?」 そのように思えば、それがその者の真実になる。 そうあれかしと。 「願ったという足跡が、私には見えるよ」 彼の手を捉えること。それを願った男がここに居る。 たとえ、この手で殺したかったからという黒い思いが先んじていたとしても。 少なくとも、その時人の思念がモノを物理的に動かすようなことはなかったし、馨の身体にもう一本の透明な腕が生えているようなこともなかった。それが格子窓の向こうから見える、数多在る真実のうちの、ひとつ。 ◆ 「この場所でなら、真実を語れるかと思ったのだが」 馨は何度か、格子窓の向こうから最後に聞こえた言葉を心の中で繰り返し、ゆっくりと席を立った。罪という名の氷はまだ、喉の奥に痞えたままだろうか。 「語ろうにも、その真相が判らないのでは仕方が無いのだけれどね」 そう呟いたのは、誰だろう。 ◆ 友人の手が最後に伸ばされていたであろう場所に咲いていた花、木槿。それを深山馨が知ることは、果たしてあるだろうか。 告解室は今日も、ただそこに在る罪と真実を己と認め、見つめる者を待っている。
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