インヤンガイ―― ひたすら積み上げられるだけの建築物群が妖しく蠢くこの世界で、治安維持を目的に設立された機関があった。 《九頭龍(くずりゅう)》。その名の通り、九つの部隊によって構成され、それぞれの得意分野に特化した運営がなされている。 その九番目。少数精鋭を地でいく彼等の理念はシンプルだ。「我々は我々の考える正義を成す。それを邪魔するのなら、神であろうが蜂の巣を覚悟しておけ」 《九龍(クーロン)》。一つの可能性を紐解くならば、既に存在していないはずの部隊だ。その陰には謎の協力者達の存在が噂されている。 レトロなチケット片手に銃弾の雨へ飛び込む酔狂者――そう、キミの事だ。●インヤンガイにて「諸君に新たな任務だ」 薄暗い部屋に集まった隊員達を前に、責任者である通称「ボス」は画面の中から呼び掛けた。 声と同時にプロジェクターが作動し、スクリーンにとある人物の写真が映し出される。「三日後に開かれる財界のパーティーに潜入し、予想される呪術師による暗殺から一般人を守る事。この人物より情報の提供があった」 劉氏。一言で言うならば、蝦蟇蛙が服着て歩いているような容姿だ。所属及び経歴は――「……黎明インダストリー専務?」 腕を組んだ褐色の肌の女性――部隊の隊長であるビーが、その鋭い瞳をさらに細く光らせる。その名は、この場にいる者にとって決して心地良いものではない。犬猿の仲と言っても良いだろう。 パイプ椅子の軋む音がし、隣に座った金髪の男性――コードネーム「シャーク」が節くれ立った手をポン、と打ち鳴らした。「思い出したぜ。人身売買容疑で槍玉に挙がったものの、不起訴に終わった奴じゃねぇか」 苦々しい表情を浮かべる。その裏には当然、複数の利権が絡んでいる事が明白だったからだ。インヤンガイにおいて法律とは口実に過ぎず、損得勘定と勢力の大小で潰し合いが行われている現実がある。 ボスは首肯した。「その通りだ。そして不起訴処分が決まった後に、暗殺の予告状が届いたらしい」 画面が切り替わり、一枚の書面が映し出されると、今度はこの場には不釣り合いな子供じみた声が上がった。『うわー、うわー。あれって「血判状」って奴だよね!? 初めて見た!』「って、何で俺のモバイルを勝手に使って検索してるんスかー!」 捕まえようとする細身の青年――コードネーム「ラット」の腕をすり抜ける丸っこい物体――その正体は人の魂をデジタル化されて機械の身体に封じ込められた存在。本人の名乗りによれば「ナナシ」という名前らしい。 彼は「チッチッチ」と気取った仕草で腕というか足を左右に振り、『いいかね、ラットくん。部隊ではボクの方が先輩なんだ。キミの物はボクの物。ボクの物はボクの物』「どういう理屈っスか!? それに俺は入院してただけっス!」 「隊長と先輩からも何か言ってやって下さいっスー」と泣きついてくる様子に、ビーは眉間を指で押さえて頭痛を堪える仕草を見せ、シャークは大音量の笑い声を轟かせる。 画面の中のボスも呆れた声を隠そうともしなかった。「話を続けるぞ。――ナナシの言う通り、これは血判状だ。赤いインクを使ったわけでもない、本物のな。これによると、『人身売買を始めとした非道な行いの全てを公表せねば、関係者を一人ずつ殺していく』そうだ。差出人は《青き狼の遺志を継ぐ者達》と名乗っている」「青き狼……ね」 何となくではあるが、見当がついた。だが、まだ分からない事がある。「こんなろくでもない奴の護衛なんてよく引き受けたわね?」 自分達はテレビの中のヒーローではない。善人悪人問わず困っている人をいちいち助けている余裕も義理も無い。「彼は黎明インダストリー内部の情報と引き換えに当局への亡命を求めている。どうやら、身内からもいつ殺されるか分からん状況のようだ」「そういう条件で取り引きしたのね」 ビーの声に若干の怒気が込められているのに気づき、ボスは気難しい表情を浮かべる。「悪いようにはせん。今は命令に従っておけ」「もちろんですよっと。オレ達ゃしがない公務員~♪ ってな」 茶化すシャークをビーが黙認した事で、部隊としての方針は決まった。 パーティー会場は繁華街の一角。高級店が軒を連ねる中にある大きなイベントホールだ。当日はここに100人近い企業の重役やその家族が集まる事になる。 周辺の地図も合わせて検索しながら、ラットが弱った様子で頭を掻いた。「自分達だけじゃ厳しいっスよ。敵が何人いるかも分かんないんスよ? 師匠は技研に出張中ですし」 彼が「師匠」と呼ぶ人物はこの世で一人、《九龍》最年長の隊員、コードネーム「モグラ」の事である。「かといって、《一龍(イーロン)》や《二龍(アルロン)》の手を借りたら、連中大喜びで首を突っ込んで来やがるぞ」「できればゴメンこうむりたいわね」 同じ《九頭龍》の組織内とはいえ、個々の部隊同士の仲は様々だ。《九龍》はといえば、独断専行で他部隊の縄張りを荒らす事も多いので、決して好かれている事はない。ここぞとばかりに嫌がらせされそうだ。 モグラを呼び戻す事も考えるが、残務処理が間に合うかどうか。 頤(おとがい)に手を当てたビーはポツリと呟いた。「一つ――人手の当てが無いわけじゃないわ」「任せよう。――そうだ。伝え忘れていたが」 通信を切ろうとした寸前でボスの動きが止まり、再び画像が切り替わる。「最近、風変わりなキャンペーンが流行っていてな。『巡節祭』を数ヶ月後にして消費が落ち込むこの時期を狙ったものらしいが……このパーティーでもスタッフの多くが関連した扮装をするそうだ。こちらで用意したので、任務に役立ててくれ」 スクリーンに大写しにされた「それ」を見て、ビーは思わず頬を引きつらせた。背後でシャークが愉快そうに口笛を鳴らす。「……本気なの?」●0世界にて「――というわけでして、探偵の出雲様経由で応援の要請が御座いました。まさか私共と出雲様の関係を突き止められるとは思いませんでしたが」 ロストナンバー達を前に、世界司書エリザベス・アーシュラは一通りの事情の説明を終えた。「彼等とは今のところ友好的な関係を築けていますし、今回の件も『code:N』と関係しています。是非とも皆様のお力をお貸し下さいませ」 深く頭を垂れた口許で、紅いルージュがくすり、と笑む。「なお、パーティーのスタッフが着用する衣装はこちらの人数分もご用意頂けるそうです。これを利用しない手は御座いません。何卒、何卒、任務の役にお立て下さいますよう……!」 何故にそこまで熱心なのか。 写真に収められた、赤と白のコントラストが華やかな衣装一式――どう見てもサンタ服。しかも女性用はミニスカート仕様だ――を見て納得する者がいれば、さらに疑問符を浮かべる者もいたとかいないとか。
目の前で、短いスカートから突き出した二本の細い脚が踊るようなステップを踏む。 軽やかに揺れる赤と白の色彩を眺めながら、木乃咲 進はぼそりと呟いた。 「……何だかなあ。子供の夢を壊すどころかオーバーキルしかねねえ組合せだよな。あらゆる意味で怖すぎるぜ、お前とサンタ服」 「私だって好きでこんな恰好しているわけじゃないわよ。全く……」 客の行き交う中をすり抜けて近くまでやって来たビーは、カクテルグラスの載ったトレイを傍らのテーブルに置き、半眼で彼を横目に見る。相当に不機嫌そうだ。おまけに銃を隠し持っているのだろうから、世にも物騒なサンタさんである。 「シャークは大笑いするし、ナナシは写真撮りまくるし……」 「しっかりお返ししてたけどな」 あれは見事な金的蹴りだった。のたうち回るシャークの姿を思い出し、下半身に寒気を覚える進である。 「で、そっちは異常無し?」 「今んところは」 ビーと同じように派手な紅白の衣装に身を包んだ進は、口許を覆う白い付け髭に手をやる。会話はしにくいが、これがあった方が表情を読まれにくい。三角帽を深く被れば、目線を誤魔化す事もできるだろう。何しろ、暗殺者がすぐ傍で見ているかもしれない状況なのだから。 その視線はテーブルに置かれたナイフやフォークに注がれている。 (凶器には事欠かねえなぁ……) ビーも考えは同じらしく、両の眼は絶えず移動して周囲を警戒している。 「犯行時刻までは記載無し。おまけに呪術となると、どこから仕掛けてくるか分からないわね。――あんた達はあまり呪術に慣れていないようだけど、大丈夫かしら?」 「自信があるかと聞かれたら、何とも。一応、限りある時間で特訓はしてきたんだけどな」 「それは楽しみね」 これ以上の長話は怪しまれる。そっと離れる気配を感じ、進もスタッフとして人混みに向かう。 と、視界の端で再び、露わになった褐色の肌が揺れた。 「殺気を消してるのは流石だけど、やっぱりいつもの姿を知ってると――」 有無を言わさず飛んできた殺気に、慌てて口をつぐむのだった。 ●龍の腹 ロストナンバー達が螺旋特急を用いインヤンガイへと到着したその日の夜。 「キミを最強だと見込んでお願いする……力を貸して」 「いいぜェ、別に? 頼みくらい聞いてやるヨ、ヒャーヒャヒャ」 ディーナ・ティモネンはジャック・ハートと共に宵闇の中をある場所に向かって進んでいた。 「勿論思考を繋ぐよなァ? ソレが条件だ」 トントン、と人差し指で軽く叩いたこめかみから延びた不可視の糸。お互いの意識が触れ合い、溶けるような感覚は名状し難いものがあり。ジャックの助けを得、それこそ飛ぶようにして雑多な街中を駆け抜ける風景と合わせて、乗り物酔いにも似た不快感をディーナは押し込める。 やがて景色に緑が混じり始め、二人は目的地に到着した。吸い込む息は冬の冷気をまとっているものの、相変わらずこの世界では格別に美味い。 目の前には区画を仕切る土の壁。視線を横に移せば、正規の出入り口である門を見る事ができる。 「多分、簡単には通してくれないと思う。遠慮はいらないから、完膚なきまでに叩きのめして欲しいの」 「顔に似合わず物騒なネーチャンだな。無益な殺し合いは俺サマの流儀じゃねェ。だから乗ってやった。ソレを忘れンなヨ?」 言葉を交わしながら門へと向かう。と、ディーナが突然足を止めた。ぶらぶらと後から続いていたジャックはぶつかりそうになり、思わずたたらを踏んでしまう。 「おいおい。いきなりどうしたんだヨ」 反応が無い相手の前に回り込んで、その視線の先に目を移せば―― 「貴方は……」 「久し振りだな、星の瞬きに焦がれる娘よ」 開け放たれた門の前にぽつんと佇む小さな姿があった。一見するとただの老人にしか見えないが、ジャックの第六感が嫌な予感を告げている。 その思いを見透かすように、老人の瞳が彼を捉えた。 「龍脈が嵐の到来を告げていたのでな、余計な被害が出る前に出迎えさせて貰ったよ。ようこそ、運命を踏み倒す騎士よ。歓迎はできぬが、だからといって暴れるのはよしておくれ」 「そいつはおまえの態度次第じゃねェか? 精々俺サマを怒らせねェように気をつけるんだな」 冷たい空気が唸り、老人の頬をピッと浅く裂いていく。自然環境での鎌鼬現象など、まず起こり得ないというのに、だ。 それでも老人は表情一つ変えずに、 「まさに嵐そのものだな。御忠告有難う」 と答えてみせる。 (面白ぇなァ……) 不敵な笑みを返しながらも、相手の底知れなさに寒気を帯びた愉悦がジャックの胸を震わせた。 「その様子だと、私達の用件は分かっているって事?」 「儂はそなた等の素性すら知らぬのだぞ? もっとも、我等《封龍》とそなた等の接点は儂の知る限り一つしかないから、それ以外は考えにくいがな」 幼龍は元気にやっているかね――ほんの少しだけ目尻を下げて尋ねてくる《封龍》の長の表情を、ディーナは些細な変化も見逃すまいと凝視した。 (犯行予告の名乗りから、絶対に何か関係があると思ってここまで来たけど……) 当てが外れただろうか。しかし、嘘をついている可能性もある。それはそれで、《封龍》が犯人側だった場合は誘い込まれて亡き者にされる危険が発生するわけだが。 「?」 ふと視線を感じ、彼女は隣を振り向いた。 ジャックが変わらず笑みを浮かべている。いつの間にかガムでも噛んでいるのか、退屈そうに口許を動かした。 (問題無い、か) もしかしたら、自分の願望がそう感じさせたのかもしれない。それでも。 「聞いて欲しい話があるんだ。多分、貴方達も無関係とは言えない話だから」 劉氏に暗殺の予告状を出した《青き狼の遺志を継ぐ者達》――その名から推測されるものは一つしかない。 「青狼(チンラン)さんだっけ。黎明の研究に協力していたけど、最期は私達に手掛かりを残してくれた人」 「その辺でどういういざこざがあったのかは、実はよく分かんねぇんだけどな」 書類の束を手にした日和坂 綾に、進は椅子の背もたれに身体を預けながら頷いた。 「最期の言葉から察するに、良心の呵責――というのは楽観的過ぎるだろうか?」 インヤンガイの治安の悪さはよく知っているのだろう。相沢 優は言葉を紡ぎながらも、自分自身でも半信半疑といった様子だ。 是とも非とも答えずただ首を横に振る進の隣の席で、ヌマブチも難しい顔をしている。 「果たしてそれだけで、自分の命を危険に晒す事ができますかな?」 「「……………………」」 もし自分ならどうだろう。――問い掛けに答えは返ってきただろうか? 「予告状を出した人達の名前について、もう一つ」 綾が神妙な顔で他の三人の顔を見渡した。 「犯行予告のこの名乗り、あまりに分かり易過ぎない? まるで、犯人は《封龍》の人達だ! って叫んでるみたいで」 《九龍》、そしてロストナンバー達が関わってくる事を見越した上でのミスディレクションを狙った名乗りだとしたら―― 「エリザベスさんの説明にあったよね。専務さん、黎明本社からも命を狙われてるって。このチャンスを見逃す訳は無いと思うんだ。だから絶対、襲撃は二種以上だと思った。近代兵器と呪術系」 「黎明の保安課でありますか……」 茶を啜るのは、渋い表情のヌマブチ。過去に一度交戦した記憶が蘇る。手練と呼ぶには教科書通りの戦術に固執していたようだが、あれだけの練度の兵士をあの人数揃えるだけでも大したものだ。奴等が出張ってくるのならば、こちらも相応の覚悟が必要となろう。 「しかしそうすると、予告状には俺達と《封龍》をぶつける罠の可能性もある……?」 「ジャックさんとディーナさんが危ないんじゃないか?」 進が顎に手を当て、優が眉間に皺を寄せたその時だ。 全員の持つトラベラーノートが一斉に光を放った。このタイミングで連絡してくる人物は限られている。 ある者は部屋の隅に置いていた荷物から引っ張り出し、またある者は懐から取り出して。めいめいに全く同じ文面に目を走らせる。 全員、《封龍》地区に集合、と。 「青狼は《封龍》の未来を最も憂いている一人だった。このまま企業やマフィアと手を組み、裏社会での発言力を武器に存続していくのが、龍脈を守る者として相応しい生き方なのか――とな」 そう語る長の肩は、少しだけ無念そうに縮こまっているように見えた。 「志を同じくする若者達と共にこの地を捨てたのが一年前。以来、儂のところには何の音沙汰も無かった」 「ヘッ、ご自慢の占いはどうしたんだヨォ?」 「そう便利なものでもないという事だ。それにこの力は、龍脈を守る為だけに使われなければならない。族長の儂といえども、私的な目的で使えば断ぜられるだろう」 からかうような態度のジャックに、長はきっぱりと言い切る。それゆえに《封龍》は鉄の結束をもって今日(こんにち)に存在しているのだと。 大袈裟に肩をすくめてみせるジャックの肩越しにじっとこちらの話に耳を傾けている少女の顔を一瞬だけ見遣る。 「ディーナ殿から話は聞いた。犯行予告を出したのは、おそらく青狼と共に出ていった若者達だろう。どういった経緯(いきさつ)かは分からぬが、あやつの仇を取るつもりらしいな」 「貴方達が無関係だという証拠は?」 今度はしっかりと彼女の視線を受け止め、長は首を横に振る。 「無いな。たとえ我等が関与していたとしても、この場で言うわけがあるまい。真実はどうであれ、無関係だと答えるしかない」 だが、と、長は言葉を繋いだ。 「これからの行動で示す事ができるかもしれない。もし儂の推測が当たっているのならば、破門したとはいえ《封龍》の身から出た錆だ。それを請け負ってくれるそなた等に助力しよう」 そして夜の明けた今、玉砂利の上には有象無象の影が大きく伸びていた。 「儀式を用いて対象を呪い殺すような方法もあるが、準備が大変な上に時間もかなり掛かる。我等《封龍》は符を用いる事が多いな」 手にした紙片を貼り付け、何やら呪文のようなものを唱えると、ただの石像だった狛犬はたちまち四肢をしなやかに折り曲げてみせ、低く身構えた。 「生物とは違い痛覚が無く、行動不能に陥るまで執拗に攻撃する。使い捨ての暗殺者としては非常に便利というわけだ」 跳ねるように襲い掛かる狛犬の爪を、綾は寸でのところでかわした。 その様子を眺めている進が長に尋ねる。 「弱点とかはないのか?」 「心が無いので精神的な弱さも無い。ただ、そうさな……斃すコツがあるとすれば」 「コツ?」 相手の懐に潜り込んだ綾が蹴りの体勢に入った。最小限の動きでかわし、攻撃に移る。実に鮮やかな動きだ。 「でやあぁぁぁぁぁっ!」 「――念を乗せるのだよ」 勢い良く蹴り飛ばされた狛犬は地面に落ちると、それっきり動く事は無かった。 元の石像に戻った狛犬から紙片を引き剥がし、表面を指でなぞってみたり陽にかざしてみたりと観察していた優が腰を上げる。 「要するに気持ちの問題って事か? 随分と非科学的なんだな」 「式神は符を介した術者の念――つまりは精神力で動いている。それを殺すのも人の精神というわけだよ」 「某では手こずりそうでありましょうか」 自分の銃を見つめるヌマブチに。しかし長は「いや」と否定の言葉を漏らし、 「機械的な飛び道具であろうと、念は込められる。難しく考える必要は無い」 「うむぅ」 戦闘において気迫が大事だというのは分からないでもないが、往々にして目に見える現実だけが頼りとなる戦場育ちの彼としては理解に苦しむところである。 「まぁ、ここである程度式神の相手をしていれば感覚はつかめよう」 長の見つめる先では、綾が今度は九尾の狐を模した式神を仕留めたところだった。 「……はぁ、はぁ……」 息が乱れている。運動量としては普段の綾を思えば大した事はないはずだが、これも呪術を相手にしている影響だろうか。 と、その表情が一気に崩れた。 「うわぁ~ん、こんなに可愛いのに倒しちゃったー! エンエンごめんね? これは仕方無くっていうか、同じ狐でもエンエンは絶対に傷つけさせないっていうか――」 「……大丈夫そうでありますな」 「可愛いのが一杯出てきたら、私も危ないかも……」 「そこ、シリアスに拳を握るところかよ?」 「マテマテ。パッツンパッツンでボインボイ~ンな美女が出てきたら俺達だってヤバいかもしれねぇぜェ?」 「引っ掛かるのはジャックさんだけのような気がするなぁ」 セクタンを抱き締めながら何やら必死に弁明している綾を尻目に、他の者達も戦闘訓練の準備を始めるのだった。 ●呪いの声 劉 なにがし氏。下の名前はどこにでも転がっているものなので割愛。今回の護衛対象である事だけを理解していればそれで良い。 新興とはいえ巨大企業の専務にまで登り詰めた男は、還暦間近とはとても思えない程、その有り余る精力を顔面に滲ませていた。 「君達が《九龍》か。美しいご婦人やいたいけな子供まで混じっているとは思わなかったな。まあ、今回は宜しく頼むよ」 そして案の定、いけ好かない人物のようで。 頭のてっぺんから爪先まで舐めるように注がれる視線に綾は肌を粟立たせ、ディーナはここに記すのも躊躇われるような文言を知らず知らずの内に心の中で並べていた。ビーは言わずもがな、相手に見えないところで親指を地面に向けている。 「しっかりして貰わんと困るよ? ――暗殺は失敗に終わり、私は会社に害が及ぶのを案じて勇退。悠々自適な隠居生活というわけだ。CEOに手が届かなかったのは残念だがね。ワッハッハ――」 着々と準備の進むパーティー会場で肥太った身体を反り返らせる様子を、スタッフに混じった優は呆れた表情で見ていた。 (どこにでもいるんだな、ああいう大人) 面と向かっていたならば、もしかしたら無意識に殴っていたかもしれない。それだけの事をしてきているのだ、彼は。 《code:N》の実験に用いる被験者の確保。それが、彼が計画内で担った役割である。人間の魂をデジタル化するという計画の内容から察せられる通り、実験の失敗は高確率で魂の消失=死を意味する。彼がどこまで知っていたのかは定かでないが、貧しい家庭やストリートチルドレンを中心に子供を集めていたところを見るに、後ろ暗い事をしている自覚はあったのだろう。 事前に見せて貰った書類に記されていた彼の嫌疑、それに関する捜査結果を思い起こし、優の心に重く冷たいものがのしかかる。ましてや、そんな人間を守るだのと―― (それでも……) 赤黒い血判で決意を示した暗殺予告の文面が脳裏をよぎる。 (それじゃ、多分誰も救われないんだ) 既に故人となっている青狼も含めて。 何とも救いようの無い話だ。だが、その中でやれるだけの事をやるしかない。 「おい、何をぼーっとしているんだ!」 「すいません、すぐに行きます」 忙しく指示を飛ばす現場監督に平素の表情で答え、優は会場の設営へと戻っていった。胸の内の葛藤を日常という仮面で覆い隠すようにして。 某月某日、午後1時。 画面隅の表示は現在を示していた。 灰色の風景を移す視界が、その中心に一際鮮やかな出で立ちの少女を捉える。 『おねえちゃん、おねえちゃーん』 「え?」 『ハイ、チーズ!』 突然呼び掛けられて振り返った綾だったが、次いで放たれた言葉に思わずVサインを出していた。すかさずカシャ、とシャッターが切られる。 『いいねいいねー。それじゃ、もう一枚いってみよーかー』 ポーズを変える度にカシャカシャカシャ、と連続した機械音が小気味よく流れ―― 「って、ナナシちゃん……だっけ。こんなところで何やってるの?」 一段落したところで、ようやく綾は相手に話し掛ける事ができた。パーティー会場の賑やかな雰囲気に釣られてか、あるいは可愛いサンタのコスプレに自分が思っている以上に舞い上がっているのか。束の間の撮影会を満喫してしまったようだ。なんて恐ろしい。 彼はその丸っこい機体を仰け反らせる仕草を見せ、 「えっへん。かわいい後輩の指導中なんだよ」 「だから先輩は俺の方――もういいっス」 彼を追い掛けるようにして現れた細身の青年が綾に向かってぺこりと頭を下げた。 「お邪魔しちゃったみたいっスね」 年下相手に随分と丁寧というか、むしろ卑屈な物腰だ。「いえ」と相手を安心させるように笑みを向ける。 「ラットさんはナナシちゃんと一緒に外の警戒なんですか?」 「はいっス。ナナシの同行に関しては色んな意見があったんですが……まあ、隊長達や皆さんの傍にいるのが一番安全なんじゃないか、と」 それは確かに一理ある。どうせ絶対的に安全な場所が無いのなら、何かあってもすぐに対処できる場所にいるのが次善の策となろう。 「それにしても、随分豪勢なパーティーみたいっスねー。お金ってあるところにはあるんだなぁ」 そう語る彼の耳にはイヤホンが繋がれているのが見えた。他の《九龍》隊員との連絡の他に、会場の音も拾っているのだろう。すぐ近くに路上駐車している車――カモフラージュなのか、ゴミ収集車にしか見えない――の中にはきっと、モニターもあるに違いない。 そんなラットの言葉に、綾の表情がぱぁっと輝く。 「そうそう! 満漢全席っていうんですっけ? こーんなおっきいお皿もあってビックリしちゃいましたよ!」 わざわざ両手で円を作ってみせる綾に、ナナシが興味津々といった様子で頷いた。 「いいなー。ボクも食べてみたいなー」 「「え゛?」」 そもそも、物理的に可能なのだろうか――二人がリアクションに窮した時だった。 「!?」 笑みすらも浮かべていた綾の表情が一変した。平時でも丸い瞳がさらに見開かれ、あらぬ方を凝視する。ただならぬ様子に、ラットが押さえた声音で「……どうかしたっスか?」と尋ねると、ようやく瞳に意思の光が戻る。 「え? いや……うん。何でも無いんです。ちょっと、誰かに見られている気がして……」 「そりゃ、目立つ格好してるっスから」 当然だと言わんばかりにラットは言うが、彼女は珍しく歯切れの悪い様子で暗い表情を見せた。 「そういうのじゃなくて――とりあえず、休憩のつもりで出てきたので、私はもう戻りますね。ナナシちゃん、またね!」 『ばいばーい。まったねー』 器用に手を振る可愛らしい声を背に、先程の感覚を思い出す。 (こんなに寒いのに、湿気でカビだらけの部屋に放り込まれたみたいな気持ち悪さ……) 嫌な予感しかしなかった。休憩も早めに切り上げたくなるというもの。 上気して赤くなった頬に白いものが触れる。 「あ……」 「雪だ……」 手のひらを空にかざすと、ディーナは白い息を吐きながら視線を上に向けた。しかしすぐに足下へと戻す。 「大丈夫?」 「う~ん、ちょっちダメかも」 声を掛けられたジャックは親指と人差し指で作った隙間で現状を表現すると、げんなりした様子で眼下の光景を睨みつけた。 「まさかこの俺サマが『酔う』とはなァ。インヤンガイの連中の欲深さに乾杯だゼ」 もしかしたら、原因は別にあるのかもしれないが。ともかく、パーティー会場にいる人間全員の思考を超能力によって読もうとした結果がこれである。押し寄せる思念の津波に呑まれかけ、危うく自我が消し飛んでしまうところだった。 慌てて建物の外へ避難したところで、既に馴染みの顔となった彼女に出くわしたというわけだ。 「パーティーが始まって30分が経過……程好く混み合ってきて、劉さんにこっそり近づくには一番の時間帯、かな」 時間を確認したディーナは、パーティー会場から別の方向へと視線を移す。 「暗殺者を阻止する為――と見せ掛けて、劉さんを撃つのにも、ね」 黎明のロゴが入った戦闘服姿は、努めてこちらを無視しているようだった。 その様子を面白がってジャックが悪ノリする。 「ヘッヘッヘ。流れ弾には御用心ってかァ? もしかしたら撃った弾がそのまま返ってくるかもしれねぇから、おまえらこそ気をつけるんだぜェ?」 相手のまとう空気が一気に過熱し、こちらに向かってくるかと思った刹那。 「な、なんなのこれ!? いやあぁぁぁっ!」 会場内から若い女性の悲鳴が響いてきた。全員の目が瞬時に真剣なものになる。ディーナもスカートの内側に手を伸ばし、隠していた肉厚のナイフを握り締めると地面を蹴る。 「始まった……!」 劉氏は始めこそ周囲を《九龍》やロストナンバー達に囲まれて居心地が悪そうだったが、知り合いと歓談を始めると調子を取り戻したようだ。売れ筋はどうだの、相場がどうだの、精力的に仕事の話をしている。 そこへ、一人の女性が手を振りながら近寄って来た。 「劉さん!」 その姿を見た劉氏も両手を広げて歓迎の意を示す。 「おぉ、楊さんのところの麗ちゃんじゃないか。大きくなったなぁ。それにすっかり美人になって」 友人の娘だろうか。劉氏の目尻はすっかり下がり切ってしまっている。 と。 「――――え?」 信じられない表情で見上げる彼女自身の右手には、料理を切り分ける為のナイフが握られていた。 「な、なんなのこれ!? いやあぁぁぁっ!」 そしてそのまま、糸に引っ張られる操り人形のように不自然な動きで劉氏に向かって飛び掛かる。 腕で身体をかばう劉氏の前に進が立ちはだかった。 「チィッ!」 振り下ろされるナイフを紙一重でかわし、相手の細い手首をつかんでくん、と軽く捻る。と、煌びやかなチャイナドレスに身を包んだ肢体がいとも簡単に宙を舞った。背中から床に打ちつけられ悲鳴を上げる相手に「悪ぃ」と一言詫びを入れ、白い肌に貼り付けられた紙片へと手を伸ばす。 「これか」 一瞬だけ静電気のような抵抗があったものの、紙片はいとも簡単に剥がされ、同時に女性は緊張の限界を迎えて気を失っていた。 紙片に刻まれた文様は既に見慣れたもの。《封龍》に連なる者の手による呪符に間違い無い。 「警戒を緩めるな、すぐに次が来るぞ!」 ヌマブチの言葉通り、今度は別の箇所から悲鳴が上がった。 無数のナイフやフォークが突然宙に浮かび、一直線に劉氏目掛けて飛来したのだ。 「ひゃああぁぁぁっ!」 腰を抜かすその目の前で、硬い音と共に弾かれる銀色の光。まるでそこに見えない壁があるようだ。 「落ち着いて下さい。パニックを起こしては暗殺者の思うツボです」 淡い光を放つ剣を手にした優が肩越しに振り返り声を掛ける。劉氏を支える為に駆け寄ったヌマブチが叫んだ。 「相沢、前だ!」 今度は食器類を載せたテーブルごとらしい。重い物特有の鈍い風切り音がここまで届いてくる。 優の頬を汗が滴り落ちた。 (支え切れるか……?) が、心配は無用だったようだ。 横から飛び出してきた小さな影が渾身の蹴りでテーブルを粉砕したからだ。 「ユウ、平気!?」 大きく息を吐いた綾が小走りで合流する中、ビーは通信機に向かって声を張り上げる。 「ラット、招待客の避難誘導急いで!」 『了解っス!』 通信の後、すぐにナナシを連れたラットが現れ、出口に殺到する人々を宥め始めた。 「こっちは潜伏しているはずの術師を確保するわ」 通りすがりさん、何か御意見は? と視線で問い掛けられ、ヌマブチは会場の間取り図を思い出しながら考えを絞り込んでいく。 「配膳室、トイレ、用具倉庫辺りが怪しい。犯人を確保するなら急ぐべきでありましょう」 符を用いたとしても、呪術の行使には高い集中力が必要だ。どこか人目につかない場所でじっとしている可能性が高い。 「ンじゃ、俺サマが行ってきてやらァ」 「私も。多分そっちの方が得意だから」 ジャックとディーナが駆けていく。その後には、不自然なまでの静寂が横たわっていた。 「まさかこれで終わりとも思えないけど……」 考え込むビーのすぐ傍で、綾が大きく身震いした。 (また、この感じ……) 「どうして邪魔をするの……?」 聞き覚えの無い声に、全員の視線が一点に集中した。 そこに佇んでいるのは、一人の痩せこけた女性。元々の顔立ちは悪くないのだろうが、虚ろな表情と――何より全身に貼り付けた呪符が全てを台無しにしていた。 「そいつが青狼を殺したんでしょ? お金をちらつかせて、犯罪の片棒を担がせて、挙句の果てに……私の青狼を、ワタシの、チンラン、をおぉ……!」 呪符に刻まれた文様が血の色の光を放つ。 「返して、カエして、カエせええぇぇぇぇぇっっ!!」 肉が爆(は)ぜる。 人のものでなくなった異形を見上げ、それでも優は諦めるわけにはいかなかった。 「もうやめろ! 無関係な人まで巻き込んで、それが本当に青狼の望んだ事なのか!? その答えが本当に正しいのか!?」 『あのヒトの名前を軽々しくクチにするなぁッ!』 振り下ろされた腕は易々と大理石の床に大きなヒビを生んでいた。 粉塵を巻き上げる風に乗るように、綾が宙に舞う。 「エンエン、火炎属性ぷりーず! 狐火操り火炎乱舞!」 空中で連続した回し蹴りと共に幾度も放たれた炎が異形の顔面を焼くも、相手はものともせずに距離を詰め、逆に綾の足をつかんで捕らえた。 「ぐうぅっ!」 もう一方の腕によって叩き込まれる衝撃に意識が飛びそうになるのを辛うじて堪える。 (心が、痛い……) 拳を通じて、ようやく相手の感情が伝わってきたのに。その想いの何たる哀しい事か。 既に失いものを求め続ける愚かな渇望。狂おしいまでの愛情。 甲高い銃声も遠く聞こえ、綾は異形の瞳に涙を見たような気がした。 「こいつァ……」 男子トイレの一番奥。本来であれば掃除用具が収められている個室の扉を開き、ジャックは何とも言えない表情を作った。溜め息と共に首を振り、くるりと踵を返す。 「俺サマの厚意を無駄にしやがって。――ディーナちゅわんの方は大丈夫かねェ」 と、出入り口で立ち止まり、一瞬だけ振り向く。 「good night」 開け放たれたままの扉の向こうには、様々な術具を使った為に全身から血を流し、既に事切れた術師の身体が力無く横たわっていた。 「ま、負けるかぁ!」 宙にぶら下げられたままの綾が苦しみ紛れに放った蹴りが脳天にめり込み、異形は思わぬ反撃に手を放していた。自由落下する身体を床にぶつかる寸前で優が受け止める。 「一斉射撃で動きを止めるわ! その間に何とかして!」 頭上に影が差した次の瞬間、ヌマブチは躊躇い無く弾丸を吐き出し続けていた愛用の銃を地面に置いた。 立ち上がったその手には、彼方より放られたアサルトライフルが握られている。 (……少し重いな) 彼が零した感想はそれだけだった。自分のやるべき事は分かっている。ならば目的に向かって最善の動きをするだけ。シンプルであるが故の強さが彼を戦場で生き残らせてきた。 「Fire!!」 ビーの声を合図に、ヌマブチ、シャーク、そしてビー自身の手にした銃が唸りを上げ、三方向からの弾丸が十字砲火を形成した。 おびただしい量の空薬莢が地面に落ちる乾いた音に混じって、異形の苦悶の声が木霊する。 『ジャマをスルな……!!』 「悪ぃけど、そいつは聞けねぇお願いだな」 自分の発し声の冷たさに、進は行動を起こしながらも苦いものを感じていた。 脳裏に浮かび上がる空間のイメージ。夜空に瞬く光に星座を見出すかの如く、思考の線は設計図を描き、手の内の刃が虚空を「渡る」。 「裂いて咲かせて散らしてやるよ!!」 異形の巨躯を覆うように出現した数多ものナイフは、一つの意志を持った生き物のように一斉に襲い掛かり、節くれ立った肉を次々と切り裂いていった。 『あああ゛アァァ゛ァ……………………!』 床に染みが広がっていく。ナイフが刺さったままの異形から滴り落ちる雫は、皮肉なくらいに真っ赤で。 「世の中、上手くイかねぇなァ」 諦観と一緒に溜め息を吐き出すジャックの視線の先で、ふわりと舞った体躯が異形の肩に足を着いた。繋がった意識から探ろうとしても、相手の感情は閉じた貝のようにうかがい知る事ができない。 「……ごめんなさい。そしてお休みなさい」 他にどうしようもないから躊躇いはしない。しかしこの胸の痛みを忘れるつもりもない。 すっと刺し込まれた刃が、正気を失ってなお留まろうとする魂を狩り取ったのだった。 異形がただに肉塊へと変じていくのを前にして、劉氏は引きつった表情ながらも笑わずにはいられなかった。 「ふ、フハハハハ! 見た事か化け物が! 地獄へ堕――」 「うるせぇっての」 ジャックが転移させなければ、きっと誰かが殴って気絶させるなりしていただろう。彼も怪我せずに済んで感謝せざるを得ないに違いない。 「暗殺は失敗か」 柱の陰に隠れていたのか、突然現れた一人の青年がどこか醒めた様子でビーの前へと進み出た。 「僕は全てを語る役目を託された。こんなところで死ぬわけにはいかない」 合わせた両手首が差し出される。 「……じっくり聞かせて貰うわ」 手錠のはまる重い音が、ここに暗殺未遂事件の終結を告げたのだった。 ●遠き日の夢、これからの明日 「俺達が《封龍》を変えるんだ!」 それが彼の口癖だった。 現族長の血筋である事もさることながら、彼自身の努力を怠らない人柄、そして旧体制然とした思考を良しとしない思想が少なくない若者達を魅了した。 しかし、長く安寧を享受していた大人達との確執は埋めるどころか広がるばかりで。 そして、彼等は故郷を捨てた。いや、捨てたという表現はおかしいか。彼等は大人達を説得できるだけの証を手に入れ、いつの日か《封龍》の生き方を変える為に外へ出たのだから。 だが、彼等を待っていたのは容赦無く厳しい現実だけだった。 手持ちの金はすぐに底をついた。《封龍》の肩書を捨てた彼等はただの若僧に過ぎず、呪術以外に取り柄の無い若者が就けるのは低賃金の重労働ばかり。病気になっても保険すりゃありゃしない。 呪術を扱う暗殺稼業に身をやつしていれば、少なくとも金の問題は解決しただろう。《封龍》の後ろ盾が無くとも、彼等が優秀な術師である事には違いなかったのだから。 しかし、彼等は断固として拒んだ。それは己の信念を折るに等しかったから。 寒く暗い部屋で身を寄せ合いながら暮らしていた彼等に、リーダーである彼は告げたのだった。 「いい仕事が見つかったんだ。ちょっと行ってくるよ」 恋人すらも置き去りして。しかしそれ以来、定期的にまとまった金が送られてくるようになった。いつまでも戻らないリーダーが気になりつつも、ようやく得られた温かい生活に彼等は手を叩いて喜びあったものだ。 たった一人、恋人である彼女を残して。 「青狼……」 そして今月も仕送りが届く。手紙が添えられていたのは初めてだった。 『すまない。これが最後になりそうだ』 真実と共に記された謝罪の言葉。もう彼は帰って来ないのだと悟り、彼女は膝を着いて泣き崩れた。 それが、彼等の長い冬の幕開けだった。 「何もできないと思われていたんだろうな。青狼が人身売買に関わっていたと知っても、僕達には追手すら掛からなかったよ」 実際、何もできなかった――言葉の端々に悔しさを滲ませる元《封龍》の青年を、ロストナンバー達は無言で見下ろすしかなかった。 再び日陰の生活に落とされ自暴自棄になった挙句、最終手段として選んだのが禁忌(タブー)だったはずの呪術による暗殺というのも皮肉な話である。 《九龍》本部の取り調べ室。全てを語り終えると、青年はどこか清々しい表情で身体の力を抜いた。 「これで僕の使命は終わりだ。後は死刑なり何なり、好きにしてくれ。生きていくのにも疲れたよ」 自分とそう歳も離れていない青年はどれだけの絶望を味わってきたのだろうか。推し量る事もできずに、それでも優は言わずにはいられなかった。 「罪は必ず償わなければならない。君達の方法は間違っていたと俺は思うけれども、劉氏、そして黎明の非道な行いの報いは必ず受けさせる」 「そうだよな?」と視線で訴え掛けると、ビーはさらに別の方向の画面を示す。そこには相変わらず顔の下半分しか映っていないボスの姿が。彼は射抜くような視線を受け、静かに頷いた。 『我々が取り引きしたのは人身売買の罪に関してのみだ。情報提供を受けている間に余罪がいくら出てこようと、知った事ではないな』 この口振りだと、最初からそのつもりだったのだろう。思わず口の端に笑みを浮かべながら、進はわざとらしく「そうそう」と切り出した。 「これ、劉氏のポケットから偶然落ちた奴を偶然拾ったんだが。これまた偶然腹が減ってる俺に飯奢ってくれたらやるけど、どうする?」 『出前で良いならすぐに手配しよう。諸君を正式に《九龍》の外部協力員とする構想も話しておきたいしな』 思わぬ申し出に、ロストナンバー達は顔を見合わせた。その後ろでは、早速進から手帳を譲り受けたシャークが「拾得物の記録を取る為」にパラパラとめくっている。 「おーおー。こいつは色んな裏が取れそうだな。悪い事はするもんじゃねぇぜ」 そんな様子を黙って見ていた青年だったが、突然大きな声で笑い出したものだから一気に視線を集める事になった。 ひとしきり笑うと、彼は涙の浮かんだ目尻を拭い、こう言ったのだった。 「あんた達みたいな悪党に関わったのが、僕達の運の尽きかもしれないな。――明日からはもう少しずる賢く生きてみる事にするよ」 丁度その頃。建物の外、冬の空を拝む屋上では―― 『いいねいいねー。オシャレな服と銃のミスマッチが逆に新感覚って奴?』 忙しなく動きながらシャッターを切るナナシの様子を、並んで座った綾とディーナが遠目に眺めていた。 着替える間も無く紅白のミニスカート姿のまま両手で頬杖をついた綾が騒ぎの中心に声を掛ける。 「っていうか、ヌマブチさん先に帰るって言ってませんでしたっけ?」 「そのつもりだったんだが、これに呼び止められてな……」 珍しく困惑した表情のヌマブチは、その『これ』に次々とポーズを指示され、「こうか?」と生真面目に従っている。 『よーし、それじゃあ次は筋肉のコラボレーション、いってみよーかー!』 「そこで俺サマの登場だぜ? ヒャッヒャッヒャ!」 「……いつからいたの?」 突然の声に思わず身を引いたディーナと綾の間に、謎の決めポーズを取ったジャックが湧いて出ていた。彼はその超能力と優れた身体能力をいかんなく発揮し、一足飛びにヌマブチの隣へと並ぶ。 『それじゃあいっくよー。1足す1はー?』 「トゥー!」 「に、にー、か?」 カシャッ その日の夜、ナナシの「勤務報告」を受けたビーが机に突っ伏したのは言うまでも無い。 <了>
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