「むう」 銀の髪を一つに結い上げ、華やかなフリルのついたワンピースを着たカンタレラは、鮮やかな紅の瞳を瞬きながら、不愉快そうに唸っている。トラベラーズカフェの和やかな雰囲気の中、その曇った表情に気づいたロストナンバーが立ち止まるのにふいと目をあげ、「なにやら司書から話を聞いてきたのだが、聞いてくれるだろうか? カンタレラは行こうと思っているのだが、ひとりではやはり心もとなくてな」 話しかけたが、途中ではっとしたように視線を逸らせ、薄赤くなりながら、「べ、別に、無理して来てくれなくてもいいのだがな!」 そっけなく言い放ちつつも、何とかしたいと思うのだろう、真剣なその横顔に苦笑しながら、イルファーンは腰を降ろした。「やあ、はじめまして」 白い髪、雪花石膏のような白い肌、鳩の血のように赤い瞳、銀細工の腕輪や足環、耳環などを身に着けた美貌の青年に、カンタレラは一瞬驚いたように瞬く。「我の名はカンタレラなのだ」「僕はイルファーン」 澄んだ音楽的な声音で応じたイルファーンは先を促す。頷いて、カンタレラは司書からの話というのを切り出した。「ヴォロスで狂王として知られた王、アル・ビルジャ・ラムという男のことなのだ」 アル・ビルジャはヴォロスの辺境、砂漠近くのバルイシャ・ルムを統治している。狂王として知られるのは、これと思ったことはどんな手段を用いてでも成し遂げる執着心と近隣諸国への容赦のない振舞いによるのだが、何よりも、「アル・ビルジャは実の妹、シャーラを妻とし、寵妃として娶っているのだ」 カンタレラは美しい眉をくっきりと歪めた。「シャーラは兄との姦通に心を病んでしまい、感情の揺らぎを決して見せぬ人形となってしまった。アル・ビルジャはそれを悲しんで、国中に通達を出した」 曰く、『妃の感情を戻すことの出来た者には望むものを必ずくれてやる。だが出来なかった場合にはその場で処刑する』と。「ほう」 イルファーンは興味深そうに目を細めた。「これまで多くの者があらゆる技芸をもってしたが妃の感情は戻らない。無用な血ばかりが流されている現状であるとのことだ。国民は、王が次第に苛立ちを増していることに不安を抱き恐れ戦いているらしい」 何せ、かつて実の妹を妃にするとはとんでもないと止められた時、アル・ビルジャは進言を行った者の家族と、属する村を村人ごと焼き払うという暴挙に出た。「我が前に立ち塞がる者は滅すると公言して憚らぬらしい」 このまま誰もシャーラの感情を戻せなければ、アル・ビルジャは如何なる破壊に出るかわからない。「国の乱れは人心の荒廃に繋がり、それは世界樹旅団にとっても格好の機会になるだろう、と司書も案じているらしい」 そこでだ、とカンタレラは新たにテーブルに近寄ってきた煌 白燕にも視線を向けた。「我は技芸を持って、シャーラ妃の感情を取り戻し、アル・ビルジャを諌めてシャーラ妃を守ろう、と思うのだ」「狂王と姫君か……僕の故郷にも似たような話があったよ。為政者の成す事はどこの世界でも変わらないね」 イルファーンは苦笑した。「僕も彼女の力になりたい。同行させてくれないかな」「同行してくれるのか? うれしい! ありがとう!」 カンタレラはぱっと顔を輝かせた。「おまえの故郷はどんな世界なのだろうか。為政者がどうあれ、非道は許しがたいと思う。カンタレラは姫君を助けに行きたいのだ」 一途な声は白燕の心も揺さぶる。やはり紅の瞳をした彼女は、柔らかな白い髪を頭の後ろでひとまとめにしている。「狂王に寵愛される姫君か…。狂王もだが何より姫君が哀れでならない。姫の心を取り戻す事が出来ればいいのだが」 テーブルに静かに加わりながら、小首を傾げる。目元の朱色が艶かしい。「はじめましてなのだ。我の名はカンタレラなのだ」 カンタレラは加わった少女に笑み返す。「おまえも同行してくれるのか? うれしい! 誰も一緒に来てくれなかったらどうしようかと思っていたのだ。ありがとう」 まっすぐな声に白燕は頷き、名乗りを上げて付け加える。「元君主としては国を民を顧みない王というのも気になるところだ」 カンタレラは大きく頷き返し、「カンタレラも姫君をたすけたいのだ。元君主…。なにやら大変そうなのだな」 続けながら、司書から受け取ったチケットを差し出した。 「シャーラ、こちらを向いておくれ」 アル・ビルジャ・ラムは愛しい妹、愛しい妻の前に跪く。 狂王と呼ばれ、国民から、その影が落ちるところから微笑みが消える、そう噂されている非情な男が、ただ一人の女性の笑みを求めてこれほど煩悶しているとは、誰が思うだろう。「シャーラ」 黒い大きな瞳は見開かれたまま、アル・ビルジャ・ラムの方を向いてはいるが見つめていない。夜ごとの床においてもそうだ。 向いているが見つめはしない。 泣かせてみようともした、怒らせてみようともした、もちろん一瞬の微笑みをどれほど願ったことか。 だが、シャーラの全てはその瞳の奥に封じられて動くことさえないのだ。「………誰ぞ、おらぬか」 虚空に呻く。「誰ぞ、おらぬか!」 苛立ちが募る。「誰ぞ、おらぬのか!」 シャーラの心を目覚めさせ、命の光を取り戻させる者は。「誰ぞ!」 せめて、兄さまと呼んでくれ、昔のように。 アル・ビルジャ・ラムは狂おしく、ただひたすらに、物言わぬ妹を抱き締めた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>カンタレラ(cryt9397)イルファーン(ccvn5011)煌 白燕(chnn6407)=========
「つ、次は陽気な出し物を…」 じろり、と黒い瞳で見据えられ、面白おかしい色とりどりの道化の格好をした男の声は震える。 既に滑稽な歌も歌い、奇妙な踊りもして見せた。次に並ぶカンタレラ一行が目を見張るような、不思議な形の杖を重ねて釣り合いを取る芸も見せた。 だが、玉座に座るアル・ビルジャ・ラムの表情は険しく、炯々と光る瞳は細められることさえない。真っ黒な布で髪を包んで留めている巨大な赤い宝石、重なり流れる豪奢な織りの衣服に、眩く輝く金糸を刺繍した帯を巻き、足下は先が反り返った緑の靴、ぎっちりと眩い指輪が幾つも嵌められている両手を、うっとうしそうに払いのける仕草をした。 側に居た半裸の大男がのっそりと歩み出る。 「う、うわ、わ、お慈悲をお慈悲を!」 察した道化が尻餅をつき、後じさる。 ちらり、とアル・ビルジャは横目で隣の玉座に座る少女のような女を見た。 狂王の実の妹にして愛妃、シャーラもまた、豪華な織りのドレスを身に付け、頭から黒いベールを被り、目元のみを残して透けるレースで顔を覆っていたが、その瞳は開かれているものの虚ろなままだ。 アル・ビルジャが軽く手を翻すと大男は頷いて進み、道化の首ねっこを摘まみ上げた。まるで小猫のようにつり下げ、もがき暴れる男を少し離れた敷布の上に降ろす、や否や、背中に負った大刀で男の首を一薙ぎする。 「ギャアアッッ!」「うわっ」「ああっ」 居並ぶ芸人達の間から小さな声が上がった。 転がった首を裸足で敷布に蹴り込み、わらわらと寄り集まった小物が男の体を敷布に包み、下に敷かれていた絨毯もろともいずこへかと運び出していく。大男は振り返り、血しぶきの飛んだ胸板にうろたえた顔もなく、無言で一礼する。 表情が動かないのはアル・ビルジャも、シャーラも同様だ。 「次」 低い唸り声に待っていた芸人達は竦んだ。 今の道化はかなり芸達者だった。技も巧みで優れていた。王の前でなければ、皆万雷の拍手で讃えたことだろう。それでも、シャーラの気持ちを動かすには至らなかった。ならば、一体自分達の何が彼女に届くだろうか。 「そなたらは、一芸も見せず、城壁の外に捨てられるのだな?」 アル・ビルジャの冷酷な声にかたかたと震え出す者もいる。入ったからには芸を見せるしかない、だが、もう手も足も竦んでしまい、身動きできない。幼い少女が声もなく泣き始める。座り込んだ男の下から異臭を放つ染みが滲む。 「哀れで愚かな王」 沈黙の空間に、ぽつりと呟かれた声に周囲は凍った。 「民がいなければ国は成り立たぬと言うのに。そんな王ゆえに妃の、妹の気持ちの一つも分からぬのだろう」 「…」 鉄をも裂くような鋭い視線がアル・ビルジャから放たれた先、ゆっくりと伏せていた顔を上げたのは煌 白燕。目元に朱を入れた瞳は赤、柔らかそうな白髪を後ろでまとめ、かつて居た世界では名君として慕われた、その気概を満たして、胡弓を手にまっすぐに歩み出る。小柄な体、衣擦れを響かせて歩む姿は健やかで伸びやか、怯む気配一つなく、アル・ビルジャの前に座った。 王を侮辱した罪、問答無用と背後から大男が迫る。気づいていないはずはないが、白燕に怯える様子はない。平然と調弦し、まるで王に請われたように胡弓を奏で始める。 哀切を帯びた、けれどしなやかに翻る弓と同様、強くてなめらかな旋律だ。 細い指先で弦を押さえるのに没頭していく姿に、大男も手を出す機会を失ってアル・ビルジャを見やる。 手を翻しかけたアル・ビルジャは、ふいと、隣のシャーラの指が堅く玉座の肘掛けを握り締めるのに気づいた。 「シャーラ?」 顔はやはり無表情、だが、吸い付けられるように胡弓を弾く白燕を見つめる瞳は、今までとは違って、何かもがくような光がある。 「…」 気づいたように白燕は目を上げた。 赤く炎を宿す瞳が、シャーラの無言の問いに、かつて一国を率いた者の重荷で応じる。胡弓の音色に重ねて送るのは、王の暴虐に巻き込まれた哀れな被害者としてのシャーラではなく、王と同じ、この国を支配する権力者としての在り方、支配者としてのシャーラへの詰問と直訴だ。 自分のせいで多くの人を犠牲にしてしまったという事実は重いだろう………しかり、白燕もまた同じ傷みを抱えている。 しかし、王の支配が嫌だと言うなら、王を支配できるだけのものになれ。半端な気持ちで巻き込まれては民もかなわん………しかり、それが上に立つ者の矜持。 そして、アル・ビルジャにも強い意思を満たした瞳を向け続ける。 妹が大事だと言うのなら王を止めてでも傍にいる覚悟をみせろ………しかり、何かを選び何かを失うは人の定め。 王よ。私の首が取れるのなら取ってみろ………命をかけて、私は私を証する。 「……私はその覚悟でここにいるぞ」 その姿は、今までの芸人達と明らかに一線を画している。 「む…」 アル・ビルジャの顔が歪んだ。 己の世界に全てを巻き込もうとする者が、正論を突きつけられた時に見せる不快感を露に、シャーラが初めて見せた動きに気を取られつつも、白燕の背後に迫る大男に制裁を命じようとする。 そこへ、 「待たれよ、王、その者は我の仲間だ」 スレンダーラインの白いショートイブニングドレスを纏ったカンタレラが進み出た。 流れるような身のこなし、銀色の腰まである髪の毛を一つに結い上げている姿は、白磁の輝きを思わせる見事さ、白燕とはまた違った鮮やかな紅の瞳で、王に微笑みかける。 「我の名はカンタレラ。我が同胞がもう一人、こちらに控えている」 「お目にかかれて光栄です、王よ。そして妃」 イルファーンが銀細工の腕輪や足輪、耳環などを身につけた姿で笑みを重ねた。色素の少ない淡い気配の青年、物珍しさでも目を惹くが、宝玉のような白い肌、艶やかで見事な深紅の瞳に見つめられれば、誰も一瞬ことばを失う。 目の前に現れた三者三様の赤い瞳の艶やかさに、さすがのシャーラも瞬きして目を見張った。 「我ら三人、姫の心をお慰めしたくまかり越した。できうるならば、三人の芸をご覧頂いてから、判じて頂きたく願う」 「…うむ」 威圧するような目で見返したアル・ビルジャだが、シャーラが微かに身を乗り出す様子に気づき、不承不承頷く。 カンタレラは白燕に胡弓を一旦止めるよう願い、それから城内の楽師に向かって、好きな曲を心のままに演じるように伝えた。 「好きな…曲を…」「だが…しかし」 楽師達は疲れ果てた顔を互いに向け合った。 へたなことをすれば、すぐに大刀が飛んで来る。そんな中で一体何を奏でればいいのかと戸惑う顔だったが、それぞれにふと視線が止まったのは、一人胡弓を弾いた白燕。 媚びるのではなく、競うのでもなく、ただただ己の有り様に集中する姿。 「……ああ、そうか」 一人がのろのろと胡弓に似たもう少し大きな弦楽器をつま弾き出した。白燕が微笑み、弦を合わせる。別の一人が音を重ね、音律を加えた。芸人達もおそるおそる太鼓を叩き、手持ちの楽器を鳴らし始める。 イルファーンが踊り出した。柔らかく波のように翻る衣服、その合間に煌めく装身具。城の灯に照らされきらきら輝く光を伴って、幻のように魔術のように、魅惑の微笑が閃く。 カンタレラも踊り出す。上半身は体に沿った細身のシルク系、けれどよく見れば細かな薔薇の刺繍が施され、ドレスの裾は薄物の柔らかな布で組み合わされていて、カンタレラが体を翻すたびに煙るような色で彼女の手足に纏いつく。同じような薄物を軽く羽織っているために、剥き出しになりそうでならない肩の滑らかさが、見るものの視線を魅きつけ、伸ばされた指先へと誘っていく。 『……あの時あなたは何を見ていた?』 カンタレラは歌い出した。 『天蓋は星空…褥は金色の花…』 びくり、とシャーラが震える。 『あの時私は何を見ていた…?』 カンタレラの声は、音楽と絡まり、吐息を乗せるように甘い。 『あなたの優しさの他に何を…』 「あ…あっ」 「シャーラ…」 震えるような声を漏らして、シャーラが両手で口を押さえ、目を見開く。視線はまっすぐカンタレラに向いてはいるが、やがて、それよりももっと違う何かを掴もうとするように、両手を前へ差し出した。 シャーラに人の心が戻り始めた、そう安堵するかと思ったアル・ビルジャが、なぜだろう、カンタレラの歌詞に体を固めている。両手を差し出したシャーラの手を取ることもなく、むしろがっしりと玉座にしがみつくような姿で、見ようによっては今にもそこから逃げそうだ。 『真っ白な鳥が羽ばたく……大きな月が昇る……青い影が大地を過る 繰り返し旅をしてきた…遥か昔から あなたとずっと……私はずっと』 カンタレラは心を込めて歌いながら舞い続ける。 シャーラの動きも気にはなったが、今はどちらかというとシャーラの異変に怯えたようなアル・ビルジャの表情が気になる。 シャーラの心が戻りかけている、それを何よりも望んでいたのは王のはずなのに、なぜ今こうして戻ろうとするシャーラから、距離を取ろうとするように見えるのか。 『あなたは今…何を見ているの』 ことばを重ねた。 『私は今…何を見ているの…』 「あああっ…いや…っ兄…さま…っ」 ついに、シャーラが甲高い悲鳴を上げて耳を押さえ、激しく首を振って崩れそうになったのに、イルファーンがするりと忍び寄って支えた。青い顔で身を引いてしまっているアル・ビルジャを見上げる。 「舞はただの前座。これから必ずや王妃様の心を取り戻して御覧に入れます。御心に叶わねば僕の首を刎ねてもいい」 「何…っ」 「今少し、王妃様と二人にして頂けませんか」 「う…っうっ」 アル・ビルジャが顔を背け、よろめくように玉座に縋る。すぐ側に居るシャーラを見まいとするように、カンタレラの踊りと白燕の胡弓、並ぶ楽師や芸人の姿を見つめる。 その王の視界から遮るように二人の間に立ち塞がり、イルファーンはシャーラの両手を取った。 「王は君を、君だけを愛してる。君は彼を畏れている……僕が昔そうだったように」 流れる音楽を背景に、語り出したのは自らの片割れとの話。 漆黒の髪と瞳、褐色の肌の美丈夫の精霊だった。人間を下等生物と蔑み、イルファーンが人間の価値観に染まることを嫌悪し、彼の愛情がよそに向けられるのを望まず、過去イルファーンが関心を持った対象をことごとく破壊した。 極端に凝縮した愛情故の執着と暴力。声高に語られる正義の下で、その行いが踏みつぶしたのは、イルファーンが大事にしていた存在だけではない、それを大事だと思うイルファーン自身もまた破壊していたのに、彼は気づいていただろうか。 「このまま逃げて閉じこもったままでいいのかい?」 問いかけは鏡のように自らに還る。 「彼を止められるのは君だけだ、その務めを果たさねばいけない。君は民草を護り導く王族の裔なのだから」 「護り…導く……王族の…」 シャーラの瞳が、胡弓を弾き続ける白燕の姿に泳ぐ。そしてまた、びくびくしながら歌う芸人や、白燕の後方にいつでも首を刎ねられるように大刀を手にしている大男へ、その大男を意に介した様子もなく、歌い続け踊り続けるカンタレラの姿へと。 カンタレラの声音が豊かに響く。 『私はきっと忘れない…あなたと見たあの風景を 風そよぐ草原……波間に漂う船……名もない花が香る…』 「忘れ……ない……」 シャーラが呻いた。 「忘れない……と」 きつく唇を噛んで、堪え切れない何かを必死に飲み下す。だが、 「ふ…うっ…うっ」 ぽろぽろと零れ出す涙は、子どもの頃の王に化けて誘う、イルファーンの声に一層激しく溢れ出す。 「さあ、遊びに行こうシャーラ」 「あ…ああ…っ」 かたかたとシャーラは震え、傍らの兄を見やる。だが、兄はまるで彼女がいないかのように、カンタレラの踊りに魅入り、白燕の胡弓に聴き入っている。 「兄さまと呼べ? 妹を妹として遇さぬ男をどうして兄と慕えますか」 シャーラのことばを代弁するかのように、イルファーンは囁き続ける。 「私の心を返してください、王よ」 そう言いたくはないかい? ことばにされない囁きは、シャーラの奥に届いた。 カンタレラが目を閉じ、背中を逸らせ、何か尊いものを差し上げるように両手を延べ、遥か高みへと放つように歌い上げる。 『失うものは何もないのに……私は何を怯えていたのか あなたの笑顔はずっと……ずっと変わらぬままなのに』 空間が鳴り響く。 楽師の音を越え、人の声を越え、ことばを越え音律を越え、祈りと化した響きは『癒しの唄』として、居並ぶ全てのものの傷みを受け取り、抱き寄せ、慰める。 「あ…っあっあっ…」 顔を覆い、シャーラは泣き崩れる、まるでこれまで流し損ねた涙を一気に流し尽くそうとするように。 「君は兄であり夫である男を愛し、畏れ、昔に戻りたがった。兄と妹が笑い合えた幼き日に」 そうだ、どれほど愛しいと思っていたことか。近しく存在する魂に、どれほどの拠り所を与えられたのか。 だが、それはもう、今は既にない。 「…ふっく…くっう」 呻き声が痛々しい。 イルファーンは静かに刃をシャーラに渡す。 「君は何を望む? 妃として生きるか妹として尽くすか……全てを捨て逃げたいというなら手を貸すよ」 依頼に入る時に、三人とも気持ちは様々だった。 心神を手放すほどに辛いのならば己の死を望むのでは? それをせず王の愛を受け続けているのは王の狂気への復讐? そうは考えない。姫も王を愛しているのでは? 王が抱く深い後悔の念、それゆえの凶行。姫が悲しんでいるのはその点なのでは。カンタレラはそう呟いた。 シャーラが、王に仇討ちを果たすも自害も自由、逃避行も自由、そうイルファーンは考えた。 彼女は自由になるべきだ、そう白燕は結論した。 だから、今イルファーンが告げるこのことばは、三人の意志だ。 「その心は君だけのもの。なんぴとたりとも冒させてはいけない」 「…っく、ううううっあ!」 ふいに、シャーラは立ち上がった。 「兄、さま!」 口元を覆っていた黒いレースを剥ぎ取る。振り向いたアル・ビルジャが、驚き、続いて喜びに声を上げてしがみつこうとするのに、刃を向ける。 「シャーラ…」 アル・ビルジャが見下ろす。その顔へ、 「毎日が…地獄でした」 長い間使わなかった声は掠れて錆び付いていた。 「あなたと共に暮らすのは」 「……シャー…」 アル・ビルジャが愕然とした顔になり、涙を流し続けるシャーラと、向けられた刃を交互に見やる。 「王よ…この命と引き換えに…正気に戻られますように!」 「シャーラ!」 振り上げた刃をまっすぐに自分の胸に突き立てようとする、その直前、どすり、と刃が突き立ったのはアル・ビルジャの太い腕。その腕はシャーラをしっかりと抱きかかえている。 「兄さま…っ!」 なおわかってくれないのか。 悲痛な声が響く、だが、アル・ビルジャは静かに首を振った。 「死んではならぬ……この先も、長く余を助けて欲しい」 「できませぬっ、もうっ、もう私はっ」 「……あの唄に、そなたが初めて歩いた日を、思い出した…」 「えっ…」 「わしを目指して…両手を出して……」 ぼたぼたと滴り落ちるのは鮮血だけではない、狂王と呼ばれた男の頬を流れ落ちる幾筋もの涙だ。 「この手の中に抱き込めた……生涯傷つけぬと…誓ったのに…なあ」 シャーラを包んだ手の拳を、何も掴まぬ空中に、ぎりぎりと握りしめて呻く。 「わしは…どこで間違ったのか……」 そなたの命を粉々に砕いてしまったのだなあ。 ずるずるべたり、とアル・ビルジャがシャーラから腕を抜いて座り込み、そのまま深く項垂れる。 「許せ……そなたにここまで…させた…」 まこと、愚かな男であった。 「兄さま…」 吐き捨てるような苦々しい告白、まるで十も二十も老けたように見える王に、シャーラが静かに顔を振り上げた。 「…医師を呼べ! 王がお怪我をされているぞ!」 うろたえたように走り寄ってくる周囲のなかで、シャーラが王の腕から刃を引き抜く。溢れ出す血潮、それを振り返らぬシャーラ、怒りについに王を屠るのかと思いきや、血に濡れた刃で、己の髪をぶつりと切った。 吹き出す血を押さえようともしないアル・ビルジャが、のろのろと妹を見上げる、その前に。 「……王よ」 深く礼をとり、シャーラが呟く。 「どうぞ、これから強く正しき王であられますように」 「シャーラ…」 我を許す、というのか。 低い呻きにシャーラは顔を上げないまま、 「……そのために、私は一生王にお仕え致します、我が命に誓って」 一生涯側にいる、だが、もう決して交わることのない道を歩む。 静かな宣言は力に満ちて。 「…わか…った…」 頷き、やがてがくりと首を落とした王と対照的に、シャーラは顔を上げ、立ち上がる。何かを探すように周囲を見回し、やがてカンタレラ達を見つけると。 「……」 血に塗れた髪に包まれた白い顔が、鮮やかにはっきりと微笑んだ。 「……狂王、アル・ビルジャが退位したそうだよ」 依頼から戻ってしばらくの後、トラベラーズカフェで、イルファーンは得たばかりのヴォロスの情報を伝えた。 「新しい王は、シャーラ・ビルジャ・ラム……女性の王は史上初めてらしい」 「国を継いだのか」 白燕が眩そうな顔で応じる。 「まだまだいろいろあるだろうけど……頑張ってほしいな」 人を愛し人に寄り添い人と在る、『愚者の霊』と呼ばれるイルファーンは嬉しそうに微笑む。 「……覚悟、なのだな」 カンタレラが低く呟き、二人に笑み返した。 「きっといい国になると思うのだ」
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