>【桃源鏡】へようこそ 【桃源鏡】は真のあなたを探す手助けをいたします。 変えたい過去はありませんか? なりたい未来はありませんか? 現実(いま)の自分に不満はありませんか? そんなものはない? いいえ、あるはずです。 あなたのお言葉はそう語っておりました。 さぁ、おいでませ。 【桃源鏡】はあなたの望みを叶えます。◆「今回の依頼は、暴霊の出現条件を確認するための囮捜査のようなもの。――実際に退治する事までは求めないもの。が、必要に応じて各自の判断による行動が要求されうる」 そう言うと、犬の獣人形態をした世界司書アインは、チケットをロストナンバー達に差し出した。 数は、2枚。丁度そこに呼ばれたロストナンバーの数だった。「実はこの暴霊にロストナンバーが関わるのは初めてではない。先だって暴霊に囚われた少年を助けだす事がインヤンガイの探偵に依頼され、その手助けとして5人のロストナンバーに旅立ってもらったことがある」 結果、とアインは閉じられたままの予言書を小脇に抱えつつ言葉を重ねる。「彼らは暴霊に囚われた少年を救い出した。その手順にも手際にも、落ち度はない」「それじゃあ事件は解決したんじゃないのか?」 当然の問いが、ロストナンバーから為される。「奇妙」 アインはその疑問を当然とばかりに頷くと、そう答えた。「帰還した者達に話を聞いたところ、少年を助け出すにあたって暴霊との戦闘はなかったという。夢のような世界に囚われる体験はしたものの、暴霊そのものと遭遇はせず、何より少年を助けるにあたって抵抗がなかった、と。ただ鏡を割りはしたが、それすらも特段の抵抗はなく、ただ少年を引きずり出す一助となったにすぎない、と」 ここからは私の想像。――そう言って、アインは精一杯に胸を反らすと、彼の目の前にいるロストナンバー達を見上げた。「暴霊は、必ずしも人を永劫に捕え続ける事を指向してはいないのではないか、と考える。一度体験した彼らの話から総合的に考えてそう判断した。――そして暴霊が拠点としていた壺中天、つまりは壱番世界でいうインターネットを進歩させた仮想現実空間。その中のサイトは未だ閉鎖されていない。その事に、インヤンガイにいるとある探偵もほぼ同じ頃合いで気付いた。そして彼はこちらへ協力を依頼してきた」 くりん、とした円らな瞳には、似合わないだけの冷徹な光が宿っている。「そこで君達に依頼したい。暴霊が宿っているであろう彼の場所へ接続し、君達の目と心で、彼の世界を体験してきてもらいたい――そして、可能ならば暴霊を引きずり出す条件を探ってもらいたい」 もしそうであればという仮定になるが、とアインは続ける。「暴霊が襲撃してくるような事があれば、君達の身の安全が最優先される。これに抗し、滅してもらいたい。しかし現状では手がかりが殆どないも同然の状況。ゆえに、囮捜査と表現した」「つまり、捕まらないようにしつつ、捕まりかねない綱渡りをしろ、と?」 こくり、とアインは問いに対して頷く。「不確定な状況、条件、そして今回は予言書に具体的に現在起きている事象が記述されてはいない。だが、このまま放置すればまた被害者が出るであろうとの予言がなされ、同時に向こうの探偵からの依頼があった。この巡り合わせを私は重視する」 どうだろう、と尋ねるアインに対し、内の一人が頷いた。「面白そうだし、受けるよ」 そういう声に、アインは微笑みらしきものを浮かべて見せた。「では、よろしくお願いする。――今回は私の判断で、君達二人。先に体験した者達の話やその際の予言書の記述によれば、彼のサイトでは君達は永劫に浸っていたくなるほどの世界であり、夢であるものを体験することになるだろう。君達の理想とする世界や、かつてやり直したかった過去をその通りにした先の未来など、様々な状況があり得る」 その中で、君達は多少の違和感であれば気付くことがないそうだ、とアインは言う。夢が、夢たる所以と同様だ、と。「誘惑にのりながら、深奥においてそれに抗う意志が必要。拠り所となる何かも」 向こうではどうすればいい、との質問にアインは忘れていた、と笑みながら答える。「依頼をしてきたモウという探偵が機材の準備等をしている。忘れないで。今回の目的は暴霊を倒すことではない」 そういう彼の瞳は、常に浮かべる冷徹さの中に、わずかに不安げな色を混じらせている。「あくまでも、入り込み、そこから脱出する過程で彼の暴霊がどのような挙動をするかを探る事が主眼。まずは潜り込み、そして帰ってくることに力を尽くして欲しい。暴霊と接触できなかったとしても、それはそれで一つの事例」◆ ロストナンバー達がモウ&メイ探偵事務所を訪れた丁度その時、メイが気怠そうに事務所から出てくる。「あんた達が今回手伝って欲しいと言ってきた面々ネ? 残念だけれどモウはついさっき出先で死んだらしいヨ――出歩くだけで殺されるのも大概にして欲しいネ。殺人鬼に首ちょんぱだとか。クワバラネ」 唐突な宣告にどうしようかと考える様子のロストナンバー達。 その彼らを一瞥し、メイは室内を肩越しに示した。「機材は揃ってるから勝手に使うがよいヨ。私はお昼食べに行きがてら死体を回収してくるネ。――なんなら一緒に来るカ? 奢ってくれると嬉しいヨ。あ、無理、それなら仕方ないから適当にするといいネ」 ひらひらと手をふりながら、メイは二人の脇をすり抜けていく。「以前調べた情報やら何やらは、入ってすぐの机の上。機材の横に扱い方を書いた説明書。他に何かあるかネ? ない。それでは私は行くネ」 ◆ これは、かつてロストナンバー達が少年を取り戻して少し後の、【桃源郷】の中。 誰もいなくなったその部屋で、割られた鏡の欠片が静かに浮き上がると、ぴたり、ぴたりと元の位置へ嵌まり込んでいった。――私を否定しないというのなら。帰りたければ、帰ればいい。 そう、少女の声が小さく呟いた。――私は、私を否定せぬモノを赦そう。私は私を必要とする者に夢を与えるモノ。 くすくす、と少女の笑声が小さく響く。――またいらっしゃい。代価は、目覚めるまでの貴方の命。全てでもいいし、少しでもいいの。――だから、さぁ……一緒に夢を、紡ぎましょう? 私を受け入れなさいな。そうすれば、いつでも甘美な夢で魅せてあげる。――いつでも、いつまでも。そう、いつまでも、ね?
【Stage for Takaki】 午後になり、地面に降り注ぐ陽射しがますます強くなってきた。 シン、と静まりかえった競技場の中、ライバルの呼吸の音だけが、隆樹の耳に入ってくる。 この瞬間が、隆樹は最も好きだった。静かに繰り返される呼吸。会場の観客、役員、そして他の選手や、自身と同じ部に所属する仲間達。 彼らの視線が一斉に注がれる頃合いで、スターターが開始の刻を告げる。 「用意」 その言葉に、ライバル達の呼吸が止まった。 大丈夫。 心の中で隆樹は唱える。必然の緊張を踏み台とし極限まで高められた彼の集中力は、すぐ近くに立つスターターの動きすら感じることができるほどになっており。 聴覚から足への神経を一繋ぎとすべく、隆樹は自身の視界を閉ざす。 その瞬間、闇の中で笑う赤い瞳を見た。迫りくる咢を見た。 何だ、と疑問を抱く事は許されなかった。60分の1秒のずれすら許容されない号砲が告げられたのだ。 出遅れた! 内心歯噛みしながら彼はその一瞬だけで数m先を行ったライバル達を追いかける。 中学生としては最後の全国大会、その決勝。 出遅れはしたものの、第1コーナーを抜け直線に突入する頃にはどうにか追いつく。 短距離に区分される中では最も長い、400m競争。左右のレーンの者にとっては、後ろから追いついてくる者がいれば大きく手を振って反則にならぬ程度の防御をすることが有効な距離である。隆樹に対しても、その洗礼は行われた。 邪魔するな! 第2コーナーへの突入時、右の走者――準決勝でも競い合った少年が傾いた勢いで繰り出してきた肘を巧みにいなすと、その勢いで前に出る。 最後の直線へと入る頃、歓声の向こうでよく知らない数人の悲鳴が聞こえ、同時に隆樹の視界が奇妙にぼやけた。闇の中、血塗れで戦う何人かの人影。 『無駄よ。私は倒せぬ』 脳裏に響く声。闇で嗤う巨大な何か。一時的な酸欠によるものであろう幻影を無視し、最後の力を振り絞る。 その頃には彼の両足は、既に限界を超えかけていることを訴えるようになっていた。 それでも、足を前に出し続ける。不意にはっきりした視界に映った、白くて細い布。 「っしゃあっ!」 最後の気合いと共に張った胸が、誰よりも早く白い布に触れた。途端、会場の歓声が耳に飛び込んでくる。 そのまま競技路に四つん這いとなって息を整える彼に、チームメイト達が駆け寄ってきては歓喜の声を浴びせてきた。 『タカキ』 もみくちゃにされる中、脳裏では、闇に光る赤い眼が語りかけてきた。 「何だってんだ、一体」 ようやく湧いてきた歓喜を抱き表彰台の方へと肩をかつがれ歩き出す中で、彼は整ってきた息を一つ吐き、そう呟く。 ――何かを、忘れている気がした。 【Stage for Ena】 「――どうした、絵奈。何をぼうっとしている」 背後からかかった姉の声で、絵奈はふと我に返る。 目の前には、人々が新しい世界の先々を祈念する祭りを楽しんでいる光景。 「今日だけは許す、お前も楽しめ」 「あ、うん」 軽く頭におかれた姉の手の、絵奈の髪をわしゃわしゃとかき混ぜる仕草が、絵奈の表情に笑みを取り戻させた。それを見て、姉もまた口元を緩める。 「それでいい。笑っていろ――魔物を根絶できたのはお前の頑張りも大きい。絵奈、よく頑張ったな。ほら、行って、皆と楽しんで来い」 「――うん!」 少し離れたテーブルで談笑する仲間たちと、彼らの活躍を口々に誉めたてている街の人々の様子。力強く頷いた絵奈は、姉に背中を押され、彼らの所へと走り出す。 「お、来た来た。丁度お前のこと話してたんだぜ」 同じ集団に属する仲間の一人、絵奈の姉と同じ年頃の青年が、杯を掲げて絵奈へと笑いかけてくる。 「まったく、お前はよくやった! 最初はこんなに使えねぇ奴もいるもんかって思ったが、近頃じゃ姉ちゃん顔負けだったからなぁ」 絵奈を笑顔で迎えてくれた別の仲間が、杯を掲げ、そう誉めてきた。 「え、私が、ですか?」 そう問い返す絵奈に、男が意地の悪い笑みを浮かべ、頷く。 「おうとも。最初の頃は芋の皮むきもろくにできないし戦闘もできねぇ。掃除をやらせりゃ丁寧は丁寧だがくそっとれぇしよ、いやあの姉の妹がこれかねと思ったもんさな」 「窓から落ちたこともあったらしいわよ」 「言ってた言ってた。合流したのが13だっけか。まだガキだったもんなぁ」 手振りで自身の膝くらいの身長だったよなとおどけてる別の仲間の台詞で、どっ、と場の全員が笑いだす。 「うぅ……」 馬鹿にする類の笑いじゃないという事が雰囲気から大変よく伝わってくるため、怒るに怒れない。第一、身長を除いて全部事実だった。当時の状景や自分の情けなさが思い起こされ、机につっぷして両手で頭を抱えてしまう。 「――でも、だんだんできることが増えてきた」 ぽつり、と言ったのは最初に杯を掲げて呼びかけてきた青年。 「そうだねぇ。戦闘もろくにできなかったのに、最後の方では大分頑張ってたよね」 頭の上で響く声は、今では穏やかな女性の声。 おずおずと顔を上げる絵奈の頭を、優しく撫でる手があった。 「本当に、絵奈もよく頑張ったな。お前のおかげで、わし達はいつでも心置きなく戦いに向かえたし、細々としたことにも気づいてくれて、本当に助かった。何より、姉さ4んをよく支えてくれていたしな」 年頃で言えば絵奈の父親であってもおかしくない頃合いの男性が、そう語りかけてくる。 「そんな――私、教えられてばっかりで。ついこの間も盛大にお料理焦がしてしまったばかりですし!」 慣れない誉め言葉をかけられ、真っ赤な顔を両手で抑える絵奈の様子に、また一段と笑いの声が高まっていく。絵奈も、いつのまにか笑い出していた。 笑って、飲んで、踊って。疲れ果てて机に戻っては、仲間達とまた乾杯をする。 これが幸せなんだ。そしてそれを私たちは取り戻せたんだ、と。 現状を噛みしめた瞬間、絵奈の笑みがほんの少しだけ、曇る。それを誰にも気づかれぬようにするため、彼女はそっと席を立ちその場を離れた。 既に深夜を迎えていたが、いまだ街に響く人のざわめきは消えていない。 絵奈はその喧噪を背中に受けながら、宿の二階にある部屋、観音開きになっている窓の縁に腰を預け、俯いていた。 中央広場からほんの少し離れただけだというのに、幕を一枚隔てたかのような遠さを感じる。 こんこん、と開いたままの部屋の扉が叩かれた。目線を上げれば、入口から覗き込んでくる姉の姿。 「どうした。もう、寝るのか?」 そう問いかけてくる表情には、まだ笑みが浮かんでいる。酒が入っているのだと、少し赤らんだ頬が告げていた。その姉に、絵奈は首を振って応える。 「皆、とても楽しそうで、誰一人笑っていない人がいなくて――こんなに嬉しい夜は、寝るのが勿体ないなって、そう思ったの」 それで? と静かに目線で促してくる姉の様子に、絵奈は言葉を続けた。 「そう思った瞬間に――思い出したのね」 戦いの日々に、終わりが見えなかった頃。『皆が笑顔になれる世界』は本当にできるのだろうか、と疑問を口にした時のこと。 「弱気になるな」、そう前置きして姉が言った言葉だった。 「『誰かが笑えば、その裏で誰かが泣く。それは魔物が滅びても変わらない。皆が笑顔になれるなど、実際の所は不可能同然だ。でもあえてそれを目標に掲げた。我々が人々のために働き続けられるようにな』――そう言ってたのを、思い出したの」 「よくそこまで覚えているな」 苦笑し、預けていた背を扉からおこした姉が、室内へと入ってきた。 「でも、みんなじゃないの」 窓枠に腰を預けた絵奈がそう呟く。向けられる視線を受け止めると、「うん、みんなじゃない」と再度口にした。 先程までは「何となくの違和感」程度だった思いが、確固としたものへと変わった瞬間だった。 ここにいる仲間や街の人々は、本当に幸せそうに笑っていた。 それは、素直に嬉しい。けれどもその思いが、「ここにいる人達が、笑っていてほしい人全員なのだろうか」という疑問を呼び覚ました。 そして、そうではないのだ。 「私、沢山友達ができたんだ」 煌々とした月光が、姉を見る絵奈の表情を照らす。普段忙しくくるくると変化を見せる彼女の表情には、今、静かに落ち着いた笑みが浮かぶ。 「いろんなお話をさせてもらって、笑って、皆で依頼を達成するために頭をひねりあったり……時々は恋の話をしちゃったり。あ、もちろんね、私のはそんなのじゃなくて、知的好奇心っていうかつまりはそういうあれでそれなんだけど――というのはおいておいて、すごく、よくしてもらってるの」 途中自分の言葉にあたふたし弁解する絵奈。見つめる姉の瞳は、優しい光を宿しつつも、どこか寂しそうな様子に見えた。 「絵奈。お前は今、元気に暮らしているんだな。この世界の嘘がわかるほどに」 姉の問いかけに、「うん」、と迷わず頷ける思いを、絵奈は持っていた。 「これは、確かに私の求めた理想――世界が平和になって、お姉ちゃんやみんなが全員笑っている世界。だけど、ね」 笑みが、突然に崩れる。 「見てて、辛いんだ」 だって、嬉しくないんだもん。 子供のような口調でそういう絵奈。彼女の頬を流れる雫を、傍らに立つ姉の指が、優しく拭ってくれている。 「嘘の世界だってわかっちゃうと――みんなの笑顔が、辛いの。笑顔を思い浮かべるたびに、あの光景が一緒に出てくるの! 血塗れになったお姉ちゃんが出てきて、これは嘘だって、言ってくるの!」 仲間達の笑顔が、閉じたはずの傷の瘡蓋を酷く掻き毟ってくるのだと、絵奈は告白する。 「それに、今一緒にいる、共に笑いたい人達が、この世界にいないんだ。この世界で楽しく過ごすってことは、その人達をいらないっていうこと、だよね? そんな私と一緒にいても、お姉ちゃんや、皆は笑ってくれないと思う。――少なくとも、私は笑えない、よ」 我慢して、それでも涙を溢れさせる絵奈。そっと後頭部に回された腕に導かれるまま、数分程、姉の腕の中にいた。 「――ごめんなさい。また、泣いちゃいました」 「ここには、他人はいない」 頭上から降る姉の言葉にこくり、と頷く。けれど、唯一涙を見せられるその姉は、既に彼岸の人なのだ。そっと腕の中から身を起こすと、涙をぬぐい、絵奈は笑う。 「ありがとう、お姉ちゃん。それに、皆も」 遠くで続く宴の場からは、仲間達の笑い声が今なお響いている。目を閉じれば、仲間達の笑っている顔が目に浮かぶ。それには凄惨な記憶が付きまとい、心をかき乱すものではあったけれども。 「また会えて嬉しかったよ。だから――さようなら」 言葉とともに、絵奈はその身を後ろへ倒す。 窓枠から地面へと落ちていく絵奈の視界には、天空に座す満月の姿。 やがて陰る月と知りながらも、いつまでも目に焼き付けていたいと、強く願った。 ◆ 虚ろな闇が支配する中で、小さく弱き者達を見下ろしていた。 狼の力を持つらしきヒトが、己に対して振るう剣を悠々とその鱗で防ぐ。エルフの放つ炎を尾の一閃で消し飛ばす。 愚かな事だ。無駄だという事に、何故気づかないのか。 くつりと裂けた口を歪めると同時に、周囲を飛び回る青竜の背に乗った女が静かに狙いを定めている事に気づく。 なるほど、眼か。 矢を打ち込もうとする場所を悟り、瞼を伏せた。同時に到達したか弱き人の矢を、その硬い皮膚が弾く。 全ては、無駄。竜王たる私を倒せる力は貴様らにはなかろう……ほれ、そこで既に倒れ伏しているタカキとやらが、何度も実証した後であろうが。 心中で哄笑し目を開く。そして気づいた。瞼を下す直前まで倒れていたはずの黒装束の少年の姿が消えていることに。 何処に、と考えるのは刹那のみ。再び笑みを心中に抱く。 上、と視線を上げてみれば、超高速で飛翔する小さき男の姿が見えた。 狙うのは、竜王たる己の眉間に輝く宝石。唯一の弱点であるその宝石を看破し、突き破ろうとするとは見事。 極限まで気配を消した上で、仲間が私の目を眩ました隙を、本命であるこやつが突いてくる。見事……故にこそ、存分に食らってやろう。 宙に浮くタカキの身体を、顎で捕らえた。硬く閉じられた口中に溢れる臓物と、血の味わい。一瞬で破断されたであろう骨を数度咀嚼するもタカキは悲鳴を上げようとしなかった。或いは叫ぶ間もなく絶命したか。 そしてそれはどちらでもよいことだった。 残された面々の表情に宿る、絶望と悲愴の色。叫び声。残骸を吐き捨てて、それらのいる方へと体を向けた。 その瞬間、常に闇に支配されているはずの己の居城に、強烈な陽光が差したような感覚を覚える。 響く歓声、そして胸中に湧き上がる、達成感。 正に世界を闇で染め上げようとする彼とはかけ離れた健全なその感覚は、しかし一瞬で消える。 気にせず、目の前にいる戦士らを屠りつづけた。 これまで散々に邪魔を重ねてきた者等を噛み砕き、世界を闇に染め上げて行く中で、もはや抵抗が叶う者は一人も存在しえなかった。 光に満ちようとしていた世界を、再び闇に染め上げて行く。 昏い歓喜が、その心を支配し、激情に突き動かされるように咆哮を放った。 世界を己の闇に組み入れた――それは己が望んだ世界の実現を意味する。 そこに至り、奇妙に付きまとう違和感があった。 ――不可シギだな。 それに気づかせたのは、闇を支配する竜王としての自尊心か、或いは幾多もの世界を渡りあるいた者としての感性か。 己はこの闇の世界において、全てを支配する主のはず。 であるのに、闇は纏わりつくばかりでまるで別の誰かを厭うかのように支配下に下ろうとしない。 その違和感を覚えるたびに脳裡に閃くものがある。 それは陽光に満ちた世界で、歓喜に包まれる己の心。 何度目かの時、それが己であって、己でないものであるのだと、思い至った。 ほぼ同時に世界の向こう側で、今ひとりの己も、その事象に気づいたようで。 互いが融け合い、共存し、時に対立しつつしばしの時を過ごした者の存在であると気づいた時、彼らの夢は閉じる。 「ナルホド、コレがユメと」 それと気づかぬままに謀られた苛立ちを込めて、竜は咆哮を放つ。 「タカキ、イコウ」 咆哮が闇を、そして世界を切り裂いていく。 それに応じる手がある。一筋の影となりその手に融合した竜は、青年とともに世界を割った。 ◆ キン、と鏡の割れる音がしたことで、隆樹は己が【桃源鏡】の入り口にいる事を自覚する。 『お目覚めね』 部屋の中には無数の合わせ鏡。いくつもの鏡が様々に角度を変えて映しあう事で、幾千万もの鏡が存在する部屋だった。 その鏡の奥の奥。小さく映る一枚の鏡の中からかけられた声。 「お前が、ここの主か」 『無愛想なのね。わざわざ訪ねてきて、素敵な夢を見せてくれたお礼に、少しだけ姿を見せてあげたのに」 鏡の中、遠くにあるが為にだろうか、小さく見える少女が余裕の笑みを浮かべて言う。 『貴方達、いつも来る人達とは違うのね。とっても美味しい霊力。それに、見る夢も素敵。絶望に欲望、希望。皆いつも来る人達よりも、段違いに魅力的よ』 だからね、と少女は言葉を続ける。 『またおいでなさいな――私はいつでも望む者に夢を見せてあげる。見せて、魅せて、そして貴方達の霊力を、少しだけ御代にもらうの。今度はもっと自然な世界をあげるわ』 「ふざけるな」 隆樹が苛立ちを込めて小さく言った。 「お前のような悪趣味な存在、認めるわけにはいかないな」 そう言って戦闘態勢をとる隆樹の様子を、暴霊の少女が気にする様子はない。 『認めなくてもいいわよ。だって、本当は心の中で私を望んでいるのですもの』 「そんなことはない」、と言いかけた時、キン、と再び音がなった。 『あら、もうあの子も起きてしまうの? 残念。もう仕舞いだなんて』 視界の内にある鏡の中の一枚が、甲高い音を立てつつひび割れていくのを隆樹は見た。 その鏡だけが、ここではない場所の光景を映す窓のようなものとなっている。そこに見えるのは旅の相方の背中。何事かの会話をしていたらしき彼女の身体がこちら側へ向かってゆっくりと倒れこんでくるのにあわせるかのように、鏡に幾筋ものひびが入っていく。 『じゃあ、またね?』 その言葉に何かを返す余裕もなく、隆樹は倒れてくる少女を受け止めようと、その両の腕を伸ばした。 ◆ ほんの少しの落下感。だが覚悟していた衝撃はなく、力強い腕に抱きとめられる事で、夢の終わりを知った。 「えっと、おはようございます」 「……おはよう」 「ノンキだな」 しばしの後に応じた隆樹と、影から軽い声をかけてくるヴェンニフの応答に、絵奈は思わず笑みを浮かべた。 「暴霊は『お情け』で姿は見せたが、それ以上の接触は難しそうだった――今日の所は帰るしかないな」 「はい――ええ、あ、それであの……おろしてくれますか?」 まだ腕の中にいることに気づき、おずおずと言う。隆樹さんも無意識だったようで、「すまない」と、彼にしては少しあわてたような様子で地におろしてくれた。 自分の足で立った時に、たまたま彼と目があった。笑みを浮かべた私に合わせるように、隆樹さんもまた、ほんの少し口の端を歪めて笑みを浮かべてくれる。 これが、私が今いる世界。 色々な世界を渡り歩き、色々な人とであって。 今だと、隣に一緒に依頼を受けた隆樹さんがいてくれている。こうして笑みも見せてくれる。 不安定な、でもかげかえのないこの世界達で、皆の笑顔のために生きていきたい。 満ちた月は、やがて陰る物。でもそれは、長い時間が過ぎれば――また、満ちていくものなのだ。 「やっぱり、こっちの方がいいです」 何が、と問いかける隆樹さんの視線に少しだけ肩を竦め、私はまた笑っていた。
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