その日、バードカフェ『クリスタル・パレス』は休業日であった。 それを知らずに店のドアを開けてしまったものは――そう、休業日であったのに鍵がかかっていなかった――、いつもすぐにあらわれる鳥店員たちの出迎えがない静かな店内に、ひとりの壮年の男の姿をみとめる。「……あ。すまない。今日はお店はお休みで」 男はそう言うと、穏やかな目元に笑いジワを畳む。「でもせっかく来てくれたのだし。お茶の一杯くらい飲んでいきますか。あいにく、上手な接客はできないのだけれども」 そういう男はギャルソンめいた前掛けをしていたけれど、ポケットに剪定バサミやスコップが突っ込まれているのを見るに、なるほど接客のためにここにいるわけではないらしい。 言われるままに席についた客は、しんとした店内の、至るところに置かれた植物から植物へ、男がそれこそ鳥のように訪ね回っては、土を足したり、水をやったり、萎れた葉を毟ったりしているのを見た。ああ、そうか。閉店中にここの観葉植物の手入れをしているのだ、と合点がいった。 やがて、仕事の合間に、男が淹れてくれた茶が、テーブルの上にすっと差し出される。 ガラスの容器に入ったハーブティーのようだった。 しかしどうにも手持ち無沙汰だ。 いつも店員や客たちの談笑にさざめいている店内が、妙に静かである。 しょうことなしに、男に話しかけてみる。 すると、客はまた驚くことになった。業者かと思った彼が本職は世界司書だと言うではないか。その名を、モリーオ・ノルド。植物の扱いに秀でているというだけで、副業ながら店の植物の手入れの仕事を任されているのだ、と――。 どれくらい、経っただろう。 またドアが開いた。「おっと。なぜだか鍵をかけるのを忘れてしまう」 モリーオは肩をすくめる。 鍵どころか、休業の札も出ていなかった。案外、そうして話し相手がやってくるのを、待っているのかもしれなかった――。
~Melissa officinalis~ コツン、とステッキの先がターミナルの石畳を叩く。 仕立ての良い背広を着て歩くのは鷲とおぼしき鳥が擬人化したような姿だった。幾多の異世界から人々が行き交うターミナルでは、こうした異形も珍しくはない。異形、というのがそもそも壱番世界の観念に過ぎないだろう。 といって、この鳥人とも呼ぶべきものが、もとよりそうした種族であったかといえば、実はそうではないのだが、それについてはまた後ほど。 語られるべきは、彼――服装からしてそう呼ぶべきだろう――が、その店の近くに通りがかったことである。 鳥人はふと歩みを止め、銀の鎖につながった懐中時計を確かめた。 昼も夜もないターミナルでは、逐一確かめなくては時刻を見失うのは、人々の悩みの種であった。 「ふむ。すこし寄っていきましょうか」 そうつぶやいて、彼は『クリスタル・パレス』へと足を向ける。 だがここでも、ターミナルの時間感覚のなさがわざわいする。 本日は、定休日だったのである。 「おや」 店の中が静まり返っていることにすぐに気づいた。 しばし、周囲を見回し、そしてつかつかと歩み入る。そこで、ひときわ背の高いソテツのかげからふと顔を出した男と目が合う。 「……」 しばし、両者とも無言だ。 「業者の方ですかな?」 「お客様ですね」 そして言い合った。 ふふふ、と男は笑う。そして、 「申し訳ない。今日はお休みなんです。カギをかけ忘れたようだ」 と続けた。 「ご精の出ることです。質問をするときはこちらから名乗るのが礼儀でしたな。わたくしは、アストゥルーゾといいます、こちらの店で、ゆっくり読書を楽しむのが日課でして――」 「そうですか。ではどうぞ。お茶くらい淹れましょう」 「よろしいので?」 「ええ」 「ではお邪魔しましょう。ところで貴方のお名前は」 「モリーオ・ノルド。本業は、世界司書です」 いつも通り、席につくと、やがて、ガラスの器が運ばれてくる。ごく薄い琥珀色の茶がほのかに湯気を立てており、傍に小さな壺のような容器が添えられていた。 「温かいのでよかったですか。これはレモンバームのお茶です。この蜂蜜をお好みで」 「すみませんな、気を使わせたようで……良い香りだ。わたくしは 植物には疎いのですが、花は好きです」 「レモンバームには白くて小さな、かわいい花が咲きますよ。実はこの蜂蜜もレモンバームから採ったものです」 モリーオの穏やかな声が語った。 「蜜源の花によって、蜂蜜は変わります。レモンバームは良い蜜が採れる植物として古くから知られていました。……と、お喋りが過ぎたかな」 「いえいえ」 アストゥルーゾは微笑って、かぶりを振った。 「面白いお話です。植物がお好きなようですな? 私もこちらにはそれなりにいますが、失礼ながら貴方とは初めてお会いする。まだまだ知らない人が多くいるようですな……」 「司書よりも、この仕事にかまけすぎていたのかも」 それこそ蜜蜂のように、植物の傍にすっと寄ると、萎れた葉をやさしくむしり取る。 アストゥルーゾが、そっと蜂蜜をそそぐと、輝石を溶かしたようななめらかな液体がゆるゆるとハーブティーの底に沈んでゆく。添えられていたティースプーンでかきまわせば、ガラスの器の内側がかげろうのように揺らめいた。 そっと口をつければ、名の通りレモンに似たさわやかな香りを感じることができた。 「……花を育てるのは、手間暇がかかるのでしょうね」 彼は言った。 「そうですねえ。簡単ではないかもしれません」 モリーオは応えた。 「私の夢はね、花畑を作ることだったんですよ」 「素敵な夢です」 モリーオは言ったが、そう話すアストゥルーゾの瞳がひどく遠い色なのに気づいて、それ以上に言葉を次ぐのをやめた。 「元いた世界のある所で、一本の花も咲かなくなってしまった場所に……ある人と一緒に」 クリスタル・パレスは、緑ゆたかに見えても、店に過ぎない。置かれているのは鉢植えの観葉植物なのであって、まったく自然のものではない。モリーオにはあずかり知らぬことだったが、それはアストゥルーゾの世界でも同じだった。すべてが人工物の閉ざされた都市では、植物は管理され制御されるもののひとつでしかない。 それでも花は美しく、可憐に咲いたのだ。 「おっと、これはいけませんなぁ、つい思い出に浸ってしまった」 アストゥルーゾは、笑った。目の前を過る追憶を、振り切るように。 それからしばし、他愛もない話題に興じる。 「……さてと、そろそろ行くとします、今度、機会があれば植物の手入れを教えてください」 「喜んで」 席を立つアストゥルーゾを入り口まで送る。 「実は、知らない店員か、面接に来た人かと思ったのです」 「はい?」 「見えられたときに」 「ああ」 アストゥルーゾは笑った。つまり、この日の彼が鳥人であって、ここクリスタル・パレスが鳥に姿を変えたり、鳥が本性であったりするロストナンバー、ロストメモリーが働く場所だったからだ。 「貴方は違うのですね」 「あいにく羽根はありません」 「私もいつもこうではないのです」 決してその真の姿をあらわさないのが、《化かし屋》の掟であるがゆえ。 すうっと、風に雲がかたちを変えるように、鳥人は妙齢の女性になっていた。艶やかな黒髪の、美しい女だった。 「それじゃ、ま・た・ね?」 ウィンクを残して、立ち去る。 「……これはこれは」 すっかり化かされたのか、それとも。 肩をすくめて、モリーオは独り、頬をゆるめた。 ~Malva sylvestris~ 蓮見沢 理比古は、その日もまた、あてどなくターミナルの街並みを歩いている。 ほかにやるべきことがなく、時間があれば、彼はそうして、足の向くままに歩く、歩く。実はこの遊歩にはそうは見えなくとも目的がある。 人を探しているのだ。 探し続けている――、そう言っても、よい。 だが、誰を探しているのかと問えば、これが実に説明しにくい奇妙な話なのであるが、それについてはまた後ほど。 語られるべきは、彼が、その店の近くに通りがかったことである。 (カフェ……かな) 瀟洒な店構えに足を止めた。 いささか渇きをおぼえてもいる。せっかくだと、理比古はドアに手をかけた。 どこにどんな機会や運命が待ち受けているかもわからない。存外、このドアの向こうに探し続けるかの人物がいないとも限ら―― 「え?」 「おお、きみ!」 彼を迎えたのは切迫した男の声であった。 たくさんの緑で埋められた店内は、やわらかな光に満たされて明るいが、客の姿はまったくなかった。 そしてひとりの壮年の男――残念ながら探し人ではなかった――が、中腰の不安定な姿勢のまま、理比古に向かって声をあげているのだった。 「す、すまないが……」 皆まで言わせず、理比古は動いている。一見して状況を察した。 男がその背の高い観葉植物の鉢を持ち上げようとして、いったん持ち上げたはいいが思いのほかそれが重たく、しかし中途半端に上げてしまったのでバランスを維持しなければ鉢ごと無残に転倒しそうな危うい状態にあったまさにそのとき、理比古があらわれたのだ。 「大丈夫!?」 「んっ。……やあ、助かった」 「これ、どこに?」 「ああ、すまない、もうすこしこっちにね……」 長身ではあるが細身に見えた理比古だが、鉢の重みにたじろぎもせず、男の救い主となった。そのまま別の場所へ鉢を移動させ、そっと床に置いた。 「……ああ、危なかった。油断した」 「独りじゃ無理だ、こんな重いものを」 「そうなんだけどね。ちょっと動かしたいな、と思っちゃってね。あそこだと、半分、陰になるだろ。だからほら、こちら側だけ葉の育ちが悪い。向きを変えてここに奥と全体に光があたるから」 言いながら、男は軍手で額を拭った。 「ところで、きみは」 「え――。って、ここってカフェじゃ……?」 もしかして植木屋だったか?とあたりを見回す理比古だ。 事情がわかって、笑い合った。 「すこし、作業を見せてもらってもいいかな。なにか手伝えることがあったら言って」 「いやあ、いくらなんでもお客様に手伝わせたらと知れたら、わたしが店長に叱られてしまうよ。……と、土はどこにいったかな。さっき、このへんに置いたんだが」 「これかな」 土の詰まった袋を、理比古が取り上げる。 これも相当重いのだが、軽々運んでくる理比古を見て、モリーオは甘えることにしたようだ。 「……土の匂いがする」 「ターミナルでは珍しいだろう」 モリーオの傍で、その仕事を眺めた。 「うちの庭も、庭師の人が来てくれてた。そのときと同じ匂いがするね。土とか、緑の匂いってすごく好きだよ」 育ち、暮らした屋敷の広い庭園の様子を、理比古は思い起こした。 脚立に乗って、高い枝の剪定をする職人のうしろ姿を、縁側からじっと眺めていたこともあった。パチン、パチン、という剪定バサミの音さえ思い出せた。 「好きな花はある?」 モリーオは訊ねた。 「そうだな……。なんでも好きだよ、目と心に優しいから。たとえば蓮や睡蓮――俺の名前、蓮見沢に蓮って字が入ってるからってわけじゃないけど、水辺で咲いているときれいだよね。あとは梅とか桜とか、あと菫とか蓮華草、蒲公英も好きかな。梅と桜は果実が取れるしね」 「それは正直だ。食べられるのはいいよね。……よし、休憩しよう。お茶を淹れるから、どこかに座って」 ややあって、モリーオは青く澄んだ液体の入ったガラスの器を木のトレイで運んできた。切ったレモンが小皿に添えられている。 「青い……こんなのがあるんだ」 透き通った宝石のような色だ。 「これはねマロウブルーといって、ウスベニアオイという花から水出しするんだ。今は淹れたてなので青が鮮やか。時間が経てばすこし紫がかってくる」 「色が変わるんだ。空みたい。見ててもいいかな」 「どうぞ、好きなだけ」 出されたものを飲むではなくじっと観察する理比古。 「モリーオさんは料理をするんだ? おすすめはある?」 「好きなのはいろいろあるけど……簡単にできるものなら、レモングラスとセロリでさっとつくるスープだとか、バジルをちぎってサラダにするとかね……すこし、変わってきたかな?」 グラスの中の色を見る。 「レモンを入れてごらん」 言われるままにレモンスライスをくぐらせると、澄んだ青がさあっと薄桃色に変化した。 「わあ!」 歓声をあげる様子がまるで子どものようで、モリーオは笑った。 「魔法みたいだ」 「大昔の壱番世界では、ハーブの効能に詳しい人間は魔女と呼ばれた。魔法と学問の区別がついていなかった頃だ」 「詳しいね」 「本からの受け売り」 モリーオは肩をすくめた。 そっとマロウブルーのカップに口をつけると、爽やかな香りが広がる。 「そういえば、これ、水出しするって――?」 「そうだね」 「……俺が来たのは偶然なのに、どうして支度できたの」 そのカップはさほども待たずに出てきたはずだ。 「誰か来るだろうと思ったからね」 不思議なことを、モリーオは言った。けれどなんとなく、理比古には理解できる気がした。 「そうか……。俺も、誰かわからない人を探してるんだ」 顔も名前もわからない。 しかし会えば必ずわかるという確信がある。 「もし、『誰か』を見たら、俺に教えて」 「それは難しい注文だなあ。……でも覚えておこう」 「うん。ありがとう。とても楽しかったし美味しかった。またハーブについて教えて貰えたら嬉しいな」 「いつでもどうぞ。……ここはわたしの店じゃないけどね」 そう言って、司書は笑った。 ~Hibiscus sabdariffa~ ターミナルのとある場所に、古美術を商う店がある。 壱番世界の品が多いようだが、異世界から持ち込まれたものも並ぶ。 この絵皿はインヤンガイの古い時代のものだ。隅にたたずむ甲冑は壱番世界の西欧のものと、ヴォロスの古王国ものだったが奇妙に似通っている。 商品への影響を避けて照明の絞られた店内の壁にはそれぞれ時代や国の違う絵画が、大仰な額に収まって、異国への窓のように見知らぬ風景を映し出したり、あるいは貴族の肖像として訪れる人をじっと見下ろす。 時から取り残されたターミナルの中にあって、さらに空気が凝固した店の奥に、黒いヴェールに顔を隠した女主人の姿あった。 ふう、と息をついて、三雲文乃は眺めていた画集のページを閉じた。すでに壱番世界では絶版になった画家のものだった。 「……」 文乃の店に、客はなかった。 もとより古美術の店など、大勢でごったがえすようなものではないにせよ、この日はあまりにも暇だと言わねばならなかった。 ただ一度、ステッキをついた鳥人の紳士が立ち止まって、ウィンドウ越しに例のインヤンガイの絵皿を眺めただけだ。それ以降、通行人すらない。 今日はもう閉めよう。 そう思った。店はそれでいいとして、閉めてどうするか。アトリエでやりさしの仕事をするか、気まぐれに次に出るロストレイルに飛び乗るか。 しずしずと店仕舞いを終えると、すこし、街を歩いてみることにした。 増築に増築を繰り返して、複雑な構造をもつこの都市は住人でさえすべてを知っているものはいないと言われる。文乃もまた、この場所に店を構えていながら、すこし街区を離れると知らない場所も多い。 どのくらい歩いただろう。 ふと、ひとりの青年がある店から出てくるのを目にとめる。カフェのようだ。 そうして、三雲文乃はその日、3人目の、『クリスタル・パレス』の客となった。 「なんだか申し訳ありませんわね」 休業日だと知ってそう言いつつも、勧められれば着席し、モリーオの淹れてくれたカップを口に運んだ。 ハイビスカスティーは美しいルビーの色で、含めば酸味が強い。 「どうぞお構いなく、お仕事をお続けになって」 「では失礼して。シュロチクの株分けだけやってしまいたいので」 「……」 ヴェール越しに、文乃の瞳は店内をひとめぐりする。 「このお店には鳥がいまして?」 「というより鳥しかいませんね。……こちらは初めてでは?」 「そこに羽が」 「ああ」 シダの葉にひっかかっていた、鳥店員の誰かの羽だった。 「よく見つけましたね」 ふふふ、と笑みをこぼす。ほかにも気づいたことはあるが、何でも暴けばよいというものではない。彼女の目はいつもそうやって、目立たぬもの、そっと隠されているもの、欺こうとするものまでも、目ざとく見つけてしまうのだ。 たとえばこのモリーオ・ノルドと名乗った男。 植木の管理を任されているようだが、休業日に勝手に出入して、誰も立ちあっていないのだから、相応に信頼を置かれていると見える。年齢は四十路あたりか。左手に指輪はしていないしその痕もない。片足がわずかに不自由。 「……退屈しませんか?」 「いいえ、ちっとも」 背もたれに体重を預ける。ハーブティーの香り。静かに過ぎてゆく時間――。 ふふ、と唇をほころばせた。 店が暇すぎて出てきたのに、のんびりとくつろいでいるのは、なんだか可笑しい。そのくせ、耳目がとらえるいろいろなことどもは、雄弁に多くのことを教えてくれた。 「植物は好きですわ」 彼女は言った。 「そうですか。それはよかった。営業している日にも来てあげてください。鳥がお嫌いでなければ」 「極楽鳥、という鳥をご存知?」 「鳥の方はさほど詳しくなくて」 「風鳥(フウチョウ)、とも言うのですけれど……壱番世界の南洋に住む鳥ですわ。ヨーロッパの人々は極楽鳥を剥製で知りました。剥製は脚が切り落とされていたので……この鳥は脚がなく、枝に止まることなしに飛び続ける鳥だと思い込んだそうです」 「はは……、この店の店員たちには刺激的な話ですね。脚を落とした剥製とは」 「あら、失礼」 くすり、と文乃は笑った。 「でもわたくし、飛び続ける極楽鳥とは、どことなくロストナンバーに似ているようにも思います」 「なるほど……」 「……植物の話でしたわね。ええ、植物は好きです。好きな花なら、アネモネか沈丁花。わたくし、美術品を商うのですけれど、植物のモチーフのものもとても多いですし――」 意匠だけでなく、草木や花にまつわる数多くの物語や神話を、いくつか挙げた。 水面に映る自らに恋した少年が姿を変えたという水仙……、あるいは、いちどでも口にしたら地上には帰れない冥界の果実たる柘榴……。 「草花はひとつひとつ模倣のできない美しさがありますもの。その美しさがわたくしは好き。たとえ、棘や毒を秘めていたとしても」 そう言って、意味深に笑った。 毒――。 鳥や花について会話をかわしながら、なかば無意識に、別のことを文乃は考えている。 ハイビスカスティーは酸味が強いので、お好みで、と言って添えられていた甘めのママレードをすくいながら、たとえばここに毒を混ぜておいたなら。同じお茶をふたりで飲んでも、酸味を嫌う甘党だけが死ぬことになる。観葉植物の株分けをしている、あの男になら、どうやって毒を盛ろう。 そんなことをぼんやり思ったそのとき、実になにげなく、モリーオが少量の土を舐めたので、「あ」と小さく声を出す。 「味見すればわかるんですよ、土の状態が」 何も気づかずに、彼は言った。 ……やがて、暇乞いを告げた。 今度は営業している日にこなければ。良い店を見つけたと話してあげなくては――と、考えて、いったい誰に?と自問する。思いもがけず穏やかな時間を過ごしたけれど、ここは0世界のターミナル。旅人たちのかりそめの世界だ。そして文乃の夫は、とうにいない。 ~Calendula officinalis~ 「あ、三雲さん!」 見覚えのある姿を目に止めて、フェリシアは声をかける。 「……しばらくぶりですわね」 相変わらず文乃の顔は半ばヴェールの陰にあり、口元くらいしか見えないのだが、微笑んでくれたのはわかる。彼女とフェリシアは以前、モフトピアへともに旅したことがあった。 「お買い物?」 「ええ、素敵な写真集を買ったんです。それで、これからカフェにでも行こうと思ったんですけど、よかったらご一緒にどうですか?」 「あら、残念ね。あいにく今しがたハーブティーを飲んできてしまったところなの。すこしやりのこしたこともあるし……」 「そうですか。じゃあ、またいつか。私も初めて行くんですけど、お店の人たちとはこの前のお花見で知り合ったんです。鳥さんがいっぱいいる素敵なお店なんですって」 そう言い交わして別れる。後ろ姿を見送りながら、文乃は思う。 「言ってあげるべきだったかしら」 そのお店、今日はお休みよ、と。 でもまあいいか、と思い直す。休業日だが、相手をしてくれる人間はいるのだから。 「あれ……お休み? でも……」 ドアを開ければ閑散とした気配。しかし、いっぱいの観葉植物の陰から人の話し声がした。 「あのー……、あっ」 奥のテーブルに、いつぞやの花見で見かけた初老の紳士がおり、そばに園芸エプロン姿の壮年の男が立っていた。 紳士のほうもフェリシアを覚えていたのか、会釈をくれる。 「うーん、どうも今日はいつにも増して繁盛しているようだ」 壮年の男が、笑った。 そしてフェリシアはその日、5人目の客となったのである。 彼女のテーブルには、うすいオレンジ色に透き通った茶の入ったグラスが置かれた。 「きれいな色――それにいい匂い」 「これはマリーゴールドティーだよ。マリーゴールドって知ってるよね。タンポポによく似た花」 「知ってます。日の出の時間に咲いて、日が沈むと閉じるでしょう? あれってお茶になるんだ」 「いい色が出るし、炎症を抑えたり、解熱の効果があるから具合の悪い時にね……今は元気いっぱいだろうけど、覚えておいて――」 「この香りは、ミントですよね?」 「そう。マリーゴールドだけだとあまり香りがつかないのでブレンドしたんだ」 温かいハーブティーだったが、喉を通ると、ミントの清涼感がすうっと感じられた。 そして、あらためて、クリスタル・パレスの店内を見渡す。 ターミナルとは思えないほど、緑ゆたかな空間だったが、フェリシアにはすこし不思議にも感じられる。彼女にとって植物とは、そこかしこに自生し、世界すべてを覆うようなものだった。鉢に植えられ、わざわざ鑑賞するために、人が植物をもとめるということ自体、最近まで意識したことがなかったのである。 「……その樹、どこか悪いんですか?」 「え? いや、萎れたところを除いているだけだよ」 「お店はお休みなのに、わざわざ?」 「これで案外、草木というのは手間がかかるものでね。ここが自然の森なら違うのだろうけど」 「私は森の多いところで育ちました」 「そう」 「多いというより、森の中といってもいいかも。だからかな。このお店はほっとする感じ」 「店長に伝えておこう」 故郷に咲く、リンゴの花を、フェリシアは唐突に思い出す。 子どもの頃、気に登りついて枝を折ってしまい、母親に叱られたことがあったっけ――。 「母が、樹医なんです」 「ほう、そうなの」 モリーオは感心したように言った。 「木登りして、木を傷つけたので怒られたことがあって。でも木登りしたことは怒られなかったの。他の女の子は、木登りしちゃダメって言われてたのに、私は『登るなら、上手に登りなさい。樹がかわいそうでしょ』って!」 「いいお母さんだ」 「そうでしょうか」 ちょっと口を尖らせるように言った。 やがて、初老の紳士が先に席を立ったので、モリーオが入り口まで送って行った。 ガラス越しのやわらかな光が、オーガスタの大きく艶やかな葉の下に陰を落とす。季節のないターミナルだが、ここだけはすがしい夏の日のようだ。 そういえば、と肝心の、買ったばかりの写真集を取り出して、テーブルの上で開いた。戻ってきたモリーオに、 「よろしければ一緒に見ませんか? すごく綺麗なんですよ!」 「どれ」 モリーオは椅子を引いて、傍にかけた。 それは空や海など、自然の風景を撮影した写真集だった。撮影地は壱番世界のようなのだが、かの世界から持ち込まれたものではないようだったから、ターミナルの住人の誰かが自分の写真を印刷してつくった私家本のようである。ページを繰るごとに、あざやかな光景が目に飛び込んでくる。 「自然が好きみたいだね」 モリーオは言った。 「はい、とても。行ってみたいなあ」 そう言って手をとめたのは、目もくらむような断崖の写真。遠景に、冠雪の残る遼々とした山の頂の連なり。千尋の谷の底には鬱蒼とした森が広がっていた。 「壱番世界にもこんな場所があるんだな」 ぽつり、とモリーオが言うのを聞いて、フェリシアははっと気づいた。 この男はロストメモリー。この0世界から出てどこかへ旅することはできないのだと。 「……。あ――、あの」 「気にすることはない。行けないからこそ、いろいろな風景の見るのは、わたしは好きだよ」 もしかして悪いことを言ってしまったかもしれない、と思ったフェリシアの考えを察していたように、モリーオは言うのだった。 「……コンダクターは世界の行くすえを見つけられず、ツーリストは変えるべき場所を見失った。ここにいるものはみんななにかを失っているのだから。……司書としてかれらを手助けするか、せめてこのターミナルで一息つける場所をつくって提供するか……わたしはそれを迷って、結局、司書になったあとも、あれこれ手を出しているんだ。……さ、お茶のおかわりはいるかな?」 「……はい、いただきます」 フェリシアの返事に、モリーオは微笑ってみせた。 ~Matricaria chamomilla~ 「先日の花宴の席でお世話になりまして、たまさか近くを通りましたので伺ったのですが……左様であれば出直しましょう」 「いや、でもせっかくだからお茶だけでも。もしかしたら店長も起きてくるかもしれないし」 「……いらっしゃるのですか?」 「ええ、ここ、一応、奥が自宅なんですよ、彼の」 そんなやりとりのすえ、博昭・クレイオー・細谷は席につく。 「カモミールティーです。よかったら」 出されたお茶は、素朴な芳香を放っていた。 「お気遣い恐縮でございます。ではいただきます」 スーツの背をぴんと伸ばしたままカップを持ち上げる。 「先日の花見は盛り上がったようですね。あいにく、わたしは行かなかったのだけど」 「楽しいひとときでした。ターミナルで桜を目にすることができるとは思いがけず、嬉しかったのです」 一面に桜が咲き乱れる不思議なチェンバーの光景を、細谷はまざまざ思い出すことができた。……正確には、宴の後半については詳細な出来事の記憶はあいまいというか、あえて無意識下に追いやっている節もあるものの、はらはらと散りゆく花吹雪は、どこか痛みさえ感じるほどの、美しいまぼろしのような記憶だ。 「桜がお好きのようだ」 「我が国の国花です」 誇らしげな口ぶりだ。 「神秘的な美しさのある花ですね。ただ、管理するのはなかなか大変なのですよ。虫がつきやすいので」 「そう――、美しく高潔なものは、時に、這い寄ってくる毒虫がおります。……と、斯様な言い方は過ぎたものでしょうか。一寸の虫にも五分の魂と申します。しかし世の中には害悪としか呼べぬものがございましょう。害虫には害虫の理があったとしても、花を護らねばならぬ局面はあると思います」 そのまま滔々と語り出しそうになるのを自ら抑えるかのように、細谷はハーブティーで口を湿らせた。 「このお店の植物は、すべてあなたが?」 「ええ、まあ……店長の知り合いなので、押し付けられているんです」 押し付けられて、と言いつつ、あまり嫌そうなふうではなかった。 「あいにく私はこの方面には疎いのです。好きな花はありますが――桜のほかは、牡丹ですとか。しかし自分で育てたりはできません。そういったことを好んだ人物は知っています」 今は遠い面影がよぎる。 いつだったろう、そんな話をしたのは。そう遠い昔ではないはずだ。昔のことにしてはいけない。 「彼は緑に囲まれていると心が落ち着く、と。それは私もわかります。私の故郷は、緑ゆたかな場所でした。我が国におわし八百万の神々が年に一度集まるとされた土地です」 そんなことを話しているうちに。 「あのー……、あっ」 いつのまにか入ってきたらしい、ひとりの少女がそこにいた。 「うーん、どうも今日はいつにも増して繁盛しているようだ」 モリーオは笑った。 そして、失礼、と言い置いて細谷のテーブルを離れる。 彼女に事情を説明しているようだ。やがて、その少女も休業日の客となる――逐一、そんな応対をしていては本来の仕事がはかどらないだろうに、つまりは、そういうことが好きなのだろう。 ハーブティーの――淹れ方になにかコツがあるのか、不思議と香りが強すぎない――続きを飲みつつ、観葉植物の列に目を遣る。先の花見の頃に、もう半年経ったのだ、と思ったのを覚えているから、彼の故郷は今はもう夏であろう。残してきたものへ思いを馳せれば烈しい焦燥感が胸を焼く。焦っても仕方がないのだ、と言い聞かせる。 どこか窓が開いているのか、観葉植物の葉がかすかに揺れた。テーブルとハーブティーの液面にも落ちる葉陰がゆらめく。 細谷はそっと目を閉じた。 瞼の裏には、いつでもあの日のことを描くことができたが、あの流血と慟哭と炎の記憶をたどるには、この場は穏やかすぎる。花宴の喧騒も今はなく、ただ、すこし離れた場所で、モリーオがなにかを話す低い声と、それに応じる少女の声と、そして葉がささやくように擦れる音だけが、細谷の鋭敏な聴覚にふれていた。 花や木は、手をかければかならず応えがある――、いつか、そんな話をした。 なにも語らなくても、結果があらわれる。でもなにも語らないから、辛抱強くなくては。 「……」 今はまだ、そのときではないのだ。 おのれが及ばなかったから、失った。それは確かだと細谷は思う。しかし挽回の時を焦ってはいけないと揺れる葉のささやきは告げる。なすべきことをしていれば、いつか花は咲くのだから。 細谷は、目を開け、カップを空けると、静かに席を立った。 「お帰りですか。すみません、結局、ラファエルは寝てるみたいで」 「いえ。……久々に、ほっとした時間をいただけたような気がします」 眼鏡の奥で、細谷の目が柔和に笑う。 「やはり植物に囲まれるのは良いものでございますね。気持ちが落ち着く――本当に、彼の言った通りに」 遠い目で、そう呟いた。 ~Lavandula officinalis~ そこが鳥の楽園だと聞いたのは、誰からだったか。 店に来た誰かだったかもしれないし、世界司書の誰かだったかもしれない。 ともかく深山 馨は大勢の鳥たちがいるという『クリスタル・パレス』に心を惹かれ、その日、足を運んでみたのだった。彼自身の店を開けるまでにまだ時間があったから、お茶の一杯も飲んで過ごせばちょうどよいであろう。 やがて探し当てた扉の向こうに、しかし鳥たちの姿はなかった。 かわりに、ひとりの男がいた。 しゅっ、しゅっ、と霧吹きが音を立てて、観葉植物の葉を湿らせている。 「あ――」 馨が小さく声をあげた。 「虹が」 吹いた水に、小さな虹が架かったのである。 「『神は細部に宿る』。そう言いますね」 横を向いたまま、男は言った。 それからあらたまったように向き直り、 「あいにく『クリスタル・パレス』は休業日です。鳥店員たちはいませんが、ハーブティーでよければわたしがお出ししましょう。店長にご用なら起こしてきます。わたしはモリーオ・ノルドと言います。店員ではありませんが、今日はもう店員と言ってもいい。本職は世界司書です」 と、一息に言うのがなんだか可笑しくて、馨は笑った。 「面白い方だ。今日は私のような客が何人もいたのですね?」 「『休業中』の札を出し忘れたのです」 「なぜ今からでも出さないのですか」 「こういうのも面白いかと思って」 6人目の客が席につくと、モリーオは何を淹れるか訊ねた。 「そうですね……ラベンダーはありますか?」 「あります。では少し待っていてください」 そう言って厨房へ消えるのだった。 「ラベンダーがお好きですか」 「そうですね、香りが良いのものありますが、以前私の瞳に似ていると言われたことがありましてね」 なるほど、モノクルの奥の彼の目は、その花の紫によく似た色だった。 「私はどうも、人に言われた言葉を引き摺ってしまうようで」 片頬をゆるめた。 ハーブティーから立ち上る花の香りがふぅわりと鼻腔をくすぐる。 「自宅にも植えているのです」 「そうですか。ラベンダーはいろいろ使い道があるし、いいですよ。わたしはね、乾かしたものをアルコールに漬けてハーブチンキというのをつくっておくんです。長持ちしますから」 「ほう」 話しながら、モリーオは手を休ませない。 「……あざやかですね」 馨は言った。 「はい?」 「手際がいい。手際というより――拝見しているとまるで植物と会話をしているようだ」 「話しかけたりもしますよ。意外と人の話を聞いているんですよ、草木というやつは」 「なるほど。育てる人によって育ち方が違いますからね。……みどりの指とは、あなたのような人を指すのでしょうね」 と微笑んだ。 「ん――。でも今日のところは、これで終わっておこうかな」 そう言って、モリーオは大きく背を伸ばす。 「一日仕事になってしまった」 「それは、お疲れですね。お茶をご一緒にいかがです」 「そうしよう」 厨房から自分のぶんのグラスを取ってくると、モリーオは対面の席に、ついた。 「しかしこうして緑に触れているのは嬉しいもので。日頃は本に囲まれている反動かも」 「立ち入ったことをうかがってよければ」 馨は訊ねた。 「あまり世界司書の方と図書館の外で話す機会もないですし。……ロストメモリーになるというのはどういうものなのか、いつも考えているのです」 記憶と引き換えに、0世界に居場所を得たものたち――それが世界司書たちロストメモリーだ。 自らの生い立ち……、真理に触れた定めによっておのれの世界から放逐された時までの人生、その中であっただろういくつもの出会いや、さまざまな経験――それらをすべて、手放してしまうとは、いったいどんな気持ちなのだろう。 「確かに、自分が捨てたものの大きささえ、知ることができない」 モリーオはそっと応えた。 彼は四十路に見える。少なくとも四十年分(外見からは齢の測れぬ種族であったなら、もしかするとそれ以上)の記憶が、彼の差し出した代償だ。 自分はできるだろうか。いつか旅をやめて、その道を選ぶときが来るのだろうか――馨は内心で思い、そして、かぶりを振る。 「人に言われた言葉を引き摺ると、さっき」 ふと、モリーオが言った。 「え? ええ、そうです」 「わたしは思うのですが、思い出せはしなくとも、過去の記憶によって今のわたし自身は出来ていると思うのです。その意味で、過去は消えてしまったわけじゃない。……過去に親しくしていた人に会ったなら、覚えていないことは申し訳なく思うのだろうけど、仮にそんなことがもしあったら、すぐにまた親しくなれるのではないかという気がしますね。その人とのかかわりで出来ている部分が、今のわたしの中にきっとあるから」 「……なるほど……。ではこう聞きましょう。世界司書と言う職に就いて、ゼロ世界に帰属して、……あなたは幸せですか?」 「幸せ――、幸せか」 モリーオは少し笑った。 「きっとそうなんでしょうね。穏やかな暮らしなのは間違いないですし」 馨は頷く、 「そうですか。ありがとう」 と言った。 「さて。私はそろそろ――」 馨は席を立つ。 「お店の場所を教えてください。今度はわたしがうかがいます」 「ええ、是非」 ――と、そのときだった。 視界の端を、青い影がかすめる。 ホーゥ、という、フクロウの鳴き声。青い羽の夜鳥が、艶やかな青葉のうえに、ふわりと舞い降りて羽根を休め……かけて、きょろりとその眼をめぐらすや、 「おお!?」 と、頓狂な声とともに、ひとりの中年男性の姿になって、床に転げた。 「いたた、驚いた、お客様!?」 休業中の店内に馨がいたので驚いたらしい。『クリスタル・パレス』店長ラファエル・フロイトだった。 「やっと起きてきたの」 モリーオがラファエルの手をとって起こす。あせあせと寝癖を直す店長の様子に、馨は笑みを漏らした。 * ターミナルのとある場所に、『クリスタル・パレス』という名の店がある。 鳥の店員たちがお客を迎えるカフェだが、ガラス越しのやわらかな光に満ちた店内にはたくさんの観葉植物が置かれ、ちょっとした植物園と言ってもいいくらいだ。 このたくさんの植物の手入れを、実は世界司書であるひとりの男が引き受けていることは、あまり知られていない。 もし休業日にそっとのぞいてみたら、彼を見つけることができるだろう。 手が空いていそうだったら、そっと声を掛けてみるといい。 ハーブティーを一杯、ごちそうしてくれるから――。 (了)
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