それは、ある人体模型が己の夢を叶えるために言い出した事だった。「アルスラってぇ都市に、竜刻を使用する技術があるらしいでやんす!! 大体わっちらは竜刻ってえのは暴走するものとしか知らなかったでやんすが、それを使う技術があるなら是非確認したいものでやんす」 がたん、と座っていた椅子を倒し、彼は興奮の為か、高らかにこぶしを振り上げた。「竜刻と言えば魔力の塊、もしかしたら魔力乾電池みたいなものもあるかもしれやせん……そしたらわっち……わっちも、ついに、粗大ごみとして捨てられる日に怯えなくてすむ……うぅ、夢が叶ったらわっち死んでも悔いはないでやんす――わっち、是非アルスラに行ってみたいでやんす!!」 高らかにそう宣言した彼の言葉に、いや死んだら駄目だろう、とツッコミつつも何人かのロストナンバーが同調した。 最初に名乗りを上げたのは、金色の毛並をした狼を思わせる男。彼は重々しく頷くと、人体模型に手を差し出してきた。「竜刻を加工した道具か……、竜刻使いの話は聞いたことあるが、道具は初耳だな。って、綾のチェンバーにいた人体模型じゃねぇか、確か……ススムだったか? その観光、俺もついてってもいいか?」 「もちろんでやんす!」そういって嬉しそうに握手をするススムを見て穏やかな笑みを浮かべながら語りかけてきた者がいる。 透き通るような肌、雪を思わせる純白の髪。ピジョンブラッドの瞳に澄んだ鈴を思わせる声音が印象的な、青年だった。「はじめまして。竜刻を加工した道具……面白い話だね。人の手から生み出される叡智の精髄には興味をひかれてやまないよ。よければ僕もご一緒させていただきたいのだが、どうかな?」「私も行きますぅ☆」 次いで声を上げたのは、縦縞のユニフォームを身に纏い銀樽を背負ったアルバイター少女。ぶんぶんと腕を振り回しながら、そう言ってくる。「確かアルスラってぇ、アゴラ隊のイリアさんが『竜刻を使った最新技術』が見られるって言ってた場所ですよねぇ!? 行きます行きます、一緒に行きますぅ☆」 断るなんて言わせない、とばかりに一息で自己主張を簡潔させた撫子が、不意に夢見る少女の瞳になってあらぬ方向へ視線をとばし、うっとりと呟いた。「最新技術……何て魅惑の響きでしょぉ……」 男性陣が軽く引いている様子を見せた事には気づいていない様子である。「ススムくんとやら、いつぞやの女子高潜入では世話になったのじゃ。竜刻を加工した道具とやら、わたくしも興味がある。ぜひ同行したいものじゃが、いかがであろう?」 最後に語りかけてきたのは、セーラー服にハーフパンツという出で立ちの少女。 すらっとした手足は未成熟な少女のそれだが、整った顔立ちとあわさって、将来の姿は大変魅力的なものになるであろうと思わせる美少女だった。「こんなに――こんなに集まってくれるなんて、わっち感激でやんす。これでわっち、遠く見知らぬ砂漠の地でうっかり魔力を切らして粗大ごみならぬ粗大ミイラなんていう結末を心配しないですむでやんす!」 ひとしきり感激の言葉と涙を吐き出したのち、集まった面々をぐるりと見渡して、人体模型は音頭をとった。「わっち、是非とも竜刻道具製作者さんに会ってみたいでやんす!!行くでやんす、アルスラ探索!!」「「「「おー!」」」」 ノリもよく全員がこぶしをつきあげたところで、人体模型がぐるり、と体を振り返らせる。 視線の先、見下ろせるくらいに背の低い犬型の獣人秘書が、痛みをこらえるようなしぐさでこめかみをもみほぐしていた。「というわけで、なんかそういうチケットが欲しいでやんす」「そういうって……」 苦笑を隠せない声でそう答えたアインだったが、「そういうことならば」、とチケットを取り出す。「依頼を受けていただける人を探す手間がはぶけました」 そういって、アインは依頼の内容を五人に説明してくる。「アルスラは不可思議な地です。確かに近隣の砂漠には大河が流れているので、水脈もないことはないのでしょうが――それにしても彼のオアシス都市の水量は異常といってよいものがあります。また、水源は地下ではなく、都市の中心となっている自然建造物、つまりは巨大な岩の内部からのものであるようです」 そこで、と彼は続けた。「みなさんには、その内部の秘密を、探れる限り探っていただければ、と思う次第です。――問題は、その巨岩の深部はイル=サルハーンと呼ばれる人物と、それに従う関係者の一族しか入れない、という点です。ぜひ、皆様におかれては、その英知とやる気を絞り出して、依頼の達成を目指してくださいね」 にっこり、と笑うアインだったが、目は笑っていない。 わがままを言うなら、その分働いてくれないと許しませんよ? という無言のプレッシャーが襲ってくるのを、ロストナンバー達は感じていた。「あぁ、そうそう。内部の事を知る人物についての情報を調べていたところ、アルスラ都市内の工房街で代表者を務めるユージンという人物の名前が挙がりました。人口構成的に多数にあたるドワーフではなく、一般的な人族にあたるようですね。こちらの方を訪ねてみられるとよいかもしれません。――機密にあたることを易々としゃべってくれるとは限りませんが」***************************************「行くな!! 行っちゃならん!」「どうして? お父さんだって昔は奥津城で働いていたのに、どうして私はダメなの?」「それは――」 それは、ロストナンバー達がアルスラを訪れる事になる数日前に遡る。「ほら、言えないじゃない。折角特別に招集されて奥津城のマイスターに仕える事ができるんだもの。私はそこで修行をして立派なマイスターになりたいの。それでお父さんの仕事を継ぐんだから! それを邪魔するのは、お父さんであっても許さないんだからね!」 16歳の少女は、年に似合わないはっきりとした物言いで、彼女の父に言い募る。 父親はといえば、少女を招集にきた吏員に視線をちらと投げかけては、何事かを少女に伝えようと口を開きかけ、そしてまた閉ざす。「レミィ殿。そろそろお時間ですので――」「あ、はい。ごめんなさいねうちの父が引き止めちゃって。さ、行きましょ」「レミィ!」 くるり、と身を翻し出ていく少女の名を呼ぶ男の名はユージン。 ドワーフのマイスター達の中に混じってアルスラ工房街の代表者を務める、凄腕の竜刻加工師だった。 普段は職人肌で沈着冷静、冒頓な人柄で知られている彼はしかし、今かつてないほどの狼狽を見せていた。 そんな父を振り切るように、娘のレミィは家の軒先を潜る。 最後に振り返った時、少しだけ申し訳なさそうな顔をした少女だったが、これがいずれは父の為になるのだと自分に言い聞かせ、岩城への道を歩む。 残された父は、机に片肘をつき、疲れたように椅子に体重を預けるしかなかった。「行ってはならんのだ、レミィ――15の娘への招集……10年に1度の大祭の為に、決まっているではないか……10年の水の為に、私は娘を失わねばならぬというのか……」 しずかに囁かれた言葉を聞かせたい者は、しかしもうこの場にはいない。 ユージンは、懊悩するがままに、手近に置かれていた高度数のアルコールを呷るしかなかったのだった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>旧校舎のアイドル・ススムくん(cepw2062)オルグ・ラルヴァローグ(cuxr9072)イルファーン(ccvn5011)川原 撫子(cuee7619)ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノ(cppx6659)=========
「美味い、美味いでやんすよこの饅頭!」 「その体のどこに入っていくんだか……つーか味わかんのかよ」 「どうでやんすかねぇ、見るでやんすか? お望みとあらば内臓ぜーんぶばばんと公開するでやんす」 「いらねぇよ」 街につくなり持参した砂金を換金し、目についた露店の食べ物を買っては食すススムくん。 字義以上に開けっぴろげな彼の言葉に、オルグ・ラルヴァローグが半ば呆れつつ応じていた。 「内部事情の機密ねぇ……観光の度を越えてる気がするんだが……」 砂漠都市アルスラの目抜き通り。そこに入ってほどない辺り。 とにかく、まずはユージンって言うマイスターを探しゃいいんだっけか――そう一人ごちる彼が同行者に目をやると、そこでは楽しそうに和気藹藹と露店を見て回る少女と少女と変な物。 三人そろってあちらこちらの露店を覗いては商人と喧しく会話を繰り広げていた。 「やはりこちらでも織物等はよく使用されておるのじゃのう」 「あ、おじさまぁ。竜刻を使った品物なんかはあったりするんですかぁ?」 「わっちあれでやんす、こうなんか非生命体を動かせる竜刻の道具なんかあったりしたらほしいでやんす! いわゆる魔力電池とかそういう! 何噂ではそういうものもある? ほう、実際にそういう物を作った匠がいる! コレでわっちも自由に異世界を行き来できる身に……もう行ったきり特攻隊(?)にならないで済むでや~んす」 アルケミシュで報告されたものと似たような竜刻の守りも他の雑貨と同様に売っている露天商達に対し、三人はこれでもかとばかりに興味のむくまま質問を浴びせていく。 その内の一人が、ススムくんの願望に合致する情報を持っていたようで、ススムくんが感激したように天を仰ぎ咽び泣く。 ただし涙は目薬だったようだが。 「でもなぁ」と言葉を続ける露天商。 「あの爺さん、孫娘が死んじまったショックでアルスラを出て行っちまったからなぁ」 「なんですってー!?」 「工房街一の腕利きだっただけに惜しまれたもんだが――風の噂じゃ死んじまったって話だしな。もう誰もわかんねぇんじゃねぇのか」 下された宣告の名は絶望。しかし人体模型を捨てる神があれば拾う神もまたいるのである。 「いや、俺ァその技術、昔弟子をしていたユージンが受け継いだって聞いたぜ。物を見たことがねぇから実際にどんなものなのかはよくわかんねぇけどよぉ」 ここでもユージン。 「そのユージンさんてぇ、凄い腕のいい方だって聞いたんですけどどちらにいらっしゃるんですかぁ~?」 撫子が問いかければ、別段隠すものじゃないと商人は工房の場所を教えてくれる。が、「だがなぁ……」と言葉を切った。 「最近工房締めっきりなんだよな。俺達もいくつか小物を頼んでるんだが――」 「ほう、それは不思議じゃの……とはいえここで行かぬという選択肢もあるまい。訪ねてみようではないか。のう?」 「――ま、それもそうだ。ぐだぐだ言ってても仕方ねぇしな」 「そうでやんす、何事もまずは動いてみなきゃはじまらないでやんす! 行きやしょう皆の衆!」 ジュリエッタの提案に応じ、今回の旅に出るときの如く熱く音頭を取る人体模型。 その横で心配そうに呟く撫子の声が、砂漠の風に溶けていく。 「何だか、嫌な予感がしますですぅ……」 西の方から吹く季節風が、熱く肌を焦がしていた。 † 一人、オアシス都市を歩くイルファーンは、懐かしい物を見る目で周囲の風景を眺めていた。 「僕の故郷に似ている。懐かしい」 目前の風景と、かつて過ごした大地が重なって見える。 乾燥煉瓦や、土を固めた平たい家屋。その軒先に連なる日を遮えぎるための一枚布と、その下に陳列された数多の商品。 市を行く人々の表情は明るく、交易が盛んな地特有の、数多の人種を受け入れる抱擁力を感じさせる温かみがあった。 「――あぁ、行く先がある程度決まったのだね」 トラベラーズノートに入った連絡を見て、思いつくままに路地を歩いていたイルファーンは仲間の元へ赴くべくその身を翻す。 ふと、音が消えたような気がした。 周囲の色が急速にモノクロに褪せていき、道行く人々の気配が一枚幕を隔てているかのような感覚をうける。 その中で、一人鮮やかに色づいた少女が、雑踏の中から姿を現した。 緋色の髪。深緑の瞳。真雪の肌。砂漠に生きる人とはかけ離れた薄く青いワンピースを身に纏う、美貌の少女。 可愛らしいというより、凄絶な美という表現が相応しい容姿の少女が、爬虫類のように細長い瞳孔を白磁の青年へと向けてくる。 人ではないとイルファーンが悟ったのは、無意識になされた精神感応によるものか、或いは彼自身人に非ざる者である為か。 「君は……実体ではない、いや、そもそも生きている者ではないのかな」 凍った滝のように巨大な存在感をもちながら、生の気配を欠片も生じさせない少女の異質さ。 彼女が指し示したのは、街の中心部に聳え立つ、岩の城。 ――水は副次。真因は忘却されたり。贄は形代にして贄には非ず。 途端、世界に色が戻り、少女は消えた。 「一体――」 どういう少女なのか……そう考えをはせようとしたところで、再度トラベラーズノートに呼び出しのメッセージが入った。 ユージンの工房の正確な位置を伝える連絡を受け、イルファーンは一先ずその場所へ赴くこととする。 † 「道行く方々の眼が怪しいでやんす……はっ、もしやわっちが高級檜材であることがバレている?! いやぁ、モテる漢は辛いでやんすな~」 ふらふらと工房街へ向かい歩く四人組。そんな中で口が閉まる気配が一向にない人体模型が、両の手で自分自身を抱きしめるようにして身悶える様に、オルグがいささかげんなりした様子でツッコミをいれた。 「モテるっつーのはちげぇだろ――どうしたジュリエッタ」 「いや、水の都に育ったからかのぅ。乾燥した空気やこの街の造り、何とも興味ぶかい」 目抜き通りから外れ、落ち着いて周囲を見物できる程度の人通りとなったためだろう。周囲を見渡し、散在する露店に視線をやりながら、そう応える少女に、オルグは首をふって再度問を重ねる。 「そんな感じにゃ見えなかったぜ。どうにも心配ごとがあるって様子だったがな」 「――ふむ。ないことはない。竜刻を使った道具とやらのこと。かつて依頼で一度竜刻を発動させたと思った時があるのじゃが……凄まじい力じゃった。兵器として悪用される類のものでなければよいが、と思っての」 「そういうことか」 オルグが得心した、とばかりに頷く。 「まぁ道具は道具、全ては人次第だろ」 「そうじゃな――ススムくん殿の望みが叶う程度なら大いに結構なのじゃがのう」 そう言ってジュリエッタが視線をやったその先にいたのは、ユージンの工房の正確な位置を聞き出そうと道行く人を呼び止める撫子とススムくん。 「へい、わっちは旧校舎のアイドル・ススムくんってぇ名前のケチな人体模型でやんす。高名なマイスター、ユージンの旦那に弟子入りしたくてやって来やした……旦那の家はどこでやんしょう?」 「人形が動いたァ!?」 「あぁん、お待ちください。あ、そうですぅ。この人形を制作したユージンさんの工房を探しているんですぅ」 騒がしい二人の様子を遠巻きに眺め、オルグは「おい」とジュリエッタを肘でつついた。 「教えてやらないのか? お前のセクタンで目的の場所を探し終わってるって」 「あやつら聞かない内に突っ走っていく輩じゃからのう。折角であるしもう少し眺めて楽しんでいてもよい気がするのじゃ」 「ちげぇねぇや」 † 「魔力乾電池みたいな竜刻加工品が欲しいでやんすよ! 是非わっちを弟子に……ってアラ?」 イルファーンと合流して後、工房を訪ねた一行。勢いよく開いたドアから流れてくる空気が宿すのは、アルコールの気配。 「うぉ、酒くせぇな」 オルグが思わずそう漏らす中、室内の人影が入口へと視線を向けてきた。 「何だ貴様ら――工房に用なら遠慮してくれ。俺ぁ見ての通り忙しい」 ぶっきらぼうにそう言い放ち、グラス一杯の酒を一気に煽る男。 体格は横にも縦にも大きく、鍛えられた体から発せられる存在感は確かなものがある。 「いやちょっと飲みすぎだろオッサン」 再び呟くオルグ。彼の言葉通り、机の上には十数本の空いた酒瓶が転がっており、今正に最後の一本が空になったところだった。 おそらくはこれがユージンであろう、見て取った撫子とイルファーンが、一行の中から歩み出る。 「貴方が飲んだくれるほどの事なんですよねぇ……私達に出来る事なら何でもしますよぅ?」 最初に声をかけたのは撫子。 床に膝立ちするような姿勢でユージンを見上げる形を取ると、真摯な表情でそう訴えかける。 「万病の薬とはいえ限度がある。悩みがあるなら話してみてはくれないかい」 さらに重ねられたイルファーンの言葉はユージンの耳に心地よく響き、不思議な信頼感を抱かせるもの。 それでも生来頑固な性分が、いきなり尋ね来た見ず知らずの者らに悩みを打ち明ける事を良しとしない。 「帰れっつったら帰れ! 俺ァまだ飲みたりねぇんだ。そうだなおい嬢ちゃん。なんならお前が酌でもするか? なんならそこのチビ娘でもいいがな――なんだ、チビだがそっちの方が色気はあるんじゃなぐがっ」 嫌なら帰れ、と言い放つべく悪態をつくユージンだったが、頭を温かな鈍器で殴られ悶絶する。 「痛ぁ……でもこれは素面の貴方でないと相談できないんですぅ」 まだ足りないならこうですぅ! と言ってギアがら出した水をユージンの頭からかける撫子に容赦の二文字はない。 「ちょっとまて! わかった、わかったから勿体ねぇことするんじゃねぇ!」 そう言ってユージンが降参の意を表すと、ギアから放出される水がとまり、撫子が満足げに頷く。 「やっと素面に戻ってくれましたぁ★」 いやそれ絶対違ぇし。 明らかに別の所のスイッチのせいでしたでやんす。 こういう時ばかりは真に恐ろしい娘じゃの。 ……。 四者四様の想いが賢明に心中に収められる中で、ユージンが自身の頭を撫でながらも、もう一度ロストナンバー達を見渡す。 「何も言わんしさっさと帰れ、と言って引っ込むような感じじゃないが――それでももう一度言うぞ。帰れ」 その瞳に先ほどまでの濁った様子はない。物事に真摯に打ち込む職人の、真実を見通す真っ直ぐな視線。 五人はそれぞれで一度顔を見合わせて意志を確認し、頷き合う。 進み出たのはアルカイックな人体模型。 「わっちらはユージンさんにお願いごとがしたくてきやした。あっしは竜刻製の魔力乾電池が欲しかったり、その作り方を教えてほしいと思っているでやんす。でもそんなことは今はおいておきやしょう」 そう言って一息ついた人体模型は、見開かぬ目をユージンにぴたりと合わせ、頷いて見せる。 「旦那のような御方が昼日中から酒を浴びるように飲むほど困った事態に見舞われていらっしゃる。それなのに何もしないで済ますのはわっちらの気持がおさまりやせん」 「――酔えないのさ」 ぽつり、とユージンが呟く。 「どうしてこうなっちまったのか――まぁいい。俺にはもう秘密を守る義理も義務もねぇからな。俺が知ってる限りは話してやろう……そして無駄なことだとわかったら、さっさと帰ってくれ」 † ユージンが訥々と語っていくのは、砂漠の街に伝わる必要悪の因習。 そして、己の娘がその為に連れて行かれたのだということ。 何故それがなされるのか、どういう手順なのか――それについては一切知らないということ。 「大祭と呼ばれちゃいるが、あくまで知っている連中の間でだけ。実際は秘祭だ。イル=サルハーンと呼ばれる連中――儀式の一切はこいつらが取り仕切る。俺達が奥津城で働いていたころに知っていたのは、10年に1度少女がその一角に連れていかれる事、その後帰ってきた者はいないこと……その結果として、このオアシスには溢れる水が維持されていること。その程度だ」 それで、どうするんだ――そうユージンの目が問いかけてくる。 「イル=サルハーンはこの国を取り仕切る機構の最上層部にいる奴らだ。この都市を作り上げた一族の末裔にして、砂漠地帯のオアシス都市を統合し一つの連合国家へと変えた連中だ――人一人が何かしたいと思ったからってどうにかなる連中じゃねぇ。諦めるしかねぇんだよ」 そういうと、「酒が切れちまってる――買ってくるから帰ってくれよ」と言いつつ立ち上がるユージン。 だが、ロストナンバー達はその前を動こうとしない。 「大祭の起源、娘一人の命がどう捻りゃ十年分の水に変わるかが何であれ……気に入らねぇな。まだ十五の娘を騙して、知りもしない政の為の生贄にしようなんてよ……!」 まず口を開いたのはオルグ。苦々しげな声が、くだらない因習への憎悪を如実に示す。 「1人の人の死と大多数の緩慢な死なら、わっちは迷わず目の前の1人を救うでやんす。旦那方とお嬢方はどうでやんすか」 そう言って仲間に問いかけるのは、人体模型。真面目な声が保たれる微笑みとの間に不思議なミスマッチを感じさせる。 「初めにここを都市にした人が居るように、全ての出来事には始まりと終わりがありますぅ。例え今アルスラが水を失っても、この高い技術力で水を買い、他へ移住する事は居を定めた時よりずっと簡単な筈ですぅ。戻った娘さんとこの地を離れ、真相を知った娘さんの心を貴方が守れる覚悟があるなら……私達が娘さんを迎えに行きますぅ」 決意とともにそう語るのは撫子。強い意志が宿る瞳が、ひたとユージンを見据えている。 一行の中から、ジュリエッタが進み出て頭一つ以上背丈の違うユージンをしっかと見据え、訴えかけた。 「わたくしは以前同じく生贄を捧げ生活を守る島で魔物退治を経験したのじゃ。湖の異常な水量……奥にいる『何か』と契約しておるのか? 十年ごとの贄で良いと溺れ、自力で水を確保する頭がないなどと怠慢でしかないわ。娘御はわたくしと同じぐらいとのこと、人ごとではない。どうか信じてほしいのじゃ」 「何があるかわからん。本当は想像とは違って別のなにかのせいかもしれんし、水のためだけじゃないかもしらん。それでも――娘を助けてくれると、そういうのか?」 問いかけてくるユージンの瞳には、まだ迷いの色がある。 娘は私。だが水や、儀式は公のもの。他の民を路頭に迷わせてでも己の私心を優先すると定める事――その一点への迷いが、晴れていない。 「この世に移りゆかない物なんてありません☆ 変わる時が来たから私達も来た、そうお考えくださいぃ」 にっこりと笑って、撫子が頷いて見せた。 「待ち受けるのが緩慢な死を他人に強要する世界かもしれない――それでも、か?」 「緩慢ならまだ対策が取れるってコトでやんす。1人を見殺しにして生き長らえる世界ってぇのは、どこか間違っておりやす……特にそれを本人に教えない世界は。見過ごせないでやんすよ」 人体模型が主張した。 「こうなるのが娘の運命だったのだと、そう言ってもか?」 「幸福は人の手で掴みとるもの、でなくば神はどこまでも増長する。増長した神はさらなる災いをもたらす悪しき鎖の環……運命や宿命を逃げ口上にするのは卑怯だ」 イルファーンが、玲瓏とした響きの中に厳しさを含ませ、そう言い切った。 しばしの瞑目。そうしてユージンは、意を決したように口を開く。 「わかった――俺の知る限りの奥津城への情報を教えよう。娘を……頼む」 「ユージンの旦那はレミィお嬢と2人で逃げる準備を……為政者ってぇのは怖ろしいものでやんすから」 「――お前らも気をつけろよ」 ススムくんへ返された言葉。返事はない。 ただ、全員の顔に「任せてくれ」とでもいいたそうな笑みが浮かんでいた。 † ぎぃ、と鈍い音を立てて重い扉が開かれる。 中に溢れるのは白色の光。 奥津城と呼ばれる岩城の奥深くの一帯。その更に深奥、地中深くにある巨大な広間がそこにはあった。 地下奥深くより湧き上がる水の中で、一人の少女が放つ光が、部屋全体を満たしている。 扉を潜り入ってきた数人の男が密やかに言葉を交わす最中、部屋の灯りがだんだんと弱くなっては再び明るさを取り戻す、という周期を繰り返す時間が続き、やがて再び安定して力を放出し続けるようになった。 「――今の者は、持って十日というところか」 男たちの中で最も高位にある男がそう見て取った。 「儀式の準備を急がねば、な」 そう言っていくつかの指示を出すと、男は部屋を出た。 † 鈍い音が、周囲に響いた。 「軟禁状態で助けるのは難しいと思っておったがの――」 呆れたようにそう言うジュリエッタの目前で崩れ落ちるのは、この階層の入り口を警備する兵数名。 ユージンから見張りが入れ替わるために若干手薄になる時間を待って決行された潜入は、非実体となり内部から侵入を手引きしたイルファーンの働き、ジュリエッタのセクタンであるマルゲリータにより先行して警備の動きを探る等の手法により概ね順調に進んでいた。 その中で運悪くであった警備兵は、オルグや撫子により気絶させられていく。 鈍い音は、撫子がたまさか一人でいた運の悪い警備兵を壁に叩きつけた音である。 「これでぇ、全員分確保できましたですねぇ☆」 そう言いながら追いはぎの如く警備兵の服をはがすと、最後までユニフォームのままで行動していた撫子自身が、上から被って変装を行う。 「容赦ねぇなしかし――なぁ撫子よ。お前、『変わる時が来たから私たちも来た』っつってたが、ほんとにそう思ってんのか?」 オルグ自身の感覚では、「撫子は嘘をついている」ように見えた。 「嘘も方便ですよぉ☆ でもユージンさんに言った事は本気ですぅ☆ 物事には変わり時がありますからぁ」 実際のところどうかはわかりませんが、今がきっとその時だって思いは変わらないんですぅ。 そう言い切った撫子が、ぴしっと指を天井に向けて高らかに宣言するのは、今後自身が行う事に関する明確な確信。 「魔物なら倒しますしぃ、制御に人体を必要とするシステムなら別の維持を考えますぅ。ただ殺すだけなら思考放棄の迷信ですからぶち壊して問題なしですぅ」 「――ま、確かにそうだ」 撫子の言葉にオルグも満更でなさそうな様子でうなずいた。 一行の内、イルファーンは「さらに奥を探ってみる」と告げ姿を消しているため、頼れるのはオルグの感覚とマルゲリータの視界。 「うぅん、中々囚われの姫君の部屋が見つからないでやんすねぇ」 先ほどから部屋を見つける度に無造作に扉を開いては、「あ、こら!?」と制止するオルグに怒られているススムくんが、困ったように頭をかいてみせる。 「こればかりは、手さぐりでいくしかないからのぅ」 ジュリエッタの元へ戻ったマルゲリータ。 「ひぃ!?」 不意に声をあげたのは撫子だった。 「どうしたのじゃ?」 撫子が指差す先。視線を向けたジュリエッタらが見たのは 「少女でやんすな」 「だが聞いていた感じとは違うぜ」 「というより、生きている気配がしないのじゃ」 と評される少女の姿。 イルファーンがいたら、市街であった少女と同じだと気づいたことだろう。 十字路となっている部分の真ん中に立つ少女は小さく微笑みを浮かべ、す、とある一方を指で指し示すと、その方向へと歩み去った。 「マルゲリータ、彼女を追うのじゃ」 慌ててセクタンを飛ばし視界を共有したジュリエッタだったが、視界の先にはただ廊下が続くばかり。 「行くぞ!」 オルグが走り出すと、ほかの三人もそれに続く。曲がり角を曲がった瞬間、ジュリエッタは驚愕することとなる。 セクタンの視界にはいないはずの少女が、確かにそこにいる。 ゆっくりと曲がり角を曲がりまた視界から消える少女の姿を追って、一行は走り続けた。 不思議と警備兵に会うこともないまま、数多の曲がり角を曲がり、いくつかの階段を下りた。 どこに案内されているのか――そう思い始めて久しくなった頃、とある部屋の前で少女が立っている姿が、あった。 一行が角を曲がってきたのを確認すると、すぅ、とその存在が空気に溶け込んで消えていく。 「そこに、いるというのじゃろうか」 「多分、そうですぅ」 「――罠っていうには、手が込みすぎてるしな」 「考えててもしかたないでやんす! とーぅ!」 「だからもっと慎重にだなぁ!?」 力いっぱい高級檜材の身体で扉を蹴りあけるススムくん。 はたして寝台に寝かされ、小さく、だがしっかりとした呼吸をする少女――レミィだった。 「おい、起きろ、こらおきねぇか!」 罠や敵のいないことを確認し、ずかずかと白炎を纏わせつつ部屋に入ったオルグがレミィの肩を掴んで揺さぶり始めた。 やがて眼を開けたレミィ。 その視界に映るのは、大型の狼のような容貌の男の姿。それが間近から自分を見下ろしている――起き抜けには中々のインパクトだったことだろう。 「きゃ――」 あああ、と響きかけた声は、オルグの手によって抑えられた。 「おい、騒がれちゃ困るんだよ」 「困るのはそなたじゃ!」 「女の子の寝込みを襲っちゃだめですぅ!」 そんなオルグの後頭部を、女性陣二人のブーイングと攻撃が襲う。その様をあっけにとられたように見るレミィに対して、ススムくんが常態の微笑のままに、語り掛けた。 「おはようございやす、わっちとある場所の人体模型で、旧校舎のアイドルススムくんっつーケチな輩でやんす。レミィ御嬢さん、お嬢さんの親父さんに頼まれて、お嬢を救いに来たでやんすよ」 「救いに、って――あたしは一流のマイスターになるために」 「お前は騙されてるんだよ」 まだ状況を飲み込めずにいるレミィに、生贄とされそうになっている現状と、レミィを救ってほしいという父の願いの言葉を伝えるオルグ。 「お前は一人前にマイスターになるんだ、その為にもここで死ぬわけにはいかないだろ!」 そう言い切ったオルグの台詞にしばらく考え込んだレミィだったが、やがて顔をあげて、頷いた。 「――信用するわ。でも、ここからどうやって出るというの?」 「それなんだがな……」 先ほどの攻撃の影響か、オルグが遠慮した様子で撫子に視線を向ける。 「レミィさんには、これに入ってもらおうと思ってますぅ☆」 にっこりと笑った撫子が示したのは――羊の皮を内外両側にはって柔らかく仕上げられた大袋だった。 「え、これ?」 「これですぅ」 そんなやりとりをする向こう側で、ジュリエッタのトラベラーズノートに、イルファーンから連絡が入った。 † 「生贄の姿がありませぬ!!」 悲痛な叫びが届けられた秘祭の間が一気にざわめき始める。 「警備の者は何をしていたのだ!」 「ええい早く探し出すのだ!!」 慌てふためきながらも指示を出していく何人かの声。 そんな彼らの動きが、不意にとまった。 その視線が、水面近くに立つ少女の姿に集まっていく。白磁の肌、白い髪。 朱い瞳を妖しく光らせる絶世の美少女は、ゆっくりとその身を浮遊させ、男たちが立つ大地に近い空中に留まる。 ――これ以上、祭りを続ける事あたわず。 それは、脳裡に直接語り掛けられる声。 ひぃ、と幾人かの男が声をあげた。 彼等とて人の区分にあるものなれば、心のどこかに畏れを抱く。 その思いを、声は寸分違わずに刺激していく。 ――悪しき因習に未来永劫終止符を打たなければ……この都市を祟る。いずれ水は枯れ街は廃れ人は死に至る その存在が何者なのかを、その声が、印象が、男たちに思い至らせていく。 10年に1人、人知れず命を絶たれていった娘達の集合体。 複数の声が一つの声として重なり男たちの脳裡に響き続ける。 ――私は肉を喪い奥津城の神となった。運命は廻り巡る……次の生贄は貴方達よ その言葉と同時に、風の刃が男たちの内の一人を襲った。 更に巨大な嵐と電撃が室内を満たし、水面が大きく波打つ中、大地に雷が数度落ちる。 致命傷には至らないまま、しかし確実に自分達を襲い来る現象に、祭りの準備を行っていた者達が我先にと部屋を抜け出していった。 取り残されたのは、美少女一人。その彼女が、くす、と微笑むと大地にその足をつけ、いくつかある入口の内、恐らく生贄を搬入するためであったらしい入口付近に隠れていた少女に声をかける。 「上手くいったようだね」 そう声をかけたときには、美少女は既になく、イルファーンが穏やかな佇まいを見せて微笑みかけていた。 「まぁ、それもこれもそなたが盛大に脅しておいたからであろうがのぅ」 それは、ススムくんの仮面を被ったジュリエッタ。トラベラーズノートに連絡を受けた彼女は、レミィの脱出を他の三人に任せ、イルファーンの支援にと秘祭の間へと潜入してきていたらしい。顔がばれぬようにと被った仮面を捨て去ると、イルファーンの元へと近づいてきた。 「それでは我々もそろそろ脱出するとしようか――小細工で現場の者達は騙せたようだけど、さらに上の者達がどうかまではわからないからね。早々に体勢を立て直してくるかもしれない」 「そうじゃの」 応じたジュリエッタだったが、ふと水面の中にある少女。何の変哲もない、その辺をあるいていそうな少女の姿に視線を向け、傷ましそうに眉根を寄せる。 「彼女は救えぬのかのぅ」 そう問いかけられたイルファーンが、ゆっくりと首を横にふる。 「残念だけれど、彼女からはもう生命の息吹を感じない――竜刻の強い魔力に、かなり体を作り替えられてしまっているのかも、しれない。本当ならば体だけでも引き上げてあげたいところだけれど、今はレミィ・バウマンやユージン・バウマンを急いで逃がす方を優先するしかないだろうね」 「そう、じゃのぅ……」 過去に生贄にされた少女。 その少女を救えぬ事に少しばかり以上の心残りを抱きながら、彼女は青年と共に、その部屋を後にした。 † 「お前は昔から思慮が足らん、甘言に易々と乗せられるような者が竜刻の息吹を感じ取れるわけがなかろうが!」 「だって、奥津城帰りのマイスターは皆凄腕じゃないの! 私もそこに行けば同じくらいに腕を磨けると思ったんだもん!」 アルスラからほど近い丘の上。 街を脱出したユージン親子と三人が待機する場所へ、イルファーンと、彼に抱えられて空を飛んでいたジュリエッタが降り立つ。 既に再会のやりとりをすませているはずの親子が言い争う様子にを見て、イルファーンは苦笑を浮かべ、ジュリエッタは撫子に声をかける。 「ずっとこんな調子なのかの?」 「ですぅ……再会して最初はお互い抱き合ってたんですけどぉ、その後言い争いはじめちゃってぇ」 「ったく、面倒なおっさんだぜ」 オルグが、付き合ってられん、というような様子でそう言うのを、ちっちっち、とススムくんが指を振ってたしなめた。 「それもこれも生きていればこそでやんす。今はそれを喜んでおくのが一番でやんすよ」 あ、わっち今良い事言ったんじゃないでやんしょか。言いやしたよね? そんな感じで得意げなススムくん。 「アルスラの最深部の様子こそうかがえたものの、結局詳細はきけねぇままだったしなぁ――あ、そういやぁ、どうでもいいけど魔力乾電池はどうすんだよお前」 そんなススムくんに、オルグの容赦ない質問が飛んだ。 「はっ!? そういやわっち大事な事をかんっぜんに忘れていやんした! すいやせんユージンの旦那。是非ともお師匠譲りの技術でもって、あっしの為に魔力乾電池をつくってほしいでやんす!」 「あ、私も色々最新技術ってどういうのか教えてほしいですぅ」 大切なことを思い出したとばかりにユージンやレミィに詰め寄る二人。 気圧されながらも、ユージンがそれに答えた。 「――師匠の技術ってなると、確かに伝えられたものは、ある。だがあれは条件が必要でな」 「条件、でやんすか?」 「俺の師スノッリがその技術を最後に完成させたのは、孫娘の身代わりになる人形を動かす為だったと聞いている――奥津城の秘祭で使用される技術を下敷きにして完成させたという話だが、優れた竜刻使いの力が必要で、かつ安定的な竜刻が満ちている場でしか活動できず、そのどちらが欠けてもいずれ魔力が尽きちまう。或いは定期的に竜刻を交換するか、だな」 それにだ、とユージンはすまなそうな顔を見せてススムくんを見た。 「お前さんが誰の手によって作られた人形かしらねぇが、俺はその技術が好きじゃなくてな。概要を聞いたきり、特段引き継がなかったのさ――詳細は、師匠しかしらねぇと思うが……師匠は既に死んでいるからな」 「つ、つまり……?」 ススムくんが、死刑宣告を待つ身のような雰囲気を漂わせながら結論を待つ。 「つまり、技術自体は存在するが、造ってやることはできん、とそういうことだ」 「がーん」 「ま、世の中そうそううまいこたいかねぇよな」 四つんばいになってショックを体現するススムくんの肩に、オルグとジュリエッタの手がおかれた。 「気をおとすでないぞススムくん。技術の存在は確認されておるのじゃ。可能性さえあれば、誰かが完成することもあろう――それこそレミィ殿に頼むのはどうじゃ」 はっ、と顔をあげたススムくんが、レミィの方を見やると、撫子に色々な技術の話をしていたレミィが、視線を感じて振り返る。 「レミィお嬢~! わっち、わっち、もうお嬢だけが頼りでやんす!」 猛烈な速さで接近した人体模型が、がし、と少女の肩を掴んで振り回す。 「ちょ、ちょっとちょっと一体なんだっていうのよおおお!?」 がくがくと振られたレミィの声と、懇願を通り越して号泣となったススムくんの声が、アルスラの空に高らかに響き、それに追随するようにオルグやジュリエッタ、そしてユージンの笑い声が響いていく。 † 「どうかしたんですぅ?」 笑い声が響く中で、一人西方を見やるイルファーンの様子に疑問を感じた撫子が声をかけた。 「今回の事で、何か心配ごとでもあるんですかぁ?」 「いや、そうではないけど――そういう質問をするということは、君は何かあるのかな?」 優しく問いかけるイルファーンに、撫子は首を小さく縦に振って応えた。 「当事者全てが納得出来ないなら、見過ごしてはいけないと思いますぅ。ただ、私達の考えだけで動いても駄目だとも思うんですぅ。私達はその世界の人の変革の手助けなら許されるのかなぁって」 当事者全てが納得できないから、自分達は見過ごせない。だから親子の絆を保つために動いた。 けれども、他方側からしてみれば自分達の行動こそ納得できないものであるかもしれない。 そして、自分達はこの世界に最期まで責任を持てるこの世界の民ではない。 物事は全て移り変わる、それが今なのだ。その思いに揺らぎはないが、ふとそう思ってしまった事でほんの少し思い悩んだ。 そして、出した結論がそれだった。 「そう、だね――」 イルファーンが、そんな撫子を見て目を少し細めた。 「人の智恵とたゆまぬ努力。この世でただそれだけが神威を覆す事ができる」 柔らかな声が、撫子の耳朶に届く。 「神殺しは人の業だ。……それに生贄の儀がなくなったからって即刻水が枯れると決まったわけじゃない」 ここから先は、この地に生きる人の知恵と努力できっと道が切り開かれる。 神に囚われる時代を終え、人として歩み始めること――それもまた、移り変わりの中で数多起きてきた事だから。 「それができるからこそ、人は強く、美しく――いとおしい」 「え、あ、そ、そうですねぇ……あは☆」 玲瓏たる美青年に見つめられ、愛おしいと言われ。何故か赤面した撫子が詰まりながら同意し、そして破顔した。 他の者らの笑い声にいつしか二人の笑い声も混ざり、アルスラを渡る風にのって天空へと響いていく。 † その日、アルスラに向けて軍が発せられた。 発した国の名はシュラク公国。 指揮をとるのは公王オルドル。 補佐をするは宰相サリューン。 西から吹く風が、北を襲う嵐と同時に、アルヴァクの地に吹きはじめていた。
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