『子会社の所有する工場で起きた爆発事件に端を発した黎明インダストリーの巨大スキャンダルは、ついに複数の重役が関与したとされる人身売買にまで発展し、当局は任意での事情聴取を含め、本格的な捜査を――』 ノイズの混じるテレビの中では、美人と評判の女性ニュースキャスターが静かに原稿を読み上げていた。 その声を何とはなしに聞き流しながら、男はつまみ上げた写真を様々な角度から眺めると、躊躇いも無く断言する。「うん、こいつは『封龍(フェンロン)』の道士だな」「本当なのね?」「この出雲平助、信用第一の商売で飯を食わせて貰ってるよ」 いつものくたびれた背広に身を包んだ探偵は、これまたいつものように無精髭の生えた口許を歪ませると、胡散臭そうな笑みを浮かべた。 対面に座ったパンツルックの女――コードネーム『ビー』はその言葉を受け、何事か考え込み始める。「しかしこりゃ厄介だよ。古来より龍脈を管理する一族とかで、独立自治区に近いコミュニティを形成している。限られたマフィアや役人に呪術の力を貸す事で、その庇護を得ている形だな」「個人名は明かせる?」 ようやく顔を上げた相手に、出雲は黙って電卓の表示画面を突きつけた。見る見る内に、女の表情が苦み走ったものになっていく。「悪党」「適正価格と言って欲しいな」 悪びれず答える出雲を睨みつけつつ、ビーの指が忙しなく動く。「キャッシュで出せるのはここまで。あとは物々交換って事で、うちの情報担当と直接交渉して頂戴」「毎度あり」 示された数字に、出雲は満足げに頷いたのだった。「それはそうと。聞いちゃいけない事を聞くようだけど、こんなところに何をしに? 彼等はとても排他的だし、あんまり首を突っ込むと危ないと思うけどな」 呪われると怖いしねぇ――げんなりした表情で珈琲をすする出雲に、ビーは至って真面目な表情で、「さぁね。もうここまで来ると、自分でも好奇心としか言えないわ。ただ――」「ただ?」「何故か手を引く気にはならないのよ。死神にでも魅入られたかしらね?」●ターミナル、世界図書館にて 集まったロストナンバー達の視線の先で、世界司書エリザベス・アーシュラは深々と一礼した。「皆様――」 ゆっくりと持ち上げた相貌は、悲壮なまでの決意を秘めていて。「今回は、インヤンガイのイヤ~ンな任務にも関わらずお集まり下さり、有難う御座います」 …………………………………………(ま、またつかみに失敗した――!?) エリザベス、痛恨のミス!「どうやらカンダータ軍は、インヤンガイの『呪術』という技術に興味を持っていたようです」 終わらない沈黙に耐え切れず、エリザベスは沈痛な面持ちで説明を始める。「既にカンダータへの働き掛けは始まっておりますが、こちらはこちらで、彼等がインヤンガイに遺したものを調べる必要があるでしょう」 現地の部隊を捕虜とすべく派遣されたロストナンバーの部隊。彼等は捕虜の他に『code:N(ネメシス)』なる計画の一部を記した文書を持ち帰ったが、統括者その他が謎の死を遂げた事もあって、捕虜の尋問と合わせても全てを知るにはとても足りなかった。「何より気になるのは、文書にあった『試作機』が発見されなかった事です。これに関しては、現場の状況から一つの仮説が導き出されています」 研究所内に踏み込んだロストナンバー達の前から逃亡した、謎の機械――他に心当たりらしいものが無い。「しかし、その行方は全くもって不明。つきましては、カンダータ軍に呪術を提供したと思われる人物から辿っていきたいと思います。現地の探偵に問い合わせてみましたところ、幸いにも有力な情報を得られました」 テーブルの上にインヤンガイの地図が広げられる。その一角を、エリザベスは赤ペンで大きく囲った。「皆様に向かって頂くのは、『封龍』。かの地の名称であり、そこに住む者達の名でもあるそうです」●『封龍』地区、某所にて ずっと、暗闇の中にいたような気がする。 こんなに綺麗な星空を見たのはいつ以来だろう? でも、昔を思い出そうとすると頭が痛くなる。 時間の感覚もよく分からない。 今日が何年何月何日か、そして何時何分何秒なのかまではっきり分かる。 でも、その時間が自分にとってどんな意味を持つのかが分からないんだ。 昔はもっとこう――イタタタ。やっぱり駄目だ。 こんなのは嫌だ。 何がなんだかよく分かんないけど、こんなのは嫌だ!!「何を迷う? 孵ったばかりの幼龍(ヨウロン)よ」 だ、誰!?「自分をも見失っているそなたに我が名を伝えたところで、意味はなかろう」 教えてくれたっていいじゃん、ケチ。――ねぇ、幼龍って僕の事?「そうだよ。無限の可能性を秘めし者よ。宇宙の始まりよ」 ? 言ってる意味がよく分からないよ。「しかし……青狼(チンラン)も深い業を遺して逝ったものだ」 また僕の知らない言葉だ……「ついてくるが良い。そなたが何者なのか、ヒントくらいは出してあげられるやもしれぬ」 ……………………
●幸せの在り処 風が吹いている。 廃ビルの屋上でレザージャケットの裾をはためかせながら、ビーは眼下の風景を見下ろしていた。 封龍地区――鉄とコンクリートで覆われたこの世界で多くの緑に恵まれた、極めて希少な地域だ。住人達によれば、それも全て『龍脈』の成せる業だという話だが。 『隊長』 「なに? シャーク」 通信機の向こうで口ごもった後、強面の男は意を決したかのように問うてきた。 『あれで本当に良かったのか?』 「さぁね」 『おいおい。無責任にも程があるなぁ』 呆れ返るのも無理はない。だが、彼女にしては珍しく素直に答えてみたつもりだ。 「過去の決断の評価なんて、結局は現在からの逆算でしかないわ。つまり、その問いに答える人間が今現在幸せか不幸せかよ」 『……哲学?』 「ただの現実論よ。でも――」 すっ――と、何かを見定めるかのように瞳が細まる。 「誰かが掻き混ぜなければ、バケツの水は静止したままよ。掻き混ぜる手の主が聖女か悪童かは、その際関係無いのではないかしら?」 「子供達に会わせて欲しいの」 少女の願いは突然であった。 持っていた紙コップの珈琲を思わず落としてしまいそうになるくらいに。 「何の事かしら。『犯罪被害者を救う会』の人なら――」 「黎明インダストリー、第零工場」 その言葉で全ては決まった。 ついてくるよう示しながら、ビーは建物の外を目指す。およそ場にそぐわない少女の姿に、好奇の視線が集まっているのがありありと感じられた。まさか、こんな場所で用件を詳しく尋ねるわけにもいかない。 「名前を、聞いておこうかしら」 白いワンピース姿の少女は、僅かな怯えとその奥に秘める決意を滲ませる瞳をまっすぐに向けてきた。 「コレット。コレット・ネロです」 「子供達は家の無いストリートチルドレンだったり、ご両親自らが……その……『売った』 子供だったりして、元の場所に帰す方が危ないから、ビーさんが保護してくれていたの」 陰鬱な様子でコレットは語った。ロストナンバー達もそれぞれに過去を背負ってはいるが、改めてインヤンガイの現実には閉口するしかない。 「で、何か聞けたのか?」 木乃咲 進に尋ねられ、そっと瞳が閉じられる。自分の中で整理がついたのか、僅かな沈黙の後に両の目が開かれた。 「研究所内では別々に閉じ込められていて、お互いの事もよく知らないみたいなの」 「……ま、それもそうか」 どこまでも胸クソの悪い話である。 進の顔に浮かんだ不機嫌な色を収穫無しに対するものと勘違いしたのか、コレットは慌てて言葉を重ねる。 「で、でも、その子の名前は分かったの。……自分では『ナナシ』って名乗ってたんだって」 「名無し?」 これまた何の因果か。まるで今の状況を予期していたかのような名前だ。それ以上の事は不明。試作機に人間としての記憶が残っているのなら、自宅に帰っている可能性が高いと思ったのだが…… 「ビーさんにも聞いてみたけど、何も教えてくれなかった」 「だろうな」 彼等の事だ。おそらく子供達から同じ話を聞いて調べもついているのだろうが、それをこちらに教えてやる義理は無いという事だ。 と、二人の話すテーブルに新たな人物が腰を下ろした。外套を羽織り直し、厚手の防刃ベストに黒いタクティカルブーツという無骨な出で立ちを極力人目につかないようにする。 「マフィアっぽい人達が騒がしいね。私についていた尾行も慌ててどっかに行っちゃったよ」 そう告げたディーナ・ティモネンは、早速テーブルの上の天心に手をつけ始めた。疲労には糖分が一番なのだ。うん、桃饅頭美味しい。 「何かあったのかな?」 「案外、あいつ等の仕業かもな」 ヌマブチとミトサア・フラーケンの二人は、既に封龍地区に入った自分達とは別行動を取っている。他に寄る所があるとの事だったが…… 「――クシュンッ」 「風邪でありますか?」 銃を肩から提げたヌマブチに尋ねられ、ミトサアは首を傾げた。 「そんなわけは無いと思うんだけど……くしゅんっ」 「誰かが噂しているのかもしれませんな」 「そうかもね」 軽く笑って、瓦礫の中に手を突っ込む。引っ張り出された、見るからにマフィアの男は、恐怖に顔を歪ませて泣き叫び始めた。 「あーもう。手荒な事をしたのは悪いけど、仕掛けてきたのはそっちなんだからね!?」 「いやはや。地下から潜入するという事で行動を共にさせて貰いましたが、こんな寄り道が待っていようとは」 警戒しながらヌマブチが零す。だが、必要だと思ったから止めはしなかった。 「モグラちゃんには協力を断られちゃったし、少しでも情報を集めてから行かないとね」 ここに来る前に訪ねた顔見知りは言った。 『悪いが、俺達もボランティアでやってるわけじゃないんでな。今までのがあまりにイレギュラー過ぎる共同戦線だったんだよ。お前さんの言葉に嘘が無いとも言えないしな』 喉まで出掛かった言葉をぐっと飲み込んで、ミトサアはその場を後にしたのだった。 協力する理由として、未だ影響を残す異世界カンダータからの侵略計画を手土産にしようと思っていたのだが―― (あの様子じゃ、信じて貰えるかは50%ってところかな) 味方の中には異世界という存在について現地の人間に教える事への懸念もある。独断で事を進めるにはあまりに期待の薄い賭けだ。 彼の協力を得られないのならばと、封龍と密接な関係にあるマフィアの事務所を訪ねた結果がこれである。 相手をがっちりと押さえ込みながら、ミトサアは質問を繰り返した。 「知ってる事を全部教えて」 ●龍の棲む森 進、ディーナと別れたコレットは『朱雀街』と呼ばれる歓楽街を離れ、土がむき出しになったままの道をゆっくりと進んでいた。 (インヤンガイにこんな場所があったなんて……) 特徴的な高層の建物は姿を消し、小ぢんまりとした造りの家屋が整然と並ぶ。軒先に吊るされた風鐸が風に揺れ、涼しげな音をコレットの耳にまで届けてくれた。 周囲は田んぼや畑ばかりで、壱番世界の田舎にいるような気分になる。遠くには鬱蒼とした森も見る事ができた。 「あら。こんな所で会うなんて奇遇――なのかしらね?」 艶やかな声に振り向くと、数時間前に見た顔がそこにはあった。 「お仕事ですか?」 「えぇ。もっとも、体良く追い返されちゃったけど」 肩をすくめてみせたビーはコレットの隣に並ぶと、歩調を合わせて歩き始めた。 「いい所よね。空気も美味しいし。外の人間には厳しいけれども」 その視線を追えば、子供を隠そうとする母親の姿があった。 「一応、この土地のルールには従ってみたつもりなんですけど」 羽織った外套を示す。進から渡されたもので、封龍では広く使われているらしい。何でも、封龍の人間は科学的なものを嫌い、衣服も天然素材のものを好むそうだ。龍脈――ひいては自然と一体化するのが目的らしい。 「あなたの場合は、肌の白さもあるかもね。私からすれば羨ましいけど」 「それじゃあ」と、微笑みを浮かべて、ビーは脇道へと逸れていった。 手を振って見送り、コレットも再び歩みを進め始める。 その背中を視界に収めながら、ファレル・アップルジャックは大きく息をついた。 「あんなに無防備に他人を近くに寄せるとは……こっちがハラハラしてしまいますね」 誰かが見ていれば、彼は突然この場に現れたように見えただろう。その右手にはオートマチックの小銃。安全装置は二人が接触する寸前から解除されていた。 「本当は、他にもしなければいけない事があるのですが」 しかし、それを天秤に載せて迷うまでもなく。 再び、彼の姿は幻のようにかき消えていくのだった。 一方、朱雀街の食堂で食事を続ける進とディーナ。 進は懐を探ると、店主である中年の女性に一枚の似顔絵を差し出した。 「なあ、こいつを知らねぇか?」 「あんた……こいつの知り合いなのかい?」 「いや。実はデカい借金作って逃げたらしくてな。俺はただの取り立て屋。こいつはその相棒」 ディーナを指差しながら咄嗟についた嘘は、女の表情が明らかに強張ったのに気づいたからかもしれない。 先程までとは打って変わり、真剣な表情でまじまじと進の顔を見ていた女だったが、 「わざわざこんな所までご苦労さんだけど、こいつ――青狼は一族を捨てて出てった裏切り者さ。のこのこと戻って来たら、誰かが殺してると思うけどね」 例えばあたしとか――笑いもせずにふん、と鼻を鳴らす相手に、進は本気で寒気を覚えたくらいだ。 「冗談キツいぜ、おばちゃん。こっちは死なれちゃ困るんだ」 老酒に興味を示したディーナに本能的な危険を察知し、引きずりながら食堂を後にする。 (チンラン……か。こいつがここの出身なのは確定、と) だが、故郷とはあまり良好な関係ではなかったようだ。どうやら、この地も複雑な事情を抱えているらしい。 繋がりが見つかった以上、どこかに突破口はあるだろう。だが与えられた時間は決して多くはない。ビー達に先んじようと思えば。 「やっぱ、本丸をつつくのが一番かねぇ」 「賛成、かな」 二人の視線の先には、この地の道士を束ねるとされる人物の屋敷がその存在を示すように鎮座していた。 強烈な悪臭を漂わせる暗闇に、靴が地面を叩く硬い音だけが響き渡る。 周囲を警戒しながら進む中、ミトサアは懐から一枚の紙片を取り出してじっと見つめた。 それは、0世界と各異世界とを行き来する為に必要なロストレイルの乗車券。 欲を言えば、ここにもう一枚余分にあれば良かったのだが。 「世界図書館の許可は下りませんでしたな」 懐中電灯を手にしたヌマブチがぼそりと呟いた。反対の手には銃を提げ、いつでも発砲できる状態を保っている。 「うん……」 今回の任務への出発前。試作機を発見した場合、事と次第によっては0世界への保護が望ましいと考え、同じ想いを抱く者が連名でその旨を伝えたのだが、 「<真理>に覚醒したわけでもない存在を0世界へ連れてくる事は非常に高いリスクを抱える事になります。私達にとっても、本人にとっても。現地に留め、世界への干渉を最小限に食い止めるよう努める方がベターであると結論づけられました」 カンダータ軍のように、自力で世界を渡る術を身に着けた者達の場合は、話は変わってきますけれども―― そう言葉を結んだ世界司書のエリザベスは、要望を通せなかった事への謝罪の意味も含めて、深く頭を垂れたのだった。 「問題が複雑に絡み合っているので、世界図書館も判断に悩むところなのでありましょうな」 「そうだね。そして、いつも犠牲になるのは力の無い弱者だ」 今回の事件もそういった側面を孕んでいる。やり場の無い怒りを感じるのと同時に、それが厳然とした現実なのだと冷静に見つめている自分自身をミトサアは実感していた。 強い光に慌てて逃げるドブネズミの姿を視覚センサーに捉えながら、鋼鉄の腕がさっと上げられた。 「誰かいる」 その言葉に、ヌマブチは銃を構え直す。周囲に身を隠すものは無い。先手必勝で撃たなければ危うい。 やがて角の向こうから反響する足音が聞こえ、顔を出したのは―― 「何だ、お前さん本当に来ちまったのか!?」 数々の通信装備を背負った髭面の男――モグラであった。 「そっちのも見た顔だな? 『ただの通りすがり』さんよ」 「いえ。今回も偶然通りすがっただけでありまして」 お互い引き鉄に指を掛けた銃を下ろしながら。生真面目な表情で放たれる一言に、モグラは忍び笑いを漏らした。 「こんな場所を散歩してるってんなら、同じ趣味人として歓迎するがな。――道士の線から探りに来たか。黎明をつつくよりはよっぽど賢明だな」 モグラの先導で、三人は自然と一緒に進み始める。何も言わないところをみると、今回も「イレギュラーな共同戦線」とやらを覚悟したのだろう。 「玄武街に到着っと」 マンホールを押し上げて表に出れば、そこは殺風景な荒れ地だった。 「南に高台があるのが分かるか? あの一帯がこの地区の中心部『黄龍街』だ。ここの顔役は揃って優秀な道士だし、死んだ道士についても何か知っているかもな」 「わざわざありがとう」 「なに、いつぞやの借りを返しただけだ。これで、ネタの奪い合いになっても恨みっこ無しってな」 口許を歪ませると、モグラは装備を担ぎ直して去っていった。やはり目的地は同じようだ。 「ボクは一気に乗り込んでみようと思うけど、ヌマブチちゃんは?」 「自分ではついていくのも一苦労でしょう。別口で中枢に潜り込んでみるつもりであります」 模範的な敬礼に、ミトサアも踵を揃えて敬礼を返した。 「では、ここで一旦お別れであります……頼むから誤射はしてくれるなよ」 ●真実は闇の向こうに 欠けた月が見守る中、進はぼさぼさの毛先を揺らしながら地面に降り立った。 「お邪魔させて貰いますよっと」 そのまま滑るようにして地面の途切れる箇所まで進む。建物の屋根の上から見下ろした敷地内は、予想に反して静まり返っていた。 「地区の境界線で網を張っているとはいえ、裏で数々の要人を呪術によって暗殺してきた『封龍』の長の自宅とは思えないわね」 聞こえてきた声に慌てて振り向く進の鼻先を、僅かな月光を跳ね返す白刃がかすめていった。 「よっ、とっ、ハッ……!」 次々と繰り出されるナイフを、踊るようなステップでかわす。大きく跳び退って距離を取ると、相手はすかさず反対の手に銃を取り出した。 「OK、流石にあんただって、連続三回も味方を銃撃するつもりはねえよな? いや、無いと言ってくれ、頼むから」 進はその場に立ったまま両手を上げた。どうせ相手は分かっている。 「何よ、いきなり白旗なんて面白くないわね」 「冗談にしてはあんまり笑えないかなぁ」 耳元で囁かれた涼しげな声に、今度はビーが降参する番だった。 「一度一対一(サシ)で戦ってみたいっていうのは、わりと本気なのよね。ま、あんた達が動いてるのを分かっててからかったのは謝るけど」 それぞれの得物を収め、改めて目的地へ視線を移す。 玉砂利が敷かれ、朱色の柱が目立つ風景は、壱番世界の神社を彷彿とさせる。かの施設が祭事の時以外はそうであるように、ここも生活臭を感じさせない独特の静けさに満ちていた。 「知ってるかもしれないけど、昼間は追い返されたのよね。……どう思う?」 「それは事情に詳しいあんたの方が、察しがつきそうだけど」 「警備の人が皆揃って夏休み中とか」 「「……………………」」 本気なのか冗談なのか判断できない表情のディーナは何を思ったか屋根から下りると、堂々と庭の中心に歩み出ていく。 「バ――!」 慌てて止めようとする進だったが、一瞬の目配せを受けて足を止めた。 (囮になる気か……?) この暗闇の中でもディーナは当たり前のように見えているらしく、その動きに危なげな様子は一切無い。 「ごめん、誰かいるかな? ちょっと聞きたい事があって『封龍』の長に会いたいんだけど」 返事は無い。不気味な静寂だけが横たわっている。 ディーナはさらに歩みを進めた。進が投げナイフを指の間に挟み、ビーも銃を構えて一瞬の変化も逃すまいと警戒している。 「誰か――」 銃口が火を噴き、ディーナに跳びかかろうとしていた影を弾き飛ばした。一方では進も能力によってナイフを「飛ばし」、別の標的に突き刺している。 「何だこりゃ!?」 「狛犬……だっけ」 咄嗟に伏せていたディーナは立ち上がると、既に抜いていたナイフを地面に転がった石像に向かって振り下ろした。キン、と硬い物同士がぶつかる音がする。 「ロボット……ってわけでもなさそうだな」 ナイフで傷のついた部分から見える中身も、灰色一色の綺麗な石目。 「呪術ね。油断していたわ」 二人が振り向くと、ビーが石像から何かを引き剝がしたところだった。人差し指と中指に挟まれ、手のひらサイズの紙片がヒラヒラと揺れる。その表面には文字とも文様とも取れる不思議なデザインが朱墨で描かれているのが確認できた。 「暗殺用として使用される事が多いから、警備員代わりに配置しているとは思わなかったわ。人間の歩哨と違って、抑止力は期待できないしね」 現に自分達も、こうして侵入し襲われる羽目になった。つまり―― 「最初から殺すつもりで誘い込まれたって事?」 「詮索は後だ。今度は大物だぜ」 進の声に続いて、確かな地響きが背後から迫る。 そこでは正門の両脇に控えていたはずの一対の仁王像が、ゆっくりと巨体を振り返らせてこちらへ向かって来ているところであった。 見上げる進の頬を汗が伝う。 「こいつは解体するのに骨が折れそうだな」 「簡単に逃がしてもくれなさそうだよ」 ディーナの言葉通り、周囲の気配は増える一方であった。空には鶴らしき影も大きく羽ばたきながら旋回している。 その時だ。 「でやあぁぁぁっ!」 風切り音と共に小さな影が宙を舞い、仁王像のこめかみに爪先をめり込ませた。その質量からは想像もできない事だが、激しい衝撃は見事仁王像の一体を横倒しにする事に成功する。 もうもうと舞い上がる砂煙の中から最初に姿を現したのは、この暗闇の中でも色鮮やかな紅。三人の元に歩み寄ったミトサアは、幼い顔とは対照的に精悍な笑みを浮かべた。 「ボクも手伝うよ。突破して建物の中に入っちゃえば、大型の敵は入ってこれないんじゃないかな?」 ここまで来た以上、行けるところまで行ってみるのも面白い――そんな事を思ったかどうかは定かではないが、誰からも反対の声は上がらなかった。 「朱雀街でも騒ぎが起きているようだ! ここからではあっちの方が近い、急げ!!」 突然の銃声に騒然となり始めた深夜の封龍地区に、男の声が木霊する。 一斉に南の方角へ駆けていく無数の背中を見送り、頭からすっぽりと外套を被った人物は口許の布をずらした。 「某も急がねば」 口をヘの字に結んだヌマブチだ。今の彼は外套の中身も道士の格好で、いとも簡単に人気の少ない中枢部にまで潜り込んでいた。 「悪く思うなよ」 下着姿で縛り上げられ、路地裏のダストボックス内に放り込まれた男には申し訳無い事をしてしまったが。 嘘の情報で誘導した者達に背を向け、族長の屋敷とされる建物へと向かう。と、そこで彼は眉根を寄せて訝しげな表情を浮かべた。 (あれは……?) 石段を備えた道を外れ、茂みを揺らして斜面を登っていく影が複数。動きは悪くないが、前方に気を払い過ぎだ。もっと神経を全方位に向けなければ、戦場では生き残れまい。 「ありゃ黎明の保安課だな。嫌な予感がしやがるぜ」 はっとした次の瞬間には、お互いの銃口が相手の額に突きつけられていた。 指を引けばお互いの命が絶たれる状況の中で、シャークが肉食獣を思わせる笑みを浮かべる。 「モグラから話は聞いてるぜ。何の仕事か知らねぇがご苦労なこった」 ヌマブチも銃を構えたまま、無表情に視線をぶつける。 「よく一目で分かったな」 「蛇の道は蛇ってな。同業者には歩き方一つで分かるもんさ。道士は軍人じゃねぇし」 そこで二人はようやく銃を下ろすと、物陰から相手の様子をうかがった。 「あの中にゃ今、うちの鬼隊長が潜入している。お前ぇさんの仲間もなんだろ?」 無言でうなずきながらも、ヌマブチは頭の中で彼我の数、周囲の地形等の情報を整理して具体的な突破策を練り始める。 (時間を掛けてしまえば、立ち直る時間を与えてしまう。某一人では火力が足りないな) 「このままでは袋の鼠でありますな」 「なーに、鼠を狩る為に猫が投入されたってんなら、犬が蹴散らしゃいいだけよ」 どうやら何とかなりそうだ。シャークの装備は、今構えているアサルトライフルに加え、反対の肩に担いだグレネートランチャー。勿論服の中にも小火器を備えているだろう。 「行くか?」 「応」 それだけで、もう言葉は要らぬ。 二人はそれぞれの役割を果たすべく、行動を開始した。 ……ハッ、ハッ……ハッ、ハッ…… 乱れる動悸が胸を締めつける。それでも、彼女は足を止めるわけにはいかなかった。 (行かなくちゃ……!) 走るのに邪魔だからと既に外套は脱ぎ去り、白いワンピースの裾を揺らすコレットの姿と銃声の奏でるBGMが、ちぐはぐで不可思議な世界観を作り出している。 荒事は苦手だし、足を引っ張ってはいけないと、宿で待っているつもりだった。それが自分にできる最大限の事なのだと。 だが。 もしも――もしもだ。「あの子」がすぐ近くで孤独と戦っているのだとしたら。 そう考えたら、居ても立ってもいられなかった。 石段を駆け上る。息が苦しい。ふくらはぎはとうの昔に悲鳴を上げている。だからどうした! 「おい、あの子供――!」 正門まであと少しというところで、銃を手にした何者かが目の前に立ちはだかった。 「止まれ! 現在、この付近一帯は極めて危険な状況にある。すぐに立ち去――」 「どいて!!」 自分にこんな大きな声が出せたとは驚きだった。 その覇気に相手は一瞬気圧されるものの、冷静に銃を構えてコレットの足に照準を合わせる。 「もう一度だけ警告する。止まれ! 止まらねば撃つぞ!!」 無論コレットとて、止まるつもりならばとっくに止まっている。相手もあくまで通過儀礼のつもりなのだろう。 タンッ 無慈悲な銃声が木霊した。 「貴方という人は――死ぬつもりですか?」 コレットの前に突然現れたファレルは頬を伝う汗を拭うと、倒れた男に向かって立て続けに銃弾を叩き込んだ。四肢が数度、痙攣するように跳ね、やがて地面に大きな血溜まりを生んでいく。 「ファレルさん……」 その姿が一瞬霞み、石段に小さな穴が穿たれる。「な、何だ!? 確かに当たったはず……」、動揺からか思わず声を上げてしまった次の瞬間、ファレルの放った弾丸がその人物の頭蓋を貫いていた。 すぐに囲まれるかと思ったが、敵はどうやら別の相手に忙しそうだ。コレットを守りながらでも何とかなるだろう。 「もう少しで核心に迫れたのに、全てが台無しですよ。――他の方と試作機はこの建物の地下です。急いで下さい」 「は、はいっ」 「ここが終着駅、かな?」 階段から姿を現したミトサアは、空間の広大さに思わず上を見上げていた。 灯りが乏しい事もあって天井は薄闇に呑み込まれ、タイル状になった床に余計な物は一切無い。 おそらく、外から見えた高台の部分にこの空間はすっぽりと収まっているのだろう。 表の屋敷と同じく宗教的な構造に沿って目を走らせれば、一番奥に小さな祭壇を見つける事ができた。 そして、そこに佇む人影にも気がつく。 「よくぞ参られた。思いの外大人数で驚いたが」 ゆったりとした衣服に身を包み、深く皺の刻まれた顔を向けるその人物は、その声を聞いても男性か女性か分からないような不思議な雰囲気をまとっていた。 一斉に身構える者達を前に、なだめるように手を動かす。 「ここに呪術は仕掛けていない。安心召されよ」 勿論、その言葉を鵜呑みにする者はいない。 「あんたが族長だな? ついさっき殺されそうになったんだけど」 「非礼は詫びよう。そなた等の力を試す必要があった。この幼い龍を守っていくだけの力があるのかを」 「おいで」――声に応じて祭壇の上に姿を現した影に、全員の目が見張られた。 『ねぇねぇ。あの人達、誰?』 実際にその姿を見た事のある進やビーに視線を向けると、彼等は揃って首を縦に振った。間違い無い。研究所内で遭遇した試作機と思しき機械だ。 「貴方が研究者達を虐殺した犯人というわけですか。どうやら『処分』するしか無さそうですね」 あらぬ方向からの声に、またもや全員の視線が移動した。 薄い笑みを浮かべたファレルが銃を構えている。全身黒ずくめの姿は薄闇に溶け込むかのようだ。 「やめて!」 そこへ、悲鳴に等しい叫びと共にコレットが駆け込んでくる。彼女はファレルと試作機の間に割り込むと、大きく両手を広げて懇願した。 「お願い、この子を殺さないで!」 「何を言っているのです。貴方も報告書は読んでいるでしょう?」 迂闊だった。彼女の性格からして、この状況は想定できたのに。どうして一緒に連れてきてしまったのか。 二人の様子を黙って見ていたディーナがぽつりと指摘した。 「証拠は無いよね? 状況からの推測なだけで」 「でも、限られた情報で考えるなら、ボクもそれが自然な流れだと思う。本人の意志か、暴走かは別として。いきなり破壊するのは強引かもしれないけど、用心に越した事は無いと思うよ」 ミトサアの言う事ももっともだ。進は思わず天を仰いでしまう。 「ヤった、ヤってない。どっちに断定するにしろ、足りねぇのは確かな情報か」 そもそも、自分達が駆けつけた時には全てが終わった後だった。両の眼で見たものだけを本物とするならば、既に真実を知る術は失われている。 「何も知らず、真実を悟る者よ。あれを彼等にも見せてあげなさい」 『ころころと呼び名が変わるのは、分かり辛いからやめて欲しいなぁ……』 声と共に、壁面に何かの映像が映し出された。独特の機械音は、どうやらプロジェクターを介しているらしい。 ビーの視線が厳しいものになる。 「これは……」 進も姿勢を正して映像に見入っていた。 「俺達が到着する前の『あの部屋』か……?」 ◇ 『これで全員揃いましたね』 『こんな所に集めて何をするつもりかね? 今は研究資料を集めて逃げるのが先決ではないか?』 居並んだ白衣姿を代表して上がった声に、見るからに将校といった立ち居振る舞いの人物はくつくつと笑う。 『あの異形の力から全員が逃げられると、本気で思っているのですか? 誰か一人でも捕まれば計画は白日の元に晒され、全てが水泡へと帰してしまうでしょう』 引き連れた兵士達が一斉に銃を構える。部屋の外ではなく、内に向かって。 先程声を上げた研究者の顔には、びっしりと脂汗が浮かんでいた。 『……どういう事だ』 『簡単な事です。――博識なあなた方なら、死人に口無し、という言葉くらい御存じでしょう?』 「っ……!」 響き渡る銃声と悲鳴、そして映像だけでも臭ってきそうな血の赤に、コレットはたまらず顔を背けていた。 映像は続く。 硝煙が満ち溢れる中を、兵士達はテキパキと手際良く動き回っていた。その中の一人が将校の目の前で敬礼する。 『隊長。紙媒体の焼却処分、終了しました。中枢ノードも<自閉化>済み。試作機は依然として発見できておりません』 『……仕方ありませんね。時間が惜しい。黎明本社に回収される事を祈りましょう』 一瞬だけ表情を歪める将校だったが、部下達を前にすれば堂々たる指揮官の風格を取り戻す。 『総員、聞け!! ――我々は志半ばにして斃れる。しかし、我々が撒いた種は必ず芽吹き、根を張り、不平等な運命への義憤を糧として大きく成長するだろう。神への反逆は始まったばかりだ。その先陣を切った事に、胸を張ろうではないか』 再び銃が構えられた。 『我等がカンダータに、栄光あれ!!』 ◇ 瞳の中に再び赤いものを写しながら、ディーナが嘆息をついた。 「これが、あの時実際に起こっていた事……?」 「モグラ、見ているわね? 人工的に作られた映像である可能性は?」 ビーの問いに、意外に近い距離から答えが返る。 「ちゃんとした設備で解析してみない事には何とも。今簡単に繋いでみていいか?」 現れた髭面の男は荷物の中から様々な電子機器を取り出すと、怯える試作機を尻目にそれぞれの顔を見遣る。 「それでそなた等が納得するのならば」 『えぇ!? 僕の気持ちは?』 問答無用でケーブルが繋がれた。 「電子戦に強い奴がいたらバックアップを頼む」 「それじゃあ、ボクが」 モグラとミトサアが画面に集中する中、他の者は暇を持て余す事になる。 と、ディーナが試作機に歩み寄り、目線を合わせるように屈むとこう尋ねた。 「キミは自分という存在に対してどこまで知っているのかな?」 試作機は族長をちらりと見ると、 『えっと……その気になれば何でもできるスーパーマンだってあの人は言ったけど、よく分かんないや』 「それなら、私が知ってる限りのことを話す……落ち着いて聞いてね?」 ディーナは語った。 黎明インダストリーによって行われた研究の事を。 その中で罪を償おうと足掻いた男がいた事を。 そして、研究の犠牲にされたのが、他ならぬ『ナナシ』である事。 「間に合わなくてごめん……助けられなくて、本当にごめん」 まるで自身の罪を懺悔するかのように、瞑目したディーナは静かに肩を震わせた。 『僕の名前は、ナナシ……』 どうやらそれすら知らなかったようで、試作機は確かめるように何度もその名を呟く。 と。 「封龍街の地図が捻じ込んである。こいつはこれを頼りにここまで来たのか。――何だこりゃ? こんだけガチガチの防壁の中、ノーガードのテキストファイル……?」 「容量は1KB(キロバイト)だって。ウィルスは無さそうだけど、開くなら気をつけて」 その報告に、全員が画面の前に集まった。 注目が集まる中、表示された文字は。 イキロ 誰も、何も言えなかった。 「……取り敢えず、さっきの映像に手が加えられた痕跡は見つけられなかった。プロテクトが堅くて浅い部分しか探れなかったけどな」 モグラが淡々と語る。 「ただ……」 鉛色の構造を隅から隅まで観察しながら、ミトサアも口を開いた。 「この子、何の武装もされていないみたいだ。火器管制ソフトも見つからなかったし」 それでも。ファレルは経験者として「全てが最悪の方向へ転がった時」を想定して話をせずにはいられない。二度と大切なものを奪われない為に。 「全てが机上の空論である以上、リスクとなる要素は全て排除するべきだと思うのですが――」 そこで見てしまった。 「試作機」改め「ナナシ」のカメラを濡らす水滴を。 『え、何? 僕の顔に何かついてるの?』 どうやら本人には自覚が無いようで、唖然とする一同を不思議そうに見ている。 そこへ、微かな地響きが全員の足下を襲った。同時に、それぞれの持つトラベラーズノートが光を放つ。 「ヌマブチちゃんからだ」 「なになに……『我、黎明ノ手先ト交戦開始ス』……!?」 「ようやく来おったか」 地上の方を見上げる族長に、ビーが銃を突きつけた。 「どういう事?」 「我々は試作機を一旦は確保するも、黎明が回収に訪れる前に襲撃に遭い、抵抗虚しく奪取される……そういう筋書きというわけだ」 「野郎! 連中に知らせやがったのか!」 激昂する進をビーが制した。 「黎明と手を結ぶつもりは無いのね?」 「元々世話になっている企業との関係が悪化するのでな。かといって、表立って黎明を敵に回すわけにもゆかぬ」 この地で生きていくのも大変なのだよと、彼は老獪然とした笑みを浮かべたのだった。 「あ、まただ」 「今度は『父、危篤。スグ帰レ』ですか……相当追い詰められているようですね」 ファレルが苦笑いする。危機感を伝えたいのだろうが、まるで冗談のような文面だ。 「ここでお別れだ。また逢える事を祈っているよ、白紙の未来に羽ばたくものよ」 「色々ありがとー」 ナナシを連れた一行が去ると、その場は静寂に覆われ、微かな戦場の音が耳に届くのみとなる。そっと、吐息が零れた。 「お主の願いは聞き届けたぞ、青狼……我が孫よ……」 爆煙から飛び出した影がヌマブチに迫る。 「ぬぅっ!」 短銃を手にした相手に敢えて前に踏み込んだヌマブチは弾丸が頬を裂いていくのを感じながら、その懐へと身体を潜り込ませた。そのまま腕をつかみ、背負うような形で投げ飛ばす。 後頭部をしたたかに打ちつけ悶絶する相手を、三発の銃弾が沈黙させた。 一方では、同じように接近されたシャークが敵を殴り飛ばしていた。明らかに首が変な方向に曲がっている。即死だろう。 「なかなかやるじゃねぇか。功夫ともまた違うみてぇだけどよ」 「某の体格では、こうでもしないと生き残れないだけでありますよ」 傷口から流れる血を拭いながらも、すぐに別の方向に向けて銃撃を始める。敵の注意を惹く事には成功したようだが、休む暇も無い忙しさだ。 (まだなのか……!) 建物や森の遮蔽を利用して最初は有利に戦いを進めていたが、今や完全に防戦一方だ。こちらの位置をつかまれているのが痛い。人数にものを言わせて圧殺しようという思惑が手に取るように分かる。 「来るぞ!」 地面の上を転がった照明弾が閃光を放った。 焼かれる視界に目を凝らし、敵を見逃すまいと全神経を研ぎ澄ませる。 が、敵の姿は無かった。 代わりにいたのは、見知った顔の数々。 「ヌマブチちゃん、お父さんは大丈夫?」 真顔で尋ねるミトサアに、ヌマブチは笑いながらその場に尻餅をついたのだった。 封龍地区を脱出した一行は、その場で別れる事にした。 「こいつを頼めるか?」 硝煙の臭いの絶えない彼等の傍では、情操教育上好ましいとは言えないが――そう思うのは進だけではなく、本人も同じようで。ビーは心の底から大きな溜め息をつく。 「他に手は無いみたいね。うちなら色々情報操作もできるし。部隊の備品って事にしてしまえば、黎明の連中も手を出せないでしょ。――ボス?」 『手続きを開始しよう。ご苦労だった』 ナナシに目をやれば、コレットが別れを惜しむように抱き締めているところだった。 (冷たい……) もう、この身体に温かい血が通う事は無いのだろう。それでも、彼が生き続ける事を望んでやまない。 一方で、ディーナは真剣な表情で語り掛ける。 「色々知った事で、キミは<覚醒>するかもしれない。辛い運命が待っているかもしれないけど、必ず迎えに行くから待っていて」 その言葉の意味をどこまで理解できたものか。ナナシは一瞬キョトンとしながらも、 『ありがとう、お姉ちゃん!』 と屈託のない返事をしたのだった。 ●僕の宿題 ・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~ ○月△日 晴れ 本日付けで、僕が部隊に正式配備されたんだって。「お祝いだ」って、シャークさんが高い油を差してくれた。やっぱり高級品は違うなぁ。あちこちの調子が良くなったよ。 ・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~ 「ちょっとあなた、何を書いているの?」 「あ、隊長。知らないんですかぁ? 夏休みには毎日絵日記をつけないといけないんですよ」 ナナシが接続したパソコンの画面を見れば確かに、今はポインタが線を描いているところだった。御丁寧な事に、色付けはクレヨン風のものを使っている。 「……一応聞いておくけど、どこのバカからそんな情報仕入れたの?」 「シャークだよ?」 「わっ、バカ――」 「シャーク!!」 いつにも増して賑やかな様子に、モグラは珈琲をすすりながら笑みを零す。 「荒くれどもの女王様から、四人の子持ちへの華麗なる転身か……」 「モグラ!!」 「おっと」 ・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~ パソコンを使わせて貰ったり、モグラさんと電気街に出掛けたり。 僕にとっては「初めて」の連続で、毎日がとても楽しいです。 あのファイルの意味は今でもよく分からないけれども、「生きる」ってこういう事なのかなぁ? ・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~ (了)
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