「ヴォロスの最果てに、砕ける月を観に行かないか」 神楽・プリギエーラはそう言って地図を広げた。 神楽の指差すそれは、山と森丘と海が描かれたひどくシンプルなものだ。 ルーナ=アウルム地方、と片隅に書かれていることから判るように、ヴォロス全土を書き記した地図ではないらしく――あの広大な竜刻の大地をすべて描ききれる地図がどれほどの規模になるのか、想像もつかないが――、図面は海をいっぱいに描いたところで途切れている。「もっとも、それが本当の最果てなのかどうかは知らん。何せヴォロスは広いからな、この海の向こう側に何もないかどうかなんて、誰にも判らないわけだ」 そこで言葉を切り、肩を竦める。「とはいえ、その辺りが陸の端に位置することに変わりはない。ルーナ=アウルムは、山と海と森、そして不思議な現象が楽しめる、峻厳にして美麗なる幻想の地だ」 神楽が言うには、そのルーナ=アウルム地方を調査して来て欲しい、と知り合いの世界司書に頼まれたのだそうだ。「出発点は山の麓にある街になる。この辺りは珍しい薬草や香料、有用な効能を持った虫などがとれるというので、麓町には各地からのキャラバンが数多く滞在している」 そもそもヴォロスには、かなりの辺境を除き、ヒトの生活圏内には大抵キャラバンの往来がある。 各地の品がキャラバンによって運ばれ、手広く商われるわけだが、このキャラバンが利用する《キャラバンの路》によって、広大なヴォロスは結ばれているといっても過言ではない。「ヴォロスの人々は、何らかの事情があって地域間を移動する時に、このキャラバンを利用するんだ。よほどの手練れでもなければ、ひとり旅には常に危険が付きまとうからな」 凶暴な野生動物、モンスター、盗賊。 夜の冷たさ、災害、自然の厳しさ、そんなものが旅人の行く手を阻むのだ。 それゆえ、ヴォロスの旅人は、キャラバンに身を寄せ、労働力や金銭などを提供することで、安全に目的地に着くという方法を取るのだそうだ。「キャラバンの方でも、護衛や労働力、それに金銭はどれもありがたいようだから、まあ、持ちつ持たれつといったところだろう。ルーナ=アウルムも、美しい地ではあるが、完璧に穏やかな、安全な場所かというとそうでもないようだから」 今のところ、強大なモンスターの報告はないが、危険な獣や小規模なモンスターが皆無と言うわけでもなく、よって、この地を旅するキャラバンには、大々的に同行者を募っているものも少なくないという。「要するに、そのうちの一隊に間借りして、あちこち観てまわろうというわけだ」 何度もヴォロスへ、そしてルーナ=アウルムへ出入りしている神楽は、すでにキャラバンの当たりもつけているらしい。「【最果ての流転 アルカトゥーナ】。そういう名前の一団だ。貴重で有用な薬草と香辛料とを扱う、三十人ほどで構成されたキャラバンだが、メンバーのほとんどは同じ氏族で、なんというか……まあ、アットホームな集団だ。皆、親切だし彼らの出してくれる酒も飯も美味い」 そのキャラバンとともに、山をふたつ超えて森丘を行き、海沿いに十日ほど旅をして、ルーナ=アウルム地方の最奥部、《秘められた水鏡》ユーゼリリアと呼ばれる場所まで行くのだ、と説明してから、ロストナンバーたちの表情に気づいたのか神楽は少し笑った。「ああ、アルカトゥーナたちのことか? 彼らは何千年も前から世界中を行き来し続ける巡礼の一族なのだそうだ。商いはその過程で身につけたものなのだろうな。世界各地の秘境や神域、聖域を訪ねて回ることが彼らの生きる意味で、意義で、喜びなのだと聞いた」 彼らは商いも巧みだし、旅慣れてもいるが、荒事の得意な人々ではなく、扱う商品がどれも高価なのもあって、大掛かりな移動の際にはいつも腕の立つ旅人を招き入れるのだそうだ。「まあ、戦闘が不得意でも、道中の家事や薬草の採取を手伝ってくれてもいい。知り合いの世界司書、贖ノ森というんだが、そいつが言うには獰猛な獣やモンスターが現れるというのは導きの書にも出ているらしいから注意は必要だろう。何、いざとなれば私の影竜が何とかする、要するに興味のあるものが来てくれればいい」 そこで誰かが、冒頭の言葉を思い出し、月が砕けるとはどういうことか、と尋ねると、「ああ、それがかの聖域の見せる不思議なんだ。アルカトゥーナの人々も、それを観るついでに薬草を集めに行くようなものなんだとか」 そこだけで見られる不思議な現象なのだ、という答えが返った。「原理はわからない。魔法の、竜刻の産物なのかどうかもはっきりはしていない。ただ、《秘められた水鏡》ユーゼリリアの上空には、五十年から百年に一度の周期で、あるとき黄金の月が昇る。その月は夜毎輝き、大きくなり、ついには夜明け前に砕けて消える」 月と言いつつ、それが本当にヴォロスの他の地で観られる月と同じものなのかどうかすら判らない、ただ真円を描く蜂蜜のような黄金が、夜空の藍を照らしながら輝くのだという。 それは畏怖すら感じるほど荘厳で、美しく、神秘的なのだという。 砕けた月は黄金の欠片となって海に降り注ぎ、降り注いだそれは、放っておけば水に溶けて消えてしまうが、消える前に拾い上げられれば、小さな奇跡を起こすお守りになるのだという。 ユーゼリリアは、それを永遠に繰り返す幻想の地なのだ。 そして、ちょうど今が、その月が砕ける周期に当たるのだ、と付け加え、「砕ける月を観たものは、同時に何か大切なものを思い出すとも聴く。月の黄金と、記憶の中の黄金を見比べてみるのも悪くない」 神楽は、その奇跡を観に行かないか、と、チケットを七枚取り出しながら、再度ロストナンバーたちを誘ったのだった。
1.旅人と箱舟の行進曲 商人たちのやり取りで賑わう麓町。 なだらかな稜線を描く緑多き山が、両腕を広げるようにして旅人たちを迎え入れている、そんなイメージの山すそだ。 「やあ、君たちが今回の同行者か。話は神楽から聴いている、よろしく頼むよ」 初めに旅人たちを笑顔で迎えたのは、灰色の髪に青紫の目の、四十代前半から半ばと思われる背の高い男だった。無駄な肉をすべて削ぎ落とした鋭い風貌をしているが、笑うと思いのほか愛嬌があり、その笑顔からは愛情深さが滲む。 「僕はロタ、巡礼のアルカトゥーナ氏族を率いる百二十五代目の族長だ。どうか気楽に、寛いでいってくれ」 彼はそう言って、総勢で三十二名のキャラバン隊員をひとりずつ紹介した。 族長のロタを初め、彼の妻のルネ、息子のリンゼ、その許婚のカノン、その両親、その兄弟夫妻、その更に血縁……と、ざっと聞いただけでも、彼らがどこかで血のつながりを持っていることが判る。 子どもがいないのは、アルカトゥーナ氏族の人々が巡礼の旅に加われるのは成人してから、十八歳以上だからだという。 一通りの自己紹介が終わると、今度は旅人たちの番だ。 「皆と初めましてってのも珍しいよな。坂上健っていうんだ、よろしく」 行軍する兵士じみた格好で参加しているのは現役大学生にして武器マニア、坂上 健。 大きな背嚢に、様々なアイテムを詰め込み、準備万端といった趣だが、その重量は本人が平気で背負って歩いたり戦闘したり出来るよう、八kg以下に抑えてあるという配慮ぶりである。 「旅か……いいね、こういうのは久しぶりだ。あたしは華城 水炎っていうんだ、よろしくな」 対照的に、長い髪を結い上げた水炎は、動き易いパンツ姿に必要最低限の物資を持っただけの身軽さでの参加だ。 そうやって、ロストナンバー側も順番に自己紹介をして、じゃあそろそろ出発しようか、とロタたちが馬車の用意を始める中、 「砕ける月か……予測もつかんのう」 大きなリュックサックを背負い、ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノは溢れんばかりのわくわく感とともに笑った。隣では、美しくしなやかな猛獣、豹の姿をしたレオナ・レオ・レオパルドが艶然と眼を細めている。 「一体どんなものなのかしらね」 「うむ、きっとこの世のものとも思えぬ光景なのであろうな。実に楽しみじゃ」 「ええ。旅の楽しみは幾つあっても構いませんものね」 上機嫌とは判るものの、完全な肉食動物の姿をした彼女に、年若いアルカトゥーナの中にはびくびくしているものもいた。レオナはそんな人々を悪戯っぽい眼差しで見つめて穏やかな口調で言う。 「あら、そんなに怖がらなくてもよくてよ? アタシは確かに豹だけれど、猛獣だからこそ無闇に命を奪ったりはしませんわ」 その言葉に、若者たちが若干ぎくしゃくとしつつも力を抜き、出発の準備に散ってゆく。 「……しかし、大所帯だな。目的地までよろしく」 調節可能な衣装を身にまとったリュエールは、今回女性体で参加していた。 「ずいぶん長いこと存在しているが、こういった旅は初めてだ。支度をするのも楽しかったな」 優美で繊細な、穏やかそうな外見からはとてもそうは思えないこの“名を呼んではならぬもの”は、武骨な山刀に大きめの水筒、そのほか細々とした道具の詰まった鞄を担いでいる。 「サーヴィランス、どうした?」 リュエールが、重々しいボディアーマーにマントをまとった偉丈夫に声をかけると、 「……いや、豊かな世界だと、思っただけだ」 ずっと空を見上げていたサーヴィランスから、威圧的な外見からは想像もつかないほど静かな言葉が返り、リュエールは微笑して頷いた。 「ああ、美しい世界だ。同時に、厳しい世界でもあるのだろうが」 「そうだな……だが、その厳しさは、すべてが受け入れられ許されているがゆえのものであるようにも思う」 と、そこへ、族長の息子リンゼが、出発の準備が整ったことを報せに来て、 「さて……この世界は何を見せてくれるのかしらね……?」 淡々とした態度を崩さぬまま、参加者の中でも異色の存在である闇姫が左右色違いの眼を細める。 少し離れた位置で、生活用品や採集籠、商品などが詰まれた大きな幌馬車が――神楽によると、疲れたらこれに乗せてもらうことも出来るらしい――二台、十数頭の馬や山羊とともに動き出すのが見えて、旅人たちはそれを合図に動き出す。 「よーし、目一杯楽しむぞー!」 健のそんな宣言に、若い旅人たちからは頷きが、アルカトゥーナたちからは微笑ましげな視線が返った。 2.緑の日常 「おーい、朝飯出来たぞー」 次の日の、朝である。 初日はひとつめの山越えで費やされ、次の山との合間にある森の傍らで野営となった。 驚くべき健脚ぶりで山道を行くキャラバンに、ロストナンバーたちも負けじと歩を進め、その結果くたくたになってよく眠った。 といっても、サーヴィランスやリュエールなどは、キャラバンの人々が驚くほどの頑健さで、特に疲れた様子もなく夜の見張りを買って出ていたが、幸い、この辺りは危険な動物も出ず、まだ盗賊の襲撃もなく、一行は穏やかな夜をすごすことが出来た。 そして次の日、太陽が昇ると同時に起き出して来たアルカトゥーナたちとともに水汲みに行き、朝食の準備に精を出していたのは健だ。 「薬草も香草もたくさん採れたのじゃ。ここは宝箱のようじゃのう」 「ホント、豊かな森、ってこういうことを言うんだろうな。こっちは木苺が採れたんだ」 朝食が出来るまで、族長の妻ルネと一緒に野草採集に出かけていたのはジュリエッタと水炎。 「残念ながらガゼルはいませんでしたけれど、鹿と猪が獲れましたわ。鹿はアタシが頂くとして、この猪、よろしければ皆さんでどうぞ?」 自分の食料は自分で調達、を地で実践するレオナは、立派な猪をキャラバンへ差し入れし、感謝されている。その猪は、解体して保存の利く干し肉・塩漬け肉にすることになったようだ。 レオナ自身は、皆から少し離れた位置まで鹿を引っ張ってゆき、そのまま朝食を開始している。 「腹減ったー……って、いい匂いだな。やるじゃん、健」 「はは、つくったのは俺だけじゃないけど、サンキュー。まあ、家ではよくやらされてるからね」 水炎の賛辞にまんざらでもない様子の健が、アルカトゥーナの炊事番たちとともに木の皿を配ってゆく。 今日の朝食は、小麦粉と蕎麦粉に水と塩を加えて混ぜたものをフライパンで薄く焼いた無発酵パンに、山羊乳でつくった酸っぱいチーズ、アルカトゥーナたちが手作りしていると言う塩漬け豚を薄く切ったもの、茹でた馬鈴薯に塩と香草油を添えたもの。 ジュリエッタが集めてきた香草と玉ねぎを使って即席のスープも作られた。 「リュエールさんサーヴィランスさんも見張りお疲れさん。今日もたくさん歩くみたいだし、しっかり食べて精をつけてくれよな!」 旅の間の食器という、木彫りの皿は手触りがよく、滑らかで、どこか温かい。 そこへ、こんがり焼けたパンとチーズ、塩漬け豚の薄切り、芋が盛られてゆく。 「おや、これは……食欲をそそる。私は食べずとも死ぬことはないが、やはり、こういうのはいいな」 リュエールが微笑と礼とともに皿を受け取り、大きな岩に腰掛けると、そこから少し離れた岩陰に、皿を手にしたサーヴィランスが座った。 「ん? もっとこっちに来ればいいのに」 妙に輪から離れた彼に気づき、水炎が手招きするが、 「……いや」 静かにかぶりを振り、サーヴィランスは覆面の口元をまくった。 「見せられぬ傷がある……どうか無礼を許して欲しい」 断固とした……というほど強い口調ではないのに、どこか哀しみや苦悩が滲むその言葉に、それ以上強く誘える者はおらず、彼のことを気にしつつも――といっても悪い雰囲気ではなかった――賑やかに、楽しげに朝食が開始される。 「あっこのパンうめーな。何、小麦粉と蕎麦粉と?」 「あと水と塩だって。卵とか牛乳入れたらもっとふわっとするかもな」 「無発酵パンと言うのは独特の歯応えと風味でよいのう。発酵パンのような柔らかさはないが、しっかり噛み締めるとよい味が出る」 「あたしもこれ好き。ハムとか芋とか包んで食うと最高じゃね?」 「この山羊乳のチーズとの相性もばっちりだと思うぜ。あと、蜂蜜もあるらしいから、それかけてみてもいいかもな」 横一列に並んで丸太に腰掛けた三人が、素朴で味わい深い雑穀パンを無心で咀嚼していると、ルネが真っ赤なジュースを持って来てくれた。 ルネは、くすんだ金髪を無造作に結い上げ、夏の草原のような緑の目をしたふくよかな女性で、絶世の美女などではないものの、裏表のない明るい笑顔を見ているだけで自分も笑顔になるような、働き者で世話好きという、『母』の体現の如き人物だった。 「あ、これあたしが採って来た木苺の!」 「ええ。とても粒が大きくて香りもよかったから、ギュッと絞って少しだけ水と蜂蜜を混ぜてみたの。きっと元気が出るわ」 「うん、サンキュー、ルネかーさん」 「ほほう、これは美しい飲み物じゃな……ありがとう、心していただこう」 鼻を抜ける鮮烈にして芳醇なる香気と、官能的な滑らかさで咽喉を滑り落ちて行くとろりと甘酸っぱい液体に、乙女らが舌鼓を打ったのは当然なのかもしれなかった。 * * * * * 「おや、これは……ほう、こっちにも」 朝食後、少し胃が落ち着くのを待って一行は出発した。 光の差し込む明るい森を有する、なだらかな山を、色々なものを採集しながら進む。 「何かいいものあったのか、ジュリエッタ」 どうやらいい季節に来たようで、水炎の視線には様々な果実が映っていた。 「こっちは大量だ。これならまた夜には美味しいジュースが飲めるかもな」 赤、黄、紫、青、桃色。 ヴォロスの生態は多様なので、それが壱番世界の果実とまったく同じものかどうかは判らないが、様々な形状をしたベリーや葡萄のようなもの、桃、梨や林檎を髣髴させるものなど、水炎の籠の中には驚くほどたくさんの果物が収穫されていた。 壱番世界の感覚で言えば、本来なら違った季節に採れるようなものもあったから、外見はそう見えていても別の種なのだろう。 どんな味がするか楽しみだ、と、洋梨を思わせるかたちの果実をもいでいる水炎から少し離れた場所では、 「うむ、ここは面白いのう、色々なハーブが群生しておる」 ジュリエッタが青々とした茂みを覗き込み、植物を楽しげに摘み取っている。 「へえ、どんなのがあるんだ? あたし、ハーブとかは詳しくないかんなー」 「そうじゃのう、カモミールにエキナセア、クリーバーズ、ジャスミン、セージ、タイムにタンポポもある」 「へえー。……ん? タンポポってあのタンポポか?」 「うむ、利尿、健胃、強壮に肝機能促進と、タンポポの根には薬効が集中しておるのじゃ。根をフライパンで炒って粉にしてやるとな、身体にもよいコーヒーになるのじゃぞ」 「へえ、そうなんだ」 水炎が感心していると、ジュリエッタと同じく籠いっぱいにハーブを摘んだルネがやって来て、ジュリエッタの籠を目にして微笑んだ。 「しばらく、ハーブ類には困らなさそうね」 「ほんに。豊かな世界じゃのう、ここは……」 感嘆を込めて周囲を見渡すジュリエッタの傍らを、虫取り網を手にした健がリンゼとともに走り抜けていく。 族長夫妻のひとり息子であるリンゼは、灰色の髪に夏草色の眼をした背の高い青年で、今年で二十三歳と聴いているが、健とともに虫を追いかける様などは少々発育のよい少年にしか見えない。 「リンゼ、そっち……って、ああッ、逃げた!」 「健、後ろだ後ろ!」 「うわあ、いつの間に!? あーもう、なんだこのすばしっこさ……!」 現在ふたりが追い回していると言うか振り回されているのは、ナナツヅノオオツワモノカブトと呼ばれる特大の甲虫で、家族単位で日中に行動し時には鳥類や中型の肉食動物ですら斃すという昆虫の王者だった。 なんと、最小サイズでも全長二十cm、最大サイズで四十cmにもなるというのだから、壱番世界の愛好家などが知ったら涎を垂らすことだろう。 巨体にもかかわらず俊敏で凶暴、非常に知能が高く、自分と家族を守るためなら自分の十倍以上大きな生き物とも戦ってしまうという勇猛果敢な昆虫をふたりが追いかけているのは、別に男の子の夢だからではなく、この甲虫から稀少な効能を持つエキスが採れるからだ。 「リンゼ、またそっちに行っ……あう!? ちょ、なんか襲ってきた……!」 ……が、しかし、稀少だけあって採集は困難を極め、七本の角で散々に突かれ、凶悪な節のある脚で引っ掻かれた挙げ句逃げられてしまったふたりの残念ぶりたるや、周囲から思わず同情めいた拍手が起きたほどだった。 「あらあら……」 あちこちに引っ掻き傷をつくってぐったりと座り込んでいる健とリンゼを面白そうに見ながらレオナが戻ってきた。 狩人たちと出て行った彼女は、ウサギや山鳥から鹿、そして山牛と呼ばれる野生の草食動物まで、四十人もの人間の胃袋を満たすべくたくさんの獲物を仕留めてきたのだった。 「レオナさんの狩りはとても美しいですね。野生の猛獣のしなやかさに、人間などは敵うべくもないのだと思わされます」 狩人のひとりが興奮気味に向ける賛辞に、レオナは優雅な仕草で尾を揺らし、金の目を細めた。 「あら……お褒めの言葉、ありがとう。アタシたちの一族はそうやって何千年も生きて来たのですわ。狩りの手法が研ぎ澄まされてゆくのも、当然なのかも知れませんわね。でも、アナタがた人間の計算し尽くされた狩りというのもまた賞賛に値するとアタシは思いましてよ?」 人間は脆いものだということを覚醒して初めて知ったレオナにとっては、肉体の弱さを知恵とチームワーク、器用さでカバーする人間という生き物は非常に興味深い。 強い牙も爪も、速く走る脚も持たぬヒトが、時にはレオナたち猛獣を凌駕する力を発揮するのだから。 「ひとまず、この獲物はどうしますの?」 「半分は今日の夕食に、半分は塩漬けにして保存食にします。レオナさんはお好きな獲物を選んでおいてくださいね」 「ええ、判りましたわ」 と、そこへ、周囲の警戒に当たっていた人々が戻って来る。 「あ、お帰り。おつかれさん。どうだった?」 健が労いの言葉をかけると、リュエールとサーヴィランスはめいめいに顔を見合わせた。 血の匂いもないところをみると、まだ平穏は崩されてはいないらしい。 「今のところは、特に危険な気配も感じられないようだ。一応、馬車を中心に、そういった連中が近づいてきたら探知できる結界を張っているから、何かあればすぐに対応できると思うんだが」 「野盗などは出来れば官憲にでも突き出したいが……キャラバンの安全を第一に考えるとそこまでの余裕があるかどうかは判らない。その際には、痛みと恐怖を与えて追い払うしかないだろうな」 リュエールとサーヴィランスが交互にそう言ったところで、ロタがそろそろ出発する旨を告げた。もう少し歩けば、このなだらかな山を抜けて、海沿いの道に入るという。 その言葉に従って、皆、収穫物を手に――健も、特殊な熱病に効能を持つ蜘蛛や、蜂蜜がたっぷり入った蜂の巣、解熱効果のある蟻など、昆虫を中心に色々と採集している――馬車の待つ野営地点へと戻る。 「あら、戻って来たの」 まったく手伝う気がないらしい闇姫が、馬車の荷台に腰掛けて暇そうにしているのを横目に見つつ、戦利品を荷台に積み込んで出発、となる。 「ここを一時間ほど歩いたら頂上に出る、その辺りで昼食にしようか」 そんなロタの声に、今回のメニューは何かな、などと心躍らせつつ。 3.遠き海辺を行く ――ゴッ。 健の、トンファー型トラベルギアが、髭面のむさくるしい男を打ち倒したところで戦闘は終了となった。 「ったく……一昨日来やがれってんだ」 話が違うとか何とか泣き喚きつつ――キャラバンに護衛がついたという話は伝わっていなかったらしい――、どうにか仲間に肩を貸して逃げてゆく野盗の皆さんの背に、しっしっと追い払う仕草をする健、それを見てかすかに笑うリュエール。 「まあ、大事にならなくてよかった」 「まあね。リュエールの結界のお陰で戦闘体勢も取りやすかったし、上出来かな。とりあえず、お疲れさん」 「ああ、健、おまえも」 健とリュエールとともに最前線で身体を張ったサーヴィランスは、すぐに後方で息を殺しているキャラバンの人々の元へと歩み寄り、彼らの様子を確認している。 「怪我をした者は、ないか。もしもあれば、簡単な手当てくらいなら出来るが」 といっても、彼らの傍にはジュリエッタと水炎、レオナがいたから、アルカトゥーナたちに被害が及んだはずもないのだが。 「……大したことなかったわね」 殺る気満々だった闇姫は、つまらなさそうにトラベルギア『愚者の剣』を仕舞っていた。 つくづく物騒な姫である。 とはいえ、そんな物騒な人々のお陰でキャラバンの安全は守られ、旅はすぐに再開される。 「やあ、お陰で助かった。此度の護衛は殊の外強いね、本当に心強い」 ロタが満面の笑みでロストナンバーたちを褒め称え、それから出発を促すと、細々とした調整が行われ、五分後には全員が進み始めていた。かなり慣れてきた健やジュリエッタなどは、馬に乗せてもらってご満悦だ。 ――聖地ユーゼリリアへの旅が始まって五日が経過している。 道は半ばへと差し掛かり、そもそも野宿や野外炊飯に抵抗がない者や全部ひっくるめて楽しめる者ばかりだったのもあって、アルカトゥーナたちとの共同生活にも慣れが見え始めた。 健やジュリエッタ、水炎は進んで炊事を手伝い、レシピを教わったり反対に自分たちの得意料理を披露したりしたし、レオナは狩りの重要な要因として尊敬を集め、リュエールとサーヴィランスは護衛として旅の安全につとめた。 「しかし、もう二日くらいずーっと海辺を歩いてるな。まあ、反対側はずーっと森なんだけどさ」 馬の背に揺られながら健が言うと、 「これから目的地へ辿り着くまでずっと海辺だよ」 と、馬車を操るロタの声がして、健はいっそ呆れる。 「……ヴォロスって広いんだな」 「でもさー、海と森があったら食糧には困らないし?」 「まったくじゃのう。森に入れば薬草やハーブが手に入るなぞ、冷蔵庫や貯蔵庫といっしょに旅をしているようなものじゃ」 「まあ、そうだな。川が近いのも助かるしさ」 言いつつ、ここ二日間あまり代わり映えのしない景色の中、歩を進める。 左手に白い砂浜と海岸、左手遠方には水平線。 右手に森、どこまでも続く深い緑。 彼らが歩いているのは、その中間の、海と森の境界線のような道だった。 足元は小石の入り混じった土で、背の低い草が生えているだけの道だが、砂が混じることもなく、木々に侵食されることもない様子からして、誰かが遠い過去に整えたのかもしれない。 その道を行くこと一時間。 時刻で言えば、午前十一時辺りだろうか。 そろそろ昼食の準備を、といった空気が流れる中、ふいに視線をめぐらせた神楽が、 「……そういえば、あの辺りは大きな魚がかかるらしいと贖ノ森が言っていた」 そういって海辺の一角を指差した。 「あの辺りって……あの、でっかい岩場の?」 「ああ」 「ふーん……」 「健ちゃんったらそこで悩むなんて冒険家の風上にもおけないわっ」 「健ちゃんとか冒険家ってのはともかく、風上の部分には物申したい。風上に置いちゃったら駄目だと思うんだ、色々と」 「え? あれ? ……まあいいじゃん。ってことで釣りしようぜ、釣り! でっかいの釣り上げてやっからなー!」 「って水炎、何がどう『ってことで』なのか判らな……」 「……言うだけ無駄じゃと思うぞ?」 「アハハ、デスヨネー」 ハイテンション気味で、岩場へ向かって砂浜をダッシュしてゆく水炎に溜め息をつく健、笑うジュリエッタ。ほかの面子からも特にクレームはつかず、結局昼飯は海産物+αということになった。 といっても、内容が釣果に左右されるだけに、釣りに向かう人々はそこそこ真剣だ。 「じゃあ……釣竿と、糸と……はい、これが餌ね」 ロタが荷馬車から竿を出してきて志願者たちに渡してゆく。 結果、狩りに出かけていったレオナと、労働をまったくやる気のない闇姫以外の六人と、手の空いたアルカトゥーナ四人の十名で、のんびりと釣り糸を垂れることとなった。 実はヴォロスを訪れるのが初めてというサーヴィランスは、五十代半ばと思しきアルカトゥーナと隣同士になり、 「今まで旅した地の風土や習慣、そして巡礼の旅路の話を聞かせてもらってもいいだろうか?」 好奇心と情報収集の双方を満たすべく、声をかけていた。 筋肉質の大きな身体に常にボディアーマーを身につけ、黒いマントをまとってゴーグルとマスクを装着した、表情すら伺えないサーヴィランスではあるのだが、巡礼者たちは、この数日で、彼が弱者や守るべき存在に対しては寛容で誠実な男であることを見抜いたようだった。そのため彼らは、サーヴィランスに敬意と親愛を持って接している。 アジュというその男も同じで、もちろん、と快諾した彼は、釣り糸を垂れながら、自分の訪れた聖地について訥々と語った。 「私が初めて訪れたのはアヴユラ地方と呼ばれる南東の僻地でしてね。そこには生きた宝石と呼ばれる聖なる花々が咲き乱れておるのです。《色彩の楽園》セランディナ、我々はそう呼んでおりました」 「生きた宝石か……それはさぞ、色鮮やかなんだろうな」 「ええ。そこでは、聖地を訪れた人間の魂の色を感知して新しい花が咲くのです。ですから、来訪者が一番に見る花の色は、本人が魂に持つ色なのですよ」 「そうか……アジュ、君の花は何色だった?」 「私はその時二十歳でした。ちょうど子どもが生まれたばかりでね、私の世界は幸せ一色でしたから、照れくさくなるほど美しい赤でしたよ。いのちの色だ、と思ったのを今でも覚えています」 目を細めて語る男に、サーヴィランスはそうか、と返して水面を見遣った。 今の自分がその聖地を訪れた時、一体どんな色の花が咲くのか、と益体もない思考に意識を委ねかけた時、 「サーヴィランスさん、引いてるよ!」 健がそう指摘し、 「む……」 サーヴィランスが竿を握り直した瞬間、ものすごい衝撃が来た。 ぐんッ! 凄まじい勢いで竿がしなる。 身体ごと持って行かれそうな衝撃に、サーヴィランスは大物がかかったと瞬時に判断し、腰掛けていた岩場から飛び上がるようにして立ち上がると、腰を落としながら両脚に力を入れた。 しかし、恐ろしい力だ。 じりじりと引っ張られ、引き摺り下ろされるような、生命の足掻き。 「皆、サーヴィランスさんを手伝うぞっ!」 腕まくりをした健がサーヴィランスにがっちり組み付き、一緒になって引っ張る。その健をジュリエッタと水炎が引っ張り、リュエールはサーヴィランスとともに竿を握った。 「……物々しいな」 騒がしくも長閑な光景に、サーヴィランスは思わず他人事のように呟く。 誰からも見えなかっただろうが、唇には笑みが浮かんでいた。 「だが、賑やかでいい」 笑みを含んだリュエールの言葉に小さく頷く。 そのまま三十分近く魚と格闘しただろうか、不意に引っ張る力が弱くなり、 「……よし」 サーヴィランスは全身の筋肉を張り詰めて、力いっぱい竿を引いた。 彼を引っ張る面子がそれに倣う。 と、 どっっっぱ――――――ん。 「あ」 派手な音とともに水面を割って飛び出してくる、身の丈二メートル近い巨大魚。 皆の力が合わさった結果か、それはびちびちと尻尾を跳ねさせながら頭上高く舞い上がり、彼らの上へと落ちてこようとしていた。 「まずい、ぶつか……」 健が言い、誰かが行動に移るより早く、 「……ソラアキ、確保」 男女の別の判らない声が淡々とするや否や、ぐっと影が――それは、業火の如く燃える真紅の七つ眼を持つ異貌の竜だった――せり出して来て、大きなあぎとでぱくっと魚を咥え取った。 びちびちと跳ねる魚、飛び散る水滴、今にも魚を飲み込みそうな影竜。 「あーこら、喰っちゃ駄目だってそれ!」 水炎の言葉に、神楽の守護という暗黒の竜は小さく首を傾げてみせると、特大の魚をそっと地面へおろし、そのまま神楽の影の中へ消えて行った。 残された魚を見下ろし、一同、感嘆。 「まぐろっぽい感じだね、刺身行けるかな、刺身」 「刺身もよいが、どうせすべては食べきれまい。油漬けにして保存食にすると言うのはどうじゃろう」 「あ、いいかも。皮に近い部分を干してとばっぽくするのはどうかなーと思うんだけど、俺」 「すごいものがかかったと聞いて来てみれば……いやあ、すごいね。何というか、君たちはこんなところまで規格外なんだな」 様子を見に来たロタが楽しげに、頼もしげに笑い、昼食がそろそろ整いそうだと告げる。 結局、昼食は、一部がマグロモドキの刺身を楽しみ、更にマグロモドキのレモンソテー・ハーブ添え、貝の出汁で炊いた海鮮ピラフ、鯛に似た白身魚のシンプル塩スープ、レオナが獲って来た山鳥の丸焼き、バジルと野生トマトのサラダ、そして雑穀粉の無発酵パンとなった。 しっかり歩き、しっかり働いた人々が、自然の恵み一杯のご馳走に舌鼓を打ったことは間違いないだろう。 4.晩餐と星空 旅が始まって九日が経った。 何度か猛獣や盗賊と行き逢いはしたものの、サーヴィランスとリュエールが戦闘に立って撃退に務め、被害を出すことなく一行は進んでいる。 そして、ついに、明日には《秘められた水鏡》へと到達する、という日の夜である。 その頃になると、夜空には畏怖すら感じるほど大きな月がかかるようになった。 あまりにも唐突な出現から、やはりこれはほかの地域で見られる月とは別物なのではないかと思われた。 とはいえ、蜂蜜のようなとろりとした光をこぼす月は荘厳で美しく、その月に見守られながら過ごす夜は悪くない、と、誰もが夜を楽しみ、そして夜空に溜め息した。 ちょうど、十回目の夕飯時である。 今日の献立は、ジュリエッタの故郷の味という、干し肉で出汁を取り、そこに様々な薬草やハーブを入れてよく煮込んだスープに、レオナが仕留めて来た鹿をとっておきの赤葡萄酒で玉ねぎや馬鈴薯、ハーブとともに煮込んだものを、小麦粉と卵の生地に包み込んで焼いたパイもどき、うどんとパスタの中間のような麺をマグロモドキの油漬けやハーブと一緒に炒めたあっさりパスタ、野生のパセリ、バジル、セロリ、トマトなどをふんだんに使った山羊乳チーズ入りのサラダ、それから水炎が採って来た果物を蜂蜜と赤葡萄酒で煮込んだ薫り高いコンポートと、コンポートの水分を飛ばしたものを練り込んで焼いたケーキだった。 旅先でこれだけ栄養バランスの偏らない食事が出来るのか、と驚く面子に、アルカトゥーナの人たちは、自分たちは食いしん坊なんだ、と笑い、ロストナンバーたちも心底納得して料理に舌鼓を打った。 「わたくしの故郷では薬草を使った料理が多くての。わたくしたちが去った後でも、レシピは覚えていてくれるかも知れぬから」 パイもどきを頬張りながら、ジュリエッタは薬草スープへの賛辞にそう答える。そうやって残ってゆくものを絆とか、思い出とか呼べたらいい、などと思いながら。 ――ともかく、総勢四十名で行う夜の宴である。 成人の多いキャラバンなので、飲むと気持ちよくなってくるけしからん液体が振る舞われ、宴は更に賑やかさを増す。 「ああ……しかし、いい夜だ」 リュエールは、シロップとベリージュースで割ってハーブを浮かべた白葡萄酒をちびちびと舐めながら、目を細めて美しい夜空を見上げていた。 「神楽」 そして、こんないい夜に音楽がないのはもったいない、と、 「よければ、何か聴かせてはくれないか」 音楽とともに生きているという巫子に声をかけた。 無論、返答は『是』。 すぐに、伸びやかで力強い、幻想的な音楽が、辺り一帯を包み込むことになる。 * * * * * 夜更け。 リュエールはひとり、海岸へと降りていた。 それほど休息が必要な肉体でもなし、この美しい世界で過ごす美しい夜に、すぐ横になるのは惜しい、と思い、見回りを兼ねてやってきたのだ。 「ああ、美しいな……」 月の光と賑やかなほどに輝く星たちに照らし出される海を、森を、眼を細めて見渡し、呟く。 確かに月は、昨日よりも大きくなっているように思えた。 「この場所ですら、秘境と呼んで差し支えない」 では、聖地と呼ばれる秘境はいったいどれほど美しいのかと、想像するだけで楽しくなってくる。 何せ、リュエールの故郷、見失ってしまった世界では、『かれら』の争いで破壊され、秘境と呼ばれるような場所はもう残っていないのだ。――無論、それでも、リュエールにとっては懐かしい、救いたいと願う場所であることに変わりはないのだが。 「明日はいよいよ……だな」 何があるのか、どんなものが見られるのか、年甲斐もなく――という表現が寿命を持たぬものに相応しいかはさておき――わくわくとした気分になったリュエールは、海岸の一角に見慣れた姿を見い出して小首を傾げた。 「……サーヴィランス、か?」 この旅の間、もっともよく組んで行動した、強く誠実で生真面目な男は、砂浜に腰掛けて月を見上げているようだった。 声をかけるか悩んだリュエールだったが、遠目にも彼が覆面をはずしているように思え、そこへ踏み込むことへの躊躇いとともに、ひとりで過ごしたい夜もあるだろうと判断し、そっと踵を返したのだった。 「黄金……か」 リュエールがそっと去ったことにはサーヴィランスも気づいていた。 今回は相棒とでも呼ぶべき組み合わせとなった、不思議な雰囲気の人物が、恐らくこちらには来ないだろうとも思っていて、彼は覆面を外し、フードも取り払った姿で、じっと空を見上げていた。 「……記憶の中の」 ややあって、視線を外し、自分の掌を見下ろす。 実を言うと、正直、何故この依頼を受けたかよく判らない。 話を聞く内に、いつの間にか、ほとんど無意識にチケットを受け取っていた、というのが実情だ。 「私の中に……そんなモノが残っているのか」 たったひとりの自警団員として、人心の退廃した世界で二十年の時を戦い続けてきた。 正義のためと言いつつ、忘れることの出来ない傷によって衝き動かされ、その傷、強迫観念に追い立てられるように悪徳の街を……世界を駆け抜けてきた。 そんな自分の中に、黄金などというものがあるのかどうか。 ――それを確かめたいのかもしれない、と、思う。 5.水鏡に映る黄金 《秘められた水鏡》ユーゼリリアに一行が辿り着いたのは、次の日の午後四時を過ぎた頃だった。 その秘境は、開放的な海辺の道から狭い森の一角を抜けた先にあった。 森を抜けた途端に広がったのは、鉄塔の如く天に向かって聳え立つ、幾つもの岩の小島と、そこに生える、同じく天を目指して伸び行く奇妙なかたちの木々、決して浅いようには見えないのに、ずっと向こうまで底が見えるほど透明度の高い、青い蒼い海だった。 海岸は砂ではなく岩で出来ていて、長い年月をかけて波に削られたような跡があった。 荒々しくも美しく、幻想的なその場所で、慌しく野営の準備をして、慌しく夕飯を摂ったところで日が沈み、――そして、月が、のぼった。 それは、空を覆いつくしてしまいそうなほどに大きく、まぶしく、そのくせ眼を射ることはなく、ただ蜂蜜のような金光を穏やかにたたえて、荘厳なる麗姿を見せつけている。 昨日よりも更に大きくなった月を、人々は息を詰め、首が痛くなるのも忘れて見上げた。 ぱりん、ぱきん。 その音が現実のものだったかどうか、誰にも判らない。 ただ、『その時』は、案外あっさりと訪れた。 しゃらん、しりん、らん。 薄い硝子がぶつかり合うような、軽やかで涼しげな音とともに、一際眩しく、明るく輝き、 「ああ――……!」 誰かが低く息を呑む中、月の天辺にひびが入る。 ひびは天辺から順番に、月の全体を撫でてゆき、ひびが下まで到達した、そう思った瞬間、最下層から砕け、崩れて小さな欠片となり、黄金の光を振り撒きながら海に降り注いだ。 透明度の高い海の中で、欠片が眩しく輝いている。 胸を射る光だ、と誰もが思い、我に返ったように海へと足を踏み入れた。 夜にも関わらず、海水は絹のような優しい冷たさ、やわらかさで、巡礼者たちを受けとめ、迎え入れる。 「俺、普通に生活しすぎててさ」 小さな欠片を拾い上げ、健はかすかに笑った。 「まだ、自分の中の黄金が判んないんだよな。これから、年を取ったら、あれが黄金だって思うのかな……だとしたら、俺、そのために色んな世界を旅してるんだろうって思う」 気泡緩衝材で丁寧に包んだ小瓶に欠片を落とし込む。 しりん、と水晶の鈴が震えるような音を立て、欠片はまた、穏やかな光を放った。 「――哀しいくらいに綺麗だな」 水炎は思わず胸元を押さえていた。 幻想的な、どこか哀しげな音をたてる月を見ていると、今はもういない『彼』を思い出す。 片思いのロストナンバーを、異世界の旅先で亡くした。 「いや、あいつはいなくなっただけだ……消えただけだ……」 きっと生きている。 きっとまた逢える。 そのときこそ、好きだと言おう。 ずっと一緒にいたいって、一緒にいきたいって言おう。 そう、思い続けて生きてきた。 彼を追いかけていた時間こそが黄金だった。 もう二度とは手に入らない、水炎だけの黄金。 「……水炎、大丈夫か?」 気遣うような健の声に、かぶりを振る。 「別に、な、泣いてねぇよ……泣いてなんか。見間違いだろ」 問われもしていないことを口走った後、もう一度、胸元でギュッと拳を握る。 「あたしの黄金は、いつも今もここにあるんだ……それだけだ」 その黄金が胸にあるのなら、0世界の片隅で生きるのも悪くない。 そう、思った。 「――ずっと、『今』が続くのだと、疑いなく信じていたんだ」 普通の、当たり前の、何でもない幸せ。 そんなものが確かにリュエールにもあった。 大切な人がいて、大切な場所があって、確かな幸せがあった。 何も知らない、ただの人間だった頃の話だ。 月の欠片を拾い上げると、遠い遠い過去の、忘れ難い――しかし、記憶の中に閉じ込められていた――幾つもの笑顔が脳裏を翻り、リュエールはかすかに笑った。 「私でも、見ることが出来るのか」 懐かしい、愛しい記憶。 リュエールの黄金。 ――我が身を滅してでも果たそうという誓いの、根源がそこにはあった。 「すごいって……言うしかありませんわね」 レオナは空を見上げてほうと息を吐いた。 「こういう現象には、お目にかかれたことないわ。美しいとしか言えませんけど、本当に美しい光景ですわ」 しっとりと心地よい海に踏み込み、小さな欠片を咥えて拾い上げる。 健がそれを受け取り、保護のされた小瓶に欠片を入れてくれた。 「ありがとう、土産には最適ですわね」 猛獣である彼女の中の黄金は、決して複雑ではない。 仲間たちとともに、獲物の尽きることのない世界でのんびりすごすこと。それだけだ。 「いつか、そんな話をしたいわね、皆と」 しゃりん、と音を立てる月の欠片を見遣り、レオナはくすりと笑った。 「ああ……父上、母上……!」 ジュリエッタが月の欠片の中に見た黄金は両親との思い出だった。 彼女が幼い頃に逝った父と母が、光の向こう側で笑っていた。 月が砕けたあの瞬間の衝撃は、きっと生涯を通して彼女の中に残り続けるだろう。 しかしそれは悪いものではなく、零れた涙も哀しみの発露ではなかった。 ヒトは恐らく、自分の意識を超えて不思議な、幻想的な、美しいものを見た時、自然と涙が出てくるようになっているのだ。 降りしきる欠片の中、泣いていては両親を哀しませる、と涙を拭い、ジュリエッタは大急ぎで海へ入り、懸命に駆けて金の欠片を探した。 さらさらと水に解けて消えてゆく欠片が多い中、ジュリエッタに拾えといわんばかりに輝く大粒のそれを慌てて拾い上げる。 「そうじゃ……思い出した。まだ母上が健在の頃、父上から賜ったという月を象ったイヤリング、ちょうどこんな月の色、輝きをしておった……」 借金のカタに取り上げられてしまったそれを、懐かしい痛みとともに思い起こしながら掌を見下ろすと、欠片は、ジュリエッタの記憶通りの、月のイヤリングへと替わっていた。 「……これは」 そのイヤリングを身につけた母の、少女のような笑顔を思い出す。 あなたも素敵な恋をしなさい、と笑った母と、ちょっと照れ臭そうな父の姿を。 「……ありがとう……」 忘れたくなくともいつかは遠ざかってしまう大切な記憶。 そのひとつを、月の欠片はくっきりと思い出させてくれた。 そのことに、ジュリエッタはイヤリングを握り締め、静かに感謝する。 ――シム、リトル・シム! ――ほら、こっちにおいで。背を測ろう……ああ、やっぱり、大きくなった。 ――きっとすぐにママなんて追い抜いちゃうわね。 ――パパのことも、きっとすぐに追い越してしまうよ。 ――だけど、今はまだあたしの小さなシムでいてね。 ――パパもママも、命をかけてお前を守るよ、リトル・シム。 冷徹な眼差しで空を、海を見つめる闇姫の姿を視界の隅に認めつつ、サーヴィランスの脳裏に展開されていたのは、三十数年前の出来事だった。 確か、七歳になった頃のことだ。 拾い上げた黄金の欠片は、サーヴィランスに、本人ですら忘れかけていた遠い日の記憶を思い出させた。 「ああ……」 知らず知らず、息が漏れていた。 退廃し悪意に満ちた世界で、その色に染まることなく善良で……誠実であり続けた両親が、満面の、慈愛と喜びに満ちた笑顔でサーヴィランスを見つめている。 (逃げなさい) (大丈夫……パパがお前を守るから) (逃げて、生きて、愛しい子) (心配は要らない、ずっと、傍にいるよ) 最後の日の惨い記憶に、ぽっと光がともったような錯覚があって、覆面の中で、サーヴィランスは目を見開いていた。 警官である父親を狙った二人組の犯罪者に自宅を襲撃され、目の前で両親を殺された上、自身も顔に重傷を負った。庇護者を失った彼は孤独な幼少時代を過ごし、犯罪への怒りを忘れられず、その怒りに追い立てられるように犯罪撲滅を誓った。 自らを鍛え上げるために世界各地を放浪し、様々な修行を積み、そして彼はクライム・ファイターとしての活動を始めた。 その記憶の中で、両親は、ずっと殺された瞬間の無残な姿だった。 毎夜の夢に見るほど、その瞬間が強く焼き付いてしまっていた。 しかし。 「……そう、だった……な」 声が震えたのを、誰かに聞かれただろうか。 怒り、絶望、後悔が、あの瞬間の衝撃が、遠くへと運び去ってしまっていた――遠く霞んでしまっていた、幸せだった頃の家族の記憶。 あの愛を受けて育ったのがサーヴィランスだった。 父が、母が、今でも望んでいるのが、サーヴィランスの幸いだった。 今更確かめずとも、何よりも判る。 「……」 悔恨と憎悪、怒りに染められていた胸に、黄金の光が灯ったのが判る。 自分が彼らに許されていることが、はっきりと判る。 生きろと願った両親に応えることが愛ならば、顔の傷ですら誇りだった。 それは彼が生きている証でもあったから。 「こんな気持ちになれたのは、久しぶりだ……」 掌の欠片を握り締め、サーヴィランスは呟く。 この黄金は自分を変えるだろうか、そんな風に、思う。 海に降り注いだ黄金があおの中に解け、夜が、海が静けさを取り戻してゆく中、人々もまた夢から醒めたような表情で空を、海を見つめていた。 「……すごいもの、見たな」 水炎の言葉に、健とジュリエッタが頷く。 「また見に来たいなぁ」 「五十年後に、かえ?」 「ああ」 「悪くねーな、それ」 巡礼者たちが欠片を握り締め、涙を拭うさまを見遣りつつ、顔を見合わせて笑う。 ロストナンバーたちの旅はまだ続くけれど、今宵目にした黄金は、これからもきっと彼らを助けてくれるだろう。 誰もがそう確信し、胸に刻まれた黄金を思った、そんな夜だった。
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