0世界、ターミナル。 螺旋特急の乗り入れする《駅》は、今日もまた旅立つ者、帰還する者、見送る者が行き交い、賑わいを見せている。 その、片隅で。「妙な予言を見た」 旅人達を送り出すプラットホームにて、世界司書・灯緒はゆるりと首を傾げてそう告げた。彼の導きの書は映画のワンシーンのように予言を切り取る性質のものなのだと言う。「酷く主観的な映像だ。視野も狭く、見た、と言うよりは、聞いた、の方が近いかな」 まあ寝ぼけた猫の戯言と思って聞いておいてくれ、と出発を待つロストレイルの前で、世界司書は予言を紡ぐ。 + + + 瞼を開く。瞳へと沁み込む光が、いやに黄色く、いやに鈍い。「目覚めたか」 遠い鼓膜に届いた問い掛けに、考えることもなくただ無心に頷いた。倒れているのか、横たわっているのか、平衡感覚も曖昧で、身を起こす事もままならない。「そうか……ひとまずは成功したようで、何より。この街の魂のほとんどは黒夜神が連れていったばかりだ。肉体は必要なくなり、燃されたものが多い」 滔々と、語る声が響く。 視界は暗く濁り、距離さえも判別付かない。軋む腕を持ち上げて顔に触れれば、右側が激しく凹凸しているのがよく判る。「これくらいしか用意できなかった。すまないね」 動きにくいだろう、と、声が問いかけてくる。「……いえ」 引きつる唇を開けば、皮膚が裂けた。痛みはない。 放つ声は醜く、乾いた砂漠のようだ、と思う。「充分です。あの人に会いに行くだけだから」 それでも己は幸せだ。 再び、この地に降り立つ事が出来たのだから。 再び、愛する者に見える事が出来るのだから。 + + + 常ならば暗雲立ち込め、泥濘の底に沈んだかのような色彩を見せるインヤンガイの街も、今日ばかりは幸福の予兆に空を輝かせているように、旅人達の眼には見えた。「えーと……灯緒さんの地図によれば、このビルの三階だな」 猫の手で描いたとはとても思えない――実際、彼が書いたものではないのかもしれないが――精巧にして判り易い地図に誘われるまま、辿り着いた五階建ての雑居ビルを相沢 優は仰ぎ見た。 コンクリートの壁は罅割れて穴が空き、その合間から覗く霊力線が青白い光を走らせている。 塗装の剥げた階段に足を乗せる度、軋む音が響いて、彼らを不安な面持ちにさせる。 果たして、三階のドアの向こうで彼らを待っていたのは、骨と見紛うばかりの細い肢体を持った女であった。「……ああ、あんた達が捜査の協力者か」 ぼそりと声がかかる。マフラーに深く首を埋め、長い黒髪の女は感情の灯らない目で旅人たちを順に見た。「自己紹介が遅れた。私はラン。イェン――前の探偵の後を引き継いで、ここリージャン街区で探偵をしている」「えーと、あの。……よろしくお願いします!」「ああ」 ぶっきらぼうに頷いて、旅人達をドアの奥へと招き入れる。大雑把に片付けられた机を挟んだソファに、向かい合わせに彼らは座った。「イェン探偵は」「彼なら今、罪を償おうとしているところだ」 白皙の美貌に何の色も窺わせず、冷涼な声で尋ねるヴィヴァーシュ・ソレイユへ、女はただそれとだけ答えた。「では、事件の説明に移る。現在までで被害者は五人、どれも若い女性で、結婚式の日に殺されている」 その誰もが、長い黒髪とたおやかな容姿を持った、貞淑さと聡明さを兼ね備えた美人であったと言う。「みな、襲撃の際に黒髪を根こそぎ切り取られている。……二番目の被害者など、参列者の前で頭皮から剥ぎ取られたと言うんだから、実に残忍な犯行だ」 襲撃のタイミングはそれぞれで差異はあれど、大体が式の中盤、新郎新婦が結婚指輪の交換を行う前後に現れる。目撃者――参列者が多数集まっている中でも怯むことなく、何処からか哄笑と共に現れる襲撃者の姿は、黒い靄のようなものに覆われていて捉える事が出来ないと言われる。 犯行の手口としては、大きな銀の鋏で首や胸を一突き。その後、髪は刈り取られた者もあれば、強い力で引き剥がされた者もある。取り押さえようと周囲の者が襲いかかっても、黒い靄に一蹴され、まるで歯が立たないとの事だ。「今日結婚式が行われるのは、この通りの外れにある『富錦飯店(フージンホテル)』だ。新築したばかりの建物で、大きな赤いアーチが掛けられているから路に迷うことはないだろう」 新郎新婦は共に天涯孤独、穏やかな人柄で、質素で堅実な家庭を築く事ができるだろうと言われている。差し出された写真に映る新婦も、やはり美しく長い髪を持っていた。「それと、一連の事件に関わりがあるかは判らないが……五番目の事件で、怪しい老婆の姿が目撃されている」 顔の右半分が焼け爛れた、醜い容姿の老婆。 喪装に似た黒服に身を包んだ、およそ祝福の場にはそぐわないその姿を、列席者はよく覚えていた。手に何か古ぼけた紙のようなものを持って、誰かを探すようにうろついていたのだと言う。「特にその老婆が何かをしたと言う話は聞いていない。気になるなら、式場で探してみるのもいい」 ひととおりの説明を終えて、何か質問は、と両手を軽く広げたランが言うのへ、三日月 灰人が周囲を窺うように恐る恐る手を挙げた。ずり落ちた眼鏡を指先で押し上げ、問う。「女性の髪は霊的な媒介や呪具にもなります。……呪術や儀式の可能性について、思い当たる節はありますか?」「さあ、私はそう言うのには疎いんだが……そう言えば、一年ほど前にも呪術がらみの事件があったな」 暴霊を使って蠱毒を行おうとした者が居たのだと、女は端的に語る。蠱毒、の言葉に灰人の肩の上の黒い蚕が身を擡げたが、彼女がそれに気付いた様子はなかった。「知り合いによれば、この街区にはそう言った霊媒や呪術を行いやすい土壌があるんだそうだ。未だにヘイイェのような土着神が祀られているくらいだからな」 辺境ゆえに霊力開発が遅れ、壺中天の設備も整っていないこの街区では、風俗や慣習が時に霊的な力を持つことも多い。その可能性も多いにあり得る、と、探偵はひとつ頷いた。「預かった資料によれば……半年ほど前、式場の火災により新郎新婦および列席者のほとんどが死亡した事件があったようですが」 0世界で貰った資料に目を落とし、ヴィヴァーシュが口を挟む。「よく調べたな、確かにそんな事件も起きた。現場は今日と同じ富錦飯店だが……少し時期が遠い。今回の連続殺人に何か関係あるだろうか」「あら。無いとも限らないじゃない?」「……その時の新婦が、暴霊になって彷徨っている、とか」 小首を傾げて微笑む幸せの魔女の隣で、優が唸るように推測を口にした。「なるほど。暴霊は小柄で、女性的なシルエットだったとも聞く。あながち的外れでもないな。……では、その件はこちらで調べて、何か判ったら連絡しよう」 得心したように頷いて、それと、と言葉を続ける。「招待状は私が用意した。現場周辺でスムーズに動きやすくなる、持っていたほうがいい」 五通の白い封筒を机の上に並べて、マフラーに首を埋めた女は無表情のまま、よろしく、と頭を下げた。 五人の旅人は顔を見合わせて、力強く頷き合う。「髪は女の命と言いますが……女性の髪に執着している暴霊? 古来より長く美しい黒髪は処女性の象徴ともされますし……」 資料に没頭し、うわ言のように己が推理を組み立てる灰人。丸眼鏡を蛍光灯の弱い光に煌めかせる、その姿は神父と言うよりも探偵により近い。「……ふむ」 静謐な光を燈す緑の隻眼を瞼の奥に閉ざし、何かを思案するようにヴィヴァーシュは整った眉を寄せた。――灰人の推理を静かに聞き届けているのか。「私はね、とても幸せなの。だから、その幸せを邪魔する奴は容赦なく始末するわ」 美しく、愛らしい笑顔の裏に不穏な言葉を孕んで、幸せの魔女が夢みるような口ぶりで言う。「そうそう。幸せな瞬間を邪魔するやつは、蹴られてまえ、やね」 灰人の肩に乗っていた黒い蚕――ムシアメが、その小さな全身で以って幸せの魔女の言葉に賛同する。「さて、じゃあ……行こうか」 優の言葉に促されるようにして、五人は探偵事務所の扉を潜った。=========!注意!この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。ただし、参加締切までにご参加にならなかった場合、参加権は失われます。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、ライターの意向により参加がキャンセルになることがあります(チケットは返却されます)。その場合、参加枠数がひとつ減った状態での運営になり、予定者の中に参加できない方が発生することがあります。<参加予定者>相沢 優(ctcn6216)ヴィヴァーシュ・ソレイユ(cndy5127)三日月 灰人(cata9804)幸せの魔女(cyxm2318)ムシアメ(cmzz1926)=========
赤いアーチは祝祭の証。 空は青く澄み渡り、二色のコントラストが鮮やかに目に焼き付く。 リージャン街区一の大通りはその日、祝福の色に包まれていた。 「ご結婚、おめでとうございます」 式場隣の控室。 ふたりよく似た微笑みを浮かべる新郎新婦の前に立ち、色とりどりの花束を差し出して、相沢 優は祝福の言葉を告げた。精緻な千鳥格子のスラックスに、群青のジャケットとベストを合わせた正装に身を包んだ青年の姿は、咲き誇る花々に彩られてより華やかに見える。 淡い色のマーメイドドレスを着た新婦が一歩近付いて、優から花束を受け取る。ありがとう、と黒い髪を靡かせて、答える。心からの感謝の言葉に、優もまた微笑みを返した。 このふたりの、幸せを護ろう。 幸福な日をこれ以上、悲劇に変えないために。 決意と共に、心やさしき青年は控室を辞す。 立食形式のホールは、思い思いの食事を手に取り会話を交わす列席者で賑わっていた。式の開始を待ちわびて、古馴染みの昔話に花を咲かせる。 笑みの溢れる人々の隙間を、黒と白の影が縫うように歩き抜ける。いつもと同じ牧師服に身を包んだ三日月 灰人は、しかしいつもよりも身形には気を使ったつもりでいた。この日のために衣裳を新調したのだが、哀しい事に誰一人として気付いてくれないまま、今に至る。 「知人友人を集めた小規模な式やって聞いとったけど、それにしても結構な賑わいやねえ」 ふと、己の肩口から声が聴こえて、笑みを漏らす。 「それだけご友人の多いお二人なのでしょう」 「せやね」 肩の上にちょこんと鎮座する黒い蚕に一度目をやって、灰人はさがった眼鏡を片手で押し上げた。 「ムシアメさんは、人にはならないのですか?」 「あー……ま、ええやろ」 一体世界司書は探偵に何と説明したのか、蚕の姿でいたはずのムシアメの分もしっかりと招待状は用意されていた。 「わい、目の色がコレの時点で、人ちゃうとバレるような気もするんよなあ」 「我々には“旅人の外套”の効果があります。大丈夫でしょう」 灰人の説明も充分理解している。だが、やはり不安はぬぐい切れぬもので、まあ暫くは蚕のままでいいか、と彼は相変わらず灰人の肩の上で丸くなるのだ。 「案外、自分で歩くのが面倒だったりして」 「う、ばれたか」 傍から見れば一人漫才とも取れる灰人とムシアメのやり取りに、疑問も抱かず加わる声がある。軽口を返して振り返ったムシアメは、その先に淡い金の髪の少女を見つけた。 「……って、そりゃまた、えらいぎょうさん確保しとるねえ」 「あら、腹が減っては何とやらって云うじゃない。来たる戦に備えて鋭意を養っているのよ」 甘くとろける笑顔で以って、幸せの魔女はまた一口、皿の上に盛られた魚の切り身を口に含んだ。彼女自身の愛くるしい容姿や浮かぶ柔らかな笑顔は、まるで紅茶を片手に砂糖菓子を食む少女のような優雅さを持ち合わせる。実際その皿に乗っているのは、山と盛られた主食の数々なのだが。 「おや、魔女さん。こちらにいらしたのですね」 「ええ。私に御用かしら?」 「しばらくの間、ムシアメさんを預かっていただけますか?」 肩の上の蚕を己が掌に誘導し、幸せの魔女へと差し出す。 「何、わいはお邪魔虫?」 「まあ蟲ではあるわね」 「これから新郎新婦に逢いに行くもので。ムシアメさんは蚕の姿ですから、驚かせてはいけませんしね」 「ああうん、確かにそうやな」 灰人は式中、牧師役を担う事となっている。穏やかな口調で理由を付け足せば、ムシアメもまた納得したように小さな首を擡げた。 「ま、そう言うことなら構わないわよ。いってらっしゃいな」 見目は可愛らしい少女だが、特に蚕や虫に対する恐怖心は無い。ムシアメを肩の上に乗せて、何事も無かったかのように食事を再開する少女を、当の蚕が苦笑しながら眺めていた。 「あの夫婦はとても幸せな家庭を築き上げるでしょうね。幸せの魔女であるこの私が言うんだもの、間違いないわ」 「ええ、本当に」 些細ではあるが己に『幸福』をもたらしてくれたこの祝祭を、幸せの魔女はいたくお気に召したらしい。灰人もまた、若き新郎新婦の姿に自分とその妻を重ね、うっとりと微笑んで応えた。嵌めた手袋の上から、無意識に左の薬指を撫でる。 「アンジェの花嫁姿はそれはそれは美しいものでした」 「はいはい、惚気はもうお腹いっぱいやわ」 魔女の肩の上に腰を落ち着け、黒い蚕が笑う。彼の肩に乗っている間に、何度妻の話を聞かされたか判らない。 「ふふふ、幸せはいいものよ」 柔らかくとろける笑顔で以って、『幸せ』を冠する魔女はそう独りごちた。 「今もそう、甘くてふわふわして、砂糖菓子のような――もしこの幸せを邪魔する奴が現れたら……容赦なく八つ裂きにしてやるわ」 可愛らしい少女の笑顔で、不穏な言葉を吐き捨てる。 「何や魔女はん、時々怖い事言わはるなあ」 「あら、心配しなくてもいいのよ。料理も美味しいし、今の私はとても幸せだもの」 「あ、わいの分もしっかり残しといてえな」 「それは保証しかねるわね」 「えー、そんな殺生なー」 肩の上の黒い蚕と、微笑む少女の姿をした魔女が漫才にも似た軽やかな会話を交わす。 瞬間、この祝祭が孕む暗い影の事も忘れて、灰人は慈愛に満ちた笑みを浮かべた。 ホールの片隅に用意された椅子に腰かけて、優は皿に控え目に盛り付けた食事を口に運ぶ。会場の様子が一目で眺められるこの位置は、さりげなく式を見守るには最適と言える。正面の壇上に立つ灰人と時折目配せを交わし、お互いに異変の無い事を確認し合った。 何かその場に無いものでも見るかのように、虚空へと目を向ける。 「優さん」 聞き慣れた声が、彼の名を呼ぶ。ふと振り返れば、一人の青年がこちらへと歩み寄って来ていた。 「あ、ヴィーさん」 笑いかければ、銀の髪の青年もまた小さく会釈を返した。ヴィヴァーシュ・ソレイユ――陶器で出来た人形のように端正な貌をしたこの精霊術師は、冷徹と見せかけて実際は誠実で穏やかな気質の人間であると、知己である優は既に理解している。だからこそ、素っ気なくも見えるその対応にも知らず笑みが零れてしまった。 仕立ての良い革靴で一歩進み出、両手に持っていたグラスの片方を優へと差し出す。 「どうぞ」 「ありがとうございます。でもおれ、未成年――」 「アルコール分は含まれていないはずなので」 請け負うように頷く彼の言葉を受けて、差し出されたグラスを手に取った。小さな杯の中でささやかに泡が弾けるその飲み物は、炭酸水か何かだろうか。隣に立つ彼のグラスの中身もまた同じと見えて、酒をあまり好まぬ性質なのだろうかと推測する。 「何かを、お探しのようでしたが」 そう問いかけるヴィヴァーシュの面(おもて)には常と同じように何の色も浮かばない。凪いだ湖面の如く、怜悧な隻眼が優を見据えていた。 「探偵さんが言っていた、老婆ってのがどうしても気になって」 簡潔に応え、再び虚空へと視線を飛ばせば「《ミネルヴァの眼》ですか」と察しの良い言葉が返り、ひとつ頷く。式場の天井近くへと飛ばしたセクタンと視界を共有し、華やかな祝祭の中に在る不自然な色彩を探す。 「……では、見つけたら私にも教えて頂けますか。かの老婆の事は私も気になります」 「はい、必ず」 頷きを交わした二人の耳に、厳かなる牧師の声が届く。 壇上にて行われる式は、粛々と、山場へと差しかかろうとしていた。 「……その健やかなるときも、病めるときも」 心からの祝福と共に、牧師として、灰人は言葉を紡ぐ。 顔を伏せ、丸い眼鏡の奥から、言を聞く新郎新婦の様子を窺った。夫婦は似るものと聞くが、なるほど確かに、素朴な笑みを浮かべた二人は本当によく似ている。――己と、愛する妻もまたそうであったのだろうかと、灰人は再び想いを馳せた。 紙面に指を這わせる。ひとつ息を吸い、次の言葉を編む。 「――これを愛し、これを敬い、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか」 幸福に満ちた新郎新婦は共に首を傾げて、くすぐったそうに微笑むと、二人、声を合わせて了承の言葉を口に乗せた。 「……では、誓いの儀として、指輪の交換を」 厳かに放たれる声。灰人の取りだした指輪を受け取り、二人が向きを変えて、互いを見遣る。 袖から式を眺めていた優とヴィヴァーシュが、食事に舌鼓を打っていた幸せの魔女と、その肩に乗るムシアメが、それぞれに反応を示し、壇上に立つ三人へと注視する。 探偵の言葉によれば、もう、間もなくだ。 ( かえして ) 大気が、音を立てて震える。 「来よる。――濃い、呪いの匂いや」 或いは禍々しい、瘴気にも似たそれ。 幸せの魔女の肩から離れ、黒い蚕は地面に降り立つと瞬時に人間へと姿を変えた。黒い肌に黒い髪、白い瞳の青年が、幸せの魔女を庇うようにして立つ。 ( 私の未来を、 ) 宙に響き渡る、咆哮。 空虚なその叫びの奥深くに、懇願の声が聴こえた気がした。 「……未来?」 トラベルギアの剣を手にし、立ち上がった優は、誰にともなく問いかける。声のする方向を探して、耳を傾ける。 「何か、言いたい事があるのか……?」 抜き放った刀身が、優の戸惑いを映して煌めいた。 ( ――私の幸せを ) 懇願の声が、嘆きに変わる。 空気、それそのものが断ち割られるかのような轟音。 式場の中央から、突如として漆黒の靄が立ち昇る。膨張し、両翼を広げた鳥にも似た形を取って、不定形の黒は渦を描いて細くなる。 ゆらゆらと揺らぐ、それは人の影。ふわりと広がるドレスを身に纏った、小柄な女の影。確かな輪郭を描いて、暴霊は一歩、壇上へと迫った。 ( かえして ) シャンデリアの灯を幾重にも跳ね返し、空を切り裂いて銀の光が跳ぶ。黒い尾を引いて、真っ直ぐに壇上の女へと、数多の銀が跳ぶ。 「――いけない!」 灰人が叫び、女の前に飛び出した。胸に握るロザリオが、白銀の光を放つ。迫り来る銀がその光の内に呑み込まれて、融けるように消滅する。 眩い浄化の光は広がり、居並ぶ人々の眼を覆い、襲い来る異形の影へと迫った。哀れな女の暴霊は灼き祓われて光の間に立ち消え、断末魔の声が輝きに翳む。 「殺った?」 「……いえ、完全な浄化は出来ていません。すぐにまた現れるでしょう」 幸せの魔女の呟きに応えて、灰人は首を横に振る。 ひとときだけの浄化だが、時間稼ぎとしては充分だ。旅人達は迅速に動く。 「皆さん、此方へ!」 鋭く通る優の声は、恐慌する客達の耳に力強く響いた。 混乱に陥りながらも、彼らは暴れる事なく的確な指示に従う。 だが、列席者を誘導しつつも、優の思考はその場から遠く離れた場所に在った。そわそわと落ち着かぬ素振りで、何かを気にかけるかのように時折目が虚空へと向かう。 「彼女はお任せください」 「!」 ふとかけられた声に驚き、振り返る。 音もなく、その傍らにヴィヴァーシュが立っていた。 「ヴィーさん」 「“見つけた”のでしょう?」 全てを見透かすかのような、緑の隻眼。笑みもなく、静かにただ優を見据える。 敵わないな、と優は肩を竦め、頭を下げた。 「……お願いします!」 新郎新婦と観客、従業員、その最後の一人がホールから出た事を確認して、扉を閉める。暴霊を仲間達に任せ、踵を返す。 青い梟の視界を追って、駆け出した。 ( かえして ) 哀れな女の嘆きは、同じ言葉をただ繰り返す。 再び床に深淵の如く靄が集い、女の姿をした暗闇が這い出でる。醜悪に歪み、憎悪に凝り固まったその魂を、哀れむ気持ちこそあれど認める事は出来ない。 漆黒の靄が細く長く伸びる。鞭のようにしなり、女の細腕の形を取ったそれが銀の鋏を取り出す。先程新婦へ目掛け投擲されたのも、あの刃だったのだろう。 靄は次々と腕を創り、取り出した鋏を投擲する。再度結界を張るべく足を踏み出した灰人を、絹糸を紡ぎ出すムシアメを、幸せの魔女が押しとどめた。 「任せなさい」 愛らしい表情で片目を瞑り、両手に握る真鍮の棒を振り回す。 空を切る鈍い音。 投げられた鋏は魔女の一振りにことごとく捕えられ、弾き落とされた。落下して、地面に触れると同時に掻き消える。 「あっつ!?」 彼女の揮った真鍮から飛び散る白がムシアメの腕に触れ、思わず飛び上がった。何事かと見遣れば、幸せの魔女が持つ真鍮の棒の先に、白い何かが突き立っているのが見える。一振りで焔は消えたようだが、未だ熱を保っているのは―― 「――燭台ちゃうんそれ!?」 しかも、あろうことに蝋燭が刺さったままの。 目を剥いて問いかけるムシアメに、幸せの魔女は素直に頷く。 「目を付けておいてよかったわ」 肩を竦めて悪びれもせずに笑う彼女の姿に、最早ツッコミは無駄だと悟り、ムシアメは嘆息を零した。 「さて。“私の”幸せを滅茶苦茶にした代償、払ってもらおうかしら」 「……魔女はんの、なんやね」 「当然よ」 既に、暴霊の靄の腕は、次の鋏を取り出して構えている。 暴霊が生前、どのような怨嗟を紡ぎながら死んでいったのか、一介の巫蠱たるムシアメには知りようもない。――知る必要もないと、思っている。道具である彼に、哀れみの心はない。どこか自嘲気味に唇を曲げる。 しゃらり、鋭い音を立てて、翻した両手に幾本もの鉄針が現れた。 「呪う者は、呪われる覚悟を」 白い瞳が細く、剣呑な光を燈す。 呪い紡ぎの蚕(ムシアメ)としての矜持が、彼を駆り立てる。 《ミネルヴァの眼》が視た光景を追って、廊下を曲がる。階段を駆け下りて、ホテルの入り口にまで辿り着いたその先に、優は己のセクタンと探し人を見つけた。 「あの、すみません!」 角を曲がろうとする後姿へ、咄嗟に叫んでいた。腰の曲がった影が、立ち止まる。 「あなたは……」 躊躇いがちに呼び掛ければ、灰白んだ髪の老婆は振り返り、引き攣れた肌の下で濁った瞳が優を見つめる。焼け爛れた貌からは生気や命の気配といったものは一切感じ取れず、背筋を過ぎる薄ら寒さに優は一歩、足を退きかけて――踏みとどまった。 式場の入り口で合流した探偵から預かったメモに、目を落とす。 「……夏 紅音、という名前を、御存知ですか」 シャ・ホンイン。 ある種の確信を以って、その名を口に昇らせる。 老婆の濁った瞳に、確かに光が燈ったのを、優は認めた。 一陣の風が刃の如くに鋭く吹き抜けて、襲い来る靄を相殺する。投擲された鋏をも切り裂いて、目に視えぬ鋭敏な刃は暴霊へと迫った。ヴィヴァーシュの操る精霊の風が、式場内を無尽に駆け巡る。 「ちょっ、ヴィーはんあかん!」 「……?」 斜め後ろから聴こえる声。焦燥の色が濃いそれを訝しく思って振り返れば、灰人の腕にしがみついて必死に訴えるムシアメの姿があった。 「わい、こんな姿でも重さは蚕やねん! 風はあかんて!」 風に乱れる髪を抑えて叫ぶ。その言葉通り、依然吹き付ける風に飛ばされぬよう、近くに居た彼の力を借りているらしい。 灰人の肩に乗っていた黒い蚕の事を思い出して、ヴィヴァーシュは表情を変える事なく納得する。確かに重さがあのままとなれば、つむじ風に攫われてしまうのも判らぬ話ではない。 「これは、失礼を」 絹手袋を嵌めた手を虚空に伸ばし操っていた風を已ませれば、落ち着いたのかムシアメも髪を手櫛で整えながら笑った。 しかし、ムシアメの事が無くとも、風を繰り続けていれば式場内が荒れる不安もある。出来ればこのまま、式を続けて欲しいと願っている彼にとって、それは避けたい事態だった。 如何するか、と逡巡する彼を目掛け、暴霊は再び鋏を投擲する。 「鋏なら任せとき!」 叫びと共に、幾本もの白い筋が彼の眼前を過ぎる。細く、軽やかで長い、見目よりも頑丈であろう艶やかなその糸は、蚕の絹。 呪い紡ぎのムシアメによって紡ぎだされた絹糸が、次々と投擲される鋏を絡め取ってその動きを封じる。 「わいのせいで風が使えんのやけ、その代わりくらいは果たすでー」 「……感謝します」 己が手のように絹糸を操りながら朗らかに笑うムシアメに、ヴィヴァーシュの怜悧な面差しが、微かに和らいだ。 「見ぃ、来るで」 ムシアメがそう促す。 掻き消された靄はすぐさま腕の形を取り直し、何処からともなく次の鋏を取り出す。虚ろな目は紅く光り、切るべき黒い髪を探しているように見えた。 その時、突如としてホールの扉が開いた。 暴霊の意識がそちらへと向かう。構えていた鋏の全てが、真っ直ぐに投擲された。 「――相沢さん!」 扉の向こう側に垣間見えた仲間の姿に、灰人が咄嗟に叫ぶ。うろたえ、とにかく助けなければと、ロザリオを向けた彼へ、優は気丈な笑みを返した。 眼前に迫る、幾つもの刃。 だが、彼の貌に怯えは無い。 「……あなたにも事情がある」 己の前で斜めに構えた刃が、淡く確かな光を纏う。 「愛すべき人が居て、果たしたい恨みがある。それは、わかるんだ」 光は広がり、薄まりながらも仄かに膜を張って、優の前面に展開される。襲い来る黒い靄を、銀の鋏を、燃える暴霊の腕を弾き、護りの壁は微動だにしない。 「……けれど、その為に誰かの幸せを奪うのは、間違っている」 だから、それを護るためならば力を惜しまない。 理知的な瞳に強い覚悟の火を燈し、優は剣を握る手に力を籠めた。床を蹴り、鋭い一歩を踏み込む。次の鋏を構えられる前に、袈裟掛けに剣を揮う。 悲憤の叫びが、その瞬間断末魔へと変わる。 身体ごと靄を切り裂かれ、たたらを踏み倒れ込んだ暴霊へと、幸せの魔女が追撃をかけた。 踊るようなステップを踏む。スカートの裾を軽やかに翻しながら、その手に持つ細剣が美しく閃いた。 暴霊の弱い部分を見抜くと言う、“幸せ”。 幸せの魔女はその力を如何なく発揮して、それを求めた。踏み込む一歩で、“幸せの剣”を突き入れる。 繊細な切先は吸い込まれるように、暴霊の左手を貫いた。その薬指、暗い色に包まれた中で唯一、白銀の光を落とす指輪を。 「そう――まだ、貴方の心は結婚式の日に在るのね」 最たる幸福を与えられるはずの場で、命さえも奪われると言う不幸を負った女。その絶望は如何ばかりだっただろう、と戯れに想いを馳せる。 「残念ね……私がその場にいたなら、全力で護ってあげたのに」 もちろん、幸せをお裾分けしてくれるなら、だけど。 悪戯な微笑みで付け足して、幸せの魔女は刃を翻す。靄が血飛沫の如くに弾け、白銀の指輪が暴霊の指から断ち切られる。 短い悲鳴は、間断なく襲いかかる水流の中に融けて消えた。 ヴィヴァーシュの操る水流は的確に靄を捕え、不定形であったその形を留めさせる。次々と量を増して襲いくる激流が、やがて大きな水球へと姿を変えて、靄の女を完全にその中に閉じ込めた。 水の中に在って尚、女は悲嘆の叫びを零し続ける。誰かの名を、忘れてしまった何かの名を紡ぎ続ける。 足元で煌めく白銀に手を伸ばす。影から零れ落ちたはずのそれは、光の末裔の手にも触れる事が出来た。 「……指輪の交換を、行えなかったのですね」 緑の隻眼が、蠢く影を静かに見据える。水流に捕えられた靄が確かに人を象る、その頭部にぽかりと空いた二つの紅い光を。焦点の合わない、その双眸を。 「だから、彼“と”共に蘇りたくて、女性の髪を集めた」 髪は女性の象徴であり、呪術の媒介とも成り得る。霊自身が己からそれを知っていたと言う事は考えにくく、やはり誰か入れ知恵を働いた人間がいるのだろう。 「……そして、いつしか、その目的さえも忘れてしまった」 何故、挙式中の花嫁を標的として選んだのか、それは推測する事しかできない。だが、己と同じ絶望を与え、彼女たちの幸福を奪っていく内に、良心の箍が外れてしまった。――その成れの果てが、この、闇の色をした女なのだ。 絶え間なく零れ落ちる怨嗟の声、苦悩に満ちた響きの奥底に隠れた、ただ幸福を取り戻したい、愛する男にもう一度見(まみ)えたいと言う、純然たる願い。精霊術師の隻眼が、それを怜悧に見透かして、手の中の白銀を暴霊へと差し出した。 「どうぞ」 端正な貌に表情が浮かぶ事は無く、しかし存外穏やかな声音で、ヴィヴァーシュは語りかける。暴霊の眼が彼を見、その背後へと視線が移ったのに、彼は気が付いた。 その先に、誰が待っているのかも、彼は知っている。 「不幸の連鎖を、此処で終わらせましょう」 言葉と共に、一歩、横へと退いた。 優に導かれるようにして、小柄な影がホールに姿を見せる。 「あれは」 「……探偵さんが言っていたわね、謎の老婆が現れるって」 半身が焼け爛れた、異形の老婆。事前の情報通りに現れたその女が、虚ろな霊へと迫る。不慣れな身体を引き摺って、一歩一歩。 「……あら?」 その手から、不意に一枚の紙片が落ちた。風に舞い、足元へとやってきたそれを、幸せの魔女が拾い上げる。 『 夏 芸和 夏 秀玉 』 紙片には、二つの名前を中心として、文字とも模様ともつかぬ何かが描かれている。 「こりゃまた、ややこしい手使うとるねえ」 三つ編みにした髪をさらりと揺らして、ムシアメが幸せの魔女の背後から覗き込んだ。 「蚕さんにはこれ、判るの?」 「なんとなくやけどね。呪いっちゅう括りじゃわいもおんなじようなもんやし。……こりゃ反魂術や」 端正な貌を歪め、自らも呪術の道具として生み出された青年は苦々しく言葉を付け足す。死者を蘇生させる――死者の魂を現世に呼び戻し、繋ぎ止める、ムシアメにとっては禁術に分類される呪いだ。 「つまり、芸和さんの魂を、秀玉さんの器に定着させたってことやね。姓が同じっちゅうことは、家族なんやろか」 「……半年前の結婚式の火事で亡くなった、新郎の名前が『芸和(イーファ)』だ」 老婆と暴霊の行く末を見守りながら、優が言葉を挟む。 「では、その母親の名は」 「――『秀玉』」 先を促す灰人に目を向ける。探偵から預かった報告書の記憶を手繰り寄せて、その名を口にすれば、やはり、と灰人も得心が行ったように頷いた。 「新郎の魂を、同じく火事で無くなった母親の遺体に収めて、一時的に現世に蘇らせた。……あの老婆の正体は、そう言う事だったのですね」 呪術の仕組みを知るムシアメにも、異論は無い。魔女から預かった紙をひらひらと振ってみせる。 「たぶん、今はこの符がイーファはんの魂を繋ぎ止めとるんやろうけど……」 それを、かの老婆――イーファはおのずから手放した。ムシアメの黒の中に浮かぶ白い瞳が、不安定に揺らぐ暴霊と、覚束なく歩みを進めるイーファへと向けられる。 「逢いたかったんだ、イーファさんは」 独り言のように、優は呟く。 短く切り落とされた靄が、暴霊の周囲でゆらゆらと揺らめく。宵闇に似た濃紺の中で、時折不穏に煌めく瞳は女の戸惑いを映しているようでもある。 「妻に――ホンインさんに」 ほのかに青みを帯びた白い光が、黒衣の老婆を包み込む。纏わり燻ぶる炎のようであったそれは、徐々に背の低い彼女の身体から遊離して、細く長い、形を象り始める。 溢れる光、その最後の一滴までが遊離する。紙きれよりも軽く、容易く老婆の骸は崩れ落ちた。 空中に取り残された光は、灰人と同じほどの背丈の、人影に似た形を伴って、その場に佇む。 ( ホンイン ) 男が、女の名を呼んだ。 半年前の火事で死した、新郎新婦の魂。純然たる光に包まれた新郎の霊と、暗闇の靄に覆われた新婦の霊。 その二つが、今こうして向き合っている。 「もう一度、指輪の交換を行いましょう」 ヴィヴァーシュがそう、提案する。男の霊の手にもまた白銀が光っている事を確かめて。 「それで、貴方たちは永遠になる」 最早離れる事は無い。暗闇の洞の向こうに広がる、彼岸でも。 イーファは端からそのつもりでいたのだろう。頭部と思しき輪郭が緩やかに首肯し、女の影へと近寄る。 女もまた、戸惑いながらもそれを受け容れて、ヴィヴァーシュの手から白銀を受け取った。 「三日月さん」 優が灰人の名前を呼ぶ。 「牧師の役を、務めてくれませんか?」 「……私でよければ」 一も二もなく、灰人はそれを請けた。 光と影の暴霊が、二人並んで、牧師の前に立つ。 「……汝、健やかなるときも、病めるときも」 敬虔なる牧師の厳かな誓言を聞き入れて、靄の掛かっていた空気が浄化されて行く。 純銀のロザリオが、再び鮮やかな光を放ち始めた。 「これを愛し、これを敬い、如何なる時でも、真心を尽くすことを誓いますか」 白銀の光に包まれて、ふたつの影は形を喪いながら、しかし確かに牧師へと首肯を返した。 「……では、誓いの儀として、指輪の交換を」 牧師に促されるまま、差し出した指輪を、互いに受け取る。不安定に揺らぎながら、その薬指に嵌め合い、幸福に笑みを交わした。 ふたつの影が、融けて、混じり合い、虚空へと消えて行く。 後に残されたのは、白銀煌めく祝福の光。 牧師としての役目は終わった。ひとりの列席者として、灰人は二人の天上での幸福を願う。 「彼女は……己のしあわせを壊したものを憎んだ、得難い伴侶を盗んだ運命を、嘆いた」 眩い空を仰ぐように、目を閉じて、微笑んだ。 その脳裏に浮かぶ美しい笑顔は、果たして誰のものだっただろう。 「……その気持ち、よくわかります。私もかつて神を呪った……」 震える声、頬を伝い落ちる一筋の涙。 己が口から零れ落ちた言葉の理由を、灰人は知らない。 澄み渡る青い空を突き抜けて、果てなき暗闇に光の舞うディラックの空へと、ロストレイルが駆けてゆく。 中断された結婚式も無事に執り行われ、新郎新婦や探偵からの感謝と共に、五人の旅人はインヤンガイを立ち去った。帰途の車内で、めいめいに引き出物の中身を確かめる。 「優はんは、何もろたん?」 優の二の腕を懸命に登る黒い蚕が問う。優は問い掛けに応えるために引き出物の包みを開けた。 ふわりと広がる、淡い香り。 「植木鉢、かな」 両の手に収まるほどの、小振りな鉢。名も知らぬ――インヤンガイ独自の植物だろうか――小さな桃色の花が幾つも集まり、緑の葉の間に点々と咲いている。 肩の上にその身を落ち着けたムシアメにも見えるように、鉢を両手に取って持ち上げる。身を擡げた蚕が「おー」と感嘆の声を漏らすのを、微笑ましく眺めた。 「ムシアメさん、葉っぱ食べます?」 「わいはええよ、蟲でも何でも食えるし。相方に何か土産あるとええんやけど」 「うーん……じゃあ、これなんてどうだろう」 首を捻りつつ、植木鉢といっしょに入っていた紙包みを手に取る。平たい包みの封を開け、中身をもう片方の手に滑りだせば、柔らかな感触が指先に伝わった。 「絹のハンカチみたいで。引き出物としては定番だけど、刺繍が綺麗ですよね」 「絹なあ」 優の指に促されるまま、小さな蚕はハンカチの上に滑り降りた。白地に、銀糸で瑞鳥の刺繍が施されている。 「二枚ありますから、相方さんと一枚ずつ持てますね」 「せやねえ。おおきに」 呪いの籠められていない、純粋な絹の感触。 こう言うのも、たまには好い。全身で肌触りを堪能しながら、蚕は上機嫌にくねりと曲がった。 隣のコンパートメントに腰かけて、横合いから二人のやり取りを眺めていたヴィヴァーシュもまた、つられるように己の引き出物を確かめる。 銀の細工が為された小さな缶に封ぜられているのは、薫り高き紅茶の葉だ。インヤンガイのイメージにはそぐわないと思いながらも、気品あるその品に興味を向ける。 「……ふむ」 開いた缶を前にして、隻眼を閉じる。 鼻腔の奥へと穏やかに沁み込む香りは、愛飲している煙草に使用する香草のそれにどこか似ている。眼帯の奥に閉じ込めた傷の燻ぶる痛みが、和らげられるように感じた。 缶の造りもまたしっかりしていて、精緻な銀の意匠は置いているだけでも彼の眼を楽しませるだろう。思いがけずよい物を手に入れた、と唇を僅かに綻ばせて、缶を傾けて弄ぶ。 柔らかな薫りは、隣の優達の所まで届いていたようだった。 「三日月さんは、何をもらったんですか?」 「私は――」 優に促されるままに、灰人もまた包みを空ける。 ころりと転がり落ちたのは、片手で包めるほどに小さな石細工。興味深そうに見る二人の眼によく見えるよう、灰人はつまんで持ち上げた。 「瑪瑙の彫刻、ですね。この大きさなら文鎮に使えそうだ」 透き通ったその朱を光に透かし、意匠の美しさを愛でる。 精緻な彫刻の施されたその飾りは、二羽の烏に近しい姿をしているが、奇妙な事に翼はそれぞれ片方ずつしか備えていなかった。 「……なるほど。天に在っては比翼の鳥、地に在っては連理の枝、と――」 記憶の片隅に残る、漢詩の一句を口ずさむ。 雌雄一対、片側だけの翼を寄せ合って、つがいで飛ぶ伝承の鳥。夫婦愛の象徴ともされるその意匠に、灰人は微笑みに唇を緩めた。 穏やかな表情で引き出物を眺める彼らの前で、優は包みと共に入っていた一枚の写真を取り出す。 「何やの、それ。集合写真?」 「そうそう、式の最後に皆で撮ったんです。ムシアメさんは映ってないんでしたっけ?」 「あー……確かに、人の姿で映るんも蚕の姿で映るんも微妙や思て、逃げた覚えがあるわあ」 「映ってもよかったと思いますよ?」 ぼやく蚕を横目に、優は写真の中に充ちる笑顔を眺めた。 新郎新婦の左脇、幸せの魔女の膝下に擦り傷が見られるのに気付いて、思わず微笑む。ブーケトスの際に張り切ってスカートの裾をしぼり、跳躍からの空中キャッチ、そしてスライディング着地と恐ろしいまでの執念を見せつけた名残だ。 当の本人はと言えば、念願叶って手に入れたウェディングブーケに顔を近づけて、その色と香りを堪能している。 「あら、名誉の負傷よ。これくらい幸せを手に入れるためなら何ともないわ」 蜂蜜にも似た甘い色の瞳を細め、しれっとそう言いのける彼女の姿はやはり可愛らしい少女に他ならなかった。 もっとも、彼女自身が結婚を願っているわけではない。“幸せの魔女”たる彼女は、幸せをもたらすアイテムとしてのウェディングブーケの価値を欲したのだ。 もう一度笑みを深めて、優は再び写真に視線を落とす。 「……ん?」 ふと、その右隅に異質なものが移り込んでいる事に気が付いた。 「これは――」 笑顔に満ちた写真の隅で、揺らぐのは不穏な真紅。 水のように形を定めず、透き通って柔らかな、しかし冷たさを感じさせる色彩。四足で立つ獣――犬の姿をしたその影に、優は思い当たる節がある。 「一年前の蠱毒の事件で、紅い犬が目撃されていたと聞きましたが」 優の驚きを代弁するかのように、ヴィヴァーシュが横合いから言葉を挟む。それに小さく頷きを返して、再び写真に見入った。偶然とは思い難い。 「呪術師について、イーファさんは何か仰っていましたか」 「あ、はい。呪術師の名前は聞いていないそうです」 また、彼は一年前の蠱毒の事件についても知らされていないようだった。 「……うーん、ちらっと考えたんやけど、今回の事件、関わった呪術師は二人居ったんやないかな」 唐突に言葉を挟んだムシアメに、四人の視線が一斉に集う。皆の注目を一身に集めながら、臆する事もなく黒い蚕はハンカチの上を転がった。 「呪術師が、二人いた?」 「そ。何とも言い難いんやけど、匂いが違うたんよね。ホンインはんにかけられた術と、イーファはんの持っていた符と」 呪術道具としての視点から推測を口にして、ムシアメは小さなその身を擡げた。もっとも、彼自身の紡ぐ呪いはかの地の呪術とは仕組みが違う。彼の知らぬ事も多い。 「では、この犬は」 「うーん……写真越しやけ詳しいことは言えんなあ。せやけど、この不安定な感じ、ホンインはんの靄の出方に近い」 靄とは、突き詰めれば水である。液体が形を為したかのようなこの獣と似ているのだと蚕は語り、再び絹のハンカチにその身体を埋める。 護られた未来の裏で、取り残される不穏な気配。 かの世界に、再び何かが迫ろうとしている。――そんな予感が、旅人たちの胸を過ぎった。
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