風が舞う。 白が舞う。 張り詰めた大気の中、地表は霜を纏い、木々は白の紗を纏う。 冬の山が齎す死の気配を、色彩を感じ取りながら、青年はひとり山の中を往く。 さくり。 さくり、さくり。「――何の用だ」 足を留める。 振り返る事もなく、背後へと声を投げた。 此の地を訪れる者など知れている。まして、濃密なまでの春――木行の氣を纏っているとなれば。「機嫌はなおったか」 予想通り、背後から返る声は朴訥な物怪のもので、しかしその声音には常の彼らしくない、何処か逡巡する気配があった。 それにはいらえず、その場に立ち止まったまま無言で在れば、僅かな躊躇いの後に物怪が言葉を続ける。「否、聞く耳をもってくれればよい。――儀莱(ニライ)へゆかぬか」「……儀莱に?」 馴染みの物の怪が発した申し出に、雪深終は思わず振り返り、吹き荒ぶ白の中にその赤褐色を探した。果たしてあまきつねは氷雪被る樹上に留まり、二対の翼を畳んで風から庇いながら、彼を見下ろしていた。その頭上には、終にあるものと同じ、真理数が点滅しているのが見える。 視線が交錯する一瞬、かれは小さく頷く。「ソヤなる名の祝女がいるという」 或るロストナンバーが儀莱を訪れた記録に記された、彼らにとり酷く見覚えのあるその名。十の祝女を束ねる頭領である女は、何故彼の地で、その名を名乗っているのか。「かの地にすまう死者は、生前の記憶をすべてうしない、次の生を待つ身であるらしいが――生前と同じ名で通しているならば、かの者は記憶を保っているともかんがえられよう」 無論、単なる偶然の可能性もあるが、と付け加えて、玖郎は透徹した風にも似た聡明な言葉を重ねていく。 終は軽く俯いて、己の歩いてきた足蹠を見下ろす。雪に現れた小さな窪みが、降り注ぐ白によって瞬く間に覆い隠されていく様を静かに眺め、半妖たる青年はややあって口を開いた。「……その祝女は、儀莱から消えた娘――即ち菊絵か、彼女の身を案じていたんだったな。二人は似ている、とも」 かつて神夷に存在していた、ソヤの名を持つ女と、生前の菊絵は実の母娘であったという。――その二人の霊魂となれば、互いに姿が似ていると感ずるのも何ら不思議ではない。「……併し、菊絵に記憶があるのは、宝珠の破片由来の特殊な事例ではないのか」 記憶を取り戻したがゆえに放逐された娘。 その母親が、宝珠の破片もなくして記憶をとどめているのは有り得る話なのだろうかと、終は僅かに首を傾げる。「それに、彼女に僅かなり記憶が保たれていたとして……酷ではないのだろうか」 白虎の過去を識る青年が、何を慮ってそう語るのか。鳥の容をとる山神はその問いに返す言葉を持たず、ただ終の仕種を真似るように首を傾けた。 沈黙を、荒れ狂う風雪が塗りつぶしていく。 降り懸かる雪を払うように、何処か幼い仕種で青年は首を横に振った。「……否、玖郎が、したいことがあるなら、俺も行く」「――ならば、参ろうか」 幾分か消極的なその言葉を了承と取り、あまきつねは身を翻す。 舞い散る風に視界を覆われながら、しかし二人の妖の足取りは確かだった。小気味の良い音を立てながら、虚ろな白野に痕を刻んでいく。「……。どれ程足掻いたところで」 猛禽の肢が作る鋭利な足蹠をそのままなぞりながら、チェンバーの外へと向かう青年が、おもむろに独り言ちた。先程とは対照的に、玖郎は振り返る事もなくそれを聞く。「生命は生きる為以外に必要の無い事を、いずれは忘れなければならない」 吹き荒ぶ風が、風の運ぶ雪が、僅かに見えていた樹の洞をさえも埋め尽くしていく。この降り積もる白は、厚い層の下に果たして何を隠しているのか。――此処がチェンバーでなければ、虫の骸や獣の塒をも、庇護していたのだろうか。「死ななければならない。でなければ、生きられない。それが循環という理だ」 朱昏をめぐる全ての命は儀莱へ渡り、また儀莱から何処かへと旅立っていく。それはさながら、ターミナルから異世界へと廻る旅人たちにも似て。「神の使いは理の一部であるがゆえに理から逃れられず、人もまたそれを受け入れて生きるほかない」 自らに言い聞かせるような物言いでありながら、それは彼自身が痛いほどに理解している事柄のようだった。まるで確認をするように、訥々と声が落ちる。「……すまん。俺はまだ、諸々に対する己の考えが、纏まっていない。傍目に不機嫌に見えるのならば、単にその所為だ」 そして、物怪の初めの問いへ、ようやく答えを返した。 終の言葉に、あまきつねは足を止める。「半分は、膳立てのつもりだったのだがな」 野山で暮らす禽獣の物怪は、人であり妖である青年の抱く複雑なこころを、全ては把握し切れていないのだろう。珍しく言葉に迷い、態度に悩んでいるのが、実直な物怪の背中から伝わってくる。「問いが憚られるならば、むりには勧めぬ」「否……俺も、彼の祝女に逢って、確認してみたい。ソヤのメコノマキリを彼女の妹から預かっている、し――……だから如何、と言う訳でもないが」 歯切れの悪い、吹雪に遮られてしまいそうな言葉を、禽獣の聴覚はしかし確かに聞き届けた。そうか、と端的ないらえだけが返る。「……おれは、ここへきて、墓参りなるひとのならわしが、すこしわかるような気がしている」 ――黄昏の國で、朱野原の中ひと知れず命を落とした女の光景がよみがえる。 墓碑を立て地中に埋めるという人間の風習を不思議そうに眺めていた物怪が、今何処か感慨深げに、そう云う。「否、これはまた、ちがうものか」 終もそれ以上は何も言わず、ただ思いの外情深い性を持つあまきつねの足蹠だけをなぞった。 ◆「……儀莱へ?」 水と木の妖、二人の訪を受け、朱金の虎猫は重い瞼を持ち上げて応えた。「噫」 蜜のような黄金の視線を真っ向から受け止めながら、終は小さく顎を引く。「確認したい事柄がある。あわせ、先達て儀莱へ旅立った者を確かめんと思ったまで」「ああ……物部護彦のことかな」 彼なら確かに儀莱に渡っているよ、と導きの書を繰りながら、灯緒は玖郎の言葉に応えた。「それと、確認したいというのは、例の槐の祝女の事だね」「――槐、なのか」 儀莱に存在する十の集落は、朱昏に充ちる五行の力と対応した色彩の樹木を象徴としている。そして、中央――金の集落は、金木犀と槐花なのだという。「そう。何の因果だろうね――彼女もまた、自分の集落にいるだろうから、会って話をするのは難しくないと思う」 そして、虎猫はゆっくりと身を起こし、大きく伸びをした。「ちょうど、東の姫様からの依頼で、儀莱へ人を派遣するところだったんだ。……きみたちにも、手伝ってもらおうかな」 訪ねたい相手が居るのならそのついででも問題ないだろう、と黄金の眼を細めてわらい、彼の隣に置かれた桐の箱に入った、一枚の鏡と、一枚の布を指し示した。「これは」「物部の神宝――では、ないのか」「そう。沖津鏡と品物比礼――神宝十種のうち、土の陽と金の陰にあたるものだ」 これを中央と西の集落に届けに行ってほしい、と依頼を端的に説明して、虎猫はゆるりと首を傾ける。「それとね、物部の祖神であった丹儀速日についてなんだけれど。今は儀莱の神坐――花の咲く離れ小島があっただろう、あそこの地下にある祠で眠っているそうだ」 そこまで云って、虎猫はああ、と思い出したように声を零す。 朱金の前肢が導きの書を捲り、やがてとある項で肢を止めた。「……そういえば、現地では月に一度の干潮の夜に当たるらしい。神坐の磐戸が開かれて、祠への道が繋がれるそうだから――気が向いたら見に行って、確かめてきたらいいんじゃないかな」 ――そしていつものように、重大な事柄をついでのように付け加えるのだった。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>玖郎(cfmr9797)雪深 終(cdwh7983)=========
熱に籠った大気の中、噎せるような花の香が鼻腔を擽る。 「反魂の呪具を根の国へか」 二対の翼を広く伸ばし、はためかせながら、赤褐色の天狗(あまきつね)がぽつりと口にする。隣を歩く半妖は緩やかに彼へと一瞥を送った。 先程まで堅苦しく折り畳まれていた翼を、確かめるように何度も羽ばたかせる。その姿は、人が凝った肩を解しているようにも視えた。 「それが用をなさぬ地は、安置にふさわしくもあるな」 「……噫」 口数少なに応え、黄藤の花咲く路を抜ける。 先程まで気まぐれに降っていた朱の雨は、今やまた気まぐれに已んでいる。 「おまえはいずこへ向かう」 「俺は、ソヤ……槐の祝女の屋敷へと」 島の中央に位置する黄金の集落を総べる、祝女たちの長。 彼にとって縁の深い女と同じ名を持ち、縁の深い男と同じ樹を司るその女の許へ行って話が聞きたい、と終は今回の来訪の意図を確かにした。 「そうか。おれは物部の様子を視、丹儀速日の祠へと向かいたい」 ソヤにも聴きたいことは多くあるが、終にも積もる話が多くあろう。其れを邪魔するよりも、先に他の用を済ませてからでよかろうと、天狗は朴訥な面持ちでそう考えた。 ◇ 芳しいまでの花の香を纏い、一面の霧が視界を覆う。 ――否、それは真実花に過ぎぬ。細かな花弁を散らせて、白い桜が花風に舞い遊んでいるだけの事だ。溢れんばかりの木行の香が彼らを覆い、また離れていく。 此れだけの花吹雪の中、空を駆ける事は止めにしたのか、玖郎は翼を畳んだまま猛禽の肢で歩を進めている。 霧桜の祝女に話を聞いた通り、生垣に囲まれた小さな家を見つける。玖郎の背丈よりも低い生垣には、大輪の紅い花を咲かせる扶桑花や、小振りで白い九里香の花も咲いている。 生垣から覗く庭の隅に、臙脂色の着流しに身を包んだ男の姿がある。草でも抜いていたのか、屈んで作業をしていた男は、背後の気配を悟っておもむろに振り返った。 記憶よりも緩やかな佇まいと、怜悧な面差し。 視線が交錯する。 朱色の虹彩は嘗ての彼によく似ていて、しかしそれは硝子などではない。中央に黒い瞳孔を有した、生身の眼球だ。それを、惜しげもなく天狗へと注いでいる。 「こんにちは」 朗らかな挨拶の言葉。 遠くから見るだけのつもりだったが、と玖郎は首を傾け、しかし言葉に応えて男の許へと歩み寄った。 翼を広げてその上を飛び越えようとして、已める。ひとの棲む家を訪ねるのに、ひとのやり方を真似た方がよかろうか、と思う。門の代わりに設えられた目隠しの塀を回り込み、庭へと足を踏み入れた。 異形の客人の姿に、朱の瞳を持った男は茫洋と、しかし穏やかに微笑む。彼の姿を厭う事もなく、何かを思い出す素振りもなく。 「客人、この地は気に入られただろうか」 「ああ」 素朴な問い掛けに、朴訥に頷いて応える。 過去を踏まえた言葉など無為だ。 此の男も既に、過去の名を、業を雪いでいるのだから。 「私も……ここへ来て、初めて何かを得られたような気がする」 過去の事など何も覚えてないのに、不思議な話だ。 からりと笑った男を、禽を模した鉢金の奥、黄金の瞳が静かに見詰めていた。 ◇ 「此れを」 差し出された桐の箱を受け取ると、槐の祝女――ソヤは蓋を開いて中を覗いた後、深く頭を下げた。 「このような場所まで御足労頂き……感謝致します」 神に仕える者らしい、礼儀正しく控えめな所作。終は僅かに視線を彷徨わせ、しかし表情には出さないまま噫、と頷いた。 耳元に槐花を飾った黒い髪が揺すれる。女は貌を上げて、白い膚に映える漆黒の瞳を細めて微笑んだ。――その色彩にも、また違和を抱く。 眩暈のするような感情を振り払い、終は逡巡のように口を開閉させる。 「……それと、貴方が心配していた娘御の事だが……」 「――霧桜の集落の?」 言葉を探すように訥々と語り始めた終に、槐の祝女は表情を変えた。狼狽と安堵を織り交ぜたような感情を隠しもせず、身を乗り出すように終の瞳を覗き込む。 「あ、ああ。……俺達の仲間が無事発見し、保護している」 何処で、とは語らなかった。云った所で一つの世に縛られる彼女には理解しえぬ話であろう。 「そうですか……ありがとうございます」 心底安堵したような様子で、ソヤは頭を下げた。菊絵への心配も勿論あろうが――そこにあるのは恐らく、予測のつかぬ事態への不安と、それが解決した事への感謝だ。少なくとも、母娘の情を見出せるものではない。 「御存知かとは思いますが、此の地では死という形を伴わずに人が姿を消す事は本来有り得ません」 「噫。だから、気に懸けていたのか」 「ええ。……姿を消す前後、彼女の様子も、少しおかしかったものですから」 菊絵の失踪と、先代の霧桜の祝女の死に関連があるかは、彼女にもわからないとのことだった。或いは、破片を取り込み暴走した菊絵が祝女を――その可能性があったとて、今では判らない。考えを掻き消すように、終は首を横に振った。 玖郎は疑っていたが、矢張りソヤは生前の記憶は持たぬと見て良いだろう。 終は己が嘆息を零している事にも気づかずに、袂から一本の短刀を取り出した。優美な、格子とも鱗ともつかぬ花の意匠を彫り込まれた鞘と柄に覆われた、肉厚の小刀(メコノマキリ)。 「それは?」 「……かつて貴方と会った旅人が、貴方から借り受けたものだ」 此処に在るのが、過去の業を雪いだ彼女で在ろうと。 終には、別人として振る舞う事はできなかった。言葉の端に滲む愁いを秘めた複雑な感情を読み取ったのか、ソヤは緩やかに首を傾げる。 槐の祝女と顔を合わせた旅人は決して多くない。今の彼女には身に覚えがないのだろう。 「そしてその時が来たら返すと約束して、今、とある縁から俺が一時的に預かっている」 ――何故私がこれを貴方に預ける気になったのか――いつかそれが判ったら、返しに来て下さい。 白猫の記憶の中で、蜂を名乗る娘は槐の男へそう云った。 「事情があって、まだもう少しの間……諸々が終わるまでは手放せない、のだけれども」 しかし、その日が遠からず訪れるだろうことも、終は感じている。その時には――。 「これを貴方に返す事が可能な状況になる様、俺は尽力したい」 「そう、ですか」 黄金の祝女の視線が、終の手の中のマキリへと注がれる。 記憶を手繰っているようには見えない、しかし真摯な眼差し。終はただ静かにそれを受け容れた。 「その鞘、槐の樹を用いておりますね」 「、……噫。その通り、チクペニだ」 神宿る槐(チクペニ)の樹を用いて造られた、カムイランケタム。同じ霊威(セジ)持つ槐に仕えるこの巫女には、一目でその由来と籠められた神威が判るのだろう。ソヤは静かに目を細め、微笑んだ。 「何故でしょう。……不思議と縁を感じます。貴方の仰るように、其れは私の拠り所であったのやもしれません」 記憶が洗い流されても尚、喪われぬ縁というものは存在する。 槐の祝女が今も尚『蜂(ソヤ)』を名乗るのは、それ故なのだろうか。 事象自体は忘れてしまっても、それは形を変え、確実に残っているのだと――終は確かにそれを信じている。 「……ひとつ、聞いてもいいだろうか」 「どうぞ」 姿勢を正した終が発した問い掛けへ、女は怜悧な面差しを崩すことなく先を促した。 「祝女……というものは、どうして決まるんだ。任に着けば、どうなる」 世界図書館の報告書には、霧桜の集落の娘が就任した際の祭の様子は描かれていた。だが、どうして彼女が選ばれたのかまでは判らず仕舞いだ。――この、槐と共にある祝女もまた。 「貴方は、どうして」 「理由など御座いません。それが定めであると、私共は識っております故に」 彼女たち祝女は、此の儀莱にやって来た時に既に任が決まっているのだという。そして、後を継ぐものがやってくるまで、儀莱を離れる――死ぬことはない。それが祝女の在り方だ。 記憶の始まりから巫女であった娘は、それを当然の、誇らしい責務として受け入れている。 凛と伸ばされた背筋。 鋭く、意志を孕んだ瞳。笑みを浮かべずとも感じ取れる、穏やかな気配。嘗ての彼女とは在り方を変えた、しかし透徹した佇まい。 戦を何よりも厭うていた心優しき巫女は、今こうして諍いのない世界に在る。 「貴方は今、自由なのか」 「……はい」 当惑の末に発した、終の最後の問い掛けに、女は確かに頷いた。 ソヤの屋敷を出、終は先に出ていた玖郎を探すため、黄藤の花咲く路を往く。雨上がりの熱籠る大気が、肌に貼りつくような感覚。何処となく不快感を煽る其。 ――ふと肌を貫くような予感に、不意に足を停めた。 大気が揺るぎ、朱を纏った焔が立ち昇るように、幻が生まれる。 緩く編んだ長い白髪。 黒を喪った、生白い横貌。 老竹の色をした着流しに、菊塵の羽織。 「……えん、じゅ……?」 此処に居る筈のない男の幻は、その名と同じ金色の花に融けて消えた。 思わず駆け寄ろうとした終の前で、いとも呆気なく。 「――……」 其れは終の記憶を映し出しただけの眩惑だったのか。或いは――。 暖かな気候とひとときの雨が見せた陽炎に、否が応にも悪寒を擽られる。終は足早に、その場を抜けた。 ◇ やがて陽は沈み、薄紅の光を纏う、大きな満月が東の空に姿を見せた。 コバルトブルーの海が、深くたゆたう群青に代わる。満月が波間に浮かぶ。薄紅色は静かに、凪いだ水面に充ちて、緩やかに海上は淡い光を帯びる。 薄紅の水面の上を、一筋の光が滑った。 祝女たちの立つ砂浜から神坐へ、一直線に、海上を奔る朱色の燈。それは鮮やかに海面を燃して、質量のある海水をも二つに割り開いた。 ――その向こうに姿を見せたのは、岩壁の中央に大きく口を開いた洞と、それを鎖す堅牢な磐戸だった。 ◇ 開かれた磐戸の向こうは、驚くほど光に溢れている。 淡い青の、植物とは思えぬ艶やかな質感を持った蔦が、縦横無尽に洞内の岩壁を覆い尽くしている。視界は青に染まり、まるで海中か、或いは空の果てに立ち尽くしているような錯覚に陥る。 水が浅く張った地面の中央に、白い砂が敷かれた道がまっすぐに伸びている。 神威に呑まれて足を止めた旅人たちの中で、雪が一歩前へと進み出て、深く頭を下げた。 充ちる神への敬意を、無言で態度に示す。 そして、そのまま甲冑の音を立てながら白砂の路を進み始めると、残りの旅人たちも彼の後を追った。 五色の光が、蔦壁の彼方此方に燈る。淡く明滅を繰り返し、旅人たちの路を彩る。よくよく目を凝らせば、それは小さな電球のようにも、硝子のように硬質な花蕾のようにも視えた。蔦も、花も、全てが鉱石で出来ているような場所だ。 光の五色と蔦の蒼が、水面に反射して煌めきを映す。不完全な水鏡の中央を旅人たちが進む、その姿をも映し出して、鏡は僅かな波紋を描いた。 ――其処に、神は眠る。 光が収まって、彼らの前に初めに目に入ったのは、巨大な朱金の鳥。鶏冠から伸びる長い飾り羽を誇らしく閃かせ、孔雀に似た禽獣は凍り付いたように瞼を閉ざしている。豊かな朱の被毛は、しかし胸元を過ぎた辺りから滑らかな黄金の鱗に変わっていった。禽の肢は爬虫類が持つ鋭い爪に変わり、尾羽の代わりに鱗に覆われた太い尾が長く伸びている。 禽と爬虫類の混合した異形、それは奇しくも、物部護彦が成り果てた姿によく似ていた。 「此れが」 「天神丹儀速日(ニギハヤヒ)……か」 広い洞の天井までも届く程の丈を持つ異形の神を、旅人たちは胸に去来する畏れのままに見上げ立ち尽くした。 その神の在り方は醜悪で、しかし息を吐くほどに美しい。 水面から伸びる蒼い蔦に全身を絡めとられ、何処か充足した面持ちで眠り続けるその姿に、何者かへの憎悪など微塵も感じ取れなかった。 ◇ 赤褐色の翼持つ山神と、朱の翼持つ天神とが対峙する。 終は天神の祠へは赴かず、祝女たちと共に本島で彼らの帰りを待つ事に決めたようだった。 翼を畳んだままの玖郎が脚を向けるのを待ち侘びていたように、天神の聲が彼の脳裏に降り注ぐ。 ( ――我が子が迷惑を掛けた ) 微動だにせぬまま、天神は聲だけでそう頭を下げた。 彼の末裔の事を指しているのだろう。迷惑、という感覚を解せぬ玖郎は首を傾げ、何と答えるべきか、と軽く頭を巡らせる。 「否」 逡巡の後にそれとだけ応えれば、天神もその心の内を理解したようだった。 静寂のうちに、遠くの波音が響いている。 「……我が祖もかれら同様、その後皇の者に、叛乱の徒と貶められたのであろうか」 独り言めいて呟きを落とせば、それを拾い上げた天神の聲が返る。 ( 大地を荒らした責は誰かが負わねばならぬ ) 淡々とした、静かな聲。 黄金を司る神が視とめるのは、大地の豊穣の事ばかり。自らと、その一族が貶められる事への怨嗟は微塵も抱いていないようだった。彼(あれ)が戦を求めるとも思えぬ、と云った龍王の意も理解できる。 それを静かに見仰ぎながら、玖郎は思いを馳せる。 物部を、ではなく、あまきつねの祖となった者達を。 人の歴史の中で、彼らが如何な扱いを受けていたかを。 「もしや、伝えの内でひととすら扱われなかったやもしれぬ」 ( だろうな ) 相槌を返しながら、神は静かに玖郎の言葉を待っていた。 「事実、皇の國を呪いひと以外のものとなりて」 ――脳裏に蘇るは、天神の末裔の成り果てた姿。 羽毛と鱗に覆われた、祖によく似た出来損ないの禽獣。 果たして、その姿を得た彼が何を為したというのか。 「……なにかが変わったのだろうか」 否。心中で首を振る。 そうして行き着いたのは、神でも皇でもない。 山に息衝くだけの物怪ではないか。 ( 何も変わりはしなかったのだろうよ ) それを見透かしたように、天神は応えた。 皇の國は今も此処に在る。何一つ揺るぐ事無く、確かに在り続けている。それを厭う心も憤る心もなく、玖郎はただ全ての汚名を甘んじて受け容れ眠り続ける神だけを見上げていた。 祖の宿願の根底に何が在ったのか、玖郎は今も存じ得ぬ。 だが、譬え皇を退け地を得たとて、化け物には最早国を為すなど叶いはしなかったのだろう。人を捨てた時より、彼ら一族の宿願は潰えたのだ。 「ひとの國を成し変えるはひとだ。我らには精々、それを壊すことしかできない」 そして、化物を人が屠るは至当とされ、統一の過程で潰えし民の存在など、世に顧みられる事もない。 そうやって、歴史は紡がれていく。 「……ゆえ、おれが覚えておこう」 歴史の影に忘れ去られた、彼ら一族の真実を。 「不知が無と同義ならば、かれらが忘れ、消えてしまうかわりに」 時の流れと共に忘れられ、神と共に死にゆく人々が、確かに存在した証を。 嘗て、天神の降り、坐した森。今こうして、眠り、崇められる島。 ――儀莱河内(ニライカナイ)。 「其処に生きた、まつろわぬ民を」 ( ……感謝する。異郷の同胞よ ) 心からの謝辞を背に受けながら、玖郎は洞を後にした。 ◇ 割れた海の合間の路を抜け、一人先に本島へと戻った玖郎を、終とソヤが迎え入れた。たおやかに腰を折り、彼らを案内するように身を翻した祝女の背を追って、二人の旅人が並んで歩く。 「夜が明けて、列車が来るまで屋敷に逗留するよう云われた」 ぼそり、と、海鳴りに消えてしまいそうな幽かな聲が、天狗の鋭敏な聴覚に掠る。 「そうか。おまえはどうする」 「……折角だから、世話になろうと思う」 感情を見せぬよう素気なさで装われた言葉にうなずいて、玖郎は終の僅か後ろを行きながら、祝女の案内に従う。 前を歩く終の、その頭上に明滅する、朱昏の真理数を見据えたまま口を開く。 「おまえは此の地に骨をうずめるのか」 「……」 青年は応えない。だがその横顔には、ある種の決意のようなものが視えた――ような気が、した。鋭利で、透徹した、研ぎ澄まされた氷の如きいろが。 「……おれは――」 紡ごうとした言葉を已め、天狗は口を閉ざす。 細やかな海鳴りの音だけが、二人の間を包んでいた。 <了>
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