妖の森には巨漢が住むという。 七尺はあろうかという筋骨隆々の体躯。襟足だけが伸びた赤紫の髪。硬い髭に、朱と金が混じり合う瞳。二本の角は不揃いで、半ばほどからかぎろいのような形を取っている。 まるで鬼か、荒神のようだ。だが、日なたで舟を漕ぐ姿は昼行燈そのもの。 彼の呼び名はしらきと言った。 「随分古いねえ」 町人が冷やかすように笑う。店開き中のしらきは「ん」と顔を上げた。 「どれのことだ」 「それ。そこの三度笠」 「ああ、これは」 傍らの笠を引き寄せ、ひと撫でする。 「おれの持ち物だ」 擦り切れかけた笠は補修だらけだった。 市は人でごった返している。髪を結った町娘。風呂敷の上に荷を陳列する露天商。呼び込みの声が飛び交い、品定めの笑い声が起こる。丁々発止の勢いで値切りを繰り広げる者もあった。人に化けたしらきも自作の細工物で商いの最中だ。 「この店のは縁起物って聞いたんだがね」 町人が風呂敷の上に身を屈める。 「この赤えのはとんぼ玉かい」 「ギヤマンではない。石だが。良ければ、手に」 しらきの口調は愛想に欠ける。口数の多くない性分にしては努めている方なのだが。 「はア、綺麗だこと」 町人はとんぼ玉を取って日光に透かした。 「いい腕だねえ。笠くらいチョチョイと作れそうなもんだが」 あくまで古笠が気になるのだろうか。しらきは穏やかに肩をすくめるほかない。 「大事な物なのだ。子から贈られた」 人の行き来が風を起こし、首肯のように笠が揺れた。 ちらりほらりと客が来ては帰っていく。西の空が黄ばみ始める頃に荷が捌けた。銭袋の中身をそっくり酒に換え、大徳利をぶら下げて帰途に就く。 「ヨッ、繁盛さん」 「ん」 顔馴染みに声をかけられ、徳利を掲げて応じた。 森は黄昏の底で静まり返っている。湿った腐葉土を踏み鳴らし、工房兼住処へ。裸の梢から庇が覗く前に「ああ」と思った。聡いしらきには遠くからでも気配が分かるのだ。実際、屋根の換気口からは絹糸のような湯気が棚引いている。 「来ていたのか」 戸口を開けると、竈の前で壮年の男が立ち上がった。 「待っていました」 彼は老成した微笑を浮かべた。 しらきの養い子は人間の男だ。彼は人の村の出であったが、妖の森で暮らすことを選んだ。 悟りの力を持つ彼の人生は平坦ではなかっただろう。しらきは間近で――もしかすると、血縁ある親子以上に――彼を支え、見守り続けた。季節をいくつか重ねた頃、子は理解ある妻を娶って森を出た。以後も定期的に、時には妻を伴ってしらきの元を訪れてくれたものだ。 季節は巡っていく。夫妻は子宝を授かり、やがて孫も生まれた。 孫が年を経ても養い子は壮年のままだ。 ぴいぷうと吹き込む隙間風の中、子が竈に薪をくべている。ばちり。火の粉が踊る。しらきが大鍋の蓋を取るとふつふつと湯が煮えていた。 水が火で温められる様は好きだ。とろけるように水底が揺らめき、ゆっくりと渦を描く。渦はやがて竜巻のように立ち上がり、自らの内で気泡を爆ぜさせる。連綿とした変容は時の流れに似ているかも知れない。初めは目に見えぬほど緩慢に。ある一点を超えれば一息に終末へ。 「そろそろでしょう」 子はしらきから大徳利を取り、鍋に浸けた。豪快な燗酒がしらきの流儀だ。 囲炉裏の薪は炭と化し、焼かれる骨のように白く燃えている。炉端では串を打たれた魚が炙られており、しらきは胡坐をかきながら目を細めた。日差しがあれば生きていけるしらきだが、飲み食いを厭うているわけではない。 「魚もすっかり眠っていて」 子は燗酒を小さな徳利に移している。 「沢に入って捕まえました」 「ほう」 しらきが目を上げると、子が徳利と枡の盆を手にやって来た。 「残りは切り身に。保存用にしましょうか」 「ん」 「どうぞ」 徳利を差し出され、しらきは黙って酌を受けた。 窓の外で木々がかたかたと騒いでいる。乾いた梢が擦れ合う様は歯を鳴らすしゃれこうべのようだ。炙られる魚もまた死体である。眼球は石のように白くなり、じわじわと体液を垂れ流し続けている。脂か何かだろう。まさか泣いているわけでもないのだから。 じゅっ。脂が灰に落ち、煙を上げる。しらきは串を取り、熱ごと味わうようにかぶりついた。舌先に触れた脂はじわじわと味蕾に広がっていく。越冬のために体力を蓄えた魚は滋味の塊だ。中骨までもがしなやかで、噛み締めるごとに芳醇な髄液が溢れ出す。 次いで燗酒で口内を潤す。舌と喉がかっと燃え上がる。しらきはこんな熱感が好きだ。炎を司るこの身が酒と一体になった気がする。 子も黙々と魚を口に運んでいた。熱を持て余しているのか、時折小さな吐息が漏れる。 裸木がかたかたとわなないている。 「冷える」 しらきは一息で枡を乾した。 「明朝は更に。今夜は快晴のようですから」 子の双眸は炎を映し、音もなく燃え続けている。 「雪はどうだろう」 独りごちるように問うと、子は何かに耳を傾けるように目を閉じた。 「まだ早いようです」 枯れた下草の囁きを聞き分けたらしい。 「しかし、じきに」 「ん」 手酌で枡を満たそうとする。しかし徳利からは二、三の雫が垂れるだけだ。子が立って行って二本目を持って来てくれた。 「どうぞ」 「ああ」 ゆっくりと杯を重ねる。囲炉裏で燃え続ける炎が子の瞳に映り込んでいる。ぱちぱちと火の子が爆ぜ、ぽつぽつと会話が続いていく。 やがて熱い息を吐いたのはどちらであったか。 「打ち止めだ」 しらきは珍しく苦笑いをこぼす。酒に呑まれるわけもないが、少々量が過ぎたようだ。 「そうしましょうか」 子も猪口を下ろし、徳利を片付けた。 どちらからともなく戸外に漂い出る。 氷水のような夜風が頬の火照りを奪っていく。子が言った通り、澄んだ夜であった。裸木がざわざわと騒ぎ、闇より黒い枝を夜の帳に張り巡らせている。枝の隙間からは星粒が見えた。一つ二つと星を数えるしらきの隣で子も星を数え上げている。しらきはさりげなく子の横顔を見つめた。歳相応に衰えた頬の上にふっくりとした紅顔を幻視する。 昔もこうして夜空を仰いだ。あれからどれだけの時が流れただろう。 「明日も晴れでしょうか」 しらきの視線を知ってか知らずか、子は静かに微笑む。 「灰色の空や冷たい空気も乙ですが」 「おまえは雨の夕に迷子になった」 「そのようなことも……ありました」 子の眉宇で懐古とばつの悪さが綯い交ぜになっていく。しらきは小さく、しかし大らかに喉を鳴らした。 「大木の洞で雨を避けていた。賢い子だ」 「木が招いてくれたのです。こちらへおいで、と」 子の瞳は炎の熱も星の静けさも同等に映している。 北風が耳に斬りつけてくる。 「春が恋しくはないか」 しらきは先の話をした。 「私は夏も好きです」 子は更に先のことを口にする。 「秋も佳い」 「ええ。冬も、また」 凍てつくような風が二人の言葉をさらっていった。 夜が更けて朝が来る。 子は魚の切り身を塩漬けにし、大根を千切りにして干した。しらきは工房の竈に火を入れて細工作りにいそしむ。夜になれば炉端で酒を酌み交わした。 また朝が訪れる。しらきは三度笠をかぶって商いに出かけた。酒をぶら下げて帰宅すれば子が額に汗を浮かべて薪を割っている。 淡々と日々が過ぎていく。子は帰ろうとせず、しらきも急かさない。子は何も語らぬし、しらきも問おうとしなかった。 冬将軍が根を下ろし、水溜まりには薄氷。鳥は羽毛を膨らませて黙り込む。 それでも二人の暮らしは変わらない。 夜、湿気の気配があった。 隣の夜具がめくられる気配でしらきはふと目を開く。行燈がぼんやりと燃え、壁で子の影が揺らめいていた。 「起こしてしまいましたか」 行燈が静かに吹き消された。 静寂が下りてくる。しらきは静かに目を閉じ、瞼の裏に星を描こうとした。 (星、星。届かない) 幼き頃の子の姿が彷彿とする。星降る夜、子はしらきに肩車をせがんだものだ。しらきの巨体に乗っても子の手は空に達しなかった。 (おまえはまだ小さい) しらきは手を伸ばして子の頭を撫でてやる。子はしらきの手に頭を押し付けながら笑った。 (大きくなったら届くでしょうか) (ん) (届くでしょうか?) 子の瞳が輝いていたのは星を照り返していたせいだろうか。 「今夜は星が見えませんね」 見透かしたような言葉にどきりとする。隣に顔を向けると、ひたとこちらを見つめる子と目が合った。 「明日は雨でしょう」 子の黒目は暗闇の中でも揺らがない。 「ああ」 「じきに雪が」 「ん」 しんしんと降る冷気を見つめるようにしらきは天井を仰いだ。冬はこれからだ。 やがて子が長く深く息を吐いた。 「もう、区切りでしょう」 静寂に溶けてしまいそうな声だったから、しらきは微動だにしなかった。 「妻を看取って何年になるか。先月、子も逝きました」 骨のような裸木がかたかたと鳴っている。 「孫も老いて。今は私だけ。……ね? 些か不自然です」 子の生命の炎はしらきが支えている。聡いしらきは、子が何を求めているのか初めから気付いていた。子もしらきの内心を“悟って”いた筈だ。 それでも――だからこそ――何も言わなかった。最後の日々を静かに送ることを選んだ。 「良いのです」 子が静かに呟く。 「もう充分です。務めも果たしましたし……」 しらきに口を開かせまいとするかのように言葉を紡ぐ。 「幸せでした」 「まことか」 しらきは天井を見つめたままだ。子の瞳を正面から覗くことができなかった。もっとも、しらきの心など子にはお見通しであろうが。 「まことです」 案の定、老成した微笑みが返ってくる。 「感謝しています。皆に。心から」 「ん」 込み上げる熱を飲み下すことしかできない。 「おれの台詞だ」 子がいなければ今のしらきはないだろう。人を見守り続けようと考えることもなかっただろう。 「お互い様、ということでしょうか」 子の微笑が静寂を揺らした。 「では」 寝返りを打つ気配がある。しらきは仰向けのまま「ああ」とだけ応じた。 「世話をかけます」 「……ん」 それが最後の会話。 子が静かに寝息を立て始める。 暗闇の中、しらきは炎を吹き消した。 した、した、した、した。足音のように雨が忍び寄る。 夜具は払暁で青ざめていた。しらきは頭を掻き、髭をさすりながら身を起こす。隣の布団に横たわった子は仰向けのまま動かない。しらきは冷めた囲炉裏に火を入れた。白骨のような炭の胎内で真紅の熾がゆっくりと脈打つ。しらきの瞳も炎を照り返してちらちらと燃えている。 寝室に戻り、子の枕元に正座した。 じっと目を閉じる。己が内を宥めるように深呼吸を繰り返す。喉仏が震えている。立ち上がって雨戸を開くと冷気が入り込んできた。 凍てつくような雨が降っている。 「凜」 声が上ずり、わなないた。 「……凜」 頬を涙のような物が伝った。樋から垂れる雨の影がしらきの皺をなぞっていた。 囲炉裏の炭があかあかと息づく。しらきの胸が静かに軋む。どうしても動けなくて、のろのろとこうべを垂れた。口唇が震える。何らかの言葉を紡いだのかも知れぬが余人には分からぬことだ。やや下がった眉尻も泣き顔なのか、笑みだったのか。 火を冷ますように氷雨が注ぐ。じきに雪になるだろう。冬の次はまた春だ。 (了)
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