インヤンガイから戻ったアリッサは、執事に向かって言った。「司書たちを集めて」「かしこまりました。……インヤンガイで何か?」「……おじさまの行方がわかったかもしれないの」 執事のおもてが、はっと引き締まる。 世界図書館の本来の館長である人物が、消息を断ってからすでに6年が経過していた。 今までも、手がかりらしきものがなかったわけではないが……今回は、ほんの数カ月前の目撃情報であるという点で、アリッサたちの注意を引くものではあった。「というわけで、みんなには、インヤンガイに向かってもらいたいの」 アリッサはロストナンバーたちに言った。「行き先は『美麗花園(メイライガーデン)』っていう場所。名前はきれいだけど、今は人間は誰も住んでいない廃墟の街区よ。2年前から、ここは『暴霊域』っていう生きた人間はとても立ち入れない地域になってるの。おじさまがそんな場所に本当にいるのか、いるとしたらどうしてなのか……誰の『導きの書』も手がかりはくれなかったわ。でも――」 危険は承知で、この廃墟の街の探索をしたい、それが世界図書館からの依頼であった。 街区は広いため、いくつかの小集団に分かれて探索を行う。現地までは、今回はロストレイルで乗り付けることとなった。地下鉄の廃線が美麗花園の地下にも伸びているという。「各チームの探索ポイントについては、担当の司書さんから説明してもらうね。それじゃ……、お願い」 +++ 世界司書、リベル・セヴァンは集まったロストナンバーに一礼を送り、机上に一枚の地図を広げた。「皆さんに行って頂くのは、此処……かつて公園であった場所です」 それは、『美麗花園』が名前の通り美しかった頃の地図だ。 リベルは犇めき合う建物と建物の合間、ぽかりと空いた空間を指差して、その場所までの経路を説明する。 「――公園、と呼ぶよりは、植物園により近いでしょう。遊具や砂場と言ったものはありません。整備された遊歩道と様々な植物が配置され、『美麗花園』の名前の由来になったのでは、と言われた美しい場所……でした」 過去形で締めくくったのは、街区の現状を思い描いての事だろう。街区の人々の鬱屈した心を雪ぎ、穏やかに包み込んだ筈のその場所も、今はどうなっているかなど判らない。「恐らくは――枯れたか、植物までもが暴霊と化しているか、そのどちらかだと思われます。当時のまま『生きている』事は無いでしょう」 リベルは考え得る範囲の推測を口にした。――彼女の『導きの書』にも美麗花園の光景が映る事は無かったから、推測を口にするしかなかった。「暴霊域に蔓延る暴霊は、普段のものよりも兇暴であったり、数が多かったりするようです。……くれぐれも、お気を付けて」 そうしてまた、深く頭を下げる。 トタン板の破れた天井から、ぬるい光が忍び込む。 ざわめく樹々はそれを受け容れて、腐臭を孕む風に身を任せた。陽光は緩やかに明暗を繰り返し、葉が作り出す陰影は呼吸をするかの様に揺らめく。木陰に丸く切り取られた場所に咲く花は淡い色を備えていて、確かに生きているかのように見えた。 微かに息衝いてさえ見えるそれらが、暴霊であるなどと、俄かには信じ難い。 ふと何者かが視界を横切り、旅人達は顔を上げる。 彼らの頭上で大きく枝を広げ、いっぱいに花を咲かせた大樹が、穏やかな風に靡いて淡い緋の花を散らしていた。それは壱番世界の桜花によく似て、しかしより鮮やかで幅広の花弁をした花だった。 視覚だけを信頼するならば、この場所は『花園』と称賛するにふさわしい。 ――だが、どれほど美しくとも、此処は死者の街だ。 公園を覆う樹々、咲き誇る花々は全てが、当時の姿を保ったまま暴霊と成り果てている。美しい緑は陰惨な影を背負い、儚く散る花はけれど永劫に果てる事が出来ず、生と死の境を彷徨う魂の様でもある。 樹々のざわめきから耳を逸らせば、それは哀れな亡者達の嘆き、呻き、怨嗟の声へと摩り替わる。鼻を擽るのは決して樹木の乾いた香などではなく、濁り湿った血と腐り落ちた肉の匂いだ。肌を舐める風は生温く、人の肌で直接触れられているかのようで、――其処は確かに、惨劇の残滓で埋め尽くされていた。 かつての惨劇を雄弁に物語る、それらを辿るのは困難ではない。亡者の嘆きに耳を傾け、腐臭にいざなわれ、風の行方を追えば良いだけなのだから。 だが、彼らはこの場所に『生者』を捜しに訪れたのだ。 ともすれば怨嗟の呻きに引き摺られそうになる意識を振り払って、茂る緑のその奥を見据え、足を進めた。 紛い物の緑の中を、旅人達は命の痕跡を探して進む。 彼らをいざなう様にして、清廉な風が一筋駆け抜けた。=======!注意!イベントシナリオ群『死の街へ』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『死の街へ』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。=======
花が咲く。 咲き誇る事しか知らぬ虚ろな花、散る事しか知らぬ哀れな花が、歩道を進む旅人達を迎え入れる様に風にそよいでいる。 「インヤンガイは薄暗いばかりだと思っていたが……ここは陽光が注ぐのだな」 黒く長い髪が、腐臭を孕んだ風に美しく靡く。 トタン屋根から忍び込む陽射しが、艶やかにそれを輝かせた。降りかかる光は柔らかく、覗く空は穏やかな青い色をしている。まるで、この場所に振りかかった禍を感じさせぬように。 「それにしても……館長は何故行方不明になったのだろうな」 女性の姿を取ったリュエールが口にした言葉に、さて、と答える声が返った。 「自分の意志での失踪の様だし、一概に連れ戻せるものか」 「ああ」 降り注ぐ淡い色の花弁を仰ぎながら、高城 遊理が眼鏡の奥の瞳を怜悧に煌めかせる。彼が口にした推測は、リュエールも薄々と考えていた事であった。 六年間も行方不明になっていたはずの彼が、何故今回こうも容易く発見されたのか。それも、暴霊域などと言う、危険な場所で。 ――意図的に姿を消したのであれば、意図的に姿を見せる事も有り得るはずだ。 「今回目撃されたのも、わざとなのだろうか」 「さあ……それは判らない。だが、見つけた場合は無理に連れ戻すよりも、失踪した理由や目的を訊いた方がいいかもしれないな」 何も言わずに姿を消した彼が、それに答えるとも思えないが。 推測の続きは自らの胸の内だけに留め、遊理はそこで言葉を切った。 「もしこの目撃情報が意図的ならば……何か痕跡を残していてもおかしくはないな」 リュエールはひとり頷き、神力を解放する。 今は危険が無いとはいえ、この花園も暴霊域である事に変わりはない。いつ暴霊に取り囲まれるか定かではない為、害意在るもののみを感知出来るよう力を展開させた。 「……なるほど、確かに過去はとても美しい公園だったのでしょう」 リュエールの隣から、穏やかな声が掛かる。彼女とは対照的に白い、柔らかな色の髪を風に躍らせて、ミレーヌ・シャロンは足元に咲いた花を見やった。 「なのに、こんなにも心が重い……」 静かに屈み、花へと伸ばした指を途中で止める。 現実の花園と比較しても劣らぬほど、咲き乱れた花々は鮮やかで艶やかだ。だと言うのに、ミレーヌの目が彼らに惹き付けられる度、その影には紛う事無き『死』を見る。 ――それこそが、この美麗なる花園が『暴霊域』であると言う証だ。 「くまなく此処を歩いて回れば、彼ら暴霊を此処に留める原因のものも見つかりそうだが……」 「原因、かは判りませんが」 立ち上がると、数歩前へ進み出て緩やかに振り返る。翻る乳白色の髪に彩られたその口元には、優雅な笑みが浮かんでいた。 「この公園の歴史を、尋ねてみましょうか? ムッシュ・エルトダウンの手掛かりも得られるかもしれません」 瞳に浮かぶのは、朗らかな好奇心の色。手にしていた白い書の背をゆるりと撫で、紙面を捲ってみせる。 「それは……」 僅かに小首を傾げて、リュエールが彼女の手元を覗き込んだ。 「【導きの書】か?」 ミレーヌは淡い微笑を返して、静かに首を振る。彼女の手に収まる一冊の書物は、表紙、背、紙面、その全てが白一色で統一され、何処か虚無的なものを想像させた。 はらり、と桃色に透き通った花びらが、開かれた紙面の上に降りる。 「【白の書】です」 書物の名を伝え、見ていて、と典雅でありながらも悪戯な口振りで告げる。 「さあ、此処の歴史を教えて」 歴史学者の言葉に、白き歴史を綴る書が答えた。 白紙のページにするすると滲み出した文字は、物語と言う形を伴って、ミレーヌに必要な情報を教える。 彼は、それを見ていた。 美しい空だった。陰陽の入り混じる、混沌としたこの世界からは信じられぬほどに、その場所から覗く空は美しい。時に青の、時に淡い紫の、時に薄紅色の、様々な表情を見せて、訪れる人々の目を楽しませる。人々は街で廃れた感情や擦り切れた感動を、この花園へ求めてやってくるのだ。 故に彼も、人々の期待に応えるようにして美しく、誇らしく花を咲かせていた。 美しい景色だった。彼もそれを彩る花々のひとつであったが、そんなかれの眼にも美しいと思えるほど、花も樹木も光を浴びて生き生きと輝いていた。人の目に映る事が嬉しくて仕方ないと、彼らは咲き誇る事によってそれを表現する。人々はそれを理解しないまでも、花々の鮮やかなエネルギーを受け取って、心に空いた穴を埋めて還っていく。 彼は、それを見ていた。 ――あの日、漆黒が花園の何もかもを切り裂き、地獄へと変えるまで。 新たな花が咲いたようだと、彼は場違いにもそんな事を考えた。 高く高く、天を貫く様に咲く鬼百合の花。花ばかりを見慣れていた彼だからこそ、そう見えたのかもしれない。 それが花でないと気付いた時には、既に、美しい景色は崩れ去っていた。彼の姿諸共。 花園に咲き立ち、大地から天へと駆け抜ける、漆黒の稲妻。空を切り裂き音を轟かせて、咲く花達を蹂躙し、訪れていた人々へと襲いかかる。断末魔を響かせる、その暇さえもなかった。 一瞬の惨劇で、死者の巣食う場所へと街は姿を変えた。 それでも、彼らは未だ大地に還る事が出来ずにいる。 あの日散っていた花は散り、咲いていた花は咲く。命の循環に取り残されている事にも気づかず、ただそれだけを繰り返している。紛い物の花園を死者は彷徨い、昼夜の別なく青い空が照らし続ける。 ――最早彼らに、流れる時間は無い。 「――!」 白の書が与える文字を読み解き、その映像を胸の内に蘇らせていたミレーヌは、顔を跳ね上げた。 「どうした」 問い掛けてくる遊理に返す言葉は無く、ただ茫然とした表情で首を振る。 深呼吸を、ひとつ。ゆっくりと瞬きをして、また白の書に視線を落とした。そして、知りえた事実を、言葉に変える。 「この、公園は……霊力災害が起きた、その日の光景を留めています」 咲き誇る花、散り急ぐ花。風にそよぐ樹々、地面に落ちた木陰。 樹木を仰ぎ、花々を見おろし笑う住民達。 トタン屋根の合間から覗く、あの空の色さえも。 全てが、黒い稲妻によって切り裂かれる直前の姿を保ち続けている。――花々は美しく咲き誇り続け、人々は腐り落ちながらもこの空間から立ち去る事すら叶わない。空の色彩さえも捻じ曲げて、この花園は花園で在り続けているのだ。 「……美しい日、だったのだな」 青い空を振り仰ぎ、リュエールは目を細めて呟いた。その視界を、肉厚の花弁が過ぎる。 「その日、この場所はさぞかし美しかったのだろう」 それを誇りとする様に、それを呪いとする様に。この場所は、当時の光景をなぞり続けている。其処には未来も過去も無い。ただ一日が、存在しているだけだ。 「生きる事も……死の眠りに就く事も。どちらも出来ずにいるのは、哀れだな」 リュエールの頬を掠めたひとひらの風が、腐臭と怨嗟の声を届ける。それにさえも憐れみの表情を浮かべて、細やかな指先を降り注ぐ花弁に差し伸べた。 大きく張り出した枝に足を掛け、体勢を整える。 少年一人分の重みを受けて枝が軽く撓み、葉と葉の擦れ合う呻き声が響いた。それに引き摺られるようにして、視覚と嗅覚もまた、花園の光景を死した街へと変える。吹き抜ける風には血の臭いが絡み付き、青々と茂っていたはずの葉はいやに赤い色を纏う。 「……儚いよね」 リーミンは眉を顰めるでもなくそれを受け止めて、小さな呟きを落とした。 『死』の描き出す風景は、何処の世界でも同じだ。色彩も、音も、匂いも。死してしまえば、どのような存在であれただの穢れと化す。それはこの、混沌とした異世界でも、彼の故郷であった『生』に乏しいあの世界でも、同じ事なのだ。 漠然と考えていた事を痛感して、幼い眼差しは死した樹木の向こう側、トタン屋根の合間から見える青空へと向かう。そして、故郷の風景を思い描く。 降り注ぐのは、こんな鮮やかな花弁では無かった。静かに、静かに死を沈殿させる、禍々しい白の粉雪。白に覆われて翳む世界は、それとは対照的に争いと血の色にも満ちていた。 父や母や、友人達の姿が、脳裏にぼうわりと浮かび上がる。恋しい彼らの事を思う度、郷愁が胸を叩くけれど、リーミンはもう、決めたのだ。 あんな、死に満ちた世界は、リーミンの世界ではない。 覚醒し、旅人となった理由も、彼が決心したからだ。 ――探すと決めた。リーミンの『帰るべき』世界、彼が居るべき世界を。 かつての故郷には無かった、青い空を見上げ、心の内で決意を確かなものにする。そして、斜め上に在る大振りの枝を見上げ、一度屈み跳躍した。軽やかに、階段を駆け上る様にして、大樹を登っていく。 「少年」 不意に下方から届いた声に、登る足を止め、傍に在った大枝に腰を降ろした。身を乗り出す様にして眼下を探れば、華やかな色彩の中に深い黒と穏やかな銀が見える。 「リーミンですよ、おじいちゃん」 名を伝えれば、見上げる彼は鷹揚と笑う。 「それはすまぬ事をした。――だが、私の事も名で呼んではくれぬだろうか、リーミン」 それは軽い言葉遊びの様なもので、おじいちゃん、と呼ばれた事に不機嫌を示した訳ではない様だった。もちろんリーミンもそれに気づいて、無邪気な笑顔で頷く。 老吸血鬼ヴィルヘルム・シュティレは、マントの下から伸ばした両腕をリーミンへと差し出した。言葉にせずともその仕種の意味を悟り、少年は小さな身体を駆使してするすると大樹を降りる。 「はい、ヴィルヘルムさん。……みんなは?」 「三人とは一旦別れて来た。目を逸らした隙に、君の姿が見えなくなったのでな」 「あ、ごめんなさい。上から探した方が、館長さんもすぐ見つけられるかなって思って」 ヴィルヘルムからの言葉を受け、ようやく自分がはぐれていた事にリーミンは思い至った。慌てて頭を下げるが、穏やかな声にそれを制される。 「構わぬ。この花園は我々に害を加えるつもりはない様だ」 促されるまま頭を上げれば、柔らかな銀の瞳に見おろされていて、少年は無邪気に破顔した。 「ありがとうございます」 老吸血鬼もまた、白い髭を蓄えた口許を緩める。 「して、リーミン。君は館長殿を発見した場合、どうするつもりだったのだ?」 「えっとね。館長さんを見つけたら、こっそり近づいて、いきなり捕まえるんです」 逃げ出せない様に、手を縛っておこうかな。館長さんはお化けじゃないんだから――身振り手振りを交えてこの依頼への意気込みを語るその様子はとても微笑ましく、ヴィルヘルムの目が優しく和らいでいく。――話している内容は、些か過激ではあったが。 「成程、良い薬になるやも知れぬな。君ほど素早い者が相手では、館長殿もそう易々とは逃れられまい」 頷き、ヴィルヘルムは穏やかな視線を周囲へと滑らせた。 世界図書館、ひいては階層世界全体にとっての要となる人物が姿を消し、そしてこの世界に現れた。その理由について思考を巡らせて、けれど確かな答えが出る事はない。――ならば、それを知る本人に直接問うのが妥当と言うものだ。 この花園に集う暴霊達は、彼らへ害を加えるつもりは毛頭ないらしい。それどころか、唐突に現れた人間達に怯えてすらいる様だ。 ふむ、と小さく呟いて、漆黒のマントを翻した男は傍を歩いている暴霊へ近付く。 「ひとつ尋ねたいのだが、構わぬか」 焼け爛れた皮膚と腐り落ちた眼窩を晒す小柄な暴霊は、不意に声を掛けられた事に驚いた様だった。しかし、ヴィルヘルムの纏う空気が敵意あるものではないと気付き、すぐに警戒を解く。 「ブルネットの髪に、鳶色の瞳を持つ紳士を見なかったか」 暴霊は虚ろな眼窩を空中へと彷徨わせ、ああ、ともおお、ともつかぬ間の抜けた呻きを零した。そうして、もげそうなほどに細い首を縦に振る。 「見たの?」 リーミンの簡潔な問い掛けにも、またひとつ頷く。視線の高さがそう変わらない事も含め、恐らく生前の彼はリーミンと同い年くらいの子供だったのだろう。 「その紳士は、何処へ?」 ヴィルヘルムが重ねて尋ねても、暴霊は特に嫌そうな素振りは見せなかった。第一関節辺りまで削げ落ちた指先をゆっくりと、花園の奥へと伸ばす。 二人がそれをなぞる様にして視線を向けても、やはり美しい花が降る光景だけが続いている。 「ありがとう」 無邪気な少年の謝辞に、小さな暴霊はゆるゆると首を横に振った。次いで、ああ、とまた声が零れる。――ありがとう、と。そう言い返したかったのだろう。その仕種に何かを感じ取り、ヴィルヘルムは恭しい礼を送る。 ここに巣食う暴霊達は、自らが死した事にさえ、気付いていないのではないか。それを悟る前に、一瞬にして命を奪われたのではないか。 ならば、せめて生者として扱ってやろう、と、不死たる吸血鬼の祖はそう考える。 「他のみんなと合流した方が、良いのかな」 キャスケットのつば越しに、少年の無垢な瞳が老いた吸血鬼を見上げる。 「三人の位置は把握しておる。さあ、戻ろう」 銀の瞳が穏やかに細められ、リーミンを安堵させるように頷くので、彼もまた頷きをもって答えた。 淡い紅の花が、歩み出す彼らを覆う様にして降り注ぐ。 リーミンを連れて戻ってきたヴィルヘルムと合流して、旅人達は花園のより奥へと歩を進めた。頭上からは大振りの花弁が止め処なく零れ、足元には色とりどりの大輪の花が咲き零れる――この花園は、奥へ進むにつれて一層鮮やかに色付いていく様だ。 茂る草花を踏み付けぬよう注意を払いながら、遊理はゆっくりと足を進める。肩の上では彼のセクタンがぼんやりとした様子でおり、時折花の香りを嗅ごうとして身を乗り出し、落ちそうになって慌てて肩にしがみつく、と言った事を繰り返していた。 それを何ともなしに眺める彼の視界を、絶えず淡い色の花びらが通り過ぎる。その色は桜に似て、日本人である遊理にとっては馴染み深いものがあった。 言葉に出さないままに、遊理は胸の内で思考する。 咲き誇る花達は、確かに『永遠』を体現している様にも見える。その美しさは、容易く歪んでいると断定する事が難しい様に思えた。 降り注ぐ花は咲き、そして散る。けれど決して絶える事が無い。それは一種の理想の形でもあるのではないか。 脳裏に描くのは、以前この世界へやってきた記憶だ。 鮮烈に赤い暁に照らされて、女達は自らの命を絶たせ、剥製となる事でその肉体の時間を止めた。それは衰えていく事への恐怖からか、それとも困窮の果ての選択か。 歪んだ時間の中で咲き続ける花。彼女達にとってみれば、これらこそが、望んだ永遠の形ではないか。 足を止める事無く考えて、遊理は苦笑を零して首を振った。違う。 彼女達の本当の願いは、それとは別の場所に在った。そこに手が届かなかったから、永遠を望んだに過ぎないのだろう。ならば――。 「……遊理さん?」 名を呼ばれ、はたと我に返る。顔を上げれば、前を歩いていたはずのミレーヌが、首を傾げて彼を振り返っていた。 「ああ、すまない……少し考え事を」 小さく詫びれば、構わない、と言った風に首を振って応える。そしてまた、穏やかに歩みを再開させるから、遊理もその後を追った。 「この、花。……確か、サクラ、と言う花に似ていると仰いましたね」 繊細な指先が花弁を一枚摘まみ、また手放して風に遊ばせる。 「ああ。壱番世界の、日本で親しまれている花だ。日本人は桜の咲く姿と同じ様に、散る姿をも愛でる。盛者必衰、栄枯盛衰の趣を感じられるのだろうな」 「ええ。この花は、咲いたまま散りますが……確かに、美しい」 ミレーヌの相槌に、知らぬ内に多弁になっていた己を落ち着かせ、遊理は頷く。 「桜と言う花があるからこそ、日本人にとっての春は出会いの季節だ。――そして、別れの季節でもあるな」 時間の移ろいを、最も感じさせる季節。それが彼らにとっての春、桜の季節だ。 桜の花を思い描きながら降り注ぐ花を受け止めれば、鼻腔を擽る香りは淡い桃色へと変わる。 「だが、別れよりは……出会いを求めたいところだね?」 この美しい薗へと紛れ込んだ、生者との出会いを。 掌で降り注ぐ花を受け止め、静かにヴィルヘルムが天を仰ぐ。花弁は掌の上で風に融け、また樹上から新たな紅が降る。その軌跡を見遣り、深く穏やかに口を開いた。 「……雲行きが怪しくなって来た様だ」 木々の向こうに広がる空は、変わらず抜ける様な青を晒している。だが、それを遮り散る花弁の色が、形が、変容を遂げてはいないだろうか。絶えず注がれ続ける色彩だからこそ、この花園に留まっていた彼らにはよく判る。 紅い。 此処に足を踏み入れた時には、それは桃色に近い淡い色であったはずだ。 「この色……血に、似ていますね」 自ら口にした不安に、自らが背筋を震わせる。ミレーヌの言葉に頷いて、遊理も眼鏡の奥から訝しむ視線を花へと送った。 「……色だけでは、ない様だな」 透き通りそうなほどに薄く、指先ほどの小ささであったその花弁は、今や大人の掌よりも分厚く、無様な造形と成り果てている。――それは最早、花ではない。そして、血飛沫でもない。 降り注ぐその赤は、巨大な死体から腐り落ちる、幾多もの肉片だ。 ステッキを強く握り締めて、ミレーヌが一歩足を退いた。反対にリーミンは一歩足を踏み出して、ぼとぼとと落ちてくる肉片を軍手で払い除ける。少年の両手で払える量には限界があるが、やらないよりはマシだ。 だが、咲き誇る花園の全てに花は降る。死した公園の全てに肉片は降る。彼らに、逃げ場は、ない。 「何処か、避難できる場所は無いか」 リュエールが己の武器を振るえば、黒に刻まれた金の装飾が空中に滑り出た。虚空に浮かんだ金の色は神聖な輝きを伴い、零れ堕ちる赤に触れて小規模な爆発を引き起こしていく。それを幾度も繰り返しながら、彼女は小さな焦燥の色をその瞳に浮かべた。 「ふむ……」 「どうしたんですか、ヴィルヘルムさん?」 彼方の方向を向いていたヴィルヘルムが、一度感嘆する様に頷く。それを見咎めたリーミンの無垢な眼が彼を見上げて、一言問うた。 白い手袋に覆われた手が、厳かに伸ばされる。 「この奥が、奇妙に瘴気が薄まっている様だ。……付いてくるが良い」 腐り落ち零れ堕ちる肉塊をものともせず、マントを翻し確かな足取りで歩み始めた彼を、四人は追いかけた。 ヴィルヘルムは、共に歩む仲間達よりはこの花園に近い存在だ。生者の命を糧とし、死者の棺で眠る。吸血鬼の祖たる彼にとっては、このねじ曲がった不死者の花園は、寧ろ自然と言った方が良いのかも知れない。――だが。 それでも彼は、仲間達と共に生者を探して、生の満ちたあの街へ還らなければならない。そこが彼の居場所であるからと、彼が見定めたからだ。 死した花々に心の内で小さく詫びて、降り注ぐ肉片を受け止めながらもヴィルヘルムは進む足を止めない。 崩れ出したのは咲き誇っていた花ばかりで、この花園を彷徨う暴霊達は未だ怨嗟の声を張り上げながら蠢いている。彼らと擦れ違う度、ヴィルヘルムは銀の瞳を伏せて目礼を送る。 漆黒の稲妻が花園を切り裂いた日。一人で散歩をしていた者も、友人と戯れていた者も、恋人と逢引をしていた者も、佇んでいた草木も、全てがこの哀れな花園に閉じ込められてしまった。 彼らを救う事が叶わぬのならば、せめて敬意を払おう。 それが、不死者の祖たる彼が紛い物の永遠に送る、誠意だ。 その場所は、かつて温室として用いられた空間の様だった。 巨大な鳥籠を彷彿とさせる、硝子張りの半円球の建物。扉こそ開け放たれてはいるものの、荒れ果てたこの街区の中では奇異に映るほど、整っている。硝子の一枚も、罅割れてはいないのだ。 硝子の箱庭の中へ逃げ込んで、五人は次々と立ち止まる。――もう、逃げる必要はない。足を踏み入れた瞬間に、彼らはその変化に気が付いた。 「……やはり、気の所為では無かったようだな」 花が咲く。 花園の他の場所と変わりなく、この場所にも静かで美しい花達が咲き誇る。硝子から射し込む光に照らされて、誇らしく咲いている。 だが、彼らを覆い尽くす、あの紅い花――赤い肉片が、この一角だけには入り込まない。鼻を突く腐臭も、耳を襲う怨嗟の呻き声も。 硝子によって隔てられているから、と言うだけではない。開け放たれた扉の向こう側から、先程ヴィルヘルム達と会話を交わした小さな暴霊が、じっと視線を寄越している。まるで、彼らの元へ近寄りたくても、そう出来ないかのように。 死の街から隔てられた空間。死から遠ざけられた場所。それは、すなわち。 「……生きてるんだね、ここは」 リーミンは屈み、今まさに萎れようとしている花へ指を伸ばした。咲いた花は散り、そして枯れる。彼らにとっては当然の摂理が、何故か懐かしくすらも感じる。 そしてそれは、生きている、と言う事だ。 街区の全てが死したこの『美麗花園』に置いて、たった一カ所だけ生を育み続ける箱庭。それはまさしく、『聖域』と呼ぶにふさわしい場所だ。 「どうして、こんな場所が……」 「――ねえ、あれ」 疑問の声を上げようとしたミレーヌの言葉を遮り、リーミンが彼らの前方を指差した。 蔓薔薇の花を纏った繊細で小柄なテーブルセットが一脚、木々の隙間にひっそりと佇んでいる。リーミンの小さな手が指し示すのは、古びたクロスの掛けられた、その卓上だった。 漆黒に、金で縁取りの為された一通の手紙。臙脂色の蝋で封が為されたその色合いに、ロストナンバー達は既視感を覚える。 「あれは……トラベラーズノート? いや――」 パスホルダーから取り出した己のノートと見比べ、首を捻りながら遊理がテーブルへと歩みを向ける。表面に文字の書かれていないそれを手に取り、慎重にその封を切った。 中には、封筒と同じ意匠の便箋が一枚。そして、銀色に輝く薄い金属片が、ひとつ。 紙面に綴られた文字は、遊理にとってよく見慣れた形をしている。 「これは、インヤンガイの文字では無いな……アルファベットだ」 壱番世界で使用する言語が、この異世界に存在する。――その謎を図れぬほど、彼らは鈍くはなかった。 『この手紙を読んでいると言う事は、恐らく君達はロストナンバーだろうか。 よくここまで辿り着いてくれた。これ以上私を追う必要はない。 ……しかし、どうやら私はこの世界に『邪悪』を齎してしまった様だ。 それらと対峙してくれるなら、感謝する。 Edmund Eltdown』 「エドマンド・エルトダウン」 手紙の最後に残されていた署名を、言葉にして声に乗せる。そうする事で、目の前に在るものがより確かに現実味を帯びていく。 彼の名を知っている。 否、知らぬはずがない。 それこそが、彼らがこの死した花園に探し求めた『生者』の名であるから。 世界図書館の本来の館長にして、現館長アリッサ・ベイフルックが叔父と慕う人物。それが、エドマンド・エルトダウンだ。 「やはり、ムッシュ・エルトダウンはここに来ていらしたのですね」 「ああ。……だが、既に立ち去った後のようだな」 再び【白の書】の記述に目を走らせるミレーヌに、聖域の外へ視線をやっていたリュエールが答える。少なくともこの場所の花達は、此処数日で誰かに踏み荒らされた形跡はないようだった。 便箋と共に入っていた金属片は奇麗な楕円形をしていて、ドッグタグ――かつて戦場にて使用された、名を刻む為のアクセサリの様に見えた。 「『邪悪』とは、この街区の事だろうか……否、館長がここへやってきたのは、つい最近のはず……」 便箋とタグを握り締めたまま、遊理は遺された不穏な言葉について考察を巡らせる。だが、その言葉は抽象的に過ぎて、満足いく答えを出すには情報が足りない。首を振って、嘆息をひとつ零した。 世界図書館の館長の名を冠した手紙が本物であるか、確証はない。 だが、どうやらこの街区はこれ以上探しても無駄なようだと、五人はそれを察していた。 「……でも、この調子じゃ外に出るのは危険そうですね」 困った様に――だが、緊迫感を感じさせない口調でリーミンが呟くのに、ヴィルヘルムも同意の意を示して頷く。 「今に至っても、彼ら花達に敵意は感じられぬ。……恐らくは、『限界』であったのだろうな」 霊力災害の残滓は、未だにこの街区を蝕み続けている。 降り注ぐ光の様にそれを体内に取り込み続けた植物達は、最早生前の姿を取る事すらも出来なくなりつつあったのだろう、と老吸血鬼は推測する。 硝子の箱庭から外へと伸ばした指先に、零れ堕ちる肉片が触れた。だが、それがヴィルヘルムを傷付ける事はなく、この花園が彼ら訪問者へ抱く感情を窺わせる。 止め処なく降り続ける赤い肉花は、花園の全てが流す滂沱の涙か。 「最後に、君達生者の目に映る事が出来て、彼らは幸せなのだろう」 「……このまま放っておくのは、忍びないな」 聖域と花園の境に立つ彼の隣に、リュエールが並び立った。 「破壊に比べれば、浄化はあまり得意ではないが……やってみよう」 穏やかに涙を流し続ける花園へ、一歩進み出る。硝子の隔たりを超えれば、彼女を襲うのは亡者達の嘆きと叫び。 名を呼ばれる事のない、『神』としての力を解放した。 「おやすみ」 慈母に似た淡く暖かな言葉を受けて、降り注ぐ肉片が緩やかに溶けゆく。慟哭ばかりを上げていた暴霊達も彼女の元へと集い、淡い光を放ちながら風に浚われていった。 神聖なる光――しかし白くはなく、視るものによって色彩を変える不可思議な光が、死に行く花園を包み込む。 空の色が変わる。鮮やかであった青から、深い深い宵闇へと色が移り、停滞していた時間の訪れを告げた。 「もう、眠れ」 その言葉は、まじないの終結。死ぬ事の出来ない花園に、正しい『死』を赦す言葉となる。 花園を覆う呪いと誇り、その全てが融けて、後に残るのは枯れ果てた木々。最早、大地に還る使命だけをその身に遺した、自然に従った亡骸達だけだ。 遠くの空――美麗花園の何処かで、深い夜を背景に大きな花火が上がる。呼んではならぬ名を持つ『神』がそれを見上げて、ふ、と微かな笑みを零した。 傍迷惑な異世界の同胞からの、戯れにも似たメッセージを受け取る。 リュエールは振り返り、四人の仲間達へ声をかけた。 「さぁ、帰ろう」 ――生きた者達の元へ。生きる術を探す、彼らの街へ。
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