インヤンガイから戻ったアリッサは、執事に向かって言った。「司書たちを集めて」「かしこまりました。……インヤンガイで何か?」「……おじさまの行方がわかったかもしれないの」 執事のおもてが、はっと引き締まる。 世界図書館の本来の館長である人物が、消息を断ってからすでに6年が経過していた。 今までも、手がかりらしきものがなかったわけではないが……今回は、ほんの数カ月前の目撃情報であるという点で、アリッサたちの注意を引くものではあった。「というわけで、みんなには、インヤンガイに向かってもらいたいの」 アリッサはロストナンバーたちに言った。「行き先は『美麗花園(メイライガーデン)』っていう場所。名前はきれいだけど、今は人間は誰も住んでいない廃墟の街区よ。2年前から、ここは『暴霊域』っていう生きた人間はとても立ち入れない地域になってるの。おじさまがそんな場所に本当にいるのか、いるとしたらどうしてなのか……誰の『導きの書』も手がかりはくれなかったわ。でもーー」 危険は承知で、この廃墟の街の探索をしたい、それが世界図書館からの依頼であった。 街区は広いため、いくつかの小集団に分かれて探索を行う。現地までは、今回はロストレイルで乗り付けることとなった。地下鉄の廃線が美麗花園の地下にも伸びているという。「各チームの探索ポイントについては、担当の司書さんから説明してもらうね。それじゃ……、お願い」「じゃあ、早速説明させてもらう」 シド・ビスタークは僅かにサングラスを押し上げた。「インヤンガイは知っての通り、霊力をエネルギーとして動いてる都市だ。暴霊っていうのは、その霊力が暴走していろんなものを媒体に周囲に害を与えるものを言う。『美麗花園(メイライガーデン)』にはそういうのがうようよしているわけだ」 怖いか、と首を傾げてみせる。「廃墟は廃墟だが、中は広い。ロストレイルから降りてすぐ迷子になってしまうのも困るが、頼みたい場所は近いから安心してくれ」 廃線になった地下鉄とその周囲を描いた地図を手渡していくと、腰に下げた様々なものが揺れた。「この細い路地をずうっと入ったところ、小さな広場がある。 実はここは以前、綺麗な水が汲み上げられる井戸だったらしい。その水を利用していろんな食い物の店が軒を並べていた。今ではがさがさに崩れた建物が囲む古井戸でしかないが」 ここにはそれほど手荒い暴霊はいないはずだが、すっと通れるというわけにもいかなくてな。「この古井戸には一体の暴霊がいる。近くを通るものを井戸へ引きずり込むやっかいなやつだ。そいつの相手をしつつ、館長の手がかりを見つけてきてほしい」 できれば望みを叶えて、その子の力になってくれると、何か情報をくれるかもしれないと踏んでるんだが。「井戸はかなり脆くなってるようだ。へたに触ると崩れて埋まってしまうかもしれない。巻き込まれて怪我をしないように、よろしく頼む」「にーちゃ、にーちゃ」 小さなか細い声が、静まり返った街の中に響いている。「お月さん取っておくれな、なあ、にーちゃ」 擦り切れたぼろぼろの着物をまきつけた、一人の少女の暴霊が、井戸に腰掛けて足をぶらぶらさせながら、両手に抱いた骸骨の瞳に話しかけている。「にーちゃ、にーちゃ、井戸の底にな、綺麗なお月さんがおるんよ、なあ、にーちゃ」 やせこけた頬、細い枯れ枝のような手足、ぐしゃぐしゃに乱れたもつれた髪にそこだけ色鮮やかな赤い蝶の簪がからんでいる。重なる月日に皮膚のあちらこちらが裂け始めているが、それでも古井戸から離れようとしない。離れられないのかもしれない。「お月さん取って。シェンにおくれ」 話しかけている少女の暴霊の周囲には、さまざまな形状の骨がごろごろと転がっているが、いずれも首の部分を失っている。「ええ子にしてたから、ごほうびおくれ」 少女は虚ろな瞳で骸骨を高々と抱え上げ、いきなり井戸へと投げ落とした。 がしゃんっ。どぶん。 跳ね返ってくる響き、ぬるむ水のねばっこい音。「にーちゃにーちゃ、お月さんは見つかった?」 少女は井戸を覗き込み、首を傾げて溜め息をつく。「にーちゃもそっちへ行ってしもたの。シェンにお月さんは取ってくれんの」 古井戸の底には投げ捨てられた髑髏が小さな山を為している。最後に投げられた髑髏の眼窩を浸す濁った水に、上空にある白い月が映っている。「にーちゃばっかり、お月さんもろて、ずるいな、ずるい」 少女はくるりと振り返り、古井戸に続く道を眺める。「シェンにもちょうだい、お月さんちょうだい」 黒い穴のような瞳からつるつる真紅の涙がこぼれ落ちていく。足下にあった輝く珠を二つ拾い上げ、それを両手に弄ぶと、間にきらきら光る銀糸が揺れる。「お月さんくれる人、はよおいで」 少女は古井戸で待ち続ける。!注意!イベントシナリオ群『死の街へ』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『死の街へ』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。
「璃空ちゃん? 私冬夏の友達の日和坂綾って言うの、ヨロシクね」 ロストレイルを降りた面々の一人、手に格闘用グローブをつけた制服姿の少女が、嬉しそうに黒みがかった紫のポニーテールの少女に呼びかけた。 「綾か」 呼びかけられた璃空が、意志の強そうな紺碧の瞳を、すぐ側に居た鎧から振り向ける。 「冬夏から元気で明るい素敵な友達だと聞いている。よろしくな」 右腕の12個の宝石がついた銀の腕飾りは、彼女の12の式神が宿るもの、「あとの者は初めてだな、よろしく頼む」と続けつつ、鎧のイクシスに向かって改めて、「少々警戒をしてしまった、すまない」と律儀に詫びるさまは、少女というより青年剣士のようだ。 「にゃ、ははは…背筋がヒヤッてするにゃ…」 灰色のつなぎと革の手袋ブーツを身に着けた、小柄な黒猫の獣人、フォッカーが、鼻先を天へ向け、肉球付きの指でゴーグルのついた飛行帽を押し上げ、夜気の匂いを嗅ぐ。 「飛ぶのには悪くない空だにゃ、けど……おいら、これが大事な仕事って分かっててもこの町は好きになれないにゃ…」 それに、と澄んだ青い目を少し陰らせ、 「『にーちゃ』かにゃ…妹もおいらの事そう呼んでたにゃね…ちょっと妹思い出すのにゃ」 そうつぶやいたのは、いつ会えるかもわからない、8歳年下の妹を重ねたのだろう。 ロストレイルの中で、依頼を聞いた時より詳しい情報が手に入っていた。 井戸の側に居るのは少女の暴霊、「にーちゃ」と呼びかけて、両手にしている銀色の珠のようなもので通りかかる者の首を刎ね、その首を「月を取ってこい」と命じながら井戸に投げ落とすと言う。 「妹、か」 璃空が一瞬口をつぐんだのは、姉のように慕う冬夏と自分の関係を思い出したせいか。 「しかし…月か。何故月が欲しいのだ?」 フォッカーと同じく、頭上に浮かぶ巨大な月を見上げてみる。 「お月様?」 『動く鎧』そのものであるイクシスもがしゃがしゃと体を鳴らして見上げる。 「お月様って確か……お空の上にあるよね」 促されるように4人4様、頭上の月を見上げて佇む。 そうだ、月は空の上にある。人の手の届かぬ彼方の虚空に。 「そういえば、お嬢ちゃんには、おにいちゃんとかいるのかな」 イクシスが淡々と確認するようにつぶやき、がしゃりと首を傾げる。 「お兄ちゃんがいたら、どこに行ったのかな。……もしかして、『月』をとりに向かったのかな」 「飲食店の跡地の井戸の傍ってさ、凄く目立つ場所だと思わない? 私たちが待合せに使う場所、みたいな?」 綾が地図を確認した。 「兄にいい子で待っていろっと置いていかれたのか?」 璃空がゆっくりと目を細める。 「けど……月は取ってこれないにゃ」 フォッカーがひげを震わせ、きっぱりとした声で言った。 冒険飛行家である彼は、空の広大さ果てしなさを知っている。そしてまた、兄が妹に誓う約束がどれほど大事なものかもよく知っている。 妹にとって、信頼する兄との約束が、どれほど重いものであるのかも。 「取れない月を、どうして取ってくると言ったのにゃ」 フォッカーのつぶやきに、同じ兄としてのかすかな怒りが混じる。 それがシェンを縛りつけているのかもしれないのだ。 「月を手にするなら、幻を用いて一緒に取りに行くという手もある」 歩き出しながら、璃空が続けた。 「星の海を歩き、月の近くまで行ってな」 つられるように綾が、続いてイクシスとフォッカーが歩き出す。 駅から地図に従って、細い路地を抜けていく。肩を狭めたくなるような軒先は触れると崩れてきそうだ。放置されている街並みは人気がないだけで、これほど荒廃していくものなのか。 「とあるロストメモリーさんが言いました。『あそこで、エミリエが『紛失』した4枚のチケットを取り合っている人たちみたいにならないように、頑張ってくださいね』……ウン、頑張ります」 それらにぶつからないよう、イクシスががしょん、がしょんと歩を進める。きょろきょろしながら続いたフォッカーが、ひょいと前方を透かし見る。 「ここかにゃ、広場は……あ」 やがて開けた場所に出て、先立つ璃空が立ち止まった。 「符を用いて結界を張り範囲を決めないと負荷がかかり過ぎるからな。星は金平糖として、月はそうだな、球形の月長石はどうだろうか」 少々準備に時間がかかるのだが、と付け加え、だがそういう時間はなさそうだ、と璃空は前方を視線で示した。 「ずっと待ってたんなら、お腹減ってるんじゃないかなって思ってた」 綾が璃空に続いてその小さな広場に踏み入る。 「いや、暴霊だから今はもう減ってないだろうけどさ、その子が暴霊になる前は、お腹減ってたんじゃないかなって」 前方を見据えてきゅっと唇を結び、手のグローブをきちんと嵌め直す。 「だからお茶会の準備したの。月餅って日持ちするしお供え用らしいし?」 とんとん、と軽く飛んで、鉄板入りシューズの具合を確認する。細身の体には見かけに不似合いな闘志が次第に高まり満ちていく。 「…うーん、妹思いだして戦いにくくて仕方ないにゃ…そんなこと言ってる場合じゃないのは分かってるけどにゃ…」 フォッカーも前方を見つめて小さく舌打ちしながら、片目を閉じ、2枚ブレードの折りたたみ式プロペラ、プロップを取り出した。 それもそのはず、広場の中央、崩れかけた井戸の側では、もう既にこちらを見つけたらしい少女がゆらゆら体を揺らせながら、銀色の珠を両手に差し上げている。 「にーちゃ」 掠れた声が響き、がくりと首を傾けた少女の髪がぞわりと崩れた。 「お月さん、取ってきた?」 すり切れ、ほとんどボロ布と化した着物は、破れかけた肌の上にひっかかっているだけ、その下から痩せ衰え、肋骨の浮き出た胸が見える。崩れた髪が抜け落ちかけて、かろうじて髪に絡んでいる赤い蝶の簪が、きらりと明るく月光を跳ねる。 「ええ子にしてたんよ、シェンは待ってたよ、にーちゃ」 差し上げた両手から、銀の珠がふわりと浮いた。間をつなぐ銀の糸がしゅりしゅりと擦れ合う微かな音をたてる。 「…あの子と話して上手く解決したとして。他の死んだ人たち、どうなるのかなって」 綾が話し続けるのは、張りつめてキリキリ尖っていく空気の痛さを感じるせいか。 「私たちが全員を埋める時間ないよね? それに…もし私たちが埋めちゃったせいで、探しに来た家族が見つけられなかったら? だから、お線香とお塩。お作法違うかも知んないけど…せめて成仏できますようにって」 暴霊への温かな祈りや思いやり、それらを数々の品物につめて、綾は準備をすすめてきた、だがそれも。 「問答無用、そういうことか」 璃空がシニカルに笑って、符を取り出し、刀を抜く。 「まずは一戦凌がねば、話もさせてくれないようだ……っ!」 ひょんっ、と軽い音がして、月光を弾きながら、少女の手から二つの珠が飛び出した。向き合う四人の首を狙って急接近した片方を、まずは璃空の刀が弾き返す。璃空に弾かれた片方に逆に勢いをつけられたように、綾に向かった銀の珠を、フォッカーが投げたプロップが跳ね返した。 「今時ボーラ?! …っじゃないっ!」 あまりにも古風な武器に綾が呆れ声を上げた瞬間、はっとして戸惑ったまま棒立ちしているイクシスに叫んで飛び退る。 「イクシスっ! 首っ!!」 「えっ、わっ、い、いやあ!」 がきっ、とイクシスの首の付け根で鈍い音がしたとたん、飛び交う銀の珠が交差して飛び離れ、銀糸に巻かれたイクシスの首が飛んだ。 ガシャンッ! 「わあんっ、なにっ、ボク、どうなっちゃうの!」 「あっちゃー」 パニックを起こした叫びを残しつつ、イクシスの首ががらんがらんと派手な音をたてて、シェンの元へ転がりながら引き寄せられていく。 「にーちゃ、にーちゃ」 嬉しそうに転がってきたイクシスの首に両手を伸ばすシェン、急いで駆け寄りながら、綾はつかみ出していたロープを必死にイクシスの頭部にひっかけようとする。 「お月さん、ちょうだい」 シェンがイクシスの頭を抱え上げるのと、綾が頭の端にロープをかけるのが同時、 「綾っ! 気をつけろっ!」 璃空が声をかけるまでもなく、間近に迫った銀の珠の気配に、とっさに綾が身を伏せたとたん、シェンが高々とイクシスの首を持ち上げ、井戸へと投げ落とした。 「にーちゃ、お月さん取っておくれ!」 「見えないよぉ! 真っ暗だよぉっ! ……ぶくぶく…」 イクシスの悲痛な声が井戸の底から響きながら、どぶどぶと重い水音に紛れていく。地獄へ引っ張られる鎖のようにずるずる井戸の中へ消えていこうとするロープの端、何とか掴んだ綾をシェンがふいに振り向いて、今にも鼻を触れ合いそうな距離で覗き込んできた。 「にーちゃ」 近い。間合いが取れない。しかも片手にはイクシスのロープを握っている。 「くっ…」 今までは違った。何かを守るのではなく、ぶつかって殴り合って、そうすることで相手の感情を感じてきた。そうすることでしか相手の気持ちがわからない、そういう自分に不安を感じても、沸き起こる興奮が消し去ってくれた。 けれど今、イクシスのロープを手放せない、脆い足元を保つために蹴りが繰り出せない、覗き込むシェンにパンチを繰り出せない、シェンの感情がつかめない、そのことに、暗くて重い何かが綾の心にのしかかろうとする。 「お月さんおくれ?」 「シェンっ!」 綾の背後で璃空の声が響く。 「月の捕り手は一杯居るぞ!」 綾が振り向いた視界に、辺りの家屋から持ち出したのだろうか、大小さまざまの木材に次々と符を貼りながら、銀色の珠とやりあう璃空の姿がある。符を貼られた木材は、ゆらめきながら歩き出し、井戸へと近づくに従って人の形を取ってシェンへと向かう。 「にーちゃ…いっぱい…?」 シェンが初めて戸惑ったように周囲を見回した。 何度も璃空の刀に弾かれ、ひゅんひゅんと空を切って飛び交っていた銀色の珠も、さすがに誰から狙えばいいのかわからぬように、上空をくるくる回っている。 「綾、大丈夫か!」 「シェン! 月ならあげるにゃ!」 その隙に駆け寄ってくる璃空とフォッカー、そのフォッカーの手元に光が輝いた。 「お月さん…?」 ぐいと差し出されたのは小さな手鏡、それを息を喘がせながらプロップ片手に滑り込んで差し出したフォッカーが、上空の月がシェンに見えるように角度を変える。 「ほら、そのお月さまはシェンのモノにゃ、お月さまが見える夜なら誰も邪魔しないシェンだけの月にゃ…っ」 「シェンだけの月…?」 覗き込むシェンの真っ黒な目が、手鏡の上を這うように眺めたようだった。それからゆっくり空を見上げ、再びゆっくり手鏡を見下ろした。 「だからこれで許して欲しいのにゃ」 「にーちゃ…お月さん…シェンに…取ってきて…くれた……?」 フォッカーの懇願するような声に応じるようにこっくりした、シェンの目から血の涙が手鏡の上に落ちた、そのとたん。 「あ、ああああ!」 喉を裂くような悲痛な声が響き渡って、シェンが仰け反った。 「フォッカーっ!」 綾が警告する、飛び離れたフォッカーの鼻先を滑り降りて来た銀の珠が掠める。とっさに手鏡を手放し、煌めきのたうつ銀の糸の隙間を飛び跳ね、転がり、プロップで弾き、かろうじて避けて後じさったフォッカーは、目の前のシェンに被さるあどけない少女の顔に立ち竦んだ。 『にーちゃ、みて、きれいなの、にーちゃ』 シェンと同じ声、けれどもっと楽しげな声で、赤い蝶の簪をつけた少女は笑う。 『お月さん二つみたいでしょ。ほら、こうやってね、くるくる回すと、もっとほらお月さんみたい』 『シェンはお月さん、好きだからなあ』 笑う兄の姿がおぼろに見える。 『お月さん、大好き』 だからお店で優しい兄にねだって買ってもらった。 『いつか、本物のお月さん、ちょうだいね』 『おいおい、シェン』 苦笑する兄に、シェンの語られない声が響く。 でも、お月さんよりももっと好きなのはにーちゃ、優しくてお月さんみたいに綺麗な笑顔、大好き。 笑顔の兄が嬉しくて、美しい銀の珠が嬉しくて、シェンは二つの珠を巧みに操ってみせながら笑っていたが、なぜか次第にその珠の動きが速まっていくのに顔を強張らせた。 『あれ。どうしたのかな、おかしいよ、にーちゃ、おかしい……シェン……おかしい、にーちゃ……っ』 見ると、銀の珠から黒い靄のようなものが溢れ出て、シェンの両手にからみつき、体へとまとわりついていく。 声を引き攣らせ、身悶えるシェンの前に居た兄の幻の首にあっというまにくるくる銀糸を巻きつけて、がたがた震えながらシェンは訴えた。 『いや、にーちゃ…っ、逃げて…っ、シェン、おかしい、シェン……にーちゃを…にーちゃを殺しちゃう…っ』 悲鳴じみた声に反して、シェンの体はがくがくと奇妙に振動しながら、兄の首を巻き絞めていく。 『殺したく…ないっ……殺したい…っ、にーちゃっ、逃げて、逃げて、逃げてシェンを、シェンを殺して、シェンから逃げてっ、にーちゃっ』 「ああ…」 綾は気づいた。シェンを襲ったのはこの街を襲った霊力災害、その狂気が少女に取り憑いた瞬間を今見せられているのだ、と。 『にーちゃ、にげて、にーちゃ、にーちゃ、にーちゃ……っ!!』 『シェン』 ふいに柔らかく温かく慈愛に満ちた声がした。 『にーちゃはお空にお月さんを取りにいく、よ』 次の瞬間、誰もが二度とは聞きたくないだろう、肉塊を無理矢理ねじ切るような重い音。 ぶちっ。 ポォン! 鮮やかな月の輪郭を背景に、シェンの兄の首が宙を舞った。切られた首から血しぶきをまき散らし、シェンの真上を軽々と跳ねて、温かな血で少女を濡らしながら井戸の中へ落ちていく。 『にーちゃ…』 虚ろな目でそれを追ったシェンはのろのろと井戸の縁にすがって中を覗き込み、あは、と乾いた笑いを漏らした。 『にーちゃ…そこにおるん?』 シェンの周囲を黒い靄のようなものを纏いつかせた銀の珠がひゅんひゅんと唸りながら飛び回る。 『お月さんも、そこにあるん…?』 井戸の中へ手を伸ばす。 壊れてしまったシェンの心に見えるのは、井戸の底に転がり落ちた大事な優しい兄の首と。 『きれいやねえ…』 水に映った明るい月。 『はよ…とって…にーちゃ』 やさしい声でよびかける。 『はと…その月……とって……にーちゃ』 はよ、お月さんとって……戻ってきて、にーちゃ。 『ええ子にしてるし……まってるし』 ごほうびちょうだい、なあにーちゃ。 『ずるいやろ…』 ぽとりと血の涙が滴った。 『ずるいやろ…』 ぽとりぽとりとまた、噛み切ったシェンの唇からも。 『にーちゃばっかり…お月さんもろて……ずるいな…ずるい』 「そうか…月とは」 璃空が苦い声で呻く。 「月を取りに行くと言って、狂気にあやつられた妹に黙って殺された兄,そのものか」 「月がとれれば、お兄さんが戻る、……って?」 「月を望んだ自分への怒りでもある、かもな」 綾のことばを璃空が受ける。 「…そんなお月さまは、取れないにゃ…」 フォッカーが振り絞るような声でシェンが投げ落とした手鏡の、割れた月を見下ろす。 「にーちゃを生き返らせることはできない……どうしたらいいにゃ、せめてシェンの手にお月さまだけでも……そうにゃ!」 フォッカーが急いで綾の手の中のロープを掴んだ。 「イクシス! ひきあげるにゃ! しっかり水汲んでほしいにゃ!」 「水……そうか!」 気づいた璃空が腕飾りに触れ、 「向かえ、水無月!」 式神を呼び出した。腕飾りから一瞬まばゆいキラキラした靄が吹き上がり、瞬間、頭上で衣を翻す天女の姿をとったかと思うと、すぐに井戸の中に滑り込んでいく。水を操り、イクシスの兜の中に水を一杯に満たそうというのだ。 「え、なに、井戸の底? まん丸のが見えるよ、…って、なにーっ!」 井戸の底からイクシスのがぶがぶとした声が応じる。覗き込んだ璃空が、 「よし、いいぞ、フォッカー!」 イクシスの兜になみなみとたたえた水に、明るい月が映ったのを確認して合図した。 「わかったにゃ! …シェン!」 フォッカーがロープを引っ張り上げながら、シェンに呼びかける。幻を追いかけて、井戸の底を覗きながら涙していたシェンが、びくりと体を震わせる。 「にーちゃだにゃ、シェン!」 「にーちゃ…?」 「にーちゃが、シェンに」 ぐっと込み上げたものを堪えて、フォッカーがきりっと歯を食いしばり、できるだけ明るい声で言い聞かせる。 「大好きなシェンに、お月さまをとってきたにゃ! 今あげるから、よく見るにゃ!」 「大好きな…シェン…?」 「ホゥラ、どうだァ!」 綾も一緒に力を込めて引き上げれば、水をたたえたイクシスの兜が、明るい月を映したまま、井戸の上まで引きずりあげられる。 「ああ…お月さん」 溜め息のような歓びの声を漏らして、両手を差し伸べるシェンに、宙を飛び回って様子を伺っていたらしい銀の珠が、苛立ったように飛びかかってくる。 「ようやく叶った逢瀬、邪魔はさせぬ!」 璃空が符を貼り着けた木材の人型を次々飛びかからせながら、すばやく腕飾りに触れた。 「見抜け、長月!」 腕飾りから青白い靄が立ちのぼり、長髪の武人の姿になって空を駆け、銀の珠を一瞬抱える。 「なるほど、こいつに狂気の霊力のかけらが宿っているのか、そしてこの無数の屍の様は」 璃空が薄く笑って刀を引き下げ、飛ぶ。 「おまえの本体が銀の珠ではなく、銀糸の方だと気づかなかったための犠牲だったのだな!」 璃空の刀が銀糸を両断した。一気に飛び離れていく珠も、空中で煌めかせた一閃でそれぞれに分断する。それまで何度弾いても傷一つつかなかった珠だったが、銀糸を切られてはその防御も消えたのだろう。 ぎゃああ、と激しい叫びが上がって、それらが粉々に砕け散ったとたん、 「にーちゃ!」 悲鳴を上げて、シェンがイクシスの兜を抱えた。 銀の珠が壊された衝撃か、ばしゃりと揺れた水面で月が霞み、それを引き止めようとしたシェンが井戸にのしかかる。 ロープで擦られ、シェンの重みがかかって、長年放置されていた井戸はついに限界を越えたのだろう、大きな音をたてて崩れ、シェンもろとも周囲を呑み込もうとする。 「そうは、させない、にゃっ!」 フォッカーが捨て身でシェンにしがみついた。小柄な自分の体が一緒にもっていかれそうになるのを堪えて背後に精一杯体をしならせ、イクシスの頭を抱えたシェンを抱き起こす。 「凍てよ、霜月!」 璃空がとっさに式神に命じたのは、崩れかけた井戸を一気に凍らせる術、今にも落ちそうだったシェンとフォッカーが、凍った井戸に一瞬かろうじて支えられる。 「サンキュ、璃空ちゃん!」 「にーちゃあっ!」 綾を含め、三人とイクシスの首が飛び離れた瞬間、井戸は一気に崩れた。かろうじて巻き込まれずに済んだものの、シェンが抱えた兜は大きく揺さぶられて中の水を全部失う。 「シェンが、シェンがぁっ!」 月が欠けて砕け、あっというまに消え去るのを見たシェンが、身悶えしつつ自らの体に爪をたててかきむしろうとするのに、 「月ならあげる! だから、暴れないで!」 綾が叫んだ。 「お月さん……?」 はたと動きを止めたシェンがぼんやり顔を上げる。その顔に流れる血の赤、絶望と悲しみの傷みが、今綾には痛いほど伝わる。 「け、けど、もう、水はないにゃ、どうやって」 フォッカーが不安そうに凍りついて崩れた井戸を振り向くのに、綾はちょっと待って、と放り出したままになっていた荷物を探った。紙皿に月餅を並べ、コップを取り出す。 「このコップはキミの。そして…これは月を模ったお菓子」 シェンの手にもたせたコップに、そっと魔法瓶からお湯を注ぐ。 「コップの中見てて。ホラ、キミの手の中に、キミだけの月」 「シェンだけの…月」 覗き込んだシェンが小さくつぶやく 枯れ枝のような掌に包まれた、小さな、けれど輝く月。 コップの中でゆらゆら動く、シェンの震えに応じて、さざ波に揺れつつ、それでも月はそこからシェンを見上げてくる。 「にーちゃ…取ってきてくれた…?」 切ない声は四人の耳にこう響く。 にーちゃ…戻ってきてくれた…? 「にーちゃは」 フォッカーがことばに詰まる。 「…ね、キミが待ってたヒト、きっと祖霊になってキミを待ってると思うよ?」 綾が別の紙皿に清めの塩を盛り、線香に火を点けた。細い煙が一筋、揺れながら淡い香りを周囲に広げる。 「だから、会えないんじゃないかな? コレ持って」 月餅を一つ、シェンの空いている手に載せてやった。 「キミが行かなきゃ」 「シェンが…行く…?」 そんなことは思いつかなかった、そういう気配でシェンが顔を上げる。 「シェンが……にーちゃのとこに…行く…?」 「うん」 「シェンが…」 よろり、とシェンが立ち上がる。コップの月を眺め、月餅を手に、よろよろと井戸に向かって歩き出す。今にも砕けて折れそうな脚の歩みは遅く、井戸にすがっていたままの足腰は思うように動かず、それでも少しずつ井戸に近寄って。 「シェンが…行く……? お月さん……もって……シェンが、お月さんもって…にーちゃのとこへ」 ぺたりと井戸の側に座る。中を覗き込む髪から赤い蝶の簪が落ちる。後に付き添い従って、覗き込んだ四人の目に、その赤い蝶がひらひら舞うように落ちていって、隅っこに押しやられていた骸骨の一つにことりとのったのが見えた。 「あっ」 その骸骨に重なりあうように浮かび上がった、優しい笑顔の青年。 「あれが、にーちゃ、にゃ…?」 フォッカーの声が震えを帯びる。 「にーちゃあっ…」 シェンがほっとしたように呼んだ。 「にーちゃあっ……そこにおるん…? シェン、お月さんもってるよ、にーちゃぁ」 『シェン』 確かに聞いた甘やかな声、待ちわびるように両手をこちらに伸べる姿。 「シェン、にーちゃのとこへもってくね? まっててーっ」 シェンが両手を井戸の底へ伸ばした。手放された月を映したコップが空を舞い、月餅とともに井戸の中へ吸い込まれていく。そしてああ、シェンの体も今ついに、指先からぼろぼろと細かなかけらになって、みるみる崩れ落ちていく。 「シェ、シェン!」 半泣きで見ていたフォッカーが、はっとしたように呼びかけた。 「おじさんみなかったにゃ? この街に、シェンがいる間に、アリッサのおじさん、見なかったにゃ?」 「ありっさ…?」 既に顎のあたりが崩れ落ちつつあるシェンの声は、掠れてもう聞こえにくい。 「おじ……たくさんの……シェンは……見ない……見たのは…」 ……お月さんだけ。 最後に空を見上げるように顔を上げた骸は、次の瞬間細かな塵になって、全て井戸の中へ崩れ落ちていた。 「はっきりわからないけど」 綾が静かに立ち上がる。燃え尽きた線香を塩の山に埋める。 「どうやら館長はここにはこなかった、ようだな」 璃空が後を引き取った。 「うん……他のみんなは何か手がかりを見つけたかな」 綾の問いに、報告を待つしかない、と璃空は首を振って歩き出す。 捜索は続いているのだろう、どこかで激しい物音と、花火があがるような音が響いた。 「みんなぶじだといいなあ」 イクシスがようやく繋いだ鎧の首を、がしゃりがしゃりと合わせ直しながら、 「ほんと、ひどいめにあっちゃったよ」 帰途につき始めた綾と璃空を追おうとして、イクシスは、まだこぶしを握りしめたまま、井戸を睨みつけて立っているフォッカーに気づいた。 「フォッカー?」 「ひどい目にあったのは、シェンや、シェンのにーちゃんだにゃ」 優しい兄を大事な妹に殺させたもの。その妹を罪悪と慚愧で孤独に縛りつけたもの。 「あの黒い力は何なんにゃ、なんでこんなひどいことをさせるんだにゃ」 ちびっこ黒猫獣人は、普段は愛らしさの方が全面に立つ、けれどこの時ばかりは、鋭く厳しい野性の光を青い瞳に漲らせ、殺気をたたえて険しく唸った。 「おいら、やっぱりこの街は好きになれないにゃ」 ぐい、と飛行帽を押し下げて歩き出すフォッカーの背中で、井戸は、悲しい記憶を呑み込んで消し去ってしまうようにゆっくり崩れ落ちて埋まっていった。
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