世界図書館館長代理アリッサ・ベイフルックの呼び掛けによって、インヤンガイは『美麗花園』地区にて行われた、大掛かりな館長エドマンド・エルトダウンの捜索。 ロストレイルで直接乗りつける強行策まで打ち出したものの、目撃された館長は暴走した霊力によって再生された過去の情景であり、数多くの暴霊を鎮めたロストナンバー達は人知れずその地を後にするのだった。 しかし、全く無意味な探索だったわけでもなく。 静寂に満ちた庭園の奥にて、館長からロストナンバー達へと宛てられた一通の手紙と、鈍色に光るドッグタグが発見された。 手紙に記された、不可解な謝罪の言葉。そしておよそ彼には似合わない品に、「これが本当に手掛かりになるのか?」と首を傾げる者も少なくなかったとか。 だが、間を置かずして事件は動き出す。 舞台は再びインヤンガイ。悪意に満ちたこの世界は、一体どれだけの混沌を内包しているというのだろうか。 新月の夜を進むように、ロストナンバー達は運命のうねりの中を歩き出す。 そろり。 そろりと。 ガチャリ「どう?」 建てつけの悪い扉を開けて現れた大柄な男に、壁に背を預けていた長身の女が声を掛けた。「だーめ。強情な奴だよ。この程度の拷問じゃウンともスンとも言わねぇ」 肩をすくめながら冗談めかす言葉に、真っ赤なルージュに彩られた唇から嘆息が漏れる。「何なら、取って置きのヤツがあるぜ?」「半々の確率で死ぬって自慢のアレでしょ? それは最後の手段よ、シャーク」 男の提案を却下すると、女は考え込みながら無線機へと手を伸ばした。「ラット、警戒は大丈夫でしょうね」 呼び掛けに、スピーカーの向こうからは雑音混じりの若い声が返ってくる。『こちらラット。大丈夫っスよ。奴の部屋の監視カメラ含めて、全ての映像は奇麗に映ってるっス。周辺にも目立った反応も無し。――隊長、俺思うんスけど、こいつはただの売人なんじゃないんスかね?』「いくら武器の取引をしていたからって、軍服はないわよ」「いやー、軍事マニアって奴は分かりませんよ? 俺のダチにも――」「お馬鹿」 与太話が過ぎるのが彼の欠点だ。問答無用で通信を切り替える。「モグラさん?」『こちらモグラ。同じく、状況に変化無しだ。――なぁ、女王様よ。ラットの言う通り、外れなんじゃないか? クソ仕事に鬱憤が溜まってるのは分かるが』 最古参の宥めるような物言いが、逆に女の神経を逆撫でした。「――ボス!」『そもそも、我々の本来の任務は終了している。報告書は上へ提出済みだ。後は好きにやれ、としか言えんな』 無線の向こうの声はにべもなかった。 彼等はこのインヤンガイにおける治安当局の一組織だ。警察組織の中でも特殊かつ上位の権限を与えられ、かなり自由な活動を許されているが、それでも巨大な組織の一部である事には変わらない。腐敗したインヤンガイの管理体制は汚職と既得権益にまみれ、彼等の仕事も一部の人間の私兵と変わらないものがほとんどだった。 そんな中で見つけた、あの男。現行犯は武器の密売だが、その行動を洗っていて違和感を覚えた。あちこちの有力なマフィアに接触を図っていたのである。背後にいる組織も不明な為、最初は新参者かと思っていたが、それにしては動きが大き過ぎる。そもそも、成り上がりが調子に乗ればすぐに消される社会だ。 有力者に取り入るだけのバックボーンがありながらも、自分達が今まで情報を得る事すらできなかった組織―― 興味が湧いた。場所を自前のセーブハウス――自宅とは別に確保した住居の事だ――に移し、「サービス残業」をするくらいには。「口を割らないとなると、手掛かりはこっちだけね……」 視線を傍らのテーブルの上に移す。 女と同じ場所を見る男――通称シャークは、しかし首を傾げて唸り声を上げた。「そんなドッグタグ、その辺の露店でも買えるんじゃねぇ?」「そうでもないわよ」 それを手に取ると、女はシャークの目の前まで持ってきてぶらぶらと左右に振ってみせた。「ここ、何て書いてある?」「……読めねぇ」 揺れるタグをひっつかみ細かく調べてみるものの、読めないものは読めない。読み書きできない程、頭は悪くないつもりだが……「そう、読めないの。資料も漁ってみたけど、合致する文字は無かったわ」「どういうこった?」「分からない。でも――」『多数の熱源確認! 何だこりゃ!? 何でこんな至近距離まで――うわあぁぁぁっ!』 二人の会話に割り込んできたラットの悲鳴は、ノイズだけを残して忽然と途絶えてしまった。『ラット沈黙! 建物の周囲に重装備の連中がいるぞ。くそっ、何で気がつかなかった!?』 モグラと呼ばれている隊員の声にも焦りと悔しげな色が混ざる。ノイズが激しいのは、ラットの二の舞にならないよう移動しているのだろう。「当たりだったみたいね。嫌な方向に」「どうするよ? ちっとばかしヤバそうだぜ」 銃を構えながら外の様子うかがい、シャークが尋ねてくる。 自身も銃を手に反対側へと向かいながら、彼女は迷い無く言い切った。「何とかするわよ」 しかし、今回は片腕の言う通り、少し分が悪そうだ。 闇の中を行き交う影を睨みつけながら、女は死を覚悟していた。 これが、『導きの書』が指し示した未来の断片。書はこの先も懇切丁寧に教えてくれたが、それはロストナンバー達にとっては無用のものであろう。 世界図書館は、この未来に介入する事を決定したのだから。 それは決して、人道的な理由からではない。 インヤンガイ。そしてドッグタグ――ようやく手に入れた館長の手掛かりと共通する要素があったからだ。この場に居合わせ、ドッグタグの持ち主を中心に調べれば、更なる情報を得る事も可能かもしれない。 こうして、急遽インヤンガイへと向かう部隊が編成されたのだった。◇「先に説明したとおり、インヤンガイの治安当局が武器密売の現行犯で拘束した不審人物――この人物が所持していたドッグタグには『本来インヤンガイには存在しない文字』が刻印されていた。そして……」 世界司書のオリガ・アヴァローナは、鈍く光る謎のドッグタグを指し示した。「館長が手紙に託したこのドッグタグにも、やはり『インヤンガイには存在しない文字』が記されていた……以上のことから、例の不審人物とこのドッグタグの持ち主とは、恐らくは互いに関連性がある。彼等が何者なのかは分からないけれど、館長自ら『手掛かり』としてこれを託したからには、何らかの形で館長の行方に関わっている可能性は高いと考えられるわ……。そして『導きの書』は、近い将来謎の武装集団が、治安当局を襲撃する予言を示している。その目的は恐らく、拘束された仲間の奪回。しかも彼らは、インヤンガイの常識を超えた、極めて高い戦闘能力を持っている。あなた達も見たでしょう? あの殺戮の未来を。このままでは、治安当局の人間は成す術もなく皆殺しにされてしまうでしょうね……」 オリガは悲しげに俯いて、唇を噛む。確かに、彼らは自ら望んで荒事を生業に選んだのだから、生きるも死ぬもあくまで自己責任という考え方もあろう。それでも、かくも凄惨にして一方的な虐殺の光景は、彼女の心を痛ましい想いで満たすには十分だった。「そこで世界図書館は、この武装集団の襲撃から治安当局を保護することを決定したの。ただし、真の目的はあくまでも『この集団に関する情報を足がかりに、館長失踪の原因とその行方に一歩でも近づくこと』。その点を踏まえた上で、今回の作戦を説明するわ。敵集団との直接的な交戦は、エリザベスのチームが担当することになっている。確かに強敵だけど、彼らも簡単にやられたりはしないでしょう。あくまで敵の殲滅ではなく、ギリギリまで追いつめて撤退させることが彼らの仕事。そして、その撤退する敵集団を尾行し、彼等のアジトを……出来れば敵の正体を突き止める。それがあなた達の任務よ。ターゲットの情報を得るまでは、決して途中で見つかって振り切られてはいけない。失敗を許されない難しい任務だけど、それでもあなた達ならきっとやり遂げられると信じてる……頑張ってね」 オリガはそこで説明を打ち切り、インヤンガイ行きのチケットを手渡した。しかし、その様子を見ていた幾人かのロストナンバーは、彼女の表情にどこかしら不審めいた影を感じていた。 オリガはまだ何かを隠している。 いてもたってもいられなくなった一人が、彼女を問い詰める。暫くの沈黙の後、彼女は諦めたように、そしてどこかすがるような表情で、重い口を開いた。「……やはり、あなた達には分かってしまうのね。確かにあなた達の言うとおり、『導きの書』の予言には続きがあるの。もしあなた達がその内容を知ってしまったら、今回の任務に対する士気に影響するのではないかと思って黙っていたけれど……いいわ。見せてあげる。だけど……相当に覚悟をなさい」 オリガは意を決し、『導きの書』に現れた『更にその先の未来』を指し示す――。「拘束される痛み」「剥ぎ取られる痛み」「貫かれる痛み」「引き裂かれる痛み」「血を流す痛み」「無限に続く痛み」「歪む風景」「脳を満たす熱」「醒めることのない悪夢」「鈍く光るメス」「注射針」「薬品臭」「見たことのない器具」「下卑た笑い声」「ぬめる舌先」「這いまわる指先」「鼻をつく嫌な臭い」「声にならない悲鳴」「苦い味」「血の味」「涙」「授かりし命」「望まれない命」「生まれたかった命」「生まれてこない方が良かった命」「愛されない命」「死にたい」「死にたくない」「死にたい」「逝きたくない」「生きたくない」「生きられない」「どうせ死ぬなら」「自分だけが惨めに死んでいくぐらいなら」「奴等がのうのうと生き延びるぐらいなら」 『コロシテヤル』 そのヴィジョンは、まるで伸び切ってまともに再生できないビデオテープのように、歪み、乱れ、ぼやけていたが、普通の人間ならば思わず吐き気を催すほどにおぞましいものであることは、その場にいた誰もが本能的に察知していた。 端正な顔を苦渋と哀切に歪め、オリガは言う。「繰り返すけれど、今回の任務は、失敗すればあなた達の命だけでなく、この世界図書館、ひいてはインヤンガイ全体の命運をも左右する可能性があるわ。たとえどんなことがあっても、決して失敗は許されない。それでも……もしあなた達が『進むべき道』に迷ったら……あなたが望む『未来』のために行動しなさい。今の私に言えることは、それだけよ」!注意! このシナリオは『【死の影を追って】薫るは罪の真実』とリンクするシナリオです。 同一のキャラクターで両方のシナリオへの参加はご遠慮下さい。
ある夜突然、インヤンガイ某所の治安組織を襲撃した、謎の武装勢力。 現在のインヤンガイの技術では実現不可能なまでに強力な火力。そして、人の限界を突破した驚異的な身体能力。その全てがインヤンガイの、そしてロストナンバーたちの予想を遥かに超える、恐るべきものであった。 熾烈な戦いの末、ロストナンバーの中でも特に戦闘能力に長けた精鋭たちは、彼らを撃退することに成功した。 隊長らしき人物の撤退命令と共に、謎多き兵士たちは武器を収め、次々と漆黒の装甲車に乗り込んでゆく。 「奴らが逃げる。追うぞ」 サーヴィランスの合図と共に、偵察チームは行動を開始した。 敵も追手が来ることを見越してか、狭い路地を抜け、幾度も回り道をしようとするが、逃走直前の装甲車に発信器を仕掛けておいたサーヴィランス、猫に変身し、小さな陸抗を背中に乗せて、高所も悪路も狭い場所も自在に駆け抜けるポポキ、黒き翼を闇夜に広げ上空から探索する飛天鴉刃の前では、全てが無駄な抵抗であった。 やがて装甲車は、川べりにある廃工場の前で停車した。ボロボロになった看板や施設の形状から見て、元は造船所だったようだ。敷地面積は相当に広く、長い長い無骨なコンクリート塀の向こうに、いくつもの建物や煙突、クレーンが林立している。もう何年も放置されていたらしく、門の隙間から覗く光景は酷く荒れ果てていた。 車を降り、次々と建物内に入ってゆく兵士たちの姿を見ながら、追跡者達は皆一様に「嫌な予感」を覚えた。 確かに、敵はここを根城にしている。今帰還した兵士達以外に、待機している仲間もいることだろう。加えて、出発前にオリガの見せた「隠された予言」の内容が、彼らの心に否応なく、更に暗い影を落とす。得体のしれぬ『何か』が確実に潜んでいると分かるが故に、更なる不安を掻き立てられる、そんな不気味な静けさ。 それでも彼らは、逃げるわけにはいかなかった。敵のアジトを突き止め、出来うる限り詳細な情報を持ち帰る。それこそが、自分たちの任務なのだから。 車内の兵士が全て施設の奥に引っ込んだのを見届け、鴉刃が今後の作戦について切り出した。 「安全を考えるなら、最低でも一人は外で待機するべきところなのだが……」 「しかし今の我々では、この広い敷地内を探索するには人数が少なすぎる。二手に分かれよう」 サーヴィランスの言葉を継いで、抗が言う。 「なら俺はポポキと組もう。小さい者同士、こういうことにはうってつけだからな」 かくして、抗とポポキが天井裏やダクトを通って潜入し、残るサーヴィランスと鴉刃が地上を探索することになった。 ◇ サーヴィランスと鴉刃は、薄暗い廊下を慎重に進んでいた。 二人は監視カメラを含めたセキュリティの類を常に警戒していたが、警報装置やレーザー、ガス噴射器といった致命的なトラップは仕掛けられていないようだ。 驚異的な戦闘力と軍事力の割には杜撰な警備と言えなくもないが、それが二人の警戒を解く理由にはならない。何しろ敵は、インヤンガイの中でも最高レベルの武装を誇る治安組織を壊滅寸前にまで追いつめた連中だ。なればこそ、たとえ一時的に侵入を許しても、見つけ次第いつでも始末できるという「絶対の自信」の裏返しなのかもしれない。 やがて二人は一つの部屋にたどり着いた。 書棚や段ボール箱の中には沢山の書籍やファイルが詰め込まれ、デスクの上にはパソコンや各種の計器が置かれている。どうやら資料室のようだ。 慎重にファイルを一冊手に取り、中身を確かめる。 所々に複雑な数式や写真、分子構造図が挿入されているところから見て、何かの実験に関する報告書のようだが、その殆どは見たことのない文字で書かれていて読めない。心なしか、あのドッグタグの刻印に似ているような気がする。 その未知の文字の羅列を見つめ、サーヴィランスは呟いた。 「……やはりな」 「何か分かったのか?」 「『旅人の言葉』は『その世界では一般的な言語』を理解できる。それを以ってしても解読できないということは、この文書が『インヤンガイとは異なる言語体系』で書かれていることの証左だ。別の言い方をするなら『インヤンガイの外側にある異世界の言葉』ということになる……」 異世界から現れた謎の軍団。確かにそう考えれば、この世界に本来あり得ない武装を所持していた理由も説明がつく。 更に根気強く探ってゆくと、僅かながらインヤンガイの人間が書き記したと思しき書類が見つかった。 報告書の日付は、二年前から始まっていた。 ---------- 「キルケゴール博士は、インヤンガイの霊力技術の中でも特に『呪殺』と『憑き物』に非常に興味を示していた。一方で、複雑な呪術の手順を簡略化し、もっと短期間、多人数に効果を発現出来る良い方法はないものか、とも語っていた」 「ダンクス少佐から『夜叉露』の開発許可が下りたらしい。キルケゴール博士の主導の下、我々闇羅会が開発資金と『材料』の提供を請け負うことになった。博士は言う。開発に成功すれば彼らカンダータ軍はもとより、我々闇羅会にも必ずや恩恵があることだろう、と」 「『夜叉露』の試作品第一号が完成する。人体への臨床試験を兼ねて、市場への流通を開始。相場よりも大幅に安価な価格設定について、博士は『人数比の割に社会貢献度の低い貧民層に広く流通させるため』だと言うが、採算性については疑問が残る。今後検討の必要あり」 「臨床試験の結果は芳しくない。被験体は全員、強力な幻覚症状を体験した後、脳障害を起こし死亡した。一体何が足りないのか」 「キルケゴール小隊のボルジオ伍長が、向精神薬と間違えて『夜叉露』を摂取したところ、身体能力が飛躍的に上昇するのを確認した。早速実地試験を兼ね、闇羅会の剣客として派遣。敵対組織との抗争で目覚ましい活躍を見せたという。尚、ボルジオ伍長本人は帰還直後に心臓麻痺で死亡」 「どうやら『夜叉露』の効果は、カンダータ人にしか発現しないらしい。話が違うと抗議したところ、今後は傭兵として派遣する兵士の増員という形で対応すると返答された。確かに、彼らの持つ強力な武装や兵力は魅力的であると同時に、敵に回すと恐ろしい存在でもある」 「『絶望』に至る落差が大きいほど、より高純度の霊力を生成する『材料』となることが判明。逆に言えば『絶望状態にある期間が長く常態化した』場合、即ち娼館からの払い下げや貧民窟で捕獲した低品質のものでは、期待するほどの効果は得られないということになる。より『純度』の高いものを調達せねばなるまい」 「現時点での問題点は『使用者の心身にかかる多大な負担』。高確率で突然死に至るため安定性は低く、基礎能力の低い兵士や懲罰兵の底上げとしてしか使えないのが現状。『最強兵士』の開発に向けて、副作用の軽減は今後の課題であろう」 ---------- 「これは……」 報告書を読み終えた二人は、そのあまりに非人道的な内容に慄然とした。 霊力、それも『絶望』という強烈な負の感情と生体化学を融合した、禁忌の技術。 『闇羅会』という現地の犯罪組織と結託して行われた、ドーピング剤『夜叉露』の開発と人体実験。 著しい戦闘能力の向上と、その後に訪れる致命的な副作用。 しかもその材料は……人間。 「ここに書かれている『カンダータ人』というのが、恐らく例の異世界人だろう。しかも二年前の時点で初めて霊力の存在を知ったということは、我々ロストナンバーのような『世界図書館の関係者』とも考えにくい。信じられないことだが……世界図書館の他にも『世界群を自由に、しかも集団で行き来する手段』を持つ者がいた、ということになるな……」 自らの導き出した仮説に、サーヴィランスは恐怖を覚える。いかなる手段かは不明だが、少なく見積もっても数十人、下手をすれば数百人を超える武装兵士が、世界の境界を越えて集団移動したということになる。強力な武装と、肉体強化を目的とした人体実験。目的はインヤンガイの、或いは世界群そのものの武力制圧か、それとも……。 「とにかく、あの二人にも知らせよう」 鴉刃はトラベラーズノートを取り出し、報告書の内容と、そこから導き出したサーヴィランスの仮説を一字一句漏らさず書き記す。 「いつまでもここに長居は無用だ。誰かが戻ってくる前に、行こう」 情報を全てノートに書き記すと、二人は再び移動を開始した。 ◇ 一方、猫に変身したポポキは、抗を背中に乗せ、足音を立てぬよう注意しながら、天井裏を進んでいた。 広い敷地内の割には、物音の聞こえる――即ち、人の気配があるか施設が稼働している場所は、さほど多くはなかった。 「一体、何なんだよここは……。無駄にだだっ広いくせに、やたら使われていない場所が多いな。偶然見つけたにしては都合がよすぎるし……」 「しっ……何か聞こえるにゃ」 ポポキの言う通り、下からの光が漏れる通気口の一つから、何やら物音が聞こえる。 二人は注意深く近づき、その下を覗きこんだ……。 「うっ、うっ、ううっ」 覗きこんだ部屋の奥から、くぐもった女の呻き声が聞こえる。 見れば、一人の黒髪の女性が、一糸纏わぬ姿で拘束されていた。十数人の男たちが取り囲む中、口に猿轡を噛まされ、腰をくの字に曲げ尻を突き出した恰好で、天井から延びる太い鎖に手足を繋がれている。 彼女の背後から、一人の軍装の男が覆いかぶさっている。何をしているかは、天井から眺める二人にも否応なく理解できた。 女性の下腹部は、その細身の体躯とは不釣り合いに、僅かに膨らんでいた。中身はきっと、繰り返される行為の果てに、既に父親が誰かも分からなくなった小さな命。 彼女を取り囲む男たちには、大まかに分けて二種類がいた。一方はインヤンガイでは一般的な、黒髪黒眼の黄色人種。もう一方はこのあたりではあまり見かけない、金髪碧眼の白色人種。金髪の方は皆同じ軍服に身を包み、一方黒髪の男たちは、服装こそブラックスーツからアロハまで様々だったが、いずれも皆、とても堅気の人間には見えない風貌だった。 「おいおい、このペースじゃ全然追いつかないぜ。いっそ歯を全部折っちまって、上の口も使った方がいいんじゃねえのか?」 「馬鹿言え。完全に無力化しちまったら、後は死にたがるだけだろ。せめて食いちぎれる牙ぐらいは残しておいてやれ。だが、絶対に使わせてはやんねえ。抵抗したくても出来ない怒りが、憎しみが、最高の『材料』になるんだとよ」 「やれやれ、学者先生の言うことはわからんねえ。でもおかげで俺達は、こうして毎晩お楽しみにありつけるんだからな」 「おっと、腹の中のガキは傷つけるなよ。そいつも貴重な『材料』になるんだからな」 哀れな生贄を眼下に見下ろして、現地人らしい黒髪の男たちは、下卑た笑い声を上げる。金髪の男たちの言葉はよく聞き取れないが、恐らくは似たような話題だろう。歪んだにやけ顔が、全てを物語っていた。 一人の男が手術用メスを手に取り、乳白色の柔肌にゆっくりと滑らせ、細く短い深紅の線を刻む。薄皮一枚を切り裂くだけの浅い傷でも、恒常的に受け続ければ、立派な拷問になる。 苦痛と憎悪と、そして深い絶望に満ちた虚ろな瞳に、涙が浮かぶ。 貫かれる痛みと、切り裂かれる痛み。凌辱という言葉すら生ぬるいほどの、精神の破壊。 もしかしたら彼らにとっては、この淫行さえも副産物に過ぎないのかもしれない。人間の尊厳を徹底的に踏みにじり、絶望漬けにすること自体が本当の目的なのではないかと思えるほどの「悪魔の所業」。 眼下で繰り広げられるグロテスクな嗜虐の儀式に、二人は吐き気を覚えるほどの嫌悪と、怒りを感じずにはいられなかった。『導きの書』の予言が示した「おぞましい真実」は、恐らく人体実験の類だろうと予想はしていたが――そして『材料』『学者先生』という単語から、その予想が間違っていないであろうことも分かったが――まさかここまでのことが行なわれていたとは。 「酷いにゃ……こんなの、あんまりだにゃ……」 「ああ、全くだ……だが、俺たちの任務はあくまで『情報収集』だ。今下手に出て行ったら、全てが無駄になる……」 「分かってる……分かってる……にゃ……」 あの時のオリガも、きっとこんな気持ちだったのだろう。人道と任務、心の奥でせめぎ合う二つの価値観に葛藤し、唇を噛みしめる。 その時、二人のトラベラーズノートが反応した。 「これは……」 その内容――鴉刃からもたらされた情報に、二人は戦慄した。もしこれが真実なら、あの女性は腹の中の胎児諸共、遠からず怪しげな薬の『材料』にされてしまうだろう。 「なら尚更、放っておくわけにはいかないにゃ!」 「同感だ。だが、何にせよ先走るのはまずい」 二人に目の前の惨劇を伝え、判断を仰ぐべく、抗がメールを送る。暫くすると、サーヴィランスからの返信が届いた。 「大体の事情は分かった。ならば私が囮になって奴らの注意を引こう。その隙に人質を救出してくれ」 「情報収集の方はいいのか?」 「一通り探ってみたが、ここで得られる情報は、先刻送ったものが限界だろう。何より、目の前の命が失われることで更に凶悪なモノが生み出されるなら、何としても阻止せねばなるまい」 「分かった……やろう」 サーヴィランスにそう答えると、抗とポポキは、眼下の室内に飛び降りるべく身構えた。 ◇ カラン、という乾いた音が、部屋の隅に響く。 「ん?」 それまで淫蕩に耽っていた男たちの注意が逸れた瞬間、深紅のS字手裏剣が一人の兵士の腕を切り裂いた。致命傷ではないが、突然襲いかかった激痛に呻き、判断力を失ってうずくまる。 「敵襲だ! 総員、応戦せよ!!」 漆黒のマントに身を包んだ侵入者――サーヴィランスの姿を認め、兵士たちは銃を構え、闇羅会のマフィアたちも、それぞれに拳銃や短刀を手にする。 「撃てーっ!!」 号令の後、一斉射撃。しかしサーヴィランスの俊敏な動きはそれらをかわし、投げた手裏剣で弾丸を全て叩き落とす。接近戦で挑みかかる敵には、鳩尾や脊髄に激しい一撃を喰らわせ昏倒させる。 命の尊厳を踏みにじる鬼畜共への、激しい怒り。 それでも彼は、決して敵の命を奪おうとはしなかった。奴らと同じ鬼畜には決して堕ちぬと、自らに課した矜持のために。 サーヴィランスが動くと同時に、抗を背中に乗せたポポキも、天井から身を躍らせる。 「待ってろ。今助けてやる」 全身を苛む苦痛に耐えながら、抗はPKを行使し、敵の攻撃を防ぐべくバリヤーを張る。使う力が強力であればある程、彼の身体にかかる負荷は増大する。それでも、今この瞬間まで彼女が受け続けてきた苦痛と屈辱を思えば、自らの命を惜しんで引くわけにはいかなかった。 ポポキも獣人形態に戻り、トラベルギアの『ペレのククリ』を振るう。幾度目かの打撃の後、刀身に込められた高熱が、ついに堅牢な鎖を焼き切った。 「こっちにゃ!」 周囲の争乱と同時に解かれた戒め。突然の異変に呆然とする女性の手をポポキが引っ張る。肩に乗せた抗のPKで流れ弾を避けながら乱戦の中を駆け抜け、ドアの前で待機する鴉刃のもとへと送り届ける。 「今のうちに逃げるぞ!!」 突然の騒動に、他の場所で待機していた兵士たちが続々と駆け付ける。その隙をつき、警備の手薄になった部署を駆け抜け、三人は女性を伴い脱出した――。 「ここまで来れば大丈夫だな……」 無事逃げおおせた抗たちは、近くの建物の陰から敵アジトの方を見やる。幸い追手はこちらに来ていないようだ。 「鴉刃……悪りぃが、この人を頼む」 そう言って抗は、女性の身柄を鴉刃に預けた。 「どうするつもりだ?」 「サーヴィランスを助けに行く。俺達やこの人の為に身体張ってくれた仲間を見捨てるわけにはいかない。それに……同じ女のあんたがついててやった方が、彼女も安心するだろう」 「オイラも行くにゃ! オイラだって誇り高きクムリポ族の戦士にゃ! ここで仲間を見殺しにしたら、一族の名折れにゃ! どんなに敵が強くたって、必ず、みんなで生きて帰るのにゃ!」 「そうだな。ポポキがいれば心強い。一緒に行こう」 「分かった……絶対に、死ぬなよ」 鴉刃に見送られ、二人はまた、あの戦場へと戻っていった。 ◇ 仲間たちが人質と共に無事脱出したことを確かめ、サーヴィランスが撤退しようとしたその時、突然部屋中にサイレンの音が響き渡った。単なる警報機のそれではない。それ以上の危機的状況を想起させる、禍々しい轟音。 上官らしき男の怒号と共に、兵士たちの顔が一気に青ざめ、一斉に戦闘を中断して部屋の外へと駆け出す。 (どういうことだ……?) つい今し方まで戦っていたはずの侵入者すら目に入らぬかのように、彼らは一方向へ向けて『逃げ出して』いた。嫌な胸騒ぎを覚え、サーヴィランスも後を追う。 兵士たちが逃げ込んだのは、広大なドック。そこに隠された『信じられない物』に、サーヴィランスは言葉を失った。 (……これは!) 目の前にあるのは、無骨な装甲に覆われた一両の列車であった。彼らの知るロストレイルのような、優美さ、或いは懐かしさを湛えた旅客列車ではない。ただ、敵を蹴散らし、撃破するためだけに作られた存在。それは正に『鉄の移動要塞』と呼ぶに相応しい代物であった。 (奴らはこれに乗って、インヤンガイに来ていたのか……) すっかりパニック状態に陥った兵士たちが、我先にと装甲列車へ乗り込んでゆく。 やがて、巨大な竜が身じろぐように、鋼鉄の車輪が軋みをあげ、装甲列車はゆっくりと動き出す。 それは次第にスピードを増し、乗り遅れた兵士を置き去りにしようとしていた。 「逃がすか!」 サーヴィランスは必死で駆け出し、地面を蹴って跳躍した。最後尾の柵に取りつくと、両腕の筋肉に渾身の力を込めて這いあがる。 「……待ちやがれぇぇぇぇぇっ!」 突然の叫びに振り返ると、一匹の猫が飛んでくるのが見えた。背中に乗せた抗のPKにより、ポポキは本来の跳躍力より高い空間をジャンプし、サーヴィランスの乗るデッキへと降り立った。 「お前達、何故……」 「あの連中を許せないのは、俺も同じだ。こうなったら一蓮托生、とことん付き合うぜ」 「敵の数は多い。しかもこの列車は奴らのテリトリーだ……それでも行くのか?」 「……オイラだって、正直勝てる自信はないにゃ。でもここで逃げたら、もっと多くの人々が、あの女の人のようにムゴイ目に遭うかもしれないのにゃ。だからオイラ、絶対に逃げないにゃ!」 二人の決意に満ちた瞳に、覚悟に、サーヴィランスもまた無言で頷き返す。 やがて列車は、それまで身を潜めていた廃ドックを後にし、漆黒の夜空へと躍り出した。 その直後、突然轟音を上げて、敵アジトが爆発した。これまで行なってきた悪事の証拠を隠滅するため、装甲列車の脱出に合わせて時限爆弾を仕掛けていたのだろう。炎に包まれる施設の中で、逃げ遅れた下級兵士や闇羅会のマフィアが、次々と火だるまになって絶命するのが見えた。 「そんな……」 眼前で繰り広げられる地獄絵図に、そしていかな悪人とは言えあまりにも凄惨な男たちの最期に、ポポキは絶句する。女子供を虫けらのように嬲り殺すばかりか、同じ仲間さえ足手まといとなれば容赦なく切り捨てる――これから自分たちが相手にするのは、そういう相手なのだ。 燃え盛る煉獄に背を向け、装甲列車は天を貫き、ひた走る。 頬を撫ぜる空気が、次第に冷たくなってゆくのを感じる。 一切の光射さぬ漆黒の闇は、インヤンガイの空か、それとも『虚無』の空か。 それでも、たった一つだけ確かなことは。 今の自分たちには、一切の逃げ場はない。たとえ敵に追いつめられ、絶体絶命の危機に陥ろうとも、あの闇に身を躍らせれば、確実に死ぬ。 もう後戻りは、出来ない。 ◇ 一方、救出され鴉刃と共に脱出した女性は、手近な布一枚を纏っただけのボロボロな姿で、ただ泣きながら震えていた。 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ぶたないで切らないで殺さないで……」 「大丈夫だ。奴らは私の仲間が倒した。お前を傷つける者はもういない」 「ひぃぃぃぃいっ、来ないでえぇぇぇぇえ!!」 錯乱して逃げ出そうとする女性を、鴉刃は自身の胸に抱き寄せる。 「うっ、う、う……ひえぇぇぇぇん……!」 相手が同性と気づいて安堵したのか、女性は一転して、母親に甘える子供のようにすがりついて泣きじゃくった。彼女の心の傷を癒すのは、容易なことではないだろう。もしかしたら、一生消えることはないかもしれない。 「今、救急車を呼んでやる。すまないが、異邦人の私がお前にしてやれることは、ここまでだ。今のお前には酷なことを言うかもしれぬが……生きろ。その腹の中の赤子と共に。たとえその半分が、あの鬼畜共の血を受け継いでいたとしても、生まれてくる子供に罪はない。お前を傷つけ殺そうとした奴らの思い通りになりたくなければ、死に逃げるな。抗え。人の誇りを、愛を、命への尊厳を失うな。生きている限り、朝はまた必ず訪れるのだから……」 そして、白み始めた夜明けの空に、今も敵と戦っている仲間の無事を祈る。 「……待っていてくれ。私はこれから事の真相をオリガに伝え、必ずお前たちを助けに行く。それまでどうか、無事で……」 ◇ 漆黒の闇の中を、装甲列車は走る。 その最後尾の車両の片隅で、サーヴィランス、抗、ポポキの三人は、息を殺し、じっと身を潜めていた。 今のところ自分たちの姿は、まだ敵に見つかってはいないようだ。しかし、先刻のアジトとは比べ物にならないほど狭い列車内。このままではいずれ発見されてしまうだろう。 ノートに鴉刃からのメッセージが届く。助けた女性は無事病院に送り届けられ、そして一連の情報を世界図書館に報告し終えたと伝えていた。 そして、事態を重く見た世界図書館は、ロストレイルによる大規模な追撃作戦をも検討しているという。 助けが来る。しかしそれは、新たな戦いの始まりでもあった。 <了>
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