「お花見行きたーーーい!」 ある日のターミナルで、世界司書・エミリエが言った。「お花見と言いますと……壱番世界の?」 リベル・セヴァンが資料から顔をあげて応じた。「そう。サクラの花ってキレイなんだって! それからお弁当に~、お団子に~」 どうもエミリエは誰かにお花見の話を聞くか本で読むかしたらしい。 しかしながらお花見の本場、壱番世界はニッポン列島においても、今年は桜の開花が早く、すでに盛りを過ぎつつある地域も多い。いやそれ以前に、ロストメモリーたちがターミナルを離れて壱番世界で花見ができようはずもないのだった。 ところが。「こいつぁ、どうすっかな……」 シド・ビスタークがやってきた。「どうかしましたか」「いや……、無人のチェンバーが見つかったんだ。広くて本当に無人かどうかはわからんので、それを確かめてから閉めちまえってさ。べつだん危険もなさそうだし放置してもよさそうなもんだがなあ……。こんな依頼、誰が受けてくれるもんかね。だいたい、何のつもりかしらんが、このチェンバーの中はサクラの樹しかありやがらねえ」 エミリエとリベルは、あまりのタイミングのよさにはっと顔を見合わせる。 かくして、無人のチェンバーの確認依頼――という名のお花見大会が行われることになったのである。 * * * * *「夜桜を観に行かないか」 そう言ってロストナンバーたちを誘い、神楽・プリギエーラは手にした楽器ケースを抱え直した。「無人の、広いチェンバーの中に無数の桜が咲いていることが判ったらしいんだが、チェンバー内には時間の移り変わりもあるらしくてな。雲ひとつない空に満天の星、金の望月。そこに桜と来れば、美しくないはずがない」 美味い酒とつまみを用意してあるから、と人々の花見魂をくすぐりつつ、それから、と付け足す。「桜が綺麗で月が美しいとなれば、音楽の出番だろう」 故郷の世界では封印と呼ばれるパワースポットに音楽を捧げて歩く巫子だった神楽にとって、音楽とは人生そのものだ。音も歌も舞も、それに付随する様々な芸術も、魂に刻まれたものと言って過言ではない。「ロストナンバーたちの中にも、音楽を……芸術を愛するものは無論多くいるだろう。皆で桜を愛でながら、美しい芸術に耽溺しないか」 楽器を奏でるのでもいい。 うたを歌うのでも、それに合わせて舞うのでもいい。 その光景に生まれる詩もあるだろう、絵も生まれるだろう。 それを見て更に何かを創りたいと思う者もいるかもしれない。 そして、それを見て、聴いて、感じるだけで――そこにいるだけで満たされる魂もあるだろう。「ロストナンバーとなって尚、我々の魂は故郷での根本を叫ぶ。魂の底から湧き出(いず)るそれをかたちにするのは、悪くないだろう?」 神楽は楽しげに笑い、人々へ手を差し伸べた。「さあ、チェンバーを熱情で満たしてやろう。それはきっと、ひどく美しいに違いない」 ――こうして、壮麗なる夜桜を見上げての、にわか一大芸術祭が始まったのだった。
1.紫雲 霞月の幽玄なる静謐 黄金の月が浮かぶ、静かで佳い夜だ。 それがチェンバーのもたらす擬似空間なのだとしても、美しいものが美しいことに変わりはないだろう、と紫雲 霞月は空を見上げて目を細めた。 一般には吸血鬼とも呼ばれる夜人の魔法学校教師である霞月が、画材を携えて桜の巨木へとやって来た時、そこにはすでに何人もの先客がいて、和気藹々と花見や穏やかな『芸術』を楽しんでいた。 「つい、楽の音に誘われてしまったよ。こんな雰囲気の中、絵を描くのは悪くなさそうだね」 偶然隣にいた青年、クージョン・アルパークに経過を訪ねたところ、初めにやってきたのは彼とジャンガ・カリンバ、そして蓮見沢 理比古で、このスペースのホストである神楽・プリギエーラは彼らの求めに応じて不思議な形状の弦楽器“パラディーゾ”を奏でているのだそうだ。 神楽が演奏しているのが、日本の古謡、『さくら』を民族音楽調にアレンジしたものだということは、異世界人である霞月には判らなかったものの、楽しげに耳を傾けているクージョンたちの姿や、それに合わせて艶やかな舞姿を見せる永光 瑞貴の『動』のアートは、言葉も説明もなくとも通ずるものだし、霞月にとっては馴染みの空気でもある。 皆から少し離れた場所で密やかに――息のあった風情で歌と舞を披露してから静かに去って行くテオドール・アンスランとレヴィ・エルウッドの、絆めいた深いつながりを思わせる後姿を見送った後、霞月は画材を取り出して並べた。 筆と墨、画仙紙と呼ばれる書画用の手漉き和紙である。 「……しかし、あそこにあるオブジェは面白いね」 どう描こうかと構図を考えていると、視界に妙なものが映り込み、霞月は小首を傾げる。 霞月の視線の先には、ちょっと生物としてギリギリ的な形状で仰け反り、尻尾で全体重を支えているという猛者、ルイスの姿がある。 倒れたら頭がぶつかるだろう位置には、蓋の部分に何故か辛子を山盛りにされたちょっぴりギザギザな空き缶が置いてあり、なんとも言えない微妙空間を作り出しているが、これを本当にオブジェだと思っている霞月は、こんな像を創るなんて芸術とは奥深いものなんだなあなどといっそ感心さえしていた。 「ふふ、本当に素敵ですわね。……思わず剥製にして飾っておきたくなるくらい素晴らしいと思いますわ」 ちょっとプルプルしているようにも見える狼のオブジェを見つめて、三雲 文乃が、黒いヴェールの奥で妖しく微笑む。若干胡乱な言葉を聴いたような気がするが、きっと錯覚だ。 「……さて」 神楽の奏でる音楽が終わり、次に少し速い、リズミカルな曲が始まる。 《アルルの女》より、ファランドール。 それに合わせて、先ほどまで手製の匂い袋を皆に配っていたというジャンガが踊りを披露し、躍動感にあふれたそれに、あちこちから歓声と拍手が上がった。 「……素晴らしいね」 芸術には、美には様々な姿があることを、この場所は体現している。 美の道に携わる教師として、感嘆を覚えずにはいられない。 「さて……では、私も」 そうなってくると、自分も、と思うのが創作者というものだ。 「私の芸術は、絵だね。唐絵と和画だよ」 静止したひとつの世界の中で雄弁に語るアート。 霞月が教えるのは、それを使用した魔術ではあるが、根本にある美と芸術を愛する心は、普通の芸術家たちと何ら変わらない。 「同じ場所でも表情の違う風景を描こうと思うよ。無論、絵筆も何本かあるし、色もね。水墨画だけではなく、色つきの絵も描こう。桜と、それを見ている人々をね」 墨をすり、絵の具を準備し、もっとも美しく優れた構図について思いを巡らせていると、 「きれいな音がしたの。……うつくしかったから、ざわめいているのね……」 深紅のドレスを身にまとった童女が覚束ない足取りで現れ、 「わたしは、『うた』しかしらないから……どうか、わたしのうたをきいて」 静かに、高らかに、低く深く、滔々と、不思議な旋律とコトノハとを響かせた。 「シーちゃん、きれい。とっても素敵」 それを、童女の友人であるらしい少女、春秋 冬夏が目を輝かせて見つめている。 「ああ……確かに、美しいね」 霞月は童女と少女を、目を細めて見つめ、それから硯に筆を浸した。 「……ふむ」 意識を集中させ、流水を思わせる手つきで一息に筆をおき、線を引いていく。 「わあ、すごいな。幽玄ってこういうのを言うんだろうな」 長さ30cmもあるさくら風味のロールケーキをひとりで攻略しながら―― 一体あの細い身体のどこにそれだけ入るのだろうと言うくらい、この青年はずっと甘味を摂取している――霞月の手元を覗き込んで理比古が感嘆の声を上げた。 「へー、一色だけで描いてんだ。なるほど、濃淡で空間を表現するものなのか……すげぇな」 先ほどからその理比古に熱烈なアプローチをかけまくっているエイブラム・レイセンが、不思議そうに絵を見ている。 「そうだね、水墨画と言うのだけれど、とても奥深いものだよ。こうして何度同じ景色を描いたとしても、決して同じ線には出会えないかもしれない」 言いつつ、一気に線を描き込んでゆく。 満月と桜、そしてそれを見る人々、語らう人々、舞や様々な発露。 静謐でありながら奥行きのある、幻想的な世界。 そんなものが、墨の濃淡によって描き出されて行く。 「さて……それから、仕掛けを」 画仙紙の右上に、文字を書き込む。 「霞月さん、それは?」 理比古の問いに、小さく笑って「まだ内緒だよ」と返す。 悪戯っぽいそれに、理比古がくすっと笑った。 その間にも、また、新しい花見客が訪れ、巨木の下には、楽しげなざわめきが満ちる。 2.椙 安治の美味なる鮮烈 椙 安治はあからさまに怪しい料理人である。 胡散臭い黒い丸眼鏡をかけ、痛んだ髪をトックブランシュと呼ばれるシェフ帽に隠していて、身体も足も腕も指も妙に細長い。耳は尖り気味で先端が三角をした、いわゆる悪魔の尻尾を生やし、炎が走る悪魔の羽根を隠している。 おまけに人相も悪いし、身長に隠れて見えないものの、帽子の上には時々ギョロリと動く謎の目玉まである。 外見の通り彼は悪魔で、対価を得て力を行使する。 利己的な悪魔であることは間違いないが、出身世界がそういうものであるというのもあって、性格は根っから明るく、また彼は、悪魔の論理と料理人としての誇りを矛盾せず持つ男でもある。 そして彼の芸術とは、己が手で精魂込めて創り上げた料理を味わった人々の至福と充足、それらの発露する表情に他ならない。 「さァて皆様、このような素晴らしい一時に美味なる食がねェのじゃァ画竜点睛を欠くってェ奴だ。この椙安治、全身全霊でもって皆様の胃袋と心を満たしたい所存でございますゆえ、お好みなどございましたら存分に仰ってくださいませ」 いつの間に安治がここに来ていたのか、把握出来ていたものはそう多くあるまい。 それほど安治の出現は唐突だったが、いきなり現れていきなり酒と料理を詰め込んだ重箱をあちこちに置き始めた彼の行為を非難するものはもちろんいなかった。 「えェと……そちらが理比古、霞月、終にミケ、じゃなくてミケランジェロ。ふんふん。あとは、クージョン、ジャンガ、瑞貴に文乃、テオドールとレヴィ……は行っちまったか、エイブラムにルイス、冬夏、シー、それから神楽、な。ふんふん、OKOK」 その場に集った人々の顔と名前を一瞬で把握し、 「私めの供しましたモノそれ自体を芸術と呼ぶのはおこがましいが、――さァ舌に乗せ存分に味わい呑み下してくださいませ。魂に響くモノを真の芸術と呼ぶのなら、お客サマの魂に刻むその食の至福こそ我が芸術でゴザイマス」 杯に満たした血のような赤のフルボディを掲げ、自身の言葉に酔っ払うような、どこか芝居がかった語り口で料理を勧めると、屈託のない笑顔を見せた人々が重箱の蓋を開けていく。 重箱の中では、安治が厳選した材料でつくられた、色鮮やかかつ秀逸な盛り付けの、目にも美味なるもてなし料理の数々が、お客の舌を楽しませる瞬間を待ちわびている。 「おお、これもまた素晴らしいジョイだね! 舌だけじゃなく、目も楽しませてくれるなんて、素晴らしい」 「わ、美味しそう。シーちゃん、一緒に食べよう?」 「ええ、トウカ」 「アヤちゃーん、オレ、食べさせてほしいなー」 「まあ、レイセン様ったら……情熱的ですのね。でも、あまりおいたばかりされると、そのうち鼻の穴にお箸を突き立てられますわよ?」 一部胡乱な物言いを含みつつ、お客が自分の料理に舌鼓を打つのを、安治はワインで咽喉を潤しながら喜悦の表情で見ていた。 「あ、俺これ好きかも。鴨肉のベリーソース添え。甘酸っぱいのにちゃんとおかずなのがいいよな」 「オヤこりゃアお目が高い。このソースは夜露に清められた三種のベリーを裏ごしして秘密のスパイスとともに煮込んだ逸品でゴザイマス。お客様、他にリクエストなどは?」 「え、じゃあ甘い物」 「端的ですな。しかし承知いたしました、この椙安治、精魂込めて作りましたるDessrts(デセル)にて、見事お客様の心を蕩かしてご覧に入れましょう」 広い視野で人々の好みを大まかに把握しながら、把握するまでもない理比古の言葉に頷くと、自分の指先を爪で傷つけ、小さな血珠を浮かばせる。 「さァさァそちらさん方も、花見の肴は足りてるかい? まァ美味ェ酒と美味ェ食い物なら幾らあっても構わねェだろうよ。なァ?」 血珠が一瞬のうちに硬化・宝石化したものを地面に滑らせ、地味にちまちまと精密な紋様を描いていく安治を、観客が興味深げに観察している。 「へえ、綺麗な文様だね。幾何学的だが、どこか民族的な温かみがあって面白い。……ふむ、魔力を感じる。魔法陣といったところかな」 「魔法陣か……初めて見た。えーと、なんて言うんだっけ、こういうデザイン。あ、そうそう、トライバル、だ」 「おや、焔が。……これもまた不思議と美しいな」 霞月が感心したように筆を走らせる手を止め、理比古が記憶を探る目をして、終が小さく息をつく。 陣が描き上がると同時に一握りの焔が湧き上がり、それを呼び水にして温度のない火柱が陣の内側を踊るように立ち昇って、夜の空気の中、幻想的に揺らめく。 「おやおや、このようなものはお客様方のお褒めに預かるようなものでもございませんが……まァ、ありがたく承っておきましょう」 陣も焔もあまりにも当然のことで、安治には賛辞の理由が今ひとつ判らなかったが――しかし、本来ならばそれは観賞に値する芸術の一端だ――、彼らの好意とそれに付随するエネルギーはありがたく受け取っておくことにする。 「さァでは更なる美味をご提供いたしましょう、乞うご期待」 「うん、楽しみにしてる。な、終」 「そうだな、だが、あまり美味いものばかり出してもらって、舌がこればかり覚えてしまっても困りそうだ」 「あはは、ホントだね。舌が肥えちゃって、安治のつくる料理しか食べられなくなったら、俺、虚空に泣かれるかも」 「はっはァ、それこそ! 私めの望むところ!」 ヒトの魂に響く美食で持って相手を陥落させ、対価を得るのは悪魔としての安治の在り方だが、それと同じくらい、安治は料理人としての己にプライドを持っている。 食わせること、美味いと言わせること、充足を提供することは、異能の関わらない、純粋なる安治の腕前だけで成り立っているのだ。 それだけに、終と理比古の言葉には、肚の底から歓喜が湧き上がる。 「オレをこんなにも喜ばせてくだすったからにゃア、オレもまたそれに応えるしかねェだろうよ、チクショウめ。よしよし、ならば少々お待ちを。腕によりをかけさせていただきますよ、お客様方!」 芝居がかった――しかし流麗な――動作で一礼し、魔法陣を発動させる。 と、陣の内部の焔が揺らめき、安治を飲み込んだ。 「あれ?」 「ほう……」 理比古と終が小首を傾げる。 ここに来てからずっと、黙ったまま、様々な形状の廃材に埋もれながらスプレー塗料で絵を描き続けているミケランジェロも、少し不思議そうな表情で安治を見ていた。――どちらかというと、変わったことをするヤツ、という視線だったかもしれないが。 魔術を生業とする霞月には、焔の向こう側にある、安治の厨房を見ることが出来たかもしれない。そう、これは、ここと厨房を結び、更なる料理を提供するための魔法陣なのである。 「さァて皆様お立会い!」 ものの十分もすると、あの麗しい焔とともに、両手に皿を持った安治が姿を現し、食欲を刺激するよい匂いと、目まで楽しませてくれる様々な美味を振り撒くこととなる。 3.蓮見沢 理比古の艶麗なる懐古 理比古の護衛であり世話役でもある男、虚空が、大きな包みを持って巨木の元へやって来たのは、安治のつくる料理に皆が酔いしれ、美味なる芸術に多大なる充足を覚えている頃だった。 唐を思わせる煌びやかな布袋の中には、理比古が、自分も何か芸術的なことを、と考えて思いついたものが入っている。 「ったく人使いの荒いご主人様だ……ほら、アヤ、持って来たぞ」 愚痴の口調なのに何故か嬉しそうな虚空が、布袋を掲げて見せる。 理比古は笑顔でそれを受け取った。 「ありがとう、虚空。助かった。お礼に明日のデザートはさくらアイスにしてくれていいよ?」 「それ多分お礼じゃねぇよな」 「えー、そうかな?」 皆のアートは感嘆させられるばかりで、流れる空気は和気藹々と楽しく、それを大好きなお菓子と一緒に堪能出来るとなるとここはもう楽園か天国かということになるが、せっかくだから自分も何かしたい、と思ったのもまた、この空間のお陰だった。 幸い理比古は旧い名家の出身で、蓮見沢家に生まれたものの嗜みとして、幼少時より様々な伝統芸能を習って来ている。才能がなかったようで、どれもあまり上手ではないが。 その中でも一番得意な……というよりはマシな稽古事として選んだのが、虚空が持って来てくれた琵琶とそれに付随する謡曲だった。ほかにも笛や琴、日本舞踊や能なども習ったが、すべてを完璧にこなしていた兄たちのように巧くは出来ない。 一番マシだと本人が認識している琵琶も、前当主だった異母兄たちが亡くなり、青天の霹靂とでも言うべき彼らの遺言によって当主の座に収まってからは疎かになっていたため、 「んー……えーと」 感覚を思い出しつつ巨木の根にしっかりと腰掛け、筑前琵琶を抱えるようにして撥を当てる。 「早春賦、ね」 神楽の奏でる“パラディーゾ”の音色に合わせ、弦を弾く。 べぉん、と、独特の、どこか艶っぽい音が響いた。 同時に大きく息を吸い、腹に力を込めて歌声を紡ぐ。 それは、普段の彼の、若々しく闊達な声よりも低く、芯と腰がある。さらにどことなく妖艶で、妙な色香を持つ理比古に、とてもよく似合っている。 「おっ、面白い音の楽器だな。……へえ、十分巧いと思うぜ? そう謙遜しなさんなって」 カリンバ族のシャーマン、ジャンガの褒め言葉にはにかんだ笑みを浮かべつつ撥を動かす理比古の傍らでは、片膝をついて忠犬よろしくその場に跪いた虚空が、琵琶の音と理比古の歌声に聞き入っている。 「琵琶か……耳に馴染む、よい音だな」 しみじみとした風情で終が呟く。 手にはいつの間にか氷の塊があって、それを持参したカキ氷器で削ると――あとで聞いたところによると、カキ氷器を使うのはひとえに効率化のためであるそうだ――、擬似雪を創り出し、月光に煌めくそれを手の平に載せる。 ふ、と終が息を吐けば、それらは風に乗って舞い上がり、きらきらと周囲を舞い踊った。 「へえ、美しいモンですな。カキ氷器って言やァフラッペだのなんだのつくるくらいしか思いつかねェが、こういう使い方もあるんだな」 少女たちに、桜葉を使った極上のスイーツを供しながら安治が空を見上げる。 理比古もまた、朗々と歌いながら空を見上げて目を細めた。 (ああ……綺麗だ) 月光に照らされた夜のチェンバーで、金の光を反射する雪片は幻想的に美しい。風が桜の枝を揺らし、舞い散った花びらが雪と交じり合うとなれば、尚更だ。 この世のものとも思えない光景が、理比古を徐々に無心にさせてゆく。 数年ぶりに弾くとは思えないほど手指は滑らかに動き、初めは少し苦しかったものの、声もしっかりと出るようになってきた。 (そういえば……) ふと、稽古事が苦手で、頑張っても巧く出来なくて、何でもそつなく巧みにこなす異母兄たちに怒られたこと、折檻されて泣いたことが思い出され、理比古は唇の端だけで微苦笑した。 哀しいような、懐かしいような、苦しいような愛しいような、ひとつの言葉では表現出来ない気持ちが身体を満たす。 (そんなことも出来ないのか。まったく、これだから妾の子は) (違う、そうじゃないと何度言ったら判るんだ、愚図め!) 怒鳴られ、殴られて、ちゃんと出来るまで休むことすら許されなかった昔が思い起こされ――しかし、何故か最後まで傍にいてくれた兄たちの顔が鮮明に浮かんで、憎まれていたけれど自分は決して不幸ではなかったと、そんなことを茫洋と思う。 (だけど、俺) 微妙な表情の変化を読み取ったらしく、気遣いの目をする虚空を、安心させるように笑ってみせる。 二度と会えぬ場所に逝ってしまった人々を思うのは切ないが、理比古には自分を慈しんでくれる『家族』がいる。何とかして出会いたいと願い続ける『誰か』もいる。 だから、折れることはないのだ、と。 (――俺、兄さんたちが教えてくれるの、嫌いじゃなかったな) 暴力というかたちでもいいから構ってほしくて、憎しみという感情でもいいから自分を見てほしくて、わざと間違えたこともあった、そんなことを思い出しながら演奏を続ける。 ――それでも、今の自分が幸せであることに変わりはない、そう強く思う。 4.雪深 終の精緻なる光明 すべてが夢のようだ、と雪深 終は思っていた。 チェンバーなる、魔法で創り出された空間。 御伽噺の神々の如き、様々な姿と力を持つ者たちが繰り広げる夜の宴。 (……俺もその一員なのだろうか) しかし、神が棲むのは、人にとっての死の世界だ。 (ああ……しかし、俺はすでにそんなようなものだったか) ほんのりと寂しげに思い、音楽に、絵に耳と目と心を傾ける。 ちょうど、理比古と神楽の奏でていた早春賦が終わったところだった。 「力強い、よい音だ。よい音で奏でられるよい曲は、その数倍よく感じる」 音に、特に重く力強い音に――静よりも動に心惹かれる終が、正直な気持ちでそう言うと、 「そうかな、ありがとう。じゃあ終、そんなわけでカキ氷ちょうだい」 何が『そんなわけで』なのか判らないが、屈託なく笑った理比古が手を差し出し、終は微苦笑して頷いた。 「この時分にカキ氷を喰いたいとは、業の深い」 「え、だって美味しいじゃない、カキ氷」 「否定はしないが……理比古はカキ氷だけではなく、甘いものなら何でも美味しいんだろう」 「うん、当然」 とてもではないが三十五歳には見えない邪気のなさで頷く理比古に笑い、終は飲料水を凍らせて手早く氷を創り、カキ氷器で氷片の山をこしらえて、器に盛ったそれを差し出す。 「まあ、甘いものはいいよな、うん。ほら、好きなだけどうぞ、だ。シロップは好きなものをかけてくれればいいし、神楽が持って来た果物を載せても美味そうだ」 「うん、ありがとう」 「どういたしまして。……カキ氷屋も悪くない」 「そうだね、夏場もお願いしたいかな! ――わ、あっちもすごいな。ミケだっけ……彼もすごいよね。霞月さんとはまた違った絵の世界だ」 器を受け取った理比古が、イチゴ味のシロップをかけながら、少し離れた位置でスプレーアートなる躍動的な描画に勤しむ男を見遣る。 癖のある銀髪に紫の目の、黒いつなぎを着た男、ミケランジェロは、鍋の蓋や金鏝、新聞紙などの廃材に囲まれて、『舞台』をつくりあげていた。彼が居る場所だけ、花見とは切り離された異様な雰囲気を醸し出しているが、それは決して悪いものではなかった。 大きな紙に、様々な色を吹き付け、新聞紙や鍋の蓋で色を遮ったり拭ったりしてかたちを与えていく。 黒と青と白と黄色が重ねられると月の輝く夜空になり、その上に金鏝で引っ掻くようにすると、桜の木が出来上がる。スプレーを吹き付けるのは一瞬で、その動作には躍動感と軽やかさがある。 あっという間に、舞い散る桜と月という、幻想的な光景が描き上げられてゆく。 「すごいな。なんであんな風に色と形状を把握して一瞬で描けるんだろう」 カキ氷を頬張りながら理比古が言い、終も頷いた。霞月といいミケランジェロといい、一枚の紙の中に一個の世界を創り上げる人々の思考と手指はどうなっているのか、と思う。 しかし、終は、絵画は好きなのだが、どうも『言葉』として語ることが出来ない。恐らく、視覚というかたちで、すべてのものを受け取っているからだろう。 そこに言葉は必要ないと、無意識に思っているのかもしれない。 「……しかし、彼は何か、悩みでもあるのかな」 「ん? どうした、終?」 「いや。あんなにも軽やかに動いているのに、どうも、冴えない顔だ」 「あー……言われてみれば」 理比古が小首を傾げる。 無論考えたところで判るはずもなく、終はすぐに気を取り直してまた氷の塊を創り出した。 「さて、では俺は、もう一度雪花でも披露しようかな」 「あ、さっきのあれ? すごく綺麗だったよね」 「桜の宴は、閉ざされた冬からの開放感を喜ぶ、命の躍動だ。この場で雪など野暮ったいだろう……と、思ったんだが」 「そんなことないよ。春の雪は儚いけど綺麗だ」 「――それに、絵や楽器に障っても困る。雪など所詮、雨で水だからな」 「大丈夫だって。あの人たちなら、それも風情だって言ってくれるよ、きっと。っていうか俺がもう一回見たいだけなんだけど」 妙に力強い理比古の言葉に苦笑して頷き、終はまた擬似雪を創る。 持参した布に氷の砕片を広げ、思い切り高く撒くと同時に風を操り、雪を降らせる。 「ほう……」 水墨画の仕上げをしていた霞月が手を止めて空を見上げた。 「これは、美しい。桜と風花を同時に見られるとは、何とも贅沢な空間じゃないか」 終の操るだけではない、穏やかな風が吹き、月光を反射して金色に輝く雪片をふうわりと空へ連れて行く。それらは春の風に撫でられて、霞月やミケランジェロの絵に届く前に消えてゆく。 料理に、音楽に、絵画に――美に耽溺する人々から、嘆息が漏れた。 それは確かめるまでもなく、一瞬であるがゆえにこの上もなく美しい。 刹那であるからこその、目に、胸に灼きつけられる永遠だ。 「……」 終は雪と、散る桜に、花に焦がれる冬の女の幻を重ねていた。 ――静かに密やかに去ってゆく、白い女のヴィジョン。 「儚きは美しいが……」 自分の降らせた雪を見上げ、ぽつりと呟く。 「ただ美しいだけだ、俺の力では」 「終?」 「……あれのようには、なれん」 あれ。 終を今の終にした雪女や雪山の神、もしくは雪や冬そのもの、そういったものへの憧憬を口にする、その語調は寂しげだが、終の表情は穏やかだ。 別に絶望も悲観もしていない、だからだろう。 「だけどさ」 そんな終の胸中を知ってか知らずか、空を見上げながら傍らで理比古が微笑む。 「どうした、理比古」 「ん、俺は終の創る雪や氷、優しい色をしてる気がするから、好きだよ」 てらいのない、無邪気な言葉に、 「……そうか。なら……そうだな、もう一曲、所望しても?」 「もちろん」 何とも微笑ましい、くすぐったいような幸せなような、そんな気持ちで終が微苦笑したのも、当然といえば当然だった。 5.ミケランジェロの深遠なる情動 再び、独特で力強い音楽が始まる。 琵琶と、“パラディーゾ”なる不思議な楽器の共演が、幻想的な夜桜の下で繰り広げられ、妙に明るい悪魔の男が次々に供する多種多様な料理のにおいが、風に載ってこちらにまで届く。 「……」 桜の花びらをカンバスに浮かせて散る桜を表現し、演出に用いながら、目にも留まらぬ速さでミケランジェロは絵を描いてゆく。 精巧なこれが即興だとは、絵を嗜まぬ者たちには判らないかもしれない。 流れる音楽は、いつしか『故郷』の民族音楽風アレンジへと変わっていた。 朴訥だがリズミカルなそれにあわせて、まるで踊っているかのように軽やかな動きで、次々と色を重ね、一枚の大きな絵を描き上げて行きつつも、ミケランジェロの表情は晴れなかった。 「……」 忘れがたなし麗しのふるさと、と歌う声にふと手を止め、音楽に聴き入る。 「ふむ、こんなものかな」 霞月が画仙紙から身を起こし、筆を収めた。 「さて、では最大の仕掛けのお披露目を。右上の、これだよ」 霞月の言葉に、旅のマントをまとった青年と小柄な少女が絵を覗き込む。 「さりげなく草書体で『動』と書いて、隠してあるのだけれどね」 「ふむふむ?」 「それに触れると、絵が動くように仕掛けたのだよ。……ほら」 墨一色のみで描かれた満月と桜。 薄く表された夜空。 右上の文字は、夜空と桜に紛れてしまっていたが、問題はないらしい。 墨が乾いたのを確認したのだろう、紙面にそっと触れてから、霞月が、筆を逆さにして何かを唱えつつ動かす。その後、巧妙に隠された文字『動』に触れると、彼の言う通り、絵が動いた。 「おお、本当だ。これは素晴らしい!」 「うわあ、すごい。不思議!」 風に桜がそよぎ、花びらと雪が舞い、時折流れる雲が月を気紛れに隠す。 墨の濃淡のみで描かれているはずなのに、どこまでも奥深い、ひとつの完成された世界がそこにはあった。 滔々と流れる音楽と、幽玄にして静謐なる夜桜の風景。 そんなものを聴き、目にして、ようやくミケランジェロの眼差しは和らぐ。 ――何かが足りない。 覚醒してからずっと、その思いに苛まれている。 何かとてつもなく大切なものを忘れてしまっている気がするのだ。 それは魂の根源のようでもあり、喜びの発露のようでもあり、深い深い友愛の結露のようでもある『何か』で、そのあまりにも大切なものを思い出せないことが悔しいのか、哀しいのか、憎いのか、恐ろしいのか、苦しいのか、自分でも判らない。 判らないが、ただ焦燥だけが募る。 そのじりじりとした感情を吐き出すように、八つ当たりめいた激しさで、色を紙に叩きつけている。足りない何かを求める気持ちをぶつけるように、絵を描いている。 それが、今の彼だった。 この情動がどこから来るのか――己が深淵より湧きいずるそれの源泉がどこにあるのか、自分でも判らぬまま、再度スプレー缶を手にしたミケランジェロに、 「ちょっといいかな?」 声をかけたのは、霞月だった。 「……なんだ」 殊更愛敬を振り撒くようなたちでもなく、ぶっきらぼうに返すと、男は、ミケランジェロと同じ紫色の目を細めて「何」と肩を竦めた。 「実は、ミケの描く絵に、興味津々なのだよ」 「ん、そうか」 「何故って? 見たことも触れたこともない塗料で描かれ、なおかつ美しいからね」 「ああ、なるほどな。まァ、俺にとっちゃおまえの書画魔術? ってェのか? それも興味深いっちゃ興味深いけどな。だが、おまえにとってのそれは、絵か、術か、どっちだ?」 「……私にとっては、絵、かな。書画魔術の教師であると同時に、それより深く、私は表現者なのだろうと思うから」 「なるほど」 ミケランジェロは、霞月の絵が今もまだ動いているのを横目に見て、にやりと笑った。 カンバスに右手をかざし、水平に滑らせる。 と、その動きを追うように、先ほど求めに応じて描き足した蝶たちが羽ばたき、実体を得て飛び立ってゆく。煌めく赤い燐光は、先ほど安治が発動させた魔法陣の中を走った焔に似て、鮮やかに美しい。 「ほほう……」 実体化した蝶たちを見て、霞月が目を丸くする。 「これも、とんでもなく美しいね」 ミケランジェロはにやりと笑って、飄々と一礼してみせた。 「お褒めに預かり恐悦至極、ってな」 「どういたしまして、と言うべきなのだろうね、ここは。しかし……様々な芸術と触れあえる機会を設けてくれたことに感謝したいのは、私もかな」 「……そうだな」 ミケランジェロの視線の先で、理比古と神楽が曲を終息させる。 神楽がちらりとこちらへ目を向け、スッとその双眸を細めた。 ミケランジェロがそれを訝るより早く、 「さァさァお客様方、宴もたけなわとなって参りましたが、ならばコレを味わっていただかねェわけには行きますまい!」 ハイテンションの安治が、桜の花びらを閉じ込めた繊細にして優美なるジュレを振る舞い始め、また場が華やいだ。 皆が安治のデザートを誉めそやし、宴の終わりをそろそろ意識し始める中、食にこだわりがないため輪から離れていたミケランジェロの傍へ、楽器を携えた神楽が歩み寄り、不思議な光沢を宿すオパールがミケランジェロの紫眼を静かに見つめて、彼に首を傾げさせる。 「なんだ?」 「いや……そうだな、私は神託を司る神代の門番ではないので、よく判らないんだが」 「……?」 「きみの求めるものなら、この旅の先にある、と、私の影竜が言うので、一応伝言を、と」 「な、」 「ああ、詳しくは尋ねないでくれ、私にも判らないから」 思わず息を詰めそうになる彼の肩をぽんと叩き、それだけだ、と踵を返す神楽を、彼はなすすべもなく見送るしかなかったが、――ほんの少し、何かが動いたような気がしたのも、確かだ。 「皆、今日はありがとう、とても楽しく充実した一時だった」 神楽が男女の区別のつけにくい声で、宴の終わりを告げている。 あちこちから、笑顔とともに応えがあり、間際にふらりと現れ神と名乗った得体の知れない人物が、不思議な力を行使して花嵐を巻き起こし、周囲が桜の花びらと終了間際の熱気で満たされる中、 「……つまり、さっさと見つけろ、ってか」 ぽつりと呟き、ミケランジェロは桜舞う夜空を見上げた。 ふわりと微笑む誰かの顔が脳裏をよぎったような気がして息を飲むものの、それもすぐ、桜の花びらの中に解けて、消えた。
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