選択肢は二つではなく一つだ。どうするかなど、考えるまでもない。 だが、命の温もりは道理も理性もたやすく凌駕する。躊躇っている間に腹は刻々と大きくなって行く。 だからといって――ああ。 産んだとて、その後はどうするというのだ……。 妊婦は嘆き、暗い海へと身を躍らせる。 臨月を迎えた彼女の体は砕ける白波に呑まれて消えた。 彼女がどうなったのか、誰も知らない。 ◇ ◇ ◇「大ーきな真珠があるらしい」 口髭を蠢かせ、サンフォという名の老学者は目を細めた。「このデュリオから北へしばらく行った場所に小さな孤島があってだな。そこの洞窟に大ーきな二枚貝が棲んでる。海魔さ。上半身は女、下半身は貝の身。海魔の腹は妊婦のように膨らんで……腹の中にゃそれはそれは美しい真珠が埋まってるって噂だ」 だが、真珠を見た者はいない。近付く者は悉く海魔に屠られてきたからだ。「海魔の体内で出来る真珠だぞ、大いに興味深い。よって海魔を殺し、腹を割いて真珠を取り出す。いいな?」「真珠のためにそこまでするこたぁねえだろう。ガクジュツテキには価値があるんだろうがなあ」 傍らの船乗りはやや呆れ顔だ。サンフォはじろりと彼を睨んだ。「真珠のためだけではない。人間を殺すような危険な海魔を放置するわけにはいかんだろう」「放っときゃいいじゃねえか。海魔は洞窟から出てこねえんだろ。あそこにゃ港や灯台があるわけでもねえし、大きな航路からも外れてる。近付く人間もいないと思うがね」「若いモンには分からない事情があるんだよ。――あの真珠は絶対に取り出さなきゃならないんだ」 老人斑と皺の刻まれた目許を、ふと哀切が横切った。 貝の海魔。海魔の腹に宿る真珠。真珠を求める海洋生物学者・サンフォの護衛。以上を説明し、エミリエ・ミイは『導きの書』をめくる。「学者さんは各地を飛び回ってる人なんだって。海魔が居るのは孤島の洞窟の一番奥、開けた場所だよ。洞窟の中はほとんど一本道だけど、大人の膝の辺りまで海水があるからちょっと動きづらいかも。海魔の上半身は壱番世界の大人と同じくらいの大きさがあるみたい。近付くと貝の身が伸びて来て引きずり込まれちゃうから、気を付けてね」 司書は「それと」と言葉を継いだ。「護衛って言ったのはもうひとつ意味があるんだ。海賊が真珠を狙ってるみたいなの。学者さんが襲われるかも知れない。お金持ちでもない個人を海賊が襲うなんてヘンな話だけど……いわくつきの真珠でね。昔、この孤島の近くで海に身を投げた妊婦さんが居たんだって。ちょっと引っ掛かるよね。――デュリオには街の長老みたいなお婆さんがいるの。街や近くの海のことは何でも知ってるんだって。海魔と真珠のこと、訊いてみるといいんじゃないかな?」 デュリオに降り立った旅人達は小さな丘へと足を向けた。ひなびた田舎街という形容が相応しい場所である。件の老婆は海を一望できる丘の上に居宅兼酒場を構えていた。「いらっしゃい。海魔退治だって?」 店に入ると、イーシャと名乗った老婆は快活に笑った。「まずは腹ごしらえさね。たーんと食べて力をつけとくれ。ああ、お代は船の頭(かしら)にツケとくよ」 茶目っけたっぷりに片目を瞑り、細腕で次々に皿を運ぶ。乾いたパンに魚介の燻製だけをはさんだサンドイッチ、申し訳程度に野菜を盛りつけたサラダ。簡素な料理だが、小さな街ではこれが限界なのだろう。「で、どんな海魔なんだい?」 イーシャの問いにロストナンバーの一人が口火を切った。北の孤島。腹に真珠を宿す貝の海魔。真珠を狙う海洋生物学者の護衛……。 すると、イーシャの糸目がにわかに険を帯びた。「……悪いけど、何も知らないよ。あたしだって何でも知ってるわけじゃないんだ」 そこへどやどやと男達が入ってきた。ロストナンバー達が乗り込む船の乗組員だ。「なあ婆さん。貝の海魔のこと、本当に何も知らねえのか? あの学者センセイ、本気で海魔の真珠を獲りに行く気だぜ」 イーシャは答えない。頑なに口を閉ざすばかりだ。船乗りの頭は「やれやれ」と肩をすくめ、旅人達へのテーブルへとやって来た。「悪いな、傭兵さん。ここの婆さんはここら辺りのことを何でも知ってるって評判なんだが……貝の話を出すと見ての通りだ。貝みてえに黙り込んでなーんにも言っちゃくれねえ。時化を予想したり海魔退治のヒントをくれたり、俺達も世話になってたんだがね」 頭の言葉に肯きつつ、旅人達は首を傾げた。やって来たのは船乗りばかりで、肝心のサンフォの姿が見当たらない。真珠を求める彼こそが真っ先にイーシャの元を訪れそうなものだが……。「学者センセイは婆さんには会いたくねえんだとさ」 船乗りが苦笑した。「会う必要はない、素人の言うことなんざあてにならねえとか何とか言ってら。地元の事情通の話は聞いといて損はないと思うんだがなあ」「時化になるよ」「あ?」「帰りは時化だね。気を付けな」 雲一つない青空を窓越しに一瞥し、イーシャは奥へと引っ込んだ。 真珠は貝の涙だという。 真珠の核となる異物を貝の体内に挿入する。貝は痛みに涙――体液である――を流し、核を幾重にもコーティングする。真珠はそうやって生まれる。 だとすれば、貝の涙はどれだけ濃密であるのだろう。上質の真珠は濃厚なホワイトソースの色をしている。「興味があるの。だって、女の涙は真珠のようって言うじゃない? 涙の理由は何なのかしらね」 海賊は真っ赤な髪と唇を煌めかせ、「いただくわ。――効率的に、ね」 官能的に、楽しそうに笑った。
質素なサンドイッチを機械的に頬張りながら、クロウ・ハーベストはぼんやりと窓の外を眺めていた。 (食った相手に影響される海魔でもいんのか? ……いや、考えすぎか) 身投げした妊婦と、妊婦よろしく腹の膨れた海魔。まるで、以前討ったローレライではないか。ローレライの姿は失踪した酒場の娘に似ていたが、結局真相は分からずじまいだった。 「食べないならもらうよ」 聞き慣れた声でクロウはふと我に返った。ミトサア・フラーケンの手が伸びて来てクロウの皿からサンドイッチをつまみ取る。そんな友人を無遠慮と咎めるわけもなく、クロウは気さくに「ああ」とだけ応じた。 「ボク、出発前に調べたいことがあるんだ。これ食べたらちょっと出かけるね」 「あんま無茶すんなよ?」 「何それ」 ミトサアはくすぐったそうに笑った。姿こそ小柄な少女だが、サイボーグ戦士であるミトサアに無茶も何もないものだ。しかしクロウが本心から言ってくれたことも分かっている。 一方、テオドール・アンスランは空の皿を手に厨房へと入って行った。 「……何だい。それはあたしの仕事だよ」 洗い場に皿を置くテオドールにイーシャは小さく眉を動かした。 「手伝わせて下さい。食事のお礼に」 「代金ならちゃんともらうさ」 「それは俺が払うわけではありませんので」 「生真面目な子だね。ま、好きにしな」 「はい。……気持ちのいい天気ですね。本当に時化が?」 イーシャの予測を疑うわけではないと付け加えてテオドールは蛇口を捻った。換気用の小さな窓から覗く空と海はどこまでも青く、凪いでいる。 「海の天気なんてそんなもんさ。いきなりガラッと変わっちまうんだ、扱いづらいったらありゃしない。まるで女みたいだろ?」 乾いた自嘲を漏らすイーシャをテオドールは無言で見詰めた。彼の視線は強靭で精悍だが、どこか静謐な温和さが浮かんでいる。 そこへクロウがひょっこり顔を覗かせた。 「バーさん、ちょっといいか。例の海魔のことなんだけどさ」 イーシャはわずかに、しかし明らかに眉を顰めた。 「妊婦が身投げした経緯とか、その妊婦と海魔が似てるかどうかとか、本当に知らねえの? ま、俺は推理とか無理だけどさ」 知ったからといって何かする気はないが、分からぬままもやもやするのは好きではない。 イーシャは黙っている。貝のように口を閉ざしたままだ。 「……身投げした妊婦と海魔が無関係とは思えません。あなたと学者の間にも何か事情があるのでは。他の皆も同じような予測を立てている筈」 やがてテオドールが口を開いた。世界図書館からの依頼は学者の護衛だ。しかしテオドールは身投げした母子と関係者の慰撫、ひいてはサンフォとイーシャの和解の仲立ちを意図してここに来た。イーシャに対して敬語で接するのもその表れだ。 妊婦が堕胎を選ばず共に死のうとした事こそが子への愛の証だ。だが、死しか選べなかった境遇は不憫に過ぎる。 「彼女の……妊婦の為になるような対処をしたい。協力してもらえませんか」 誠実な金眼の前で、イーシャはわずかに唇をこわばらせた。 「どうしても真珠を取り出さなければいけない理由を聞かせて。私でも納得できるように。……あまり信じたくない話だけれど、何か事情があるのでしょう?」 船着き場で、ニルヴァーナは真正面からサンフォに問うた。海魔とはいえ妊婦の腹から子供を取り出すようなものである。ニルヴァーナも命を胎内に宿した事のある『母親』だ、はいそうですかと協力するわけにはいかなかった。 しかし偏屈な学者は不快そうに口髭を蠢かせた。 「あんたらも魚の卵を食べるだろう。魚のメスの腹を割いて卵を取り出すのと同じだ」 「……同じじゃないわ」 「人の姿をした海魔だから可哀相、か? 感情論だな。傭兵に口出しされる筋合いはない。納得できないなら帰ったらどうだ」 ニルヴァーナは口をつぐんだ。些か感情的な彼女だが、ここで声高に言い返すほど愚かではない。ロストナンバー達はサンフォにとっては“赤の他人”だ。余人に踏み込まれたくない領域くらい、偏屈爺ならずとも持っている。 だが、これだけ喧嘩腰になるということはやはり脛に疵があるのだ……。 「落ち着けって、ジーさん。感情論はどっちだよ」 クロウはがりがりを頭を掻いた。「帰れっつーんなら帰ってやってもいいけど。ジーさん一人で真珠を取り出せんのか?」 サンフォはじろりとクロウを睨んだ。 「好奇心の為に生き物殺して腹かっさばく、ってのはちと感じ悪いぜ。でもまあ、それだけじゃあないようだし……」 ――過去に何か因縁があるから、おばあちゃんは学者と会わないし情報も教えないんじゃないかな? それに望まない子供を身篭った娘……真珠の『核』は人間、身投げした妊婦か体内の赤子なのかな? ミトサアがそんなふうに呟いていたことをクロウは思い出す。ミトサアやクロウを含め、全員が概ね同じ予想を立てていた。 「おーい、傭兵さん達。そろそろいいかね?」 「ちょ、待って。もう一人来るから」 船乗りの呼びかけにクロウは慌てて答えた。ミトサアがまだ到着していない。 「もう二人……だな」 テオドールが付け足した。いつの間にか、後島志麻の姿が見当たらなくなっていた。 シャツの胸ポケットを無意識に探り、志麻はゆるゆると瞳を伏せた。 「……ああ、煙草やめたんだっけ……」 穏やかな潮風がくたりとしたシャツの襟元を揺らして行く。シャツ自体は清潔だが、アイロンはかけていないらしい。 温和な双眸を物思いに浸らせ、未だ見ぬ海魔と真珠に思いを馳せてみる。 海魔が抱えている感情に興味がある。知性も意志もない海魔に“感情”があるかどうかは別として、だが。真珠は貝の涙だ。ならば、海魔が悲しみを抱えるほど体内の真珠は成長するのか……。 ある女の顔が脳裏をよぎる。潮風と一緒に、彼女の手が頬を撫でてくれた気さえした。フォックスフォームのセクタンが肩によじ登り、空っぽの胸ポケットと志麻の顔を不思議そうに見比べている。 「モヨイさん、どう思います? お腹を割くのはちょっと……ね。職務は忘れないけれど」 セクタンの頭を撫でてやると、モヨイさんと呼ばれたセクタンは心地良さそうに目を細めた。 背後の岩から足音が近付き、志麻はナチュラルに居住まいを正した。現れたのはテオドールだった。 「全員揃った。そろそろ出航だ」 「はあ……ただいま」 片手にトランクを提げ、肩にセクタンを乗せて小春日和のように微笑む。しかしテオドールは志麻の様子に何かを感じ取ったらしい。 「……何か思う所が?」 というテオドールの問いに、志麻はそっと目を細めた。 「ええ……潮風に吹かれれば物思いのひとつやふたつ」 自らの過去を酔狂の如く語る無粋さは持ち合わせていない。 船は滑るように空と海の間を進む。 「ねえ、提案があるのだけど。帰りは気を付けた方がいいかも知れないわ」 「ふん? なんだ、急に」 「帰りは時化になるって言われたでしょ?」 ニルヴァーナに代わってミトサアが船頭に応じた。海賊に関して警戒を促しておく必要はあるが、乗組員の中に内通者が居ないとも限らない。慎重な女サイボーグは船旅を楽しむふりをしながら不審な行動に目を光らせていた。 「俺も帰りだと思う。連中としちゃそっちのほうが楽だろうしな」 クロウが端的に推測を述べ、志麻とテオドールも同意した。 船は何事もなく目的地へと到着した。静かな入り江に船を着け、海魔が潜む洞窟を目指す。不思議なことに、無人の島の所々には人工物の名残が散在しているのだった。 「ここ、昔は珍しい海魔が群棲していたそうだよ」 デュリオの街で聞き込みを行ったミトサアが皆に告げた。 「それで、海洋生物学者の調査団が長く滞在したことがあったんだって。一時的に町みたいなのも出来て、デュリオからも手伝いの人たちが来て……おばあちゃんの家族がその中に居たみたい。おばあちゃんは来なかったらしいけど」 説明しつつ、サンフォの横顔を盗み見る。偏屈な学者は貝のように黙り込んでいるばかりだ。 「じゃあ、イーシャさんのご家族は学者たちと関わりがあったかも知れないわね」 ニルヴァーナはぽつりと呟いた。出発前、ニルヴァーナはイーシャに子供のことを尋ねてみた。イーシャも母親ならば海魔の話に口を閉ざす理由も判る気がしたからだ。それに、イーシャが育てた子供がどう成長したのか、純粋に興味があった。 しかし、というよりは案の定というべきなのだろう。イーシャはろくに答えてはくれなかった。志麻もニルヴァーナと共にイーシャにコンタクトを試みたが、結果は同じだった。 それでも――同じ母親の連帯感なのか――貝のような老婆は、たった一言、ニルヴァーナにだけ吐露した。 子供は死んだ、と。 「もしかして、イーシャさんに会いづらい理由はその辺りですか? サンフォさんも調査団の一員だったとか……」 というテオドールの声でニルヴァーナは我に返った。テオドールはあくまでも誠意を貫くつもりらしく、サンフォにまでも丁寧に接しているのだった。 「昔のことなぞ忘れたわ」 しかしサンフォは相変わらずだった。出発前、テオドールはイーシャにもサンフォとの面識の有無を尋ねたが、結果は同じだった。 老婆も老爺も、固い殻で己を護っている。 ◇ ◇ ◇ 「どう? 学者たちの様子は」 「今、洞窟に入って行くところです」 「OK。じゃ、予定通り真珠の入手はお任せしようかしら」 つややかな唇を指でなぞり、赤毛の海賊はくすりと笑う。 「泥臭いコトは男たちにさせておけばいいのよ。わたしは泥にまみれるのなんてごめんだわ」 ◇ ◇ ◇ 洞窟に入る直前で、志麻が思い出したように待ったをかけた。 「皆さん、滑り止めや長靴はお持ちですか。良かったらお貸ししますが……」 彼のトランクからは人数分の軍手に長靴、滑り止め付の靴――それはトランクひとつにおさまる容量ではなかった――が出て来て、一行は目をみはった。 「凄い。どういう仕掛けになっているの?」 少女のような好奇心で問うニルヴァーナに、志麻は謎めいた微笑を返すばかりだった。 ブルーインブルーの気候は総じて温暖だ。だが、洞窟内に充溢する空気は外界とは異質だった。ひんやりとした風ばかりが緩慢に肌を撫でて行く。トラベルギアを使うために半袖を常とするクロウは幾度目かになるくしゃみをした。彼の左腕にはアームカバーが、右手首には禍々しいまでに武骨な腕輪が嵌まっていた。 「む」 膝まで満ちる海水に足を取られ、サンフォがよろめく。自前の滑り止め靴を装備したテオドールが素早くサンフォを支えた。サンフォは礼も言わずにテオドールの腕を振り払おうとしたが、テオドールはそれを許さなかった。 「俺より前には出ないで下さい。……不用意に海魔に接触しないように」 この学者は、自分のせいで海魔が出現したと考えているのではないか。自身こそが海魔に対処すべきだと思い詰めているのではないか……。テオドールはそう読んでいる。 案の定、サンフォは不快そうに口髭をひくつかせた。 「後ろで見ていろということか」 「身投げした妊婦と海魔の噂、ご存じでしょう。このままにしてはおけない」 サンフォに協力したいのだと。黄金色の双眸は暗にそう告げている。だが、サンフォは「フン」と鼻を鳴らしてテオドールの手を押しのけた。 頑迷な学者の横顔を見つめながら、ニルヴァーナの脳裏にイーシャの言葉が甦る。 推測にすぎないが――妊婦がイーシャの娘で、娘とサンフォに何らかの関わりがあるとしたら。そうであればイーシャとサンフォの関係が険悪になってもおかしくない。ミトサアの聞き込みによれば、イーシャにはかつて娘がいたという。母子家庭で、イーシャは未婚の母だったそうだ。 (ただ“子供”に逢いたいだけ……なのかも知れないわね、サンフォさんは) 「急ぐぞ。真珠さえ手に入ればそれでいい」 意固地な老爺は優しく強い慈母の眼差しに気付かない。 小柄なミトサアは下半身を水に沈めていた。彼女は洞窟に入る前から意識して先頭を歩いていた。すぐ後ろにはクロウがついている。無邪気な一面も持ち合わせている筈のミトサアが、洞窟に入ってからは沈黙を貫いていることにクロウは気付いている。 「いた」 やがてミトサアがぽつりと告げた。 暗い洞窟の奥で、物言わぬ貝はひとりたゆたっていた。 否、彼女はひとりではないのかも知れない。乳白色の腹はふっくらと膨らみ、意志も知性もない手がその上を往復し続けている。 ニルヴァーナはかすかに顔を歪めた。それは苦悶の表情にも似ていた。 これは、まさに母親ではないか。 「――――――」 サンフォが何事か呻き、ふらりと歩み出す。ニルヴァーナはそれを遮るようにさっと細腕を広げた。 「ここに居て。……護るわ。絶対に」 凛とした青の双眸に射抜かれ、サンフォは唇を歪めることしかできない。 意志のない妊婦がぼうやりと顔を上げる。虚ろに伸ばされた手のような器官は触手となり、おぞましい速度で一向に殺到した。 「あんま無茶すんなよ?」 弾丸の如く飛び出したミトサアをクロウが追う。ミトサアはこくりと肯いた。遠距離から落雷させて倒すつもりでいたが、水が満ちるこの空間で電撃を用いれば仲間まで感電させかねない。テオドールの手の中で二本一対の短剣が閃く。と思ったら、不可視の気の刃が貝の触手を断ち落としていた。 「悪いが、仕事なんでね」 クロウの右腕が異形のそれへと変ずる。禍々しい様相を帯びた腕は武器で、盾だ。迫り来る貝の身を腕で受け止め、爪で切り裂き、活路を開く。テオドールはちらとサンフォを見やった。ニルヴァーナがしっかり護ってくれている。 「任せても構わないか」 「流れ弾くらいなら弾き返せるわ」 「頼んだ」 ニルヴァーナにサンフォを託し、テオドールは一気に前線へと走り込んだ。 一方、志麻は静謐な眼差しで戦いを見つめていた。純粋な興味だった。未知を既知へと変える喜びは人間の本能に根ざした欲求でもある。 ひとつの事実として、真実を知りたい。もし老婆と学者が仲違いしているのなら、今こそ決着の時なのかも知れない。 初めに接敵したのはミトサアだった。意志のない顔がかくりとミトサアに向けられる。ミトサアは眼鏡越しに海魔を見つめたまま右手を煌めかせた。悲鳴。鈍い衝撃音。ナイフによって貝柱を切断され、貝の殻が仰け反る。むき出しになった身をテオドールの短剣が切り裂く。女の姿をした海魔はぶるぶると痙攣した。テオドールの刃は麻痺毒を帯びていた。苦痛を緩和するための、せめてもの配慮だった。 「どいて」 「おい!」 「中に行けるのはボクだけだ!」 ミトサアはクロウの制止を聞かずに加速し、小さな体ごと貝の内部へと飛び込んだ。 「腹部は避けたほうがいい」 ミトサアを引き上げようとしたクロウをテオドールが制した。この海魔が件の妊婦でないとは言い切れまい。クロウは舌打ちしつつ腕を下ろした。テオドールの言うことも分かるし、何よりミトサアなら自分で何とかするだろう。 「見える? サンフォさん」 ニルヴァーナは前方を見据えたまま背後のサンフォに告げた。自身の“空間”にサンフォを匿うことはたやすい。だが、サンフォこそがこの場を見据え続けねばならないとも思う。 「ああやって真珠を取り出そうとしているのよ。……ここまでしないと取り出せない物なのよ」 サンフォは答えない。 ただ、貝のように口を閉ざすばかりだ。 ミトサアの視界は乳白色に染まっていた。 ぎちぎちと、四方八方から貝の肉が締め付けてくる。小さな体を回転させ――それは哺乳動物が産道を抜ける際の運動に似ていた――、泳ぐように奥へ奥へと進む。加速を加えた打撃を用いればたやすく突破できるだろう。しかしミトサアはナイフで迅速に切り開く道を選んだ。 息が、苦しい。この体はサイボーグだというのに。温度を纏って緩やかに脈打つ肉に抱かれていると懐かしさにも似た胸苦しさを覚える。 (ボクも――) かつてはこうやって母の胎内に居たのだろうか? 改造されたこの体、生身だった頃の記憶は遠く、それでも本能に似た感覚がわずかな郷愁を連れてくる。感傷ごとナイフで斬り裂く度、乳白色の肉がぶるぶると震える。弾力はあるが、貝の身自体は柔らかだ。貝は脆い己を護るために固い殻を纏っている。 締め付けは徐々に緩やかになり、伸ばした指が不意に硬質な物体に触れた。 「――ボクはサイボーグ戦士なんだ」 手を伸ばし、“それ”をしっかりと掴み取る。 「任務を……果たさなきゃ」 小さな腕に抱き締めたまま、一気に加速能力を解き放った。 クロウは目を見開いた。 乳白色が爆ぜる。それは貝の身だ。濡れた貝肉は破片となってクロウの上に降り注ぐ。しかしそんなものがクロウの気を引くことはなかった。 短い髪の毛を乱し、眼鏡もずり落ちたミトサア。貝の中から生還した彼女は、何故こんなにも無機質な目をしている? テオドールは無言で踏み込み、海魔の急所めがけて短剣をふるった。貝はもはや断末魔の痙攣に犯されている。苦しむ時間は短いに越したことはない。 「大丈夫か?」 「うん。ありがと」 ミトサアは言葉少なにクロウに応じ、きっとサンフォを見据えた。 へたりと座り込んだサンフォにニルヴァーナが手を貸す。志麻に後ろから支えられて、学者はようやく我を取り戻した。 ミトサアの腕の中の真珠、粘つく体液を滴らせるそれは、ちょうど赤子より一回り上程度の大きさだろうか……。 「おお……やっと……やっと……」 老いた学者はふらつきながら歩を進める。倒錯した眼差しは真珠の美しさに心を奪われたせいなのだろうか。ミトサアは黙っている。真珠を渡そうとも隠そうともせず、ただサンフォを見据えている。 老爺の指先が真珠に触れかけた、その瞬間。 「ボクの任務は護衛だけで、真珠をあなたに渡せとの命令は受けてない」 ミトサアは凛と宣告した。初めからこのつもりで常に隊列の先頭に陣取った。仲間にさえ真珠を預ける気はなかった。真に持つべき者にのみ渡すと決めている。 「答えて。なぜ真珠に執着するのか。貝みたいに黙ってる気なら、この場で真珠を破壊することだってできるんだよ」 「いい加減にしろ」 サンフォはとうとう額に青筋を立てた。 「貴様ら、一体何をしに来た。護衛ではなく俺にいちゃもんをつけに来たのか。人の人生に土足で踏み入るのが傭兵の流儀か!」 感情的な怒鳴り声は岩の壁に乱反射し、尾を引いて、消える。しかしミトサアは一歩も引かない。あどけない瞳に冷徹ささえ湛えて真正面からサンフォを見据えている。激情のままに喚き散らす老爺の姿は身勝手で、滑稽ですらあったからだ。 「真珠……は」 峻烈な空気の中に穏やかな声が割り込む。灰色の双眸を音もなく開き、志麻はゆっくりと両者の顔を見比べた。 「元より私達が決める筋合いではないから、依頼内容に含まれていなかったのでは? ……私の、推測だけど」 解決を望む心情は志麻とて同じだ。だが、押し付けるような真似も厚かましい振る舞いもしたくない。 「だったら、この人にこのまま真珠を渡せばいいの? ボクはそうは思わない」 「真珠を待っている人が他にも居るかも知れない。それにまだ、真珠を求める本当の理由を聞いていないし……私には、自分のためだけに真珠を欲しているようには見えなくて」 柔らかな、しかしどこか憂いを帯びた睫毛を伏せて志麻は顎に手を当てた。 「とりあえず……真珠をどうするか、デュリオの街に戻ってから決めてもいいんじゃないでしょうか?」 そして、ゆっくりとサンフォに視線を向ける。サンフォは奥歯を噛んでいたが、不承不承といった風情でようやく口を開いた。 「真珠を渡したい者がいる。まずはデュリオに持ち帰りたい、今はそれしか言えん。……街に戻るまで、あんたが真珠を持っていればいいだろう。どうだ?」 ミトサアは小さく肯いた。今更渡しても解決にならないのなら誰の手も届かぬ深海の底に沈めて弔うつもりだが、真相を見届けてから決めても遅くない。 洞窟の中に残ったのは海魔の骸とテオドールだけだった。 物言わぬ妊婦の残骸を前に、テオドールは静かに目を閉じている。彼は誰に黙祷を捧げているのだろう。誰の冥福を祈っているのだろう。 不意にばちゃんという水音が響き、テオドールは目を開いた。 「いや、ははは。情けない……」 足を滑らせたのだろうか、志麻が海水の中に尻もちをついていた。 「何か?」 「手伝おうと思って。もしかしたら、遺品のひとつくらいあるかも知れないし」 穏やかな、しかしどこか遠くを見つめるような志麻の眼差しにテオドールは無言で眉を持ち上げた。確かに、テオドールは身投げした妊婦と赤子の遺品を探すつもりでいた。しかしなぜそれが志麻に分かったのだろう。 「ああ……道具もあるので、良かったら」 不思議なトランクからはスコップやふるい、麻袋が次々に出て来て、テオドールは再び眉を持ち上げた。 しばし、沈黙と水音だけが洞窟を満たした。中腰になって海水をさらう二人の姿は遺留品を探す警察官のようにも見えた。 「見つからない、か」 やがてテオドールが捜索の打ち切りを告げた。洞窟の外では仲間も待っている。 「残念。まあ……遺品は、形ある物ばかりとは限らないけれど」 切なげなにこやかさとともに呟く志麻をテオドールは無言で見詰めた。 その頃、洞窟の外ではクロウが空を見上げていた。 「時化になるってのはほんとみたいだな。さすが物知りバーさん」 どういう心変わりなのだろうか、爽快なスカイブルーはいつしか鉛色へと変じている。 「そうね。物知りなのに、海魔のことを知らないなんて……妊婦が身投げした話、いつ頃のことなのかしら」 「二十年か三十年くらい前の話みたい。学者の調査団がこの島を去って少し経った頃だって」 ニルヴァーナに応じたのはミトサアだった。彼女は真珠を抱きかかえたまま岩場に腰掛けていた。小さな腕の中にある真珠はバターをたっぷり使ったホワイトソースのような色をしている。なんと美しい涙だろう。なんと濃密な涙だろう。 「ねえ。何か知っているんでしょう」 ニルヴァーナはじっとミトサアを見つめた。ミトサアが洞窟で見せたあの態度。理由がないとは思えない。 ミトサアは所在無げに足を揺らしながらサンフォに視線を移した。 「そこの学者さんとおばあちゃんは昔馴染みだそうだよ。二人ともデュリオ生まれで、家も近所だったんだって。あと、学者の調査団は男ばかりだったから、手伝いに来てた女の人と……ってこともあったみたい。ついでに、そこの学者さんには家族がいる。今はどうか分かんないけど、調査団に加わった時点で結婚してたことだけは間違いない」 「ありがとう。でもごめんなさい、それ以上は聞きたくないわ」 ニルヴァーナは震える声でミトサアを遮り、サンフォの前に立った。怒りが、華奢な喉を塞いでいた。 だが、感情のままに振り上げた繊手は洞窟から出て来たテオドールによって止められた。 「同じ事を先にしたい人が居るかも知れない。……街に戻ろう」 静かに手を押し戻されて、ニルヴァーナは唇を噛むことしかできなかった。 真珠は何も語らない。涙のヴェールにくるまれ、ただただ美しく在り続けるのみだ。 「ん」 鼻の頭にぽつりと水滴が当たり、クロウは軽く目を細める。 空は、とうとう泣き始めてしまった。 灰色の海と空の間で粗暴な風が吹き荒れる。空はひたすら落涙し、海は激しくうねりながら慟哭する。小さな船は北風に弄ばれる木の葉のように揺さぶられるばかりだ。 「っくしょい」 クロウは相変わらず半袖だった。鼻をすすり上げながらも警戒は怠らない。船尾にはテオドールが立っている。旅人達の緊張感に薄々気付いているのだろう、船乗りたちの口数は少ない。船内には張り詰めた沈黙が凝(こご)っていた。 気配に気付いたのは油断なく視線を巡らせていたミトサアだった。 その船は荒れ狂う浪間に唐突に現れた。まるでいつの間にか人の背後に座っている猫のように。 グレーに塗り潰された景色の中、鮮烈な赤が煌めく。それは真っ赤なルージュであり、ルージュの色をした髪の毛だ。 「おい」 「あれは……」 ざわめいたのは旅人達ではなく乗組員のほうだった。 「知ってるの?」 ニルヴァーナが問うと、船頭が小さく肯いた。 「ありゃあ、“赤毛の魔女”だ」 船頭の声が聞こえたわけでもあるまいが、“彼女”は不敵に微笑んだ。 “赤毛の魔女”――フランチェスカ。 「魔女だろうと悪魔だろうと知ったこっちゃないね」 クロウはひょいと船の縁に飛び乗り、片手でメガホンを作った。 「こっちはあんたらに用なんざ無いんだよ。だから、とっとと失・せ・ろ!」 輝くような、しかし皮肉たっぷりの笑顔で親指を下に向ける。一方、テオドールは毅然と背筋を伸ばして海賊を見据えた。この真珠は――涙は、理性に抑制されない純粋な感情の表れに他ならぬ。悲しみの涙なら尚のこと。いくら美しかろうと、余人は触れるべきでない。人として、同じ女としてどう思うのか。 「ねえ。どうして真珠に……涙に興味があるの? 海賊が狙うような宝物なの?」 船の揺れに足を取られつつ、ニルヴァーナが身を乗り出して声を張り上げる。海賊は答えない。代わりに大きな海賊帽のつばを持ち上げ、さっと手をかざした。 「はあ……随分諦めがいいようで」 志麻が拍子抜けしたように呟いた。 たった五人の護衛に怖じたわけでもあるまいに、この時化では不利と見たのか、海賊船は波の向こうへと消えた。 気紛れな嵐はおさまり、空と海は再び青へと変わる。 酒場の扉が開かれ、イーシャははっと顔を上げた。入って来たのはテオドールだ。 「戻りました。……お話があります」 彼の後ろから現れたのはミトサアとサンフォだった。 「来るんじゃないよ!」 だが、サンフォの姿を見るなりイーシャはしわがれた声で叫んだ。 「今頃何のつもりさ。今更……今になって、のこのこと」 「落ち着いて下さい」 「あんたにゃ関係ないだろう!」 「落ち着いて下さい。どうか」 強くて静かなテオドールの声に気圧され、イーシャは痩せた肩を上下させながら口をつぐんだ。 「伝えた筈です。彼女の……妊婦の為になるような対処をしたいと。あなたの協力がなければ目的は達せられない」 「おばあちゃん」 真珠を抱いたミトサアが進み出る。孫の如き年齢のミトサアに、彼女の腕に抱かれた真珠に、イーシャの唇が決定的にこわばった。 「ねえ。抱いてあげて、“おばあちゃん”」 頑なな貝の殻は、物言わぬ孫を目の前にとうとう崩れ落ちた。 イーシャの望みに従って、ミトサアが慎重に真珠を割った。涙にくるまれていたのは赤子とおぼしき骸だった。誰の子であるのか、説明されずとも皆が悟っていた。 「あの島に学者たちが来た頃、あたしはちょうど体調を崩してて……手伝いには行けなかった」 慟哭しながら、イーシャはぽつぽつと語り始めた。 「娘は手伝いに行くって言って聞かなかった。出稼ぎ感覚だったんだろうね、あたしの薬代のためだって言われたら止められなかった。だけど、この男が来るって知ってたら縛り付けてでも行かせなかったさ」 娘は子を身ごもって帰って来た。胎児の父親が誰であるか知ったイーシャは烈火の如く怒り狂って娘に勘当を叩き付けた。妊婦が身投げしたらしいという噂を耳にしたのはしばらく後のことであった。 「あたしもやりすぎた。せめて追い出したりなんかしなければ……。だけど、産みなって言えば良かったのかい。この男の子供を……自分の父親の子を産んで育てなって言えば良かったのかい?」 「あん? どういうこった、バーさん」 クロウは素っ頓狂な声で聞き返した。しかしミトサアに睨まれて慌てて口をつぐむ。むぜび泣く老婆の肩をニルヴァーナがそっと抱いた。命の温もりは道理も理性もたやすく凌駕する。たとえ許されぬ伽の結果だとして、誰がたやすく堕胎できよう。己が身の中で育って行くぬくもりを、どうして理屈で片付けられよう……。 テオドールに促され、サンフォがイーシャの前に進み出る。髪を振り乱し、涙で顔を汚した老婆はキッと老爺を睨めつけた。サンフォの手がイーシャに伸びる。イーシャはその手を振り払ったが、男の腕力のほうが強かった。 「――――――」 有無を言わさず老婆を抱き締め、老爺が何かを囁く。老婆は真珠のような涙を落とし、老爺の腕の中で泣きじゃくった。 「ボク、おばあちゃんの恋愛絡みの話も調べて来たんだけど」 ニルヴァーナとテオドールを残し、ミトサアとクロウは一足早く酒場を後にした。 「おばあちゃんの相手、つまり娘の父親のことは誰も知らなかった。噂では、どこかの学者じゃないかって言われてたらしいけどね……名前までは分からなかったんだ。だから確証はなかった」 「ジーさん、自分の子供のこと知ってたのかな」 「どうだろ。知ってて手を出したんなら救いようがないね。知らなければいいってわけでもないけど」 「……だな」 サンフォは若い頃から気鋭の海洋生物学者として各地を飛び回っていたそうだ。こんな田舎街に腰を据えることはできなかったのだろう。 「人の人生に踏み込むな、か。それはそうだろうけど」 ミトサアはどこか皮肉っぽく笑って肩をすくめた。 「勝手だよね。自分は二人の人生をめちゃくちゃにしたくせに」 クロウは答えずに顎を引いただけだった。 サンフォに同情の余地はない。それでも彼は真珠に逢いにこの地まで戻って来た。たとえ遅すぎる再会だとしても、彼は確かに戻って来たのだ……。 「どしたの? 考え事?」 というミトサアの声でクロウはふと我に返る。 「あー……別に。推理とかメンドウ」 男女の涙に余人が触れるべきではないような気がした。 はらはらと、淡青の花弁が志麻の手から散る。涙のように、ほろほろと。涼しげな香りを纏うそれは、壱番世界の地中海地方を原産とする花に似ていた。 「綺麗ですね、モヨイさん……」 青い花びらは潮風に乗り、志麻の立つ岬から孤島の方角へと消えて行く。 海魔の正体は分からずじまいだった。件の妊婦が海魔と成ったのかも知れないし、身投げの衝撃で子が流れ、洞窟に棲み付く海魔の元に漂着して真珠と成ったのかも知れない。しかし、こじれた関係が少しでもほぐされたのならそれでいい。 志麻にもかつて“家族”がいた。病に冒された彼女の残り時間は決して多くはなかった。永久の別れの前に“家族”となることを希望したのは志麻のほうで、その後彼女は旅立った。 あれから何年経ったのだろう。志麻は過ぎた時間の分だけ齢を重ねた。彼女は今もあの時のままだ。これまでもこれからも、あの時の姿のまま――永劫に姿を変えぬまま、記憶の中で生き続ける。 静かな足音がして振り返ると、テオドールが立っていた。 「その花は何処で?」 志麻が手にした青い花を見てテオドールは問うた。 「此処に来る途中で見かけて……綺麗だったものだから。手向けってわけでもないけれどね」 テオドールは黙って肯いただけだった。誰に対する手向けであるのか問い質すほど野暮ではない。 「花の名は何と言うのだろう」 「さて……壱番世界には、これとよく似たロスマリヌスという花があるけれど」 「ロスマリヌス」 「普通はローズマリーと呼ぶかな。ロスマリヌスは学名で……意味は、“海のしずく”」 「ならば、涙と同じだ」
このライターへメールを送る