世界司書リベル・セヴァンは集まったロストナンバー達にひとつ礼を送り、口を開いた。「先日のトレインウォーにより行方知れずとなっていたロストナンバーの一人、ロイ・ベイロードさんの所在地が判明しました」 淡々と紡がれた吉報に、旅人達の間に安堵の空気が広まる。事務的に語るリベル自身も、その青い唇を微かに緩めた。「この件については、あちらの司書が担当します」 怜悧な青の視線をすいと動かし、ホールの端を見遣る。つられて旅人達がそちらに目を向け――視界に留めたのは、大きな赤い毛玉だった。 近付いてみれば、その毛玉は緩やかに上下し、生物であると知れる。巨躯の獣が、四肢を畳んで丸く惰眠を貪っているだけの事だった。屈強な前肢に強靭な後肢、小振りな頭部に丸みの掛かった三角の耳。毛並みは見事な朱金の縞模様をしていて――、「……残念なことに、猫だ」 旅人達の心中を読み取ったのか、前脚に顎を乗せ微睡に浸ったままの獣が、ゆるゆるとした口調でそう言った。 半身を起こし、巨大な猫は枕にしていた導きの書を前脚で指し示す。「おれは灯緒(ヒオ)。猫だが、この件を担当する世界司書だ」 牙の並ぶ獣のあぎとで流暢に言葉を繰り、朱金の虎猫はひとつ欠伸を零した。伝言が終わればすぐにでも眠りに就けそうなその様子に、旅人達は声に出さないまでも微かな不安を覚えた。「君たちに行ってもらうのは、朱昏(アケクラ)と呼ばれる世界」 それはかつて、世界図書館が発見した異世界のひとつであったらしい。だが、何らかの理由で詳しい調査が行われていなかったのだと、猫は語る。「そうだな……何に似ているかと言われたら、壱番世界の日本、が一番近い」 閉じていた導きの書を捲り、そこに挟まれていた一枚の紙片を器用に開いてみせる。真新しいその紙面に描かれているのは、北西と南東に向けて細長く伸びた、島国の地図らしきものだった。「おもしろいことに、地理も、東西の反転した日本列島によく似ているけれど……中央に大河が流れ、東西が完全に分断されているんだ」 鋭い爪を隠しているであろう脚先でもって、地図上を示していく。「かれが発見されたのは、西側の大陸。例えるなら…… 江戸時代くらいかな。文明の発展していない、のんびりとした風土の国だ」 とんとん、と猫が玩具にじゃれつく様な軽やかさでロイの居る場所を指し示し、しかしすぐに首を傾げた。「ロイさんの救出自体は、そんなに難しくないと思うんだけど……ただね、現地ではちょっとした事件が起こってる」 ロイが発見された場所の近くに、小さな村がある。都から大分離れた場所に在り、立ち寄る者も少ない、寂れた村だ。村の周囲には朱色の花が群生しており、村はそれを摘み都へと献上する事で生計を立てているらしい。「その村では最近、夕方になると、黒い傘を差した女が村を歩き回る、らしい。そして人に出会うと、自分の腕に抱いている子供を差し出すんだって」 いだいてはくれぬか、と縋るように、その女は言う。 傘に隠れて、女の顔は見えない。だが、その口許だけがいやに赤く紅く濡れているのを目にし、怖ろしくなった村人はそれを断る。断られた女は寂しそうに肩を窄め、子をあやしながらその場を立ち去る――否、陽炎のように唐突に姿を消すのだと言う。 黄昏と共に現れ、宵に塗り潰されるようにして消える女。 ただ、いだいてはくれぬか、とだけ乞う、ひとりの母親。「幽霊とか、あやかしの類じゃないかって村人は怖がってるんだ。受け取らなかったから、何かたたりが起こるんじゃないか、とね」 司書の口調には深刻さの欠片もなく、ただのんびりと己が『視た』光景を語る。「他にも、村の外れに住んでいた女性が物盗りに殺された、なんて事件が起きてるけど……まあ、こっちは君達にはあまり、関係のないことかも知れない」 身寄りの無かった女の遺体は埋葬される事も無く打ち捨てられ、今や何処に在るのかも判らない。せめて供養してあげればいいのに、と司書は呟き、またひとつ欠伸を零す。「まあ、そういうわけだ。ちょうどいいから、ついでに調査してきてほしい」 やはり何でもない事の様に言ってのけ、司書は一旦言葉を切った。今回彼を迎えに行く事は、朱昏と言う世界を調べる良いきっかけになるらしい。「君たちなら心配は要らないだろう。……健闘を祈っている」 鋭くも怠惰な金の眼差しが、旅人達へ順に向けられた。 目を焼かんばかりの光が収まって、ゆっくりと視覚が再び作用し始める。眩い白が緩やかに視界から立ち去って、しかしロイの眼に映る光景は、彼が直前まで見ていたものとは全く異なっていた。 朱い。 視界を埋め尽くすのは、天上で揺らぐ朱と、地上で燃える朱。 西の空に落ちようとする陽が最期の輝きを放ち、空を鮮やかに染める。そして、彼が立ち尽くす足元で、燃え盛る空にも褪せぬ色彩の花が咲き、見渡す限りの平野を埋め尽くしているのだ。 朱い空と、朱い大地。世界の全てが一色に染まる、鮮烈だが怖ろしいその光景は、彼には見覚えの無いものだった。 果たして、この場所は。 誰か話を聴けるものが居ないかと、首を巡らせた彼の視界に、一点の黒が映り込んだ。 くるり、くるりと回る、丸い色。 それは傘だ。彼の世界のものとは若干違うが、ターミナルですれ違う誰かが手に持っていた、遠い異世界の傘だ。 それを差す手は、折れそうな程に細く、白い。 天上と地上、世界を染める色彩と同じ、朱色の衣裳――キモノ、と呼ぶのだったか――を纏って、一人の女が傘を差して佇んでいる。それを確かに認めたのに、何故かロイの口からは言葉が突いて出ない。 対峙する女が、柔らかく首を傾げた。黒い傘に遮られ、その顔は見えない。だが、翳りの中で確かに、艶やかな口許が紅く赤く煌めく。まるで、――そう、まるで、血を滴らせているかのような、鮮やかなその色。 女はゆっくりと、緩慢とも言える仕種で、腕に抱くものをロイへと差し出した。傘の作る翳りの下、身動ぎもしないそれは、果たして何なのか判別も付かない。 黄昏の朱い光が、ふたりへと射しかかる。『 』 ――ゆっくりと震えるその唇は、何と言ったのだろう。=========<重要な連絡>「ロイ・ベイロード」さんは、このシナリオに参加しなくてもノベルなどに登場します。プレイング締め切り日時までに、NPC「エミリエ・ミイ」宛のメールという形式で、600字以内のプレイングにあたるものをお送りいただけましたら、それをもってこのシナリオのプレイングとして扱います。このメールの送信がなかった場合、「救出後すぐにロストレイルに収容され、調査には参加しなかった」ことになります。エミリエ宛のメールはこのURLから!https://tsukumogami.net/rasen/player/mex?pcid=cttd4156※強制転移したロストナンバーの方は「世界図書館のチケットによって移動していない」ため、「現地の言葉を話せません」。この点のみ、ご注意下さい。=========
「お前は、なんだ……?」 ゆっくりと紡がれる紅い唇の放つ言葉が判らず、ロイは不気味な居心地の悪さに一歩足を退く。朱い花が、脚の動きに合わせて揺れた。 そうして、女の全身を視界に収め、違和感が彼を襲う。 荷を抱いた両手をこちらへ差し出しているというのに――何故、その傘は揺らぎもしない。傘を差している手は、果たして何処から出ているのか。 それに気付いた瞬間、ロイの背筋を悪寒が駆け抜けた。傘の作る陰りの下には何の変哲もない女の姿があるとばかり思い込んでいたのだが、まさか違うのか。判別がつかず、薄気味の悪い心地に戸惑いばかりが募る。 しかし、女が纏う空気は黄昏の光に似て、弱弱しくも柔らかい。聞き取る事の出来ない言葉を繰り返すその声も、懇願に似た響きを持っている。 気が付けば、青い手甲に覆われた両腕を、女へと伸ばしていた。 懸命に差し出している何かを、茫洋としたまま、けれど慎重に受け取る。ロイの手に確かにそれが渡ったことを認め、女は紅い唇に安堵にも似た微笑を浮かべてそっと手を放した。 途端、彼の腕に伝わる、確かな重み。思わず両の腕に力を込める。 「うむ……?」 しかし、それは手を放した一瞬のみで、傘に両手を添えた女がしずしずと距離を置き、陽の下にそれが曝される時には――その重みは、片手でも抱えられるほどに変わっていた。 現世のものとは思えない変質を遂げたそれを、恐る恐る見下ろす。 「……花?」 花だ。 この場所の事を全く知らぬロイには、そうとしか形容できなかった。ロイの腕の中で咲き誇る、幾本かの花。この平野に咲き乱れ、大地を覆う花と同じ、焔の色をしている。 これがただの花であれば先程の重みは何だったのか、と疑問に首を傾げる彼を、女は数歩さがった場所から静かに見つめていた。 「おい、これは一体――」 言葉が通じないと感付いていても、問わずにはいられない。狐につままれたような面持ちで女に顔を向けたロイは、そこでふと言葉を止めた。 眼前に広がるのはただ、大地でざわめく朱と、天上で燃える朱。 黒い傘を差した女の姿など、何処にもない。 「ロイ」 不意に耳に飛び込んできたのは、聞き慣れた言葉。耳慣れた、己の名。 茫然と花を手放せぬまま、ロイは声に応えて振り返る。東の空は既に宵闇に染まりつつあり、朱と群青が混じり合う、その境目を悠然と飛ぶ、巨躯の鳥が視界に入った。 否、鳥ではない。それは巨大な二対の翼をもった人間、のように見える。 そして、それと共に、朱色の野をこちらへと駆けてくる三つの人影が現れた。 「ロイさん!」 「……ロストナンバーか」 言葉が通じる。ロイの名を知っている。窄まりつつある光の下では確かな姿は見えぬが、それだけで、彼らが同胞であることを把握し、ロイは知らぬ間に張っていた気を和らげた。 飛翔していた赤褐色の鳥男も、三人と合流してロイの眼前に着地する。 「ここは?」 「朱昏(アケクラ)、という世界です。ロイさんはトレインウォーのタグブレイクで、ここへ飛ばされてしまったみたいで」 「タグブレイク」 茫然と呟くロイに、肯定の頷きを返して、眼鏡をかけた青年――花菱 紀虎は東の空を振り仰いだ。 「もう日が暮れます。話はロストレイルの中でして、明日また動く事にしませんか?」 右も左も判らぬ異世界の中に放り出されて、暗闇の中を歩くのは無謀と言えた。妖が出ると判っていて、夜に出歩く数奇な村人が居るとも思えない。 旅人達は異を唱えることもなく、朱色の向こう側で待つ列車へと目を向けた。 高い陽の下に見る世界は鮮やかで、美しい。 風に揺れる朱も、燃え盛るのを待つ熾火のようにざわめいている。 「何か、発見されましたか」 背後から唐突に掛けられた声に、しかし驚くでもなく玖郎は頷く。鉢金で顔の半分を覆い隠し、視覚だけに頼らぬよう生きる物怪にとっては、背後から歩み寄る気配を悟るなどわけない事である。それが共にこの世界を訪れた仲間――ヴィヴァーシュ・ソレイユであることにも気付いていて、あえて振り返る事もしなかった。 「いや」 簡潔に否定の言葉を返せば、そうですか、と淡泊な声だけが残り、銀糸の髪を持った男が彼の隣に並ぶ。笑みひとつ浮かべぬ相手はそれ以上を口にする事もなく、単に情報を得るために彼に声をかけたらしい。 風が朱色に染まる野を駆け抜けて、花達が擦れ合う些細な音がいやに大きく響く。村落の喧騒も遠く、静謐だけに包まれたその場所に、居心地の良さを覚える。 「……おれのいた地には、大河などなかったが」 「懐かしい、と」 ぽつりと落とした言葉を的確に汲み取り、相槌を打ったヴィヴァーシュに小さく頷く。 この世界が、彼の故郷でない事は初めから判っていた。大河も、大地を埋める朱色の花も、彼の地には無かった。それでも、遠くに広がる山並みも、寂れた村落も、何処か似ている、とそう感じる。玖郎が還りたい、と望むあの場所に。 だから、違うと判っていても確かめずにはいられなかった。 「……ただの郷愁だ」 「ええ」 応える男に、それ以上を追求しようと言う意思は見られない。それを心地悪いとは感じず、玖郎は赤褐色の髪を弄ぶ風を甘受した。 見渡す限りの平野を、ただ一色が埋め尽くしている。 遠くの地平を覆うのは金の葉に染まる山々であり、雲ひとつない空の青と共に、視界を彩鮮やかな三色で分け合っていた。 村外れの茶屋を訪れ、雪深 終は店先に腰を降ろして茶を啜っている。 何はともあれ、腹が減っていては事を為せぬ。新たなる異世界の下見も兼ね、旅の者も立ち寄り、情報を集めやすいであろう場所を選んだ。 壱番世界の日本――そして、終の故郷である世界に、よく似た国だと聞いた。故に服装も質素な着流しを選んだのだが、目の前を過ぎる人々を見る限り、その選択は正解のように思えた。出される茶も団子も、終の舌によく馴染む味であり、その苦みと甘みに何処とない安堵を覚える。 案外、馴染みやすいか。 誰に言うでもなく呟いて、時折通る村人を眺めた。大概は朱い花を籠に積んだ背を丸め、通り過ぎる一瞬に終を一瞥し、そしてそそくさと目を逸らす。やはり、辺境の村では余所者は警戒されやすいのだろう。聞くならば、旅人に興味を寄せ話したがる子供が良い。 そうちらりと考えた終の前を、まさに今思い描いていたような童子が通りがかった。 「もし」 その腕の中に幾本の朱を見咎め、声をかける。 立ち止まった童子の、曇りの無い黒い瞳が見知らぬ大人を振り仰いだ。 「その花は、何と言う名だろうか」 唐突に声を掛けられた幼子は、しかし怯えのひとつも浮かべることなく、終を見上げて首を傾げる。 やはり大人とは違い、小童達は村の外の者に特段嫌悪の情を抱いているわけではないらしい。――あるいは、童子ゆえの好奇心か。 「あにさまは知らんのか」 「この辺りには初めて来たのでな」 この土地特有の訛りを持つ小童でも聴き取りやすいよう、言葉を噛み砕くようにしてゆっくりと紡いだ。小童は「ほうか」とひとつ頷いて、純粋な好奇に満ちた視線を終へと注ぐ。 「あけの」 「アケノ……か」 たどたどしい仮名文字で地面にその名を綴り、自慢げに彼を見上げる。日本によく似た朱昏ならば、恐らくはこの『アケノ』なる花にも漢字があてられているのだろうが、幼い童がそれを知るはずもない。 野辺を染める一色の朱。――字を宛てるならば、『朱野』となろうか。 「あまり、日が暮れるまで歩き回らぬ方がいいぞ」 旅人にも屈託なく話しかける童子のこと、恐らくは遊びに夢中になり時間を忘れる、年相応の好奇心を持っているのだろう。そう思ってひとつ声をかければ、童子はまた首を傾げた。 「おにが出るからか」 おに。この世界では、怪異の類はそう呼ばれているのか。やはり、日本とそう変わらぬらしい。 「ああ」 「あげなもんは、まやかしじゃ。姥様がそう言っとった」 年長の者の言葉を疑うことなく、素直に口にするその姿を、終は好ましく思った。 そして、訛りはあれどはきはきとした答えに、この世界が孕む闇を垣間見る。 怪異の実在を知るも知らぬも、ひとまず伝承として片付ける。認めてしまえば、妖が蔓延るのを赦す事になるから。子や、家族や、己を護るために、伝説を伝説のままに留めおく。黄昏の向こう側に、閉じ込める。 そう言う事なのだろう、と終は納得し、童に小さく感謝を告げた。駆け去る子供に小さく手を振り、南西の空に目を向ける。 まだ日は高く、青い空と朱い平野の境目にははっきりとした境界線が引かれている。――今少し待てば、彼の境目が曖昧になり、混じり合う。つい昨日目にしたそれを思い描く。 昼と夜、光と闇が入り混じる、黄昏と言う刹那の時間。 強い朱の色を伴い、何もかもを染めようとする苛烈さで世界を覆う。しかし、その一方で東の空から刻々と迫り来る闇に抗う術も無く、次第に塗り潰される。光を纏い、闇を孕む、その様は儚くも美しい。まるで女の様だ――と考えて、己が身の内に流れる力を終は感じた。 女は妖に成り易いのだと。 男よりも情深い故か、それとも違う理由があるのか、彼には判らないが、それは何処か黄昏の孕む闇に似ているのではないかと、茫洋と考える。 黒い塀に、一本高い松の覗く、大きな屋敷。寡(やもめ)で暮らすには大きすぎると、傍からはそう見える。 村外れで殺された女の話を聴き、ロイはその場所へと足を進めた。この世界のことも、あの女のことも何も判らない。だが、ロイの勘が、何かを告げている。村へ行って話を聴くことも出来ぬからと、今は無人となっている家の敷居を跨いだ。生きる者の気配のしない、静謐の中を歩く。 室内は、物盗りに襲われたとは考えられぬほど、整頓されていた。 初めから、女だけが目当てであったのだろうか。ふと過ぎった疑問を、何故だか否定しきれない。 「む」 暗がりに紛れて、蠢く影がある。己が気配を絶つ事も出来ず、妖と呼べるほど鬼気を纏ってもいない、ただの人間の気配が、ひとつ、ふたつ――三つ、確認出来た。 「……賊か」 呟き、腰を落とす。剣を抜き放つと、己の前で水平に構える。 物音を消す事も知らないのか。愚鈍とさえ取れる動きで、三つの影は一斉に駆け出した。右へ、左へ。ロイが一人だけだと見て、挟撃の形を取るようだった。 前に出した右脚を、踏み込むようにして滑らせる。輪を描くようにして流した腕で、右から迫る男の鳩尾に剣の柄を叩き込む。 殺しはしない。剣を握る手にも、振り抜く腕にも力を込めず、ただ敵を押すように攻撃を当てる。並みの人間であれば、それだけで簡単に無力化出来る。案の定男達は早々に戦意を失い、散り散りに逃走を図った。 「待て」 逃げ去るその背中を追い、最も遅れている一人の襟首を引っ掴む。 明らかに、この家が何であるかを理解した侵入であった。己では言葉が通じなくとも、仲間の元へ連れて行けば事情を訊き出すくらいは出来るだろうか。 「ロイさん」 ロストレイルの中での仲間との会話を思い出し、無言で首を捻ったロイの背後から、言語を伴った声が掛かった。 「紀虎か」 「その人は?」 振り返るロイへ、彩り豊かな髪留めを幾つも髪に飾った柔和な青年がこちらへと歩み寄る。紀虎はロイが片手で捕まえる男を見て、首を傾げて問うた。 逃げる気すら喪ったのか、男はロイの手にほとんどぶら下がるようにして項垂れている。 「この家に忍び込んでいた賊だ。情報を引き出そうと思ったんだが、俺では言葉が通じんのでな」 「なるほど」 それ以上言葉を伝えずとも、聡い青年はロイの要望を的確に悟ったようだった。小さく頷いて、男へと目を向ける。 任せてください、とその仕種が雄弁に語っていたので、男を掴む腕は離さぬまま、ロイもひとつ頷き返した。 紀虎は男の正面に回り込み、屈んで項垂れる彼と視線を合わせる。諦観にも似た視線を受けて、人好きのする笑みを浮かべてみせた。 「手荒な真似をしてすみませんでした」 なるべく穏やかに、つとめて朗らかに。ゆっくりと、相手に言葉を沁み渡らせるように問い掛ける。情報を得るためには、対話をしなければならない。――対話をするためには、怯えさせてはならないのだ。 人を笑わせること、和ませることは、紀虎にとっては得意分野と言って良い。書物や耳で得た知識を頭の中で引き出して、何を語ろうかと考える。同時に、男の身なりを不躾にならぬ程度に観察し、その素性をある程度探ることも忘れずに。 「実は俺たちもね、この村の人じゃないんですよ」 俺たち『も』。さり気なく織り交ぜた一文字の助詞に、男は小さな反応を示した。先程よりは意思を取り戻した瞳が、探るように彼を見る。 「おんなじ侵入者なんですし、お役人に引き渡すようなことはしません。安心してください」 笑みを浮かべて男へと語りかけ、その瞳が逡巡に揺らぐのをただ静かに見つめて、待った。 暫くの間、ふたりを覆うのは穏やかなまでの沈黙。互いに多弁とは評せぬ性質であるから、特にそれを気に病むでもなかった。 「おれは……みしらぬ者にわが子を渡す気になどなれん」 風だけが吹き抜ける静謐を再び打ち破ったのは、赤褐色の天狗。 傘の女の腕が差し出すものが何であるか、旅人たちは薄々と察していた。突如として命を奪われた女が、死して尚残す程の未練。――幼くして、現世にただ一人残された、子供のことであると。 静かに紡がれた玖郎の言葉に、ヴィヴァーシュは小さく眉を跳ね上げる。人としての感情が幾分か欠落しているかのように見える玖郎が、確かに情を交えて放った言葉であったからだ。 苦々しい、けれど誇らしくもある、それを――恐らくは愛と、呼ぶのだろう。 鷹や鷲をはじめとする猛禽は、伴侶を愛しみ、為した子を補食者の牙から護ろうとする。脚の鉤爪や手甲、大きな二対の翼に猛禽属の名残を見せるこの天狗もまた、同じなのだろうか。 穏やかな心持ちになり、しかしその繊細な顔には笑みを浮かべぬまま、ヴィヴァーシュはひとつ頷いた。 「……彼女には、なにか理由があるのではないかと思います」 「りゆう」 頑是ない幼子のように首を傾げ、おれには判らぬ、と玖郎は小さく呟いた。――己が血を分け、慈しんで育ててきた子を、他人に渡そうとする、その理由。 「……わからん」 もう一度呟いて、情深い天狗(あまきつね)はゆるく翼を羽撃かせた。 空を穿つ音に引き寄せられたか、青空の向こう側から、数羽の羽撃きが飛来する。 「おや」 青空を斬り開くように赤褐色の翼を揺らめかせて飛び来るのは、大きな嘴から嗄れた鳴き声を放つ、鴉だ。 この世界では、鴉さえも赤い色をしているのか。 小さな声を上げ、しかし怜悧な表情を一切崩さぬヴィヴァーシュの傍らで、玖郎が手甲に覆われた手を飛来する鴉達へと伸ばす。鴉はそれに怯えるでもなく、玖郎の周りに滞空した。 神鳴(かみなり)に錆色の鴉を一羽止まらせ、佇むその周囲にも鳥達が飛び交う。ぎゃあぎゃあ、と潰れた喉で喚く鴉の声は、しかし楽しそうに弾んでいる。 チケットを持つ者にさえも判らぬ声を交わし、穏やかに鳥達と意思を交わす、その姿はひとの形を取りながら、ただの一羽の猛禽のようにも見えた。 穏やかなその空気と、鳥たちとの語らいを楽しむ彼の様子に、緑の隻眼を緩やかに細め、ヴィヴァーシュは無言でその場を離れた。 西の空が、薄い紅を帯び始めている。 「たそがれや、あれにみえるは……って、ね」 冗談めかしてそう言い、紀虎は微かに笑った。背にした影法師は既に細く長く伸びていて、宵闇の訪れを雄弁に彼へと知らせる。書物に描かれた図画ではなく、真なる妖と対峙できるかもしれぬ、と考えるだけで、否が応にも紀虎の期待は高まり、歩く足も自然と速まる。 誰そ彼――擦れ違うひとの顔も明確には見えぬようになり、それが妖であったとしても判らない。彼は誰ぞ、と問う言葉、問わねばならぬ刻限。 「……まだ日がある、と出歩くひとを引きよせるには適した時だ」 二対の翼を羽撃かせ、空を掴んで大地へと降り立った玖郎が、感情に乏しい声で呟く。 「なるほど」 「ゆえに、物怪は黄昏時をこのむ」 「やっぱり、同じもののけだから判るんですか?」 「と、いうよりは」 興味津々、と言った様子で問いかけた紀虎の言葉にゆるく首を傾げ、玖郎は鉢金の奥の瞳を色彩の揺らぐ空へと向ける。 「……経験者だからな、さらうほうの」 何でもない事のようにそう呟いて、再び二対の翼を大きく広げた。容易く風を掴み、滲む色彩へとその身を躍らせる。翳りつつある陽に照らされて、赤褐色の髪と翼が緩やかに煌めきを落とす。 それを振り仰ぎ、紀虎は驚嘆に目を輝かせた。 「興味津々だな」 隣を歩く終が、感心したような、微笑ましいとでも言いたげな口調で呟く。はにかむように笑ってみせた紀虎は、空駆ける天狗を見上げたまま朱野の原を歩く。 「……それで、何か判ったのか」 「何がです?」 「行っただろう、彼女の家に」 見ていたぞ、と責めるでもなく言えば、悪戯の見つかった子供の様な顔で青年は小さく舌を出した。 「ロイさんも居ましたけどね」 「それも見ていた。……で、どうだ」 「あそこに住んでいた女の人、どうも都に居る偉い人の妾らしくて」 元々、この村の者ではなかったようだ。話し言葉の違いで村人はそれを察し、女を遠巻きに窺っていた、と言うところだろう。 村、と言う集合体は堅固にして厄介なものだ。都から離れれば離れるほど、個々の繋がりは密接になり、閉鎖的で排他的な文化を作り上げる。突然住み付いた、ただそれだけの理由で警戒を抱くと言うのも、おかしな話ではない。 都市伝説でも語るかのような何気ない調子で、紀虎は話を続けた。 「で、妾って、複雑な存在ですよね。子供が出来たりしたら、お家問題にも関わってくる」 「ああ、……なるほどな」 都人の妾が辺境の村に住み、そして賊に殺された。元よりこの世界の文化に馴染みのある二人だ、その話の裏を悟るのは容易い。 しかし、それに憤りを覚えるほど、終は同情的な性質を伴っていない。ただ淡々と、状況を受け止め――もし、女が子を為したまま殺されたのなら、未練は如何ばかりであっただろう、と、推測する程度だ。 「女の人が本当に子供を作っていたかは、残念ながら判らないんです、が――」 染まりゆく朱の原を愛でるかの如く移ろいでいた紀虎の視線が、不意に一箇所に釘づけにされる。唐突なそれを訝しく思い、釣られるように振り返った終もまた、静かに息を吐いた。 誰そ彼や、あれに見えるは――人か、鬼か。 くるり、くるりと、黒が舞う。 さわり、さわりと、朱が揺れる。 紫の雲が薄く掛かる黄昏の空の下、柄の無い傘を差した女が、朱色の海にひとり立つ。風に靡いて朱の花は波打ち、しかし女の袖や髪は揺るぐ事も無い。 翳りゆく陽の下に融け込むようにして、その女は何処からともなく姿を見せた。 「……彼女が?」 「ええ……朱色の着物に黒い傘、間違いないでしょう」 短く放った終の問いに、ヴィヴァーシュが女から視線を逸らす事無く応える。小さく頷いた拍子に細やかな銀糸の髪が揺すれ、黄昏の光を受けて煌めいた、その様にも女は何一つ興味を抱かない。ただ、靡く事も無く佇むのみだ。 黒の傘が黄昏の下に丸い翳りを作り、女の姿を覆っている。世界司書の言葉通りだ、と玖郎は思い、ゆるく首を巡らせた。 「そのかおを……見せては、くれぬのか」 す、と沈みゆく陽へ鉢金に覆われた貌を向け、鋭利な鉤爪を備えた片手で簡単な印を斬る。 天狗(あまきつね)の命を受け、空が嘶(いなな)いた。 旅人たちが立つ場所から、女へ。天候に対し不自然なまでに強い風が、吹き抜けてゆく。唐突に吹き渡ったそれは咲き乱れる朱野の花を大きく揺さぶり、花弁が幾枚も幾枚も花から離れて虚空を舞った。 花嵐が舞う、しかし、女の纏う朱色の衣裳は、広げる漆黒の傘は、微動だにしない。黄昏の作る淡い闇に揺らぎ、翳りの下から彼らを見詰める。 「……やはり、うつつの者ではない、か」 別段驚いた様子も無く、風を呼んだ物怪は淡々と呟きを落とした。 吹き荒ぶ風の中、傘を、荷を抱いた女は立ち尽くす。 誰のとも知れぬ血に塗れ、赤く紅く照らされる唇をそっと震わせる。 「いだいては、くれぬか」 たどたどしく掠れる声。だが、それは確かに人間の持つ言葉で――ひとの持つ感情を孕んでいる。心からの懇願と判る響きを、旅人は確かに汲み取った。 「ええ、受け取りましょう」 つとめて穏和な言葉を掛け、ヴィヴァーシュが一歩、朱野の原を進み出た。足を進める度、咲き乱れる朱色の花が揺すれ、音を立てる。 「その子は、私達が責任を持って預かり、村の方に引き取っていただきます。話も付けましたので、ご安心ください」 細い、しかしか弱くは見えぬ両腕を、黒い傘の女へと差し伸べる。 伸ばした手と手が触れ合う位置まで近付き、ようやく女の顔を認める事が出来た。 唇を濡らす艶やかな赤は、確かに血の様でもあるが――それを除けば、至って平凡な、ひとりの母親の貌をしている。 「……もう、貴方が彷徨い歩く必要など、ないのです」 緑の片目を緩めて、怜悧な顔を微かに和らげる。女の虚ろな瞳はそれを確かに認めて、ヴィヴァーシュの声を聞いて、その繊細な面(おもて)をゆがめた。 泣きじゃくるようにして笑う、幼子のような貌。 ひとつ頷いて、白く美しい手が、翳りの下に在る幼子を受け取った。いのちの重みを感じ取り、これは幻ではない、確かに生きているのだと、確信する。 子を抱いたまま静かに女から身を離しても、慈悲深き母親は何も言わなかった。 「ひとつ、教えてくれ」 機を窺っていたのか、落ち着いた声音で終が女へと問い掛ける。子供を手放し、黒い傘に両手を添えた女は、小首をかしげて彼の方へゆっくり貌を傾けた。 「……貴方は今、何処に在る」 吹き流れる風は終の長い髪をも撫でてゆき、朱い花弁の海を駆けてゆく。 幼い童の様にことりと首を傾げたまま、女は傘の柄から片手を離した。ゆるりと動かされるそれに併せて朱色の袖が翻り、黄昏の空に融ける。 たおやかに伸ばされた一本の指は、朱色の果てを指していた。 朱色の空と朱色の野が混じり合う、その境目に、一本の樹が生えている。女はそれを指さして、静かに首を傾げていた。 「……そこに、居るのか」 終の言葉に、小さく頷きを返し、黒い傘をくるりと回す。 朱色の袖が、翻る。 燃える世界に、同じ色の着物がゆるゆると融けてゆく。 黄昏の空に、朱色の花弁が躍った。高く高く舞い上がり、重力に惹かれて朱色の野へとゆるやかに降り注ぐ。 降り注ぐ光に沁み入るようにして、降り懸かる花弁に紛れるようにして、傘の女は融けて消えた。 女の指し示した場所へ赴いてみれば、そこもまた、朱野原。 恐らくは桜であろう、葉も花も付けていない細い樹木の下に、目も眩む鮮やかな色彩が広がる。花の海をかき分けるようにして一歩足を進めた紀虎は、そこで立ち止まった。 「ああ……こんなところに居たのか」 屈み込む彼にあわせ、仲間達がその上から覗き込む。 朱色に抱かれ、眠る女が居る。 何かを抱くようにして横たえたその身は死して間もないのか、腐り落ちることもなく、掻き切られた首筋と口元が紅く血に塗れているのを除けば、ただ眠っているだけにも見えた。 「……ッ」 女の顔から次第に視線を下げ、小さく息を呑む。 その腹部――子宮が納められているであろう場所から、幾本も、幾本も、朱色の花が根を張り、誇らしげに咲いている。野晒しになっておきながら、今まで誰にも気づかれなかったのは、これの所為であったのだろう。 まるで、女が為した子供のようだ、と唐突にそう思って――身の毛のよだつような感覚が走った。 「死体に咲く花……まさか、この野原全部が」 「それはない、と思うが」 これほどに広い平野すべてに、死体が埋められているはずもない。 大地に群生する朱野は、大振りの花弁を五、六枚重ねた百合に似た姿をしているが、女から咲き誇る朱い花は――鋭い剣先のような花弁を何枚も重ねた、葉をもたぬ花だ。 「彼岸花、か」 玖郎が呟き、終が小さく頷く。 細い花弁を丸く咲かせたその朱色は、曼珠沙華――あるいは、死人花、と呼ばれる、壱番世界の秋の花によく似ていた。 村の人間は、朱野を摘み都へと献上する事で生計を立てている。腐るほどに咲き乱れるこの花を、都が求める理由とは何か。 「……この花に、何か力があるのかもしれないですね」 色は同じでも、花弁が違えば別の花なのか。世界が冠する名前と同じ朱を抱く花に関する疑問は、募るばかりで果てがない。ロイが女から受け取った花と合わせ、何本か摘んで持ち帰った方が良いやも知れない。 紀虎はぼうやりと考えて、持ってきていた荷を取り出した。細長く、くすんだ緑の先端に危なげない仕草で火をつけ、女の眠る傍らに穴を開けて立てる。 「……それは?」 壱番世界の習慣に馴染みの薄いロイが、細く長い白煙をたなびかせるそれを指さして尋ねた。 「線香ですよ。司書さんが『供養してあげればいいのに』って言ってたから」 日本と似た文化を持つ朱昏ならば、宗教も似ているのではないかと、紀虎はそう考え、線香を持ってきていたのだ。たなびく白煙と鼻を擽る独特の香りに目を細め、神妙な面持ちで両手を合わせる。 「くよう……」 三人から僅かに離れた位置に立っていた玖郎は、紀虎の言葉を反芻するように呟いて、黄昏の空を降り仰いだ。 「弔い、ならば」 静かに手を掲げれば、空の向こう側から錆色の鳥が数匹飛来する。玖郎の言葉に従い女から離れたロストナンバーの目の前で、鴉とも鳶ともつかないその猛禽達は死体に群がった。 「なにを」 「他のいきものの血肉となる事で、そのいのちは昇華される……と、おれはおもっている」 違うか?と首を傾げるその様は幼く、どこかあどけなくすらもある。紀虎は微かに首を横に振り、否定の意を示した。 「壱番世界の或る国にも、鳥葬という文化があります」 河を辿って海へ還った水が雨となりて大地に舞い降りるように、いつか彼女の命もこの場所へ還るのだろう。 喰らい、喰らわれて、生命は循環する。それもまた、確かな弔いの形だと感じ、黄昏の野に降り立つ錆色の群れを茫洋と眺めた。 それは無情の様でいて、何処までも情深い。無常の様でいて、永劫変わらぬ営みだ。 「……遺体は、後で埋葬して差し上げましょう」 子を一旦村に預け、四人と合流したヴィヴァーシュが、静かにそう言った。この細い桜の木の下か、彼女がかつて住んでいた屋敷の傍か――どこか、彼女にとって良い場所に。 「ああ、骨であろうと、野曝しにするわけには行くまい」 「墓碑、という形があった方が、いずれ成長したお子さんが訪れやすいでしょうし」 東の空に昇る月、滲み始める宵闇の色を視界の端に収め、彼らはただ黙して、女の死を悼む。 大地が、空が、朱く染まる。 すべてを覆う一瞬の黄昏、光と影が交叉し、世界が燃え上がる刹那。 ひとりの女が子と手をつなぎ、沈みゆく陽へ向けて歩いて行く。 陽炎のように、幻が揺らぐ。
このライターへメールを送る