「ああ、急に呼び出してすまない」 シド・ビスタークは手にしていた『導きの書』から視線を上げた。「急を要するわけではないが、ターミナルでどうも気になるチェンバーが見つかってな」 この前の桜のチェンバーのように美しく楽しめるものなら問題はないんだが。「世界図書館の所有である、らしいことはわかっている」 サングラスを少し押し上げる。「だが、記録が散逸していて、どういう目的で作られたものか、何に使われていたのかがよくわからなくなっている」 司書としては放置しておくわけにもいかない。「誰か中を調べてきてくれると有難い、だが」 探索を試みようとしたときに、湧き上がるような興奮と強い戦闘意欲を感じたという。「それで、一旦引き上げたんだが……ひょっとすると、敵がいるのかもしれない」 装備を固めていってもらった方が良いと思う。「よろしくな」 チェンバー内に入った瞬間、周囲は暗闇に閉ざされ、一同は立ち止まる。「何これ?」「どうなってるんだ?」 お互いの声が反響しているので、何かの建造物の中だとはわかる。「石…か何か、みたいだな」 周囲を手探りして壁に触れた一人がつぶやいた。「ざらざらしてて乾いている」「遠くで水の音がしてる」 別の一人が耳をそばだてる。「うわっ」 がごん、と重い音がして床が動いた。がりごりがりごりと闇の中を押し上げられていく、どこへ行くのか、どうなっているのかわからない状況に否応なく緊張が高まる。 がごん、と再び重い音がした。上昇が止まり、前方でぎりぎりときしむ音がして、何かの扉が開いたように光が差し込んできた。「行く?」「行くしかないようだな」 光に向かって歩き出すと、周囲の壁から足下を揺らすような歓声が響いてくる。強烈な日差しを思わせる熱気と清冽な風が前方から吹き込み、互いの服が翻り、見合わせた顔が鋭くなっているのを自覚する。「わあああああ!」「っ!」 光の中へ出た瞬間、それまでどよめきのように聞こえていた歓声が周囲を一気に包んだ。「ああ、ここは」 急いで見回すと、そこは乾いた平らな砂地を囲む、石造りの巨大な円形の建造物、何階にも積み上げられた壁に競り上がるように作られた席、ぎっしり詰めかけた様々な人々が拳を振り上げて叫んでいる。「殺せ!」「助命だ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」 だが、その動きは一定で巧みに作られた画像のようだ。「これって……円形闘技場…だよね」「ってことは……ひょっとして……敵がいたり?」 考えた瞬間に、一人が必死に飛び退る。「来たっっ!」「うわっっ」 がしゃんんっ! がしゃしゃしゃしゃしゃ。 今の今まで居たその場所にぶつかったのは、どこからか突然出現した、大小さまざまな岩が連なった巨大な蛇のようなもの。額に眩く青い石を輝かせて、ばらばらになってもすぐに寄り集まり、立ち上がってゆらゆらと体を揺らす。「あれは」「世界図書館の記録で見たことがあるな、けど」 あいつは竜刻を回収されて、もういなくなったんじゃなかったのか。それにこんなにいきなり襲ってもこなかったような。「って、そんなこと言ってる場合じゃない!」 ぎしゃしゃしゃしゃ、しゃ…がしゃんん!!「くそっ!」 しゅるるるる、る、る、る。「次が来る!」 チェンバーの探索どころかまず、目の前の敵を倒さなくては進まないようだ。 一体ここは何の目的で、どうして作られたのか?「答えは後で見つけようぜ!」「ああ!」 再び岩の蛇が飛びかかってくる…。
「ハーデ!」 ディーナ・ティモネンの鋭い声が響いた。 目の前で見る見る体を組み直した岩の蛇が飛びかかってくるのに、仲間を庇うように飛び出したハーデ・ビラールが、右腕を光の刃に変えて応戦する。黒くて長いポ二ーテールが飾り紐を煌めかせながらくるりと翻り、一瞬その姿が空に消えたように見えた。その場所を薙ぎ払った岩の蛇の尾が空を切る。 見事な攻撃回避、それだけに留まらず、瞬間移動したのだろう、蛇の頭近くに出現したハーデが光の刃を振り上げる。だが、今にも額の青い石を光の刃で貫きそうになったとたん、蛇の頭が大きく振り回され、巻き込まれて地面に叩きつけられる。 「ハーデっ!」 そのハーデめがけてまっすぐに飛び出したディーナの頭には、ここに辿り着くまでにハーデが漏らしたことばが繰り返し響いている。 『殺すものは殺される。それが世界の範と知ってから…自分の番がいつ来るか、いつもそれだけを考えていた』 正体の知れない、敵が待っているかもしれないチェンバー探索などになぜわざわざ関わったのか、穏やかな日常の続く0番世界のただ中で、そう聞かれたハーデはひんやりと静かな瞳で応じていた。 最後に微かに震えた切ない声音にディーナは胸を強くかきむしられた。 終わらせたい、そう願う心は痛いほどわかる。 果てしなく続く逃亡生活、ひたすら逃げて逃げて逃げて、それでも集団に帰属することを叩き込まれた心と体は、時に無性に仲間への回帰を迫るのに、それでも逃げ続ける孤独と緊張、終わらない旅の傷み。 能力がはっきりしていない敵への、直接しかも近距離の攻撃がどれほど無謀で愚かなものか、ハーデがわかっていないとは思えない、なのに迷いもためらいもなく飛び込んだ動きには、仲間を守るためだけではない苛立ちと焦りが濃厚だ。 そして自分もまた、その無謀な味方が負傷したかも知れない状況で、成功確率も考えずに味方を庇って立ち塞がろうとする愚かさ、手にしたトラベルギアのサバイバルナイフは、確かにこれまで何度も自分の未来を取り戻してくれたとはいえ、負けず嫌いにもほどがある、ハーデを叩き落としたまま、跳ね返るように鎌首を突進させてくる岩の蛇の前にはあまり小さく無力な獲物、だが。 捨てられない、見過ごせない、集団への帰属意識だけではなく、今ここで、ハーデを見殺しにしては逃げられない。 サングラスの奥の紫の瞳を細め、銀の髪を舞わせてサバイバルナイフを手に、ディーナは効果的な一撃を狙おうとする。 「ちぃっ!」 かっこよすぎるでしょう、お二人さん。 軽く聞こえる声が明るく響き、ぶわっ、と砂を巻き上げて風が起こった。 「相手が人じゃないだけ、ね。さぁ行こうかッ!!」 ディーナの前を遮るように翻ったロングコート、振り向いた片目を閉じてみせたのはファーヴニール、コートの下でさっきまであったデニムの脚の代わりに青みがかった銀色の金属質の鱗が光を弾く。 「蛇と竜じゃ、格が違うんだよッ!」 細身だがしっかりした竜の脚、その付け根から伸びたのは銀色に輝く鱗に包まれたしなやかな尾、それが砂煙を上げながら地面を這ったかと思うと、一気に振り上がってディーナに噛み付こうとしていた岩の蛇の頭を砕く。 ぎしゃしゃしゃしゃっがしゃああっっ! 「まだまだあッ!」 ファーヴニールの一撃で空中で砕け散った岩が闘技場の中へ四散し、がらがらと体も崩れてちらばっていくが、ファーヴニールは容赦しない。取り出したのはエンヴィアイ、紫の銃身に銀色のブレードを輝かせて、再び寄り集まろうとするように動き始める岩の群れに向かって一気に電撃を放つ。 ばつばつばつばつっ! 電撃に砕かれ跳ね飛ばされ、なお閃光の網に搦めとられて岩が弾け飛び砕け散っていく。 「っっ!」 閃光と爆発に顔を歪めて目を背けつつ、その隙に、ディーナは叩き付けられた衝撃からようやく起き上がったハーデに駆け寄った。 「ハーデ!」 「0世界の中にわざわざ作り出されたチェンバーだ…ひょっとするとここは、先人が鍛錬のために残した施設かもしれない」 ハーデが虚ろな瞳で小さくつぶやく。 チェンバーに入る直前、ジャンガ・カリンバが、豊かに響く美しい歌でそれぞれの攻撃・防御・素速さを底上げしてくれていたおかげだろう、ハーデには見えたほどのダメージはないようだ。 むしろ、ダメージはこれまで堪え、しのいできた心にあるか。 「これが善意の残滓だとしても…縋りたい、赦されたいと思う私は間違っているか?! 力尽き倒される瞬間まで闘うことだけを考えて、死者の目に怯えず生きたいと考える私は間違っているのか?!」 飛び出した自分の行動も、それを引き止めたディーナの声の意味もちゃんとわかっていた、それでもなお飛び出さずにはおられなかった心の傷みを吐き捨てる。 「ハーデ」 がしゃあっ、がしゃがしゃがしゃっっ! 「キリが、ないなッ!」 背後ではファーヴニールが地面を蹴り軽々と飛び上がって、ばらばらのまま飛びかかってきては空中で合体し、蛇となって絡み付こうとする相手の攻撃を避けながら電撃で粉々に岩を砕く。それでもなお、砕片となった岩が執拗に集まって巨大な指先となって掴みかかるのを、今度はしなやかな銀色の鞭のような尾で跳ね返している。 動く度に華やかな音をたててきらきら輝くアクセサリー、ピアスの耳を飛んできた岩からかろうじて避ける、背けた首筋に汗が流れ落ちる。追い詰められているようには見えないが、劣勢は確実、それでもその頭の中では果てしなく続くこの戦闘を分析している。 (映像のような観客、過去の記録にある蛇……) 何よりこれが「チェンバー」であること…………竜刻の情報を引き出した? いや、何らかの「情報を再生する」チェンバーだとしたら……? (……考えたくないが……これは、見世物の処刑場か……?) 「冗談じゃない」 小さく舌打ちしたのは頬を掠めた岩が切り裂いた傷のせい、滑り落ちる温かな液体、だが、屠られるのは好みじゃない、とあくまで思考は冷静だ。 「む…」 ここに潜む何かに乗っ取られたように動きを止めてしまったハーデ、そこから離れようとしないディーナ、必死に攻防を繰り返すファーヴニールを眺めたジャンガ・カリンバが、筋骨たくましい長身の腕組みを解いた。 「面倒くせぇ」 蜂蜜色の体毛を微かに波立たせ、先だけ灰色の尻尾を神経質にひょいひょい動かす。緑の瞳は透明で鋭い。両手足と尻尾にトラベルギアの打楽輪をつけている。 司書の忠告に従い、手当道具を一式揃え、歌で仲間の守りを強化している。守護と回復の備えは十分だ。 だが、ここまでそれぞれに動きが散ってしまっていては守るに守れず、攻めるに攻められないのは道理、となれば必要なのは時間。 「頭の青い石は急所ではあるようだが」 決定打にはならないようだ。 「となると」 動きを止めるのがまず一番か。 ジャンガは打楽輪を鳴らし始めた。腕を振り、拍手を加え、脚を踏み鳴らす。足下の砂地が泡立つように震え、やがて空気が密度を増したように振動していく。 「う、うっ、っと、わっ」 今しもファーヴニールを包み込もうとしていた岩の蛇が一気に崩れ落ちた。巻き込まれかけたファーヴニールが鮮やかなステップで岩の雪崩から擦り抜ける。 続いて、ジャンガは地面に触れる。そこに満ちる強い力、深い力、豊かな力を確認する。チェンバーとはいえ、ジャンガに加護を与えてくれる大地の力は健在のようだ。 だがどこか脆くて弱い。底の底には繋がっていない、岩の蛇にも本来あるはずの大地の力はなく、どこか幻のような虚ろさが戻ってくるだけだ。 「これは…」 昔どこかで同じようなものを感じたことがある。それは聖なる建物として作られた場所だったが、仕上がってみると中に満たされるべき力が欠けてしまっていた。 「ふうむ」 視線を転じてもう一度崩れ落ちた岩の蛇を見つめ、加護をもとにジャンガの意志に応じよと命じたが、反応は希薄、ほとんどないと言っていい。 「幻ってことか?」 聖なる形を移しただけでは力はそこに宿らない。額の青い石は確かにもとの形にとっては意味があったのだろうが、目の前のこの形には虚ろな影でしかないのかもしれない。 「ならばこちらを使うか」 砂地に触れる、我が意に応じよ、そう願うだけで見る見る砂は壁となって立ち上がり始めた。 「おい! こっちだ!」 「くっ…」 ファーヴニールに向かって声を響かせる。高さと幅を増す砂の壁の意図を察して、ファーヴニールが最後の尾の一撃で、またもや立ち上がりかけた岩の蛇を跳ね飛ばして駆け戻ってくる。 「おい、あんたらもだ!」 「ハーデ!」 呼びかけにディーナがハーデの肩を掴んだ。 それをまるで振り払うように、そこから傷みが流れ込んだように、ハーデが崩されてもひくひくと寄り集まろうとする蛇を振り返る。 「ここなら…一生闘える? 悩む必要がない、戦う意思だけを身に宿したこの石と共に?」 甘くさえ聞こえるその声に、ディーナが激しく首を振った。 「ハーデ、違う」 一緒に、のたうち寄り集まる岩を振り向く。 「追憶の戦鬼、とでも言うべきかしら? ここに居れば、確かに一生戦える。永遠に続くコロッセオ。確かにキミの望みどおりの場所かもね?」 一瞬唇を噛んで、もう一度ハーデを覗き込む。 「でも、忘れないで。あれは木偶よ。キミが心を通わせられる生きたモノじゃない。キミの能力なら、すぐアレを倒せる筈。わざわざこんなことを言うのはね、これでも私がキミを気に入っているからなの、ハーデ」 ようやくディーナの声が届いたように、のろのろとハーデが視線を上げた。 「確かにここは、自己研鑽のための戦いの場なのかもしれないけど…キミがその思惑にどっぷり浸かりこんで、戻れなくなるのを心配してる。これが依頼だと忘れないで、ハーデ」 「おい!」 「戻ってきてよ、作戦会議しようぜ!」 「ハーデ!」 がしゃがしゃぐしゃぐしゃぐしゃっ。ぐ、しゃっ! 「っ!」 二人の足下を襲った岩の蛇に、とっさにハーデは瞬間移動で砂の壁の向こうにディーナもろとも飛び込む。 「で、結局のところ、あれは何だと思う?」 ぐしゃっ、ど、すんっ! がらがらがらっ。 砂の壁に激突して激しく砕け散る岩の音が響く。 「それと、あの竜刻」 ディーナが顔をしかめる。 「隠されて持ち込まれた竜刻、かしら? 0世界で暴走されても困るのよね。力自体に善悪がなくても」 「竜刻を刻めばどうなるか。チェンバー内での竜刻暴走がどの程度外に被害を与えるか。貴重なデータにはなるな」 あの石を破壊すれば事足りるのか。 がっしゃっっっ! ばらばらばらっ! 再び体を立て直した蛇が激突を繰り返す。 ハーデが一瞬、切ない視線で壁の振動を見守り、 「思うに…ここは主を失った自動式戦闘訓練施設ではないか」 あれ、は、そのために呼び出されて作り上げられ、ああして果てしなく闘いを繰り返すためだけにここに残されているのかもしれない。 「私たちは0世界以外にも生き残る道があるかもしれないことを知った。この前の軍人のように。ここしか生きる術がないから、という緩い結束が壊れようとしている。その象徴が、疑問が…ここにあるあの竜刻なんでしょうね。世界図書館への、疑義の象徴」 「あれには力を感じないな」 ジャンガが首を振った。 「竜刻じゃないんじゃないのかねえ」 「けれど世界図書館の資料では、竜刻だったはずだけど」 「そのことだが」 ジャンガは、資料にあったものであるならば、大地の力をそのまま感じ取れるはずだ、と続けた。 「あれは、こうやって闘うためだけに形だけ残された存在なんじゃないのかい」 「じゃあ、あの青い石も竜刻ではない?」 ディーナが首を傾げる。 「あの姿も自ら望んで存在するわけでもなく」 ジャンガが続ける。 「誰かが止めてくれるまで」 ファーヴニールが口を挟み、 「誰かが自分を滅ぼしてくれるまで、か」 ハーデが厳しい顔で立ち上がる。 「闘う意思でも、誰かの善意の残滓だとしても。あのままが良いと思えない。私のような死にたがりも居るからな」 ハーデがディーナに一瞬優しい視線を向けて、 「あいつを倒そう」 「きっちり永遠に、ね」 ファーヴニールが片目を閉じる。 「私…あれを制御している装置がないか、探してみる」 ディーナが元来た入り口を振り返る。 「もしここが、戦闘訓練施設なら、きっとどこかに全てをコントロールする場所があるはず」 そこを破壊するか、スイッチを止めることができれば。 「じゃあ、こちらは闘いを終息させよう」 がっしゃあああんっ! 一際激しい衝撃と破壊音と同時に、背後の砂壁が崩れた。 のっそりとその間から鎌首をもたげる岩の蛇は、初めて見たときよりも岩が粉々に砕け、立ち上がっている今もまた、集め切れないのかざらざらと細かな破片を崩れさせながら体を揺らせている。額の青い石もくすみ、ひび割れ、埃に塗れ汚れて、まるで岩の蛇でありながら、生身の巨大な蛇が幾度もの攻撃に自らの体を傷つけ、骨身を削り血肉を零れさせながら迫ってくるような痛々しさだ。 その姿の凄惨さに、ハーデの顔が歪んだ。堪えかねたように手を伸ばして叫ぶ。 「お前がただ戦いを求める意思なら、私と共に来い!」 作られた存在に魂と呼べるものはなくとも、幻のような意識はあるのか、もしあるなら、その借りそめの心でもいい、想いよ届けとハーデが声を高める。 「限られたこの空間では味わえない、さまざまな敵とステージでの戦闘を味わわせてやる…私の命が終わる瞬間まで!」 終わりの瞬間を共に迎えよう、満足と誇りのうちに、姿形は違えど、闘うことを宿命として生まれた、その存在の命の意味において。 ぎしゅ。 岩の蛇の動きが止まった。 次の瞬間。 ぎぎしゃうあああああああああ! 頭部が裂けるように開き、岩のきしる音が重なり絡み合って迸る、高く遠く、周囲にどよめく群衆の声を飲み込むほどに猛々しい叫びが響き渡った。 「おいおい」 ジャンガが低く唸る。 「力が、満ちたぞ」 虚ろな形だけの入れ物に、今、真実の、その形を意味する力が。 「ってことは、強くなったってこと、だよね!」 ぎゃうあああっっっっっ!!!! 「来たぞ!」 「よし!」 「何がよしッ?! やばいよ、絶好調ッ!」 満足げなハーデに思わずファーヴニールが突っ込んだほど、岩の蛇の動きは素早かった。叫びつつおめきつつ、次々に流れ込んでくる岩の奔流、とっさに飛び離れたファーヴニール、ジャンガ、ハーデの背後でディーナが身を翻して戸口に飛び込む。 「頼む、ディーナ!」 「わかった!」 ハーデの声に緊迫感が戻った。 入ってきたときに押し上げられたと覚えている。ディーナはそれが昇降機の一種だろうと察していた。 「ということは、この闘技場の下にも何かあるってこと」 哀しいかな、長年の逃亡生活で建物の構造や仕組み、基本構想などは少し探ればすぐにわかるようになってしまっている。数部屋あたれば、ここの主が何を意図して何の目的でその場所を構築しようとしたか理解できる。理解できれば、ありそうな部屋を推測し、その場所を推定していくのは難しくない。 「永遠に終わらない戦闘、周囲に画像の観客達」 もし処刑場ならば、周囲に偽物の観客を配置するより、本物の観客を招くものだ。同時に、万が一刑罰を受けるものが脱走を試みたときに阻止する設備も整っているはず。 だが、そういった『参加者』の逃亡を阻むものはなかった。 「それにここは……」 昇降機の横から降りていく細い階段を降りていくと、いくつかに仕切られた区画が見つかった。階段はまだ下の方にも続いているから、地下にもひょっとすると似たような闘技場があるのかもしれない。 だが、今目の前にあるのは、どう見ても休憩所のようだ。手前の区画にはテーブルや椅子、ソファやカウンターのようなものがあり、人の気配は全くないが、何か食べ物なども提供できていたのだろう。 入り込む時に水音を耳にしていたが、休憩所の奥の方を覗き見ると、手すりがついた四角い部屋のようなものが地下に彫り込まれている。側に似たような小さな空間がいくつかあり、それらは壱番世界にあると聞いた温泉とかプールのようなものに見えた。かつては水か湯がたたえられていたのかもしれない。 「……闘って疲れた体を休める……汚れを落とす……」 暗視能力があるディーナだからこそ視認できる施設、明かりは全くない。 「それと…」 次の区画に入ってディーナは思わず周囲を茫然と見回す。 壁一面、あるいは各種の棚に、ありとあらゆる武器が揃えられ並べられている。もちろん防具も別区画にぎっしり揃えられているし、着替え用らしい衣服もある。 その隣の区画は幾つものベッドとカートに積まれた包帯や布、カウンターの背後の棚には瓶や箱や小さな棚、どう見ても何かの手当を受けられるように準備されているように見える。 「武具の交換と……医療設備…?」 つまりここは、あの闘技場で心ゆくまで闘うための準備は全て整えられている場所だということだ。 「じゃあ、やっぱり訓練施設、ね」 ならば、あの闘技場も誰かが制御していなくてはならないはずだ。 突き当たって来た道を戻り、もう一度さっきの階段を見下ろし、その横に上へと繋がる階段もあるのに気づいた。 「うん」 支配者は上から見下ろすのを好むもの、この施設のコントロールもまた闘技場の状態を見なくては遂行できないだろう。 階段をゆっくり上がっていくと、すぐに上の階に辿り着いた。 開け放たれたドアがディーナを待ちかねているようにも、誘い込むようにも見える。いつもなら危険には近づかない、距離をとって逃げておくのが常道、だがしかし、今回に限り、近づかなければ逃げられない。 ドアを潜り、いくつかの小部屋を抜けて大きめの部屋に出てはっとした。 「ハーデ! ジャンガ! ファーヴニール!」 目の前の大きな窓に今まさに闘っている仲間が映し出されている。 砂の壁を体を捻って大破させた岩の蛇が、ぎしぎしとした叫びを上げながら、ファーヴニールに突進していく。軽い足取りで数撃かわしたファーヴニールの背中には艶のある羽根が生えている。それほど高く飛ばず、ぎりぎりのところを掠めて手にした銃で繰り返し電撃を放つのは、岩の蛇の陽動と牽制、ファーヴニールをこうるさい羽虫のように追い回しながら、岩の蛇は電撃に弾き飛ばされた尾をすぐに再生し、ちょうど舞い降りかけたファーヴニールの横っ面を叩こうとする。 「危ない!」 思わず声を上げたディーナの目の前で、ジャンガが咆哮を轟かせた。 『皮肉なもんだな』 岩の蛇がジャンガの声にまるで縛られたように動きを止める、そこに彼の苦い声が聴こえてくる。 『大地の力を取り戻したから、俺の声が力を持つってのか』 なるほど、それではさっきも咆哮を放って動きを止めようとしてくれていたのに、それが効かなかったのか、とハーデは納得する。 『なら、こっちもさっきより効くだろう』 ジャンガが再び打楽輪を鳴らす。フィンガースナップ、腕を振る、踊るような楽しげな動き、しかしその破壊力は段違いだ。しかも、振動が空気を伝わって岩の蛇を崩したかと思うと、ジャンガは闘技場の砂に触れた。 「ああ」 ディーナが思わず声を上げたほど、砂地がまるで液体のように激しく波打ち、あっという間に流砂と化す。崩れ砕けた岩の蛇の欠片が次々とその流れに呑み込まれ、地下に封じ込められていくようだ。 だが、それでもなおその地下から体を引きずり起こして再生しようとする岩の蛇、ファーヴニールの電撃も岩を砕き続けるだけで焼き尽くしきれない。 「どうしたら…あ…」 ディーナはその大きな窓の横にある小さな窓の一つに岩の蛇が映し出されているのに気づいた。額の石は青いはずなのに、その岩の蛇には額と胸の中央に赤い光が灯っている。 「これ、弱点…?」 のたうち再生し攻撃しようとする蛇に、思わず窓に駆け寄り手をついて叫ぶ。 「ハーデ! 額と胸よ!」 『ハーデ! 額と胸よ!』 闘技場にいきなり声が響き渡った。 「ディーナ?」 「額と胸ね、アイサー!」 どこからの声かと戸惑うハーデ、だがディーナの声の意図を察したファーヴニールはすぐに攻撃に入った。片手を竜変化させ、ロングコートを閃かせ、銀のアクセサリーを輝かせて岩の蛇の体を掴みながら一気に胸元まで駆け上がる。 「ちっ!」 出遅れたと舌打ちしながらハーデも瞬間移動し、とっさにジャンガが咆哮を放って一瞬動きの止まった相手の額の、青い石に光の刃を力一杯差し込み、微かに光った青い石が、光に溶ける。同時にファーヴニールの電撃が岩の蛇の胸の内側に眩い光を迸らせた。 次の一瞬。 がしゃああああああっ! 「やったあーっ!」 崩れ落ちていく岩の蛇は砂地に落ちて次々粉々になり消えていく。 「終わりか?」 ジャンガは緑の瞳を細めた。 「わあああああ!」 周囲の揺れ動く観客が一層華々しく歓声を上げる。 「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!」 「いやもう、終わったんだって! 勝利者なんだよ、俺達!」 ファーヴニールが周囲を振り仰いで訴える。 ところが。 「おい…?」 砂地の向こう、今まさに岩の蛇が消えた場所に、一人の少女が出現する。両手にきらきら光る銀色の糸がつなぐ銀色の珠を持って、赤い蝶の簪も鮮やかに。 「ちょっと待った」 あれって、ひょっとして。 「……」 少女は無言で銀色の珠を差し上げる。開いた口がぱくぱく動いたかと思うと、枯れ枝のような手が空へと珠を放り投げる。 「う、わっ!」 「見たことがあるぞ、あれも確か世界図書館の記録にあった」 インヤンガイで遭遇した幼い少女の暴霊の姿そっくり。 「でも、あの子ももうとっくに、くそっ!」 首を狙って飛んできた銀の珠をファーヴニールが弾く。 「システムが暴走してるんだ、ディーナ、どこかにスイッチがないか!」 それを探して切ってくれ。 『わ、わかった!』 「スイッチ、スイッチ」 ディーナは部屋を見回す。メインの大きな窓と、その隣にある弱点を示すらしい小さな窓、そこには今少女の姿ではなく、銀色の珠とそれを繋ぐ銀糸が映し出され、その銀の糸が赤く光っている。 「弱点は銀糸だからね!」 『わかっているが、すばしこくてっ』 飛び回る銀の珠はまるでファーヴニールを取り囲むように動くせいで、ファーヴニール以外が手を出せない。へたに攻撃をしかけると相打ち状態だ。電撃を放つ、だが逃げる、皮膚すれすれを掠め、一気に飛び去る、狙いがつけられない。 「もう少し頑張って!」 ディーナは必死に周囲を探した。窓の周囲には何もない。滑らかでつるりとした材質、でこぼこもないようだ。 「あっ」 そう言えばさっき窓に駆け寄った時に声が通じた。となると。 「これだ!」 画面を隅々まで見回して、弱点を知らせる窓の一部にいくつかのタッチパネルがあるのに気づく。その中の他よりも大きなものに触れた瞬間、 『ようし!』 『消えたぞ』 歓声が上がった。確かに大きな窓には空っぽの闘技場があるだけ、さっきの少女も銀色の珠もない。 「ハーデ! ジャンガ! ファーヴニール!」 みんな、無事? ディーナの声にそれぞれが、彼女がどこにいるともわからないのに片手を突き上げて合図してくれる。 胸に広がった温かな安堵。味わったことのない、その感情にディーナは戸惑う。サングラスの奥でなぜか涙がにじみそうになった目を必死に瞬いた。 「そうだ、他のは何だろう…」 次のパネルに触れたとたん、小さな窓の画面が変わって、さっきディーナが巡った場所の配置と施設の全景、それぞれの説明などが現れる。続いて、手前の壁がふいに口を開いて中から一冊のファイルを吐き出した。 「ファイル……ここの記録…?」 それによると、どうやらここは何者かによって作り出された戦闘訓練用の施設らしい。世界図書館に集められた資料から敵を再構成し、訓練用として再現できるのようだ。 「だから、岩の蛇や、暴霊の少女が出現したのね」 さきほどの闘いから考えると、それらは記憶はもたず、知性は再現されるがことばは話さない、倒されると消滅する……おそらくは外にも出られない、のだろう。 よって岩の蛇の竜刻も竜刻ではなく形だけのもの、さっきの少女も既に存在はしないのだが資料には残されているため、敵として再現可能ということなのだろう。 「でも、何のために、誰が」 こんなものを0世界に必要としたんだろう。 『ディーナ!』 思考はファーヴニールの声に遮られた。 大きな窓をのぞくと、きょろきょろしながらファーヴニールが手を振っている。 『もう終わったから、戻っておいでよ!』 その頬には既に手当がされており、ハーデもジャンガが体の状態を確認しているようだ。 『私でも、手を伸ばせるんだな…初めて理解した』 手当を受けているハーデの戸惑いを含んだ、それでもこれまで聞いたことのない柔らかな声が響いてきた。 『ディーナ?』 ふいとハーデが空中を見上げてくる。 「なに?」 『なぜさっき、私を庇った?』 青い瞳は真剣だ。 「……私たちは知らないことが多すぎる。そして誰もその疑問に答えられない」 ディーナは一瞬周囲の設備に視線をさまよわせた。 「………それでも出来れば善き存在でありたい、仲間を助けたい…そう願うことに、何の不思議があるかしら」 『……弱ければ殺される。強ければ守ることを強要されて闘わされる』 独り言のようにハーデはつぶやき、ゆっくりと俯く。 『初めてだったんだ…弱いくせに私を庇おうとした相手は。だから私は…変わりたい、変われるかもしれない』 ジャンガが静かにハーデの腕に巻いた包帯の上から祈りを込める光景に、ディーナは微笑む。 そうだ変わることができるのかもしれない、ディーナもまた。 『よし、皆御飯食べに行こう御飯!!』 ファーヴニールが機嫌よく大声で叫んだ。 『頑張った人にはとびきりおいしい御飯!』 ハーデが苦笑し、ジャンガが笑い出す。嬉しそうな顔にディーナの気持ちも浮き立つ。 そうだ、戻ろう、そして皆で御飯を食べよう。 「今戻ります!」 ディーナはファイルをしっかり抱えると、急いで仲間のもとに駆け戻って行った。
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