「お花見行きたーーーい!」 ある日のターミナルで、世界司書・エミリエが言った。「お花見と言いますと……壱番世界の?」 リベル・セヴァンが資料から顔をあげて応じた。「そう。サクラの花ってキレイなんだって! それからお弁当に~、お団子に~」 どうもエミリエは誰かにお花見の話を聞くか本で読むかしたらしい。 しかしながらお花見の本場、壱番世界はニッポン列島においても、今年は桜の開花が早く、すでに盛りを過ぎつつある地域も多い。いやそれ以前に、ロストメモリーたちがターミナルを離れて壱番世界で花見ができようはずもないのだった。 ところが。「こいつぁ、どうすっかな……」 シド・ビスタークがやってきた。「どうかしましたか」「いや……、無人のチェンバーが見つかったんだ。広くて本当に無人かどうかはわからんので、それを確かめてから閉めちまえってさ。べつだん危険もなさそうだし放置してもよさそうなもんだがなあ……。こんな依頼、誰が受けてくれるもんかね。だいたい、何のつもりかしらんが、このチェンバーの中はサクラの樹しかありやがらねえ」 エミリエとリベルは、あまりのタイミングのよさにはっと顔を見合わせる。 かくして、無人のチェンバーの確認依頼――という名のお花見大会が行われることになったのである。「花見?」「花見です」「そして温泉か?」「温泉です」 世界図書館の一室にて。 司書のエリザベスとツーリストのゴンザレスは机を挟んで対面していた。 毎度の如く捕まったので、今度はどんな厄介事を押しつけられるのかと戦々恐々していたゴンザレスだったが、出てきた単語は実に平和的なものだった。「つーか、花見って何だ?」 さもありなん。世界が違えば文化も異なる。馴染みの無い言葉に疑問符を浮かべるゴンザレスに、エリザベスは一つ頷き、「私も初耳でしたので、詳しく聞いてみました。何でも、花を咲かせたサクラと呼ばれる植物の下に集い、宴に興じる風習があるそうです。特に散り際が美しいとされ、この宴の為だけに遠方から訪れる人間も多いとか」「暇人が多いんだな……」 つまりは、一種のガーデニングだろうか? 彼の知識では、その程度しか想像する事ができない。どちらにせよ、あまり縁の無い高尚な趣味のようだが。「宴ですよ、宴。酒池肉林って素敵な響きですよね」「おまえが言うと、卑猥な意味にしか聞こえないんだが……まぁいいか。で、チェンバーの調査も兼ねて、か」「はい。チェンバー内ではいたるところでサクラが花を咲かせており、おそらくはこの宴の為に作られたのだと思われます。わたくしから御提案させて頂くのは、小山の頂上付近にある巨木の下での宴です」 エリザベスの「予知」によると、同じ場所には温泉も湧いているのだとか。これまた、ニッポン国ではとてもポピュラーな存在なので、そこの出身者が関わっている公算が高い。 ゴンザレスの顔に笑みが浮かぶ。「おぉ、温泉なら知ってるぜ。地熱で熱くなってる湖だろ? あれに入ると傷の治りが早いから、重宝するんだよなぁ」「では……」「おう、参加って事で宜しく頼まぁ」 気安く請け負うゴンザレスの顔を、青い瞳がじっと見つめる。「目立った危険は見つかっていませんが、何があるか分かりません。御注意下さい」「ん? おまえは一緒に行かないのか?」 チェンバーであれば、ターミナルの一部だ。そもそも、主催者の彼女が同行しないでどうする。 素朴な疑問に、彼女は何故か視線を逸らしながら、「わたくしは諸事情がありまして、現地にて合流致します。……御武運を」(どうやら、一波乱ありそうだな……) 第六感が警鐘を鳴らすのを感じながら、ゴンザレスは胸の内で覚悟を決めるのだった。● そして当日。 花見、そして温泉を楽しみに集まったロストナンバー達を前に、エリザベスは厳かに告げた。「現在、この温泉に向かってきている不審者がいます。他に何も無い状況を考えますと、入浴する皆様のあられもない姿を覗くつもりではないかと。――速やかに迎撃準備を。また、罠の心得のある方はお手数ですが御足労願えますか? こちらで、敵の侵入ルートを予測してみました」 ざわつく声を聞きながら、彼女は桜の花びらが乱舞する青空へと想いを馳せる。(温泉への道のりは、長く険しいのです。皆様、どうか御無事で……!) その手に握られた本の背表紙には『お約束大百科』の文字。その中にこんな一節がある。『温泉、特に露天風呂は覗くものなり。 一般的に、異性に裸を見られる事に抵抗を持つ人間は多いが、かといって全く興味が無い素振りをされるのも、「自分には性的な魅力が無いのか?」とプライドを傷つけられる要因となる。 そこで、こんなお約束が誕生した。 覗く事、覗かれる事が暗黙の了解となり、湯煙の中でまさに裸の付き合いが展開される。奥手でなかなか自分の感情を表現できない者も、これを機会に意中の異性と親しくなる事もあろう。 我々の民族性や社会性に根差した、実に奥深いお約束と言えよう。 補足として、このお約束での作法を記す。 覗かれた側は、「キャー! ○○さんのエッチー!」と悲鳴を上げて、桶や石鹸を投げつけるのが礼儀とされている。熱湯を浴びせるのも良いだろう。 覗く側は、そんな反応をされたらそそくさと退散するのがベター。決して強要してはいけない。「恥」の文化もまた、大切にすべきものなのだから』
●遥かなる頂へ ぴ~ひょろろ~ 空の彼方でくるりと円を描いたのは。 「ま……まさか、伝説の『始祖鳥』でしょうか!?」 いーえ、ただのトンビでした。 「……残念です」 空を見上げた藤枝 竜の眉毛が、落胆を表すようにハの字に曲がった。 「それにしても、長い間忘れられていたチェンバーにはとても見えませんね」 彼女と肩を並べて歩いているのは、ベアトリス・アーベラインだ。軽快な足並みに合わせ、高い位置で結ばれたポニーテールが揺れる。 陽光の下に映える黄金色の輝きに「綺麗だなぁ……」と見惚れながら、竜も改めて周囲の風景に目を移す。 「そうですね。意外とちゃんとしていて吃驚しました」 吹く風は柔らかく、はらはらと散りゆく桜の花弁の間を蝶が舞う。どこかに小川でも流れているのか、遠くせせらぎの音が聞こえてきた。 その一方、人工的な建築物は一切無く、人の住む場所特有の匂いもしない。 最初からこうだったのか、それとも長い時を経る中でこうなっていったのか。 今やそれを知るのは、このチェンバーの作成に関わった者達だけであろう。彼等が存命しているのか、また生きていたとして、今もロストナンバーとして存在しているのかは定かではないが。 穏やかなのは良い事だが、道が無いというのは意外に厄介なものだ。二人して草を踏み、時には茂みを掻き分けながら進んでいるが、それでも軌跡はぐねぐねと蛇行する線を描いていた。 (でもそれも、待ってくれている温泉の事を思えば……!) 熱い想いを胸にギュッと拳を握る竜。人知れず滾々と湧く温泉なんて、燃えるものがあるではないか。彼女の場合、本当に「燃えて」くるのだが。 熱された空気がもわっとベアトリスの方まで押し寄せてきたが、彼女もまた、それを意に介さないくらいの決意を秘めていた。 (また、世刻未先輩ったら私を置いて温泉なんて行っちゃうんですから) どうやらこのチェンバーと花見の情報は各所に広まっているらしく、彼女が職場の上司を誘おうとした時には既に出発されてしまった後だった。それならそれで、逆に誘ってくれれば良いのに。やはり自分の事は仕事上の部下としてしか見てくれていないのであろうか? いやいや、ここで怖気づいては駄目である。 (やっぱり、二人の距離を縮めるには温泉なんですよ! 湯煙と水着と混浴なんですよ!) 「イタいにゃー」 「え!? い、イタいですか? でも、今は女の子だって積極的になっていかないと……」 って、思わず恥じらってしまったが、どこの誰!? 隣の竜を見るが、彼女は慌てて首を横に振った。 「ご、語尾に『にゃー』だなんてつけませんよ、私!」 ツッコむところはそこかい。 声の主を探して周囲をぐるりと見渡すと、再び「イタいにゃー」と声がした。台詞ばかりか、細かい抑揚まで全く同じだ。これは…… 「――見つけた」 草で覆われた地面を探ると、マウスパッドくらいの大きさの板が見つかった。そこからコードが延びて、頑丈なケースに収められた機械に繋がっている。ICレコーダーか何かだろう。踏むと再生される仕組みになっているようだ。 試しに、改めて板を踏んでみる。 「痛いにゃー」 冷静に聞いてみると、多分こっちのニュアンスで正解だろう。 カチッ 「痛いにゃー」 カチッ 「痛い カチカチカチッ 「いたいたいた 「あ、あのー、ベアトリスさん?」 「――あ。ご、ごめんなさい。可愛い声だなぁ、って思って」 思わず夢中になってしまった。 意図は不明なものの、何故こんなトラップのようなものが? 「温泉に入る為には障害を越えていかなければならない……ロストナンバーの訓練施設だったんでしょうか?」 だとしたら、俄然燃えてきた。 「さあ、進みましょう!」 張り切る竜とは対照的に、ベアトリスの表情は冴えない。 (先輩、大丈夫でしょうか……) ともあれ、先に進まなければいけない点は竜と同意だ。 周囲の地面に注意を払いながら、彼女は決意も新たに一歩を踏み出した。 その頭上から迫る影があるとも知らずに。 さわわっ 「「ふひゃあぁぁぁっ!!」」 春の野山に、乙女の悲鳴が共鳴した。 「……何やら騒がしいですけど、大丈夫なのでしょうか」 遥か彼方の空より届いた声に、アルティラスカは不思議そうな面持ちで小首を傾げた。 隣に立つデュネイオリスはすっと目を細めると、 「……爆発音も無かったし、血の臭いもしない。命の危険を伴うようなものではないだろう。大丈夫だ」 と、落ち着いた声音で断言した。 「そうですよね。こんなに綺麗な景色なんですもの。暴力は似合わないです」 自分自身に言い聞かせるように言葉を紡ぐアルティラスカに、デュネイオリスは大きく頷いた。 (しかし、何かトラブルが起こっているのは確かなようだな) 顔に出せばアルティラスカ――アティを動揺させてしまう。努めて無表情を装いながら、心の内で気を引き締めるデュネイオリスであった。 そんな彼の見守る先で、アルティラスカは舞うように桜吹雪の中を歩いている。 「なんて綺麗なんでしょう……この世界の花々も活き活きしてますね」 ふと足を止め、ざらざらとした桜の表皮に手を当てる。祈るようにそっと瞳を閉じる様は物思いに耽っているようにも見えるが、実際には彼女の頭の中には、騒がしいくらいの『念』とも呼べる声が届いていた。 「彼等も、久し振りに人間に会えて嬉しいんですって」 「そうか」 デュネイオリスの口許が僅かに笑みの形を作る。その無邪気さにある人物を思い出し、遠い過去に想いを馳せた。 嬉しい、悲しい、好き、嫌い――純粋な感情は時に、悲劇を巻き起こす。幸いな事にここの木々は、長い間忘れられていても闇に堕ちる事は無かったらしい。それが単純に嬉しく、少しだけ哀しかった。 「あっ――」 風が吹く。 花びらが散る。 それはまるで歓迎の歌のように世界を埋め尽くすと、蒼穹へと吸い込まれていったのだった。 「ん、あれが『春の嵐』というものか?」 青空のキャンバスに彩りを添えるピンクの花弁を見上げながら、ジュリアン・H・コラルヴェントは軽く爪先で地面を叩いた。 「で、まだ出発しないのか?」 尋ねられたゴンザレス・サーロインは、背後を振り返って最後の同行者へと声を掛ける。 「お~い、ディガ~。もう気は済んだかぁ?」 そこに人の姿は無い。 あるのはひたすら深い一つの穴だけだった。 陽の光も差し込まない暗闇を覗き込めば、ツナギ姿の青年がシャベルを動かす手を止める。 「あ、ごめんなさい。もしかして、待っててくれました?」 「気にすんな。特に急ぐわけでもねぇしよ」 「ありがとうございます」 土で汚れた顔に人懐っこい笑みを浮かべた彼の名は、ディガー。彼が地面を掘っているのに理由は必要無い。人が呼吸をするのに、食事を取るのに、特別な説明が必要だろうか? つまりはそういう事だ。 「桜の木の下には色んな物が埋まっていると聞きますし、もしかしたらここでも温泉が出るかと思ったんですけど、上手くいかないですね。出てきたのは油でしたよ」 「「何ィっ!?」」 さらっと放たれた一言に、二人は穴の縁に群がって驚愕の表情を浮かべた。まさかの油田発見!? 「上手くいかねぇどころか、大成功じゃねぇか、そりゃ!」 「とりあえず、もっと掘ってみろ!」 「は、はい」 が、それ以上掘っても石油が湧き出る気配は無く、延々と土と岩が続くのみであった。 「ごめんなさい、時間を取らせて。先に進みましょうか?」 充実した表情で汗を拭うディガーとは対照的に、とぼとぼと重い足取りで歩く残りの二人であった。 「地面から出る油って奴は、壱番世界じゃ高く売れるんだろう?」 「らしいな。まあ、貴重だから高値がつくんであって、この結果は当然と言えば当然か」 「くそー、こうなったら意地でも極上の温泉に入ってやるぜ!」 「全くだな」 妙な意気投合を見せる二人に、ディガーは目を点にするばかりだ。入浴よりも掘る事の方が彼としては重要なのだが、それを言えば二人のやる気に水を差してしまう気がした。 「それにしても、いい天気ですね」 雲一つ無い青空へと視線を向ける。彼からすれば「雨に邪魔されそうにない、絶好の掘削日和」という意味合いで言ったのだが、同行者達は別の意味で同意の頷きを返した。 「しかも、こんな昼間から温泉でくつろげるんだ。贅沢な話だよ」 花見酒の準備もしているしな――肩から提げた鞄を示し、彼にしては珍しく大きな笑みを浮かべるジュリアン。その心中はもう待ち切れない、といったところだろうか? ゴンザレスも「うんうん」と頷くものの、改めて自分達の格好を見ると、冗談めかしてこう漏らした。 「しっかし、野郎三人ってぇのも色気が無ぇな。安酒でも、美人にお酌して貰えりゃ極上の美酒に様変わりするんだがなぁ」 見るからに牛にしか見えないゴンザレスの言う「美人」……? 思わず、ダイナマイツな体型をした雌牛を想像してしまうディガーとジュリアンである。 「僕としては、男だけでのんびりしたいところだ。女性に関わるとロクな事が無い」 シュールな想像を振り払うジュリアンの脳裏に新たに浮かぶのは、元居た世界の記憶だろうか。心なしか青ざめた顔でぶるっと身震い一つ。その背中をゴンザレスが豪快に叩く。 「なんだなんだ、だらしねぇなぁ。――ディガーはどうだ? 興味津々なお年頃だろ?」 いきなり水を向けられたディガーはしどろもどろになりながらも、 「え!? いや、う~ん……。――あ、でも、普通は男女別に入るんじゃないんですか? ゴンザレスさんが言うようなのは無理っぽいと思うんですけど」 「そういやそうだったな。人間ってぇのは妙な習慣を持ってやがるぜ」 渋い顔になるゴンザレスを横目に、安堵の息一つ。この手の話題は苦手というか、考えた事が無いというか……それよりも大事なものがあるのだから仕方がない。もちろん穴掘りの事なのだが。 「――あ」 「おう!?」 地面を見たディガーが違和感を覚えるのと、ゴンザレスが何かに蹴躓いたのは同時だった。 半ば大地に喰い込むようにして張られていた木の根がうねうねと蠢くと、まるで自ら意思を持っているかのようにゴンザレスの足を引っ掛けたのだ。 意気揚々と進んでいた彼は勢いそのままに宙を舞い―― 「のわっ!?」 着地した瞬間に口を開いた落とし穴の中へと消えてしまった。 「「……………………」」 見事なまでに流れるような展開に、残された二人は思わず顔を見合わせてしまう。 「……さて。尊い犠牲に涙しつつ、先を急ぐか」 「助けろよオイ!」 穴から這い出してきたゴンザレスの怒鳴り声に、ジュリアンは明後日の方向を見て口笛を吹いた。 一方のディガーは、安堵の表情で胸を撫で下ろしている。 「良かった、生きてて」 「お前さんも、さり気無く酷い事言うなぁ……」 改めて、三人で落とし穴を覗き込む。 「結構深いな」 「でも、底は柔らかかったんだぜ。おかげで怪我せずに済んだんだけど、罠にしちゃ妙だよな?」 「掘ってみれば分かるかも」 「「やめい」」 いそいそとシャベルを構えるディガーに、ジュリアンとゴンザレスの声がハモった。自分達は一刻も早く温泉に入りたいのだ。 「とりあえず、警戒はしておいた方が良さそうだ――な!」 ジュリアンが身をよじる。地面に注目していた彼等の頭上から襲い掛かった物体は彼の頬をかすめると、残りの二人のうなじへと炸裂した。 ふわっ 「あふんっ」 「気色の悪い声を出すな!」 ゴンザレスの気の抜けた声に、ダメージを受けたのはむしろジュリアンの方だったようだが。 「……モフトピア?」 木の枝の先に結び付けられたふわふわの毛玉を確認して、ディガーが眉をひそめた。地面のトラップで視線を下に向けたところで上から攻めるとは見事なコンボだが、子供の悪戯じみた中身は何なのだろう? いや、それよりも―― 「……誰かいる?」 その事が気掛かりだった。無人のチェンバーだと聞いていたのだが。他の花見客がこんなもの仕掛けるはずが無いし…… 首を傾げるばかりの彼の耳に、山頂からは風に乗って愉しげな笑い声が届き始めていた。 ●混沌の温泉郷 のんびりと山肌を歩いてきたアルティラスカとデュネイオリスを出迎えたのは、深々とお辞儀するエリザベス・アーシュラの姿であった。 「お疲れ様でした」 「あら、エリザベスさんは先に着いていたのですね」 「はい。――道中、変わった事はありませんでしたか?」 探るような視線に、デュネイオリスは事実だけを端的に告げる。 「いや、特に何も無かったな。道は少し険しかったが、その分じっくりと花を観賞できたしな」 「……そうですか」 何で残念そうな顔をする? そして、何を手帳に書きつけている? 気にはなったが、次の一言で思考は切り替わった。 「人も集まっていたので、お花見は先に始めてしまいました。飲食物には余裕がありますから、ごゆっくりお楽しみ下さい」 「温かい水が湧いているのでしょう? 私、初めてなのでとても楽しみにして来たのですよ」 瞳を輝かせたアルティラスカが胸の前で手を合わせた。デュネイオリスもあからさまには表に出さないが、温泉なる存在を知って事前に下調べしてきた程である。 「アティ、折角だから一緒に入ろうか」 「えぇ、そうですね」 会話だけ聞いていれば温泉地のラブラブカップルかと言わんばかりだが、実際の二人を見れば、その関係はむしろ子育てを終えた夫婦のような印象を抱くだろう。 「男女が一緒に入る場合は、この『混浴』というスペースを利用するらしい。――と、その前に着替えか。作法とはいえ、ややこしいものだな」 デュネイオリスが準備したと思われるそれぞれの荷物を手に、「それでは後で」と脱衣所へと向かう二人。暖簾をくぐると、先客達の喝采が巻き起こった。きっと派手に歓迎されているのだろう。 エリザベスが何とはなしに女性用の脱衣所を覗くと、 「えっと……あ、ここを結べば良いのですね?」 あられもない姿で水着と格闘しているアルティラスカの姿があった。あまりに危なっかしい仕草に、水着の文化を持つ世界の出身者達がああだこうだと手伝っている。無事に着用できたところで、今度は髪形に話題が移ったらしい。「やっぱりポニーテールとうなじが正義!」、「一房にまとめて、肩から胸元に垂らすのも捨て難い」等と、実にかしましい限りだ。 (これが、いわゆる一つの『ガールズトーク』なのですね) ふむふむと頷きつつ、手帳にメモを取る。そうこうしている内に、アルティラスカの用意は整ったらしい。 「凄い湯気ですね」 出来上がったのは、豊かなプロポーションをビキニで申し訳程度に隠した魅惑的な姿であった。しかも色が黒だったりするのだから、同性から見てもかなり過激だ。結局、髪はアップにするには量が多過ぎるという事で、後ろでまとめた上で、お湯に浸からないよう団子状にくるくる巻いてしまったようだ。 それにしても。あの様子では水着の存在すら知っていないようだったし、このチョイスはまさか、デュネイオリスの趣味なのだろうか……? 一同が色んな意味でざわつく中、お湯の縁へと進み出た彼女は―― 「それでは、失礼します」 お湯の『上』を滑るようにして静々と歩いた。 「御身渡り……!?」 「御身渡りだ……!」 「……うん、湯は歩くものじゃないらしいぞ」 こちらはトランクスタイプの水着に身を包んだデュネイオリスが、そっとツッコんだとさ。 続いて、がさがさと茂みを割りながら現れたのは。 「とーーーちゃーーーーーく!!」 「ひ、酷い目に遭いました……」 何だか随分とくたびれたように見える竜とベアトリスだ。 エリザベスは先の二人にしたのと同じように、深々と一礼する。 「お疲れ様で――」 「あ、エリザベスさんもお疲れ様です温泉ってここですか? ここですよね!? もう皆さん入っちゃってるんですか私も負けてられませんねヒャッホーーーーーイ!!」 ざっぱーーーーーん まくし立てながら脱衣所へと突撃し、服が宙に舞ったかと思えば、次の瞬間には盛大な水柱――この場合はお湯柱で良いのだろうか?――が起こった。それを見届けると、エリザベスはベアトリスへと向き直る。 「お疲れ様でした」 「あ、いえ。わざわざやり直さなくても……」 それより、今の流れで全く動揺しないというのはどういう神経なんだろう――流石に面と向かっては訊けず、ベアトリスは言葉を濁らせる。 「道のりは厳しかった御様子で」 「そう、それですよ、それ! 一体どうなっているんですか? 変な毛玉みたいなのにはくすぐられるし、子供だましかと思ったら地雷まで仕掛けてあるし……!」 まあ、後者は警戒していた事もあって解除したのだが。問題は毛玉だ。思い出すだけで顔が赤くなる。得も言われぬ感覚に、竜と二人して変な悲鳴を挙げた事は、お互いに墓場まで持っていこうと誓い合った乙女の秘密なのである。 必死に訴える彼女に、エリザベスは厳かに頷くと、 「それはそうと、ベアトリス様……上司の方は、残念ながら男湯に入られているようです」 訴えは華麗にスルーした!? だがそれよりも、告げられた衝撃的な事実にベアトリスは動揺を隠せなかった。 「そしてどうやら、混浴へ動かれる御様子は無い……どうされます?」 声をひそめるエリザベスの言の葉が、悪魔の囁きの如くベアトリスの心を絡め取る。 「貴女様は苦労されてここまで辿り着きました……相応の報いを受けて良いはずです。そしてここは温泉。少し覗くくらいは『お約束』として見逃されます。――さあ、今こそ男湯へと赴き、悲願の成就を――」 「せ、先輩の頼もしい胸板……!」 悪魔の誘惑にベアトリスが陥落しそうになったその時だ。 ドオォォォォォンッ 地面を揺るがす激しい震動と共に、何か巨大な塊が空へと打ち上げられた。正面出入り口であるこことは、温泉を挟んで反対側だ。 「うわ、僕知ーらないっと」 現れるなりそーっと男湯の方に消えようとするジュリアンだったが、意外に素早い動きのエリザベスに捕まってしまった。 「何か御存じなのですか?」 「えーっと。多分あれ、ゴンザレスさんです」 遅れて到着したディガーが、どこか気まずそうにそう告げた。 事の経緯はこうだ。 三人は険しい山道と多数のトラップに悩まされながらも、順調に進んでいた。地中に仕掛けられたものに関してはディガーが専門だし、ジュリアンはジュリアンで持ち前の身軽さと念力を駆使すれば、大抵の危険は乗り越えられる。 が、面白くないのがゴンザレス。ストレスばかりが溜まって、あっさりと限界点を突破してしまったらしい。 「『上等だゴルァ!』とか言って、僕でも追いつけない勢いで走っていったな」 そう語るジュリアンの目は、どこか遠くを見るように生温かい。 後を追うのは諦める事にして、二人はその後も協力してここまで辿り着いたのだ。 「向こうは女湯ですよね? ぼくが近づくわけにもいきませんし、向こうで温泉掘ってますね?」 「そういうわけで、事情説明終わり。僕も温泉に入らせて貰うぞ」 何とも言えない表情のベアトリス、そして何故かガッツポーズをしているエリザベスを置いて、二人はそれぞれに去っていった。 「うおっ、異様に汗臭い!? そして何でポージング!?」 「FU~」 男湯の方からジュリアンの悲鳴が聞こえた気がするが、エリザベスは構わず一目散に女湯へと駆けた。期待に胸を躍らせて。 残されたのはベアトリス一人。騒ぎのおかげで道を踏み外すのは回避できたが、どうしたものか。 「せんぱ~い、どうしたらいいんですか~?」 もういっその事、正面突破で混浴に誘ってしまえば良い気がしてきたベアトリスの明日はどっちだ!? 「ぐおぉ……」 地面に落ちた白黒の未確認物体――ゴンザレスは全身を襲う痛みに呻き声を上げながら、身をよじらせた。視界が歪んで見えるのは、顔面を覆ったポリラップが熱で溶かされて張りついている為だ。 「流石の俺もヤバいぜ……」 正直、死ぬかと思った。 しかし開けた場所に出たという事は、トラップを乗り切ったという事だろう。そして鼻孔をくすぐる硫黄の臭い――間違いない、温泉だ。つまりは、ゴール地点! 「俺の勝ちだ……!」 痛みも忘れ、歓喜の声も高らかに立ち上がれば。 「「……………………」」 「……あれ?」 いくつもの冷たい視線が注がれているのに気がついた。ラップを強引に剥がして確保した視界に、見知った顔が飛び込んでくる。 「ここは女湯だ」 「え゛」 岩陰から顔だけを出した彼女の頬が上気しているのは、湯あたりなのか、はたまた別の理由からか? 思わず下を想像して真っ赤になるゴンザレスだったが、次の瞬間には一気に青ざめる事になる。 「ゴ~ン~ザ~レ~ス~さ~ん?」 「いや、これはデスね――」 言い訳しながら振り向いたゴンザレスの全身を、竜の放った炎が包み込んだ。手加減一切抜きの全力ブレスだ! 「のわあぁぁぁっ!」 再び地面を転がる彼に、誰かの特殊能力なのか、同じ顔をしたナース服姿が何人も群がって担架へと載せる。 「一名様ご案内ですー」 そしてそのまま混浴へと放り投げた。治療ではなくて廃棄処分らしい。 「おぉ、牛の丸焼きだ」 「狩りができないのは残念だが、これはこれで手間が省けて楽だな」 「やったね、今夜はごちそうだよ」 何やら不穏な声が聞こえてきているが。男湯のジュリアンは敢えて無視して盃を傾ける。 「癒されるなぁ。――おっと」 舞い落ちた花弁が一片(ひとひら)、盃の湖面を滑ってくるくると回る。 何だか飲むのが勿体無い気がして、彼はしばしその様子を楽しむのだった。 ●宴は永久(とわ)に 「ぼくが温泉を掘っている間に、そんな事が……」 褌姿で肩まで湯に浸かりながら、ディガーは伝え聞いた話に目を丸くした。 「本当にもう。覗きは悪です。成敗されて当然ですね! ――あ。これ、温泉卵です」 頬を膨らませて怒りを露わにする竜から卵を一つ受け取り、ディガーは頭を下げる。気にはなったが、ゴンザレスがその後どうなったかは怖くて訊けなかった。一緒に渡されたスプーンを使って、殻の中身を食べてみる。 「あ、美味しい」 半熟ゆで卵ともまた違う、トロトロの舌触り。硫黄の香りがそのまま味にも影響しているのか、調味料は不要なくらいだ。 「結局、あのトラップの数々は皆さんが覗き対策に仕掛けたらしいのですが……私達は何でそんな場所の調査を依頼されたのでしょう?」 と、これはビキニ姿のベアトリス。今は一人のようだが、結局上司との混浴はできたのだろうか? 「そ、そんな事はどうでもいいじゃないですか! それより、仕事の話ですよ」 「少し手違いがあったようです。皆様には申し訳無く感じております」 水を向けられたエリザベス――何故か竜とお揃いのスクール水着姿だ――はそう謝るが、それでもどこか腑に落ちないものは全員が感じていた。 「ま、細かい事はいいじゃないですか! 折角のお花見なんですし、楽しみましょう!」 沈もうとしていた場の雰囲気は、竜の一言で再び盛り上がりを見せた。歓声に獣の咆哮やら機械音っぽいものまで混じっているのがあれだが、これはこれでロストナンバー達にとっては見慣れた光景である。 「上質なお水ですね……これは心地良いです」 始めはおっかなびっくりだったアルティラスカも、今ではすっかり堪能しているようだ。彼女の髪の間から顔を出した花弁は、幾重にも連なってまるで鳥の羽を思わせる。それが今は、ゆっくりとリズムを刻むように上下に揺れていた。 「ずっと入っていたい気もするが、のぼせる前に上がらねばならないな」 盃を片手にしたデュネイオリスは、名残を惜しむようにその中身をきゅっと一息に喉へと流し込んだ。 だが、入ったり出たりを繰り返せばのぼせる危険もかなり回避できるというもので。 宴は陽が落ちても続き、誰が用意したのか篝火に照らされる夜桜と月の対比を楽しむ者も多かったとか。 誰かがポツリと漏らす。 「咲くも桜、散るも桜、か」 それはまるで、生きとし生ける者全てを表しているようで。 積み重ねる一瞬一瞬を胸に、夜の帳は賑やかに下りていった。 後日。 「お約束」なる文化を調べようと多方面へ工作したエリザベスの行いは世界図書館の知るところとなり、リベルによる厳しい「再教育」が行われたそうな。 エリザベスは日記にこう記している。 『世の中には自分が想像もしないような事象が数多ある事を思い知りました。こうした個人的な日記でも、詳細を記せば私の存在は朝露のように儚いものになってしまうので、全力で割愛。ごめんなさいもうしません。 ●』 文末の染みは涙の跡を思わせるが、その理由が語られる事は決して無いだろう。 (了)
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