暗い水面を眺めおろして、アランはそのゆっくり揺れる様を眺めていた。ジャンクヘヴンの陸から見る海とは、また違う眺めだ。潮風は相変わらずだが、その風は生ぬるい……幽霊船が出るにはぴったりだ、と彼は苦笑気味に思った。「アラン、何見てるんだ? どうせならこっち来いよ!」「何か見えたのか?」 そうじゃないけどさと友人が呼んでいるのに船べりから踵を返してそちらへ行く。伝承にも名高い幽霊船を見に行こうぜと持ちかけてきた友人達は、いい年をしてすこしはしゃいでいるようにも見えた。無理もない。――自分だってこれから起こる遭遇を、どこか心待ちにしているのだ。「少し視界が悪いな……」「良いじゃないか、これも雰囲気ってやつだよ」 誰かの言葉に、辺りを見回す。……確かに、明かりが丸く輝き、霧がするりと立ち始めていた。いかにもな空気。ぞくりと背筋が冷えたのは、何のせいだろうか。「おい、どこ行くんだ? せっかくいい雰囲気なのに」「上着取ってくるわ。すぐ戻るから」 言い置いてアランは踵を返して船内の方へ戻った。さてと、上着はどこへやったか―― 荷物を積んでいる辺りを探っていると、何かの揺れが足元をぐらつかせる。少し首をかしげた彼の耳に聞こえたのは、どんという鈍い音と―― *「こりゃあひでえな……」「海賊船か?」 漂う船に人気はない。日差しの下で操る者もなく漂流していた船は、地元の漁師に発見された。船に移ってざっと見回した彼らは、その惨状に嘆息した。実際の所、ブルーインブルーにおいて海魔や海賊船に襲われるということはそこまで珍しくはない。……それが簡単に、『ああまたか』で済ませられる様な類のものなら、良かったのだが。「ああ、みんなやられちまったようだな……なんか若くないか?」「ん? そうだなぁ……ボンボンみたいだし、観光だったのかもしれん」「――早く海軍の方に知らせた方がよさそうだな」 ああ、そうだなと応えた男は、ふと首を巡らせた。「どうした?」「いや、今何か音が聞こえた。――生き残りがいるかも知れない」「まさか。これだけやられて……」「いや、いたぞ! ……おい、お前立て――っ、大丈夫か!?」 小さくなっていた青年は、うつろな瞳で男を見上げ‥やがてそれが信じられないものを見る瞳になり、やがてぽつりとつぶやいた。「俺は――助かったのか?」 *「まずは、すでに起こったことからみんなに話そうと思う」 ロストナンバーを集めた金髪の司書……鹿取燎は、導きの書を開かないまま口を開いた。「ブルーインブルーで一隻の船が海賊に襲われ、ほぼ全滅の憂き目にあったんだけど、その中に一人、生き残った青年がいたそうなんだ。今は遭難した所の近くの海上都市で保護されているんだけど……名前はアランで、自分はジャンクヘヴンのいわゆる良家の息子だと名乗っているらしい。海軍はそれで、皆に彼をジャンクヘヴンまで連れてきてもらえないかと話を持ってきたんだ」 言いつつ燎は導きの書をぱらりと開く。その上に指を滑らせながら、彼は続けた。「それが今までに起こったことと、海軍からの話。で、ここからは導きの書に出たことだ」 燎は一呼吸置くと、再び話しだした。「その、生き残った彼が狙われているんだ。……どうしてかははっきりとはわからないけど……どうも、『なにかを見た』せいらしい。だから迎えに行ってもらう皆には、彼の安全に関しても『狙われるかもしれない』事を考慮に入れて気を配ってほしいんだ」 導きの書に手を置いた司書は、小さく下唇を噛んで零すように言葉をつづけた。「なんだかはっきりしないんだ……白い霧の中にあるみたいに。ともかくどこで狙われるかとかもはっきりしない状況だけど、引き受けてほしい」 気を取り直したようにぱたんと導きの書を畳むと、燎は繰り返した。「今回皆にお願いするのは、アラン青年を保護して、ジャンクヘヴンまで連れ帰ってくること。あと……彼の命が狙われているということに、注意してほしい」 それじゃあ、よろしくお願いしますと司書は頭を下げた。「――旅人達に、祝福がありますように」
「たしか、ここの建物って聞いたけど……」 預かってきた紙を片手に、日和坂綾はそう呟いた。彼女の黒髪を、潮風が攫う……ここは、ブルーインブルーの大海に浮かぶ海上都市の一つである。貴族の息子を保護して欲しいという依頼を受け、旅人達はここを訪れていた。ジャンクヘヴンから出た船がこの港に着き、ロストナンバー達はその青年……アランを船に乗せるために迎えに来たのだ。 「まずはアランに会ってから、ってね」 エルエム・メールが気合を入れるように頷いた。海賊に白い霧、とくれば、彼女には心当たりがあった。絶対アレだ。あいつらに決まってる! 桃色の長い髪が風を孕んで、ふわりと舞った。同じように、雪峰時光の黒髪も風になびく。 「たった一人生き残った青年、見てはいけないものを見てしまったために命を狙われる……な、何だかホラーでござるな」 「……海賊がただ顔を見られただけで生き残りを押そうとも考え難いが」 何を見たのだろう、と問うわけでもなく呟いて、サーヴィランスはフードを少し引っ張ってより目深にかぶった。ゴーグルと覆面に覆われた顔は、それだけで余計に見えなくなった。 「顔じゃないとなるとなんでござろう。……よ、よりホラーめいてはござらぬか?」 正直なところ幽霊が大の苦手でしょうがない時光は、持ってきたお守りの位置を和装の上から確かめつつ、息をつく。風に攫われかけた紅いマフラーを巻きなおして、ミトサア・フラーケンが考えるように結んでいた口を開いて、よし、と呟いた。 「じゃあ、ノックするよ?」 こんこんとノッカーでドアをノックすると、中から中年男性が顔を出した。 「君達は?」 「海軍から青年の保護を請け負ってきました」 ミトサアが言うと、彼はそうかとひとつ頷いて奥へ声をかける。さほどもしないうちに、一人の青年が伴われて出てきた。良家の出と言っていたか、顔もそれなりに品の良い作りをしている。その表情は、どこかいまだにおびえているようでもあった。 「あ……私がアランです。このたびは、よろしくお願いします」 言って挨拶する仕草は、育ちの良さを思わせる。そしてアランが顔を上げるかあげないかのうちに、エルエムが動いた。 「コスチューム、ラピッドスタイル!」 軽やかな宣言とともに、衣装の一部が彼女自身の手によって宙へ放りあげられる。それを追うように軽やかに宙へ舞い上がった彼女は、カラフルな飾り布と桃色の髪をひらりと潮風に躍らせると、自分で投げた衣装を蹴りあげた。その勢いで自身がくるりと一回転したかと思えば、ゆわんと大きく風を包んだ布を地面へ叩きつけるようにすらりと伸びた足を振りおろした。ぱさりと衣装が落ちた数瞬後に、自分もすたりと軽く地に降り立ってポーズを取る。そうして、半分口を開けたまま目を釘付けにされていたアランに、エルエムはにっこりしてみせた。 「こんな感じで、何かあってもやっつけてあげるから」 安心して! エルは最速最強だからと屈託ない笑顔を向けられ、アランはとりあえず半分に空いていた口は閉めることにしたらしい。 「す……すごいですね」 目をぱちくりさせているのを見計らって、綾はひょいっと手を伸ばすと、アランのほっぺたをつかんだ。 「ふひゃぅ?!」 「私は日和坂綾って言うの、ヨロシク~」 両頬をむにーっと引っ張ってから、放す。なかなか衝撃的な出迎えを受けてもう何が何やらという表情のアランに、時光が声をかけた。 「拙者は雪峰時光と申す」 「ボクはミトサア・フラーケン」 「私はサーヴィランスだ」 口々に挨拶されて、ようやくアランも落ち着いてきたらしい。表情も少し暗さがはらわれたのを見てミトサアは微笑んだ。 「ボク達が君をジャンクヘヴンまで護衛することになったから、よろしくね」 「はい」 こくりとアランが頷いたのに、エルエムが左手を差し出した。 「よかったら、エルと手、つないで行こう?」 「あ、えと……」 アランは照れたのか一瞬戸惑ったが、おずおずと右手でエルエムの手を取った。それをぎゅっと握り、エルエムは安心させるようににっと笑って見せた。手をつなげるほど近くに居れば、いざというとき庇ってあげられる。そしてなにより、まずアランに自分達が味方で信頼できる存在だとわかって、そして信頼してもらわなくてはと思ったのだ。 「では、行こうか」 ひとしきり場が落ち着いたのを見計らって、サーヴィランスが声をかける。それを合図に、一同は港へ向かって移動しだした。 「しかし……どうも嫌な予感がするでござるな」 小さく時光が呟く。同じように歩くミトサアがこくりと頷いた。何か殺気を感じるわけではない、けれども、何かそれの前兆にも似た感覚があるのだ。どこか異質な空気……と。 鋭い何かの飛来音とともに、かつっと硬い音を立てて小型の投げナイフが地面に突き刺さった。旅人達は一斉にアランを囲むようにして周りに視線を飛ばす。 「敵襲か!」 「大分手練れのようだな」 時光の言葉にサーヴィランスが応じて、ナイフへ手を伸ばして引き抜いた。その視界の中でとんっという軽い音とともに、覆面で顔を隠した男達が取り囲むように姿を現す。 「絶対にそばを離れないでね。無暗に動かないで」 ミトサアがアランに言い置いて、綾が肩のセクタンを腕に抱いた。 「エンエン、頼んだからねっ」 「……大丈夫、エルたちが守ってあげるから」 背筋の焼けつくような緊張感の中、先に動いたのは覆面の一人だった。片手に煌めくもの……ナイフを手にし、低い姿勢から切りかかってくる。それに雪崩打つように他の覆面達もいっせいに飛びかかってきた。 「火炎弾っ!」 足が届かなくとも火球は届く。エンエンを思いっきり突き出した綾の声が凛と響き、主の声に応えたセクタンが炎の弾丸を打ち出す。 「綾ちゃん、ここもカバーお願い!」 ミトサアが隣の綾に言い置いて一気に加速すると、覆面の一人に拳を打ちつけた。超加速で叩きつけられた一撃に身体があっさり二つに折れ、覆面は屑折れる。ミトサアの速度はすこしも衰えることなく、彼女は次へと向かう。アランをはさんだその対角線上では、サーヴィランスが拾いあげたナイフをゆらりと振った。 「このナイフは返却しよう」 強靭な腕が鋭く閃き、肩口に深々とナイフを埋めた覆面が呻きこそしないもののたじろいでたたらを踏む。その隙を狙って時光の腰から銀光が閃いた。居合で放たれた一撃に立っている事が出来なくなり、倒れる。時光はその一撃で停滞することなく、刀……風斬を油断なく構えると、ナイフを逆手に構えた一人を睨み据えた。普段は温和な青年の表情が、すらりと鋭利なもののそれに変わる。動きが止まったところに、肩口、足、わき腹と弾けるようにサーヴィランスの飛ばした礫が着弾し、どさりと倒れた。 「エルに追いつくにはまだまだだねっ」 とんっと軽やかに、ステップを踏んでエルエムが声を上げる。艶やかに舞っているようにしか見えない彼女が腕をふるうたびに、虹色の光がきらめいて覆面へと喰らいつく。そして、これでおしまいっと叫んで彼女が勢いに乗せた拳を打ち込むと、どさりと倒れた。 「何が目的かは知らないけど――」 言いながら鉄板の入ったシューズで相手のナイフを受け流し、その勢いで回転してそのまま膝を叩きこんだ綾は、自分の言葉にはっとした。何が目的? ――それは、アランに決まっている。ということは、こいつらをしかけてきた大元の人物が―― 目に見える敵が倒れた事でミトサアが止まってあたりを見回す。手近な一人に手を伸ばそうとしたところで、サーヴィランスが鋭く声をかけた。 「気をつけろ!」 はっと身を固くした所に、建物の屋根の上からぽんっと火のついた何かが投げ込まれた。もうもうと真っ白な煙が立ち、全員が動きを止める。ミトサアが即座にアランのそばに戻って、エルエムがアランの手を握る。潮風にほんの数秒と持たなかった煙幕だが、その数秒で十分だったらしい。 「――逃げられた!?」 綾が声を上げる。ほんの数瞬の間に、覆面達は姿を消していた。目を見張る速度の撤退に、エルエムが憤慨したように声をあげる。 「先に仕掛けといて逃げるなんて卑怯なんだから!」 「あれだけの数だから、そう遠くは無いと思うんだけどな……」 悔しげにミトサアが呟く。サーヴィランスが、彼女に応えるように頷いた。 「ああ、今はアランの安全が優先だ」 「しかし……奇妙な風体でござったな。アラン殿、大丈夫でござるか?」 「あ、ええ……」 今の一連の襲撃が自分目当てであった事を今更ながらに気付かされて、やや顔が青い。 「陸の上も気が抜けないってことだね」 気を付けるにこしたことは無いね、とミトサアが言い、その言葉に頷いてから時光は気を取り直すように声を上げた。 「まあ、気を取り直して港へ向かうでござるよ」 * 結局あれから後は何事もなく、無事船へ乗りこむ事が出来た。しかし油断はできない。なんといっても、ここはブルーインブルー。陸よりも海が主な舞台となる世界だ。船の中では、ミトサアの提案で、交代制で少なくとも一人はアランについていようということになった。誰もが気になってはいるものの、全員で付いて気を張り続けるよりは効率的だと思えたのだ。そして、今アランとともにいるのは、時光だった。 いざとなれば自分も駆け付けられるし、他の仲間もしばらくは近くにいると聞いた綾は、持ち込んだスケッチブックと色鉛筆を手に、手の空きそうな船員を探していた。ミトサアから聞いた仮説の話を思えば、船全体を味方と決めてかかるのも良くないだろうとは思うのだが、やる事がないなら積極的に情報収集へ出ようと考えたのだ。 「誰か探してるのか?」 「あっ、ちょうど良かった!」 年若い船員が通りかかったのを見て、綾はその腕をつかんで引き留めた。その手にスケッチブックを押しつけて、その上に色鉛筆を乗せる。 「実は、ガルタンロックとかロミオとかジャコビニとかの海賊旗……トレードマークが知りたいんだよね。知ってたら、描いてくれない?」 「え、海賊旗? まあ、いいけど」 訝しげに首を傾げた彼だったが、スケッチブックにさらさらと図案を描き込み始めた。 「っても、有名どころの旗が知りたいんだろ? ええと、こんなんだったかな」 おおむね間違ってないと思うぜ。と返されたそれには、いくつかの図案と言葉が描きこまれていた。波飛沫とイルカ、宝石で飾られた骸骨…… 「この宝石で飾られてる骸骨が、ガルタンロック?」 「ああ。んで、イルカの方はロミオだ。俺が知ってるのはこんなもんなんだが、これで十分か?」 「ありがとう」 礼を言って他の船員を探すが、流石に同じ船の乗組員だけあって大体知っている海賊旗も似通っていた。が、ひとつ新しい旗印を知っている者がいた。人魚が剣を持っているデザイン。 「これは?」 「“赤毛の魔女”だよ。……フランチェスカっていう女海賊がいるんだ」 結局収穫はそのくらいだった。今回おそらく襲ってきた犯人と思われるジャコビニについては特に得られなかったが、幽霊船の正体すらはっきりしてないからだろうか、と思う。スケッチブックを抱え直して、綾はアランのいる船室に戻ることにした。そろそろ交代だ。 一方ミトサアは、荷物などのために貸し与えられた部屋に自分とサーヴィランスしかいないことに気付くと、口を開いた。 「実は、綾ちゃんにも話したんだけど」 サーヴィランスが促すように頷くと、彼女は真剣な面持ちで続けた。 「アランは囮で、敵の本当の目的はボク達ロストナンバーを誘い出すことだと思うんだ」 「ふむ」 彼は頷くとしばし黙った。表情がうかがえないためにわかりづらいが、おそらく思案しているのだろう。 「幽霊船は本物の幽霊の船じゃなくてそれを装ってるって話もあるし――」 「それで、何か考えている、ということか?」 「うん。もし次に接触があったら目的を聞き出せないかと思って」 「突っ込むのは危険だと思うが」 実力を疑うわけではないが、相手は未知数だ。それに護衛と言う依頼を思うと、相手を深追いすることもあまり勧められない。すこし懸念をこめた声音でそう言われ、ミトサアは苦笑した。 「……実は綾ちゃんにもあんまり危ない事だったら賛成できないって言われちゃった」 ボクとしては無茶をしようって思ってるわけじゃないんだ、と彼女は続ける。 「もちろん、『可能なら』だよ。ただ、狙いがボクたちだったらこの船のなかでも、出来る限りの警戒をしなくちゃいけないと思ってるんだ」 「ああ。護衛する相手がいるのに護衛が倒れてては意味がないしな」 話は大体わかった。気をつけようとサーヴィランスは言って立ち上がった。アランの様子を見に行こう。あまり、ショックを受けていないと良いのだが。 「私は少しアランと話そうと思うが」 「うん。ボクはちょっと船内を見てくる」 綾が船内を歩いているころ、船室では時光がアランのそばについていた。船員と少し話して戻ってきたエルエムも一緒だ。またどこか不安そうに口をつぐんでいるアランの近くで時光はふと思っていた事を口に出した。 「しかし……アラン殿は幽霊船を見に船を出したのでござるな……勇気のある方でござる。その……幽霊に会うのは怖いとは思わなかったのでござるか?」 「え……? それは、別に……物珍しいかなとは思ったし。――今思えば、止めてればよかったのにとは、思うけど……」 答えた語尾は、消え入る。 「アラン殿……その、船が襲われた時の話を、出来れば聞きたいのでござるが……」 その言葉に、アランは何か悩むように視線を動かした。 「一体、あの時になにを見たのでござるか?」 「……」 「あ、怖くなるような話であれば、怖くならないようにかもふらーじゅして話して欲しいでござる。……その、拙者……ゆ、幽霊とかは苦手で」 時光が言うと、アランは少しぱちくりと目を瞬いたが、先ほどの言葉の意味もはっきり理解して、こわばった表情はほどけたようだった。しかし、彼は困ったように眉根を寄せる。その仕草に、時光は少し首を傾げた。 「話したくないのであれば、別に無理には――」 「いや、あの時、は……」 無理には聞かない、といいかけた時光を遮って、アランが口を開く。彼はまたしばらく黙りそうになったが、なんとか言葉を探そうとして、失敗したようだった。 「落ち着いてからで構わぬでござるよ」 「すみません」 アランが小さく息をついて顔を俯けたとき、サーヴィランスが部屋に入ってきた。奇妙に沈黙が落ちている部屋に内心首を少しだけ傾げ、サーヴィランスは言った。 「何か話の途中だったか?」 「いえ……その、自分が」 アランがぽつぽつ喋ったのに、サーヴィランスは大体を把握した。何か話せなかったのか、話したくなかったかしたようだ。――あまり無理はさせたくない、と思う。 「無理はしなくていい。何か話してくれる気があるのなら、話せることからで構わない」 友人達が殺されて、自分だけ生き残った現状。そんなアランの境遇に、サーヴィランスは同じように犯罪被害でただ一人生き残った自分をどこか重ね合わせていたのかもしれない。――やがて、ただ、あまり見てないのは事実なんです、とアランが言った。 「怖くて……ずっと隠れてたので。――かと言って見た、とも、思うんですが……」 ぎゅっと自分の手を握りしめたその指の関節が白くなっているのを見て、エルエムが口を開いた。 「実は、エルも前に見たんだ」 「――え?」 「海魔退治に来た時だったんだけど、突然霧が出て――」 「そうだ、霧……」 その言葉に、アランははっとした表情になった。 「霧が出て、肌寒いと思って上着を取りに船内へ行ったんです。それで、上着を探してるときに、何かが落ちるような音がして……」 そのまま彼の視線は怯えたように床の上を彷徨う。 「無理に細かく思いだそうとしないほうが良い」 気遣うようにサーヴィランスにぼそりと告げられ、アランは一度息をつくと続きを話しだした。 「がたがた言う音がしたから、どうしたって言って出ようとしたんだけど……叫び声、が聞こえて、戻ったんだ。それで、ずっと隠れてて……」 話しだすと、止まらなくなったのか、つかえる事はあっても止まることなくアランは話し続ける。 「音が聞こえなくなって、もういなくなったのかと思って覗いたら、船と足が見えて……」 「もしかして、足って、ボロボロのゾンビみたいな?」 「……はい、今思えば、そんな感じでした」 エルエムの言葉に、アランがこっくりと頷く。おそらくエルエムが以前遭遇したあの、偽幽霊船で間違いないようだ。そういえば、と彼は呟いた。 「荷はあらかたまとめたとか、一通り見たけどもういないとか話してる中で、片方が片方の事を、ジャコビニ船長って、呼んでたんです」 「ジャコビニ……」 その名前を聞いたことで狙われているのだろうか。いや、もっと大きな何かがある気もする―― 「ずっと隠れてて……明るくなって、もう大丈夫かもしれないと思って隠れてたとこからは出たんですけど……船室から出るのは、船の上を見るのが……怖くて」 そうしてずっと一人でいたところを、漁師に発見されたらしい。 サーヴィランスはそれを聞いて、ふむ、と呟いた。 「私の見立てでは、彼が狙われているのは、船を見たからではないかと思う」 海賊は顔を見られた程度で生き残りを付け狙うとは考えにくい。名前もしかりだ。彼らの主な行いは海上での略奪だが、それを隠ぺいするようなことはあまり普段ではないはずだ。それなのに彼を始末しようとしている。見てしまったものとはおそらく、船なのだろうとサーヴィランスは思っていた。霧の発生とともにあっさりと他の船に近付く能力は、ブルーインブルーの他の船を見るかぎり、一般的に無い能力だ。彼の考えではガンタータ兵の様な異世界人か……あるいは、こちらの方がより有力だが、ブルーインブルーに沈むというロストテクノロジーの類ではないかと思われた。 「船、でござるか」 正直幽霊ではなくて一安心した時光が、眉根を寄せる。アランも同じように難しい表情で視線を彷徨わせた。 「濃い霧の向こうで良く見えなかったのですが……」 自分が何か見たらしい、とは思えど、何を見たのかわからない。もどかしげな感覚に、アランは頼りなげにまばたきしたのだった。 夕食も何か混ぜられていないかをチェックしてからとり、アランも含めた一同は、今日の大体の申し送りをしていた。サーヴィランスの船説はたしかにありそうだが、肝心のアランが思い出せない以上、相手の情報をつかんだというには遠い。 「ま、いちばん早いのは襲撃して来たやつをとっちめることだよね!」 結局の所、エルエムのそのコメントが結論となった。 「霧が出たら気をつけようね、多分、前兆だと思うんだ」 ミトサアの言葉に、全員が頷く。――夜に備えて数人が仮眠をとり、綾はアランと二人で座って、船の揺れに身を任せていた。 「さっきも少し話したけど……キミたちを襲った、ジャコビニのこと」 「ええ……」 綾は床の木目の辺りを見ていたが、アランの方へ視線を移して頷いた。 「ジャコビニは……今、幽霊船を装った海賊船で暴れてる。ここだけじゃなくて、他にも事件があったの――それで、遭った人の話だとジャンクヘヴンに悪意を持ってるんじゃないか……狙ってるのかもしれない、って」 綾は言いつつ、アランの両腕をつかんでいた。 「悔しくない? 友達を殺されて。……私達のジャンクヘヴンを狙われて」 びっくりしたような彼に向って続ける。 「キミは多分、サーヴィランスさんが言ったみたいに船の何かを見たのか、もしかしたらトレードマークかもしれないし、今後の彼らの予定を聞いたのかもしれない。……それを、今すぐとかじゃなくて良いから思いだして、軍に伝えてくれたらって思う」 こくり、頷く彼に、綾は言葉を重ねた。 「そして……出来ればキミにもいつか、闘って欲しいと思う。友達のため、ずっと育ってきたジャンクヘヴンのため……キミ自身のために」 まばたきしたアランに、綾はほんの数瞬瞳をそらした。 「ゴメンね、ホントは今言う事じゃないって思うけど……今しか機会がなかったから。――泣く時間もあげられなくて、ホントにゴメン」 「いえ……俺の方こそ、頼りなくてすみません」 アランはしばらく黙っていたが、やがてそう口を開いた。顔は変わらずどこか悲嘆を秘めているが、その瞳は力を取り戻しているようにも見える。彼はきゅっと右手を見て握りしめると、続けた。 「遊びに行こうなんて言ってきたのを止めてればって、ずっと考えてました。……でも、これからは俺なりに何ができるか、考えたいと思います」 それに優しく頷いて、綾ははたと気づいた。 「……っあ、ゴメン! 腕」 「ああいえ、だっ、大丈夫です」 そういえば眠かったら寝ちゃっていいよ、と綾が言おうとしたとき、ミトサアが入ってきた。 「綾ちゃん、交代だよ。……少しでも寝といた方が良いよ?」 「うん。じゃ、あとはお願いね、ミトちゃん!」 そう言って綾が手を振ろうとしたときに、時光が駆けこんできた。 「霧が出てきたでござる!」 「本当?!」 慌てて駆け出す。仮眠を取っていたらしいサーヴィランスやエルエムもすでに甲板に出ていた。 あたりにはぼんやりとした霧が立ち込め始めている。視界の遠くの方から不意に白く染まり、それが急速に船を取り巻く。視界の悪さに船員達も寝ていたものまで起きだしてきて、船上が慌ただしくなる。 「こんなに霧の出る地域じゃないんだが……」 「――噂の幽霊船、か」 サーヴィランスが視線を走らせる。確実に何かが近づいてきていた。 「襲撃だよ! 備えて!!」 「やっぱり、この前と同じだ」 綾が船員達へ声を張り上げる。霧の中に鮮やかに溶け込む衣装を揺らしてエルエムが呟くと同時に、ミトサアが鋭く声を上げていた。 「――来る!」 霧が僅かに乱れて、幾つもの影が飛来した。ロープを使って、まるで朽ちた布をまとめたような姿がどさりと甲板に乗り移ってくる。きんっというぶつかる音とともに鍵爪が船の縁にひっかかり、ずるずると同じような風体の影が這い上がってくる。霧の中から、破れた帆と朽ちた甲板を持つ船の影がおぼろに現れ、それをゆらりと幽鬼めいて立ち上がるゾンビのごとき襲撃者に、時光はびくりと身をすくめ素早く懐からお守りを取り出すと翳した。 「っな、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏迷わず成仏!!」 「あれは……あの時と同じ……」 「アラン!?」 危ない、とエルエムが手を引いて侵入者たちを見回す。緊張していた表情のアランだったが、どこか安心したように唇の端を緩める。綾が駆け寄ってきて両腕を軽く上げ、戦闘態勢を取った。物も言わず定位置からの姿勢で襲いかかってくる襲撃者を、鮮やかに蹴り飛ばすと体勢を立て直す暇を与えず次弾を撃ち込む。腰の据えられたパンチによろめいたところへ、だんっという踏み込みの音が高らかに響き、勢いを増した綾の回し蹴りがあごを捉えて叩き飛ばす。次々降り立ってくる姿に、サーヴィランスが優美なS字を描く手裏剣を取り出すと、くるりと回した。銀の刃が彼の手の中で回りながら速度を増し、霧を裂きながら襲撃者たちのはるか向こうへと飛来していく。そして数拍遅れて、どぼん、ぼちゃんと水に沈む鈍い音が響いた。サーヴィランスがロープを切ったせいで、乗り移ってくる速度が鈍る。 「――あの時の幽霊船の連中だな!」 エルエムが突如張り上げた声に、場が揺らぐ。今までアランを狙おうと、彼目掛けて攻撃を仕掛けてきていた集団が、僅かに戸惑った様子を見せた。数人が振り向いた視線の先、母船の方に、一人の人物がいた。その表情は読めない……その顔は、仮面で覆われており、下の顔は全くうかがえない。彼は小さく頷くと、すぐさま踵を返して船内へと消えた。 ――加速は同時にして一瞬。 ミトサアが瞬時に一人へ距離を詰め、接近したことにすら近づいていないその身体に電撃を纏わせた左の拳を打ち込み、振り抜いた勢いでその身体は船の縁を超え海へ落ちていく。その一瞬の攻防になびくマフラーの紅が白い霧の中でくっきりと映える。そのマフラーは落ちることなく、ミトサアのさらなる加速に伴って再び風を纏った。 「コスチューム・ラピッドスタイル!」 凛とした宣言とともに、エルエムの色とりどりの衣装が弾けるように舞う。自ら目掛けて寄ってきた攻撃を踊るような軽やかなステップでかわす。まるで惑わすようにゆったりと揺れる桃色の髪とそれをくくる空色のリボンが霧のあいまいな色と溶けて幻想的ですらある。 「……怯えて損でござった!」 後もう少しで気絶するかもしれないところだった時光は、飛ばされてきたぼろの下がごく普通の人間だとわかると、即座に風斬を抜いて構え、襲いかかってきた一人を斬り伏せた。日本刀の美しい銀光が煌めき、霧の向こうの夜の色にも似た時光の黒髪がその動きに合わせてなびく。 「拙者にお任せあれ!」 アランのそばを固める綾とサーヴィランスに言い置くと、素早く駆け出し、端の方から斬り伏せ、あるいは海に突き落としてと獅子奮迅の動きを見せはじめた。白い霧の中で駆け、銀色の軌跡を閃かせる紫色の袴姿は嫌と言うほど目立ち、襲いかかってきたものを刃を合わせることで受けて流し、相手がバランスを崩したのを見て海へと突き落とす。サーヴィランスは相手の突きをかわすとそれをそっくり飛び越えるようにして死角に回り込んだ。船上ではあるが、移動する上での障害物と難度は大差ない。首筋に腕を叩きこみ、膝頭を腹に埋めて無力化して放る。そこから零れ落ちたナイフを拾って振り向きざまにはなった一撃は、背後から襲いかかってきた影に狙いたがわず突き立った。 加速したミトサアは、船がより近付いているのを見て取ると一気に速度を増した。近くにいる相手を捉えて自分の速度に誘い込みつつ、縁へ向かって駆ける。人間の体ではついていけない加速度に、相手が粉砕され、ものの一秒もかからず縁まできたミトサアは勢いよくそこを踏み切った。踏み切る直前、船への着地地点を計算して速度を僅かに落とす。真っ暗で何もかもを飲み込みそうな海の帯が一瞬だけ、眼下を流れ行く。重い音を立てて彼女が着地したのは朽ちた甲板……幽霊船の上だった。飛び移ろうとしていた船員達が一斉に襲いかかってくるのに、加速して数人を引き倒したり殴り飛ばしたりして振り払い、駆け出す。眼鏡の奥の瞳は、船長室を求めて素早く走る。 「あの船……」 相手の下あごへ目掛けてアッパーカットを放ち、ぐらりと揺らいだところで右足が横薙ぎの一撃を放つ。倒れた相手に小さく息をつく綾の後ろで、アランが不意に声を上げた。 「何?! どっかヘン?」 構えを解かず問い返す綾に、アランは続けた。 「いま、エルさんがいるところの向こうが……」 エルエムのいるところは探さなくても判る。まるで空中にステップでもあるみたいに跳ねて宙を舞い踊るかの如く闘う姿は虹の様な色を纏って、さらに華やかだ。本来ならアランに向かっていた分の幾らかの敵を引き受けて、翻弄している。彼女が空を踏むように中空で加速すると、それに呼応するように霧の薄白い世界の中に虹色の鋭いきらめきが輝いた。彼女の向こうには海を挟んで幽霊船が見えるが、特に何もない。……いや、普通にいくつかの荷を出して上から布をかぶせてあるように見える。 「あの時はこうじゃなかったんです! 今見て思い出した!」 「なんだって?」 サーヴィランスが手裏剣を再び放って振り向いた。 「……よくわからないけど鉄のからくりみたいなのが覗いていて、そこから煙が出てたんだけど……あれは、今思うと――」 アランの視線はいまだ晴れない霧を捉えていた。 「今思うと、あれは霧だったんだ――」 「……霧発生装置、か」 サーヴィランスが小さく呻いた。霧に乗じて現れるどころの話ではなく、その霧すら自分達で用意していたとは。気がつけば目に見えて襲撃者の数は減っている。無理に追撃などは考えずこの機に乗じて離脱を図るべきだと彼が口を開きかけたとき、どぼんという鈍い音が向こうの船から響いた。 船に乗り移ったミトサアは高速のまま船長室を求めた。船長がいたら、その仮面を剥いで素顔を見たかったのだ。ドアを叩き飛ばすようにしてあける。ここは違う。……普通の船とは幾らか違う作りをしてあるらしく、予想した位置に船長室は無かった。他を求めて駆けるが、せまくて思うように敵をかわせない。もう何人薙ぎ払ったかわからなくなったに、ふと向こうに霧が見えた。……船内に、霧? 確かに船内は幽霊船を装っているだけあって、外へ穴のあいている部分もある。しかしその霧は、外から入ったとは言い難い濃さだ。白い靄はゆったりと外へ向かい流れだしている。警戒して停滞したほんの一瞬に、数にモノを言わせた船員達にいっせいに襲いかかられてタイミングを崩し、気がついたときには宙を泳いでいた。おそらく先ほど見た外壁が崩れている所から放り出されたらしい。 鈍い音とともに、海水が身体を打つ。水面から顔を出したミトサアは、水面に拳を叩きつけた。夜の暗い海の飛沫が、ばしんと音を立てて飛ぶ。 「――お前の本当の狙いは何だ! 何を企んでいる?」 * 夜が明けて、船はまた穏やかに航行していた。気は抜けないが、もうあと少しもたたないうちにジャンクヘヴンだ。 あのあとの展開は凄まじいものだった。……と言っても、速度がだ。船にミトサアが飛び乗ったことで不利を悟った幽霊船の方が、あっさりと退却して逃走を図ったのだ。――その素早さは、むしろ不気味なくらい。夜が明ける前には、残党を片付けてまた元のように航海ができるようになったのだが、疑念や不快感は残るものとなった。 各地で突如霧とともにあらわれ略奪を働く海賊船は、仮面の男……ジャコビニの率いる海賊団でほぼ間違いないのだろう。霧を作り出す船に乗る、素顔どころか目的すら隠した、仮面の男―― あるいはあの撤退は、彼を始末する理由がなくなったからにも見えなくはないな、とサーヴィランスは思いつつ、船の縁から朝日を浴びているアランの方を見やった。エルエムと並んで見えてきた小さく見えるジャンクヘヴンのほうを見遣って何か言っている。と、綾とミトサアがやってきて、眺める人数が四人に増えた。 「何見てるの?」 「あっちに見えるのがジャンクヘヴンだって。ほら、どんどん近付いてる」 ミトサアに話しかけられエルエムが指さした先には、たしかにぐんぐんと近づいてくる海上都市の姿がある。朝を迎えて、活気づいている時間だろう。 「あっちについたら、軍の人にキミを預けることになるけど、軍の人にもちゃんと伝えてね」 綾が言ったのに、アランがこっくりとうなずいた。 「はい。……俺は、俺なりに闘いたいと思う」 「うん。頑張って」 「アラン殿は、きっと大丈夫でござるよ」 やってきた時光が、笑いかけながら言った。金色の朝日になびく長い黒髪が映える。 「そろそろ、ジャンクヘヴンだな」 サーヴィランスも船の端によると、さっきよりずいぶん大きくなったジャンヘヴンの港が見えた。 アランにとっては久しぶりの帰宅になるだろう。そして、軍にとっては新たな知らせの到着でもある。そして朝日の中で港を見る青年の横顔は、どこか凛々しくなっているようにも見えたのだった。
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