「……あれ?」 目を開いたら、別世界に立っていた。 ファーヴニールは小首を傾げて空を見上げ、周囲を見渡す。 空の色は、ファーヴニールの故郷と同じ鮮やかな青だ。 雲がたゆたい鳥が遊ぶ、見慣れた、どこででも見られるような空だが、そこで納得は出来ない。「俺、さっきまでロストレイルで……?」 確か自分は――世界図書館に所属するロストナンバーたちは、この空とは似ても似つかぬディラックの空にて、カンダータ兵との戦いの真っ只中であったはずだ。それが、何故、自分は、江戸時代の日本を思わせる街並の片隅に佇んでいるのだろう。 漆喰と瓦でつくられた、小ぢんまりとした家屋が建ち並ぶ広い通りの隅っこにファーヴニールはいた。 まちは静かで、人通りもない。 そして、ぴりりとした敵意と緊張に満ちている。「! 人が、」 不意にざわざわという声がして、ファーヴニールが振り向くと、総勢五十人ほどの黒髪の集団と、総勢百人ほどの金髪の集団とが今まさに戦いを始めようとしているところだった。 黒髪の集団は日本の着物に似た衣装をまとい、手には刀を構えている。 金髪の集団は近未来を髣髴とさせるボディアーマーを身にまとい、手に手にいかにも高性能そうな銃を持っている。 明らかに、黒髪の集団は不利な様子だった。 本人たちもそのことをよく理解しているのか、顔色もよくない。 しかし、退くに退けぬ理由があるようで、金髪の集団が居丈高に何かを言うのへ、決死の、と表現するのが相応しい表情と口調で叫び返していた。「……事情はよく判らないけど」 ファーヴニールは周囲を見遣りながら意識を研ぎ澄ます。「放っては、おけないよね」 ――双方の激突まで、あと数十秒。 * * * * *「ファーヴニールの行方が判った」 赤瞳の世界司書、贖ノ森火城はそういって『導きの書』のページを繰った。「『万象の果実・シャンヴァラーラ』。【箱庭】と呼ばれる小さな異世界が無数に寄り集まって出来ている世界だ。ファーヴニールが転移させられたのは、そのうちのヒノモトと呼ばれる【箱庭】だな。場所は判明しているから、見つけ出すこと、合流することは難しくないだろう」 懐からチケットを取り出してロストナンバーたちに手渡しつつ、火城は言を継ぐ。「この世界の創造主の片割れである夜の女神ドミナ・ノクスは元ロストナンバーでな。そういう意味でもやりやすいだろう。……とはいえここ二十年のシャンヴァラーラは、帝国と華望月(ハナモチヅキ)という集団に分かれて争っているため、危険は伴う。重々気をつけて行って来てくれ」 ロストナンバーのひとりが詳細を尋ねると、火城は鋭い顔立ちにほんの少し苦さを載せてから口を開いた。――何故その苦さを感じたのか、火城自身は理解していない様子だったが。「その実情を、まさにファーヴニールとの合流で知ることになるだろう。――俺の『導きの書』に、彼を救出に向かった先で小規模な小競り合いに巻き込まれるという予言が出た。恐らく戦闘になる。だが……圧倒的な力量差で大勝することは好ましくないようにも思う」 何故、という問いに、「世界図書館は今までシャンヴァラーラに一切干渉していない。ロストナンバーたちがあまりにも派手な披露目を行うことは、帝国と華望月のパワーバランスを崩すのではないか、と」 火城は何かを思案していたが、すぐに顔を上げ、「……そうだな、この際だ、シャンヴァラーラの現状を調査してきてもらえるとありがたい。いざこざさえなければ、シャンヴァラーラは不思議と幻想がたくさん詰まった美しい世界だ。女神ドミナ・ノクスは恐らくロストナンバーの転移に気づいているだろうから、何かと協力してくれるだろう」 そう言って、ロストナンバーたちを新たなる旅へと送り出したのだった。 * * * * * 『それ』の訪れを感じ取り、彼女は穏やかに……妖艶に微笑んだ。 十年前には自分も乗っていた、ロストレイルの姿を脳裏に思い起こすと、ロストナンバーとして暮らした時間が思い起こされ、笑みが深くなる。「そう……来るのね、あの可愛い子を助けに」 傍らに立つ対の男に同じ質の笑みを向け、謳うように呟く。「ならば……ほんの少し、この世界を垣間見てもらいましょう。巻き込んで申し訳ないとは思うけれど、この際ですものね。わたくしたちの、愛しい『子どもたち』のために」 褐色の繊手が掲げられ、指先に星のような光が灯る。「まずは『鏡の庭』を通って時間旅行を。そして必要とあらば戦いを。鏡は彼らに、世界の成り立ちと、彼ら自身の運命を見せるでしょう」 不具合を抱えたシャンヴァラーラ。 『子どもたち』の哀しい諍いを、これ以上黙って見ていることは出来ない。「それと同じくらい……そうね、もう一度『彼ら』と再会出来るなんて、とても嬉しいことだわ」 そんな、謳うような悪戯っぽい言葉を、対の男が不思議そうに聞いている。 <重要な連絡> 「ファーヴニール」さんは、このシナリオに参加しなくてもノベルなどに登場します。プレイング締め切り日時までに、NPC「エミリエ・ミイ」宛のメールという形式で、600字以内のプレイングにあたるものをお送りいただけましたら、それをもってこのシナリオのプレイングとして扱います。このメールの送信がなかった場合、「救出後すぐにロストレイルに収容され、調査には参加しなかった」ことになります。 エミリエ宛のメールはこのURLから! https://tsukumogami.net/rasen/player/mex?pcid=cttd4156 ※強制転移したロストナンバーの方は「世界図書館のチケットによって移動していない」ため、「現地の言葉を話せません」。この点のみ、ご注意下さい。
1.分かたれた果実 見下ろせばいくつもの――無数の小世界。 周囲を見渡せば何もかもが鈍く輝く銀色の庭。 彼らが降り立ったのは、そんな不思議な場所だった。 「ここは……?」 デュネイオリスが雄々しい竜頭を巡らせて辺りを確認する間に、 「不思議なところだな。現実のにおいがしない……まるで時間から切り離されたような錯覚に陥る」 ロウ ユエは真紅の目を細めて白銀の庭を見遣り、傍らにそびえる銀色の巨木に触れた。 「あの、小さな世界のどれかに……、ファーヴニールさんが……? ご無事だと、いいのですが……」 夢天 聡美が不安げに足元を見下ろすと、 「血と金属の匂いがするね? でも……どこからだろう?」 黒燐は小首を傾げて空気の匂いを嗅ぐ仕草をした。 単眼模様の描かれた黒の布で隠されているため、顔は見えないが。 「ふう、やれやれ……運よくニルさんの救出に潜り込めました。宴会やるって言っておいていなくなるなんて許せません。どうせ準備が嫌だったんですよ。帰ったらたっぷり後片付けさせてあげます!」 藤枝 竜はなんだかんだで心配しているのを隠すように威勢よく言って、いつものバーガーを始め、出会えたら渡そうと思って詰め込んできた救援物資満載の――要するにぱんぱんに膨らんだ――リュックサックを担ぎ直す。 「で、ここからどうすればいいのかな。贖ノ森さんに現地の調査もって言われたからデジカメ持って来たんだけど、俺たちが行くべきなのって……っていうかファーヴニールさんがいるのって、多分、下の世界だよな。どうやったら向こうに行けるんだろ」 佐上 宗次郎が銀色の小型デジタルカメラを片手に上を見たり下を見たりする傍らでは、 「……」 しだりが無言のまま、足元に広がる無数の世界――これを【箱庭】と総称するのだと言う――を見つめ、探し人、ファーヴニールの姿を見い出そうとするように目を細めた。 「万象の果実・シャンヴァラーラ……」 しだりの黄金の双眸には、光る膜で包まれた様々な風景が写っている。 光る膜に包まれた丸い【箱庭】は、シャボン玉を彷彿とさせた。 そのシャボン玉同士が隣接しあって、この世界は出来ているようだった。 「……不思議だな。何故異世界同士があんな風に存在できるんだろう」 ポツリと呟いたしだりがその場に膝をつき、【箱庭】に触れられないか――届かないかと足元の世界に手を伸ばした時、床が消えた。 「ぬ」 「きゃっ」 デュネイオリスと聡美が小さく声を上げる。 「落ちる……!?」 竜が咄嗟に捕まる場所を探すのへ、 「待て、違う」 ユエが静かに言った。 宗次郎、黒燐も『それ』に気づいて足元を見下ろした。 先ほどまで見えていたあの【箱庭】がなくなっている。 「どこだ、ここは」 今の彼らは、広い広い、どこまでも続く緑多き平原の上空に浮かんでいた。 『どこまでも続く平原の上空』にいるのに、何故か、彼らには、多種多様な文化や種族の存在する様々な集落が存在することが理解できるのだった。 広い、広い世界だ。 脳裏を過ぎゆくたくさんの映像から、ここが驚くほど多様性に満ちた、雑多な世界であることがわかる。 そこには人間と人間以外の種族があって、しかし反目するでもなく、差別や偏見もなく、ごくごく自然に共存している。 「なんですか、これ。頭の中に、映像が流れ込んでくる、みたいな」 「不思議な感覚だな。実際に見ているのはこの平原だと判るのに、ここではないどこかで繰り広げられる人々の営みが理解出来る。――ここは、豊かな場所であるようだ」 「ですね。ここはシャンヴァラーラの……ええと、【箱庭】のひとつ、ということなんでしょうか?」 「ふむ……どうなんだろうな。ここが、贖ノ森が言っていたヒノモトという【箱庭】であるのなら手間が省けていいんだが」 竜が小首を傾げ、デュネイオリスが思案するように手を顎に当てる。 その間にも、いくつもの映像がロストナンバーたちの意識の中に現れては打つくり変わってゆく。 白皙に金髪碧眼の美しい人々が暮らす洗練された国。 袍(ほう)と呼ばれる、身体をすっぽりと包むような長い衣を身にまとった人々が忙しなく行き来する街。 褐色の肌にくるくると縮れた髪、色鮮やかな目、色とりどりの布を使ってつくった衣装を身にまとうエキゾティックな人々の集落。 武骨な……材質が何とも量れぬ金属の柱や壁で覆われ、明らかに人工と思しき光が明滅する、打ち捨てられた廃工場のような何かも見えた。 明らかに人間ではない種族が暮らす集落もあった。 角や、尖った耳や、翼や鱗、毛皮を持った人々、もしくは、壱番世界では怪物や魔物などと呼ばれただろうおどろおどろしい姿かたちをしたものたちが、しかし和気藹々と――平和に町を行き交っている。 そして、彼らの目を一際惹いたのは、壱番世界で言うところの着物や袴と酷似した衣装を身にまとい、腰に刀を佩いた人々が道を闊歩する、今回訪れるはずだった【箱庭】とまったく同じ特徴を備えた場所。 そんなものが、彼らの思考の中に現れては消えてゆく。 「……なんだろう、あれは」 その、それぞれの国、もしくは集落の中心に在る何かに気づいたのは宗次郎だった。 例えばそれは、全身に光をまとった美麗な青年。 壱番世界にはありえない形状を持った神秘的な獣たち。 壱番世界の御伽噺で語り継がれてきたような異貌の精霊たち。 閉ざされた廃墟にたゆたう極彩色の羊たち。 すべての事象に宿るあまたの神々。 その他、やはり多種多様な『何か』が、それぞれの国、それぞれの場所にいて、そこで暮らす人々の信仰と感謝、畏怖と敬意、そして愛を一身に受けているようだった。 その『何か』を中心に、それぞれの営みは平和に、穏やかに繰り返されてゆく。 祈りの言葉、祈りの心がここまで届いてくるかのようだった。 贖ノ森火城が言った『危険な実情』を、この映像群から感じ取ることは難しい。 「要するに、この世界? この【箱庭】? には、各地域を守る神さまみたいなのがいる、ってことかな」 その守護者たちと似たような存在である黒燐が呟き、 「んー、じゃあ……でも、ヒノモトはどこなんだろう? それらしい人たちはいたけど、あれ、島国っていうだけで【箱庭】じゃなかったよな?」 宗次郎が腕組みをして考え込んだ。 ファーヴニールが飛ばされた、ヒノモトという【箱庭】。 多分に、壱番世界の昔の日本を思わせる文化を持つそれへの情報は、今までの映像には含まれていなかった。 「この下に降りられれば直接探しに行けるんだけどな。どうしたらいいんだろう?」 つぶやく宗次郎の傍らで、不意に、 「待って……見てください、あれを……!」 聡美が息を飲み、足元を指差して言ったので、ロストナンバーたちの視線が一気に集中した。 そして、彼女と同じく、息を飲む。 ――唐突に、平原の真ん中に光る筋が入った。 と、思う間に、光る筋は平原を分断して行き――…… 「ああ、世界が、砕ける……!?」 誰かの声が言うように、世界もまた、同じようにあの光る筋によって分断されてゆく。切り離された国は、光る膜によって覆われ、しゃぼんの泡のようになって、となりの泡とくっつき……それを繰り返して連なって行く。 あっという間に、足下に広がる映像は、ここに降り立って初めて見たのと同じものになった。 「まさか、これは」 デュネイオリスが小さくつぶやく。 「シャンヴァラーラの過去、なのか……?」 あまたの小異世界【箱庭】によって構成されたシャンヴァラーラ。 それが、実は、もともとはひとつの世界で、何らかの原因で分裂した、ということなのか、とデュネイオリスが呟くと同時に、声は響いた。 「ええ、そうよ」 照明が落とされるように周囲が暗くなる。 「シャンヴァラーラへようこそ、懐かしき同胞……お客人たち」 気配も何もない、唐突な――親しげなそれに、全員の視線がまた集中する。 2.至高の夜女神 「貴女が……ドミナ・ノクス、か」 デュネイオリスの言葉に、小さな頷きが返る。 元ロストナンバーであったという夜の女神は、エキゾティックな顔立ちの美しい女性だった。 年の頃ならば二十代後半に見える。 星の輝く夜空を思わせる艶やかな長い黒髪に――事実その髪は時折星光のような銀の明滅を放った――、満月を思わせる黄金の双眸、夜の帳を思わせる濃い褐色の肌。ほっそりとしていながらどこか妖艶なその身にまとうドレスは、シンプルだがこの上もなく似合った黒一色。 「お初にお目にかかる。私はデュネイオリス……世界樹の女神アルティラスカとともに世を護る者。此度は友人の救出のため罷り越した。どうぞお見知り置きを」 神に連なる眷属であり、女神とともにある身の上ゆえ、彼女には既視感を覚えるデュネイオリスである。 親しみと敬意を込めて一礼すると、 「ご丁寧に、どうもありがとう。わたくしは至高の夜女神と称される創世神の片割れ。聖名を、ドミナ・ノクス=レーヴァティオラと」 ゆったりとした仕草でドミナ・ノクスもまた一礼し、異なる世界の眷族への友愛を示してみせた。 「貴女は元々、ロストナンバーだったそうだな。この世界の出身者……なのか?」 「ええ」 「何故ロストナンバーに?」 「……この世界を救う方法を探していて、かしらね。あなたも先ほどご覧になったでしょう? ――ああ、説明が遅れてごめんなさいね、先ほどのあれは『鏡の庭』というの。時間軸を手繰り寄せて、様々な事象を見せてくれる神威機関なのよ」 「ではあれは、やはり。シャンヴァラーラは過去、ひとつの世界であったと」 「ええ。ああして分かたれ、【箱庭】として機能し始めてからもう五百年になるわ。わたくしはそれを、真実の意味で元に戻す方法を切望して覚醒したの。0世界の時間軸で八十年ほど前のことよ」 「方法は見出せたのか。――いや、見出せてはいないのだろうな」 「ええ」 「それは何故だ。否、そもそも何故世界は分かたれてしまった?」 「……判らないの。わたくしと、わたくしの片割れ、至貴なる太陽神ウィル・ソール、その双方が何も感じ取れず、何も出来なかった。そのくらい唐突で、理不尽な出来事だったのよ」 「そうか、では……【箱庭】の概要を訪ねてみたい」 「一番大きなものが至厳帝国ムンドゥス・ア・ノービレと呼ばれる【箱庭】。他の【箱庭】には帝国と呼ばれているわ。もともとはもっと小さな【箱庭】だったのだけれど」 「けれど?」 「周囲の【箱庭】を力で屈服させて守護者たる神を我が物とし、土地や空間を取り込んで巨大化していっているの。今では、シャンヴァラーラの半分が帝国領になっているわ」 「神……あの、各地で信仰されていた……?」 「ええ」 「しかし、貴女がたも神ではないのか」 「そうね……でも、少し違うわ。わたくしたちは創世神……世界を外側から護る守護と調整の神ですもの。あの子たちはわたくしとウィル・ソールが創った、シャンヴァラーラを内側から直接的に護る守護者なの」 「それを、帝国が奪い取り、我がものとしている、と?」 「ええ」 「それが……この戦争の理由か。帝国と……華望月という集団の。華望月と言うのは、国か?」 「いいえ、小さな【箱庭】が帝国に抵抗するためにつくった同盟のようなものよ。帝国に所属していない、残りの【箱庭】のほとんどが加盟しているわ。あなたたちが可愛い子を探しに来たヒノモトは、華望月の盟主の一角よ」 「なるほど、な。では、加えてこの戦争の現状も知りたいのだが」 「今、有利なのは帝国側ね。帝国は華望月よりも数段文明が進んだ【箱庭】だから、強い神を持たない、文明の発達していない【箱庭】はなすすべもなく帝国に屈服しているわ」 「文明が進んでいる、というと……?」 「そうね、壱番世界のSF映画で観るような、二十三~二十四世紀頃には到達しているのではないかと思われる程度の科学力を持っているわ」 「……そうか」 ドミナ・ノクスの淀みなく流れるような説明に、デュネイオリスは腕を組み、手を顎に当てて考え込んだ。 世界の状況は判ってきた。 贖ノ森火城が危険だといった理由も。 美しく幻想に満ちたシャンヴァラーラは、創世の神々にも量れぬ理由で分裂し、ムンドゥス・ア・ノービレなる軍事帝国の台頭によって支配されようとしている。 「帝国は何故このようなことを?」 「判らないの、それが。わたくしたちは確かに、この世界に対して強い力を持つけれど、言わば外側の神だから、全知でも全能でもいられないのが実情なのよ。そうあらんとすれば、内側を傷つけてしまうの」 「……そう、か……」 ドミナ・ノクスの歯痒さが伝わってくるようで、デュネイオリスはそれ以上質問することが出来なかった。似たような思いを、彼の半身である女神もまた味わって来たからだ。 と、そこでロストナンバーたちのことを思い出し、何か問うべきことはないか、と仲間たちに尋ねようとしたデュネイオリスは、 「私ばかりが質問してすまないな。皆、他に、――……?」 周囲に、彼と女神以外、誰もいないことに気づいて首を傾げた。 あまりに静かだった所為で彼らのことに思いが至らなかったのだが、要するに、彼らがこの場にいなかったというだけのことだったようだ。 しだりは、夜そのもののような色彩をした女神と向かい合っていた。 唐突にこうなっていたのだが、何故かそれを不審には思わなかった。 「何からお話すればよかったかしら」 近しい存在だと理解しているからかもしれない。 「帝国と華望月は、何故諍いを? 何が原因で対立しているの?」 贖ノ森火城はこの世界について調査して来てほしいと言った。 それはつまり、世界図書館が今後シャンヴァラーラに関わる可能性があると言うことだ。 だとすれば、知り得ることはなるべく得て帰った方がいい。 しだりはそう判断し、この機会を積極的に利用することにしたのだった。 「揉めている、というよりは、帝国の一方的な侵略と統合に反発した人々が華望月を設立して抵抗を続けている……というところかしら」 「では、原因は、帝国の横暴?」 「原因であることは確かだけれど、横暴なのかどうかはわたくしには判らないわ。帝国が何故あの侵略を始めたのかすら判っていないのだもの」 「ファーヴニールが転移したヒノモトは華望月だよね?」 「ええ。ヒノモトは皇主と呼ばれる統治者によって統べられる、多分に壱番世界の中近世日本に酷似した世界ね。華望月に所属する【箱庭】は、文明はそれほど進んではいないけれど、たくさんの異能者がいて、それぞれの神を敬いながら自然と共存して暮らしているわ」 「じゃあ……反対に帝国の性質は?」 「帝国を支配するのは、美しい文化や学問を愛する生真面目な人々よ。文明は近未来の様相を呈しているわ。きっと、壱番世界の兵器では帝国と渡り合うことは出来ないわね」 「ふうん……華望月が帝国と戦えるのは、要するにその異能者たちの存在のゆえ、ってことかな」 「そうね、華望月の人々は大抵が何らかの異能を持っていたり、自分たちの住まう地の神と契約を結んだりしているわ」 「帝国に破れた【箱庭】は、帝国に併合されるの?」 「ええ、ヒトも、【箱庭】という空間も、すべて」 「どうやって?」 「各【箱庭】の神を我がものとすることで」 「……ふうん……」 では、帝国の侵攻は、即ち神狩りでもあるというわけだ。 そして、帝国は、各【箱庭】の神を狩るすべをすでに確立していると見ていい。 「難しそうだね。貴方はしだりたちにそれを手伝って欲しいの?」 しだりが率直に尋ねると、ドミナ・ノクスはかすかに笑った。 「帝国も華望月も、そこに在るすべての神、すべての事象が、わたくしとウィル・ソールにとっては可愛い子どもたち。それゆえに、わたくしたちはどちらが正しくどちらが過ちを犯していると断ずることは出来ないの」 「うん、そういうのは……判るよ。しだりたちは調和と均衡を大切にする。あなたもそうなんだね」 「ええ……だから、新しい風を、と、思ったのよ」 「うん?」 「……あの可愛い竜の子がここへ迷い込んだのはきっとそのきっかけね。あなたたちの力だけを頼みにするのではなく、わたくしたちにはないものの考え方を、シャンヴァラーラに注いでもらえたら、と」 恐らく、ドミナ・ノクスはすでにほとんどの手は打ったのだ。 しかし、思わしい成果は上がっていない。 とはいえそれも、ファーヴニールを救出してからだ、と思いつつ、しだりは踵を返した。 「行くの?」 「うん。ヒノモトに行きたいんだ」 「判ったわ……どうぞ」 女神の言葉と同時に、背後に大きな木製の扉が現れた。 「『鏡の庭』の通路への扉よ、どうぞ使って。ただ、気をつけてね」 「何を?」 「『鏡の庭』は、時間軸を手繰り寄せて、様々な事象を見せてくれる神威機関。時としてヒトに過去や未来を垣間見せるわ」 「……そう」 過去や未来というものに対して、思うところはたくさんある。 自分は何を見るのだろう、と思いつつ、しだりは扉をくぐった。 「そう……なんですか……」 聡美はそう言って視線を俯かせた。 帝国は何故他の【箱庭】の神を奪い、【箱庭】を統合しているのだろう。 自分の領土を広げるため? それだけなのだろうか? 口で言えば『それだけ』のことのように聴こえるが、そこにはたくさんの死と苦しみ、哀しみがあるはずなのだ。 文化や学問を愛するという帝国の人々が、そのことに思い至らないとは到底考えられない。 ならば、何故。 問いは堂々巡りを繰り返すばかりだ。 「では、話し合い……などでは、解決は、難しい、と……?」 「そうね……少なくとも、華望月は何度も休戦の申し出をしたようだけれど、ことごとく拒否されているようよ」 「その……帝国の、目的は……何、なのでしょう……?」 「そうね、わたくしもそれを考えているところよ」 つまり、創世の女神にすら判らないくらい、この侵攻は不可解なものだったのだ。 といっても、彼女の話を聴く限りでは、創世の二柱は、強大すぎる力のゆえにシャンヴァラーラに対して大きな働きかけは出来ず、すべてを知ることも出来ないようだったが。 「私、どちらの勢力も……本当に、悪い人たちだとは……思えなくて。そんな……人たちが、争うのは、見たくありません……」 「……ありがとう、聡美さん」 過去にひどいいじめを受け、絶望ゆえに真理に覚醒した聡美だ。 絶望によって覚醒しながらも、優しい心根を失うことなくここまで来た聡美だ。 だからこそ、人が争う姿は哀しい。 出来ることなら仲良く笑いあっていてほしい。 人々が紡ぐすべての物語が、「ああよかった」で終わればいい。 自分は甘いのだろうかと胸中に自問しつつも、彼女の願いはたゆまない。 竜の問いは明快で、かつ、矢継ぎ早だった。 「尋ねたいことはたくさんあります」 彼女の、少々せっかちだがさっぱりとしてこだわりのない、まっすぐな性質が如実に現れ出た内容であり、物言いだった。 「こんなに混乱してるのに争いを鎮めないのは何故ですか? 女神さんはなんで世界を創ってるんですか? 私でも神様になれますか? この無数の泡の集まりみたいな世界で何をしようとしてるんですか? 捜し物でもあるんですか? 私たちにできることは?」 弾丸のような勢いで一気に質問内容を口にする様に、ドミナ・ノクスは微笑ましげな笑みを向けた。 「そうね……最初の問いに関しては、鎮めないのではなく、鎮められないと答えるしかないかしら」 「それは、何故?」 「分かたれてしまった世界を元に戻そうと、過去に何度か干渉したことはあるわ。でも、駄目だったの……わたくしたちでは、容積が大きすぎて、シャンヴァラーラという入れ物を傷つけてしまうだけなのよ」 ドミナ・ノクスの言葉に、先ほどまで黒一色だった壁が映画のスクリーンのようにいくつもの映像を映し出した。 そのひとつでは、ドミナ・ノクスが背の高い青年とともに、目の前に浮かぶ泡の塊に手を差し伸べ、何かをしている。 他の映像は、それぞれの【箱庭】を映し出しているようだったが、女神たちが何かをした瞬間、大地震や大津波、豪雨、落雷、竜巻、出処の知れない大火災、動物たちの暴走などに見舞われた。 「わたくしたちが世界に干渉したのはこの五百年で三回。そのたった三回で、わたくしたちは数え切れないほどの命を奪ってしまったのよ」 【箱庭】の生き物が次々とそれらの犠牲になり、逃げ惑い泣き叫びながら息絶えてゆく様子に、竜は瞠目するしかなかった。それとともに、静かに、悼みを込めて微笑んだドミナ・ノクスが、竜に向けて自分の手の平を差し出したので、彼女は小首を傾げてその濃い褐色の手の平を見つめ、 「……!」 そして、息を飲んだ。 彼女の手の平を凝視していると、そこにいくつのも小さな顔が――無数の生き物の姿が浮かび上がるのが見えるのだ。それは、様々な形状をしていたが、たったひとつ共通しているのは、そのすべてが苦悶の、恐怖の、絶望の表情を浮かべていることだった。 声なき声で、女神の掌に浮かび上がった顔たちが苦痛を訴える。 「女神さん、これは……」 「わたくしの干渉で命を落としたシャンヴァラーラ人たちの魂よ。この子たちの苦しみが浄化されるまで、わたくしはその痛みと絶望を背負い続けるの。――これが、わたくしたちが表立って動けない理由。そして、わたくしたちの過ち」 手を収めたドミナ・ノクスは竜を見つめて微笑んだ。 「そうね、これはもうひとつの問いの答えにもなるかしら。竜さん、恐らくあなたが神になることは出来るわ。あなたが統べる世界の、すべての命を、永遠に等しい時間の中で孤独とともに背負い続ける覚悟があるのなら」 そう言ってから、彼女は更に、自分たちがいのちの営みを見たくてシャンヴァラーラを創ったこと、したいこと捜したいものはないが最後までこの世界を見届けたいこと、もしも叶うのならロストナンバーたちにもこの世界を見ていてほしいことなどを告げた。 そして、竜を、 「どうかあなたの目に映るシャンヴァラーラが美しいように」 重厚な木の扉から、ヒノモトへ至る道へ送り出したのだった。 3.『鏡』はたゆたう 「ん」 透き通った暗闇と証するのが相応しい通路を真っ直ぐに歩んでいたユエは、『それ』がその暗闇をスクリーンにして映ったのを見て、真紅の目を細めた。 「……いつのことだったか、あれは」 まだ国が在った頃、ほぼ人質としての留学を終え、不穏な都へ帰還してしばらくした辺りだっただろうか。 様々な事情で命を狙われていたユエは、気分転換と自分を餌にした『暗殺者釣り』に興じるため郊外の街に遊びに出たのだ。 「久しぶりだな、ヒイラギ……」 もちろんユエの立場にあっては褒められたことではなく、当然のように側近の青年が後を追いかけてきたわけだが、当然、そこで大人しく連れ帰られるユエではない。 (まったく、ユエ様にも困ったものです) (何故だ? 息抜きに街へ出るくらいいいじゃないか) (……本当に息抜きだけですか?) (何のことだ) (あなたのことだ、別の目的をお持ちなのでは?) (知らないな。……丁度いい、ヒイラギも付き合え。俺は天意屋の揚げ餅を焦がし茶で食べたいんだ) (ユエ様! まったく……) 憤慨してみせつつもそれほど怒ってはいない側近の青年を街へ引っ張り出し、露店や屋台を覗いたり、身内への土産にと雑貨屋で細々としたものを買い込んだり、妖魔の危険に晒されつつも活気を失わない逞しさに感心したり、そんな他愛のない、しかしもう戻らない懐かしい思い出が展開される。 「ヒイラギ、お前、今、どこにいるんだ……?」 側近の青年とは、国が夜都に攻められた際に別れて以降、会っていない。 攻撃から庇って突き飛ばしたら視界から消えて、そのままだ。 「もう一度、無事な姿が見られたらいいけど、な」 呟き、微苦笑してユエは歩を進めた。 出口と思われる光をくぐる時、ゆらりと揺れた映像の端に、少し年を重ねた様子が伺えるヒイラギと肩を叩きあい笑っている自分の姿が映ったような気がしたが、さだかではない。 聡美の視線の先には、故郷で唯一と言っていい心の拠り所だった家族の姿があった。 優しい父、優しい母、優しい弟。 ひとりでは役に立たない能力を持って生まれたために、罵倒され嘲笑され、ときには理不尽な暴力の対象になり、身も心も痛めつけられて聡美は成長した。自分なんてこの世にいない方がいいと思ったこと、消えてしまいたいと泣いたことも数え切れない。 そんな聡美にとって変わらぬ味方であり救いだったのが家族だ。 映像の中の家族は、陽だまりのような笑顔で聡美を見ている。 (ああ……) ほろりとため息が落ちる。 (会いたい) 家族にもう一度会いたい。 家族の笑顔を見て、あのやわらかな声を聴きたい。 ありがとうと、大好きだと言いたい。 けれど、 (戻ったら、また……) いじめられるのは、不要物だと嘲笑われるのは、怖い。 周囲の、あの冷たい侮蔑の視線にさらされるのは、もう嫌だ。 (帰りたい。でも、帰りたくない。私は、どうすれば……) 帰らねば家族には逢えず、帰れば地獄の日々が待っている。 この胸のうちを、如何に表現すればいいのだろうか。 「私……」 俯き、ぎゅっと握り締めた拳を聡美が胸に当てた時、 「あーあーあー! 聴こえません見えませんハイおしまいっ!」 聴き慣れた賑やかな声が耳に飛び込んで来たので、聡美は驚いて背後を振り向いた。 そこには、 「あれっ、さっちゃん。何故ここに?」 「……そういう竜さんこそ」 予想通り藤枝竜がいて、不思議そうな顔で、両耳を塞いでいた手を外すところだった。 「さっちゃん、何かあったんですか?」 「え?」 「いや、違うならいいんですけど、ちょっと哀しそうに見えたから」 「ああ……ううん、大丈夫です」 大雑把に見えて目敏い竜の心遣いをくすぐったく思いつつ聡美が首を横に振ると、竜は何となく気づいたのか周囲を見渡した。 「何か見たんですか?」 「うん……竜さんは? あ、もしかして、見ないように聴かないようにって、今の?」 「はい。例え知ることで変えられるのだとしても、未来を見るのはやめておきます。夕飯がカレーだってお昼に知ってもどうしようもありませんしね」 青竹を真っ二つに割ったような爽快な答えに、聡美は無邪気な笑みを浮かべた。 それは何という強さで、なんと潔い生き方だろうか。 「……竜さんって」 「え、どうしました?」 「すごいなあって」 聡美が言うと、竜はきょとんとし、それから笑って彼女の手を取った。 「すごくないですよ、全然。さあ行きましょうさっちゃん、ニルさんを助けなくちゃ」 竜の力強い手に導かれるようにして、聡美は歩き出す。 葛藤はなおも続くだろうけれど、今は友達の温かな手の感触に安堵していたい、と、思った。 黒燐が見ていたのは書物に没頭する過去の自分だ。 今の、役人になる前の自分。 その頃、彼は天人族でありながら天人族を研究していた。 「ああ、懐かしいな」 書物に没頭したあとは、近所の子どもたちに混じって思う存分遊ぶ。 (けいと、計斗!) 子どもらが、黒燐の本名を呼び、笑顔で手招きする。 黒燐も同じような笑顔で応じ、かくれんぼ、おにごっこ、陣取り合戦などなど、様々な遊びに全力で興じた。 それからまた研究。 そんな時間が、五十年ばかり続いた。 北都の長となってからも黒燐の姿かたちは変わらない。 ――実はこれが、黒燐の研究の成果だった。 天人の成長を止めることは可能かどうか、という題で五十年を費やし、それが事実であることを突き止めた。 「子ども目線でしか判らないこともあるからね、重宝するよね」 過去の自分に笑いかけながら、黒燐は進む。 と、映像が切り替わり、今と同じ衣装の、しかし二十歳くらいまで背の伸びた自分の姿がそこに映った。 「おや?」 周囲の景色は、見慣れた故郷のもの。 「ふうん……」 とすると、自分はいずれ故郷へ帰ることになるのだ。 そして、衣装からして、長業務も続けている。 「どうして成長するのかは判らないけど……そういうことか」 それはそれで楽しみだ、と呟いて、黒燐は道の果てにある光の塊をくぐった。 視界が真っ白になり、――……そして。 (何百万、何千万……いや、何億、何百億? それだけの命を背負い続けるって?) 宗次郎の脳裏には、女神ドミナ・ノクスの手の平をのたうつ苦悶の顔が張り付いていた。 ふたつの勢力の争いの理由を尋ね、女神に策を講じているかどうか、講じていないならそれは何故なのかを尋ねたあと、見せられたものだった。 創世神たちはシャンヴァラーラの現状を嘆いている。 しかし、二柱が動くことは即ち、世界に更なる混乱をもたらすという事実に他ならないのだ。 その歯痒さは、神さまなどではない宗次郎にも判る。 「何か、出来たらいいんだけど……」 ぽつりと呟いたとき、それが『壁』に映った。 (行って来るよ、宗。帰ったらまた将棋やろうぜ、将棋) (ええ、また将棋? たまにはゲームで対戦とか、トランプとかさー) (だって宗の方がゲーム巧いし、神経衰弱じゃお前に勝てないしな) (なんだよ、それ) 軽口を叩きながら大学へ出かけてゆく兄と、それを見送る宗次郎。 三年前の、穏やかな、雨の日だった。 あれきり、兄の姿を見ることはなかった。 両親は手を尽くして兄を探したが、遺体どころか手がかりすら見つからず,家出だろうと判断されて捜索は打ち切られた。 (またあいつの分まで作ったのか。いつまでいない人間のことを引き摺り続ける気だ、いい加減にしろ!) (そんな、だってお父さん、あの子はちょっと出かけているだけだもの、いつ帰って来てもいいようにしなくちゃ……) 兄がいなくなってから、家族の心はばらばらになってしまった。 (どこにいるんだよ、慶一郎) 宗次郎は兄の名を呼び、ぎゅっと拳を握った。 自分を誰より大切にしてくれた人だ。 ――しかし。 両親の愛を一身に受ける兄がほんの少しだけ妬ましかったことも、否定は出来ない。そして、自分がそんな身勝手な感情を抱いたばっかりに兄は姿を消してしまったのではないか、という思いは消えず、後悔ばかりが募る。 「俺はどうしたらいい、慶一郎」 そうこぼした宗次郎の目の前で、映像が切り替わり、 「……慶一郎……!?」 異世界を旅する慶一郎と、その先で偶然に再会する宗次郎の姿を映し出した。 映像の宗次郎は驚愕を全身で表現していたが、次の瞬間あふれたのは涙ではなくとびきりの笑顔だった。 「そう、なのか……!」 全力で兄に抱きつき、お帰りを言う自分を見ながら、宗次郎は拳を握り締める。 その端正な面には、明るい笑みが浮かび上がっていた。 「じゃあ……行かなきゃ。すべての旅に、希望があるんなら」 そして彼は、次の一歩を踏み出す。 4.竜と神と霧と 気づいたら、全員、ファーヴニールを取り囲むように佇んでいた。 「あれ……皆……?」 驚きに目を見開くファーヴニールの前方では、近未来を髣髴とさせるボディアーマーに身を包んだ兵士たちが、無言のままヒノモトの人々を追い詰めようとしている。 行き交う怒号はヒノモト人たちのもの、耳をつんざくのは帝国兵が手にした熱線銃の発射音。 「待たせたな、ファーヴニールよ」 重々しく告げたのは、洋装に身を包んだ竜人、行きつけの喫茶店のマスターであるデュネイオリスで、 「ニルさん、大丈夫でしたか? 護るので後ろにいて下さいね!」 力強く笑ったのは喫茶店仲間で何かと仲のよい藤枝竜だった。 「デュンさん、竜ちゃん……黒燐君、ユエさんにしだりさん……それに、聡美ちゃんまで……」 世界図書館から彼の救助に派遣されてきたのだとデュネイオリスが言葉少なに説明し、ファーヴニールは呆然と彼らの名を呼んだ。初対面だった宗次郎以外の全員が友人だったことに、ファーヴニールは驚きと喜びを禁じ得ない。 「皆……ッ、ごめん、ちょっと、目元が緩くなったかな……」 思わず熱いものが込み上げる。 その背をデュネイオリスが叩き、竜がファーヴニールを見て頷いた。 眼前では、今もなお激しい戦いが続いている。 ヒノモトの人々の不利は疑いようもなかったが、彼らも一方的にやられてはいなかった。ひとりひとりが恐るべき剣技の持ち主で、ビーム兵器を手にした帝国兵を相手取り、獅子奮迅の戦いを見せている。 世界図書館は大々的に異世界に干渉することはない。 それは知っている。 しかし。 「善悪の判断を俺は持たない。だけど、このまま放っておくこともできない」 ファーヴニールの言葉に小さな頷きが返る。 「私も、出来れば……止めたいです。人が、争うのは……見たく、ありません」 聡美のおずおずとした物言いに、 「だけど、度を越した介入は調和を崩す。しだりはそれを懸念する」 「いかにも、戦争に正義も悪もない」 しだりが言い、デュネイオリスが頷いた。 「だが、よそ者だからはいさよならというわけにも行くまい」 「俺も同感。どっちの手伝いとかそういうのじゃなくて、どっちも穏便にことを収められるように……って出来ないかな?」 ユエと宗次郎が交互に言うと、 「……しだりに考えがある」 幼龍が黄金の双眸で一同を見渡し、口を開いた。 その三分後には、全員が体勢を整え、合図を待っている。 「では聡美、頼む」 重々しいデュネイオリスの言に、聡美が頷いた。 少女の華奢な手がデュネイオリスとしだり、そしてファーヴニールにかざされる。 それは夢天聡美の持つ増幅能力、『スキルアップブースト』。 自分だけでは役に立たない――それゆえにいじめられた――能力だが、こうして友人や仲間のために使うならば、この力は日の光を浴びたように輝く。 「……よし」 頷いたしだりが天を仰ぐ。 と、先ほどまで晴れていたはずの空が唐突に曇り始め、辺りは薄暗くなった。 あまりの突然さに、ヒノモト人のみならず帝国兵も一瞬動きを止め、周囲を見渡している。その彼らを、数m先も見えないような濃霧が包んだのはそこから十秒が経過してからだった。 不自然すぎるそれにざわめきが起き、帝国兵が熱線銃を乱射する。 「駄目だよ、危ないって」 軽やかな身のこなしで霧の戦場へと飛び込んでいった黒燐が、伸ばした爪でビーム兵器を次々と破壊してゆき、 「どちらが正しいのかは判らんが、多勢に無勢ってのは判断基準のひとつではあるよな」 空間を捻じ曲げることでビームを無効化しつつ、同じく集団へ飛び込んだユエは素早く動いて帝国兵を蹴倒し、または腕を叩き折るなどして無力化する。 トラベルギアを手にした竜も、帝国兵の無力化に勤しんでいたし、 「目の前で誰かが殺されるのを見過ごすなんて出来ないし!」 宗次郎はトラベルギア【シャドウ・シーカー】を駆使して戦場を駆け回っていた。 戦いではなく、怪我人の救助や危なっかしい人を助けるためだ。 霧が宗次郎の姿を巧く隠してくれるため、帝国兵たちの目には、ヒノモトの人々が掻き消えたように映ったかもしれない。 「き、貴殿は……?」 宗次郎に抱えられるように戦場から救い出された青年が、畏怖とも困惑ともつかぬ表情で言うのへ、 「俺は……うーん、ただのお節介だよ。なんてね」 肩を竦めてみせた後、また怪我人の救助へと戻ってゆく。 霧は薄まるどころか、更に濃さを増して人々を包み込んでいる。 そこで、 「では……行くぞ、ファーヴニール」 「はい、デュンさん」 大きく息を吸ったデュネイオリスの、逞しく雄々しいあぎとから、聡美の『スキルアップブースト』で最大限強化された【咆哮】が迸る。 魂の奥底にある恐怖心を揺さぶり、行動不能に陥れる力を持つそれは、霧の戦場をつんざき、人々をその場に蹲らせた。 「まさか……奥ノ州(おくのす)の殿が来ておられるのか……!?」 ヒノモトの誰かが叫び、その叫び声によって帝国兵は更に乱れた。 「奥ノ州の、殿……?」 小首を傾げつつ、ファーヴニールは右半身だけを竜変化させた。 銀地に青いグラデーションの、金属質な鱗を持つ二足歩行のそれは、禍々しく恐ろしげであるのと同時に、美しい。 それが更に、黄金の雷光をまとって戦場のただ中に顕れたのだ。 濃霧のヴェールも手伝い、更に雷光の演出も手伝って、半身が人、半身が竜というファーヴニールの異様さ、そして異様さの中にある荘厳さ神々しさには表現し難いものがあり、 「ち、違う……マサムネ殿ではない……!」 「では、一体、あれは……!?」 霧の中に浮かび上がるファーヴニールの姿に、ヒノモトも帝国も変わらず動揺し、デュネイオリスの【咆哮】の効果もあってすでに戦いどころではなくなっている。 浮き足立つ彼らを前に、 「よし……頃合、かな……」 ぼそり、と呟いたしだりが両手を空に掲げる。 と、吹き上がり渦巻いた濃霧が、ロストナンバーたちとヒノモトの人々を包み込み――……次の瞬間には、その場所から彼らの姿は消えていた。 残された濃霧に視界を奪われ、【咆哮】と異様な竜の姿に精神を揺さぶられた帝国兵たちはしばらく身動きも出来ず、結果彼らは、対象は霧に紛れて逃げたと報告せざるを得なかったのだった。 終劇.神鐘(カミカサネ) 「ご無事で……よかったです……」 聡美の、万感の思いを込めた言葉に、ファーヴニールは照れ臭そうに、嬉しそうに頷き、救出に来たロストナンバーたちに向かって深々と一礼した。 「皆、ありがとう……すごく、嬉しかった」 友人たちが自分のためにここまで来てくれた、そのことがとてつもなくありがたく、幸せだ。 力のなさゆえに失ったもの、力を持ったゆえに奪ってしまったもの、その重みを背負って歩くファーヴニールだからこそ、彼らが向けてくれる心や思いの大切さが判る。 自分もまたそれを大切にしなくてはならないのだと判る。 「無事でよかったね。僕も君が無事で嬉しい」 黒燐がにこにこと笑って――といっても顔は見えないが――言い、 「つつがなく済んだようで何よりだ。さあ、では帰るとしようか」 デュネイオリスが帰りの分のチケットを差し出し、 「おなか減ったでしょう、ニルさん。エキベンバーガーとセクタンシェイク持って来ましたから、帰りのロストレイルで食べましょう」 竜がぱんぱんに膨らんだリュックを指し示してみせる。 ユエは周囲の観察に余念がないし、宗次郎は景色や建物を撮影している。 しだりは彼らを見るともなしに見た後、足下に広がるヒノモトの街並を見遣った。 先ほどの人々は、しだりの、水を媒介にした転移術で、今頃あの街並の何処かに逃げおおせているだろう。 「しだりさん、どうかしたの?」 ファーヴニールの問いに、しだりは首を横に振った。 彼の脳裏をよぎったのは、『鏡の庭』で見たどちらにも定まらぬ自分の未来だった。 『鏡の庭』は言ったのだ。 人を嫌うままならば、再生のための滅びを世界にもたらす神となり、人を慈しむ心を持てば、世界の調和を保つ神となる、と。 自然の残酷さを体現する神となるか、自然の優しさを体現する神となるか。 「何でもない。……この先どうなるんだろう、って思っただけだよ」 そう、この世界も、自分も。 * * * * * 広い、広い部屋で、男は重厚な執務机に向かっていた。 一心にペンを繰り、何ごとかを書き付けてゆく様子は、男の理知的な顔立ちと相俟って、彼を学者のように見せるが、男が身にまとっているのは物々しい軍服だった。 そこへ、扉がノックされ、男の許しとともに不思議な形状の板を手にした青年が入室する。 「クルクス様」 「どうした……神は獲れたのか。ヒノモトの神はどれも力が濃い、一柱たりとも残さず奪え」 「は、それが……」 ひそひそという会話が交わされ、クルクスと呼ばれた壮年の男はわずかに目を瞠る。 「それは……新たな神か。しかも、相当な力を持っていると見た」 「この世界は多様な種が息づきますゆえ、新勢力かもしれませぬ。しばし、警戒を」 「そうだな。だが、濃い『力』が採れることに変わりはあるまい。その者たちを探せ、場合によっては狩れ。我がムンドゥス・ア・ノービレに、神と力はいくらあっても足りぬ」 「……御意」 深々と頭を下げ、青年が退室する。 それを鮮やかな碧の眼で見送った男の、 「ようやく、半分だ。これからが本番、ということだな……」 低い低い独白を聴くものは、誰もいない。
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