海底には虹色の貝殻。 見上げれば太陽の光が、揺れる海面に煌めいている。 色とりどりの魚の群れの中、リーシャンはいとしいひとの姿を探す。 ――見つけた。 大空を翔ぶように両手を広げて海の中を駆け、その胸にかけがえのないひとを掻き抱く。この世界にはもう、ふたりを邪魔する者はいない。 私 は、永 遠 の 愛 を 手 に 入 れ た。 * 「拐されたってェのかい?」 「かどわ……ええ、そうです。誘拐されたんです」 金色の髪の上、鴉天狗の面をチョイとのせた男の問いに、世界司書アマノが答える。 インヤンガイ下層、ティエンライと呼ばれる街区の外れにある、閉鎖された病院の地下に、とある製薬会社勤務の女性科学者が監禁されているのだという。 犯人と思しきは、先のトレインウォーで世界図書館から派遣された部隊の健闘により捕虜となったカンダータ軍、ダンクス大隊の残党。 「ガブリエル・ビショップ中尉を隊長とする20名程度の部隊で、ティエンライの地下に拠点を構え、『黒社会』と呼ばれるインヤンガイの犯罪組織と結託し、悪事を働いているらしいのですが……、本隊が撤退に追い込まれたことは彼らも承知していて、今は大人しく潜伏している模様です」 「つまり、そいつらは取り残されっちまったってェ訳だ」 「はい。現状、孤立無縁です。軍備の増強や援軍の恐れは無いでしょう。『導きの書』の予言によれば、『タグブレイク』を仕掛けられる可能性もありません」 旅人たちの間から、ほっとしたような息が漏れる。 「今回の任務は、リーシャンさんの救出。それから、カンダータ兵の捕縛。以上の二点です。ただ、援軍が無いとは言え、20名の兵士の力を侮ることはできません。彼らは高度に訓練されている上、隊長のビショップ中尉は、紳士的で柔和な物腰と裏腹な残忍さで、同じカンダータ人からも恐れられているとのこと。油断は禁物です」 アマノが神妙な面持ちで旅人たちを見渡す。 「彼らは霊力や呪術といったインヤンガイ特有の技術やシステムを学び、軍事利用を可能にするための実験を重ねていました。『夜叉露』の開発もそのひとつです。今回の、女性科学者の誘拐についても同様に、よからぬ思惑があってのことでしょう。彼らの目的は恐らく――」 考え込むような様子のアマノを遮り、鴉御前が問うた。 「『人魚の眼』、かィ」 「はい。老いや死をコントロールする薬の研究。リーシャンさんはその中心であり、人間としては最初の被験体でもあります。彼女を手に入れれば同時に秘薬の製法も我が物にできる。そのような事態は、防がねばなりません」 ぱたんと『導きの書』を閉じ、そうそう、と思い出したように机上の書類を探って、アマノが顔を上げる。 「本件とは無関係かもしれないのですが……何度か世界図書館に協力してくれている探偵のシーイィさんも、同時期に行方不明になっているのです。リーシャンさんの誘拐に責任を感じたのか、どうなのか。失踪直前に、製薬会社とリーシャンさんに関する資料が図書館宛てに送られてきています」 アマノは書類をかざして見せ、「見かけによらず、義理堅い性格なんでしょうか」と、首を傾げて、さらりと酷いことを言った。 * コツコツと硬い靴音を響かせて廊下を抜け、分厚い金属製の扉の前で立ち止まる。 扉を塞ぐように左右から銃を構える軍服の男たちに向けて片手を上げ、合図を送ると、男たちは一糸乱れぬ動きで敬礼の姿勢を取ってから、両脇へ分かれ、道を開けた。 インヤンガイで使用されている数字と、それとはまた違った記号の並んだコンソールを操作してパスワードを入力すると、点滅していた赤いランプが緑色に変わり、低い振動音を響かせて扉が開かれる。 薄暗い部屋。 ぽつんと設置された手術台だけが、霊力燈に照らされてぼんやりと浮かび上がっており、その光の中心には女が横たわっている。元は白かったのだろう、埃や汗や血に汚れて染みだらけのワンピースが肌蹴て、華奢な鎖骨を覗かせているのを、ビショップ中尉は繊細な手付きで、注意深く整えた。 「ご機嫌はいかがかな?」 きっちりと分けたプラチナブロンドの髪、優しげな面立ちに笑みを浮かべて、眠り続ける女に語りかける。 足首と手首を鎖で拘束され、体中に管を差し込まれてコンピュータと繋がれ、それでもリーシャンは、この上もなく幸せそうに微笑んでいた。
人魚はどんな夢を見るの? 王子様はもういない。 ●往路 「『人魚の眼』は、まだ終わっていなかったのですね……」 ボックス席の片隅、誰にともなくミレーヌ・シャロンが呟く。 多くの命を犠牲にした不老不死の研究と、その成果である秘薬『人魚の眼』。以前、彼女が関わったその事件は、研究施設からリーシャンを救出したことによって解決した筈であった。彼女自身が救い出した、小柄な女性の姿を思い浮かべる。想像の中の女性には、しかし、表情が無い。実験によって片方の眼球を失った彼女の顔の大部分は包帯で覆われていたからだ。 (それでも彼女には未来があった。助け出さなくては。今度こそ――) 平素は穏やかな笑みを浮かべるふっくらとした頬をこわばらせ、唇を噛みしめる。 「酷ェはなしだ」 同じく依頼遂行にあたった鴉御前がぽつりと言った。「コイツによると」、言いながら書類の束を取り出す。「リーシャンは、ありとあらゆる手合いに狙われてたってェことらしい。不老不死のカギだってンだから、まァ、無理もねェや」 「探偵さんの送ってきたという資料ですね?」 ミレーヌが数枚の書類を受けとって尋ねる。 「彼も行方が知れないとか」 「こんだけの情報握ってンだ、どこの誰に命狙われようと不思議はねェ。ただ……」 「二つの事件は無関係では無いかもしれん」割って入ったハーデ・ビラールの硬質な声に、鴉御前が頷く。 「時期が近過ぎる。無関係だという方が不自然だ」 「そうですね。リーシャンさんの誘拐の二日後にシーイィさんが失踪した……」 愛用の武器類を念入りに手入れしていた坂上 健が、ふと顔を上げて言った。 「俺はシーイィ救出に回るから。リーシャンは任す。どうせ始まったら敵を分散させるだろ……俺は陽動でいいよ」 「犯人は同じビショップ小隊だと見るわけだな?」 「もしそうじゃなくても、警備を引っ掻き回すのには分かれた方が好都合だ」 「陽動か。敵は手強いぞ」淡々と告げるハーデに、「だからこそだよ」と、健が返す。 ミレーヌも思案するように俯き、ゆっくりと言った。 「今回の依頼の優先度を考えれば……確実にリーシャンさんを助けるためにも、良い案だと思います」 「『あの』カンダータ兵ですからね。しかも大将は残忍だと噂の中尉。いいですねえ、仕事はこうでなくっちゃ、ねえ」 ファレル・アップルジャックが、紫色の瞳を暗く光らせ、笑いを含んだ声で嘯く。彼は他のメンバーとはまた違った意味合いで、このあとに控えた戦いに気を逸らせていた。 「いいでしょう。二手に分かれることには私も賛成です。救出にあまり時間を掛け過ぎれば、例の女性を連れてどこかへ退却してしまうかもしれませんし。奇襲を仕掛けてアジトに潜入後、片方が敵をおびき寄せ、片方が救出に向かう。但しその場合、私は勿論、陽動、奇襲の側に回らせて頂きますよ」 「異論のあるものは?」ハーデの問いに、異を唱える者はいない。 「じゃ、俺とファレルは陽動組で確定」健が自分とファレルを順番に指差して確認をした、その人差し指と視線が、ついと片手を上げたもうひとりの人物を捕らえた。 「私も陽動組を希望するわ。やり方なんて、殺して脅しての強盗方式しか思いつかないけど」 物騒な台詞とともに現れた少女は、同じく今回の依頼を受けた旅人のひとりで、墓守の常盤(トキワ)である。常盤は無機質な印象を与える表情を少しだけ崩して鴉御前の方を向いた。 「久しぶりね、キラン。元気だった?」 「あァ、嬢ちゃん、じゃねェや、常盤! あンときゃァ世話んなったな」 「『キラン』? 鴉だろ?」 訝しむ健に、鴉御前が振り向いて返す。 「そう呼ぶヤツもいるってこった。鴉御前ってなァ芸名なのさ。ってオメエ、鴉じゃ足りねェや! 鴉御前様と呼びな」 「なんでだよ! 増えてるじゃんか!」 「何よ、大人げない。呼び方なんてどっちでもいいわ。で? あなたはどうするの?」 常盤が背後に立つ長身の男に問い掛けた。 「統率を乱すという作戦は有効であると思う」 重みのある低音の主はヴィルヘルム・シュティレ。精悍な老吸血鬼は、ゆったりと落ち着いたしぐさで旅人たちを眺め渡した。 「私はまず建物の構造と人員配置、その他必要な情報を全て収集しよう。そしてそれらを全員で共有する」 「それだ!」健が何か思い出したように声を上げ、がさごそと荷物を探る。「違法改造無線機だよ。地下でも充分聞こえるぜ? ただ相手にも見つかり易い……それでも手が離せない緊急連絡の役には立つ。胸ポケットに入れて、片耳挿しててくれ」 「『違法改造』?! オメエ一体ェ何モンなんだよ……」 「まあ。準備がいいのね。っていうかそれ何処に入ってたの」鴉御前が呟き、常盤が目を丸くする。 「いやいやいや。ただの武器ヲタク大学生だって」と、台詞に反して(?)どこか得意げな様子の健にひとつずつ配られた無線機を、ヴィルヘルムも受け取りイヤホンを差し込んだ。 「無線、エアメール、時と状況に応じ、有効な手段を用いて孤立を防ぐのだ」 それぞれが装備を整えながら、ヴィルヘルムの言葉に頷く。 7人の連携が任務成功の鍵になる。 言葉にしないまでも、全員がその事実を認識していた。 「よし、とりあえず、資料は全部寄こせよ、鴉?」 「鴉じゃねェ!」 「私にも資料に目を通させて頂きたい、鴉殿」 「だから鴉じゃねェって! じィさんに言われたら冗談だかなんだか分からねェよ……」言いようも無く疲れた顔をして項垂れる鴉御前を、健は嬉しげに眺め、ヴィルヘルムは何事かと心配そうに見つめた。 「……気は済んだか?」 じ、と成り行きを見ていたハーデが、やはりいつも通りの冷静な口調で問う。 「作戦の決行にあたって、先ず確認しておきたい」 みなが彼女の方へと視線を向けた。 ●病院 閉鎖された病棟の地下深く、旅人たちは、指先から順に、腕、胴体、そして脚、頭と、その姿を現した。ファレルの能力により分子のレベルに分解した状態から元通り再構築されるのに掛かる時間は僅かで、その瞬間に突如生じた重力によりふらついたミレーヌを、健が、手を差し伸べて支える。 「ありが――」 礼を言おうとするミレーヌの唇を常盤が素早く手のひらで塞ぎ、声を出さないように合図した。耳を澄ますと、ドアを挟んだ廊下側に人の気配がある。姿を不可視にすることで潜入出来た、ここが最奥の部屋であった。どうやら機械室らしい。張り巡らされたパイプは錆び付き、かつては稼働していたであろう空調設備の機器は冷たく静まり返っている。 『機を読むことだ』 ヴィルヘルムが、自らの肉体を霧に変化させながら告げる。 ――早過ぎては立て直される。遅過ぎては守りを固められる…… 吸血鬼の言葉は鼓膜で無く、旅人たちの脳を直接揺らし、その姿と同じようにすっと消えていった。人員配置の把握、監視カメラやセンサーの解除が彼の役目だ。だが、旅人たちにその結果を待つ時間は無い。計器類に狂いが生じればカンダータの兵は警戒を強めるだろう。警報装置の無効化と、奇襲作戦の開始は、同時で無くてはならない。 ハーデがクレアヴォヤンス(透視能力)を使って、廊下の様子を探る。 「警備兵が二人。どちらもサブマシンガンを装備。とはいえ数の上でも我々の敵ではない」 「だったら、まどろっこしい作戦はやめにして、一気に叩きつぶしましょうか?」 不穏な台詞を吐くファレルを、ミレーヌは視線で制した。 「いえ、出来得るかぎり、最初は穏便に。リーシャンさんだけでなく探偵の居場所が把握できていなければ、彼に危険が及ぶかもしれません」 ミレーヌの言葉に健が顔を歪める。 「……シーイィをリーシャンの傍に置くもんか。下手すりゃもう殺されてる」 「そうね」常盤が頷いて言葉を継いだ。 「一応、そっちも調べてあげましょ」 「目的を増やせばそれだけリスクが上がるぞ」 「ああ。それでも、シーイィは俺たちの仲間だった。助けに行く、確かめに行くのが筋だ」 旅人たちの沈黙は、健の言葉への同意を意味するのだろう。軽くため息を付いたハーデに、健は無邪気な笑顔を向けた。 「とりあえず、あいつら拉致って確認したいな。頼めるか、ハーデ?」 「……分かった。他の案がないなら警備兵拉致に同意する。二人くらいならお前込みで充分運べるだろう。監視カメラが作動している。他の者は待っていろ」 一定の周期で廊下の端から端を見張る監視カメラの死角を突き、ハーデが警備兵の後ろにテレポート(空間移動)し、素早く催眠スプレーを浴びせかける。ファレルが分子の操作によりマシンガンを捻じ曲げ、暴発を防ぐ。向こう側へ振り切ったカメラが戻ってくるより前に、ハーデがドアの方へテレポート、ぐったりした警備員一人をアポーツ(物体引き寄せ)し、その間に健がもう一人をドアの内側へ引きずり込む。鴉御前が元通りにドアを閉じたのはカメラがドアを映し出す直前で、息を詰めてその様子を見守っていたミレーヌは、ふぅ……と、息を吐き出した。 「のんびりしてるヒマは無いわよ」 言いながらロープを放り投げてきた常盤と共に、警備兵二人を縛りあげ、片方に猿轡を噛ませる。 「さぁ答えてくれるかな? 浚ってきた探偵と女科学者、どこだ?」 健は兵士のホルスターから素早く拳銃を抜き取ると、その太腿に銃口をピタリと押し当てて尋ねた。動揺の色を見せつつ口を噤んだまま健を見上げた若い兵士に、しかし、然程の猶予は与えられない。 「教えてくれないなら……こうする」 言い終わるか終らない内に弾丸が発射され、床に転りのたうつ兵士の塞がれた口から、くぐもった悲鳴が漏れた。 「ってオイ?!」 「さて、次はお前だ。何発撃ったら答えてくれる?」 顔色ひとつ変えず引き金を引く指に力を込める健に、ミレーヌが駆け寄る。 「やめてください! こんなに血が……」 「血? ファレル、止められるだろ」 「なんで私が」 面倒臭そうに顔をしかめたファレルだったが、ミレーヌの悲愴な眼差しに、嫌々ながら手をかざし、止血してゆく。 「痛みまでは知りませんよ」 細く呻き声を上げる兵士にファレルが吐き捨て、ハーデは意外そうに眉を上げて、健を見つめた。 「確かに大動脈を撃ち抜かなければそうそう死なないが……意外に外道だな、お前?」 「そうか? これくらい普通だろ? 殺しはしない。痛い目見たくないなら早めに吐けって言ってんだ」 あまりの台詞に目を見開き、身を乗り出したミレーヌを、鴉御前が遮る。 「待ちな、嬢ちゃん。何か考えがあるらしい」 「相手の精神を打ち破れば意識を読むのは簡単だ……質問を続けさせろ。恐怖が感情を読み易くしてくれる」 行き場を無くして振り向いたミレーヌにハーデが小声で告げ、ミレーヌは俯いて、拳を握りしめた。 「んじゃ、まずは両足いくか? その次はどうする? 相棒に決めてもらうか? あぁ、そういや、『人魚の眼』の資料読んだよ。あれって眼球が材料なんだってな。残虐だって噂の上司に実験材料として提供しようか?」 瞬間、ヒッと息を飲んだ兵士を、ハーデの青く澄み透った瞳が射抜く。 「……読めた」 「よっし、サンキュ、ハーデ! じゃあ、お前らはしばらく寝てな」 警備兵二人の顎と首筋を手にした銃のグリップで殴って気絶させると、健は緊張の為か額に浮いた汗を拭った。 「あら、優しいのね」 常盤の皮肉交じりの声に、健は唇を尖らせる。 「ヴィルヘルムも言ってただろ。機を読めって。こっからはスピード勝負だ。モタモタしてたら何もかも無駄になる」 その傍らでハーデはナイフの先を使い、埃の積もった床に、兵士から読みとった見取り図を描いていった。 機械室はフロアのほぼ中央にあり、部屋の前の細い廊下は東西両側にあるメインの廊下に繋がっている。北側には地上へ続く階段、南側が実験室などの重要な施設になっており、ハーデはそのうちの二部屋を順に指差した。 「シーイィと思われる男はここ。リーシャンが居るのはここだ。金属扉にパスワードが要るようだが……、私でもヴィルヘルムでも破れるだろう。リーシャンは機械に繋がれているらしい……。解放に科学者が要るかもしれん」 「そうですね。非戦闘員には注意を払わなくては。あるいは、」 「早い段階で中尉を拘束し、リーシャン解放の手掛かりを掴むか、だな」 「わかったわ。その、中尉とやらは生かしといた方がよさそうね。彼にしかできなさそうな事が結構多そうだし。……ああいうの、嫌いなんだけど」 不快気に顔をしかめる常盤の耳に、かすかな音が響いた。 『始まるぞ』 初めに声。次いで少しずつ実体を構築しながら、ヴィルヘルムがみなの顔を見渡す。 「施設内部の計器が徐々に狂うよう仕掛けてある。原因が分からず、兵は焦り、混乱するだろう。この機を逃してはならぬ」 「行こう」 一瞬の静寂ののち発せられた、ハーデの凛とした一言が合図となり、旅人たちは同じ目的の為、それぞれの戦場へと歩き出した。 あとは――臆すること無く決行するのみ。 ●牢獄 「不老不死、ねぇ。実現すればただの悪夢にしかならないと思うけど。停滞は何もかもを腐らせるもの。それに……」 扉の並ぶ廊下を歩きながら、常盤が無意識に、頬の傷痕に触れる。 「人は異端を嫌うわ」 「そうかもしれねェな」 『墓守』である常盤と『墓場生まれ』の鴉御前には、どこかしら通じるところがあるのだろう。明るく陽気な常盤ではあるが、染みついた『死』の気配は拭い難く付きまとう。そして死は、生者にとって忌避すべきものなのだ。 「まあ、カンダータの連中にはそんな事どうでもいいんでしょうね」 「ああ。そもそも仲間をふっ飛ばして平気な人間の考えることなんて想像つかねェや」 「タグブレイク……、か」 生と死の境界で生きてきた常盤にとって、生命を奪うことに対しては何の抵抗も無い。それでも鴉御前が示した嫌悪の表情に、常盤は、共感のようなものを覚えた。 キランの言う『仲間』とは、『自分たち』のことなのだろう。出身世界の朋輩であり、今この瞬間においては共に闘う7人の旅人たち。 迷い、惑い、時に手に負えぬほど混濁する自らの不安定な精神を常盤は憎んでいる。けれど、そんな自分を信頼し、同じ目的の為に今、戦っている『仲間』を、常盤も同じように信じた。 遠くで爆発音が聞こえる。 「始まったか」 「随分派手な合図ね」 東側の廊下を通るルートは、予想通りというべきか――静かなものだった。最短で実験室へ繋がる西の廊下には、健とファレルが向かっている。ヴィルヘルムによればカンダータ兵の半数以上が西側に配置されており、その途中の一室にシーイィが閉じ込められているという。常盤と鴉御前のいる廊下は実験室へ繋がるもうひとつのルートで、旅人たちは、二人がそこからシーイィのいる部屋へ向かう動きを見せればリーシャン周辺の警備が薄くなるだろうと読んだ。 陽動班が動き出したとなれば、ここにも直ぐに警備兵が現れる筈だ。 「腕が鳴るわ」 常盤は自分の背丈よりも大きな黒い槍の柄を、ぐ、と握り直した。 ● 爆音と、目も眩むばかりの光。 施設内部からの襲撃は、カンダータの兵士たちにとって想定外だったに違いない。廊下の角に身を潜め、オウルフォームのセクタン、ポッポと視覚を共有しながら、タイミングを計って小さな物音を立て、集まってきた警備兵の中央にまず閃光弾を投げ込んだあと、続けざまに催涙弾を食らわせる。 「侵入者だと?! 一体どこから……!!」 「気付くの遅いよ!」 ガスマスクの下でもごもごと、それでも健は威勢よく言い放ち、慌てふためく兵士たちに体勢を立て直す隙を与えず、頭から突っ込んで行った。右手に握りしめたトンファーで敵の弱点を突き、叩きのめしては、準備よく持参したロープを使って素早く縛りあげていく。 「クソッ! 警報システムがイカれてやがる!!」 「無線も……駄目か!」 「今さらじたばたしても仕方ありませんよ? それより……この状況をもっと楽しみましょうよ、ねぇ?」 通信手段を断たれて動揺する兵士たちを尻目に、ファレルはゆっくりと歩み寄ると、何気ないしぐさで特殊能力を発動し、空気を構成する分子を思いのままに結合させ、襲い来る敵に向かってばら撒いた。不可視の刃が兵士たちの皮膚を切り裂く。 「一体どうなってるんだ!?」 「知るか、ぶっ殺してやる!」 「殺す? 私を? 面白いですよ。いやむしろ滑稽ですよ。命乞いをするならあなた方がしたらどうです? 土下座でもすれば利き腕を切断する位で許してあげますよ?」 「ぬかせ!!」 死に物狂いで向かってくる敵にも動じず、武器を捻じ曲げて攻撃力を削ぎ、鋭い蹴りを入れて腕をへし折る。 「あーあー、黙って降伏すれば怪我せずに済んだのに……」 倒れた兵士を縛り上げ、拘束しながら、新たに駆けつけた兵士に空気の刃を投げつける。 「……っ、手間がかかりますねえ?」 「最低限しか殺したくないんだよっ!! だから破片手榴弾持ってきてないだろっ!!」 さらにその数を増やしていくカンダータの兵に向け、健は再び閃光弾と、催涙弾を連続して放り込んだ。連携を断たれた兵士たちは、狭い廊下でぶつかり合い、右往左往している。 だが、同じ手は恐らくもう通じまい。 「ウソだろ……」 不安が的中し、健がぽかんと口を開ける。 第三陣は他の兵とは違い、フルフェイスのガスマスクにボディアーマーと、頭から足の先まで完全装備で現れた。 「そんな大層なもん着込んでて、動けるのかよっ」 怯むこと無く相手の正面へ突っ込んで首や股間等の弱点をピンポイントで狙い、トンファーを突き入れる。 「相手がひとりならまだしも……! って、ファレル?! おーい!!」 いつの間にか姿を消したファレルを探す余裕も無く、壁際に追い詰められていく。4、5人の兵士に囲まれて殴りつけられ、意識朦朧とした健の耳に、突如、しゃがんでください、という声が聞こえた。 「え? しゃがむって、こう?」 意図的にしゃがむまでも無く、がくりと床に膝を付いた健の真横で、異様にくぐもった爆発音が響いた。 「な……」 辺りを見回すと、すぐ横の壁の上半分が崩壊し、健を追い詰めていた兵士たちを押しつぶしている。 「崩れ易くなっていたので。分子をちょいと操作して脆い部分を撃ったら、いけました。……残念ですが、殺してはいませんよ?」 「いけました、じゃないよ……」身体の力を抜き、ふう、と大きく息を吐く。 「ありがとな。助かった」 『健……健! 応答して!』 イヤホンを差した耳から、常盤の焦ったような、雑音混じりの声が流れ込む。 『ちょっと、そっちは無事なの?』 「ああ、今んとこはな! ちょーっと壁が一部崩壊しちまって。でも何とか上手くいってるよ。死人も出てない。そっちは?」 ● 「そんな余裕、無いかもしれないわ……」 最初から大勢を相手にするならまだやり方があったかもしれない。だが、カンダータの兵は一人、また一人と断続的に現れた。初めのうちこそ順調だったものの、疲労が増すにつれて制御が失われてゆく。 槍で片足を引っ掛け、胸元を蹴飛ばして一人を倒したところで、呼吸を整えようと息を吐いた、その瞬間に鴉御前の叫びが響いた。 「常盤!! 後ろッ!!」 声と破裂音、焼けるような衝撃はほぼ同時だった。 槍を掴み直そうとした左腕はだらりと下がったままで、まったく力が入らない。振り向いて自分を狙う兵の姿を確認し、視覚よりも遅れて、銃声を聞いた。2発、3発。音にも負けぬほどの速さで自分と兵との間に割って入ろうとした鴉御前を突き飛ばすと、常盤は右腕だけで、巨大な槍を振りかざし、低い位置から渾身の力を込めて突き出した。 手に馴染んだ、生きた肉を貫く感触。 ずるりと槍を引きぬくと、兵士が声も無く、どさりと崩れ落ちる。 「常盤……、」 「近付かないで! そこで見てて」 気遣うように手を差し伸べようとする鴉御前を制し、目を閉じ左腕の痛みを堪えながら精神を集中させ、再び目を開く。 <立て。> その声は、確かに常盤の口から発せられたにもかかわらず、少女のものとは思えぬほどの逆らい難い威圧感を持っていた。思わず息を飲む鴉御前の眼の前で、いま息絶えたばかりのカンダータ兵が立ち上がる。 新たに2人駆けつけた兵士がその様子を見て目を見開き、恐れを為したように後ずさった。その隙を見逃さず、鴉御前がひとりを殴り、蹴倒して縛り上げると、常盤は死んだ兵士を操って、もうひとりを後ろから抑え込み、喉元にナイフを突き付けさせる。 「さてと、確認よ。あんた達、あと何人いるわけ? さすがにウンザリだわ。をれと、探偵を閉じ込めている部屋を教えて。質問にはキリキリ答えなさいね。今あんたを羽交い絞めしてる奴に仲間入りしたくはないでしょ?」 振り向いてその変わり果てた姿に怯え、兵士はへなへなと床に崩れ落ちた。先刻まで仲間だった人物が死んでのち再び立ち上がり、敵の言いなりになる姿は、相当のダメージを与えたらしい。 仕方なく常盤は、死んだ兵士にシーイィが監禁されている部屋まで案内させると、呪いを解き、その身体を解放して、ぽつりと呟いた。 「……ねぇキラン、こんな事が平然とできる私は嫌な奴かしら」 鴉御前が足を止め、振り向いて答える。 「護りてェもんの為だ。どっちも必死なんだ。それより外のこたァお天道様の領分だろ。たとえ、常盤……、アンタが嫌な奴だとしても」 常盤は鴉御前を見上げた。 「オイラは好きだぜ」 「!」 『鴉のおっさんはロリコンなんだねー』 「!!」 イヤホンからの声に、鴉御前がきょとんと首を傾げ、常盤が目を見開いて叫ぶ。 「聞いてたの、健?! いつから?!」 『いや、ホラ、VOXっつって自動で音声拾うモードがあって』 「そんなもんあるならちゃんと説明しなさいよ!!!」 『「したよ!! つか、後ろ」』 奇妙な二重音声の台詞に従って後ろを振り向けば、西側から歩いてくる健と、ファレルの姿が見えた。 「どうやら、片付いたみたいですね」 「そっちもね」 ほっとしたように笑う常盤の怪我に気付き、健が駆け寄る。 「酷いのか?! 血が……」 「大丈夫よ。これくらい」 「止血ならできますよ」 ファレルが素っ気なく言って、常盤の左腕に手をかざし、意識を集中するように目を閉じた。痛々しく開いていた傷口が、見る間に塞がってゆく。 「?」 「どうかしましたか?」 「痛くないわ」 「……それはよかった」 「ありがとう」 「…………」 二人のやり取りを眺め、健と鴉御前は、顔を見合わせて笑った。 ● 「……まあ、いい加減だよな」 錆び付いた鉄製の扉にはどこにでもあるような簡単な鍵が掛かっているばかりで、最高のテクノロジーを駆使した厳重なセキュリティを施してあるという実験室とは雲泥の差である。 健は持参した釘抜きを取り出し、器用な手つきで鍵を壊した。 狭く、暗い、牢獄を思わせるような部屋の壁に、ぼろぼろの中年男がつながれている。手酷く暴行を受けた上、食事も与えられなかったのだろう、資料にあった写真とは別人のようにやつれていた。 「生きて会えて嬉しいぜ、色男?」 手首の拘束具を外しながら健が言うと、シーイィは、腫れあがった瞼を僅かに持ち上げた。 「誰……だか知らねぇが……そーゆー言葉は別のシチュエーションで聞きたかったぜ……」 「何言ってんのよ! 誰がおっさん探偵なんかに!!」 常盤が冷たく言い放つ。 「その、可愛いのにキッツイ感じの子はまさか……」 「きついは余計だけど、常盤よ。久々に顔を見たと思えばみっともないことになってんじゃない」 「ってこたぁ、あんたら図書館の」 「挨拶は後まわし!」会話を打ち切るように、健がきっぱりと言った。 「この施設には重要な情報がたくさん集まってる筈だ、もしかしたらってことがある」 「自爆の可能性、ですか。忌々しい」ファレルが舌打ちをする。 「とにかく外へ」腕を掴んで立ち上がらせ、身体を支えようとする健に、シーイィが、待て、と掠れた声で訴えた。 「同じように捕まってる人間がいるんだ。実験の……材料にされた。みんな目を潰されてる。そいつらも、一緒に……」 「……わかった」 湧き上がる怒りを抑え、シーイィに案内を請う。 「まさに外道の仕業ですねえ。やはり殺してやればよかった」 「ファレル!!」 「わかってますよ」 睨みつけてくる健に、肩を竦めて返し、手にした小銃を仕舞うと大人しく後へ続く。 「鴉のおっさんは捕虜の見張り、ファレルは捕まってる人たちの救出を手伝ってくれ。常盤は、……行くんだろ? 気を付けろよ」 健の言葉に力強く頷くと、常盤は一度だけ――扉の前に倒れ伏し、もう二度と動くことの無い兵士の死体を見遣って、実験室へ向かって駆けだした。 ●海底 「あ、ああ」 トラベラーズノートを開いたミレーヌの唇から、力無い呻きが漏れる。 やはり死者が出てしまった。 『先ず確認しておきたい』 出発時の、ハーデの声が脳裏に浮かぶ。 『殺しては拙いのだろう?』 その問いに誰がどう答えたのだったか。 訓練されたカンダータの兵、その数、武器の性能を見ても、決して油断出来る相手ではない。過酷な戦場では一瞬の判断ミスが文字通り命取りになる。 世界図書館からの依頼は科学者の救出と、兵の捕縛。 それを、遂行する為に。 私たちが生きて戻る為に。 迷いがあってはならない。 『迷うな』 それが結論だった。 「……それでも最小限の犠牲だった筈だ」 俯いたミレーヌに、それとも自らに言い聞かせるように――ハーデが呟く。 「シーイィ殿の救出も叶った。最後の任務は全て我々に託されたのだ。ここで立ち止まるわけにはゆかぬ」 ミレーヌ、ハーデ、ヴィルヘルムの3人は実験室の扉の前にいた。 戦闘能力に長けたハーデ、変幻自在のヴィルヘルムにしてみれば、陽動班の活躍もあり、ここまでの任務は予想よりもずっと容易であったが、使命感と共に迷いと不安を抱き続けてきたミレーヌにとっては、長い長い道程だった。 『視線が通れば瞬間移動できる。見えないところに飛び込んでの蜂の巣は御免蒙る』 ハーデの言葉に尤もだと頷き、ヴィルヘルムが霧に変化して状況を把握、ハーデがテレポートによって隙を付き、グレネードランチャーで催涙弾を打ち込んで敵を撹乱。ヴィルヘルムが斬り込み、魔法の炎を放ち、凍らせる。追い打ちを掛けるようにハーデがゴムスタン弾を食らわせ、ミレーヌもステッキを使って敵を惑わせ、打ち倒す。 反撃の隙を与えず、3人は立ち塞がるカンダータ兵を無力化し、拘束していった。 そして。 ――ようやく此処まで辿り着いた。 ミレーヌがガスマスクを外し、埃っぽく饐えた空気を肺いっぱいに吸い込む。 (扉の向こうにはリーシャンさんがいる。そして恐らくはビショップ中尉も) 陽動班の健と常盤、二人からの情報を合わせると、所在不明となっているカンダータ兵は残り1名。目前の扉の奥の実験室だけがハーデの透視能力を弾き、ヴィルヘルムの霧さえ寄せ付けなかった。 ふいに警報装置が響く。 健からのエアメールにあった『自爆装置発動の可能性』が、3人の頭を過ぎった。 「もはや正面突破より道は無い」 ヴィルヘルムが捕捉した兵士の一人を深い催眠状態に落とし、点滅を繰り返すコンソールにパスワードを打ち込ませていくと、程無く微かな振動音と共に道が開かれた。 「行くぞ」 躊躇うこと無く、ライフルを構えたハーデが踏み込み、ミレーヌ、ヴィルヘルムが続く。 薄暗い部屋。 施設内の他の部屋と違うのは、積み重ねられた、見慣れない様式のコンピュータの類だ。 逆光の中に浮かび上がった影が、靴音を響かせて近付き、明かりの下で立ち止まった。優しげな顔立ちに、プラチナブロンドの髪、紳士的な振る舞い。 「……おまえが中尉か」 「ほう、私をご存じなのか。如何にも、私がビショップ中尉だ。目的は彼女かね?」 「リーシャンさん!」 ミレーヌが、視線で示された手術台に駆け寄る。 「本隊との連絡が途絶えた時に、覚悟はしていた。終わりが近いかもしれないと。それでも実験は進めねばならなかった。それこそが私の使命だからだ」 ビショップ中尉は、警戒する素振りも見せず、ゆっくりと歩きながら語り続ける。ハーデはライフルを構えたまま、中尉の言葉を遮った。 「リーシャンを解放しろ」 低く、感情を殺した声で命じる。 使命が。生き抜いてゆく為の、目的が。 ある日突然に奪われてしまった。 課せられた使命を果たす為、非道な実験も、自らの死さえ厭わず受け入れようとする目の前の男を、これ以上無いほど憎いと思うのは、胸を焦がす嫉妬の為ではないのか。 ふいに湧き起こった疑問を振り払い、再び告げる。 「解放するんだ、お前の手で」 腹立たしいほど落ち着き払って、中尉は言った。 「起こすのは簡単だ。スイッチをひとつ押せば、眠り姫は目を覚ますだろう。だが一体、誰の為に? 彼女はそれを望むかな? 彼女の幸せそうな表情を見るがいい。例えこのまま朽ちたとて、本望に違いない」 中尉の言葉は甘い毒のように、旅人たちの心を蝕んだ。 ――本当に幸せなら? 彼女自身がいま、幸せだと、感じているのなら。 それ以上の<真実>が必要だろうか? その時、静寂を裂いて、駆けつけた常盤が叫んだ。 「シーイィは助けたわ。他の人たちも。実験体として捕われていたみたい。体中傷だらけよ。勿論、眼球も……」 強気な常盤の声が、悔しげに震える。 「あなたが中尉ね。あなたの命令なの? どういうつもり? 実験体にされたのは……インヤンガイで捕われた人間たちだけじゃない。カンダータの兵も含まれていた」 瞬間、ミレーヌは空気の密度が上がったかのような、圧倒的な息苦しさを感じた。 「……今更驚きはしない。外道な連中だというのは重々承知しているからな」 台詞とは裏腹に、怒りの為だろう、ハーデの瞳がギラギラと輝きを増す。 周囲を取り巻く緊迫した雰囲気を面白がるように、ビショップ中尉は微笑んだ。 「志なかばで死んでいった偉人達を思い起こしてみたまえ。良き導き手はその国に平和をもたらす。永劫に生きる価値のある人間がいるのだ。そうでない人間がその為の礎となるならば、それは僥倖というものだろう」 「成程」 老吸血鬼が大きく息を吐く。 「大志を抱く、大いに結構。ならば――、全てを賭して抗え、人間」 ヴィルヘルムが漆黒のマントを翻らせ、再び霧へと姿を変え、中尉の体を包み込む。 『善悪を問う事はすまい。だが、落とし前は付けて貰おう、戦争の徒』 「C'est la vie(それが人生だ)」 ハーデの腕から伸びた光の刃が、一瞬で、男の胴体を両断した。 中尉は一切の抵抗をしなかった。 「他者を冒涜するものは排除される。それが世界の範と知れ」 迷い無く放たれたハーデの声が宙に消えると、先程から鳴り続けていた筈のサイレンの音がふいに旅人たちの意識へと戻る。 「……時間が無い。リーシャンを解放しなくては」 「自爆は、止められないのでしょうか」 『試してみよう』 ミレーヌの訴えに、ヴィルヘルムが応える。 常盤は、手術台に歩み寄ると、襤褸切れのようなワンピースをまとった、小柄な女の表情を見つめた。 「なんかすごい幸せそうだけど……このままの方が、いいのかしら。このまま、幸せに終わった方が」 旅人たちの頭に中尉の言葉が過ぎる。 ――誰の為だ。この行為は。 手術台に置かれた常盤の手のひらに静かに響き続けていた振動が、ぴたりと止まる。 「機械が……停止した?」 『人魚姫が溺れ死ぬのは、見るに忍びないのでな』 (夢は夢だ。夢を見るのは良い。だが、夢に溺れてはならぬ――) ヴィルヘルムの脳裏に亡き妻の顔が浮かぶ。 死によって分かたれ、何百年、何千年と時を過ごそうとも、決して忘れることは無い。この胸に彼女が存在する限り。私は生き続ける。 ヴィルヘルムは自爆装置を停止させ、リーシャンに繋がったコンピュータを狂わせて、目覚めの鐘を鳴らす。 『生きているのなら、足掻かねばならぬ。世界の果てで待つ者に、胸を張って会いに逝く為に』 生きることで証を立てよう。 命絶えるまで貴女を愛し、貴女に愛されたと―― ハーデは、リーシャンの瞼がピクリと動いたのを確認すると、もう一度光の刃を振るい、一刀の元に手足の拘束具を断ち切った。 「起きろ……それでもお前を待つ『世界』のために」 ● 「ここいらで暗躍する『黒社会』の一党から、嫌われてんだ。うまく逃げおおせたと思ったが、連中、それ程甘くなかったか」 捕縛した兵をロストレイルへ乗車させ、実験体とされていた住人達を病院へと送り届けた後。出発までの時間を使い、施設内の『牢獄』と変わらぬくらい狭く薄暗いシーイィの<巣>へ、旅人たちは、眠ったままのリーシャンを運び込んだ。シーイィの知り合いだというモグリの医者によれば、実験による手術の後遺症の他には特に問題無く、もう少し経てば自然と目を覚ますだろう、とのこと。 確かにあの地下室でコンピュータに繋がれていた時よりはずっと顔色もよく、時折り手や足を動かしたり、寝言のような不明瞭な声を漏らしたりする様子を見ると、覚醒の時は近付いているらしい。 リーシャン誘拐時に目撃された男というのは黒社会『黄水虎』の一員で、カンダータ軍と結託し、互いの技術や固有の資源を提供し合い、片や軍事利用の為、片や強大な権力を得る為にと、非道な実験を重ねていたのだという。 「で? なんでシーイィが捕まるのよ。知り合いが余計な面倒増やしてくれて、びっくりだわ」 「俺だってびっくりだよ! それがさ、元々その『黄水虎』は俺のこと目の敵にしてんだけど、先に誘拐したリーシャンと関わってたことがバレて、ついでにって感じで、訳の分からねえ輩に突き出されたみたいなんだよね」 「つまりはタダの嫌がらせかよ」 「タダとはなんだ! 俺だって骨折とかしてんだぜ!!」 「俺なんか頭殴られて、気絶しかけたもんね!!」 「お前らは一体何を競っているんだ……」 シーイィと健の不毛な言い合いに、ハーデが頭を抱える。 「シッ! リーシャンさんが」 運び込まれてからずっと彼女に寄り添っていたミレーヌが声を上げ、旅人たちは、固唾を飲んでリーシャンの様子を見守った。 う、んん、と呻き、身じろいだ女科学者は、そのまますやすやと寝息を立て始め、あちらこちらから、落胆のため息が漏れる。 「今は焦らぬことだ」 静かな声で、慰めるようにヴィルヘルムが言った。 「物事にはふさわしい時というものがある。いずれ近いうちに、その時が来よう」 「ねぇ、見てみて」 常盤がリーシャンの顔を覗き込む。 「ちょっと笑ってるみたい。ね?」 問われたファレルが気圧されるように、ええ、まあ、そう言われてみれば……などと曖昧な答えを返す。 「そりゃァ笑うだろうさ」 黙って様子を眺めていた鴉御前が口を挟んだ。 「生きてンだからな。その嬢ちゃんも、オイラたちも」 「ちがう! 今笑ってんの、見てったら!!」 「あいよ、だから笑ってねェとは言ってねェだろうが」 「ファレルも言ってやって!」 「… …… ………。」 「ね? ミレーヌ!」 「ええ、ええ、確かに。笑ってるように見えます」 「ね! ヴィルヘルムと、健も!!」 「…………あ、ああ」 「や、つか、この声の傍でよく寝てられるなーって、イテッ!!」 夜明けの光がうっすらと差し込む、まだ仄暗い部屋の中、楽しげな笑い声が響く。 ハーデは、それから出発までの時間、赤子のように眠り続けるリーシャンの寝顔をじっと眺めていた。 彼女が目を覚ます時。 彼女の体を激痛が襲い、それ以上の苦しみが彼女の心を責め苛むだろう。 だが、それでも―― 間もなく、ティエンライの空に太陽が昇る。 ●帰路 ……… 帰りのロストレイル車内。 ミレーヌは来る時と同じようにボックス席の窓側に座ると、鞄から『白の書』を取り出し、新しいページを繰った。見慣れた筆跡の文字がひとりでに浮かび上がる。ミレーヌは刻まれた短い文章を眺め、同じ車両にいる仲間たちの姿を見渡してから静かに目を閉じ、微笑んだ。 やがて人魚は目覚め、歩き出す。 昏く眩い世界へと―― 了
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