赤には感情を昂らせる効果があるという。ならば、こういった部屋の明かりはどこでも赤っぽいものなのだろうか。裸のまま寝台に横たわりながら、エルシドはそんなことを考えていた。 滑らかな衣擦れとともに隣の女が寝台を降りる。ネグリジェに似た寝間着を纏った彼女は何も言わずにハーブティーを淹れた。彼女はエルシドがハーブティーを好むことを知っている。 レンカという名の彼女と知り合ったのはいつのことだっただろう。非番の日にたまたまこの町を訪れ、同僚の勧めでこの娼館“ロトス”に入った。宮殿を模した安っぽいこの館の中でエルシドの相手をしてくれたのがレンカだった。「どうぞ」 華奢な手がカップを差し出す。エルシドは無言で半身を起こした。カップを受け取ろうとしない彼にレンカは首を傾げた。 沈黙が凝る。ゆるゆると立ち上る湯気ばかりが時間の歩みを教えてくれているかのよう。 エルシドはわずかに唇を震わせ――そして。「……一緒に逃げねえか」 呻くような囁きが、仄暗い赤の中に融けた。「逃げた……と?」 脂肪の中に埋もれそうな目を軽く見開き、“血の富豪”は自身の髭をしごいた。「い、いいえ。まだロトパレスの中には居ると思われます」「同じことではありませんか。娼館から逃げ出したのですから」 娼館に在籍する娼婦の大半はガルタンロック一派の手によって“調達”された女たちだ。「捕えなさい。借金を踏み倒すなど言語道断。娼婦稼業が嫌なら拷問ショーに出演して稼いでいただきましょう」「男の方はいかがいだしましょう。どうやらジャンクヘヴン海軍の人間のようですが」「ほう」 富豪は鈍重に瞬きをし、その後で底意地の悪い笑みを浮かべる。「ならば、捕えなさい。海軍に恩を売るために利用させていただきましょう」「どもども、お待たせしてすんまへん。わしホーチいいますねん、以後よろしゅう」 豆本サイズの『導きの書』を抱え、ひょこひょこと旅人達の前に現れたのは緑の体に赤い顔をしたインコだった。擬人化したインコではなく、インコだった。見た目も大きさもインコそのものである。「エー、ブルーインブルーのォ、ジャンクヘヴン海軍からの依頼ですー。海軍のエルシドいう男が娼婦と駆け落ちしようとしとるさかい何とかしてくれと。男と女のことに口出すんは野暮やけど、向こうさんにも軍のメンツいうもんがあるんでっしゃろ。場所は――」 つぶらな瞳をきょときょととさせ、あきんどのように滑らかに言葉を継ぐ。「“夜に咲く花・ロトパレス”。またの名を快楽都市。酒場・宿屋・賭場・娼館……船乗りや旅人をもてなすために海上都市がまるごと歓楽街になっとるんですわ。エルシドはんはそこのレンカいう娼婦と馴染みで、まぁ、要はレンカはんにホの字ですねん。親の借金のカタにさらわれて娼婦稼業させられとるレンカさんを不憫に思ォて駆け落ちしようとしとるんですなー」 だが、壱番世界の歓楽街にヤクザが根を張っているように、ロトパレスも海賊の影響下にある。 血の富豪・ガルタンロック。赤毛の魔女・フランチェスカ。快楽都市はこの両者の勢力争いの場でもあるのだ。「レンカはんの親はガルたん……ナヌ? ええですやん、いちいちガルタンロック言うんは面倒ですやん。エー、レンカはんの親の借金相手はガルたん配下の商人なんですわ。で、ガルたんの一派が二人を捕えようと動き出してますー。エルシドはんも軍の中堅でっさかい、海賊につけこまれたら面倒でっしゃろ。そんで秘密裏に解決してほしいてウチに依頼が来たわけですわ。ウチは便利屋ちゃいまっせって言いたいとこですが、まァ、海軍に恩を売っといて損はないですやん? てことで、ひとつよろしゅう」 嘴で導きの書のページをめくり、ホーチはふと思い出したように付け加えた。「ロトスって知ってます? そそ、ギリシャ神話に出てくる蓮の実でんがな。実を食べると意欲や欲望を忘れて安楽に、無気力に暮らせるいうて……。ロトスとロトパレス。何やら似てまんなー。ま、歓楽街ゆう所はそぉいうモンかも知れまへん。蓮はそらもう綺麗な花やけど、根を張るのは泥の中なんでっしゃろ? 夜の蝶と同じでんな?」 赤や桃色の明かりから逃れるように、ひたすら夜の闇の中を駆ける。「無理ですよ。海の上なのに、どうやって逃げるんです?」 エルシドに手を引かれながら、レンカは力なく微笑む。「この町では娼婦の足抜けは重罪ですし……借金だってちゃんと返さないと」「だったらずっとここでこの仕事をするのか」「エルシドさん」 レンカの声が震えた。「手……痛いです」 いつの間にか、エルシドは華奢な手をきつく握り締めていた。壊れそうなほど、きつく、きつく。 その頃、船上のフランチェスカは娼館“ロトス”から帰った手下の報告を受けていた。「何だか面白い事になってるわね」 夜風に赤毛を靡かせ、わずかに目を細める。「あなた達、ロトパレスに行ってらっしゃい。わたしは高みの見物でもさせてもらうわ。あのブタ男――ガルタンロックが困るなら面白いじゃない?」
ロトスは蓮。パレスは宮殿。そのせいだろうか、建物や施設に蓮の意匠が散見されるのは。 海上に咲く蓮の宮殿にはいびつな欲望が凝(こご)っている。 深夜の裏路地を紅い颯が駆け抜ける。華やかで昏い明かりの中、その紅は一層鮮烈で、熱い。 「お嬢ーちゃん」 何も知らない男が“彼女”を呼び止めた。だいぶ酔っているようだ。 「可愛いねえ。どこから来たの?」 「知らないほうがいいと思うよ。それより、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」 「つれないなあ。いいだろ、楽しくお話し――」 下品に笑いながら手を伸ばした男は、次の瞬間宙を舞っていた。 「レディーファーストって言うでしょ。ボクの話が済んでからにしてくれる?」 大の男を軽々と投げ飛ばしたミトサア・フラーケンの首で、紅いマフラーが凛と靡いた。 ふう、と紫煙を吐き出す。すぐにやって来た潮風が煙をさらい、溶かしていく。煙の行方を追うように視線を投げ出したダンジャ・グイニは、好奇の目を向けてくる船乗りたちに気付いた。褐色の肌に金色の髪、豊満な肢体を持つダンジャは黙っていればエキゾチックな魅力を湛えている。 「何だい、ボウヤ達」 ダンジャは口の端で煙草を揺らし、乾いた笑いを浮かべた。 「追っかけるなら綺麗なオネーチャンにしな。このババアはあんた達の手には負えないよ」 「ババアは言い過ぎだと思うが」 ハクア・クロスフォードが至極真面目に呟き、ダンジャは「そうかい?」と肩をすくめた。 ロストナンバー達が調査に散る中、ダンジャとハクアだけは港に残った。エルシドとレンカはロトパレスからの脱出を図るだろう。ならば港から船に乗る以外の方法はない筈だ。 「ロトスとは、蓮という意味でもあるようだな。それに夢見心地の愛か……」 どうにも意味深だと呟き、ハクアは腕を組んだ。色の白い肌に、背中まで届く白い髪。喩えるならば白亜の如き容貌だ。 「レンカは現状をどう捉えているのだろう。駆け落ちを持ち掛けられてどう思ったのだろうか」 「エルシドと一緒に娼館を抜け出したってことは、悪い気はしなかったんじゃないのかい? だけど」 現実的に逃げ切れる望みがあるかどうかは別だと付け加えるダンジャにハクアも小さく肯いた。 (最低でも、二人をガルタンロックの手の者から護る。……死んだらそこで終わってしまう) 「ああ、ほら」 考え込むハクアの脇でダンジャがぱらぱらとトラベラーズノートをめくる。 「動きがあったみたいだよ」 そこには山本檸於からの連絡が書き付けられていた。 黒い髪の毛に黒い瞳、ラフな私服。“普通の学生”そのものの檸於は夜の街では少々浮いて見えた。酒とジャコウの匂いで三半規管が掻き混ぜられる。酸素を求めて頭上を仰げば、扇情的な色の明かりで目がちかちかする。耐性がないほど初心(うぶ)ではないが、居心地が良いと言えるほど世慣れしているわけでもない。 「お待たせー」 一方、娼館『ロトス』から出てくるアストゥルーゾの足取りは軽やかだ。彼――便宜上そう呼ぶ――は、ロストレイルの車中では厚着とマフラーとゴーグルで顔を隠していた。厚い着衣の中身(?)が少年と知り、安堵した檸於である。 「何か分かったか?」 「一緒に来れば良かったのに。そしたら僕が説明してあげる必要ないよね?」 「……悪い。こういう所はちょっと」 「ふーん? ま、いいや。んーとね、二人の経歴とか生い立ちとか、行きそうな場所とか訊いたけど、手掛かりになりそうな事はなかったかなー。男は中流階級出身の中堅軍人、女の出身も普通の商いをしてる家。女の家族は親の借金が原因で散り散りみたいだけどね。行き先の目星も特に、って感じ?」 「そこなんだけど。うまく逃げてれば港に来るんじゃ……」 「あ、そうだね、それはあるかも。……どしたの、難しい顔して」 眉間に皺を寄せる檸於にアストゥルーゾは首を傾げた。檸於の肩に乗ったポンポコフォームのセクタンが不思議そうにあるじの横顔を覗き込んでいる。 「ちょっと作戦を考えたんだけど」 「へぇ。どんな?」 「笑わないで聞いてくれよ。まず作戦その一」 くそ真面目な顔で念押しし、檸於は人差し指を立てた。 「ぷる太の真似マネーを用意してレンカを身受けする。で、中には『金は頂いた』と書いた紙を忍ばせる。この紙には適当に海賊っぽい署名をしとくんだ。これなら一日経って金が消えた時に盗まれた様に見せかけられるだろ」 「余計に話がややこしくならない?」 「作戦その二。二人は海に身を投げました、に見せかける」 「よその都市で二人の姿が目撃されたらどうするの?」 「作戦その三!」 檸於はいつしかむきになっていた。 「その三、何?」 「えーと……騒ぎに乗じて逃げる……とか……。うう、鈍い頭が憎い……」 必死に考えてはいる。何とかしたいと願っている。だが、気持ちだけではどうにもならないことも知っている。なぜなら檸於は超人的なヒーローではなく、平凡な大学生にすぎないからだ。<覚醒>するまでは殴り合いすらしたことがなかった。 「慰めるのは後からでいいですか?」 というアストゥルーゾの声に顔を上げた檸於は目をぱちぱちとさせた。 「えっと……アストゥルーゾさん、だよな?」 「ん? そうですよ」 「あれ? 髪の色、さっきまで……ていうか、え? 男? 女?」 「その説明も後からでいいでしょうか?」 無邪気な少年から儚げな少女へと姿を変えたアストゥルーゾは右手の酒場の影を顎でしゃくった。複数の男たちが見え隠れしている。堅気ではないと一目で分かる連中だ。 「あそこの酒場、ガルタンロックの手下がよく来るんですって。だからもしかしてと思ったんです。――こんばんは、お兄さん達。ちょっといいですか?」 口調まで変えたアストゥルーゾの後ろで、檸於は慌ててトラベラーズノートを取り出した。 「もし余裕があったらでいいんだけど……フランチェスカの配下と接触したらノートで連絡を貰えないかな? 交渉したいんだ」 ミトサアはそう言い置いて仲間達と別行動を取った。だが、街の三下を締め上げ、ほうぼうに聞き込みに回った結果、フランチェスカの配下と最初に接触したのは他ならぬミトサアだった。 ある筋書きがミトサアの頭を占めていた。強引な作戦だと知っている。しかし全てうまくいけば最悪の結末だけは避けられる。それに、全てをミトサアの独断専行ということにすれば軍の体面も維持できるのではないか。 だが、ようやく捕まえたフランチェスカの手下によって作戦の一角は崩れた。 「あんたの探してる奴は此処にはいねえよ」 暗い路地裏。苦々しく笑う手下の前でミトサアは眉を跳ね上げた。 「あの商人はガルタンロックの下で手広く商いを行ってる。レンカとやらの件もそのうちのひとつだ。ひとつの都市に留まることなんて稀だ、拠点もあちこちに分散してるしな」 「……本当かどうか体に訊くこともできるけど?」 右手のレーザーナイフをかすかに煌めかせる。手下は小さく肩をすくめた。 「やってみな。騒ぎが大きくなるだけだ」 ミトサアはわずかに唇を噛んだ。恐らく、残された時間は少ない。迅速に行動せねばならない。 「だったら、別のお願いがあるんだけど」 意識して声音を柔らかくした。 「その商人とガルタンロックの取引の証拠や帳簿……それか、納める“商品”の保管場所の情報でもいい。とにかく商人を逮捕できるような情報か証拠が欲しいんだ。うまく行けばこの街でのフランチェスカの勢力を拡大することもできるんじゃない? それに、首領を喜ばせれば部下としての株が上がると思うよ。悪くない話だと思うけど」 「こっちが面倒事に巻き込まれる可能性がないと言えるか? どこのモンとも知れねぇ奴にホイホイ協力するほど軽率じゃねえよ。あのお方は面白いことはお好きだが、厄介事を一番嫌うんだ」 (……一筋縄ではいかないってことか) もういいと告げ、ミトサアは言葉を切った。あどけない顔に落ちる陰影は闇のように深く、濃い。けばけばしい灯火もなまめかしい喧騒も他人事じみて遠かった。 いざとなれば独自の判断で迅速に商人を逮捕するつもりだった。しかしターゲットがこの街にいないのならそれもかなわない。そう簡単にはいかないのか……。 エルシドとレンカの駆け落ちとて同じだろう。そう都合良くは運ばない。幾多の修羅場をくぐり抜けて来たサイボーグは、恋人たちの大団円を無根拠に信じられるほど夢見がちではなかった。 (だけど) ぎちりと、きつく拳を握り締める。 (どうか、生きてほしい……) 死んだらすべてが終わってしまう。刹那、“彼”の顔が脳裏をよぎる。 「ずいぶん肩入れしてるみてえだな」 という手下の声でミトサアは回想から浮上した。 「もしかして、あの二人の知り合いか何かか?」 「あんたには関係ない」 峻烈に突っぱね、再び一陣の風と化す。 「……――郎……」 唇からこぼれた想いは密やかに喧騒の底へと沈んだ。 檸於は些か混乱していた。少年だと思っていたアストゥルーゾは少女だった。少女だと思ったら人外だった。腕が触手と化しているのだから人ではないに違いない。 「どうかしました? そんなに気持ち悪いでしょうか?」 小首を傾げて問うアストゥルーゾに檸於はぶんぶんとかぶりを振った。首から上は青い髪の少女。腕から先は無数の触手。何とも言えない組み合わせである。 触手で拘束された男たち――ガルタンロックの手下だった――は混乱の極みにあった。にこやかに話しかけてきたおとなしそうな少女が突如異形と化したのだから無理もない。 「もう少し詳しくお聞かせ願えないでしょうか?」 拘束したまま、更に高く吊り上げる。この街の娼婦の大半はガルタンロックが“供給”していること、フランチェスカは娼婦達の人気を集めていること……。彼らから聞き出せたことはそれくらいだった。 「駆け落ちした二人のことは? 詳しくご存じないのですか、話したくないのでしょうか? だったら――」 ぐばりと、触手の先が大蛇と化す。ひっ、と喉の奥で悲鳴を上げたのは海賊ではなく檸於のほうだった。 「その辺にしておいたほうがいい」 連絡を受けて駆け付けたハクアがアストゥルーゾの肩を叩いた。 「無益な殺生は騒ぎになるだけだ。海賊の恨みを買うことが得策とも思えん」 「ちぇー。一人だけ残して丸呑みにしてやろうと思ったのに」 「え、何……?」 口を尖らせたアストゥルーゾはまた少年の姿に戻っていて、檸於の混乱に拍車がかかる。“化かし屋”たるアストゥルーゾは改めて海賊たちに向き直った。 「とりあえず我慢するけどー、あんまり色々変身しちゃうとすぐおなかすいちゃってさぁこまるんだよね。んじゃー、改めて質問に答えてねはぁとまぁく、なんちて。――あ、嘘言ったらモグモグしちゃうからね僕エブリデイ空腹だから、まぁせっかくだしさナカヨクしようよ、ね?」 無邪気な笑顔と獰猛な大蛇の落差に海賊達は震え上がった。 「あっ」 繋いだ手が離れる。レンカがつまずいて転倒した。エルシドが素早く助け起こす。レンカは踵の高いサンダルを履いていた。 「どうしてこんなもん履いて来やがった!」 「それしかありませんから……」 仕方ないと付け加え、レンカは力なく微笑む。エルシドは奥歯を鳴らした。ハイヒールはハーレムの女が履く物だという。ハーレムからの逃亡を防ぐためにわざと歩行に適さない履き物を与えるのだと。 「走りにくいだろうが」 唾棄するようにハイヒールを投げ捨て、服の裾を裂いてレンカの足に巻き付けることしかできなかった。 走る。走る。裏路地を抜け、小径を過ぎ、転がるように坂を駆け下りる。レンカは何度も無理だと言った。しかしエルシドは聞かなかった。聞きたくなかった。 潮の匂いが濃くなる。目的地は近い。人気(ひとけ)のないこの抜け道をくぐれば……。 「………………!」 不穏な気配。ゆらり。道の両脇の藪から、人影がひとつ、ふたつ。追手がかかったと見るや否やエルシドはサーベルを抜き放った。 抜け道などない。本当は知っていた。――だからといって、黙って引き下がれというのか? 「逸(はや)るな」 「――!?」 凛と耳朶を打つ男の声。眉を跳ね上げる。同時に、ごうと巻き起こる旋風! 「こっち来い!」 黒髪の男に腕を引っ張られ、態勢を崩しながらもエルシドは見た。風に阻まれて動けない追手と地面に描かれた不可思議な紋様、そして、その前に立つ白亜の如き男を。 「呑んじゃいたいけどー、我慢するね。ダイジョブダイジョブ、ちょっと気絶してもらうだけだから」 楽しげな少年の声が響いたと思ったら、蛇の如き触手が追手達を捕えて締め上げる。何が何だか分からぬまま視線を巡らせていると、再度「早く!」と腕を引っ張られた。 「あんたは」 「傭兵だ。軍に雇われた」 黒髪の男――檸於は手短に協力を申し出た。 「今更戻っても笑って許してくれる訳ないだろうし、とりあえず逃げ切るのが先じゃないか?」 暗い抜け道の先にはダンジャの待つ港が見えていた。 褐色の手が一閃する。と思ったら、不可思議な結界が編み上げられてエルシドとレンカを個別に囲んだ。ダンジャは更に手を交差させ、防音結界を“仕立て上げて”一行を包み込んだ。人目に付かないように大きな船の影を選んでいるが、念のための備えである。 「これで人には聞かれない。ああ、物好きな男どもは酔っ払いのふりして絡んでやったらみんな逃げてったよ。……心おきなく真面目な話をしようじゃないか」 穏やかに微笑むダンジャだが、紫の瞳は注意深く周囲を警戒している。アストゥルーゾもさりげなく視線を巡らせた。恋人たちを尾行している人物の気配はないようだ。 「追手はどうなったんだい?」 「阻んだ。殺してはいない」 ダンジャにハクアが応じた。アストゥルーゾが締め上げた海賊から仲間の配置や港へ続く抜け道を聞き出し、ロストナンバー達が待ち伏せした。迎撃地点にはハクアが予め魔法陣を描いておいた。 ダンジャは「ふーむ」と鼻を鳴らして腕を組んだ。 「これで二人に手出しするのは割に合わないって向こうさんが思ってくれればいいんだけどねぇ……商人なら損得を考える筈さね」 「あ、その点は大丈夫だと思うよ。“きっちり”締めといたから」 「成程。詳しくは聞かないほうが良さそうだ」 「それより、どうするんだよ」 檸於がじりじりと口火を切った。捕まったらただでは済まないことくらい、檸於にも分かっている。 「いっそ、軍に連れ出して貰えないかな? 街や海賊とはきっぱり手を切ったってことでさ」 「それが出来るならとっくにやってる」 「何だよ。そんなに簡単じゃないってことか?」 煮え切らないエルシドに檸於は正面から噛みついた。 「何とかしろよ、そこそこ偉いんだろ。引っ張り出したのはあんただろ!」 苛立ちが弾け、尾を引き、消える。エルシドは唇を噛むばかりだ。体力も腕力も容姿も平凡な檸於がこんなにも必死になっているというのに、どうして当人はこうもふがいないのだろう? 「ひとつ訊きたい」 ハクアが静かに進み出た。深緑の視線はエルシドの腰に下がるサーベルに注がれている。丸腰では心もとないと考えたのだろうが、鞘に彫り込まれているのはジャンクヘヴン海軍のエンブレムだ。それは決定的な矛盾であり、齟齬だった。 「軍属のまま駆け落ちした責任をどう考えているのだ?」 エルシドの顔が決定的にこわばった。 さわさわと、湿った夜風が行き過ぎる。やや肌寒いが、火照った肌には心地良い。 ハクアは黙っている。エルシドが口を開くまで粘り強く待つつもりだった。音もなく、潮風ばかりが頬を撫でる。他人事のように優しく。 「……軍に未練はねえよ」 やがて、哀れな軍人は押し出すように呟いた。それが彼の答えだった。目をぱちくりさせたのはアストゥルーゾだった。 「軍を辞めるってこと? それも出奔に近い形で? 仕事を失って、その後どうするのさ? 仮に逃げ切れたとして、二人で生活してかなきゃいけないのに」 「次の仕事を探せばいい」 「簡単に雇ってもらえるの? ワケありで軍を辞めた人が」 アストゥルーゾはあどけないしぐさで小首を傾げたが、その目は決して笑ってはいなかった。 「……この先、ほんとにどうするのさ? 二人っきりでほんとに大丈夫? 愛があればどんなことでも乗り越えられるなんてのは理想論だよ」 物語の世界なら愛や心がすべてに勝るだろう。しかし此処は現実だ。 「それに、それが独りよがりじゃないって言い切れる自信がある? 逃げ切れる自信がある? ま、後先考えてのことなら、別に構わないけどさ」 どこか冷めた顔で肩をすくめながら、アストゥルーゾの脳裏からは不穏な推論が離れない。 (だけど……海賊の人が目をつけてるのはわかんないけど、まさか軍の人が何もしないってことは……どうなんだろ) 海賊と軍が何らかの形で繋がっているとでもいうのか? 「……分かってる」 と呻くエルシドの声でアストゥルーゾは我に返った。 「何が正しいかなんて言われなくても分かってる。けど……だからって、何もしないで見てろって言うのか。ただ黙って見てろってのか!」 上ずった声で吠えるエルシドの前で檸於はくしゃりと顔を歪めた。 どうにもならない現実。凡人には壊せない壁。それでも足掻かずにはいられないもどかしさを檸於は知っている。 「落ち着いてくれよ。気持ちは分かる」 しかし、檸於はレンカが本心から駆け落ちを望んでいるかどうか疑問に思うのだ。 「いや……分かるなんて簡単に言っちゃいけないんだろうけど。とにかくさ、彼女の言葉、ちゃんと聞いたか? ちゃんと向き合ったのか?」 「彼女だってついて来てくれた。だから一緒に今ここに居るんだろうが」 頑なな軍人は恋人の華奢な手をきつく握り締める。レンカは黙っている。だが、檸於は彼女が痛みに眉を顰めていることに気付いている。 「彼女を不憫と思って駆け落ちを提案したということか?」 ハクアは眉ひとつ動かさぬまま問いを重ねた。エルシドは答えない。ハクアはそれを肯定と見なした。訊きたいことはいくつかあるが、大半はアストゥルーゾと檸於が既に尋ねた。 「次は彼女に訊きたい」 だからハクアはひとつだけ尋ねる。 「レンカ。――自分の現状をどう思っている?」 レンカは無言で服の裾を握り締めた。彼女の服装を確認したダンジャはそっと嘆息した。レンカはネグリジェのような着衣の上に男物の上着を羽織らされているだけだった。 (彼女の望みを確認したいね……) レンカは一言も言葉を発していない。 「私……は……」 震える唇が開かれかけた時、不意に一陣の風が吹き込む。 「待って!」 駆け込んで来たのは紅いマフラーを靡かせたミトサアだった。 ミトサアは珍しく息を切らしていた。ダンジャは結界を一部ほどいてミトサアを迎え入れた。 「商人の……レンカさんの親の借金相手の居場所が分かった」 ミトサアの報告に場がざわつく。街中を駆けずり回り、チンピラやその筋の人間を締め上げたミトサアはようやく商人の居所を掴んだのだった。 だが、ダンジャだけは軽く眉尻を持ち上げた。 「別の海上都市に居るんだって。だから! もう少しだけ待って欲しいんだ」 「どうする気なんだい?」 「証拠を掴んで商人を逮捕する。逮捕した後、減刑の形でレンカさんの借金額を海軍に払わせて彼女を自由の身にする。エルシドさんにも責任を課して、海軍から除隊するか他所の街へ左遷・降格にするよう進言すれば……。海軍の有力者にもボクが話を通す。もちろん、ガルタンロックと癒着していない人に、ね。海軍にしてみればガルタンロック達との癒着を避けることができるし、海賊の配下も摘発できる。悪くない話でしょ?」 「軍にも益のあることとはいえ、部外者である我々がそこまで話をつけられるものだろうか」 ハクアがわずかに難色を示す。ミトサアは頑なにかぶりを振った。 「部外者に依頼をよこしたのは軍のほうだよ。――みんなは何も知らなかったことにして。全部ボクの独断だってことにするから。こうすれば軍の面子も保たれるし、二人だって……」 「んん。そうだねぇ」 くしゃりと頭を掻き、ダンジャは困ったように笑った。 「レンカの気持ちをまだ聞いていない。……いい作戦だと思うけど、あたしはレンカの思いを第一にしたいんだ。もう少しだけ待ってくれると嬉しい」 唇を引き結んだミトサアはわずかに眉尻を下げた。 「なあ、二人とも。ババアの世迷言と嫌がらずに聞いておくれ」 ダンジャはわざと軽い調子で恋人たちに向き直った。 「計画はあるのかい? 借金をほっぽり出して男と逃げるんだ、親や他の娼婦達の嫉妬、恨みも買うだろう。この分じゃ軍の動きも期待出来ない。……辛い思いをするのはレンカだよ。追手に怯えながら暮らして、捕まれば恐らく惨い目に遭う。本当に覚悟はあるのかい?」 穏やかで、現実的な指摘だった。紫の双眸はひたとレンカを見つめ、やがてエルシドへと移っていく。 「あんたも辛いだろうが、負い目の無い未来の為に借金返済まで待ってみる気はないかい? 完済する頃に除隊してもらう方法だってあるんじゃないか。待ち続けるなら彼女の支えにもなると思うけどねぇ……」 早まったが、エルシドの思いは間違っていない。ダンジャも本音では二人を逃がしてやりたいし、逃がす意見も聞いて協力するつもりではいる。あのガルタンロックが逃げたと判断したなら只では済まないとも思う。だからといって、現実的な視点を取り去って良いとまでは思わなかった。 良い方向に進んでほしい。ダンジャの願いはそれだけだ。 「真にこの街を去る決意があるのなら助力するにやぶさかではない。だが……エルシド。その前に、おまえの覚悟を行動で示してはくれないか。……無理なら言葉でも構わないが」 ハクアの問いにエルシドは顔を歪めた。それは何より明快で雄弁な答えだった。繋いだ手は力なく下がっている。レンカはもはやエルシドの手を握り返してはいなかった。 「レンカ。あんたの本音を聞かせておくれ」 沈黙が落ちてくる。さわさわと、潮風ばかりが素知らぬ顔で通り過ぎて行く。 「……私……は……」 やがて、レンカのすすり泣きが静寂を破った。 「借金を返さなきゃいけません。今の仕事は楽しくはないけど、受け入れなければいけないと思っています。両親もきょうだいも散り散りになって、返済のためにみんな必死で働いているから。逃げられないことも知っていました……だけどもしかして、って……もしかしたら二人でどこかに行けるんじゃないかって……そんな夢みたいなこと、って思ったけど――」 「もういいよ」 悲痛な声でレンカを遮ったのはミトサアだった。 「もうやめて。……お願いだから」 一縷の望みに縋りたくなる心情を誰が責められよう。絵空事と知って尚願いを捨てられぬレンカを誰が責められよう? レンカ――蓮花。ミトサアだけがそれに気付いていた。蓮の花は泥の花。それでも……生きて、幸せになって欲しい。 「大丈夫……大丈夫。今はお泣き。辛い日々は泥の中に根を張るようなもんなのさ。耐えれば花が咲くかも知れないさね」 震える肩にそっと手を回し、ダンジャはレンカの頭を抱き寄せた。 「彼を信じて支えておやり。エルシドはレンカを一番に、先の事も考えて行動おし」 泣きじゃくりながら、レンカはただ肯くしかない。 「望んだ結果じゃないかも知れないけど、レンカさんはエルシドさんを拒まない事を選んだんだ。だから……その、なんというか……」 あー、うー、と呻きながら檸於は懸命に言葉を探す。 「まあ……ひっぱたくくらいで勘弁できないかな?」 「あは。いいね、それ」 アストゥルーゾがからりと笑い、レンカもくしゃりと泣き笑いの表情を作った。 「邪魔するよ。責任者はどこだい?」 レンカの手を引き、ダンジャは娼館『ロトス』へと踏み込んだ。 「無理に連れ出されたのを保護した、遅くなって悪かったね。相手の男はこの街からきちんと連れ出すよ」 「申し訳ありませんでした」 ダンジャの弁に続いてレンカが深々と頭を下げる。責任者らしき男は不審そうに二人の顔を見比べた。 「本当か? 駆け落ちしたんじゃねえかって噂だが」 「とりあえずさー、戻って来たんだからもういいじゃない?」 少年姿のアストゥルーゾがダンジャの後ろから顔を出す。 「そうはいかねえ。他の娼婦へのしめしってもんがある」 「細かいことは気にしなーい。――ね?」 にこにこと笑うアストゥルーゾの腕が無数の触手と化す。先端は蛇の頭となり、腰を抜かした男の眼前でちろちろと舌を躍らせた。 「あ、下手な考えは起こさないほうがいいよ僕エブリシングお見通しだから、悪いことしたら何処に居ても分かっちゃうんだからね?」 「そういうこと。レンカに手出ししたらあんた達が痛い目に遭うだけさ」 ダンジャは愉快そうに喉を鳴らした。恐らくこの娼館にもガルタンロックの息がかかっているのだろう。だからこそ、ガルタンロックの手下に恐怖心を植え付けたアストゥルーゾに脅し役を頼んだのだ。 「覚悟おし。拷問なんかしたらこのババアが許さないよ?」 その頃、港に残った檸於は緊張の糸が切れたようにへたり込んでいた。思い詰めた二人が無理心中や刃傷沙汰に奔りはしないかとずっと気を張っていたのだ。荷物の中から五十センチ程のロボットが手持ち無沙汰そうに顔を覗かせている。 頬を押さえたエルシドは茫と海を見つめていた。レンカは檸於に促されて手を振り上げたが、平手打ちが放たれることはなかった。ただエルシドの頬を両手で包み、涙ながらに「ありがとう」とだけ告げて娼館に帰って行った。 「ガルタンロックの事だ、街に残っても今まで通りの扱いというわけにはいかないだろうが……」 ハクアの横顔には言葉ほどの険しさはなかった。意味ありげに微笑んでいたダンジャとアストゥルーゾに何か考えがあるに違いない。それに、逃避行は短期間で幕を閉じ、駆け落ちも未遂に終わった。エルシド一人が戻れば軍も寛大な判断を下すだろう。 「フランチェスカの配下との交渉も辞さないつもりだったが、その気遣いは不要だったか」 「あ、俺もそれ考えてた。逃がしてくれればガルタンロックは歯軋りして悔しがるぞ、的な」 「明快で良いな」 「……それ、褒めてるのか?」 「そのつもりだが」 「お待たせー」 ぶんぶんと手を振りながらアストゥルーゾが戻ってくる。欠伸を噛み殺すダンジャの姿もあった。刻は既に夜明けに近い。 「さあ、ジャンクヘヴンに戻ろう。あんたはこれを持って行きな」 ダンジャはエルシドに向かって平たい包みを差し出した。 「あんた達が本気で逃げる気なら変装用の服くらい仕立ててやるつもりだったけどね……事情が変わったからそっちにしといたよ」 怪訝そうに包みを開いたエルシドは息を呑んだ。 「これ」 「一応持っときな、使う時が来るかも知れないだろ。……これから色んな事があるよ。ちゃんと認識・覚悟して、支え合っておいき。分かるね?」 エルシドの手の中、まっさらな婚礼衣裳が払暁の光を受けて輝く。胸元には美しい蓮の刺繍が咲き誇っていた。 小さな体をロストレイルの座席に埋め、ミトサアは深々と息を吐き出した。 「本当に愛し合ってるなら、二人でこれからの苦労を乗り越えていくんだね」 別れ際、ミトサアは素っ気なく二人にそう告げた。だが、二人を見つめるミトサアの目が優しかったことに気付いた者はいただろうか。 ――ありがとう。嬉しかった。 娼館へと戻る前、レンカは顔をくしゃくしゃにしてミトサアの手を握り締めながらそう繰り返した。 「あの、さ。ちょっといいか」 と声をかけられ、我に返る。通路に立っていたのは檸於だった。 「あの二人に感情移入してたみたいだけど、何かワケでもあるのかなって思って。……いや、答えたくないならいいんだけどさ」 檸於は以前もミトサアと同じ依頼を受けたことがある。今日のミトサアは檸於の知る彼女とは些か様子が違っていた。 「ワケ……そうだね。確かに何も感じなかったわけじゃない、かな」 私情かも知れないと自嘲気味に付け加え、ミトサアは複雑な微苦笑で応じる。 「ボク達の二の舞にはしたくなかった。それだけ」 「ボク“達”?」 「そ。ボク達」 女サイボーグの指先は、行き場を求めるように紅いマフラーを弄んでいた。 「ほう、結局戻ったのですか。あのメス猫も様子見に徹したようですし……」 細い目を更に細め、“血の富豪”は冷然と微笑む。 「足抜けしようとしたペナルティくらいはと思っていましたが、ふうむ。どうにも得体の知れない連中ですねえ」 「いかがいたしますか」 「まずは性質を見極めねば。害虫ならば駆除いたします。益虫ならば友好的に扱います。私は商人ですからねえ、自分の得になるほうを選ばせていただきましょう」 ガルタンロックがほくそ笑んでいた頃、メス猫と呼ばれたフランチェスカも配下の報告を受けていた。 「そう、ありがとう。それなりに面白かったわ」 真っ赤に塗った爪に息を吹きかけ、愉快そうに笑う。 「けれど、こちらに接触してきたとなると……。珍しい格好をしていたんでしょう、連中。前にもこんなことがあったかしら」 印象に残ってはいる。しかし記憶は霧がかかったかのように曖昧だ。現地の人間は任務を終えて帰還したロストナンバーの存在を高確率で忘れるものだが、彼女がそれを知る由もない。 そこへ別の配下が駆けこんで来る。報告を聞いたフランチェスカは鮮烈な微笑を閃かせた。 「あいつが? ――OK、すぐ行くわ。また面白いことになりそうね」 ブーツの踵を高らかに打ち鳴らし、赤毛の魔女は颯爽と甲板へ赴いた。 (了)
このライターへメールを送る