船は孤島であり、牢獄だ。海上にあるうちは外に出ることすらかなわない。 茫洋たる海と空に挟まれ、船乗りは単調な生活を繰り返す。彼らは飢えている。些細な娯楽にすら飛びつき、必死に退屈を紛らわそうとする。 その方法のひとつが怪談であるという。『ジャンクヘヴン海軍から幽霊船の噂を聞いた』 男の声が邸じゅうを駆け抜ける。邸内に張り巡らされた伝声管から、声ばかりが響いている。『実に血が騒ぐ。昔のように怪談集を編纂したいところだが、この体では海に出ることもかなわぬ』 豪商アレン・アーク。かつては自ら船で各地を巡りながら商いをしていたが、脚を悪くして現役を退いた。現在は商売で築き上げた莫大な富を元に小さな海上都市を領有し、領主として暮らしている――と言われている。 彼の姿を見た者はいない。そう、邸の使用人たちでさえも。『そこでだ。ひとつ頼まれてはくれぬか?』 奇譚卿。それが彼の二つ名だ。 ジャンクヘヴン近海にデルタ海域と呼ばれる場所がある。小さな浮島が、海を巨大なデルタ(Δ)型に囲い込むように点在している。潮は島にぶつかりながら三角形の海に流れ込み、複雑怪奇な動きで船を翻弄する。奇譚卿は、遭難と奇怪な噂に事欠かぬこの海域を怪談集の舞台に選んだ。「というわけで、デルタ海域に行ってほしい。奇譚卿は怪談好きで有名だが、ジャンクヘヴンを盟主とする海上都市連合の一員でもある。治安のためにジャンクヘヴン海軍に多額の出資をしていて、同市に対して発言力を持ってる……という噂だ。正体不明の人物だが、金は実際に動いてるから卿が実在してることだけは間違いない。つまり」 ロストナンバー達の前で、シド・ビスタークは愉快そうに喉を鳴らす。「ジャンクヘヴンとしてはこの酔狂な試みに協力せざるを得ないってわけだ。手筈は整えてあるから、よろしく頼む」 その島は、三角形の海の上に忽然と現れるのだという。――まるで潜水艦のように。「古代都市の遺構やっちゅう噂もありますー。普段は島ごと水没しとるらしいですわ。他にも探索班が上陸する予定でっけど、結構でかい島でっさかい、鉢合わせることはまずおまへん。ほんでこの島、潮の満ち引きの関係で何年かに一度上陸可能になるゆう話でっけど、まーそれはおかしいんとちゃいます? なんぼなんでも潮の干満だけで島ひとつが浮き沈みするなんてなぁ……」 シドの後にひょこひょこと現れたコザクラインコもとい世界司書ホーチはそんな風にぼやいていた。 成程、インコの推論も理のないことではないと思われる。黒々とした海と夜空の間に浮かぶ島はちょっとした海上都市並の大きさを誇っており、この規模の陸地が潮の動きだけで海中に没するとは俄かには信じ難い。 島に上陸した瞬間、ひんやりとした空気が足許を這いずった気がした。 墨色の闇の中に点々と、ほの白く浮かび上がる物がある。それは海水に洗われ、朽ちた建築物に絡みつく白骨の群れだ。 この謎めいた島に目を付けたのは奇譚卿ばかりではない。かつて学者たちがこぞってこの島を訪れたという。何かに取り憑かれたようにして。ところが調査中に急激に潮が満ち――ということになっている――、逃げ遅れた彼らは島と共に沈んだ……。 ひたひたと海水が滴っている。それは何者かの足音のように聞こえなくもなかった。浮上して間もないのだろうか、しゃれこうべは絶えず塩辛い水を落とし続けている。まるで涙のようだと旅人達は思った。 脳裏に司書の言葉が甦る。「島が沈む前には妙な音ォが聞こえるらしいですわ。音の正体はだぁれも知りまへんけど、けったいな噂がぎょうさんありましてなぁ。沈む島が悲鳴を上げる、いや笑い声や、いや歌やゆうて……。いつ沈むかは導きの書に出とりますー。しゃーけど前兆が顕れたらすぐ逃げてくらはい、せやないと学者たちの二の舞でっせ。……そんでなぁ……肝心の怪談なんでっけど――」 水没の前兆とは別に女の唄声が聞こえるという。 あちこちに転がる髑髏が唄っているように思えて、たいそう気味が悪いのだという。 ひゅうと、緩慢に息を吹き込まれる笛のような音が耳朶を掠めていく。風鳴りのようにも、女の歔欷(きょき)のようにも聞こえる。 耳を澄ませば、その音色は途切れ途切れの女の声となって旅人達の元に届くのだ。『シ……ツ……』 ざざ、ざざざ。混ざり込むのは潮騒なのだろうか?『……デ……モイ……ト……』 ざざあ、ざざああああ……。 音源を特定するべく、旅人達は足を踏み出す。唄声に導かれるようにして進む彼らを無言のサロメが見つめている。それは学者たちのなれの果てだ。彼らは骸を晒して尚この島にしがみついている。彼らの家族はあえて遺体を回収しなかった。島に憑かれた結果であるなら、島と運命を共にするのも本望であろうと。 ――髑髏島。この島はそうあだ名されているという。!注意!イベントシナリオ群『デルタ海域奇譚集』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『デルタ海域奇譚集』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。
無機質な建造物は崩れ、傾き、無言を保つのみだ。彼らが抱いているのは生者の躍動ではなく死者の沈黙である。 「いかなる富と名声を築こうとも、死んでしまえばこの有り様だ」 スタンリー・ドレイトンは苦笑めいたしぐさで肩をすくめた。芳醇な葉巻の香りと高級ブランドスーツを纏った彼は富裕層の紳士そのもので、髑髏が転がるこの島には些か不似合いに思える。しかし彼は船旅さえも楽しんでいたし、興味津々といった様子でサロメと島を眺めているのだった。 「……しかし賢明な学者ならば、島が沈む予兆を知らなかったとは考えにくい。ここには、人を盲目にするほどの魅力があるのだろうか?」 今はそれを確かめる術もない。学者たちは物言わぬ白骨となって転がるばかりだ。 「その魅力に取り憑かれないことを祈るばかりだな。謎めいた島と共に海の藻屑と化す……悪くない終末かも知れないが、今しばらくは異世界の旅を楽しみたいものだ」 「まあ心配すんな」 本気とも冗談ともつかぬ友人の言葉に清闇は飄々と笑った。 「万が一島が沈んだら、俺の背に乗っけて飛んでやるよ。きっと上空から見ても興味深いだろうしな」 「ほう。私に言わせれば、きみの背中に乗って飛ぶことのほうが興味深い体験だ」 「そうか? 必要ならいつでもあの姿になるさ」 隠すことでもないといった風情で応じ、不可視――彼の目には見えている筈だが――の“何か”と語らうように目を細めた。 「この島自体はアレじゃねぇのか、昔の技術がどうとかいう。案外、その技術で造られたんだったりしてな。人間ってやつは、一個の命としちゃ脆くて儚いが、それが連綿と続く中ですげえものを創っちまうからなあ」 強大な力を持つ竜の武人は、人間の持つ“力”というものに素直に感心していた。 (もっとも、怪談やら心霊現象やらってえのはよく判らねえが) 世界に満ちる精霊も、無念のあまりこの世にしがみつく霊魂も、清闇の目には等しく映る『在る』ものだからだ。よって怪談を集めたがる奇譚卿の気持ちは今一つ掴めないが、島が浮き沈みする不思議には興味がある。 「ヒトの魂が視えたからって何が怖いんだろうな?」 その瞬間、ひゅるりと吹き過ぎる風が清闇の黒髪をさらっていった。清闇の口許に微笑が滲んだところを見ると、何らかのささめごとを交わしたのかも知れない。 言葉少なに髑髏の間を進んで行く。風鳴りともすすり泣きともつかぬ音が細く、絶えず流れ続けている。 ヴィヴァーシュ・ソレイユは繊細に整った顔立ちの男だった。顔の右半分を覆う眼帯や神経質そうな雰囲気からは些か取っつきにくそうな印象を受ける。しかし片方だけ覗く瞳は冷静に周囲を観察し、蝋細工のように滑らかな手は几帳面にメモを取り続けていた。 (……島が浮き上がってくるのは、何か済まさなければならない用でも?) 沈思に耽る横顔には高貴ささえ滲んでいる。 この島が現役の都市であった時代も何らかの技術で海中にあったのかも知れない。しかし、海中で住まう人がいるのなら水没していれば不都合も問題もないだろう。遺された建造物や物品に陸上生活を思わせる形跡等はあるだろうか。 目印になりそうな建築物をトラベラーズノートに書き留めて簡易な地図となし、耳を澄ます。 『……――ィ……ル……』 ざざ、ざざざ。 『――ワ……ゥ……』 ざざあ、ざざあ……。 “それ”はどこからともなく流れてくる。唄の聞こえた地点もノートに書き込み、ヴィヴァーシュは更に聴覚を研ぎ澄ませた。 『……――ン…………』 ざざざ、ざあ……。 『……ェ……ト……』 「言葉を伴って聞こえる――」 前を行く歪がつと顔を上げ、初めて口を開いた。 「やっぱり、声なんだろうか」 “視えない”分、視覚以外の感覚は敏感だ。唄の詞までは聞き取れないが、歪の耳にははっきりと女の声が届いていた。 「……泣いているのか?」 できるなら、その涙を止めてやりたい。 唄に誘われるようにふらりと歩を進める歪をスタンリーが制した。 「男は迂闊に近付くべきではないかも知れない。女の唄声……私の世界のセイレーンやローレライのようだ。仮にセイレーンの呪いだとするなら、男は格好の餌食ではないか」 「ローレライ」 何か思うところでもあるのか、歪は脈絡なくその名を繰り返して顎を引いた。だが、すぐに気を取り直すように「しかし」とかぶりを振る。 「近付かなければ唄の正体は判らない。ここで聞いているだけでは……」 「もちろんだとも。私も女が何を歌っているのか気にはなる。依頼の内容からしても、唄にはある程度近付かねばならない……ジレンマだな。しかし幸運なことに、我々の側にも女性がいる。――お手をどうぞ、マダム」 恭しく差し出される右手の先には黒衣の未亡人の姿があった。 「エスコートして下さいますの?」 喪の色をしたドレスを纏う未亡人――三雲文乃は密やかに微笑んだ。 「此処は足許がよろしくない。そのお召し物では歩きにくいのでは?」 「慣れておりますわ。けれど……ご厚意をむげにしては申し訳ありませんわね」 文乃は緩やかなしぐさでスタンリーに右手を預けた。彼女の表情は窺えない。顔の大半は黒いヴェールで覆われ、形の良い唇と滑らかな顎ばかりが闇の中に浮かび上がっている。 「マダム。我々が唄に向かってへらへらと笑い出すようなことがあれば、この御手で平手打ちをお願いできるかな?」 「それしきでお役に立てるのでしたら、いくらでも」 「はは。張り倒されねえように気を付けるとするか」 清闇がまんざら冗談でもなさそうに笑う。文乃は緩慢に首を傾け、曖昧に微笑んだ。繊細に編まれたヴェールが風を孕み、艶めかしく膨らんでいる。顔が見えるのではないかと誰もが思ったが、頑ななヴェールは忠実に未亡人を守り続けた。 「御冗談を……。わたくしごとき女の力では皆さまを張り倒すことなどできませんわ。腕力ではとても男性に敵いませんもの――」 だが、非力な女にも男を殺すことはできるのだ。例えば、“粉末”や“液体”をほんの少量含ませさえすれば……。 「さあ……参りましょう。面白そうではありませんこと? 怪談ならば暇潰しと雑談の種にもなりますわ」 謎めいた未亡人の足許には白骨ばかりが転がっている。髑髏は何も尋ねない。文乃も何も語らない。微笑む唇を隠すように添えた左手で、薬指のリングが鈍く、妖しく光っている。 「失礼。葉巻を吸っても?」 というスタンリーの言葉を拒む者はいなかった。 タヌキ型のセクタン・カンザスがするするとスタンリーの肩を滑り降りる。そのままひょいと隊列を外れ、ぽってりとした腹を突き出しながらよちよちと歩いて行ってしまった。マイペースな相棒を見送りながらスタンリーは葉巻――トラベルギアである――をくゆらせた。立ち上る煙は不可思議な赤紫色だ。 (相手が亡霊の類だったら無力だな。亡霊は睡眠を摂らないのだから) 他人事じみた呟きを内心で漏らし、皆と同じように耳を澄ませてみる。そして首を傾げた。 「妙ではないか?」 「ああ。おかしい」 黙りがちの歪がぼそりと応じた。 音源を求める一行は浜辺を離れ、島の奥へと進んでいる。それなのに。 『――ン……ッ……キ』 ざざ、ざざざ。 『ォ……チテ……リヌ……』 ざざざざざ……。 徐々に輪郭を現す唄声とともに、潮騒も大きくなりつつある。 「潮騒とは違うかもな」 清闇が中空を見つめながら応じた。興味深いものがあったら教えて欲しいと海の精霊に頼んでいたのだが、精霊たちによれば以前も“同じようなこと”があったそうだ。 「学者たちがこの島に来たって司書が言ってたろ?」 髑髏を畏れるでもなく歩き回りながら、更に耳をそばだてる。 「この唄……その時も聞こえてたらしい。唄の正体を探りに行った団体もいたそうだ。ちょうど今の俺達みてえにな」 「まあ恐ろしい。では、わたくしたちも同じ末路を辿ることになりますの?」 全く怖がっている様子もなく、文乃は薄い微笑を浮かべた。 「これはこれは。マダムは冗談がお好きなようだ」 「冗談で済むことを祈りましょう」 「違いない。ところで、マダムはこういった場所は怖くはないのかな?」 「ロストレイルで吸血鬼さまや狼男さまや鬼のお方を日常的に拝見しております。いまさら幽霊と言われましても……」 さらりと受けて流す口調にスタンリーは「成程」と苦笑した。 「どうして女性はこうも勇敢なのだろうね。我々の立つ瀬がなくなってしまいそうだ」 「とんでもありませんわ……皆さまを頼りにしているからこそですのよ。もし何かあっても皆さまがいらっしゃいますし、サルバトールもおりますから」 煙に巻くような微笑を浮かべる文乃の肩で、名を呼ばれたキツネ型セクタンが胸を張った。足場の悪い場所では無意識にエスコートの手を差し出すスタンリーだが、文乃は形式的に手を乗せてくるばかりだ。つややかな喪服を優雅に翻し、骸骨が転がる地面を颯爽と歩き続けている。 一方、歪の口数は少なかった。そもそも饒舌な男ではないが、集中的に聴覚を研ぎ澄ませている今はいつにもまして寡黙だ。 散らばる白骨は歪には視えない。しかし、存在を確かに“感じる”。この骸たちは島と共に浮き沈みを繰り返している。遺族がそう望むのなら、持ち帰らない方がいいのだろう。 (せめて……慎重に) 骨の欠片ひとつとして踏むことのないよう、爪先にまで神経を張り巡らせながら歩を進める。もし歪の目が視えたなら、白骨の欠片は星に見えたかも知れない。濃密な闇の中にぼうやりと浮かび上がる様は星屑に似ていなくもなかった。 ふと、隣で清闇が小さく息を吐く気配を感じた。どうかしたのかと無言で顔を向けると気さくに笑いかけてくるのが分かって、知らず歪も口許を緩めた。何故だろう、清闇の傍に居るとどうにも懐かしくてたまらなくなる。 「学者たちはなんで全員助からなかったのか……妙だよな。精霊たちも事情を知らねえらしい」 清闇は小さく肩をすくめた。本当に霊魂が残っていないかとも尋ねたが、今のところその線はないようだ。 「よく知らない、ということは――」 顔を覆う包帯の下、歪はわずかに眉根を寄せる。 「少しは知ってるってことだな」 後を引き取った清闇は、 「学者たちはこの先の遺跡に入って行って、それっきり出て来なかったそうだ」 濃い闇の奥を顎でしゃくった。 ざざ。ざざざ……。 寄せては砕ける波の音を聞きながら、ヴィヴァーシュはゆっくりと目を開いた。波に翻弄されながら滑稽に踊っているのは流木だろうか、朽ちた白骨だろうか。 岩場にはヴィヴァーシュだけが立っている。海水に何らかの作用が加わってはいないかと思い立ち、ヴィヴァーシュはひとり列を離れた。しかし、こうして探る限りでは特に変わった点はない。 (……ですが) ざざあ、ざざあと響く波音がヴィヴァーシュの感覚を洗っていく。 (唄の合間に聞こえる音……あれは、潮騒ではないような) 遠く近く、幾重にも重なる波音を間近にしてみれば違いが判る。潮騒が輪唱ならあの音は独唱だ。 どこかで聞いたことがある音のように思う。しかし、一体何の音だったか。 「………………」 湧き上がるもどかしさを眉間の皺ひとつで押し隠し、さらに考えを巡らせる。 聞き覚えのある音。しかし、馴染みの薄い音。覚醒後に耳にするようになったということなのか……。 ――数秒の黙考ののち、ヴィヴァーシュはついと目を上げた。滑らかな手つきでトラベラーズノートを開く。幸い、この仮説を確認するのに適した人物がいる。 ざざあ。ざざあ。 『……クト……ソ……』 ざざ……ざざ……。 『ニ……ォヲ……』 海際のこの場所にも唄声が届いている。この唄が島の浮き沈みに関係しているのだろうか。 「誘われている、あるいは呼ばれているのだとは思いますが」 銀糸の髪を潮風に嬲らせ、独りごちる。 「唄声の主は生者なのか、死者なのか――」 ヴィヴァーシュはそこで言葉を切った。 さわりと頬を撫でる夜風が、女の指のようにひんやりと湿っていたから。 「ねえ、皆さま。女性の声や唄も気になるのですけれど……数年に一度だけ島が浮上するというお話、とっても興味深くありませんこと?」 刻は既に深更を告げた。濃度を増した闇の中、黒衣の未亡人の声が静々と響いている。 「浮き沈みに決まった周期などはないのでしょうか。そもそも、浮き沈みする理由は一体何なのでしょう? 島自体が大きな生き物で……例えばクジラやイルカのように、呼吸をするために浮沈を繰り返しているという説はいかが? 唄はその生き物の声だったりしたら面白いと思うのですけれど。ブルーインブルーならではの巨大海洋生物などがいたとしたら実に愉快ですわね……まさに冒険ものの定番ですわ」 「そうだな。話としてはおもしれえな」 清闇は腕を組んで感嘆している。この島が生き物であるなら清闇が真っ先に気付く筈だが、それはそれだ。文乃は愉快そうに微笑み、更に滑らかに法螺を吹いた。 「あるいは……そうですわね、この島はサンゴ礁のような軽い物質で出来ているのかも知れませんわ。海底火山の影響などでガスが溜まり、島が浮き上がっているとしたら。そのガスが抜ける音が唄として聞こえている……というのはいかがでしょう」 「成程」 根が生真面目な歪は、怪談を全否定する文乃の言葉を全てまともに受け取ったようだった。 「だが、この唄は間違いなく女の声だ。……あんたの説にケチをつけたいわけではないが」 「分かっておりますわ。わたくしが申し上げたいのは――」 黒いヴェールの下で謎めいた笑みが深くなる。 「怪談じみた場所で心霊現象が起こっても“当たり前”ですもの……それでは“つまらない”でしょう? 反対に、まったく違う原因であったほうが面白いじゃありませんの。正体が枯れ尾花でも気が抜けますけれど」 散らばる骸骨の上、黒衣のドレスで微笑む文乃こそが幽霊めいていた。彼女は幽霊と同じで――あるいは幽霊以上に――謎に満ちている。 「ふむ。ご高説を賜ったところに口を挟むのは野暮かも知れないが……ヴィヴァーシュ君から連絡だ」 スタンリーはトラベラーズノートを開きながら顎髭をさすった。 「清闇君の言った通り、あの雑音は潮騒ではないようだよ」 機械類が発する雑音に似ているように思われる。しかし、科学がそれほど発展していなかった世界で生まれた自分には断定できない。機械に馴染みのある世界から来たコンダクターの意見を聞かせてほしい――。ノートには几帳面な字でそう書きつけられていた。 「……言われてみれば、オーディオ類のノイズに似ていなくもありませんわ。録音された音声なのでしょうか」 「そのようだ。聞くべきは唄ではなく雑音のほうだったということかな」 「何だって構わねえさ」 清闇は陽気に笑った。セイレーンがいようと髑髏の隙間を風が通り抜ける音だろうと遺跡に録音された誰かの声だろうと本物の幽霊だろうと構わないし、あまり難しく考えていない。清闇にとっては大した問題ではないのだ。 「誰でもいい、もっと聞かせてくれ。何か伝えてえ、残してえものがあるんなら」 穏やかな問いかけが静かに闇を打つ。答える者はない。 やがて一行の前に一棟の遺跡が現れた。傾いているとはいえ、驚いたことに骨格はある程度原型を留めている。 「……呼んでいるのか?」 歪の問いにもいらえはない。遺跡の中は歪の視界と同じく真っ暗だ。 合流したヴィヴァーシュは胸に手を当てて背筋を正し、目を閉じた。身に着けたブリティッシュスーツも相まって、彼の姿は黙祷を捧げる貴人そのものだ。だが、無言の祈りの前には黒々とした建物の名残が横たわるだけである。 「噂を確認しにきただけですし、来訪者はこちらですから。唄の主や遺跡を守るような品があったとしても奪い取る気などありません。……警戒は怠りませんが」 “先住者”にはそれなりの態度を示さねばと付け加え、ヴィヴァーシュは静かにその場所に踏み入った。 遺跡とはいわば建物の骸だ。白骨から生前の姿を再現するのが簡単ではないように、土台や朽ちた柱だけで当時の様子を推し量ることは難しい。だが、丹念に検分を行ったヴィヴァーシュは、どうやらこの建物が横に長い形をしていたらしいことを知った。推測できる敷地面積も一般的な住宅に比してやけに広い。 (横長で、大きな建物……何らかの店舗や施設でしょうか) 傾いた柱に滑らかな指を這わせてみる。錆びた金属かと思ったら、存外滑らかな感触があった。 「石に似ていなくもありませんね」 それとも、金属の上に特殊なコーティングでも施してあるのか。どちらにしろ海水による腐食を嫌ってのことなのかも知れない。ならばこの島は元々海中にあったのか? ヴィヴァーシュはもう一度周囲を見渡した。白骨が集中している場所を探せば学者たちの足跡(そくせき)が分かるかも知れないと考えたが、敷地内に散らばる白骨はまばらだ。スピーカーやステレオを連想させる器物も見当たらない。一通り歩き回った歪も首を傾げた。清闇によれば、学者たちは確かにこの遺跡に入ったきり出てこなかったというのだが……。 「迷ったり閉じ込められたりするような場所とは思えないが」 建物の骸を抜ける風が歪の頬を撫でていく。 『……イァ……――エ……ォル……』 地を這うような。否、地の底から湧き上がってくるような。 『――……シ……ツ……デ……モイ……ト…………』 「地下か?」 音の出どころに気付いたのは清闇だった。 唄がこの場所から流れているのは間違いないのだ。地下に降りられるような場所はないかと視線を巡らせた清闇はスタンリーの姿が見えないことに気付いた。マイペースで余裕のある彼のことだ、セクタンと同じくふらりとどこかに行ってしまったのかも知れない。 「一体どうしたのだ、カンザス」 その頃、当のスタンリーは太い柱の陰でセクタンと一緒にしゃがみ込んでいた。物珍しそうにあちこちをうろうろしていたセクタンが不意に座り込み、小さな手で地面を掘り始めたのだ。 「金貨でも見つけたのかね?」 茶化すように声をかけてみるが、セクタンはせっせと地面を掘り返している。土を払ってやっていたスタンリーは目をぱちくりさせた。 指先にこつんと“何か”が触れた。女の指先のように冷たく、滑らかな物が。 (……まさか、な) それは人体の一部などではなく、つるりとした無機物だった。暗闇と同じ色の土を慎重によけていく。やがてスタンリーは穏やかに笑った。 「お手柄だ、カンザス。きみに期待していなかった私を許してくれ」 冷たい土の中から現れたのはハンドル状の物体だった。金属か石かも判然としない。ヴィヴァーシュが触れた柱と同じく、大理石に似た滑らかさを纏っている。 更に周囲を掘り返すと、長方形の巨大な石板が出土した。それはハンドル付きの扉――喩えるならば、地下格納庫の蓋に似ていた。 『……ク……トォ……』 『――……ヴ……ゥゥ……』 静々と響く唄声にいざなわれるようにハンドルを握ったのは歪だった。 「迂闊に開けないほうが」 ヴィヴァーシュはつい口を挟んだ。歪は静かにかぶりを振る。 「開けてやらなければ。……彼女はこの下にいる」 確信めいた歪の言葉の前でヴィヴァーシュは口をつぐんだ。確かに敵意らしき気配は感じられない。それにこの門番には、ヴィヴァーシュには聞こえない何かが聞こえているのかも知れない。 「今、開ける」 年月と海水で頑なになったハンドルは重苦しい音を立てながらのろのろと回る。清闇が手を貸そうとするが、歪は拒んだ。自分が開けるのだという頑固な意志を感じ取った清闇はそれ以上は手を出さなかった。矛盾した光景ではあった。不落の門番が、自ら門を開こうとしている。 「泣いて、いるのか」 ず、ず、ず。それはハンドルが回る音である筈だ。しかし、目に見えぬ何かが這いずるような音にも聞こえる。あるいは闇そのものが這い寄って来ているのか。 「どうして……あんたは、そこに」 ひた、ひた、ひた……。どこかで海水が滴っている。 ハンドルを掴み、蓋の縁に手をかける。そのまま両手で一気に持ち上げた。 ごひゅうううぅぅぅぅ。 人肌の風が吹き抜ける。地下の空気が地上に吐き出されたようにも、こちら側の空気があちら側に吸い込まれたようにも思えた。文乃は鼻と口を手で覆った。カビのにおい。湿気の臭気。あるいは――年を経た腐臭。 澱だ。茫洋とした時間と死ばかりが凝っている。生者の気配は感じられぬ。夜より暗い地下に向かって無言の階段が伸びている。 ヴィヴァーシュは小さく唇を引き結んだ。濃い闇は好きではない。 『シ……ツ……』 「……ワタシヲ、ツレテ」 呟いたのは歪だった。途切れ途切れの詞を推測で埋め、口ずさんでいる。 『デ……モイ……ト……』 「シンデ、オモイデゴト……」 沈む島に身を任せ、心中しようとした男女の思念だとしたら。男だけが助かり、女だけが死んだのだとしたら? 「歪君」 躊躇いなく階段に足を付けようとする歪の腕をスタンリーが掴む。歪はのろのろと振り返った。顔を覆う包帯がなければ、彼が熱に浮かされたような表情をしていたことに誰もが気付いただろう。 「大丈夫だ。危なくなったら俺が“くわえて”脱出してやるよ」 任せろと笑い、清闇が先頭に立った。 蓋を完全に跳ね上げて退路を確保し、五人は暗い穴の中に降りた。壁にぶつかり、天井に跳ね返る足音に耳をそばだてながらヴィヴァーシュは神経を研ぎ澄ませた。反響の具合から察するに、かなり広大な空間であるようだ。 「皆さん。明かりを灯しても?」 彼の問いは同行者達に向けられたものだったのだろうか。 ぽっと、白い掌の中に小さなともしびが生まれる。“先住者”たちを刺激しないよう、最小限の明かりをゆっくりと周囲に向ける。地上に散在していた遺跡と同じような遺構がそこかしこに見受けられた。地下にもうひとつの町でもあったかのようだ。 (……此処には海水が入ってこないのでしょうか?) 地上にあった物とは違い、ごろごろと転がる骸骨はどれもこれもが褐色に近い色をしていた。溶けた皮と肉が干からび、そのまま骨に張り付いている……。 「もしかして、シェルターなのではありませんこと?」 文乃の口調は相変わらず法螺めいていたが、まんざら根拠がないわけでもないように思えた。 「相当広いじゃありませんの、この場所。ただの倉庫や地下室の類ではなさそうですし……沢山の人がいらしたのでしょうね? だってほら、骸骨がこんなに。シェルターに避難したまま亡くなられたのではありませんの?」 「マダムは聡明だ。しかし、地下に避難しなければならないような出来事でもあったのだろうか」 「さあ、それは。戦争か、それとも地盤沈下でもあったのか……正確な理由はこちらの皆さまに尋ねてみませんとね……?」 しゃれこうべを拾い上げた未亡人は滑らかな指で頭蓋のカーブをなぞっている。愛撫しているようにも、爪を立てようとしているようにも見えた。 『――……ィエ……エ……』 ざざあああああ。 『……モニ……ツデ……』 ざざざ、ざりざりざり。 間に挟まるのはまさしくオーディオ類のノイズだ。それなのに、流れ続ける女の声はひどくクリアで生々しい。閉ざされたこの地下で、女の声だけが生き続けている。 一直線に音源へと向かった歪はその場に立ち尽くした。 “彼女”はまさしくそこに居た。 寄せては返す波のよう。心地良い強弱をつけて唄い上げられる詞を聞き取ることができたなら。 『ゥル……ゥル……』 『ト……ミ……ルロ……』 唄っているのは蓄音機に似た巨大な機械だった。 「ほほう、これは……」 スタンリーは感嘆の唸り声を上げた。巨大な箱に咲いた花。一言で喩えるならそれだった。アンプやレコーダーが組み込まれているのであろう本体の上に百合の形をしたスピーカーが取り付けられている。 そして、その足許にひっそりと横たわる一体の白骨――。 「駄目ですわね」 目を閉じて唄に聞き入っていた文乃は小さく息をついた。歌詞を聞き取れないのは雑音のせいばかりではないようだ。古代文明時代に用いられていた言語は現代のものと違っていてもおかしくない。 「構わない。言葉が分からなくても」 歪は無警戒に両腕を開き、静かに、深く息を吸った。 「聞かせてくれ、あんたの音を、あんたの声を」 “彼女”はそこに居る。たとえ録音された音声であっても、確かにそこに居る。 「どうして、あんたはそこに留まっている……?」 いらえはない。なくとも構わない。誰かを探して現世に留まっているのなら歪と同じだ。歪もまた、或る人物を探すために、故郷に殉じず、旅を続けているのだから。 『……――……――』 『――――…………――』 物言わぬ髑髏の傍らで、彼女は独り唄い続ける。 ヴィヴァーシュは一歩離れた場所から唄に耳を傾けていた。 おぼろげに、唄の大意は分かるような気がする。絶えず流れる旋律と声は“感覚”となってヴィヴァーシュの中に流れ込んでくる。 彼女は誰かを待っている。此処には誰も居ないというのに、誰かに届けと唄い続けている。そんな気がする。 ――だからこそ、接近することは躊躇われるのだ。 (……気のせい……だと良いのですが) 害意や敵意は感じられない。だが、何だろう。滑らかな絨毯を逆撫でするような、この奇妙なざらつきは。 同じものを感じ取ったのかどうか、清闇の尖った耳がぴくりと動いた。 「……歪。聴いていたいのは分かるが、そろそろ行こう」 清闇に肩を叩かれた歪はぼんやりと肯いたが、その場から動こうとはしない。 その時、不意に空気が震えた気がした。 「時間切れのようですわね」 無粋な演出だと、文乃は興醒めした様子で溜息をこぼした。 ――島が沈む前には妙な音ォが聞こえるらしいですわ。沈む島が悲鳴を上げる、いや笑い声や、いや歌やゆうて……。 ああ、それはまさしく悲鳴だ。気のふれた笑い声。あるいは、嘆きの歌だ。旅人達の足許が、島が、地鳴りのように震えている。おうおうと、重苦しい低音が地の底から湧き上がってくる! 「違います」 ヴィヴァーシュの凛とした声が飛んだ。 「声などではありません。何かもっと、無機的な……」 「そうだな。モーター音に似ていなくもない」 スタンリーが的確にヴィヴァーシュの推測を補った。 「歪さま。おいとまいたし――」 その瞬間、キィン、というハウリングめいた音が文乃の言葉を遮った。 『ィェ……ォ……クウ……』 『――れは……地下……避難……町が……』 『……ア……ジェ……ク……イア……』 『……音機……て過去……』 『――ッウ……デ……ッ――デェ!』 がなり立てるノイズ。唄の合間に聞こえる男たちの声。そして、一気にボルテージを上げる唄声。 それは悲鳴だった。甲高い悲鳴だった。泣いて縋る、子供のような。 『―― ―― ―― ―― ――』 「ああ」 歪は何かを抱き止めるかのように――何かを掬い上げようとするかのように膝をつき、虚空に向かって両手を開いた。彼の前には白骨が横たわっている。盲目の門番は、いま確かに何かを見つめている。 「今……あんたの涙を……」 「歪!」 「お許しを」 ヴィヴァーシュの右手が閃き、ごうと風が渦巻いた。風の精霊達が歪に殺到し、彼を抱え上げようとする。カタカタカタカタ。カタカタカタカタ。地鳴りに揺らされ、無数の髑髏が歯を鳴らしている。彼らは笑っている。彼らは泣いている。彼らは再び地下と海中の二重監獄に繋がれるしかないのだ。 「マダム」 「お気遣いなく。お急ぎ遊ばせ」 ドレスの裾をつまみ上げ、文乃は機敏に階段を駆け上がる。下りのエレベーターに乗せられたような感覚を振り切って地上に飛び出そうとした瞬間、津波のような海水が押し寄せた。 「つかまれ!」 清闇の声が響いたと思うや否や、ゴッ――と竜巻が吹き上がった。 漆黒の夜空に黒き竜が翔け上がる。滑らかな鱗から滴る海水が星屑のように散らばっていく。 「落ち着いたか」 「……ああ。済まない」 黒竜に襟首をくわえられ、歪はゆるゆるとかぶりを振った。危なげのない手つきで竜――清闇の鼻面を伝い、背中へと移動する。 風に引きちぎられそうになる銀髪を押さえ、ヴィヴァーシュは頭上と眼下を見比べた。空も海も濃い闇色だ。どろりと渦を巻く海の中に、震える島が没していく。 「興味深い。まるで潜水艦のようだ」 冷静に観察するスタンリーの腕にタヌキ型のセクタンが必死でしがみついている。 『――……マ……ォオ……』 『ロ……ツ――ノカ…………』 髑髏島に押しかぶさる波の狭間から、静かな唄声が聞こえてくる。 「スピーカーとやらが島じゅうに点在していたのかも知れません。だから離れていても唄が聞こえたのでは」 「素敵な説ですわ。けれど、何のために……ですの?」 「……さあ、そこまでは」 にこやかな文乃の問いにヴィヴァーシュは戸惑った。 「案外、唄を島全体に響かせるためかも知れませんね。住人の慰安のためなのか、唄い手に別の目的があったのかまでは分かりかねますが」 「……唄の、詞」 押し黙っていた歪がようやく口を開いた。 「おかしいと思わないか。男の声が混じっていた。しかも、唄ではなく会話だ」 「何かの拍子に学者さまたちの会話が録音されたのではありませんこと? 録音機がたまたま作動してしまったのでは」 「ああ。それに、唄の最後の詞……あそこだけちゃんと聞き取れた」 その言葉に、歪以外の四人は怪訝そうな表情をした。 「聞こえなかったのか?」 今度は歪が戸惑う番だった。 「おまえにはどう聞こえたんだ?」 「……いや。いい」 清闇の問いには答えず、歪はすっくと立ち上がった。 すらりと抜かれる両手剣。それは次の瞬間砕け散り、無数の星の如き煌めきと化す。意図を察した清闇が静かに高度を下げた。 「せめて、弔いに」 キン、ともリン、ともつかぬ響きが空と海の間を渡る。打ち鳴らされる刃の鐘。剣の欠片が歪の周囲を舞い躍り、浪間からわずかに聞こえる唄声に合わせて即興の楽を奏でている。清水を凍らせたような音色は高らかで、けれどもひどく静謐だ。 「良い曲だ」 スタンリーは上質なクラシックを味わうように目を閉じた。 『……ト……ォ……』 ざざあ。 『メ……――ネ……』 ざざ、ざざあああああ……。 名残のように気泡を吐き出し、島は漆黒の海へと消えた。 「こんな仮説はいかがでしょう」 帰りのロストレイルの中で未亡人は上機嫌だった。 「あの島は潜水艦を兼ねていたのですわ。かつては戦争や侵略を逃れるために自在に浮き沈みしていたのでしょう……浮沈を制御する装置はだいぶ古くなっている筈ですし、動作が不安定になっているのかも知れませんわね。地下にあった町の遺構は潜水中の生活の場だとすれば納得がいきますわ。あのシェルターの上には人が集まる施設……例えばショーを見せるお店や劇場があって、そこの看板娘が唄を録音して流していたのではありませんこと?」 「説得力がある」 スタンリーはまんざら冗談でもなさそうに応じた。すべては海の底だ。無数の骸と情念を抱え、島は再び眠りに就いた。 ヴィヴァーシュは独り離れた席に腰掛け、窓に頭をもたせかけていた。 (女性の唄……) 幼い頃に子守唄のひとつでも歌ってもらったことがあったかも知れない。だが、瞼の裏に浮かぶのは母でも姉でもなく兄の顔だ。 一方、 「背中、見せてくれねえか」 と清闇に請われた歪は、怪訝そうにしながらもその言葉に従った。清闇は「へぇ」と興味深げに顎をさすった。 「いつの間についたんだか」 「ついた?」 「心配するようなモンじゃねえだろうさ。礼か土産のつもりかもな」 「何……」 車窓に背中を写した歪ははっと息を呑んだ。 黒ずんだ手形――恐らく女のものだ――が、背中にべっとりと張り付いている。 『……キ……トマ……ァ……』 ざざ、ざざあ。 『ル……グゥ……――……デ……』 ざざあ。ざざああああ。 『……ェ……デ……デイ……』 ざざあああああああああああああああああああ……。 『イ カ ナ イ デ』 (了)
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