その石碑には、何も刻まれていない。 一帯、似たような石は数多ある、雑草さえ背伸びにひと苦労する荒地。 だが、その石碑だけは、朱色の花に囲まれていた。 墓と参拝者の群にも似た図。ここは塚なのだから、当然か。 石碑の前には、丸腰の男が両の膝をつき、かしこみかしこみもうさんとばかり、石碑に供えた己が愛刀に向かい、もう半刻も平伏している。 まるで刀と主があべこべに入れ替わったよう。 男はさる武の名門の嫡男であり、早々と隠居を決め込んだ父に代わり家督を継ぐべく、今まさにその為の儀式を修めんとしている。 聞けば、彼の家では、塚にて刀に神を降ろし、当主たりうるかを篩いにかけると云う。認められれば、晴れて名跡を継ぎ、神降りの太刀を揮うことが許されるのだ。 成る程。他ならぬ神相手、如何に高貴な武士であれ平伏すより他にあるまい。 あまつさえ神の力を手にできるとなれば、安いもの。 とは云え、俄かには信じ難い話だ。先刻より物陰から窺っていたとて何か起こるわけでもなし。あるいは形骸化された儀式の類ではないのか。(そもそも、神とはなんだ) 知る由も無い。何れにせよ、させぬ。 我が妹の仇。弄び、飽いて捨て、尚も縋れば斬り殺した外道め。 果し合いなど無意味。神降りの太刀とやらを得られぬまま、無様に丸腰で、「逝ねえぃ!」「貴様なにや……っ」 大上段からの一閃。それで全て終わった。 俺の声に面を上げた、憎き男の首は、実に締まりの無い末期の言葉も終えぬうち、朱野の園を更に鮮血で染めながら、ごとりと落ちた。 直後、遠くから口々に怒号を鳴らす。当代の儀を見守る、武家の家人達だ。 一様に抜刀し、駆けてくる侍。拾人は居る。(終わったな、全部) 仇討ちは果たした。未練は、無い。――…………て……し「……っ、だ、誰だ!」 突然、声が響いた。 独りではない。地の底より響くような幾重もの声が、同じ言葉を繰り返す。 それは、これから斬り殺されることなどより、余程恐ろしく感じられた。――……を……贖う…… 見回しても、迫る男達は未だ遠く、近しいものは仇の骸と朱の花、石碑と、石碑に供えられた、使い手の返り血を浴びた――太刀だ! 太刀が、俺に話し掛けているのだ。――我……て贖うべし 怖い。心細い。自分の命を狙う男達が、今は待ち遠しかった。 早く、早く来て殺してくれ。 死んでも、この太刀の傍には居たくない!――……を以て……べし「ひ、ひ、ひ、ひ、ひひ、ひぃ。いや、や、いやだぁ」 だんだん声が大きくなる。抗えぬ。逃れられぬ。「狼藉者、覚悟!!」 侍達が辿り着いた時には既に遅く、俺は震える手で太刀の柄を握ってしまった。 最後に見たものは、切っ先の如く鋭い朱野(アケノ)の花と、太刀の血糊から広がる、禍々しい朱色の光。全て、朱に染まる。 何処か遠く、断末魔の悲鳴を聞いた気がした。●「灯緒(ヒオ)」「なんだい」「朱昏の『塚』って、何なんですか? 刀が埋まってるみたい」「多分、壱番世界の包丁塚か、刀塚のようなものだろう。……ああ。君の書にも、出たのか」「はい。今日からガラも朱昏の担当です。よろしく」「よろしく。……ひょっとして、刀が悪さをする話かな」「正解ですよう。詳しいんですか?」「いいや、全然。……ただ、器物の怪異に造詣深い人なら覚えがあるよ。『白騙(シロガタリ)』といったかな。そんな名前の店に行けば会えるはずだ。訪ねてみたらどうだい」「お店の人に丸投げすればいいんですね」「身も蓋もないな、君は。でも、まあ……そういうことだ」 朱昏行きの仕事があると言われ、世界司書から渡されたのは、チケットと、何故かターミナル市内の住所が示された地図。「ガラは素人だし、灯緒も眠そうなので、今回は専門家にお願いしました」 詳しい説明は、その専門家とやらに訊けということらしい。 足を運んでみたところ、数多の世界文化が混在したターミナルに在って尚も異彩を放つ、一軒の和風家屋に行き当たった。 『白騙』の看板を認めて軒をくぐれば、古ぼけた家財道具や壷、人形、楽器に鋳物に反物が一編に視界を埋め尽くす。それらがひしめき合うので、床、棚、壁、天井の区切りさえもおぼつかぬ有様だ。「いらっしゃい。皆さんのことは図書館から伺っております」 途方に暮れる間もなく物陰から、ぬっと、漆黒の鬼が顔を出した。 否。半ば割れた鬼面が、細いおもてに張り付いている――これは人だ。 着流しを着た、白髪の男。 男は、その異様とは裏腹に親しげな調子で『槐(エンジュ)』と名乗った。「では、早速。今回の依頼についてお話しましょうか」 旅人達を奥に通しがてら、槐は訥々と語り始めた。 近頃、朱昏は西国の都に程近い峠道で、辻斬りが相次いでいる。 常に霧深く道が険しい、普段はひと気の無い寂しい峠だ。しかし、夏季でも冷涼な為、この時期だけは表街道の暑気を避けて利用する旅商人が少なからず居る。然るに、犠牲者もまた商人である。 また、夏場のみ、旅商人目当てに峠茶屋が店を開けているらしく、捨て置けば遠からず被害に遭うのは想像に難くない。 さて、その辻斬りの犯人は、珍しくもない、若い浪人だ。 身を立てる程の剣力も備わらず、さりとて他の生き方もできぬ、巷にありふれたはみ出し者。そんな男が、ゆきずりの誰彼構わず襲っては、残らず斬り捨てている。 何故の乱心か。「原因は恐らく、男の持つ太刀に」 男は、とある武家の秘伝とも呼ぶべき太刀を手にしてから、狂気に侵された。 人とみれば斬り、また次の人を求めて彷徨う、羅刹と化したのだ。 この太刀に何があるのかは判らない。ただ、朱昏では、刀剣などの武器に限らず道具に自我のようなものが宿り、怪異を引き起こすことが、ままある。「当地では『付喪神 (ツクモガミ)』と呼ばれています」 それは、奇しくも壱番世界に残る同名の伝説と似通った存在。「両世界の共通点について興味は尽きません――と、話が逸れましたか。とにかく、直接的にはこの男の凶行を止めて戴きたいわけです。その為には、男から太刀を引き離さなくてはならないでしょう」 世界図書館が、太刀――付喪神に注視していればこその依頼である。 つまり、これも調査の一環なのだろう。「方法はお任せしますよ。但し、太刀に触れる時はくれぐれもお気をつけて。貴方がたが辻斬りになりでもしたら、大問題ですから」 どこか冗談めかした口調。しかし、それは、旅人達も太刀の狂気からは逃れられないことを示唆していた。「もし、太刀が回収できそうなら、僕のところへ。職業柄、曰く付きの品は慣れています。……灯緒さんが保管するのも面倒でしょうし」 槐は仮面越しに目を細め、「宜しくお願いします」と付け加えた。「最後にもうひとつ。例の男の処遇も、皆さんにお任せします。……正気に戻る保障もありませんし」 どのみち幸福な結末には、ならないでしょうけれど。そう云って、締め括った。
メテオ・ミーティアは、耳を澄ませていた。 山岳地帯の上空だと云うのに、風は無い。その代わり霧がたち込めていて、微かなざわめきのようなものが聞こえた気がする。 メテオの足元より遥か下方では、旅人達が例の辻斬りと争っているはず。 音が続いている。思いの外、梃子摺っているらしい。加勢すべきだろう。 しかし、トラベルギアの銃口を下に向け、常ならざる眼を凝らしてさえ、深い白霧を見通すことは適わない。音の響きから大まかな位置は掴めるが、やたらに撃てば仲間を巻き込む。 それに、どうやら他の皆は、彼の男を生け捕る心算。 メテオとしては即座に殺傷せしめ、それで発生する利点を期待したかったが。 熊の如き威容の仲間が云い放った、厳かな言葉が思い出された。 ――人は助ける。魍魎は倒す。……他に何がある。 「……止めを刺すのも一種の情けだと思うけど、ね」 メテオは語散て、何にしても先ずは視界を確保すべきと判断し、霧の中を徐々に下っていった。 ● 意味を為さぬ言が、まじないの如く繰り返される。 狩納蒼月が済崩しで鍔迫り合いをする羽目になり、まさしくその相手たる辻斬りの男が、もごもごと口を動かしている様のことだ。 読経にも似ている。喩えば坊主が三人がかりで臨む、大往生の果ての葬。 (三人、四人……いや。十は下らんな) 男の口は確かにひとつ。にも関わらず異口同音とは実に面妖。 それに、妖しいと云えば、男の持つ得物も異様なことこの上無い。 姿かたちは紛う方無き太刀そのもの。だが、刀身には血管を想起させる紅い筋が枝分かれして走り、それらに分かたれた白刃は幾重もの人面瘡が浮かぶ。 視れば手元の鍔も、柄頭にも、顔があるようだ。 もしや、この総てが、男を寄り代に声を発しているのか。 蒼月はそんな風に見立ててみたが、正否を問うて応ずる相手でもない。 霧の峠で出くわした羅刹は、一行の中からまっしぐらに蒼月を標的と定め、凶刃を振り下ろした。あるいは得物を認めてのことか。何れにしろ、当の蒼月は組まんとしていた金縛りの呪法を解き、受け太刀の為に抜かざるを得なかった。 数度合わせ、迅雷の如き斬戟を如何にか凌いだ蒼月は、振らせればとられると判じ、即座に鍔迫り合いへと持ち込んだのだ。 辻斬りは涎を垂らしながら、顔の筋肉を張り詰めた面相をしている。 見るも正気の沙汰と程遠いのに、なんと畏るべき太刀捌きか。 (こちとら専門は鬼退治だ。達人といきなり渡り合うような埒外じゃあない) 蒼月も剣士としてそれなりに使う方だが、今度ばかりは相手が悪い。 何時しか噛み千切った咥え煙草を吐き捨て、四肢を張って圧す。 辻斬りもまた、尋常ならざる膂力で圧し返す。 勝ちの目が見えぬ――一対一では。 刹那、刺々しくも後を引く音がしたかと思うと、比喩ではない真の迅雷が蒼月の視界を掠めた。男の背後より迫ったロノティエが、トラベルギアを放電させたのだ。 直後、蒼月に両腕を圧していた荷重と供に、男がふっと霧中に消えた。 標的が逃れ、ロノティエがあわや蒼月にぶつかる寸でのところで、蒼月も身を翻し、男が逃れたと思しき方位に改める。 右前の正眼に構えた蒼月の背後に着地したロノティエは、仲間と背中合わせに左前の姿勢をとり、呟いた。 「やっぱり、楽に後ろを取らせてはくれませんか」 「なら、どうする。お嬢さん」 「んー……蒼月が狙われついでに囮をするっていうのは?」 「簡単に云ってくれるな」 ロノティエの、買い物でも頼む調子の提案に蒼月は苦笑いを浮かべた。あの羅刹相手に、再度切り結ぶとなれば無理からぬことである。 「その話」 不意に声がして、人影が蒼月とロノティエに近づく。ふたりは動きかけたが、辻斬りよりも随分大柄なそれは、見慣れた仲間のものだった。 「俺も一口乗せて貰う」 百田十三である。 「あんたか」 「ああ」 蒼月の声に短く応じた後、十三は、囮が通用した後の展開について言及する。 「俺とロノティエで奴を止める。その隙に、あれを叩き落とせ」 あれ――付喪神たる太刀――を彼の男と分かたねば、事は収まらぬ。 その本懐を蒼月に預ける為、先ずは囮になれということだ。 「なるほど。さっきは逃しましたけど、ふたりなら多分いけます」 ロノティエも乗り気らしい。後は蒼月次第。 如何転んでも貧乏くじだが、他の手立てを考える暇も惜しい。 「やれやれだ……――委細承知」 「よし、散るぞ」 「はいっ」 その場に囮役の蒼月を残し、十三とロノティエは霧中に紛れた。 再び静寂に包まれた蒼月は、五感を研ぎ澄ませる。 一帯、相変わらずの白い闇。十歩先すら覚束ない。肝要たるは、音。 草鞋が土を抉る音。衣擦れの音。空を切る音。 ――何処から来る? 普通は後ろか、悪くて逆手側だが。 ざり、と右背面で鳴った。 (違う!) 蒼月は右足を踏み堪え、即座に諸手で左へ凪いで後ろまで振り抜いた。 併せて振り向くのとほぼ同時に、刀身に鋭い重みが当たり、圧し掛かる。 「くっ!」 辻斬りの力量を鑑みれば足音と一之太刀に間など挟む余地は無い。 空きがあるなら、それは未だ踏み込んでいないことを意味する。 (当てずっぽうだがね) 何にしても紙一重凌いだわけだ。 「っ……ふん!」 今度は競り合わず、瞬発力で強引に圧し返して八双に構え直した。 そして、蒼月は対峙する男の眼を見据え、不敵に云った。 「俺の太刀は『鬼斬丸』。その名の通り、鬼やアヤカシを斬る退魔の剣だ。付喪神風情が太刀打ち出来ると思うなよ」 付喪神はおろか、憐れな浪人の耳にさえ届くまい。 だが、己を鼓舞する為にも、あえて蒼月は啖呵を切った。 辻斬りの男が、相も変わらず不気味な呻き声を伴って、口元を吊り上げる。 己が剣力を奮うに相応しい敵を得た歓喜、否、狂喜か。 「光栄だ」 (ありがた迷惑なぐらいにな) 蒼月は内心毒突きながら、相手の笑みが冷めぬうち、斬りかかった。 此処を耐えれば、もう、誰一人傷つかずに済む。 ● ロノティエは機を窺い、剣戟の鳴る側へとにじり寄る。 うっすらと辻斬りの背が見える場所を求めて、少しずつ前へ、横へと動く。 気取られれば水泡に帰す故に。 (居た) 霧に溶ける浪人の着流しを認め、立ち止まった。 丁度この位置は、蒼月と辻斬り、ふたりの影が見え隠れする。 ふたりの激しい戦いの様子が、うっすらとだが把握できた。 (さて、いつ攻めましょうか) 闇雲に飛び込んでは蒼月の動きが鈍り、危うい。 往くなら――そう。蒼月が渾身の一撃を見舞う瞬間がいい。逆もまた然り。 何れかに因る辻斬りの予備動作。それが隙。 尤も、蒼月が危ういとなれば形振り構わず走らなくてはならぬ。 万一此方に飛び火したとて、防ぐ手立ても無くは無い。 そんなロノティエの意を汲んだのか、彼女の影から形容し難い形状の漆黒のうねりが伸びて、愛想を振り撒くように先端を左右にくねらせた。 ロノティエは、その存在に「頼みましたよ」と小声をかけてから、やがて来るであろう、機を待つ。 果たして、十も数えぬ内にそれは訪れた。 ある時、辻斬りの連撃をいなしていた蒼月が大きく姿勢を崩した。 「蒼月!」 ここぞと攻め入る辻斬り。固唾をのむ間もなく駆け出したロノティエは、直後、辻斬りの鼻先三寸手前を細い灼熱の焔が貫くのを視た。メテオの威嚇射撃だ。 如何に狂気の沙汰であれ、飛んで火に入る虫とは違う。辻斬りはそれを、反射的に後退して低姿勢となることで示した。だが、結果、この間に既に持ち直した蒼月の袈裟切りを、不利な姿勢で受け止めねばならなかった。 辻斬りが蒼月に抑え込まれた時には、ロノティエと、二歩遅れて十三が標的に届く位置まで迫る。想定を上回る好転ぶりだ。 ついに男の背に触れたロノティエは、同時に電流を放った。 蒼月は巻き込まれぬよう太刀を引き、浪人は身を強張らせて脱力する。 ロノティエは勝利を確信したが――後にこの時のことを悔いた。 傍目には、きっと瞬く間。 電撃を送る際、ロノティエは何かが頭に流れ込む違和感を覚えた。 気がつけば、周囲には見知らぬ男達の顔が連なり、自分を囲んでぐるぐる回る。男達を、更に数え切れぬ数多の、腕が欠けた者、頭を半ば失った者、焼け爛れた者、髑髏の武者が取り囲む。矢傷に火傷、刀傷も厭わず、誰もが中心の男達にすがり、怨嗟の声を垂れ流す。男達は意に介さず、何か、呪言を唱え続けているようだ。 それらが一編に流れ込んできて、飲まれかけた、その時。 大きな手に肩をぐいっと引っ張られて、ロノティエは我に返った。 ロノティエを引き戻したのは、十三だ。 十三もまた、電流を認めた少し後、指先ひとつで浪人の神経をも閉ざした。 そして、触れた僅かな間に、ロノティエと同じものを垣間見たが故の処置である。 ロノティエがへたり込む傍ら、崩れ落ちた浪人が、未だ握られたその太刀が、引き攣った身体を動かそうと微かに這う。 「点穴を衝いた。例え刀の意思があろうと、動かんものは動かん。物理的に封じた人体を、魍魎如きの好きにできると思うなよ」 その様を見下ろしながら、十三は確固たる事実を突きつける。 次いで、蒼月に「やれ」と合図した。 蒼月は返事の代わりに拳銃を早抜きし、すぐさま鍔元を撃つ。 耳を劈く音が響くと供に、あえなく神宿りの太刀は弾き飛ばされた。 その瞬間、浪人は糸が切れた人形の如く完全に静止した。 からんと乾いた音をたて落下した太刀の元へ、ロノティエが先程の出来事にも懲りず、興味深げに近寄ろうとする。 その前にメテオが降り立ち、前置きも無く太刀に熱線を放射した。 「あっ!?」 ロノティエの悲鳴など何処吹く風とばかり、メテオは付喪神を滅さんと撃ち続ける。しかし、異変に気づき、一時止めた。 「まさか、効いてないの?」 周囲からは煙が立ち昇るが、太刀そのものに一切変化は視られない。 普通あれほどの高熱にさらされれば、鉄は赤味を帯びるだろうに。 「良かった……」 「退いてろ。――雹王招来急急如律令! 付喪を凍らせろ!」 「え? ちょっ、わ、やめて勿体無いー!」 ロノティエが胸を撫で下ろしたのも束の間、今度は十三が念と供に呪符を放つ。 「……む」 続け様に次なる術で破壊を、と札を手にした十三も、メテオ同様留まった。 太刀そのものは僅かに冷気を帯びた程度で、その周囲に霜柱が立つのみ。 「丈夫な代物だな、こいつは」 涙目のロノティエをそのままに、いつの間にか煙草を燻らせていた蒼月は、呆れた調子で十三に云った。頷いた十三も、このまま封印するより他に無い旨を告げてから、「そういや」と蒼月に視線を送る。 「アンタ、本職だろう。頼めるか?」 「元よりそのつもりだ」 神宿りの太刀は、メテオが用意した鎖で雁字搦めにし、その上から蒼月が封印を施したところ、どうやら持ち歩くのに支障は無さそうだ。 浪人が目を覚ましたのは、丁度その頃だった。 ● 峠茶屋。 この辺りは僅かながら霧も薄く、淀みが少ない。 頂に近い故か、日が昇り、霧が薄れる時間帯なのかは判らない。 軒先に、メテオ、ロノティエ、蒼月と十三に挟まれるかたちで、先刻まで一行と斬り結んだ浪人の姿が在る。特に逃げようともしないので、縄で縛るなどの措置はとっていない。 ここには、メテオの提案で来ていた。 当地の民や習俗、司法に触れて情報を持ち帰りたいとの目算である。 他の者とて浪人を捨て置くわけにもゆかず、神宿りの太刀について思うところもあるので同道している。 一同が外の様子を眺めていると、茶屋の主人が茶と団子を運んできた。 「いやあ、やっとお客さんが来てくれた。あんまり閑古鳥が鳴くもんだから、閉めちまおうかと思って居たとこさ。いつもなら今頃は旅商人が通るんだけどねえ」 主人は恰幅の良い中年の女で、人懐っこいらしい。すぐに下がらず、留まって誰へとも無く話しかけてくる。 「お客さん方はどちらへ? 『花京(カキョウ)』の方から来たみたいだけど」 「花京って?」 耳慣れぬ言葉にメテオが訊ね返すと、女は「おや」と目を丸くして、わざとらしく驚いてみせた。 「見たとこ旅慣れてるようだけれど、まさか都を知らないのかい? 素通りして来ちまったってんなら、こんな険しい路、引き返した方が身の為だよ」 都というのは、西国の首都を示すのだろう。その名が、花京。 成る程、槐はこの峠が都に程近いと云っていた。旅人達は都の側から峠坂を登ってきたわけだ。 「いまどき都の名も知らないなんて……まさかあんた達、『神夷(カムイ)』の者じゃないだろね」 「よく判らんが、揃いも揃って辺鄙な土地の出なのは確かだな。だからこその股旅暮らしというやつだ」 訝しむ店主に対し、十三は茶をすすりがてらにやりと笑う。 神夷が何かは判然としないが、無理に聞き出そうとして怪しまれるのも得策ではない。店主の方も別段かまをかけたわけのではないようで、「冗談だよ」と十三につられてすぐに笑顔に戻った。 「物見遊山とは、天下泰平なのかねえ。ここんとこは戦と云っても神夷との小競り合いがせいぜいだったし、それも今は落ち着いてるしねえ。ああそうだ。神夷と云やあ、あんた達」 どうも客足が芳しくなかった為か、店主は喋りたくて仕方ないらしい。次々と話題を変えて舌を転がし、喉を鳴らし続ける。 「峠をこのまま越えたら、眞竹(サナタケ)様のお屋敷があるんだよ。先代は征夷軍の遠征で神夷相手に大層御活躍なすった、そりゃあ偉いお武家様だ」 項垂れていた浪人が『眞竹』の名を聴くなり気色ばんだのを、十三と、メテオは見逃さなかった。 「しかしねえ。今の若様は、なんと云うのか……おっと、いけない。うっかり口を滑らせたら命が幾つあっても足りないったら」 ごゆるりと。そう笑って濁し、唐突に話を切った女主人は奥へと引っ込んでしまった。 「さて……どうする、お前は」 俄かに静まった場で、十三が団子を無造作に頬張りながら浪人に問うた。 蒼月とメテオも浪人に目を向けたが、ロノティエだけは、自らの影に巣食う生物に茶や団子を与える傍ら、雁字搦めの太刀を様々な角度から眺めている。 目覚めた時、浪人は正気を取り戻していた。不幸にも太刀を手にした後の記憶を総て有したまま。そのことを悔いてか、狂気を経ての放心か、今の彼には剣士として、男としての覇気など微塵も無く、すっかり萎んでいた。 「お、俺は…………」 浪人が何も答えられずに居ると、十三が更に続ける。 「俺はお前が最初に殺した相手についてとやかく言うつもりはない。俺が聞きたいのはな。お前が刀に憑かれてから殺した、罪のない相手のことだ」 そこに、メテオが口を挟んだ。 「どうするも何も、選択肢なんかないんじゃない?」 仮に永らえたとて、浪人にはやがて裁きが下るのみだとメテオは考える。ならば、いっそのこと、その首を件の武家なり司法組織になりに差し出し、賞金のひとつもせしめ、関係を築くのが得策ではないのか、と。 それに。 「関係ない他人まで手にかけた以上、命で償うのは当然よ」 メテオがひとしきり己の目算と、その背景にある想いを述べた。 一方、蒼月は、事態が如何転ぶかを見極めるべく静観しつつ、今の状況を頭の中で整理していた。 女主人との遣り取りで出てきた『眞竹』家とは、すなわち神宿りの太刀本来の主に相違あるまい。そして、若様とやらは、この黙りこくった浪人が、妹の仇として成敗した。茶屋の女主人はその事実を知らない様子だったが。否、辻斬り騒動さえもあずかり知らぬのだ。 (待てよ) 今の今まで辻斬りが捨て置かれていたというのが、そもそもおかしな話だ。 普通、幾人も殺められたとあれば騒ぎにならぬはずは無く、この地が国の体裁で治められている以上、司法組織が出向くのが道理だろう。それが為されていないということは、つまり――これは未だ騒動ですらない。 槐も云っていた。浪人は出会った者を『残らず斬り捨てている』と。 「今、こいつの首を、西国の司法――奉行か何か知らんが、ともかくそういった組織にくれてやったところで、恐らく寝耳に水だ」 辻斬りの存在はおろか、この峠で旅商人達が斬られている事実を、そもそも知らないのだから。状況を見せれば事件性は認めそうなものだが、浪人が犯人と流れ者に突然告げられても鵜呑みにはすまい。それどころか、下手をすればこっちが疑われかねない。 「だが、眞竹とかいう家の者は気付いているかも知れんな。倅が跡目を継ぐ儀式から帰って来ないんだ。不審に思う頃だろうさ」 「なら、眞竹に突き出すまでよ」 蒼月の言葉を受け、メテオが次の一手を指し示した。元々殺して片を付けるつもりだったところを譲ったのだから、これ以上の容赦はしない姿勢だ。 「……それでいいのか?」 十三に再度問われた浪人は、膝の上で拳を握ると、黙って頷いた。 「あのー……」 それまで黙っていたロノティエが、皆に声をかける。 「何だ?」 「その場合、太刀は? やっぱり返しちゃうんですか?」 「場合によるだろうな」 蒼月の、ある種尤もな解に、ロノティエは「勿体無いなあ」と零すのだった。 ● 霧深い峠を越えて日が傾きかけた頃、旅人達は眞竹の屋敷に到着した。 周辺にも幾つか家屋が点在し、それらと比較すれば如何に栄華を極めた家元か見て取れる。小城とまではゆかぬが、広大な敷地に構える門も堂々としていた。 門番に太刀を見せてみれば、拍子抜けな程にすんなりと通してくれた。 そうして奥へと案内され、ある襖戸が開かれた折、ロノティエと十三、そして浪人も、目を見張った。彩といえば掛け軸のみの簡素な部屋に座して待ち構えていた、壮年の男。 「そんな……どうして」 その顔は、神宿りの太刀に触れた折、垣間見た男達。そのうちのひとりだった。 「お初にお目にかかる。十一代目眞竹強右衛門・拠重(さなたけすねえもん・よりしげ)と申す。隠居の身で恐縮だが、生憎当代は留守ゆえ、ご容赦願いたい」 拠重は挨拶を以って一行を迎えた。 そして、来訪者のうち三名が驚いているのも構わず、ロノティエの元にある太刀を一瞥してから、微かに息を吐いた。 「どうやら、息子の不始末を収めて頂いたようだ。先ずは礼を云わせて貰う」 拠重は旅人達からこれまでの経過を聞かされて、特に驚くことはなかった。 それどころか、眞竹家もまた、儀式が何者かの介入で乱されたことは感知していたという。その犯人が目の前に居る浪人だと知っても、「咎める気は無い」とのことだった。 今度はメテオが驚いた。否、呆れたというべきか。 「武家って、要は戦士の家元だよね。保つべき体面とか無いの?」 そこに取り入るつもりだったメテオとしては、訊かねばならない点だ。 「直接的には、あれの業が招いたこと。そして、戦に感け、吾が子の放蕩ぶりを捨て置いた儂の責でもある。太刀の件についても然り。父祖の代より継がれし塚を厳重に管理しておれば、これほどの不幸を喚びはしなかった」 筋の通らぬ体面など守ったところで恥の上塗り。拠重は、そう締め括った。 「話の腰を折るようで悪いんだが、少しいいか?」 今度は蒼月が疑問を投げかける。 「結局、神宿りの太刀ってのは、何なんだ? あんな危なっかしいものを、あんた達は代々振り回してたのか?」 「それ、私も気になってました。太刀に触れた時、その……」 「ああ、俺も見た。あれは確かに拠重殿だった」 蒼月に続いたロノティエが濁した部分を、十三が補完する。 これについて、拠重の説明は、次のようなものだった。 眞竹家の塚には、役目を終えた歴代当主の刀が埋葬されているという。 塚の周囲には朱野が植えられ、刀に宿る意思と遺志、叡智と御技が朱野によって塚に蓄えられていくのだ。 「お客人方が儂の顔を見たのも道理。塚の中には儂の刀も在るのだからな」 次代の当主となる者が塚に納めた刀に宿るのは、つまるところ、その蓄えられた力そのものだということになる。しかし、一握の者のみが永き修行の果てに得られる剣力と胆力を一瞬で手にできるのだから、剣人にしてみれば、なるほど神にも等しい存在だ。 但し、資格無き者――眞竹の血を持たぬ輩が刀を手にすると、扱い切れず、道具と主が逆転する。刀は刀である役目を全うすべく、所有者を操り人を斬り続けるのだ。 「加えて此度は儀を終えぬうちに血を浴びたとか。こうした前例は無いが、恐らくそのことで、刀は更なる血を求め、触れずとも手近な者を操ったのだろう」 説明を終え、義重は一同に向き直り、姿勢を改めた。 「お客人方。息子の太刀を、何方か人の手の届かぬところへ封じては下さらぬか。筋を違えているのは承知で、お頼み申す」 「そりゃ構わないが」 「いいんですか? 形見なのに」 当初より0世界に持ち帰るつもりだった蒼月やロノティエにとっては是非も無い話だが、事情を鑑みれば気安く扱って良いとも思い切れない。 「息子も死に、眞竹の血を継ぐ者が居らぬ以上、それは火種にしかならぬ」 「拠重殿はどうされるおつもりか」 十三が、拠重を慮る。 「儂は儂なりに、始末をつけなくてはな」 その言葉が意味するところを理解し、十三は目を瞑った。 「眞竹様! 俺、いや、私は……」 「お主と妹君には済まぬことをしたな。息子の所業を思えば到底赦されるものではないが、謝らせて欲しい」 何か云いかけた浪人を制し、拠重は畳に伏して詫びた。 ● 「さて。どうする、お前は」 眞竹邸を後にしてから、十三は峠茶屋の時と同じ問いを、浪人に向けた。 浪人は、今度は黙ることなく、たどたどしい口調で語り始めた。 「……そっちの姐さんの云うとおり、はじめ、命で償わなくてはならないと思った。だが、腹を切ろうにも腰のものが無い。眞竹様なら斬ってくれると期待したが、逆に謝られる始末。……どうすればいいんだろうな? なあ。どうすればいいと思う? あんた達は、裁いてくれないのか?」 身の丈に合わぬ力に翻弄され、挙句己の身ひとつ如何にもできぬ。自刃する度胸さえあるまい。何の覚悟も無く、なまじ剣など持つから、このようなことになる。 果たして、この憐れな男に十三が下した裁定とは。 「裁いて欲しいというなら、裁いてやろう……そこへなおれ」 浪人が云われるまま地面に座したのを認め、十三は小刀を取り出した。 仲間達が注目する中、浪人は訪れるであろう痛みに備え、眼を固く閉ざす。 やがて大きな手に髷を掴まれて、顎が少し上がると、がたがた震えだした。 「ひっ、い、ひとおもいにっ、やって、くれっ」 なんとも情けない上ずり声も無視して、十三は無言で刃を下ろした。 ふつりと、髷の付け根に刃の当たる感触があり、男は「ひっ」と悲鳴を上げる。 しかし、死に誘う激痛が、浪人を襲うことは、ついに無かった。 「……?」 浪人が恐る恐る目を開くと、いつの間にか正面に十三が回り込んでいた。 その手には黒髪の束が握られている。 「確かに裁いたぞ」 未だ事態を飲み込めていない男に、十三が云った。 「そん、な…………そんな! どうやって生きろってんだ!?」 旅人達に殺意が無いことをようやく理解し、浪人は泣き叫んだ。 訪れるであろう、火宅の如き生の苦しみを掻き消す様に。 十三は既に小刀を仕舞い、それに真っ向から応じる。 「安易な死で償えると思うなよ。本当に罪を悔いるなら、寺社に入って僧職に就け。そして二度と同じことが起きぬよう、塚を守るがいい」 蹲って嗚咽を絶やさぬ男に背を向け、十三は歩き出した。 皆も、後に続く。 男は、いつまでも泣いていた。 殺してくれ、殺してくれ――と。 「いっそ望み通りにしてやればよかったのに」 メテオはやれやれと肩を竦める。 だが、十三は思う。 どのような形であれ、人に裁かれて動けるようになることもある。 男の生が何らかの意味を為すものとなるならば、それはこれからなのだと。 蒼月は、一度だけ振り向いた。浪人は、未だ地に伏せたままだった。 「これからの人生は地獄のようだろうな。それでも――生きている限りは償わねばならん」 憑かれていたとは云え、一度は自分を窮地に追い込んだ男。 その末路に、蒼月は同情を禁じ得なかった。 「あとは、あの男次第だろうよ」 十三がぽつりと云ったのは、蒼月を気遣ってのことかも知れない。 ロノティエは、最後尾を歩きながら影生物に持たせた太刀を視る。 刀と呼ぶには既に歪で、未だ禍々しく脈打つそれは、けれども決して醜いものではなく、むしろ人の業が造り上げた独特の美しさを見出すことさえできた。 纏わる話が奇怪であればあるほど、それは美しいのかも知れない。 「これが、付喪神……」 朱昏には、こんなものが幾つもあるのだろうか。 この太刀を槐に渡すのは少々惜しい気もするが、恐らく自分の手元に置いても持て余すだけだ。 (そうだ。代わりに白騙の品揃え、改めて吟味させて貰いましょう) ロノティエは自身の名案に、ひとり含み笑いをするのだった。
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