「みなさんにはインヤンガイに向かっていただきたいのです」 世界司書、リベル・セヴァンが告げた。 いまだ居所がわからない館長。しかし、少しずつ、消息を絶って以来のその足取りが掴めてきている。目下のところ、最後に彼の所在が確認されたのはインヤンガイということで間違いないようだ。 一時期を『永久戦場・カンダータ』で過ごしたあと、かれらの異世界侵攻軍とともにインヤンガイにやってきた。だがそのあと軍を出奔し、行方不明になったあと、再びインヤンガイの暴霊域で姿を見られている。「ロストレイルにもスレッドライナーにも乗れない以上、館長は『まだインヤンガイにいる』……そう考えるのが自然です。ですからインヤンガイで大規模な捜査を行うことには意味があるでしょう。もしこの捜索で館長が見つからなくとも、それはそれで事態としては前進です。可能性をひとつひとつ潰していくこと――、それによって私たちは少しずつでも真相に近づけるのですから」 リベルは言った。 かくして、大勢のロストナンバーがインヤンガイへと向かうことになった。 今回も、頼みとするのは現地の探偵たちである。 複雑なインヤンガイの社会の隅々までネットワークを持つ探偵たちの力を、この捜査ではフル活用することになる。ロストナンバーは数名ずつ、インヤンガイ各地に散り、その地を縄張りとする探偵と協力して考えうる限りの捜索活動に力を注ぐのだ。 すでに、探偵への声掛けは行われており、「もしかすると館長に関係するかもしれない情報」について、集まり始めているという。ロストナンバーがその真贋を見極めに行くことになる。「みなさんに向かっていただくのはこの街区です。縄張りとする探偵は――」 リベルはてきぱきと、担当を割り振っていく。 ◆ ◆ ◆「よく来たな」 旅人たちを出迎えたのは、眼帯をした汁麺の屋台の店主である。 『片目のウェイ』と呼ばれるこの男は、この星々坊(シンシンフォン)街区を縄張りとする探偵でもあった。こうして屋台を引き、日銭を稼ぎながら、街に持ち上がる問題を解決し、情報を集めているのである。「これがおまえたちが求めているものなのかはわからないが……気になる話を聞いたものでな」 そう言って、ウェイが話し出したのは、ある謎めいた人物の噂であった。 星々坊は歓楽街だ。 それも、ひとつ通りをはずれ、裏路地に入れば、堕落と頽廃の色濃い愉悦を商う店が集っている。 インヤンガイにあってさえ背徳的とされる類の店が軒をつらね、禁断の快楽をもとめてひそやかに客たちが足を運ぶ……ここはそういう街だった。 そんな星々坊の一画に、『水仙楼』という名の店がある。 複雑な建築物からなるインヤンガイだが、この店は庶民の暮らす下層部と、富裕民の暮らす上層部のちょうど中間に位置する。店のつくりも比較的、高級志向で、一見すると瀟洒なレストランかホテルのようである。 夜毎、店を訪れるのは身なりのよい金持ちの紳士たち。だがいずれも、慎重に慎重を期して、誰にも見とがめられないように出入していた。「気取っちゃあいるが、商売の中身は他とそう変わることはない」 ウェイは切って捨てた。 彼の説明によると、要するに『水仙楼』は富裕層の男性客に、十代の少年たちが接客し、奉仕する店である。 内部構造はホテルのように個室からなり、客たちが自身の選んだ少年と過ごすのだった。 少年たちはみな、住み込みで働いている。大方は借金のカタに売られてきたような少年たちだが、客のつきそうもない並以下の容貌では受け入れられないという。結果、美少年たちばかりがいる店ということになるのだ。「それをどう思うかは任せるが、そんな男娼窟なんざ、この街には掃いて捨てるほどある。いいか、本題はここからなんだ。最近、『水仙楼』に奇妙な客があらわれるそうだ――」 夏だというのにコートをまとい、目深にかぶった帽子のせいで顔つきすら定かではない。ただ声で壮年の男性とわかる人物は、たびたび店を訪れて、ひととおりの少年たちを指名した。だが、指名した少年と一夜を過ごしても、手も握らず、少年だけをベッドに寝かせておくのだという。 そして……「ある日突然、少年のひとりを『買いたい』と……つまり身請けして自分で引き取りたいと言い出したらしい」 これは男娼の世界では珍しいことだった。 女性と違い、少年たちは薹が立てば足を洗うか、店を営む側に回るのが普通だからだ。「そうして一人の少年が男に連れられて『水仙楼』から消えた。……しばらく男は来なかったが、つい最近、またあらわれて、今度は別の少年を買う交渉を始めたらしい。しかもな、調べてみれば同じ男は別の店からももう何人も少年を身請けしているらしいんだ」 ウェイの話は、いいようもない不気味なものを感じさせた。 いくらインヤンガイでも人ひとりの値段がそう安いはずもなく、ましてその後の生活費を考えるなら、何人もの人間を引き取るには相当な大富豪でなくてはならぬ。「どうもひっかかるだろう。男が少年を買うのは、普通の目的ではなさそうだ。それが何かはわからないが……。その男がおまえたちの探している人物だと断ずるつもりはない。ただまあ、背格好は一致するな」 片目のウェイは、含みのある笑みを浮かべた。 ◆ ◆ ◆「いらっしゃいませ」 来店した男に、従業員は深々と頭を下げた。 男は、勝手知った様子でロビーを横切り、待合のソファーへ腰をおろす。 ここで少年を指名し、連れ立って部屋へと赴くのが『水仙楼』のやり方だった。初めての客には少年たちの顔がわかるアルバムを見せて指名させるが、常連ならばそれも必要ない。「お飲み物をお持ちしましょうか?」「いい」「では、誰をお呼びしましょうか」「……」 従業員は男の指名を待った。 傍に寄ったとき、男からは濃厚な薔薇の香りが立ち上っているのを、彼は嗅いだ――。!注意!イベントシナリオ群『インヤンガイ大捜査線』は、同じ時系列の出来事を扱っています。同一のキャラクターによる『インヤンガイ大捜査線』シナリオへの複数参加はご遠慮下さい。また、このシナリオは『ヴォロス特命派遣隊』『ブルーインブルー特命派遣隊』に参加している人は参加できません。合わせてご了承下さい。
1 これは《頽廃》の匂いだ、とリエ・フーは思う。 ネオンの明滅――すえたような酔客の体臭と、路地にこもる生活の匂い。酒場の喧騒……どこかから聞こえてくる怒号と、嬌声。店から漏れてくる音楽。なにもかもが、懐かしささえ感じる。 インヤンガイという世界すべてが、多かれ少なかれ頽廃の色彩をまとう世界だと言ってよいが、中でもこの星々坊という街区はとりわけのそれが濃いように思われた。 (思い出すぜ) リエ・フーの脳裏に浮かぶ、かつて暮らした生まれ故郷。 (くそったれた上海をよ) 上海灘の波音と、租界を闊歩する軍靴の音こそないけれど、陰謀うずまく東洋の魔都と呼ばれたあの頃の上海は、たしかにインヤンガイに似通った空気を持っていた。 そのせいか、いくぶん、歩みが遅れた。 リエ・フーはやや遅れて屋台の席に就く。 「男娼館ねェ……」 屋台のうえに、ティーカップがひとつ。 その中に、10センチにも満たないほどの――小さなオヤジがいた。 くたびれたコートに中折れ帽、格好だけ見れば映画の探偵のようだ。無精髭もくわえ煙草もさまになっているが、小さい。非常に小さい。 「俺に言わせりゃ悪趣味としか言いようがねェんだが……、まぁ、他人の趣味をとやかく言うこたねェな。売春宿なんてもんはどこに行ったってあるもんだ」 こびとは名をジャスティン・ローリーと言った。 片目のウェイは、ロストナンバーを見慣れてはいたが、さすがに小人には隻眼を見開いて迎えた。お猪口のようなごく小さい容器に、スープと麺の切れ端を入れてやったが、それでもジャスティンにはバケツのような量の食事になっただろう。 「それはいいとしてだな。その変な客。そいつが館長だっていうのは、どうなんだ……」 ジャスティンは微妙な顔つきで、屋台の店主と、仲間たちの様子をうかがった。 「ないんじゃねーの?」 夕凪が言った。 そしてスープを飲み干すと、ふう、と息をつくなり、 「おっさん、おかわり」 と空いた器を差し出した。 「だって男娼買う理由が思いつかねー」 「そう? 館長サンだって、時には……そういうのも必要なんじゃねぇの?」 リエ・フーがにやりと笑って口を挟む。 「む……そういうこともあるか……そいつぁしかしスキャンダルじゃねェのか……というよりプライバシーってもんがな」 ジャスティンがもごもごと言ったが、夕凪はひっそりと微笑った。 「何人も身請けして? ターミナルにハーレムでもつくろうってつもりかよ」 「上海でも似たような事件があった」 リエ・フーももとより、館長が私的な楽しみのために男娼窟に出入したとは考えていない。 「そいつらは金持ちの玩具にされて、それから……」 「男娼なんかいなくなっても誰も気に留めないし探す奴もいねー。こんな良い獲物はないわな」 夕凪がつづきを引き取った。 「……へへへ」 ジャスティンは不敵に笑う。 「記者魂が騒ぐぜ。スクープの匂いは薔薇の匂い、ってか。……で、どうする」 「本人に聞くのが一番。早い話が、その紳士サマを誑しこみゃいいんだろ?」 とリエ・フー。 「同じことを考えてたみたいだな。……『水仙楼』の“仕入れ先”はわかるのかい?」 夕凪とリエ・フーは歳も近いが、境遇にも近しいものがあるようだった。夕凪はウェイに訊ねる。 「専門の女衒がいる。連中が下町の貧しい家から買って、上前をはねたうえで店に納めるという構図だ。俺も多少は顔が利く。渡りをつけておまえたちを売り込ませることはできるだろう」 そう言ってからウェイは、まだ発言のない四人目の旅人へ、あんたはどうする、とでも聞くように隻眼を向けた。 「俺はまどろっこしいのは性に合わん」 灰燕は応えた。 「正面から向かうまでじゃ」 「なら俺もだ」 ジャスティンは灰燕に同行するという。 「内と外から……だな。いいだろう、健闘を祈る」 路地の入り口はスライドする金属の格子で閉ざされていた。 一見してどこにも看板の類はないが、目立たない場所に呼び鈴があるようだった。 灰燕はその前に立つと、呼び鈴を鳴らす。 すると路地の奥から、ぬう、と大きな影がやってきた。屈強な体格の、こわもての男である。 「……なにか」 「『水仙楼』はここじゃろう」 「ご予約でしょうか」 「いや」 「失礼ですが……当方がどのような店かはご存知ですね」 「知っちょる」 「……」 男は値踏みをするように灰燕をじろじろと見た。ぶしつけであるが灰燕は涼しい顔だ。 「どなたかのご紹介でしょうか」 「そんなところじゃ。じゃが名前は出さんでくれと言われとる」 厳重だ。地位のある顧客がお忍びで通うこともあるというし、店の性質からして慎重にならざるを得ないのだろう。 「……左様でございますか。失礼致しました。ご案内します」 ようやく許されたと見える。 格子戸が開けられた。男に先導されて路地を抜けると、四方を建物に囲まれた空間に出る。そこに、『水仙楼』とおぼしき店はまさしく隠れ家のように存在しているのだった。 入り口のドアにも店名などは掛かっていない。 中に入ると、まず、絨毯の厚さを足の下に感じた。静かに音楽が流れている。照明はいくぶん暗い。 「いらっしゃいませ。……当店は初めてでいらっしゃいますか?」 ホテルのボーイめいた服装の、従業員が、灰燕をソファーへ促しつつ、訊ねた。 「おお、そうじゃ」 「ご指名は」 「まかせる」 「は?」 灰燕が泰然として言ったので、従業員は戸惑ったようだ。 「誰でも変わらん、あんたに任せる」 そんなやりとりの間に、灰燕の着物の裾からそっと滑り降りたちいさな影が、『水仙楼』の絨毯のうえを走ったものに気づいたものはいなかった。 「さて、と。まずは……」 ジャスティンはあたりを見回すと、事務室と思われる場所のあたりをつけ、そちらを目指すのだった。 2 その日―― ふたりの新入りが『水仙楼』に入った。 この店に勤めるのは十代の少年ばかりだ。一口に男娼窟といっても様々で、十代の少年らしい繊細さが好まれることもあれば、男らしい顔つき・身体つきが求められる場合もある。『水仙楼』は前者のほうで、そしてそういう店はえてして年嵩の羽振りのいい紳士が買いにくる場所と決まっていた。 商いの仕方もいろいろだが、『水仙楼』はもっとも一般的といえる形態で、少年たちは大部屋に待機し、選ばれたものが客とともに部屋へ上がり、褥をともにするということになっていた。 そのようなことは、ウェイからも聞いたが、リエ・フーにはすでに既知のことだ。 だから大部屋で壁にもたれて周囲の様子をうかがうのも、どこかさまになっている。 夕凪は、長椅子で先輩の少年たちと早くも打ち解けたふうを装い、話し込んでいた。 「へえ、じゃあ身請けされることもあるんだ。いいなァ」 夕凪の話す声の切れ端に、リエ・フーはそっと苦笑を漏らした。 「おれも早くいい旦那を見つけて水揚げされたいよ」 夕凪がそう言うと、少年たちは笑った。 「そんなことは滅多にないよ」 「本当に。つい最近まで、噂でも聞かなかった」 かれらは口々に言うのだ。 「そうなの。じゃあラッキーなんだね。身請けされたのはどんな子だったの」 「どんなって……」 「おれと比べてどうとか」 夕凪は連れて行かれた少年の特徴、共通項を探ろうとしている。 何の目的があるにせよ、無差別に連れ去っているのではないはずだ。薔薇の紳士はなんらかの基準を持って少年を選んでいる。それも、足しげく通っているというのだから、吟味を重ねているのだと言ってよい。 「んー、もうすこし背丈があったかな」 「でも普通のやつだったよ。すごい人気ってわけじゃなかった」 「その人に指名されたことある?」 「あるよ。変なやつだったなあ。なんにもしないし……楽なのはいいけど、香水くさくてさ、気分悪くなったよ」 「ふうん……」 さて、その頃。 「なにか飲まれますか? それとも、先にお湯を?」 「なんでもええが……話が聞きたい――そうじゃな、茶でも淹れてもらうか」 「?」 あてがわれた少年と部屋に入った灰燕だ。 部屋はなかなか趣味の良い調度が置かれていて、ちょっとしたホテルの一室と言って通じる。 大きなベッドが存在感を放ち、何のための部屋なのか想像を刺激するが、灰燕はここでも周囲には関心なさげにソファーに身を預けるだけだった。 清潔なシャツとズボンだけの少年は、15、6と言ったところか。なるほど造作の整った顔立ちをしている。彼が備え付けの茶器で、茶を淹れてくれた。清しい香りが漂う。この手の店にしては良いものが用意されているようだ。 「最近、おかしな客が来るじゃろ」 「ああ――」 それだけで合点がいったようだった。 「会うたか?」 「一度だけ。でも僕はお眼鏡にかなわなかったみたい」 「何をされた。詳しく教えてくれ」 「何も。でも……どうしてそんなことを?」 「知りたいんじゃ」 「……。身体を見せろ、って。ちょうど、貴方と同じ場所に坐って」 「……」 少年は灰燕の前に立った。 そして、シャツのボタンをひとつ、ひとつ、と外していく。 その下から、まったく日焼けしていないなめらかな素肌があらわれた。暗めの照明のもとで、少年の裸身だけが輝くようだ。 「下も脱いで、全身を見せろって」 ベルトを解いて、するりとズボンを落とした。 灰燕は動じたふうもなく、茶を啜った。 「でもそれくらいなら、珍しくはないんだ。いろんなお客がいるからね。長くやってると、ちょっと変わった客はすぐにわかるよ」 全裸を恥じるふうでもなく、そこに立つ。少年が浮かべた笑みは、およそ、同じ年頃の平凡な暮らしを営む少年ならば知り得ないことを見てきたことをわからせる悽絶さをもっていて、それが奇妙に艶めかしい。だがそれさえ灰燕の眉ひとつ動かすことはないのだった。 「すこしは鍛えたほうがええ。その腕では人も殴れんじゃろ」 「彼もそう思ったみたい。『細いな』って言われた」 少年は、灰燕の隣に腰を降ろすと、しんなりと身を寄せてきた。 「貴方も彼と同じだね。僕に興味がなさそう」 「すまんの」 「知りたいな。何になら興味があるのか。ほとんどのことには驚かないよ。本当にいろんなお客がいるんだから――」 言いながら、すっと灰燕の胸元の袷に伸びた手を、灰燕は掴んで止めた。 「ふうん、こいつは」 「何かわかった?」 「そうだな……って、おおい、おどかすんじゃねぇぜ」 ジャスティンが振り向くと、夕凪が覗き込んでいた。 申し訳程度の狭い事務所だ。 事務机の上に立つジャスティン。机の上に広げられた帳簿の頁がひとりでにめくれていくのはジャスティンの「ものを浮遊させる能力」によるもの。小人族が巨人に伍して生きていけるゆえんたる力だ。 「勝手に歩きまわっていいのか?」 「いいわけねーだろ。ま、ちょっとな」 指先で、こめかみをつついた。 「で?」 「ん。先月と、何ヶ月か前に、多額の入金がある。大金が払われて身請けがあったのはホントみたいだな」 「身請けったって、自身売買ってことだろ。堂々と帳簿に書き込むたぁ、腐ってるね」 「で、ほかのガキに話は聞けたのか?」 「まーね。……これ、ファイルか」 ジャスティンが漁ったと思われる、ファイルを手にとった。 「ああ、そこにはもう辞めたガキの資料も残ってる。だから……」 「こいつと、こいつだな。さっき名前を聞いた」 「ふーん。顔立ちは結構違うな。好みのタイプが幅広いんかね? いや、待てよ……」 ジャスティンがじっと見ている書類には、所属している少年について、さまざまな事柄が覚書として記入されていた。 「見ろよ、身長と体重がほとんど同じだ」 「体型が選ぶ基準?」 「これだけじゃなんとも言えんが……」 「おい、ここで何してる!」 そのとき、ふいに事務所の扉が開いた。事務員に気づかれたようだ。 「おまえ、今日の新入りだな? 勝手に大部屋を出たら――う」 夕凪と目が合った、その瞬間。事務員はくたくたと膝から崩れる。 「おい」 「眠らせただけ。そいで、起きたらおれらのことも覚えちゃいない」 「便利だな……そうだ、こいつ、金庫のカギを持ってるか?」 ジャスティンに言われて、夕凪がポケットを探ると、鍵束が見つかった。 「いいね。お駄賃いただく?」 「バカ。手がかりを見つけるんだよ」 「……大したもんはなさそう」 金庫の中にしまわれていた書類を取り出した。 「いや、こいつは小切手だ。この額は……しめたぞ、これが身請けの代金だぜ。ということはこの署名――こいつが例の紳士の名前ってことだ。ホー・ユウェン、って読むのか?」 「偽名かも」 「かもしれんが、小切手を振り出してる以上、この名前で口座をつくってる。ウェイに知らせて調べてもらおうぜ」 そのとき、呼び鈴の音をかれらは聞いた。 事務室の扉をそっと開けて、隙間からうかがう。 案内の従業員がロビーを横切っていくのが見えた。 「ようこそ、おいでになりました。ホー様」 3 「ようこそ。選んでもらえて嬉しいよ」 リエ・フーは“営業用”の笑顔で出迎える。 すっと後ろにまわり、コートを預かろうとする所作も慣れたものだったが、紳士は手袋を嵌めた手をかるくあげて断った。 そのままソファーへ向かう、その片足を、わずかにひきずっていることをリエ・フーは見逃さない。 「お湯を沸かそうか?」 「いや、いい。それより」 目深にかぶった帽子のつくる陰の中を、リエ・フーの目が油断なく見つめる。整った顔立ちの男だ。顔色はすぐれない。目元は色ガラスの入った眼鏡で隠されていた。 「身体を見せてくれ……いや」 紳士は言った。 「脚だ。脚だけでいい」 「脚だけ?」 男が部屋に入ってきてから、むせるような薔薇の香りが漂っている。香水にしてもつけすぎだ。 リエ・フーがベッドに腰掛け、ズボンを脱ぐと、紳士はひざまづいて、彼の脚に触れた。 手袋の指が、すうっ、と、リエ・フーの脚線をなぞる。 その様子はまるで―― (品定め、か。それも人間を見る目じゃない) 色眼鏡に隠されていてさえ、その眼光の熱っぽさが伝わってくるようだった。なにか異様な執着をこの紳士がいだいているのは間違いなかった。その妄執に、連れ去られた少年たちは呑まれた。 「……気に入って、もらえた?」 それには応えず、紳士は次に、驚くべき行動に出た。 コートの隠しから彼が取り出したものは、なんとメジャーだったのだ。 人間を見る目でないというリエ・フーの感じはあたりで、紳士はこの家具は家のあの場所に置けるだろうかとでもいうように、彼の脚を測り始めたのだ。 「体脂肪率を測ったことは?」 そして出た質問がこれである。 「もしかして『注文の多い料理店』の人?」 「何だって?」 「いや……ねえ、おじさん。オレも連れていってくれない?」 脚を組み、甘えるような口調で訊ねた。 「私のことを知っているのか」 「噂で持ち切りさ。みんな連れていってもらいたがってる」 紳士は立ち上がった。しぐさだけで、もう着ていいと示し、自身は背を向ける。 「ねえ……お願い!」 リエ・フーはその背中にすがった。 「あなたが連れて行った一人……オレの生き別れの兄さんなんだ。兄さんに会うためにこの店に入ったのに、もう連れて行かれたあとだった……一目でいいから兄さんに会いたい。一晩だけでいいから、オレをここから連れてあなたのところに行かせてよ」 われながら迫真の演技! 「……会わせられない」 「どうして!」 「それは――……うっ」 紳士は呻いた。 崩れるようにソファーに座り、自分の脚をかばった。 「どうしたの? 脚が痛む?」 「……やむをえない」 彼は言った。 「来なさい」 インヤンガイの街路には、街頭端末があちこちに設置されている。 壱番世界で言う公衆電話のようなものだ。呪術と科学が一体となった、高度な情報化社会もまた、インヤンガイの顔のひとつである。 「どうだった?」 夕凪が端末を操作すると、画面には『片目のウェイ』があらわれる。ジャスティンが彼に問うた。 「何かわかったか」 『口座は確かに存在する。莫大な資産を保有しているようだな。名前は偽名のようだが、間違いなく上流階級の人間だろう――大企業か投資家、場合によると政府関係者かも』 「それで」 『男娼を身請けしたと思われる小切手での出金だが、だんだんとその感覚が短くなってきている』 「エスカレートしてきてる……あるいは」 「必要性がどんどん逼迫してきてるってこった」 ジャスティンは夕凪の肩の高さにティーカップを浮かべていた。 『役に立つかもしれない情報がある。ホーが星々坊に部屋を借りていることがわかった。毎月、家賃が振り込まれてる。住所は……』 「五百七十番地?」 『……なぜそれを?』 夕凪はふふふと笑った。 「今、そこにいるからさ」 街頭端末の近くの建物にとりつけられた番地表記へ視線を投げる。 薄汚い、インヤンガイではどこでもみられるような建物だ。 だがそこは今しがた、あの紳士とリエ・フーが消えて行った建物でもあるのだった。 薔薇だ。 外見はみすぼらしいビルだったが、内部は整えられている。 そして至るところに……薔薇が飾られており、めまいがするほどの薔薇の香りが満ちていた。 「ここで待っていたまえ。これでも飲んで」 紳士は、応接室にリエ・フーを置き去りにしてどこかへ消えた。 リエ・フーは湯気の立つカップを手にとったが、匂いを嗅ぐだけで口はつけない。 「その手に乗るかよ」 不敵に笑い、薔薇を活けた花瓶のひとつに、茶を流し入れる。――と、怪訝な顔つきになった。 「なんだこれ、造花じゃねーか。……!」 そして、花の向こうに隠されているそれに気がつく。カメラだ。部屋をじっと監視している機械の眼。 紳士の出て行った扉へ走った。外からカギをかけられていた。 「なめんな」 隠し持つピンを鍵穴に挿し込めば、たやすく開いた。 暗い廊下へ。 その奥の、灯りの漏れている戸口へとリエ・フーは向かった。 造花は匂わない。ならこの薔薇の香りは何だ。あの男は《秘密》そのものだ。決して暴かれてはならないものを、コートで隠し、薔薇の香りで隠し、紳士の仮面で夜の街を歩き、娼館の扉を開ける。 館長ではないことなど明らかだ。 なぜならその頭上に真理数を宿していたのだから。 そこで仕事を終えてもよかったが、引き下がらなかったのは、男娼にかかわる事件だったからか。いや、そんなことはどうでもいい。だが暴いてやる。その下に何を隠しているのか。 「こいつは……」 飛び込んだ部屋は、青白い灯りで照らされている。 棚にいくつもの大きな瓶が並んでいる。その中に浮かんでいるのは……人間の腕――脚――眼球――耳――臓器……ありとあらゆる、人体のパーツだった――! 背後から、リエ・フーの口を手袋がふさいだ。 ぎらり、と閃いたのは、鋭いメスだ。 だがそれが彼の喉を掻き切ることはなかった。 鮮やかな背負い投げを男にくらわせたからだ。 ガラスの割れる盛大な音とともに、保存されていた人体パーツが床に転がる。その中で呻く男。薬品の匂いがつんと鼻を突いた。 「こんなこったろうと思ったぜ!」 ふたつの勾玉が向かい会うかたち――太極図がリエ・フーの足元に浮かび上がる。 「とっとと荼毘に付されやがれ」 ごおう、と音を立てて激しい炎が高くあがった。 悲鳴――。火のついたコートのまま床を転がり、異様に敏捷な動きで、男が部屋から逃れようとする。 「殺すまでもなかろ、その威を見せつけるだけでええ」 暗い廊下の向こうから声がした。 灰燕だ。 トラベルギアの傘を手に、こちらへ歩み入る。 「冗談だろ。それにこいつはもう――」 ばさり、とコートが投げ捨てられ、リエ・フーと灰燕の視界をほんの一瞬だけ遮った。 すらり、と軽い音とともに抜き放たれた灰燕の刃が一閃――、それをまっぷたつに切り裂くと、非常口を飛び出していく男の姿があった。 「そっちへ行った!」 灰燕が声を張り上げる。 建物の外には夕凪とジャスティンがいたのだ。 ジャスティンのカップが、まるで小さな空飛ぶ円盤のように空を滑った。 「おらよッ!」 スプーンを振るうと、ぱっと撒かれた粉末が男の目元を直撃するも、男の勢いは止まらず、獰猛な唸り声でカップを乱暴に払いのける。 「うお!?」 「っと、危ない」 夕凪がカップごと弾き飛ばされたジャスティンを受け止める。 「こいつ……!」 ジャスティンと夕凪は見た。 振り返った男の目――その眼窩が、ぽっかりと空洞になっているのを。そのまま、尋常でない人ならざる動きで街路をわたり、路地へと消える。 「逃げたのか!?」 非常階段をリエ・フーと灰燕が駆け下りてきた。 「精神波のパターンを覚えた。今、トレースして……」 「いや、それには及ぶまい」 夕凪へ、灰燕が言った。 「これを」 「ひ、なんだこりゃ」 彼が指したものを見て、ジャスティンが辟易した声をあげた。 それは……路上に転がる人間の片脚だ。 「見ろ、切り口が腐っちょる」 「なんてこった」 「なるほどな。こいつが使えなくなったからオレの脚を欲しがってたわけね」 「……でも脚を失ってしまった。ということは」 4人は顔を見合わせる。 「新しい部品を調達に行くはずだ」 4 (あれ……?) 少年は、そっと身を起こした。 ベッドの上だった。 (寝ちゃった?) そういうこともないではないが、記憶がなかった。 それに、部屋が静かだ。お客の姿が見えない。 (たしか今日は……) 変わった格好をした、ここに来るような客のなかでは、若い男だった。きれいな顔立ちをしていた。わざわざ買わなくても、そこいらの酒場でいくらでも相手を見つけられるだろうに、と最初は思った。聞きなれない方言のような話し方だったから旅行者だろうか。 ぼんやりと、記憶が戻ってくる。 あの、せんに何人かを身請した薔薇の紳士の話をしたのだ。それから―― 「貴方も彼と同じだね。僕に興味がなさそう」 「すまんの」 「知りたいな。何になら興味があるのか。ほとんどのことには驚かないよ。本当にいろんなお客がいるんだから――」 言いながら、すっと彼の胸元の袷に伸ばした手を、掴んで止められた。 「もう服を着てもええ」 「つまんない。本当にいいの? どんなことでも、してもいいよ?」 男は静かに笑った。 やむなく、服を着た。 「……身請け、されたいか?」 「そりゃあね」 「人のもんになるのにか。苦界も楽ではなかろうが」 「ここはひどいところさ」 「なら逃げりゃええ」 「無理だよ」 「抗え」 「おかしなことを言うね」 だが彼の目は真剣だった。 そのときだ、突然部屋に入ってきたのは、たしか今日から入った新入りのひとりで……それから、宙に浮かんだカップの中のちいさいおっさん――……あれは夢だろうか……当然だ、ちいさいおっさんなんかいるはずないのに……でもそこから記憶がない。 「帰っちゃったのかな」 部屋のドアを開けてみた。 「……?」 廊下が、いやに暗い。 そして静かだ。 「う」 足元に水音。なんだこれは。絨毯が濡れている……? 低い、誰かがささやくような声を、彼は聞いた。そして、くちゃくちゃと、濡れたものをかき回すような音。それが廊下の先からしている。廊下の灯りの下に、誰かがしゃがみこんでいるような…… 「誰?」 近づいて行った。 「……だめだ……」 「う――」 「だめだ、この脚は合わない……!」 案内係の従業員だった。 白目を剥いて血の泡を吹き……明らかに絶命している。血の池に漬かった遺体の傍に、その男がいた。煤けたスーツで、自分の脚に――膝下から先のない自分の脚に、従業員の遺体から切り取った脚をつなげようとしていた! 「うわああああああああ!」 「おまえの!」 男の、真っ暗な穴でしかない眼が彼を見た。 「おまえの、脚をぉおおお、よこせぇえええええ」 両手と片足の三本だけで、異形の虫のような奇怪を動きを見せ、男が廊下を駆けてくる。少年は腰を抜かしてへたりこんだ。その時―― 「躍れ、白待歌(ハクタカ)」 炎が、奔った。 少年と男のあいだを割って入るように、目を灼く煌々とした炎の壁が立ち上がったのだ。 それを背景に、背の高い影が立った。ひるがえる着物の裾――、横顔から投げられた一瞥に、それが今夜の客だと悟る。 「あ」 「怪我はないな。はよ、逃げぃ。この火はまやかしじゃ」 確かに、あれほどの火があがっているのに、熱を感じないのだ。 言われるままに逃げる少年を見送り、灰燕は相手へ視線を戻した。 「哀れなもんじゃの……」 男は火が恐ろしいようだ。必死に遠ざかろうとする。 いつかの、遠い記憶が、ふうっと灰燕の脳裏に甦った。そう――あれも色町だった。木造の建築を舐め、焼き尽くしていく炎。けたたましい半鐘の音。逃げ惑う芸妓や花魁たち。火の粉が舞う夜空に響いた妖鳥の声。 「なつかしいのぅ、白待歌」 『呑気なことを』 従者の言葉に、呵々と笑ったが、すぐにその笑みを納めると一転、真剣な表情で、白刃を抜き、幻影の炎の中へ駆けこんでいった。 そのとき、いくつもの煌きが空中を舞った。 夕凪のトラベルギアであるパズルのピースが、弾丸のように男の身体を撃つ。 悲鳴とともに、異様な音がして、ぼろぼろと、腕がとれ、肉片が飛び散った。 「ひでぇもんだが、歩く屍に遠慮はいらねえよな?」 リエ・フーが退路を阻むように立つ。 「臓器売買か、それとも儀式の生贄かと思ったが……ガキどもの身体を使って自分の命をつなげてやがったとは……それでも隠し切れねぇてめぇの腐臭を薔薇の香水でごまかした」 「薔薇の下には秘密が眠るというけれど」 夕凪がうっすらと笑った。 「これは醜すぎる」 ぼろぼろと崩れていく男の身体……それでもなにか言いたげに、唇が動いたが、声帯がすでに劣化しているのか、言葉にはならなかった。吐出されたのは、薔薇の香りと腐乱死体の死臭がまじった、吐き気をもよおすようなにおいだけ。 ざん、と、灰燕の刀が斬りつけられ、引導を渡した。 * 「ひでぇもんだ。他にも死体が見つかったらしい」 空飛ぶカップの中で、ジャスティン。 今日までひっそりと、街区の影で営みを続けてきたはずの水仙楼だが、これほどの騒ぎになっては仕方がない。官憲らしき男たちが、どやどやと路地に駆け込んでいくのを、すこし離れた場所で、4人の旅人は見守る。 「結局、ありゃあ暴霊だったんだよな?」 「インヤンガイは呪術の世界だ。あの状態の人間を人間と呼ばないなら暴霊だろうね」 夕凪が肩をすくめる。 「もう帰ろう。関係者の記憶は消したよ」 「だな。いや、そのまえに……探偵のおっさんに奢ってもらおうぜ、ご自慢の汁麺をよ」 歩き出す。 灰燕が、ふと足を止めた。 ものかげで、水仙楼のほうをうかがっている少年を見つけたのだ。 目が合った。 灰燕はただ口元にだけ笑みを浮かべ、言うのだった。 「俺は何も言わん。居場所は己で決めるとええ」 「……」 少年は、礼をすると、駆け出していく。 この夜から逃げて、別の夜へ。そこでどのように生きていくのかは、あずかり知らぬこと。 4人もまた自分の旅へと戻る。 あとにはただ――薄れゆく薔薇の芳香が夜風にさらわれてゆくのみだ。 (了)
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