「壱番世界はハロウィンの時期よね」 それは壱番世界の暦で10月のある日、午後のお茶の時間に、アリッサが言った。「そうですね。ジャック・オ・ランタンでも用意させますか」 紅茶のお代わりを注ぎながら、執事のウィリアムが応える。「んー、でも、ターミナルだと今いちハロウィンって気分にならないわ」「そうですか?」「だってこの青空じゃ。ハロウィンって夜の行事っていうイメージだし。どこかにおあつらえ向きのチェンバーでもあればいいんだけど」「お嬢様。先日のビーチのようなことは、どうかお慎みを」「しーっ! 内緒よ、内緒!」 アリッサはくちびるの前でひとさし指を立てた。「あ――、でも待って。チェンバーじゃなくても、ターミナルに夜をつくることだってできるわよね」「それは……原理的には可能ですが、0世界の秩序を乱すことになります。ターミナル全体となりますと、ナレッジキューブも相当要すると思われますし」「でも、ウィリアム。私、前から思ってたんだけど、ターミナルに暮らす人の中には、夜しかない世界から来た人だってきっといるでしょう? 昼しかないって不公平じゃないかしら。ねえ、試しに、ちょっとの間でもいいから、『ターミナルにも夜がくる』ようにしてみない?」「……」 ウィリアムの表情は変わらない。だが賛成していないことは明らかだった。 しかしその一方で、アリッサが言い出したら聞かないことも、彼はよく承知している。 それから数日後――。 世界図書館内ではかなり議論が紛糾し、実施にあたって各方面の調整は困難を極め、一部の事務方職員は瀕死になったというが、ともあれ、正式に、ターミナルの住人にその告知が下った。『10月下旬の一定期間、試験的に「夜」を行ないます。「夜」の間、空が暗くなりますので、外出の際は十分にお気をつけ下さい』「壱番世界に百物語っていうものがあるんだ」 奇妙な本屋のフェイが室内に円形にかぼちゃで作ったランタンを置きながら笑う。 大きな黄色いかぼちゃ、深い緑のこぶりなかぼちゃ、オレンジの変形かぼちゃ。それぞれには三角や四角、丸の形で切り抜かれた顔が、内側に照らされた蝋燭に照らされてにたにたゆらゆら揺れている。「蝋燭を百本並べて、一人ずつ話をしてって、その後蝋燭を吹き消して。全部蝋燭が消えた後に何か奇妙なことが起こるとか、死者の霊が呼び寄せられるとか、そういう話があるよ」 せっかくターミナルに夜が来たんだから、暗闇を楽しもうと思ってさ。「夜に起こった奇妙な出来事、不思議な出来事、不気味な出来事を一つずつ話してもらって、一個ずつかぼちゃランタンを吹き消してもらう」 百人は無理だから、部屋に入るだけってことなんだけど。「少し香を焚いておくから、かぼちゃランタンを消した時に幻が見えるかもしれない……それを懐かしんだり楽しんだり…怖がったり?」 どうだろう? 来てもらえるかな? フェイは最後に残った掌に乗る小さなかぼちゃをそっと掲げて見せた。「お茶とお菓子でも用意して置くよ」
「やあ、いらっしゃい」 玄関で出迎えたフェイは、片手に小さなかぼちゃランタンを差し上げ、建物の周囲に生い茂った植物の中をゆっくりとやってくるロストナンバー達に微笑んだ。 「ずーっと夜で真っ暗なのは、調子が出ないなぁ」 先頭で溜め息まじりに頭を振りながら入ってきたのは、ニワトコだ。髪で隠れていない青い左目を眠そうに瞬きながら、裸足の足下も重たげ、白い花を花飾りのように咲かせた緑の頭がふわふわ頼りなげに揺れる。 「お日さまが恋しくて仕方が無くなるよ」 眼を擦りつつ、今にも大あくびをして眠りそうな気配、恋しそうに植物の蔦が巻き付いた形の小型カンテラをそっと消した。外の夜闇を歩くために灯しては来たけれど、部屋の中ではダメだよね?と首を傾げつつ、薄ぼんやりとしたかぼちゃランタンが灯されただけの室内に溜め息を重ねる。フェイが苦笑しつつ促した。 「少しだけ我慢してくれると有難いな。どうぞ奥へ」 その次にやってきたのは、雪峰 時光、確か魑魅魍魎の類が全くダメじゃなかったのかい、とフェイに確認されて、既に青ざめていた顔をますます白くする。 「今夜は怖い話もたくさんあると思うぞ? 大丈夫か?」 腰まで伸びる黒い長髪、腰には二本の大刀を挿した立派な侍姿なのに、今にもがたがた震え出しかねない風情で黒い瞳を潤ませている。こくりと唾を呑み込んだ様子では今にも悲鳴を上げて逃げ帰ってしまいそうだ。 そんなに恐がりなくせに、どうしてこんな催しに参加したんだよ、とフェイが突っ込むと、 「そ、それはターミナルが夜になって、物陰から何か出て来そうで怖いでござるから、誰かと一緒にいた方が心強いからでござるよ!!」 一気に吐き出して、ほっとしたのか、少し顔色が戻った。ゆっくりと部屋の中を見回して、灯されているかぼちゃランタンを一つ一つ眺めてみる。 「……まあ、この分だと」 おどけた顔、笑った顔、泣き顔、中にはこちらを脅すかのような怒り顔、それらが内側の熱と光にゆらゆら揺れ動くように見えるおどろおどろしい光景に、もう一度ごくりと唾を呑み込む。 「大した違いは無さそうでござるが…」 「入るのかい、入らないのかい、はっきりしてくんねえかな」 入り口で逡巡する時光にうんざりした声を上げて、側を擦り抜けたのはリエ・フーだ。 身長の割に小柄に見えるのは、線の細い身体つきのせいか。癖の強い黒髪が耳元を軽く覆い、細い首に絡みついている。猛獣めいた黄金色の鋭い瞳が、きらりと時光を射抜く。唇の片端を上げて、ふん、と軽く鼻で嗤うと、襟元を寛げた黒い人民服で覆われた躯をしなやかにフェイにすり寄せ、薄笑いした。 「冷やかしにきてみたが、酔狂な催しに付き合うのも悪かねえな」 ファー付きフライトジャケットに顎を軽く埋めて目を細める。 「どうぞ、好きなかぼちゃを選んでくれ」 フェイがにこやかにリエを奥へ促すと、くすくす笑って入っていく。 「アンタの好みのかぼちゃはどれだい? フェイ、サン?」 肩越しにかけた声、胸元の陰陽一対の勾玉のペンダントが揺らめく炎に光を跳ねる。 「かぼちゃはどれも好きだよ、リエ」 フェイは楽しげにことばを継いで、次の客に顔を向ける。 「いらっしゃい、君は…」 「人見 広助。ハロウィンに百物語ね」 お誂え向きなんだかミスマッチだか。 冷ややかに言い放った少年は、背中の中ほどまで伸ばした黒髪を後ろで一つにまとめている。醒めた視線で、タイミングを外して入り口から入り切れない時光、先に奥へ入り込んで気持ち良さそうに寛いでいるリエやカンテラを側に据えて座っているニワトコ、背後からなお続く客を一巡すると、ここ本屋だよね、と続けた。 「本探しに来ただけなんだけど………まあいいか」 フェイの笑顔をさりげに無視して、するりと中へ入った。 「とにかく怪談を話せばいいんだろう。なら丁度いい」 「大丈夫?」 広助の後から入ってきたのはコレット・ネロだ。小柄な体を覆うような金色の髪を両耳の横で一房ずつ結わえ、白いワンピース姿は暗闇のターミナルに、仄かで柔らかな輝きを放つ。緑色の澄んだ瞳で、時光を心配そうに見上げた。 「一緒に居られて、とても嬉しいけど……顔色が悪いわ」 「コレット、殿」 時光の声が一旦跳ね上がり、続いて白くなっていた顔色がみるみる血色を取り戻す。 「コレット殿もこちらに!」 「ええ、いろいろなお話を聞くのも楽しいかなって思って。でも、無理しない方がいいかも…」 「いえいえ! もう大丈夫でござるよ! 元気一杯勇気凛々、ほれこの通りでござる!」 あからさまに元気になった時光にコレットが嬉しそうに笑み綻ぶ。 「よかった。じゃあ、もう中に入りましょう?」 「そうでござるな! コレット殿はどのかぼちゃがお好きでござろう……あの赤いかぼちゃなどは?」 「…可愛い!」 コレットがはしゃいだ声を上げて、左手奥のかぼちゃランタン前のクッションに身を落ち着ける。時光も、ほっとした表情を満面に浮かべ、いそいそとその隣のかぼちゃの前に腰を降ろしたが、それが不気味な茶色の変形かぼちゃだったのに、少々引き攣った顔になった。 「秋の夜長に百物語ってのも面白いね」 次に入ってきたのは、花菱 紀虎、髪をあちこちカラフルなピンでとめているジャケット姿の青年、髪型のポップさと和柄のネクタイ、黒縁スクエア眼鏡の組み合わせに、ちらりと本棚で本を漁っていた広助が視線を流した。 「まぁハロウィンって日本で言うお盆みたいな感じらしいし案外あってるのかも」 明るく話しながら入ってくると、並んでいるかぼちゃを一つずつ眺めながら、全部用意したの、とフェイに尋ねてくる。 「手間だったでしょう」 「楽しかったよ」 フェイが嬉しそうに応じる。 「医者かと思ったわ、貴方」 唐突に口を挟んだのは、東野 楽園、腰まで伸ばした黒髪、ゴシック調の漆黒のドレスに身を包んだ、人形のように華奢で上品な美少女、だが、金色の瞳が妖しげな色を放っている。 「そんな上から下まで白い服なんか着てるから。医者だったら、お話じゃなくて今ここで、世界で一番怖いお話を見せつけてあげたのに」 毒姫と名付けられたオウルフォームのセクタンを抱えた幼げな容姿には不似合いの、冷酷な響きで嘲笑する。 「切り裂く前に気づいてあげたのよ、感謝なさいな」 「そうするよ」 フェイが楽園に会釈する。 「是非君の話も聞かせて頂きたいからね。どうぞ奥へ。次々と人がやってくるけど、その鋏を使うのは室内では控えてくれるかな」 楽園がちらりと見せたトラベルギアに苦笑した。 後の掃除が大変なんだよ、一人暮らしなんでね。 「私のかぼちゃは?」 「あそこの黒に近い深い緑のはどうかな?」 「…」 楽園は鷹揚に頷いてかぼちゃランタンに近づいていく。 「ずいぶんキリキリしてんな。怖いのかい」 リエがくすりと嗤う。じろりと眺めて楽園は素知らぬ顔だ。 「ちょっと迷っちゃった」 少し足を速めてやってきたのは、ディーナ・ティモネンだ。 「こんにちは。確かに久しぶり、ね。元気だった?」 微笑む顔にフェイも柔らかく笑みを返す。腰まである長い銀髪、色白の肌に透き通った紫色の瞳を瞬いて、はめていたサングラスを少しずらせて見せる。 今しがた聞こえたリエの声に、そっと小さく、 「夜が怖いという感覚が分からない。だって…この会場すら、私には明るすぎるんだもの」 「ランタンを少し減らそうか?」 フェイが気遣った。 「皆の分以上に灯してあるんだよ、今は」 「ううん、大丈夫」 ディーナは首を振って、どのかぼちゃにしようかな、と首を傾げた。 「入ってもいいのかな」 茶色の瞳に、肩まで伸びたのを一纏めにゴムで結んでいる茶色の髪、シャツをだらんと着こなした姿ながら、鍛えていると一目でわかる体躯の青年が、ディーナの肩越しに覗き込む。 「どうぞどうぞ。楽しい話を聞かせてくれそうだね?」 「楽しいかどうかは」 くすくす、とルゼ・ハーベルソンは笑った。 「医者だからねえ、どちらかというと物騒な話の方が多いが」 「今夜はあまり医者だと公言しない方がよさそうだが」 フェイはさりげなく楽園を示す。 「彼女は医者に対して強い怒りを感じているらしい。せっかくの催しを現実の惨劇に変えることもあるまい?」 「なるほどね」 けれど、医者じゃないと言うこともできないしなあ。 ルゼはしたたかに笑う。 「ご忠告ありがとう。席は離れて座っておくことにするよ」 この分では『そういう類』の話が出て来るんだろうな、とフェイは溜め息をつきつつ、苦笑する。 「やあ、コレット」 奥へ進んだルゼは早速顔見知りを見つけてクッションに腰を落ち着ける。側に座る時光にも笑顔を向けるあたり、やはりしたたかだ。 「もし、百物語の会場はこちらかの」 穏やかな来訪を告げたのは、ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノだった。黙っていれば小柄で色白の肌に緑の瞳、茶色の髪をセーラー服の肩に遊ばせている美少女だが、口調がどうにも古風だ。 「おお、既に集まっておるのう、ふむふむなるほど」 室内を眺め渡した後、やや満足げにフェイに向き直る。 「そなたがこの家の主か。今宵の集まりに摘むものが必要であれば、わたくしが多少覚えのある腕をふるっても良いぞ」 「ありがとう、ございます」 思わず敬語になったフェイが深々と一礼する。 「今夜は構わないよ、準備もしたし、他にも持ってきてくれているのもあるし。ゆっくり楽しんでくれ」 「そうか」 では、手が要りようなら、何時でも声をかけてくれ、とジュリエッタはにこにこしながらルゼの近くに腰を降ろした。 「ゼロはここに座るのです」 ジュリエッタとフェイが会話している間に、後ろを通り抜けていったシーアールシー ゼロは、大きな黄色のかぼちゃの前に陣取った。 銀色のロングウェーブ、白い服、銀色の瞳。究極の美少女と感じ取れるのに、それ以上の感情を沸き起こらせることもなく、空気のように地味という不条理な外見、かぼちゃのおどけた表情に、微笑みもせずまじまじと見つめていて、今にもかぼちゃの方がくるりと背中を向けて恥じらいそうだ。 「ハロウィンだね!」 戸口に元気な声が響いて振り返ると、そこには吸血鬼の仮装をした相沢優が、両手にボックスを下げて現れていた。ボックスにはかぼちゃ達が笑いながら追いかけっこをしているイラスト、中身はかぼちゃのプリンとクッキーだよ、と見せる。 「ありがとう。皆に振舞ってくれると嬉しいよ」 フェイが促すのに、にこやかにかぼちゃランタンを前に座っている中に入っていく。 「どうぞ、おいしいよ!」 「か、かたじけない」 時光が手を伸ばし、うむ、確かに、と微笑む。 「さっきからずっと緊張が取れぬのでな」 「大丈夫だよ、楽しもうよ」 差し出すプリンとクッキーに数人の手が伸びる。 「ああ、これで何とか人心地が」 時光が安堵の溜め息をついたとたん、 「とりっくおあとりーと!」 「ぎゃあああああ!」 いきなり皆が円座を組む奥の部屋、壁際のかぼちゃランタンの近くに出現した落ち武者に、たまぎるような悲鳴が上がった。 「だ、だだだ大丈夫でござるよコレット殿、せせ拙者が付いているでごzぎゃあああ!」 真っ青な顔をして、それでも今にも大刀を引き抜きかねない気配の時光が喚きながらコレットの前に立ちふさがる。 だが、ばさばさに乱れた髪、矢折れ、刀尽きた状態でぼろぼろの鎧は血染め、恨めしげにこちらを見やった武者姿が、次の瞬間、どろん、という妙な物音と白い煙とともに変化する。 「なんつってー。どーもー、ハギノでーす。」 全身黒尽くめ、壱番世界では忍者と呼ばれる目元だけ出した忍び姿に不似合いの、明るくあっけらかんとした声が響き渡った。涙目で決死の形相になっている時光に気づくと、ぽかんとした様子でしばらく見上げていたが、相手の髪振り乱したうろたえぶりと周囲の静まり返り方に首を傾げ、やがておそるおそるぺたりと床に膝をつき、頭を下げた。 「その…仮装だと聞いたもんで…あの、こんなに驚くとは思わずにですね…ごめんなさい」 「と、ということは」 貴殿も今夜の参加者でござるか。 ようやく落ち着いた時光が居住まいを正し、ようこそ来られた、と頭を下げる。いえいえどうも驚かせちゃってすみません、とハギノも頭を下げ、奇妙なお辞儀合戦が続く中、そろそろと優の左横隣に、 「あ、あ〜、……びっくりした」 日和坂 綾が腰を降ろした。体はガチゴチ、手には耳栓をしっかり握りしめ、周囲をきょろきょろ見回している。知り合いは何人も居るけれど、きっと突然話の最中にガッと手を掴んでも怒らないのはユウだけだよね、とここは絶対動かないぞという表情だ。 「あんなの、耳栓あっても関係ないじゃん…」 既に後悔満面、危うく本気の蹴りを出すところだったよ、と緊張している。 「しかも、百いなくても、二十は集まっちゃうんだ…。み、みんな怖いもの見た子さん?」 見回しながら、それでもじりじりと優の側に体を寄せていく。 「そんなに怖いなら、なんで参加したの」 まあクッキーでも食べなよ、それともプリンがいい? 優が勧めたクッキーを一つ齧りながら、綾は唇を尖らせる。 「べべべ、別にぃ。こここ、怖くなんかないもん。見えないものは殴れないし、腐ったものは蹴りたくないじゃん。だから…に、苦手なだけだもん」 「あんな感じの武者なら?」 「うわあぁぁあ」 さっきの落ち武者を蹴りかけた自分を思い出したのだろう、綾が肌を粟立たせるのに、優が苦笑する。 「と、とにかく、お化け屋敷連敗記録更新は何とかしたいんだ」 殴れるものならホントに平気なんだからね、と繰り返す綾に、はいはい、と優は苦笑を深めてプリンも勧める。 「これ食べて、頑張って」 「う、うん、頑張る」 セクタンをしっかり膝の上に置き、我慢できなくなったら途中でこれだ、と綾は耳栓を強く握りしめた。 「わー、もうぎっしりだね!」 入り口で楽しそうに掌をかざして見回したのは、タイムだ。黒髪短髪、色白の肌にぱっちりとした紫の目を見開いて入ってこようとした彼の足下から、くるり、くるりと身を翻して黒い猫が駆け去っていく。 「ランタンもたくさん! どこに座ろうかな」 きらきらした笑顔で幾人かの知り合いを見つけ、いそいそとそちらに歩いていく。 「クッキーあるよ」 優が差し出した箱に、ありがとう、と手を伸ばしたタイムの後ろを、坂上 健はそっと擦り抜けた。 今日は、武器をぎっしり仕込んだ白衣は身につけていない。けれど着ている服のあちこちにはそれなりにあれこれ詰め込んでいる。 さりげない風を装って、ディーナの側に腰を降ろし、きょとんとこちらを振り向く彼女ににこ、と無難に笑ってみせた。着やせするがっしりした体を少し竦め気味に、こちらを見返す瞳が柔らかく微笑むのにほっとする。 どんな話をするんだろう。恋愛感情かと言われると良く分からない。けれど、ディーナの話をじっくり聞いてみたい、そんな想いはゆっくり強くなってくる。 すぐに他のメンバーに視線を向けたディーナの横顔を、チョコチョコ眺めつつある健は、傍から見るとけっこう可愛らしかったりもする。 「あー、ぼちぼち一杯?」 戸口で首を傾げて現れたのはファーヴニール 、一見穏やかな気配の容姿だが、目元は意外に鋭い。天然パーマの茶色の髪を結わえており、裾広がりの紫のコート、後はとにかくじゃらじゃらと鳴るほどの銀細工系アクセサリーが目を惹く。ピアス、ペンダント、ブレス、指輪、かぼちゃランタンが逃げ出しそうな注目度だ。 「でも、もちろん俺の席はあるんだよね?」 「もちろん。素晴しいプレイを期待してるよ」 フェイの笑顔にウィンクを返し、アクセサリーにランタンの灯を受けながら部屋の奥へ入り込んでいく。 「夜だ、夜だーっ!(ばんざいっ) 普段は昼しかないターミナルが夜になると、なんだかわくわくするねっ!」 全身で今にも踊り出しそうな喜びを表現しつつ、アルド・ヴェルクアベルが入ってきた。銀毛の猫を擬人化したような容貌、いつもは尖った犬歯が口から微かにのぞいている程度なのが、今は満面の笑みに犬歯もきらきら輝くほど剥き出されている。 「一声高く鳴けば、夜の悪魔はいつでも僕の味方をしてくれるんだ」 誇らしげに胸を張り、自分の領分である闇の加護を楽しんでいる。銀色の瞳を煌めかせ、踊るだけではなくて今にも歌い出しそうでもある。 「もしかしたら本当にオバケとか出てきちゃうかも……? なーんてねっ、にゃはははっ♪」 「ひええぃ」 時光が微妙に掠れた声を上げ、はっと我に返り、崩れかけた膝を直す。 「おいおい、舞台はここじゃないぜ」 フェイが上機嫌のアルドを促した。 「もっと奥へ。まだお客は来るよ」 「入ってもいいのかねえ」 ひょいと顔を出したのは篠宮 紗弓だ。色白の長い髪の女性、和装の似合う楚々とした風情がいささか現状の混沌に不似合いな感もある。 「こんなものを持ってきたんだけど」 口に合うといいがねえ。 フェイに差し出したのは、かぼちゃのケーキやプティング、クッキーやチョコタルト。 「これはこれは…おいしそうだな」 準備するまでもなかったね、とフェイが紗弓を導きながら、部屋の連中に受け取った菓子を並べてみせると、あちらこちらから、おお、うわ、と嬉しそうな声が上がった。 「では早速!」 さっきから食べることで怖さを堪えているような時光が手を伸ばし、クッキーの一つを摘まみ上げ、 「ひ!」 「雪峰さん!」 ぶくぶく泡を吹きつつひっくり返ったのは、摘んだクッキーが見事に断ち切られた指のように象られていた代物だから。 慌てて側のコレットとルゼが介抱にかかり、ちょっと悪趣味だったかねえ、と紗弓は悪戯っぽい笑みを浮かべつつ、ランタンの前に腰を降ろした。 「これで揃ったかな? ランタンは足りてるかい?」 フェイは一渡り眺めて、扉を閉めようとし、一つの残されているランタンに気づく。鮮やかなオレンジ、笑い顔のランタンの前に席が一つ空いている。 「遅れた? 大丈夫?」 と、慌てた様子でバナーが飛び込んできた。 「ボクが一番最後かな」 「大丈夫、まだ始めてないよ」 「よかった〜。どうしても組み上げてしまいたいものがあって、結構時間かかっちゃったから。ボクはここに座っていいの?」 「どうぞどうぞ」 人ほどの大きさのリス、そう見えるバナーは乱れたシャツを引っ張って直し、癖でつい被っちゃったよ、とサンバーザーを脱いで、ランタンの前に座った。 「か…かたじけない…」 ようよう時光も体を起こす。 「彼は医者のようね?」 ルゼの振舞いを見た楽園が不穏な視線を向けるのに、ルゼがにっこり微笑み返す。 「誰から話す? どこから?」 とにかくお茶を出そうねとそれぞれに飲み物を配って歩くフェイに、リエが尋ねると、 「それぞれのかぼちゃをよく見て。つるに黒いリボンがついているのがあるはずだけど。そのかぼちゃランタンの持ち主から始めようか」 ふっ、ふっ、とフェイが周囲にあったかぼちゃランタンを吹き消して回る。 「俺のにはない」 「私のも」 「……どうやら」 楽園が静かに唇を吊り上げた。 「私が一番のようね」 ゆらり、と楽園の前のランタンの火が大きく揺れた。 「私は病院で生まれ育ったの。……だから病院にまつわる怖い話をするわね」 東野 楽園はひんやりとした声音で話し出した。 「昔々、ある島の病院に一人の少女がいた。女の子は物心ついたときから鉄格子のついた部屋に閉じ込められていた。そこは贅沢な鳥篭。可愛い一人娘の為に父親が特別に誂えた、ね。彼女は病院のご令嬢、両親に溺愛されわがままいっぱい育てられた……」 闇浮かぶ島の病院。荒涼とした空気と相反するような光に溢れた院内。 けれど、檻だって? 聞いている周囲の顔に不審が浮かぶ。 一人娘を檻に閉じ込める父親。 そこには一体どういう理由があったのか。 「女の子は幸せだった。檻から出る事はできないけど優しいお父さんとお母さんは何でも言う事を聞いてくれた。ずっとこの日々が続けばいいと願っていた」 檻の中で生まれ育ち、そうすれば檻に居ることは疑問ではないのかもしれない。 望みが全て叶い、優しい父母に側に居てもらえて。 確かにそれは一つの幸福の形。 「ある嵐の晩、島の人たちが手に手に武器をとり病院を襲撃し」 緊張が走る。 「父親の腕の中で震える女の子に憎しみに駆られ呪詛を浴びせた」 急転直下、悪夢の光景。 「この嵐はお前のせいだ、兄と姉の不義の子、禍を招く不浄の子……ってね」 ああ、と微かな嘆息が漏れる。 そうか、そういうことだったのか。 血のつながった者が結ばれた果ての子ども。 「そして少女は初めて気付くの。檻は彼女を閉じ込める為じゃなく、守る為に在ったのだって」 檻と聞けば、誰でも娘に何か秘密が隠されていると考える。野放しにしてはいけないような何かを抱えている子どもなのだと。だがしかし。 「両親は娘を庇って死んだ。眼前で両親を惨殺された少女はショックで逃げ出した。必死で走ったわ、裸足で。盲目のカナリアのように。でも風切り羽を切られていてはどこへも行けない、彼女はそう育てられた」 庇護を一切失って、寄る辺さえなく、闇の道をひたすら走る裸足の足音が響いてくるようだ。ニワトコがおずおずと足を引っ込める。綾がきつく掌を握りしめる。反応を楽しみつつ、楽園はことばを紡ぐ。 「しまいに崖に追い詰められ、そして……海に墜落した。真っ逆さまに落ちながら可哀想な女の子は祈ったの、彼らに天罰が下りますようにって」 一つの悲劇は、別の悲劇を引き起こす。 落ちていく女の子の高く低く震える呻きが、砕け散る波間から闇を貫いて響き渡る。 『どうか、彼らに天罰が下りますように!』 楽園は十分間を置いて、静かに続けた。 「島民を雷が直撃したのは直後。女の子は自分の命と引き換えに仇を討った」 「……」 周囲は声もない。 「『あの子』が……切り裂かれた人形を抱き締めた幼い少女がむかえにくるかもしれないわね」 「あ、いや、うわ」 灯を消すのを引き止めたそうな懇願の声をよそに、ふうっと、楽園は唇を丸めてランタンを吹き消す。 その瞬間、ずるり、と濡れた何かを引きずるような音が部屋の隅から響き、そちらを皆が一斉に振り返った。 幻のように、一瞬だけ、細くて小さな足が闇を透かし、すぐに消える。 「……」 楽園はそれを目を細めてみやった。 いとおしそうに。懐かしげに。 「次は俺かな」 花菱 紀虎はランタンを見つめつつ、 「んー…怖い話かぁ。こういうのは俺の専門だと思ってるけど…。さて皆が満足してくれるような怖い話はあるかなぁ?」 微かに苦笑いしたのは、先に話した花園の話と、その後に見えた幻に、周囲が強張った顔をしていたせいかもしれない。 「都市伝説系か普通に怖い話か。古典的なモノもいいし」 つぶやいて、ふとランタンを見直す。 「そうだ牡丹灯籠。ランタンと灯篭て似たものだよね」 これとは違って、あっちはもっと繊細だけどなあ。 薄く張った布に鮮やかに描かれた花鳥風月。中の灯が揺らめけば、描かれた絵も一瞬別の色合いを帯びる。美しく整っているはずの形も歪んで、何か別のもののように。美女の肌の奥を透かして、化け物の骨格が浮かぶように。 「そうだね淡い綺麗な灯篭が灯って消える…それだけでも儚く切ないものだよ」 低い声でつぶやく。 「その灯ってすぐに消えてしまう灯篭よりも、儚く脆い男女の縁…」 古くからあるお話なんだけど。 「『牡丹灯籠』というのは、中国という国の『剪灯新話』という怪異を集めた小説の、「牡丹灯記」というものを壱番世界にいた落語家、三遊亭園朝が翻案したものなんです」 落語家ってなに、という質問に、面白かったり悲しかったり切なかったり、まあいろいろな話を一人で語ってくれる人、とでもいいましょうか、と微笑んだ。 「ある男を恋いこがれて死んだ女が一人居て、その女が死んでから、男の元へ通うんです。牡丹を描いた灯篭を下げて、侍女を引き連れ、毎晩毎晩やってくる。男は女が来たものだと思って逢瀬を重ねていたが、次第次第にやつれていくのを、不審に思った家の者が見てみると、男が抱いているのは骸骨だった」 「…」 リエがきらりと一瞬、紀虎を鋭い視線で射抜いたが、何も言わずに片膝を立てて顎を載せ、相手の話の続きを待つ。 「男は女が死んでるのを知らなかったんですね」 紀虎はランタンの揺れる光をじっと眺めた。 「死んでから後も、繰り返し繰り返し、夜の道を侍女と二人……この侍女も既に亡くなってるんですが……牡丹の灯篭を下げて通ってくる」 紀虎がそっと手を差し出すと、そこに揺れる灯篭が浮かぶような気配があった。 「灯篭が灯っている間は、幻とはいえ、肉体が手に入る……でもその肉体は」 紀虎がゆっくりと手を下げて、かぼちゃのランタンを持ち上げた。 「吐息一つで消えてしまうようなものだった」 ふぅっ。 揺らめいた炎が紀虎の息に吹き消される。 次の一瞬、話の輪の中央を、そろりそろりと侍女を従え進む女人の姿が見えた。 夜風に煽られ消されぬように。 命を支える大事な炎。 恋を続ける大切な炎。 けれどそれは、ただ一瞬の突風に消えてしまうほどのもの。 ただ一瞬の風で消されてしまうような、人の気持ちの儚さ寂しさ。 「命そのもの……そういう感じもしますね」 「……ほ…」 紀虎の声に、ディーナが小さく溜め息をついた。 次は君の番のようだよ、と軽く肩を突かれて、人見 広助はうっとうしそうに本棚の前から振り向いた。 既に幾冊か読み終えたらしく、側の椅子には厚い本が積み上げられている。ヘッドホンを外して首にかけ、繋がっている携帯音楽プレーヤーのスイッチを切る。 人の話し声は大嫌い、それどころか老若男女問わず人が嫌いな彼が、こんな場所に居ること自体が珍しいし、そのまま出て行ってしまう可能性もあっただろうに、本棚を向いたまま話し出したことが、ひょっとするとこの夜の不思議な話の一つだったかもしれない。 「昨日読んだ短編の話でもしよう。…面白いかは保証しないけど」 ふさりと一つにまとめた髪を揺らせて続ける。 「地獄って判る? 天国でもヴァルハラでもニライカナイでもいい。この世じゃない、別の世界の事。ロストレイルで行ける世界群は…案外似たような物かもね。とにかく、元の姿のままじゃ行けない場所。そういう異世界があって、そこに生身のまま迷い込んだらどうなると思う?」 投げかけてきた声は淡々としている。視線は相変わらず本棚の背表紙を追い、時に指を伸ばして取り出すあたり、まるでここには参加していないようだ。 「人って図太い程環境に適応するだろう。ずっと元の姿のまま居られるのかな。『よもつへぐい』って神話があるんだけど、あれは意外と環境に適応しようとする話なのかもね。ま、そのまま異世界で暮らしました、ならめでたしめでたしで終われるけど」 それはロストナンバーの未来の姿の一つでもある。だが、そこに幸福はあるのか、そういう含みも聴き取れる。 不安そうに顔を見合わせる周囲の中で、『よもつへぐい』って何、と言う声が上がるのに、紀虎が『黄泉竈食ひ』の意味だよ、と応えた。 「黄泉の国のかまどで煮たり炊いたりしたものを食べると、その後は現世、元の世界に戻れないと言う話。壱番世界の日本神話にもある」 「…古今東西、異世界から帰ってきた話は其処彼処に」 広助が先を続ける。 「一人の男が居た。神隠しにあって、帰って来た男だ。男はただ帰りたかっただけ。故郷が愛しくて。だけど男の家族や友人知人は帰ってきた男に向けて石を投げた。何故?」 なぜ? 周囲の頭にその問いが繰り返される。 自分達の世界から弾き飛ばされてしまったロストナンバー。弾き飛ばされて、遠くの世界に入り込んで。故郷が恋しくない者もいるが、大切なものを一杯残して来た者もいる。 戻りたいと願う心。 もう一度、彼らと顔を見合わせ、笑い合いたいと。 それはごく自然なこと、ではないのか? なのに、なぜ? なぜ喜んで迎えてくれない? アルドが不審そうに眉を寄せる。コレットが苦しそうに唇を噛む。楽園が冷ややかな笑みを浮かべる。 ふい、と本を選んでいた手を止めた広助が、肩越しに視線を投げてくる。 「…簡単な事だ。周りには男が化け物に見えた。既に男はこの世の人間ではなくなっていた」 冷たくて重い沈黙が覆う。 その男と自分の運命を重ねないロストナンバーは少ないだろう。 「……その後は?」 タイムが尋ねた。 「ねえ、その後は?」 「さあ…案外、まだ帰る場所を探しているのかもね」 広助はそっけなく切り捨てた。 「これで話は終り。火を消そう」 すたすたと間近の椅子に載せられていたかぼちゃランタンに近づき、吹き消す。 「うっ」 一瞬光度が落ちた部屋誰かが呻く。 「…何、驚いた顔して。周りが化け物に見える幻覚でも見えた?」 広助は冷静な声で言いつつ、ヘッドホンを再び耳につけた。 「本は勝手に探すから。次の人どうぞ」 いつの間に攫っていったのか、指に摘んでいたかぼちゃキャンディを口に放り込み、再び本棚に向かい始める。 「ご、ゴメン、ユウ」 さっきから続く話にどんどん悲壮な表情になりつつあった日和坂 綾は、ついにさっきの幻で無言でガシッと隣の優の腕を掴んでしまっていた。 プルプル震えつつ、それでも耳栓装備には至っていないのは、話がまだゾンビには辿りついてないせいか。謝って手を放そうとはしたが、大丈夫だよ、と微笑まれて、ゴメン、じゃ、もうちょっとだけね、と腕を借りる。 「わ、私?」 綾の番だよと促されて、緊張した顔で口を開く。 「え、えーと。実は私、夜明かりついててもグースカ寝れちゃうヒトなの。だから普段、豆電点けっぱなしで寝てるんだよね。何でかって言うと…見えないと、とっさの時に対処できなくない?」 うんうんと頷いたのはバナー、困惑した顔になったのはディーナだ。 「具体的には…天井からムカデが落ちてきた時、とか」 「うわ、それは怖いな」 優が声を上げる。 「ムカデとは何なのですか」 ゼロが紀虎に尋ねると、 「昆虫の一種、つまりええと、毒のある小さな生物です」 「天井から落ちてくるものなのですか?」 「ううむ、合っているとも合っていないとも」 「豆電とは何なのですか」 「夜に点ける小さな灯のことですね」 「豆から作っているのですか」 「豆みたいに小さいということだけど」 「なぜ大きな灯にしておかないのですか」 「ううううむ」 ゼロと紀虎の微妙にとんちんかんなやりとりをよそに、綾はその時のことをありありと思い出したようだ。 「子供の頃、寝てて手の上をムカデに歩かれたことがあって」 似たような経験があるらしい数人が展開を予想して顔をしかめる。 「…めちゃ痛かったし、飛び起きたし」 ああ、わかるわかる、毒虫に噛まれると痛いですね、とハギノが共感する。 「でもそれ結構普通じゃん、って言われて」 えええっと優が驚く。 「子どもならば、なおさら辛かったでござろう」 時光が心配そうに頷く。 「それ以来、夜の豆電は譲れません、終わりっ」 ぺこん、と綾が頭を下げた。武闘派女子高校生にしては思わぬ可愛らしい仕草だ。 「つまり、夜、毒のある小動物の攻撃を避けるために、灯は小さくとも灯しておくことが肝要であるということなのです」 「それはまたちょっと違うような…」 ゼロのまとめに、紀虎が首を傾げる。 ほら、ランタンを吹き消さなくちゃ、と言われて、綾が吹き消した瞬間、 「天井からたくさんの『ムカデ』が落ちてくるのです!」 「いきやあああああ!」 ゼロの叫びに綾の悲鳴が響き渡った。 「大丈夫、大丈夫」 ぎっちりがっちり片腕を綾に確保されつつ、相沢 優は笑って相手をなだめた。 「幻だって。フェイも言ってたろ?」 「で、でもっ、でもでもでもっ」 「ほら、もう何もいないって」 おそるおそる目を開いて周囲を見回し、綾は大きく吐息をつく。 「よかったあ〜〜」 「よかったな」 ぽんぽんと残った片手で綾の頭を軽く叩き、これでも食べてな、と残っていたかぼちゃプリンを渡して向き直った。 「さて、俺の話だよね」 昔、小学校一年生くらいの頃。 「幼馴染二人に強引に肝試しツアーに連れて行かれて、学校の裏の林に行った時の事」 誰でも幼い時に一度はやってみる、自分の勇気と強さを確かめる儀式。 「夜の学校って怖いんだよ。昼間の賑やかさとの落差のせいかな」 怯んで引き返すわけにも逃げ出すわけにもいかなくて、精一杯強がって参加した。 「けれど、二人の友達とははぐれてしまった。真夜中で、怖くて寂しくて」 泣きべそをかきながら歩いている。 と、ふと、目の前に何か不思議な光が過った。 「今の何だろう、そう思って追いかけていった」 そうしたら、闇の彼方に誰かが居た。 「顔も姿も、今思うとよく思い出せないんだ」 ただ、ひどく怯えていて。 「近づくと突き飛ばされた。怖がっている、それは俺にもわかったけれど、どうしてやればいいのかわからなかった。目の前いっぱいに不思議な光があっという間に増えてって」 何だか目がくらむような気がして瞬きを繰り返して立ち竦んでいると。 「白い不思議な感じの人と、他にも何人かの人たちが現れた」 優はぼんやりと遠くに瞳を遊ばせる。 「……あやふやではっきりしない記憶……」 ひょっとして、と今思う。 あれは壱番世界に飛ばされた、ロストナンバーだったのではないか。集まってきていたのは、それを保護しようとしていた世界図書館からの依頼を受けた人々だったのではないか。あるいは世界図書館の記録の中に、その話があるかもしれない。 今はロストナンバーとして、壱番世界と0世界を行き来しながら暮らしている、平凡な公立高校の高校生の優。だが、一つの出来事の中に全く別の意味をもう一つ読み取る自分に気づくと、ロストナンバーという不思議に突き当たる。 自分の中に広がる世界の多様さを思うと、ときどき彷徨ったような気分になる。加齢の止まってしまった自分の姿にも。 未来は一体、どこに続いているんだろう? 「ユウ?」 「……不思議な話だ」 自分を見上げる綾の顔に微笑を取り戻した。 ゆっくり周囲を見渡す。壱番世界では実在しない様々な存在が、こうして一堂に会しているのもまた、奇妙で不思議な話じゃないか。 ふうっ、とかぼちゃランタンを消した。 一瞬、目の前に白い髪の長身の人物が浮かぶ。 あれ、どこかで会った事あるような。 そんな想いは幻とともに、また消えた。 「時遡る事数十年前、魔都上海に器量よしで気立てがいいと評判の娼婦がいた」 次に話し出したのは、リエ・フーだ。 「一目惚れした日本の軍人、柳の木の下で逢瀬を重ね恋仲んなったが、どっこい帰国命令がでた。必ず迎えに来るから待てという約束を信じて待ち続けたが男は帰らず、そうこうするうちに身請けの話が持ち上がった」 滑らかな語り口、鮮やかな表情、みるみるうちに周囲を物語の中へ引きずり込んでいく。 「女を妾にと望んだのは成金の俗物。もとより借金のカタに売られた身に拒否権があるはずねえ。絶望から阿片漬けになった女は夜な夜な市中を徘徊し、とうとう思い出の柳で首を括っちまった」 薬で見るささやかな夢は現実の辛さから救ってくれなかった。幻を掴もうとして掴み切れず、女は何度も愛しい人を抱き締めた柳の下、繰り返し聞いた葉ずれを一人で聞きつつ旅立った。 「さらに数年後、軍人として出世した男が妻子を連れて凱旋した。帰国の目的は上官の娘との見合いだったってわけだ。本人がそれを知りながら帰国したのか帰国してから騙まし討ちのように知らされたかは定かじゃねえ。確かなのは男が女を裏切って、一方的に綺麗な思い出にしちまったってことだ」 皮肉に吊り上がった片頬だけの笑みがランタンの灯に照らされて、リエの表情には殺気が漂っている。 「墨染めの夜、感傷に駆られて月映えする柳の下に立ち寄った男を出迎えたのは、昔のまま若く美しい恋人。『回帰了(おかえりなさい)』」 響いた声が女のように聞こえた。華を含み、色香を込め、けれど微かに傷みを伴う見えない刃を隠した声音。 「愛しげに微笑んで男にしなだれかかり、そして……」 リエがしばらく沈黙する。 ランタンの火がゆらりと揺れ、壁際の本棚の前でページを捲る広助の指も、心なしか速度を落としたように思える。 「接吻はほろ苦くほの甘い阿片の味がした」 結末はわかってるんじゃねえのか? リエの煌めく瞳が暗に伝えてくる。ファーヴニールがまっすぐにリエを見つめ返す瞳もまた、魔的な色を帯びている。 「翌日」 リエが間合いの効果に満足したようにことばを継いだ。 「男が柳の枝に絞め殺されてるのが発見された。死んだ女の情念が取り憑いてたのかねえ、死に様はまるで柳の精に抱き締められてるようだったとさ」 「うーむ…」 それは何とも切ない話だのう。 ジュリエッタが深く息を漏らしながらつぶやくのに、リエは軽く鼻先で嗤って、ランタンを吹き消す。 「ん、んっ!」 力の限り綾の腕を握りしめられた優が引き攣り、ひええ、と小さく時光が声を漏らしたその前を、軍服姿の男が流れるような美しい衣を着た骸骨としっかり手を繋ぎ合って通り過ぎていく。顔色を青ざめさせたコレットの手を握り、ルゼが髪を撫でて「大丈夫だよ」と小さく声をかけている。 リエは二人を目を細めて見送る。 蔑むように、懐かしむように。 幻だからこそ、許せた光景だった、のかもしれない。 「俺の不思議な話」 話し出したタイムは紫の瞳を瞬いた。 「元の世界でのお話だな」 んー、と思い出そうとするように天井を見上げる。ランタンの灯が揺らめいて作る奇妙な影、周囲の本棚を見回して、うん、と一つ頷いて視線を戻す。 「俺の父さんってさ、小説家なんだ。その関係で、家の書庫には資料がいっぱいあるんだ。五百年前に出版された本とか、普通にあるし。んでまぁ、探しやすいように分類はきっちりしてあるわけ」 こんな感じなのかな、とアルドがフェイの本棚を見回す。 「俺が五歳くらいの時だったかなぁ。夜な夜な、その本の位置が変わるっていう事件があったんだ。弟のトキはまだ一歳だったし、サキは乳飲み子だったし。俺でも届かない位置の本が入れ替わってたんだ」 あ、サキは妹ね、と付け加える。 ぎっしり積まれた本棚、整理され分類されているのは、持ち主の几帳面さと調べものの煩雑さを物語る。それが夜ごとに位置が変わっていては大変だろう、とフェイが苦笑する。 「父さん首傾げて『おかしいなー、元の位置に戻したはずなんですけどねー』とか言ってたし」 今は側に居ない父親のまったりした口調をまねして見せるタイムの表情は、ひどく柔らかい。 「原因がわかったのは、夜中、俺がトイレのために起きたからなんだ」 偶然なのか、それとも確かめてみたいという好奇心が無意識に自然の欲求を促したのか。 「扉開いてたから、中見てさ、半透明な人たちが本読んでたわけ!」 おお、半透明! シュールな状況だな、とファーヴニールが楽しそうに突っ込む。 「何者だったのですか」 興味津々で尋ねたのはゼロ、真剣な表情でタイムの話に聴き入っている。 「タイムさんのお知り合いだったのですか」 「えとな、元魔王が三人、元勇者が四人、女性三人(元女神)だったのな」 え、えーと、魔王が一人、勇者が四人、女神が三人、と綾が指を折って数える。 「でも、どこから? ひょっとして本の中からとか?」 健が首を傾げるのに、タイムはひょいと肩を竦めてみせる。 「本好きだからって、出てきて読むんはいいんだけれど、読みたい本を山ほど出すもんだから。夜明け前に慌てて戻して、その結果位置が変わってたわけ」 「本好きな魔王と本好きな勇者と本好きな女神なのです」 ゼロが納得したように頷く。 「夜中に大変お勉強されているのです」 そういう問題?とファーヴニールが混ぜっ返した。 「まあ、その事を朝、父さんに言ったらさぁ。翌日から位置が変わってることはなくなったのな」 尊敬する父親の不思議な仕事。 数々の人を惹き付け感嘆させる物語の著作だけではなく、その過去に秘められた長大で豊かな世界の真実の物語。 「何したんだろうな、父さん。今も彼らは本読んでるみたいだけど」 離れてしまった懐かしい人、とはいえ、いやだからこそ、敬愛の思いは深くタイムの中に育っている。 微かに微笑みながら、幼い自分の気持ちを噛み締め直し、タイムは静かにランタンの灯を吹き消す。 ふわり、と話の輪の中に立ち上がった二人の姿。 穏やかな気配を満たして立つ男性と、寄り添い春のひだまりのように微笑む女神のような女性。 父さん。母さん。 小さく零れたタイムのつぶやきを合図にしたかのように、男性が手にした本を差し上げ、女性が笑みを一層深めて、暗い闇の中に消えていく。 「世界を知りたい、よな」 父さんと同じように。 タイムの声が話し出した時より大人びて響く。 「次は?」 「ニワトコ?」 「…え?」 呼びかけられてニワトコは瞬きする。 さっきから少しずつ眠たげに頭を揺らせていたが、元々暗いところが苦手なのと、閉め切った部屋に灯をともした空間というので、ついつい眠りかけていたらしい。 「あ……ごめんね」 ふるふると頭を振って、にっこり笑う。 「ぼくの番だね。ぼくのは……夜の森のお話」 ぼくの世界は木々の茂る世界なんだ。 緑と光が溢れる世界。瑞々しくて明るくて。 それでも夜はある。 「夜にふとさびしくなった木や花たちが、風に葉を揺らして歌を歌っていたんだ」 風が渡っていく空間、なびきそよぐ様々な葉。 「ひとり、またひとりと歌が重なって行って……」 木や花を、ひとり、と数える世界は限られているだろう。 ひとり、またひとり、そしてまたひとり。 重なり合う木々、触れ合う草花。 彼らが歌を重ねていく。 「そうしたら、空にたくさんの流れ星が降り出してね。歌に合わせたみたいで不思議だったなぁ」 地上に重なっていく歌声。 天空に流れ始める光。 歌のうねりとリズムに合わせるように、星が夜空を横切り、煌めき、強く光り、弱く沈み、次々と走り去っていく。 「淋しいって言う気持ちもどっかにいっちゃって、皆、星を眺めていたよ」 ニワトコがうっとりと天井を見上げた。 つられてコレットが、アルドが、楽園が見上げる。 限られた空間ではあるのに、ニワトコの声のせいだろうか、そこに無限の空が広がっていくようだ。灯されているランタンの光が互いを照らし出す、その光の重なりが、ニワトコの話の歌声を思わせる。 きれい、とコレットがつぶやく。楽園が軽く唇を噛み締め、それから眉を寄せつつ、静かに見上げ続ける。 「そういう不思議で素敵なこともあるから、夜も悪くは無いと思うんだけど……やっぱりどうにも眠いのだけはどうしようもないね」 ニワトコが微かに声をたてて笑った。 「ぼくは昼の日の光の中が一番好きだな」 付け加えて、ふうっと大きく息を吐いてランタンを吹き消す、そのとたん。 「ああ……すごい…」 部屋の床一面に、深みのある紺色の空を背景に、散りばめられた煌めく無数の星星が広がる。 「吸い込まれそう…」 今にも滲みそうな深い声でディーナが繰り返す。 「なんて……きれい………」 今にもそこに呑み込まれるような。 なのに恐ろしくなく、不安にもならず。 命の讃歌に満たされた天空の幻は見るものの心を憩わせ安らがせる。 「きれい、だな…」 静かに繰り返した健の瞳が彼女の横顔を見つめていたのに、ディーナは気づいただろうか。 「そいじゃ、妖怪マテコラの話でもしようかな」 ハギノが明るく切り出して、時光がひえ、と首を竦めた。 「妖怪、でござるか」 とんでもない男の隣に座ってしまったという表情で、情けない顔になる。対するハギノは幽霊、妖怪の珍しくない世界出身なので、はいはい大丈夫ですよ〜と軽いものだ。 「仕事で同僚の陰陽師と共にある村へ向かった時の話なんすけどね」 この同僚の陰陽師ってのが、一つ年上でクールでそりゃあ愛想なくて。 「つまり、その御同僚が妖怪」 生真面目に時光が受ける。 「違う違う」 ハギノはぴらぴらと目の前で手を振って見せた。 「名主からの相談で、夜な夜な絵から鴬が抜け出して困っているというんすよ〜」 「ふむふむ」 怪異でござるな、で、どこから妖怪話になるのでござろうと、時光は緊張を解かない。 「で、見てみるとこれが、綺麗な女性が鴬の入った鳥籠を持っている絵。もっとよく見ると、籠に扉が付いていない」 「読めてきたでござるよ」 実は報酬をケチった名主に腹を立てた絵師が扉を描かなかった、とハギノは続ける。 「自業自得じゃん…てことに」 「依頼は断られたのでござるか」 「いやいや」 お仕事はお仕事。 鴬に直接呪を書かなければならない為、抜け出すのを待つが。 「何考えてんだか、ようやく抜け出た鴬の前で、名主ってばうっかり戸を開けちゃったり裏山まで逃げちゃったり」 「はああ?」 「でしょ? だよねえ? 僕も叫んだって。『何故ここで戸を開ける…!?』」 「……うーむ」 その名主というのはいささか足りない男でござるか。 「しかも、僕のせいじゃないのに、せっちゃんってば、あ、この人が陰陽師ね、『あんた、ちょっと捕まえてきなさい。私は呪で忙しいの。逃がすんじゃないわよ』って」 「それは、ほれ、何と申したかな」 ジュリエッタがぽん、と膝を叩いた。 「憎まれっ子、世にはばかる!」 「いや、姉さん女房の尻に敷かれているってことだよねえ?」 紗弓がやんわりと突っ込んで、ハギノがいやいやと手を振った。 「まあ、とにかく僕一人で追っかけたんだけど、いくら超有能な僕でも、相手は鳥だしねえ。鍛えられた忍の技を持っても、夜山を飛び回る鳥を捕まえるのは至難の業。高価な絵なので下手な扱いも出来ないし」 「絵だから、鳥目ってことでもないのかねえ」 やっかいだねえ、と紗弓が頷く。 頼みましたよ、ええ、そりゃあ渾身全身精一杯。 「待てこらぁー!…待って下さいお願いだから!………って」 ようやく捕まえて絵に戻し、扉を書き加えて一件落着。 「ああよかった、って終わったと思うでしょ?」 ハギノがはああ、と大仰な溜め息をつく。 「ところが、後日、噂が流れて」 曰く、『名主の裏山に妖怪が住み着いた。夜山に入ると「待てこら」と追いかけてくるらしい』 「う…うむむ」 時光が笑みを堪えて顔をしかめる。ぷっ、とタイムが吹き出した。 「じゃ、じゃあ、マテコラってのは」 「忍頭に言われましたよ、この噂、お前だな、って」 「妖怪マテコラ」 ゼロがハギノを指差す。 「はいはいマテコラ」 「しかし、もうちょっとましな名前はなかったのかい?」 ファーヴニールが苦笑した。 「では、妖怪マッテクダサイオネガイダカラなのです」 「いや、そっちのほうがあんまりだから!」 ゼロの突っ込みにハギノがぱたぱた手を振って、ランタンの灯も消した。 一瞬の幻。 むっつりした顔で立つ、気の強そうな少女が一人。まっすぐに見据える瞳、結んだ唇、でもきっと、笑った顔はもっと魅力的だろう。 「あー…せっちゃん、元気かな…相変わらず愛想ないね」 ぼそりとつぶやいたハギノが、微かに目を細めて小さく笑った。 さて、次は雪峰 時光の番なのだが。 「参加したからには、話をせねばならぬ」 いささか気負い気味だったが、側のコレットに大丈夫、と尋ねられて、小さく吐息をつき、頷いた。 「そうでござるな…では、今でも少々不思議に思っている話をするでござる」 魑魅魍魎が全くだめな時光に、一体どんな話があるのか。 「できんのかよ?」 面白そうにリエがからかう。 「まあ、聞いてみよう」 ルゼが促した。 「あれは拙者がまだ城仕えだった頃、戦が終わった日の夜に祝勝会をやることになったのでござる」 味方も敵も死力を尽くして戦った。 生き残ったものの器に注がれた酒は、勝利だけではない苦さもまたあっただろう。 「もちろん拙者も参加する事になったのでござるが、会場が城から少し離れた場所でござってな…、情けない話ながら、迷ってしまったのでござるよ」 闇は深い。 つい先ほどまでの熱気と闘気、倒れた者の慚愧と無念、それらが漂う戦場の気配は、すぐに消えてなくなるものではない。 「それでも歩くと広い小屋のような場所を見つけて入ってみたでござるが、中は静まり返っていたでござる。ただ顔色の悪い女性が一人いたでござるな」 なぜ、こんな所におなごが、しかもたった一人で。 体をすぼめて今にも消え入りそうな女性、大切な子どもを失いでもしたのか、それとも帰らぬ愛しい人を待とうとでもしていたのか。 「声をかけると、すぐにいなくなってしまったでござるが…」 まるで、すうっと闇に溶け入るようでござったなあ。 「あ」 それってたぶん。 「しっ」 言いかけたハギノをルゼは楽しそうに片目をつぶって制する。時光は深い溜め息をとともに、首を傾げつつ、無邪気に話を続ける。 「後で聞いた話でござるが、あの場所は戦で亡くなった者を安置する場所で、一晩は何者も立ち入り禁止だったらしいでござる。ならば、あの場にいた女性は一体何をしていたのでござろうなあ…」 「鈍いなあ」 「は?」 周囲がやっぱりねえ、と頷く中、まだ呑み込めていない様子の時光に、ハギノがちっちっちっ、と指を振って見せた。戦忍にしてはえらく洋ものな仕草じゃねえか、とリエに突っ込まれて、そこはほら超有能だから、と切り返し、 「鈍い、鈍すぎる、せっちゃんならさっさと取り憑かれて実感してこい、とか詰られてるとこ」 「ど、どういう意味でござるか?」 「その女性は幽霊だったんじゃないかってこと」 ルゼがにこやかに付け加えた。 「ゆ?」 し、しかし拙者は話もしたし、振り返って顔も,顔も。 「顔……?」 つぶやいた時光がそのまま固まった。 「……拙者の話した女人は……どんな顔を……」 すうっと見る見る顔が白くなっていく。 「おい、大丈夫か?」 「……ゆーれい……せっしゃは……ゆーれいと……はなしを……」 ばったん! 「おいおいおい!」 ルゼが手を伸ばすより早く、時光は正座したまま背後に倒れた。覗き込めば、既に失神してしまっている。慌ててハギノがフェイから冷たいおしぼりをもらって、時光の額にあててやる。 倒れた勢いで消されたランタンに、けけけけけっと大笑いをして空中に舞い上がったかぼちゃランタンの幻がぐるぐる回りながら重なって消える。 「とんだ方巾丑(ファンジンチョウ)だな」 くつくつとリエが楽しそうに笑った。 「次は私の番ね」 少し息を吹き返した時光に、そっと笑顔を投げて、コレット・ネロが話し出した。 「私ね、小さいころ、お家の事情でおばあちゃんの家に預けられてたの。友だちもいなくって、私、ずっと落書き帳にお絵かきしてた。それをおばあちゃんに見せると『上手だねえ』って言ってくれて、嬉しくて、たくさんお絵かきしてたの」 孤独を慰めるための遊び。 幾つも幾つも書き並べる色とりどりの絵。 褒めてもらうと、一層その時間は貴重になる。大事で愛しい思い出になる。 「ある日、おばあちゃんがおまじないを教えてくれたの。白い紙に願い事を書くと叶うっていうおまじないで、私は落書き帳に『早くお父さんとお母さんと暮らせますように』って書いたの」 コレットの生い立ちを知るものは、悲しく顔を歪める。少女の願いがどうなったのか、時に運命は惨い選択を示す。 「効果があったのかな。しばらくして、私はお家に戻ることになった。その時、落書き帳をおばあちゃんの家に置いてきちゃったの」 優しい思い出を詰め込んだ落書き帳。 取り戻したくとも、その術がない。 「それから二年くらい経った後のことなんだけど、夜、寝ようとしたら、突然おばあちゃんが私の部屋に入ってきたのよ。どうしたのって聞いたら、コレットとお話したくて来たのよ、っておばあちゃんが言った」 紀虎がちらりと色鮮やかなピンの下から目を上げる。 来れるはずのない相手の突然の訪問。 それは都市伝説にもよく語られる。 「私も小さかったから、それ以上何も思わなくて、おばあちゃんとお話したの。それでね、おばあちゃんが『今何か願い事はある?』って聞いてきたのね。私、遊んでくれる友だちがいなかったから、友だちがほしい、って答えたの。そうなんだね、っておばあちゃんが言って、そのまま出て行っちゃった」 願いごとを叶えたい、一目、あの子に。 愛しい大切な孫のために、老婦人が祈ったことは時空を飛び越えていく。 ほ、と小さな溜め息をついた、コレットの瞳が微かに潤んでいる。ランタンの揺れる炎を見つめながら、柔らかな静かな声で続ける。 「おばあちゃんが亡くなったって聞いたのは、次の日の朝だったかな」 時光がゆっくり起き上がって、コレットの横顔を見つめた。 「それでね、遺品の整理の時、おばあちゃんの家にあった落書き帳を見つけたんだけど、最後の方に、おばあちゃんの字で『コレットに、友だちがたくさんできますように』って、書いてあったの」 瞬きをしたコレットが、細い指先でそっと目元を拭った。 気持ちを励ますように顔を上げ、周囲を見回し、にっこり笑う。 「おばあちゃんのおかげかな、今はそのお願いごとも叶ったみたい」 長い髪を押さえて、ふ、うっ、と一息にかぼちゃランタンを吹き消す。 まるで誕生日のバースデーケーキのように。 立ち上がった幻を、誰もが予測していただろう。 穏やかに微笑む老婦人。コレット、と静かに動く唇に、コレットの拭った瞳がまた光をたたえ、おばあちゃん、と優しい声が応じた。 頬に滑り落ちた煌めく涙は、恐怖でも哀しみでもない、ただ甘やかな懐かしさ。 老婦人がまこと幻に魂を宿らせていたのなら、満足しただろう、孫娘がこれほど豊かな友人達に囲まれ、温かな時間を過ごしていることに。 それが彼女の傷ついた心身を、どれほど癒し続けてくれているのかに。 「しっとりした話の後にすまないね」 ルゼ・ハーベルソンがウィンクを送ったのは、ようやく立ち直った時光だ。 「と言うと」 再び恐ろしい話でござるな。 「俺は元の世界で船医をやっていたんだけど…そんな仕事をしていると、『見る』事も多くてね。この話もその一つさ」 医者は人の生死を預かり関わるもの。それだけに、その境界線の危うさもたびたび目にすることになる。 「そうだね、あれは波も穏やかな夜で、俺は船の診察室で事務処理をしていた。診察室の隣には医務室があって、その時はそこに四人の軍人仲間が身体を休めていたっけ」 船体に当たる穏やかな揺れ、繰り返し響く波の音。 カルテを書き込む手も気持ちよく動こうというものだ、落ち着いた夜は患者にとって、また医者にとっても至福の時間。 「で、夜も更けてきた時、隣の医務室で寝ていた筈の仲間が一人、泡を食って飛び出してきた」 ドクター、ドクター! それほど元気になったのか、と突っ込む余裕はそいつになかった。 「俺はびっくりしながらも、どうしたんだって声をかけた。けれど、そいつは震えながら『ドクター、見たんですよぉ』って泣くばっかりでさ。あんまり異常な雰囲気だったから、寝ていた他の三人も様子を見に来た」 夜間せん妄かそれとも。睡眠導入剤は使ってなかったな。 カルテを確認しつつ、パニックになった相手をなだめる。 「そこで俺は、皆で歌でも歌ってこいつを元気付けてやろうって提案した。気のいい奴らだったから、すぐに皆頷いてさ。で、歌った歌は、当時仲間達の間で流行っていた歌で、歌詞は『帆を張れ舵を取れ 敵を恐れることなく航海だ どこまでも進め』だったかな」 船乗りに歌は必要だ。 厳しい生活、時には疲れた体に鞭打って働かなくては生き延びられないこともある。気力体力失いかけて、それを奮い立たせてやるしかない時、歌は自然と口を突く。 「それで歌い始めたんだけど、歌の途中で聞き慣れない声が混ざっている事に気付いたんだ」 歌うのやめろ、とルゼは命じた。 すぐに仲間は口を閉ざした。 飛び出してきた男が一人、残っていた三人も医務室から出てきている。 人はみんなこちらに集まっているはずだ、なのに。 「そうしたら、誰もいない筈の医務室から」 ルゼは一呼吸置いた。 『どーぉこーぉまーぁでーぇもー すーすーめぇー』 「…っっっっ」 「ぎゃあああああ今のなしもうなしそれ以上なし言わないで言わないで言わないで!」 「あや…っ、締まってる締まってる締まってる…っ」 綾が全力で悲鳴を上げ、力の限り片腕を抱きかかえられた優が、こちらもじたばたもがきながら悲鳴を上げる。 「さて、俺の話はここで終わり」 ルゼは、泡を吹いて再び倒れかけている時光に笑い、ランタンを吹き消した。 ぼんやり浮かんだ白いベッド、医務室のだなあ、とつぶやいて、 「なかなか皮肉的だね、あっはっはっ」 明るく笑い飛ばすルゼに、綾がこぶしを握った。 「私の世界には、ハロウィンなんてお祭り…なかったもの」 ディーナ・ティモネンはそっと話し出した。 「人は簡単に死ぬし、死んだ者は死んだままよ? 私たちの世界は…ううん、私の生まれた国は」 透明な瞳。 冷酷な現実を見つめ続けてきた、その時間。 「もう百年以上、ずっと戦争を続けていた。国家としても随分疲弊していたんじゃないかと思うの。だから、私たちの国は。一人でも優秀な兵士が欲しかった。優秀じゃない兵士は要らなかった」 ディーナが語り出したのは、この『夜』の話ではなかった。自分の知っている『夜』の話でもなかった。 それは彼女の内側に広がっている『闇』の話。 「生まれた子どもは全員すぐコミュニティに送られて、戦闘訓練や国の求める常識や…そういうものを学ばされるの。大人になるのは…半分くらいかしら」 生まれた子どもの半分が大人になる。 それはつまり、大人にならない子ども、そこまで命を全う出来ないものが半数はいるのだ、ということ。 本棚の前の広助がヘッドホンをずらせた。 「班分けしての殺戮訓練が…何度かあるの。ついさっきまで同室だった子達と殺しあう。管理官…大人の言うとおりに殺しあえない子は、結局殺されるの」 仲間なんて、いなくなる。 友達なんて、意味がなくなる。 隣にいるのは、やがて戦うかもしれない敵、でしかない。 「みんな生き延びたいから、必死よ? それが普通で、弱くて死ぬ相手が悪いの。だから私も…あの頃殺した子のことは、正直思い出せない」 さらりとディーナは口にする。 自分が殺した相手のことを。 弱くて死ぬ相手が悪い、そんな世界で、殺した子のことを覚えていない、そういう自分を。 健の顔が厳しくなる。唇の奥で歯を噛み締める。 「でも結局、私も不合格品だったの…最後の最後に、殺し合いが嫌になっちゃった。軍人になる寸前で逃げ出して…五年くらい、逃亡したかな。生き延びたくて、追手を全員返り討ちにして…矛盾、だよね」 ディーナは膝を抱えた。 透明な瞳は曇らない。 ランタンの灯さえ眩しいから目を伏せて、温度だけを感じ取る。 殺したくなくて逃げ出したのに、それを貫くためには殺すしかない。 痛々しい矛盾。 「最後は行き倒れて、同じように逃亡していた人に助けられたの」 ようやく見つかった、殺し合うことのない関係。 けれど。 「私に関わらなければ…見つからなかった人に」 お互いに関わりあうことさえなければ、お互い逃げ続けられただろうか。生き延びただろうか。 それともいつか、互いの追手となって追いつ追われつ、殺し合うしかなくなっただろうか。 「だからもし会えるなら」 彼はもういないのだ、とディーナは無言で語る。 「聞けなかった彼の最後の言葉を…聞きたいの」 広助がヘッドホンをつけ直す。 恨み言だっただろうか。罵倒だっただろうか。 倒れた時の顔さえ見ることができなかった、襲いかかる次の敵が目の前に居たから。 助けなければよかったと、そう詰られる覚悟もある。 けれど、ひょっとして、全く違ったことばが聞けたかもしれない。 それはどんなことばだっただろう。 『ディーナ…』 あのことばの後に続いたのは、どんな気持ちだったのだろう。 それが知りたい。 それを知りたい。 願いながらランタンを吹き消す。 浮かんだのは背中だった。 叩きつけられるような衝撃にディーナは目を見開く。 あそこで育って、あそこで生き延びて、しかも逃亡生活を続けていて。 ディーナは彼に背中など見せたことはない。 それは当然あるべき姿。 なのに。 ディーナは何度、彼の背中を見ただろう。 「……っ」 涙が、溢れた。 「すまん、俺実はそういう超常体験皆無なんだ。元々そう夜に出歩く方でもなかったけど…夜を怖いと思ったこともないんだよな。出歩かないのは夜遊びする小遣いがないだけなんだけど」 坂上 健が静かに切り出す。 いつもなら、どんな場所でもテンション高く飛び上がるのがモットーだが、気になっていたディーナの厳しい過去の話を聞き、自分がもし彼女だったら、とか、そこに育っていたとしたら、とかを考えると、気分が沈むのが止まらない。 仲間を殺されるのは怒りに直結する。 頭のねじが数本まとめて吹っ飛ぶ感じ、何が何でも報復に走りそうだ。 なのに、ディーナの世界では仲間同士が殺し合うのだと言う。 生きるために。 自分の命を守りたい、そのために仲間の命を奪い続けなければならないという、悲劇。 ああ、そうか、と胸の中でつぶやく。 絶対正義の戦いなんて、ないんだよなあ。 自分が生きることと、仲間が生きること、どっちかしか選べない状況になって、それでも戦わないでいられることは難しい。 とてもとても難しい。 そういう中で、ディーナを助けた男の気持ちを思うと。 「見えなくても存在するものなんて、空気とかいっぱいあるだろ? だから否定する気もないけど…ただ、俺にはそういうのは分からないんだ。まぁ対処できないものが分からないって言うのはありがたくはあるかな」 見えなくて存在するもの。 わからないと思っていれば済んだもの。 健が、対処できないもの。 ロストレイルに関わってから、そういうものが随分視界に入ってきた。 そうして改めて考える、自分のことや、自分の居た世界のこと。 みんなの『夜』とディーナの『夜』、そして自分の『夜』。 全く違う、たくさんの『夜』。 俺にとっての、『夜』は。 「俺があんまり夜を怖いと思わなくて、暖かくて優しいって感じるのは、多分記憶に残っている最初の夜の記憶が、ばぁちゃんと行った夏祭りだからだと思う」 明るくて、賑やかな、夜。 「あんなに小さいお宮さんに屋台がたくさん出て、通り抜けるのも大変で。あんなに小さいばぁちゃんの、まだ半分以下の背しかなくて」 世界は健よりうんと大きかった。見知らぬ人が一杯で。 「迷子にならないよう手を引いてもらって歩いて。綿菓子と、ハッカ笛と、ヒーローのお面を買ってもらった」 ふわふわして甘くて頬にべったりくっつく綿菓子にかぶりついて。ハッカ笛の味にちょっと驚いて。ヒーローのお面は変身できる魔法のアイテム。 「キラキラしてキラキラして、俺にとっては凄く特別な夜だった。夏の終わりの夏祭り…あの後行ったこともないし、ばぁちゃんももう居ないけど」 見惚れていた。驚いていた。嬉しかった。楽しかった。 眩くて眩くて、屋台の灯もお宮の灯も、それらに照らされ見下ろして笑ってくれるばぁちゃんの笑みが、もっと眩くて、嬉しくて。 ばぁちゃんは亡くなって、健はいつの間にか人ごみを見下ろすほどに背が伸びて。 もう誰も健に綿菓子をすすめたり、ヒーローのお面を差し出したりはしないけど。 きっとあの夜は、健にとって一番大切な夜だった。 ありふれていて、当たり前で、平凡で。 「多分あの夜が、俺の持つ夜のイメージなんだと思う」 ディーナの『夜』と健の『夜』は全く違う。 けれど、心の奥深く刻まれた、かけがえのない『何か』は同じ。 その『何か』を守りたいと思って、何が悪い。 「う~ん、あんまり趣旨に合ってなくて悪いけど。まぁ会えるならってちょっと思ったんだ」 ディーナが涙に潤んだ瞳でこちらを見ているのに、少し微笑む。 吹き消すランタンの向こうに薄白い靄を見る。 それを健はばぁちゃんだと感じる。 誰が何と言おうとも。 「んー、これは、俺が大学の演劇サークルにいたときの話なんだけど」 ファーヴニールが煌めく銀のピアスを揺らせて話し出す。 「夏合宿の時、仲間十数人と山あいのコテージで過ごしてた。昼間の練習が終わって、男女まざってだらだらおしゃべりタイム。そうしたら」 ある時から、コテージの扉がガタガタ鳴り出した。 「始めは風だろって言ってたんだけど、何時間も鳴ったり止まったりを繰り返すのに、窓の外の木々は揺れていないし」 どんどん感覚が短くなっていく。 「おしゃべりもちょっと途切れがちになるしさ」 何だろう。何だろう。 仲間の不安が募っていく。 「やがて一時近い真夜中、突然激しく扉が鳴り、ガラスが揺れ、柱がきしむ…」 ニワトコが瞬きをして顔を上げた。 「仲間が怯え出す…」 じわりじわりと恐怖感を盛り上げるファーヴニールの瞳は不思議な輝きを放っている。 「外には何もいなさそうだった、けど」 仲間の一人が「やばい、絶対開けんなマジで!!」と真っ青になり、極端に怯えている。 「坊主頭で霊感ありそなやつだったけど」 俺は扉に近づいた。 「何もいないから大丈夫だって」 勢い良く扉を開けてみる。 「あっちの仲間には俺の竜変化を知らないから、扉を開けてから目を竜変化させて、周囲を睨んでみた」 一瞬ファーヴニールの瞳が赤く、蜥蜴のような細い瞳孔に変わったように見えた。 「もちろん、外には何もいなかったよ」 気配を確認していたし、そんなの、このご時世いるわけない。 な? 何もいない。 「そう言って、扉を閉めると、真っ青になっていた坊主頭のやつは不思議そうな顔してた」 翌日、帰りのバスで彼はこう言った。 どうも変なんだよ。俺霊感あって声とか聞こえるんだけどさ、と。 わけがわからないという顔でファーヴニールをまじまじと見つめる。 「昨日こいつがドア開けたとき、オッサンの低い声で『化物ー!!』って聞こえたんだよね、って」 コテージを脅かそうとした何ものかより、君の方が化け物だった、という話だね、とルゼが笑う。 「誰でもそんなもんじゃない?」 見えない深いところには化け物がいるかもしれないよ? 「あ…そこ、出た!」 「ぎやあああ!」 突然背後を指差された綾が危うく繰り出そうとしたこぶしを、優がかろうじて止める。 「こらこらこら」 相手を見てやってくれよ、と引き攣る優にごめんごめんと笑い返し、ファーヴニールはランタンを吹き消す。 浮かんだのはサークルの仲間だった。 『巧!』 呼びかけられた声に思わず笑い返すと、次々と振り返った仲間がいつもの通り手を振り返してくれる。 もう一度、あの仲間達と舞台に立つことはあるんだろうか。それとも、それはもう永久に『見果てぬ夢』になってしまったのだろうか。 「ケ・セラ・セラ…って?」 ファーヴニールの掠れたつぶやきは幻と一緒に淡く消えた。 集まった中でただ一人和装の篠宮 紗弓は、手にしていたカップを静かに置いた。 ファーヴニールの誰でも深いところには化け物がいる、その結論には納得だ。 妖しい話なら山ほどある。精霊や妖魔、神など人ならざる者が実在し共存する世界に居て、こちらに来てから初めて、それらが『不可思議な存在』として扱われる世界のことを知った。 ならば、こういう話もその類になるのだろうか。 「秋、のことだったねえ」 依頼で訪れた町は彼岸花の群生地として有名で、町外れには彼岸花が咲き乱れていた。 「彼岸花って言うのは、死人花とも呼ばれる花でねえ。朱のかかった鮮やかな色の、引き裂かれたような花びらを燃え立たせるように咲くんだよ」 大抵は一本ではなく、群れで咲く。葉らしい葉は目立たず、花ばかりが視界を奪う。地面から伸び上がる花々は、辺り一面を炎にするように見える。 「仕事の依頼自体は滞りなく終わっていたんだよ。けれど、帰路につく頃には夜になっていた」 穏やかで柔らかな声は、残り少なくなったランタンの灯る薄暗い部屋に、静かにひたひたとしみ込んでいく。 「彼岸花の群集を横切る道を通り町に帰ろうとしたけど、なんだろうね、嫌な予感が止まらなくてねえ」 依頼は無事終わり、既に何の危険もないはずなのに、本能は警鐘を鳴らすので、用心に越したことはないだろうと、彼岸花を迂回する道で帰った。 「途中、視界の端を、ふと白い何かが過ったんだよ」 元々通る道だった。 彼岸花が咲き乱れ、本来ならば真っ赤に燃えているように見える道のはず。 「白い彼岸花でも咲いているのか、そう思ってそちらを見たらねえ」 一呼吸置いてランタンを見つめる紗弓の頬に、奇妙な笑みが浮かんだ。 「それは人の腕だったんだよ」 ことばが周囲の頭に意味を為すまで数秒、その光景を思い描いた者からひやりと首を竦めるのに、なお数秒。 「肘から下の部分が地面から生えている。それも一本ではなく、群集するかのように何本も何本も。まるで此方を手招くように揺れている……」 真っ赤な彼岸花の中に、手招く血の気のない青白い腕。 風に揺れる紅蓮の花、共に揺れる腕は風に揺れているのではあるまい、ならば何故。 おいで。 おいで。 さあここへおいで。 「綺麗だったねえ……」 互いに揺れ合う赤と白。 魅入られて動けなくなる、そのまま冥界に引き込まれていくような、甘いねっとりとした誘惑の波。 「ふいに、使い魔が鳴いた」 はっとしたように、数人が瞬きした。 「正気を取り戻し、もう一度そこを見てみたけれど、先程までそこにあった筈の腕など影も形もなかったねえ」 後になって知った事だが、この時期になると時折人が消えるらしい。 あれは幻だったのか、それとも現実だったのか? 「未だにあの手は誰かを手招いているのかもしれないねえ」 紗弓は締めくくると、唇を丸めてそっとランタンを吹き消す。 次の瞬間。 部屋一面に燃え立つ彼岸花の幻が広がった。ちらちらと白いものが動いたような、動かなかったような。 「うううう」 響いた呻きは現実なのか、それとも幻に伴う幻聴なのか。 どすん。 「雪峰さん!」 「あれあれ」 倒れた人影に紗弓は小さく笑みをこぼして口元を袂で覆った。 「えっとね…………僕の育った世界での話なんだけど、夜には、変な人型が出るみたいなんだ」 かぼちゃランタンの前に、ちょこんとリス型獣人が座って、真っ黒なつぶらな目を見開いて話をしようとしている。 それだけでも不思議な雰囲気のものだが。 「ある日、地中都市『W.e.D』の近くで、奇妙な発光現象が確認されて、そこに来たんだけど、そこで、奇妙な姿をした人形が動いていたんだ」 ネズミ族の拠点である地中都市『W.e.D』。 バナーの居た世界には、人間や他の獣人もいるのはいるが、ごく少数、大抵はバナーのようなげっ歯類だと言う。 建物の灯でも、彼らが灯したものでもない光。 原因究明に動いたのはバナーが冒険者だったからか。 「そこで、なんとか、近づいて、倒してみたら」 発見した人形は友好的ではなかった。意図を確かめる暇もなく始まった戦闘。 地の利もあったのか、それともそれほどの攻撃力はなかったのか、すぐに倒すことができたのだが。 「あっという間にチリになったんだ」 今の今まで動いていたものが、見る間に形を失い崩れ去る。 またもや、確かめることのできない不思議。 「何なのかなぁって思ったんだけど、噂では、宇宙人なんじゃないかって言われているんだ」 どこか知らない場所からやってきた存在。 関わり合って、互いに何かしらの影響を与えて、消え去ってしまう、幻のように。 「僕にも、何かわかんないけどね」 バナーはくるんとした目を瞬きした。 自分達の住む世界の外に、何か知らないものがある。知らない世界がある。知らない構造がある。 たとえばロストナンバー以外が『真理』を理解しようとして理解できなかったとしたら、こんなふうな奇妙な後味の悪さが残るのだろうか。 かぼちゃランタンを吹き消したバナーは、そこからうにょうにょとしたものが流れ出てくるのに目を凝らした。 「これ………むしろ、スライムじゃない??」 それが部屋全体に広がっていくなら一撃お見舞いしてやろう、そういう気配で隣で眺めていたアルドは、現れた端から消えていくのにちょっぴり残念そうな溜め息を漏らした。 アルド・ヴェルクアベルは長い順番をわくわくと待っていた。 もちろん、話も楽しんだし、次々現れる幻も面白がっていたが、それでも自分の不思議な話は今までの何より不思議だ、と思っている。 「僕の住んでた森にはとーってもキレイで広い湖があるんだ。小さい頃、そこで遊んだことがあるんだけど、その時にうっかり溺れちゃってさ。それが……今年の夏までカナヅチだった原因でもあるんだけど、ソレは置いといて」 泳ぎはずっと苦手だったが、こちらに来てそれは克服しつつある。 「溺れてた僕を助けてくれた人間がいるんだ。翡翠みたいな瞳の男の子で、近くの村で薬士の弟子をしてるって言ってたかな」 もうダメだ。死ぬ、死ぬ、死ぬしかない。 そんな想いがぐるぐるする頭が描いた幻にしては、あまりにも鮮やかな翡翠色の瞳。 咳き込み震えるアルドを抱き締め慰め、力づけてくれ、ようやく信じられた、何とか生きているのだと。 「お礼をしたくって、彼の手を引いて家に帰ったんだ。事情を父さんに話したら、父さんはその子の為に宴を開いてくれた、森の皆総出で彼を歓迎したんだよ」 始めは戸惑っていた彼も、宴が進むにつれ、楽しそうに笑っていた。 深まる夜、交わされる杯、重ねられるごちそうの皿。 九死に一生、死の世界に傾こうとした天秤を命の世界に戻された奇跡を祝う。 楽しんで、笑って。 安心して、未来を願って。 「でね、その翌日に目を覚ました時には、その子はいなくなってたんだ」 あまりの大騒ぎに帰ってしまったのだろうか。 それならそれで、一言言ってくれてもよかったのに。 いろいろな話をしながら森まで送って、次に会う日を決めたのに。 「僕は森のみんなや父さんにその子がどこにいったのかを尋ねたんだけど、皆『そんな子は知らない』って言うんだ」 だって、夕べはあれほど皆喜んで。 納得できない、合点がいかない。 どうなってるんだ? 皆、忘れちゃったの? でも昨日の今日だよ? 今もほら、僕はしがみついた体の感触を覚えている。 「森の近くの村を覗いてみたんだけど。その村には薬士なんていなければ、その弟子もいなかったんだ」 わけがわからない。不安が募る。 幻だった? だってそんな。 彼が幻だったのなら、こうして助かった自分の存在もあやふやになっていくような居所のなさ。 「それで思い切って、その子の形をした幻を村に出してみたんだけど。村の人達は『死者が蘇った』って大騒ぎしたんだ」 死者だって? 話をよく聞いてみると、彼はかつて村に住んでいたらしい。言った通り、薬士の弟子をしていたが、それはもう数十年前になると言う。 「死者なのかなって一瞬思ったけど、彼の手は暖かかった、死者じゃないって断言できるよ。じゃあ彼はいったい何者だったのかなぁ……未だに分からないんだ」 死者じゃない。 確かに生きていた。 けれど今、彼はこの時空には存在しない、ならば。 アルドは思う、ひょっとして。 今の自分と同じように、世界から弾き飛ばされてしまった一人じゃないのか、と。 世界図書館の依頼を受けて、もう一度自分の世界に戻ってきた。その時、湖で溺れているアルドを見つけて。 救ってくれた、懐かしい故郷の、懐かしい風景の、懐かしい仲間を。 けれど、その懐かしい世界で彼はもう死んだことになっていて、関わってもその記憶はすぐに消えていって。 ………アルドもそう、だろうか? 「………」 ぷる、と首を一つ振る。 ふっ、と鋭くランタンを消す。迷いと怯みを消し去るように。 だが、浮かび上がったのは翡翠色の蝶。 眩く輝く、目を奪うほど鮮やかな翡翠色の羽を緩やかに閃かせて、天井高く舞い上がって……消えていく。 「……んゃー……」 微かに漏れた声を、アルドはすぐに噛み殺した。 「思い出は切ないのう」 ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノはトマト形に歪んだオレンジ色カボチャランタンを手にとり、つくづくと眺めながら続ける。 「わたくしの話は、日本へやってきた頃の不思議な話じゃ」 促すように炎が揺らめく。 「わたくしは両親亡き後日本に来たのじゃが、はじめ日本語には苦戦してのう。早く日本の生活に馴染むべく夜遅くまで勉学に励んでおった」 日本語が通じない者にとって、日本はまことに暮らしにくい。当たり前に応じたつもりの身振り手振りも、違和感を抱かれて向かわれていては、通じるものも通じなくなる。 「ある夜、机の上でうたた寝をしておってふと目を覚ますと、床の間のある部屋がぼんやり光っておる。お爺様が明りを消し忘れたと思い覗いてみると、六人のご老人殿達が宴会をしておった。いずれも貫禄ある御仁達じゃった。わたくしも寝ぼけておったし、不思議と恐怖は感じなかったのう」 おやおや、こんな夜更けに何事じゃろう、なんとも酔狂な宴じゃなあ。 ジュリエッタがぼんやりと老人達を眺めていると。 「その内彼らの話題がわたくしのことになり『今度来た娘はまだまだひよっ子じゃ』とか失礼なことを言ったもんじゃから、思わず部屋に押し入り文句を言ったのじゃ」 「大胆…」 タイムが呆れ声を上げる。 「いや、ほれ、寝ぼけておったのもある」 「いや、それでも普通文句をつけにはいかないって」 ファーヴニールが肩を竦めてみせる。 「彼らの一人が笑って無礼を詫び、一振りの小脇差を差出したので受け取った…ところで目が覚めたのじゃ」 「え?」 ハギノがきょとんとする。 「結局夢かよ」 リエが嗤う。 「うむ、まあ、要するに夢だったのじゃろう。後で調べてみると、床の間には祖父の古い刀が六本飾っておったのじゃ。ただし小脇差はなかったのじゃが。だが、今はここに持っておる」 ジュリエッタはかぼちゃを置いて、トラベルギアを取り出した。柄込みで四十㎝ほどの小脇差だ。 「業ものでござる」 いつの間にか息を吹き返していたらしい時光が唸る。 「彼らは刀に宿った神で、ロストナンバーとして生きる定めのわたくしに力を貸してくれたのかもしれぬのう」 「ロストナンバーとして生きる…」 ディーナが低く繰り返す。 満足そうに頷いたジュリエッタは小脇差を片付け、再びかぼちゃを取り上げた。うやうやしく差し上げて、吐息をかけて吹き消す。 現れたのは小脇差をくれたと思しき老人の姿だ。小柄ではあるが、風格十分、力の抜けた自然体で微笑む姿には満ち満ちた神々しい気が感じ取れる。 「おお、あの時の御仁か。どうじゃ、わたくしはちゃんと家を守る物にふさわしい人間となっておるかのう?」 思わずジュリエッタが呼びかけると、相手はゆったりと鷹揚に頷いた。清冽な気を漂わせる笑みをなお深める。 「…そうか、それは良かった。今後も精進するぞ」 ジュリエッタの応えもまた清々しい。 まっすぐに前を向いた緑の瞳は、何ものにもたじろがずに自らの道を全うする者の潔さだった。 「最後なのです」 シーアールシー ゼロが残ったただ一つのランタンを前に話し出した。 「ターミナルに夜が来るようになって数日後のことだったのです」 淡々とした声が、灯一つしかない部屋の中に呑み込まれていく。 「ゼロは深夜に世界図書館の閲覧室で、読書中だったのです。真夜中の雰囲気を壊したくなかったので、ひとだまランタンを持ち込み照明としていたのです」 静まり返った図書館。 誰もいないと思い込んでいた。 「そうして読書していると、ランタンが消えたのです。そのときゼロの後ろから、誰かが声をかけてきたのです」 誰かの呼吸が一瞬止まる。 自らに呼びかける声を聴くように。 だが、声はしない。 「でも、ゼロが振り返ってもそこには誰もいなかったのです。気のせいではなく、確かに声をかけられたので、ゼロは立ち上がりあたりを見回したのです」 周囲にはぎっしりと本の詰まった書架。 並ぶ机、並ぶ椅子。 人気のない図書館で、誰かが呼んだのだ、確かに。 「すると、真っ暗になってわかったのですが、書架の向こうに、ほのかに明るくなっている場所があるようなのです」 ゼロの声に数人が振り向き、部屋のあちこちを見回し、小さな溜め息をつく。闇にはゼロの前以外、ランタンの光はない。 「半ば手探りでそちらの方に移動すると、そこでは此方に背を向けた銀髪の女の子が、ひとだまランタンを照明に読書中だったのです」 おや、それは。 誰がつぶやいたのか、小さな声が響く。 ひとだまランタンを照明に読書中だったのは、ゼロ、ではなかったのか。 「そしてゼロが近づいた時、その子のランタンが消えたのです。ゼロはその子に声をかけたのです。すると」 すると? 「その子はこちらを振り向く途中、幻の様に消えたのです」 鏡のように、映し絵のように、同じ光景がはめ込まれていく騙し絵のように。 誰もが自分の背後に自分を見ているもう一人の自分を感じた、その瞬間、ゼロがランタンを吹き消し、辺りは真っ暗になる。 「…あれ?」 ふいに、部屋のずっと奥に、仄かな灯がともった。 「ちょ…っ」 皆がそちらを見やったとたん、微かに息を呑む。 ランタンに照らされた銀髪の女の子が、見上げる人々の輪の中で唇を尖らせる。 ふっ。 女の子がランタンを吹き消したとたん。 どんどんどんどん、どんどんどんどん! うわあはははああああ! 「うわっ」 激しく打ち鳴らされる太鼓と響き渡る叫び。 わあああはははははあ! 「なにっ!」 「ちいっ!」 臨戦体勢になった者も居た、逃げかけた者も居た、だが、彼らが身構えるより早く、奥の部屋から溢れ出たのは、枕を抱えたパジャマ姿のかぼちゃ男のぬいぐるみ達、手にした笛や太鼓、シンバルを叩き、鳴らし、笑いながら踊りながらやってきて、あっという間に目の前を通り過ぎていく。 どんがらがったどんちゃんどんちゃん、どんがらがったどんちゃんどんちゃん! わああはははあ! どんどんどんどん! ぴーぴーどがどが! 「うわわわわ」 がちゃんがちゃがちゃ、ぱふぱふぱふぱふ! わはははははははああ! 「……あ!」 通り過ぎるかぼちゃ男のぬいぐるみに混じって、血まみれの細い小さな足がいく、牡丹を描いた灯籠が揺れる、かぼちゃ男同士が顔を見合わせ、驚いたように飛び跳ねる。 どんどんどんど! どがどがどがどが! わははははは! ムカデが跳ね飛ぶ、白い長身の人物が会釈する、柳の枝が風に揺れる。 「きゃあっ」 がちゃがちゃがちゃ、どんがらがっちゃ! うわああははは! かぼちゃ男が本を抱えてずっこける、星がばしばし音を立てて降る、待てこら待てこら待てこらと呪文のように手を合わせて祈る男が走り去る。 わああははは! ぴーぴうーぴーちゃらちゃら! どごんごんごん! 「わっ、たっ、たっ、たっ」 幻のように消える女、落書き帳を捲るしわだらけの指。 どこまでもすすめええええ! わあははははは! 「おいおい…」 かぼちゃ男達は踊り回り、ボートを漕ぐ真似をして跳ね回る。一瞬背中を見せた男が消え、ヒーローの仮面を被った子どもがジャンプし。 ばけものーーっっっ! 叫んだ声に爆笑が重なる。 うわあははははははあっっ! 「ああ…なんだか…」 最初は驚いたり怯んだりしていたロストナンバー達は、かぼちゃ男に交じって立ち現れた幻に、次第に静かに優しい瞳になっていく。 どんどんどんどん! うわははははっはは! もう一声ーっ! 「うん……」 さわさわ揺れる白い腕、ぷしゅるると崩れてチリになる人形、くるくる舞う翡翠の蝶。 どんがらがっちゃん、どんがらがっちゃん、どんがらがらがら! わはははああああああ! 小脇差が宙を飛び、ひとだまランタンがぷわぷわと過ぎ去っていくかぼちゃ男のぬいぐるみ達を追い。 ばたんっ! 扉が開いた。 とりっくおあとりーと! とりっくおあとりーと! お礼はたんまり、魂ひんやり、体はぼんやり、心はほんわり! 叫びながら男達は開かれた扉から外へ次々流れ出していき、どんどん姿が薄れていって。 「いっちゃう…」 ぐるぐるぐる。かぼちゃ男が頭を振り回し、回転する。互いに手を叩く。 わあああははははははははっっっ! ふしぎふしぎかのふしぎ、あなたのふしぎかなたのふしぎ! 湧き上がる歓声。拍手と口笛。響き渡る大太鼓。 この世はふしぎにみちあふれ! がらがらがっしゃん、ぴぴーっっっ! どがどがどんどん、どんどごどん! わはははははははははーっ! 最後の一人が闇の彼方にとんぼを切って消えていき。 ききいいいいいいいっ、ばたんっっっっ! 勢いよく、扉が閉まった。 「………」 再び室内は暗闇となる。 「………あれ……ゼロの幻……?」 掠れた声が響く。 「………うん……」 「………だよね……」 頷く声もやはり掠れて。 「……」 ああ、そうだろう。 何もかもを真実として呑み込んだから。 「…………」 ぼうっ、と背後で光が灯った。 「………終わったようだね」 振り返ると、フェイがランタンを掲げて微笑んでいる。 「温かなお茶は……どうかな?」 「ああ……お茶ね……」 「そうだな……」 「お茶に…しようか…」 何だか魂ごと、かっさらわれたみたいだよ。 誰かのつぶやきに、別の誰かがそっと頷いた。
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