風を含み、朱の布がはためく。 鳥の翼に似た優雅さで、雨の中とは思えぬ動きで羽撃く。『 ゆすじみに、なりば 』 雨垂れの間を縫って、少女が小さく口ずさむ。しかしそれすらも、執拗に降り注ぐ水音に流されてゆく。薄雲の向こうで照る光は横薙ぎに街を彩り、その全てを朱色に染めた。 否、光だけではない。降る雨、それ自体が朱いのだ。『 あいち、うらりらん 』 歌声が降る。幼く舌足らずな声は雨音に変わり、暁の色を纏って街を濡らした。はしゃぐように地面を踏み、水飛沫と共に小さく跳ねる。纏う衣裳の朱い裾が鮮やかに躍る。描かれた図柄の蝶が、花が、波が雨音に遊ぶ。今にも飛び立ちそうな足取りで、少女は雨落ちる中を進む。 永く閉じ込められていたあの場所から、外に出ることができた。 永く引き離されていた故郷が、“彼女”を呼んでいる。 降り注ぐ雨で、それが判る。踏み出す足が弾むように水面を打つ。 もうすぐ、迎えの者が来る。玉黄金の使いが。『 たまくがに、ちけぬ 』 雨垂れと同じ音で少女は笑う。しゃらりと、天蓋の雫を零すように。 黒漆の草履が、石畳の路を叩いた。 ◆ 依頼を引き受けた旅人たちが集まるのを目にし、朱金の虎猫――灯緒はのそりとその身を擡げる。枕代わりにしていた導きの書を器用に開き、その間に挟まれた古めかしい地図――左右の反転した日本列島によく似たそれを、ロストナンバーの前に示してみせた。「今回の依頼は――というか、今回も、というか。朱昏に行ってもらいたいんだ」 朱色の猫手が、大河によって隔てられた島国の西側と東側を、順に指差す。「以前調査に行った人たちが持ち帰ってくれた、西の花と、東の霧。それらの関連性について調べてみたんだけどね、何となく解るようで解らなかったんだよ」 同じようで同じではなく、違うようでいてどこが違うのかさえ判然としない。目を眇め、首を傾げた猫は曖昧に過ぎる言葉を口にした。「で、君たちにもうひとつお願いしたい」 まあ行ってみればわかる。 淡々とした呟きと共に手渡されたのは、朱昏の名が記されたチケットと、何故かターミナル市内の地図だった。 ◆ 東の大陸を統治する≪皇国≫の首都、真都(シント)。明け方の霧に覆われ、人の世の裏に魔の潜む街は、影を負いながらも華やかな活気にあふれている。 魔都、或いは神都。 そう渾名される表裏の街で、不可思議な現象が起こっていると言う。 雨が、降るのだ。 都を覆う霧と同じ、朱色の雨が。「明け方に、鮮やかな色の雨が静かに降るのだそうです。……とても自然現象とは思えない、不可解な動きで、日ごとゆっくりと移動しているのだとか」 怠惰な猫に渡された地図を辿り訪れたロストナンバーを屋敷の奥へいざないながら、骨董品店『白騙(シロカタリ)』の主である鬼面の男は緩やかな口調でそう語った。世界司書から仕事を丸投げされたと知っても彼は微笑むばかりで、旅人達の前に一枚の地図を広げる。「僕は昔よく朱昏――真都にも訪れていましたが、朱色の雨が降るなど聞いた覚えもありません。……灯緒さんの頼みは、その雨を採集する事でしょう。花と霧の関連性を、明らかにしたいと言っていましたから」 中央に有する大きな通りから、左右対称に広がる碁盤の目に似た街並み。真都の地図だと端的に語り、槐(えんじゅ)は取り出した筆でその路をなぞった。「移動する朱い雨、それが最初に確認された場所がこの辺りです」 地図上に、幾つも幾つも墨点が散りばめられ、一筋の線を作る。白く脆弱な指先がその最も北西に当たる点を指し示した。北西から南東にかけてゆっくりと移動しているため、次に現れる場所の予測は簡単につけられるという。「雨と共に、真都ではもう一つ怪異が起きているので――それの解決ついでに採集してきて欲しいそうです」 雨を採集するだけじゃ味気がないからね、と怠惰な虎猫の言葉を借りて、鬼面に隠れていない側の貌を柔らかく歪める。「どうやら、近くでお嬢さんが一人行方不明になっているとか」 少女の名はみづは。地元の商家の一人娘であり、夫婦共に老いてから生まれたただ一人の子であるため、相当に可愛がられているのだという。掌中の珠とも呼ぶべき娘が突如として姿を消して、冷静でいられる親など居ようはずもない。「皆さんには彼女を探し出していただきたいのです。……手掛かりは、一枚の“袖”」 旅人達から送られる訝しげな眼差しも意に介さず、槐は朗々と、滔々と言葉を続けた。 失踪する数日前から、その少女は鮮やかな柄の袖を蔵から引っ張り出してきては、気に入り羽織っていたと言う。どこで手に入れたかも定かではない――夫婦の記憶にも残っていない、謎の物品だ。 それぞれの表情が変わるのを見て、槐はその通り、と小さく頷いてみせた。「ええ。みづはさんと共に、その袖も行方が知れません。……袖を着たまま、姿を眩ましたとみて良いかと」 そうして、己の脇に畳んで置かれていた布地を手に取ると、穏やかに微笑んで旅人達の前に開いてみせる。「皆さんにわざわざここまで御足労いただいたのは、これを見てもらいたかったためです」 鮮烈な色彩が、畳の上に広がる。 抜けるほどに晴れ渡った蒼穹が広がる中で、燃えるように鮮やかな朱色の花が咲き乱れる。色彩を纏った風が吹き抜け、精悍な海鳥が飛び立つ――そんな錯覚さえ起こさせる、美しい景色を閉じ込めた一枚の布、それをロストナンバーの前に広げて見せ、槐は小さく頷いた。 少女が羽織る袖によく似た図柄のもの。導きの書によってみづはの映像を受け取った灯緒が、見覚えがある、とこの店を訪れたのだと言う。「件の袖ですが、灯緒さんの見たところによれば――地の色は朱、そこに水色や黄、紫で蝶や花と波が描かれた、かなり華やかな図柄のものだそうです。この布のように、一目見ればわかるでしょう――東国のものではない、と」 廓の女たちでさえも羽織らぬであろうと思わせる、眼を射るような色遣いは、真都の色彩には些か馴染まない。とは言え、大河を隔てた西国の着物ともまた違う色合いだ。 槐とロストナンバーとの間に広げられた反物は、海を隔てた異国の華やかさを纏っているようにも見える。奔放な色遣いながら、解き放たれた美。「このような色合いですので、袖はよく人目に付くでしょう。……現に、朱い雨の降る場所で、鮮やかな袖を羽織った少女の姿が目撃されています」 降り注ぐ血の色の雨に打たれ、真都の言葉ではない歌を口ずさみながらはしゃぎ回るその姿は、気が触れているようにも見えただろうか。その光景を垣間見た灯緒もまた、速く連れ戻した方がいい、との言葉だけを残した。 とは言え、目撃情報は雨の降った場所すべてではない。少女が雨と共に移動しているのかは定かではないが、雨の現れる近くを探すのが良いのではないかと槐は語る。詳しくは説明しないが、彼の中では確信にも似た何かが在るようだった。「袖に何らかの力が宿り、みづはさんを操り放浪しているとも考えられます。……そうですね、手に入れることができれば僕の元へお願いします」 曰くつきの品には目がないのだと、鬼面に隠れていない側の瞳を細めて槐は微笑んだ。 そして最後に、あたかもついでの如くに、こう付け足すのだ。「雨に打たれれば、その者の旧い記憶が引き摺り出される。雫に叩きつけられるように、止め処なく過去の映像に襲われることでしょう。……お気をつけて」
東から昇る暁の陽と、同じ色の雨が街を鮮やかに染める。 「……朱色の雨、か」 さぁあ、静謐の音を纏って降り注ぐ雨を白い傘に受け、ロディ・オブライエンは紫の瞳で射し込む光を仰いだ。 「血の雨、と評してしまっても構わないだろうな、これでは」 地元の人々が忌み嫌うのも判らぬ話ではない。 片方の手に握っていたスキットルの蓋を開けると、それを勢いよく呷る。空になったスキットルを持った手を差し伸べて、降りしきる朱色の雨をその中へと収めた。小さなボトルを雨垂れが穿つ音がしばらく響いて、すぐにそれは聴こえなくなる。 酒の代わりに雨を湛えたスキットルをスーツの胸ポケットに仕舞うと、傘を抱え直してロディはまた歩を進め、 「……みづはは、何処へ向かっているのだと思う」 共に歩く二人へ、戯れにそんな問いを投げかけた。 「そうですわね……雨を呼んで行ける場所と言えば、空の上か海の下か」 片腕にスケッチブックを抱き締めた喪服の女――三雲 文乃は路地に溜まる雨の上を優雅に、ワルツを刻むかのような足取りで進む。軽やかに翻る喪服の裾を追って、朱色の雫が跳ねた。 己の故郷である壱番世界によく似た異世界、石畳の街並みに朱色の雨が降る景色も幻想的でよかろうと、ふと思い立ってチケットを受け取った彼女は、ただ純粋に、この情景を楽しんでいるように見えた。 「袖に宿った想い――人の怨念ではなく、そのまま人ならざるものなのかもしれませんわね」 「袖自体が、生きていると?」 ロディの相槌に、文乃は曖昧に笑んで答えた。 視線で話の先を促せば、漆黒のヴェールで面(おもて)を覆い隠した女はゆるりと頷きを返した。唯一隠されていない唇が、艶やかに言葉を紡ぎ出す。 「空の上であれば天女、海の下であれば竜宮の使い――といった所かしら。人ならざるものであれば、人の住めぬいずこかへと帰ろうとするのも道理に御座いましょう?」 「……どちらであれ、生身の少女が向かうには酷な場所だな」 止めなければな、と白い傘の下で白いスーツの天使が独りごちれば、黒い傘の下で黒いヴェールの女は微笑を漏らした。降り注ぐ雨の下、漆黒のドレスに身を包んだ女はまるで、朱野原に立つ一輪の黒百合にも似ている。 ふと、彼女の視界の端で、茶の番傘があちらへこちらへとうろうろしているのが目に入る。 「どうかなさいました?」 声をかければ、振り返った番傘の青年は曖昧に首を振って応えた。 「ここが真都か、と思って」 雪深 終は以前、朱昏の西の国を訪れた事がある。――自らの故郷に似ている、と感じた世界の、また違う景色を前にして、好奇心をくすぐられた。煉瓦と茅葺の建物が入り混じる街並み、路地をゆけば石を叩く音とともに雨水が跳ねる。 「俺も田舎者だから、西のがらしくはあったが……分断されてると結構違う物だな」 あどけなさを残した顔をあちこちに向け、首を傾げては朱に塗れた街並みを観察する。降り注ぎ、大地に落ちて跳ねた雫は、青年のブーツに触れては急速に凍りつき、石畳に散る。 「……性質は水と同じか」 唐突に現れた氷は後から後から落ちてくる水に洗われ、流されて入り混じる。 「だが、これだけ不自然な雨だ、空から降っているとも限らないだろう」 真都に立ち込める暁の霧、それも凝縮されれば雨のように肌を濡らし、或いは地吹雪が舞い降りるように形を変えることも在り得るのでは。 霧が姿を変えただけのものではないか、と憶測を口にすれば、上空の様子を観察していたロディも小さく頷いた。 「確かに。雨が降っていると言うのに、ここ以外に雲が掛かっていないのはおかしくはあるな」 ぽかりと、円を描くようにして薄暗い雲が一点だけをただ覆っている。 足を止め、揃って空を見上げる二人に、文乃が微笑んで発破をかけた。 「実際に、少女を見つけてみれば判る事でしょう。……ところで、袖の怪異と言えば“小袖の手”を思い浮かべますわね」 「小袖の手」 「現世に想いを残した遊女が、死後寺に収められた己の小袖から腕を伸ばして何かを求め続ける――そんな、妖怪の一種と云われております」 三雲 文乃はゆるりと首を傾げて、けれど件の袖とは少し違いますわね、と軽やかに呟いた。 手に持った杓子で朱色の雨を受けながら、終は射し込む朝陽の方向を仰いで思考に耽る。 華やかな袖に宿る、女の未練。 冬の山で擦れ違うた、雪を纏う女。 「……女は妖に成り易い」 「ええ。女とは執念深く、狡猾で、けれど慈悲深い生き物ですのよ」 ぽつり、と零れた終の言葉。そしてそれに応える文乃の微笑が、突如として強まった朱色の雨に覆い隠されていく。肩を並べて歩いていた三人が、唐突に雨によって引き離されて、そして世界が滲みだす。 歌が聴こえる。 幼い、少女の声で。 降り注ぐ雨は途切れることなく、朱色のスクリーンのようにロディを覆う。ゆるやかな螺旋を描いて足元から立ち上がった水が、訝しむ彼の前で一人の女の形を取った。 長い亜麻色の髪が、揺れる。 「……シェリル?」 名を呼べば、愛しいその陽炎は穏やかに笑みを浮かべた。緑の眼差しが彼の紫眼を射、その郷愁を鮮やかに照らす。雨音に煽られて、胸がざわめく。遠い過去に喪った、しかし決して色あせることのない妻の姿。 美しい女性の姿を取った幻影の傍に、またひとつ、ゆらりと影が立ち上がる。母と同じ亜麻色の髪に、ロディと同じ紫の瞳。 「ウィル……やはり、お前たちなのか」 ――もう一度出逢うことになるだろう、とは薄々と感付いていた。己の中に在る強い感情、引き摺りだされるほどに大切な記憶など、彼らを置いて他にないのだから。 対峙する妻と、幼い子の幻は、ただ彼に優しい笑みを投げかける。 「望むべくもないだろうが――」 幸せな記憶を、ただそれだけを視ていたい。 紫の瞳に悼みを宿したまま、ロディは声に出さずただ思う。 だが、雨は無情に降り注ぐ。 地を穿つ雨垂れの勢いが強まり、性急に彼の前から映像を押し流していく。そして、すぐにそれは収まって新たな映像を映し出した。 「……ッ!」 視たくない、と強く思うからこそ、心を映し出す雨のスクリーンはそれを如実に反映する。 魔獣の歯牙に掛かり、無惨な姿を曝した妻の姿を。病魔に蝕まれ、命の灯を性急に散らした息子の姿を。胸の内に深く深く沈めた記憶を、雨垂れの舞台は無慈悲にも描き出して、その魂を強く揺さぶった。 いっそ、なにもかも忘れ去ってしまえば楽になれるのだろうか。 妻を、息子を愛した記憶すら喪えば、永訣の記憶もまたほどけるように消えていくのだろうか――。 『ロディ』 ふたたび、雨のスクリーンがざわめく。 ゆっくりと瞼を開けば、朱色の幕に新たに映し出された情景はふたりの在りし日の姿を描き出していた。初めと同じく、己が足を以ってその場に佇み、妻と子とが柔らかな眼差しで彼を見守っている。 「ああ……」 縋るように手を差し伸べる。紅葉のように愛らしい息子の手が、それに応えて彼の手を取った。無邪気に笑う、その貌さえも愛おしい、と悼みを伴ったロディの唇が緩む。 握り締めた息子の手に、頭を垂れる。 「……それでも、大切な記憶なのは確かだ」 忘れる事など、考えられようはずもない。 俯くロディの瞳から一筋零れ落ちた涙を拭おうと、やわらかな妻の手が伸べられる。白く、美しい、護ると決めたその指先が。 しかし、それがロディの頬に届くことなく、ふたりの姿は雨のスクリーンに攫われていく。 「行かないで、くれ」 ほどけて消える、愛しい幻影。 心とは裏腹に、唇から言葉が零れた。幻だとわかっている。真実ではないとわかっている。――だというのに、彼らが消えていくのが怖ろしい。二度目の別れを、畏れている。 妻と同じ色の瞳、息子と同じ色の瞳。隠されたふたつの色彩から、涙が二条零れ落ちる。 「シェリル、ウィル――ッ!」 押し殺した叫びは、雨垂れの音に流れて消えた。 『 ゆすじみに、なりば 』 打たれる者の過去の情景を引きずり出すと言う、朱色の雨。 だが、今文乃の眼前に広がるそれは過去の風景ではない。 一枚の絵画だ。 「あら、懐かしい」 ふ、と漆黒のヴェールから覗く口許に妖艶な笑みを浮かべて、文乃は一歩朱色の雨の中へ進み出た。 横長のキャンバスに描きだされたその世界を、彼女は知っている。 『しろがねの森』。 純白の雨が降り、白銀の湖沼が波紋を描いて広がる。聳える木々は氷雪に埋もれて、幹や根元まで灰白に染め上げられていた。 一面の白の中を、白金の獣が悠然と横切る。 額に長く細い角を抱く、優美な鬣を備えたその獣――ユニコーンと呼ぶべきだろうか。黄金の瞳に真珠質の涙を湛え、神聖なる獣はしろがねの森に息衝いている。 幻想的な絵画を前にして、傍らのセクタン、ロボット姿のサルバトールが、軋む音を立てて彼女を振り仰いだ。 「……ええ、綺麗な絵でしょう」 小さな相棒の頭部を優しく撫でる、その白い手の薬指で銀の指輪が煌めく。 「私には描けない世界ですもの。あの人らしい、というのかしら」 かつて文乃が愛し、そして裏切られた――裏切った、と呼ぶべきなのかもしれない――男が描いたなかの一作だ。 文乃は絵を嗜む人間でありながら、その本質は贋作師であると自覚している。オリジナルというものが判らなくなりそうで、頑なに写生画にこだわってきた彼女と違い、あの男は奔放でありながら柔らかな、幻想的な絵を好んで描いていた。 独創的なその画に、惹かれたのだろうか。 ――彼自身には? 問われるまでもない。 彼だからこそ、惹かれたのだ。そんな絵を描くことのできる、彼だからこそ。 「……あら」 ふと、絵の傍に一人の男の姿をした幻影が佇んでいるのに、文乃は気が付いた。ヴェールに覆われた貌に驚きを浮かべ、しかしすぐに微笑みに還る。 しろがねの森を描いた絵が融け、緩やかな色彩の渦へと変じ、すぐに生命さえも凍りついたしろがねの雪山へとその情景を変えていく。幻想というものを一切排した、或る種非情な現実の絵画は、紛れもなく文乃が描いた一作であった。 一歩、足を進める。佇む男の幻と肩を並べるように。 そうして二人、しろがねの絵を眺める。 綺麗な絵だな、と隣に佇む男はかつてそう言った。その記憶さえも雨は蘇らせるのかと、文乃はそれを待つ。 『 』 だが、賛辞の言葉が形になることはなく、降り注ぐ朱色に、人の姿を取った影が融けて消えゆく。 それを目の当たりにして、文乃は悟る。――全ては所詮、幻影に過ぎない。 あの男は、もう、どこにも居ないのだから。 「……無意味な感傷、でしたわね」 漆黒の袖を口許にあてて、文乃は零した笑みを覆い隠す。 手にしたスケッチブックを開き、まっさらなページに鉛を走らせた。幻想を描く趣味はない。だから、今描こうとしているこれは、確かに目に焼き付けた光景だ。 それでも、この絵をあの男が見たとしたら、何と思うのだろうか。幻想に満ちた非現実的な現実の絵を、それでも美しいと賞賛してくれただろうか? 朱の向こうに融けて消えた背中を、追い求めるようにして筆が滑る。 『 あいち、うらりらん 』 懐かしい。 幼さを残した面差しで、終は唇を緩める。 「……朱色に中てられたか」 雨垂れの朱色は穏やかな紅に。まっすぐに落ちる雫ははらはらと零れる花弁に。降りしきる桜の雨が、彼の視界を埋め尽くす。見覚えがないようでいて、しかし懐かしい光景に終は薄い色の瞳を細めて見入った。 どこからともなく吹き荒ぶ風が、踊る花吹雪を攫って行って、取り残されるのは緑の木々。それもすぐに、紅と黄金の鮮やかな色に染められていく。 長く暮した山の景色だ。春は桜に、夏は緑に、秋は紅葉に、――そして、冬は雪に閉ざされる、馴染み深い光景だ。 郷愁に浸る終の眼前を、一匹の朱色が飛び去っていく。 弧を描くようにして中空を舞う、優雅な姿のそれは蜻蛉だ。秋の陽に照らされて燃える色彩を纏い、紅蜻蛉は短い命を懸命に紡ぐ。 その行く先を見守るように、いざなわれるように翅音の後を追った。どうせ幻影の中に居ると判っている。足を進めてみたところで、真都を往く己は動くこともないのだろうから。 踏み出した一歩から紅葉の擦れる微かな音と、雨と木々の混じり合った湿った匂いが届いて、再びの郷愁に目を細めた。 やがて、蜻蛉は落ちる葉の間に姿を消して、ひらり、一片の白が彼の視界の端で踊る。 静謐を伴って天より落ちたそれは、後から後から、数を増して降り注いでは大地に積もっていく。 雪だ。 あまりに早急な冬の訪れが、紅と金の鮮やかな世界を埋め尽くしていく。それもまた懐かしく、無情な季節の推移だ。 止め処なく降り積もる雪は、けれど彼に冷たさを与えはしない。既に雪女の力を受けたこの身には、むしろ雪は馴染み深いものだとさえ言える。 ふと、あの蜻蛉は何処へ消えたろう、と閃いた疑問のままに、終はゆるゆると視線を巡らせた。柔らかく降り注ぐ白に、枝々に降り積もった白に。 「……ああ、こんな所に居たのか」 それらが落ちる先――己自身の足許へと目を移せば、雪に埋もれるようにして、ひとひらの赤がその骸を曝している。あれほど忙しく動いていた翅は凍りつき、玉虫色に輝いていた眼は最早何を映す事もない。 在りし日のまま凍りついた骸を見下ろして、ただ彼は首を傾げた。 雪に閉ざされた過酷な冬山に於いて、命とは斯様に儚いもの。――ならば、何故、己は此処に立っているのか。 理由などとうに知っている。生かされたからだ。では、何故? 雪女という妖ゆえの気紛れか。それとも他に、何か―― 「……判らん」 あどけなくさえある瞳を瞬かせ、妖と人との境に在る青年は骸をただ茫と眺めた。 降り注ぐ朱色に、全てが洗い流されてゆく。 強い雨脚が収まって、変らず降る朱色の向こうには石畳の街並みが覗く。 戻ってきた、と言う事なのだろう。表情を浮かべぬ貌でなんとなく納得し、傘の下から周囲を見回した。共に歩いていた二人もまた、何処か茫然としているようではあるが彼の近くに佇んでいる。 『 たまくがに、ちけぬ 』 ふと、雨垂れの音に重なるようにして、幼い歌声がその耳に届く。 巡らせた視界の先で、雨のものとは違う鮮烈な朱が閃いた。 「みづは!」 それが何であるか把握するよりも早く、終はその名を口にしていた。 彼らが追っていた、行方の知れぬと言う少女。猫の言葉通り朱袖を纏い、丈の長いそれを引き摺るようにして彼らの前を歩いていく。東南を目指して、軽やかな足取りで。 鋭く刺すように名を呼ぶ声に、朱色の袖を翻して少女は彼らを振り返る。表情は空虚で視線も焦点を合わせようとしないが、それでも名に応えることができるほどの自我は残っているようで、終はかすかな安堵に肩を緩める。 柔らかな雨の中、ひらりとスーツを翼のごとくに翻して少女に駆け寄ったロディが、その華奢な腕を捉えた。鮮やかな色を纏う雨垂れは、しかし彼の純白を決して朱に染め上げようとはしない。 「何処へ、向かおうとしている」 終の問い掛けに、少女は虚ろな眼差しのまま緩く首を傾げた。頭(こうべ)を巡らせ、南東に昇る陽を見上げる。雨の降りながら、照り輝く空。異様な光景だ、とロディはひとつ息を吐き、少女の視線の行方を追った。 「空の向こう――死の世界、と言う事か?」 遠い空の向こうから、雨を伴って現れる迎え。それはあるいは死を暗示させるものなのではないかと、そんな危惧にも似た予測をロディは立てていた。 「……あなたがこれ以上人に害を与えるのなら、俺達には止めるしかできない」 少女に、或いはその向こう側の何かに、終は声をかける。 出来ることならば、袖の望みは叶えてやりたいと思う。だが、異国となればそれは叶わぬ事なのかもしれないし、その為に無関係の人間を巻きこんで赦されるはずもない。 「還るのであれば、己一人で……というわけにはいかないのか」 少女を連れていくでなく、かといって他者に取り憑くでもなく。 終の穏やかな言葉を聞き届けたのか、少女――怪異の袖は首を傾げたまま目を瞬かせた。そして、幼い声がまた、言葉を紡ぎ出す。 それは、歌の最後の一節、であるようだった。 『 にゃちゅら、とぅみば 』 ふ、と少女の身から一切の力が抜ける。 糸が切れたように意識を手放した少女を、傍らに居たロディがしかと受け止めた。咄嗟に口許に手をやって確認するが、弱弱しくも健やかな呼吸を認めて安堵する。終の差し出した水筒をその口に当てて水を飲ませれば、ゆっくりとだが確かに幼い喉元が上下した。 少女の纏う朱色の袖。 鮮烈な影を残して翻ったそれから、不意に一羽の蝶が羽撃き出でた。紫色の、大振りの翅を持った美しい命が、縫い止められていた図柄から解放されて天へと飛び立っていく。 見守る三人の前で、朱紫の蝶はほのかな光を纏う。輝いた、と感じた次の瞬間にはそれは強い光に変わり、夜闇を切り裂く暁の如き峻烈さを以って彼らの視界を埋め尽くす。 光が収まり、朱色の雨が落とす薄い幕の向こう側に、彼らは確かに見た。 模様から抜け出した一羽の翅が、ひとりの娘の姿を取り、天を目指して雨の中を飛び立っていく様を。 後姿だけではその容貌は判別付かない。だが、大輪の朱い花や藤に飾られた笠を被り、みづはの纏うものと同じ朱色の袖をゆるく羽織るその肢体は細く、落ちる雨垂れの中で艶めかしくさえある。 「あれは」 茫と、終の唇から声が零れ出る。あれこそが、袖に憑いていた“人ならざるモノ”だとでも言うのか。みづはを操り、朱の雨を呼び、天の向こうへと行こうとした? 娘はしなやかに雨音を踏み、高く跳んで袖を翼の代わりに広げた。優美な所作に、朱色のスクリーンはよく映える。天の向こう、昇る朝陽の向こうに在る何処かへと、ひたすらに回帰を希って娘は飛ぶ。 「お待ちくださいな」 朱色の後姿を追うように、文乃が一歩進み出て柔らかく声をかけた。緩やかに昇る女の姿が、声に応えて動きを止める。 「……何処へ行かれるおつもりですの?」 花笠の女は振り返り、一度首を傾げると、唱うような調子で彼女の問いに応えた。幼くすら見えるその動作に併せて、笠から垂れる朱藤の花房が鮮やかに揺すれる。 『にらい』 降り注ぐ雨に反響する声音が、ただ一片の言葉を発する。 「にらい……その場所へ?」 最早頷く言葉は無い。己が持つ答えはこれひとつだと言わんばかりに、娘はあどけなく微笑んだ。 額に巻き付けた幅広の布片が、その首後ろから長く美しく閃く。陽炎の如き紫の名残を置いて、娘は再び三人に背を向けるとふわりと飛び立った。 暁の光が、黄金の色に滲む。雨を、街を瞬きの間に埋め尽くしたその色彩は娘を覆い、彼らの見守る前で彼女を光の向こう――暁の天へと連れ去ってゆく。 紫蝶の娘が幻影のように揺らぐ。 依代となった少女と、朱色の袖を残して。 雨が上がる。 降り始めと同じ唐突さで、彼らの頭上だけを覆っていた雲が晴れる。 斜めに射す暁の光が、取り残された街を朱色に染め上げた。 「……では、この袖自体には最早怪異は宿っていないと」 「ええ、袖を通した所で、何も視えはしませんわ。……残念そうですわね、白騙さま?」 「ふふ、ですが、それを除いてもこの紅型は実に素晴らしい。骨董としての価値は充分にあるでしょう」 「紅型(びんがた)――では、やはりあなたは気づいておいででしたのね」 「さあ。何のことだか」 骨董品屋『白騙』。 奥の間に敷かれた畳の上に坐して、鬼面の白い男と喪服の黒い女が朱色の袖を挟んで向かい合っている。同業者ゆえの談義に花を咲かせるふたりを横目に、その縁側で朱金の虎猫は惰眠を貪っていた。 「灯緒」 眠りの狭間へと落ち行く司書の耳を、あどけなさを残した青年の声が打つ。眠ろうとしていた頭を擡げ、しかし怠惰な猫は律儀に来訪者を迎えた。 「終さん、ロディさん。おつかれさま」 「何か判ったか」 簡潔な労いの言葉に頷いて、縁側に腰を降ろすよう勧められるよりも早くロディが猫へと問う。猫もまた、そうそう、と眠たげな瞳のままで応えた。 「君たちの採ってきてくれた雨のおかげでね、判ったよ」 傍らに置かれた瓶、その中に収まる朱色の液体を視界の端に捉える。つい先日彼らが採取してきた、朱昏の東國に降った雨。それがそうかと問えば、曖昧な首肯が返った。 「同じなんだ」 霧も、雨も、花も。 「朱昏に充ちる幾つもの朱。簡単な事だ。霧が集まれば、雲になる。雲がその重みに耐えきれなくなれば、雨となって大地に降る」 「雨が凍れば雪に変じる。そして、大地に沁み込んだそれらを吸って、朱い花が咲く……そう言う事か」 淡々とした説明を継いで、終が言葉を重ねた。水に連なるものを操る力を持った彼だからこそわかる。 西と東、世界や文化は同じであれど、分断されていれば違うものと感じた。――霧と花の違和感もまた、同じ事なのだろう。 分断された両地に於いて、違う姿を取って現れただけなのだ、あれらは。 「……そうやって、《力》は循環しているのか。流れていく水の姿を取って」 ロディの推測に頷いて、灯緒は朱色の液体が納められた瓶を弄んだ。とぷん、と揺らぐ水面。栓をしていると言うのに、ふわりと薫るかすかな香。西の国でふれた、朱野原の香と同じものだと終はすぐに悟る。 「では、俺が出逢った黒い傘の女も」 言葉を返しながら、しかし彼女だけではないことを、彼は理解している。 朱霧を吸い母の胎を破った幼子の妖。朱の咲き乱れる塚の中で意思を得た妖刀。そして、朱色の雨を呼んだ朱色の袖の女。 かの世界で起こった怪異の全てが、朱色に起因する。 「全ては朱色から始まって、朱色に還っていく」 朱金の猫は薄く笑うように目を細め、言葉を続けた。 「朱昏に根差す力の根源、循環する朱色の水。――“朱(アケ)”と呼ぶことにしたよ」
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