「再びインヤンガイです」 鳴海はおどおどと瞬いた。「実は……探偵フォン・ルゥから依頼がありまして」 おいおいおい。 前回の不愉快な依頼、しかもロストナンバーを利用しようとした遣り口を世界図書館が知らないわけもなかろうに。 たちまち数人のロストナンバーが前から離れていくのに、きょろきょろした鳴海が慌ててことばを継ぐ。「『生皮本』の製造場所を見つけたらしいです。それに、そこでどうやら転移したばかりのロストナンバーらしい存在が居る、と…あ、いや、そう言ってきたのではなくて、インヤンガイで見たことのない背中に羽の生えた天使が一人、捕まってると」 ますますうんざりした顔でロストナンバーが離れていく。「あの、そのロストナンバーも『生皮本』にされる可能性があります…たぶん」 鳴海は唇を噛んだ。「危険な依頼です。フォン・ルゥ探偵は『生皮本』を作っている側に寝返っている場合もあります……フォン・ルゥを退け、ロストナンバーを保護してもらう……無理……かもしれませんね…」 鳴海は深く俯いた。「あるいは……フォン・ルゥは………侵食されている、かも…」 メモと予言書を見比べつつ、しばらく沈黙していたが、やがて低い声で珍しくきっぱりと言った。「今フォン・ルゥは『生魂花園(シェンフン・ガーデン)』奥の廃工場に居ます。そこで最近まで不老不死の薬が研究されていましたが、研究者が不慮の死を遂げて廃棄されました。噂によれば、人間の『死にたくない』という意識エネルギーを本体から切り離して丸薬に込めることで、様々な治療に役立てようとしたようです」 『生皮本』は、そのシステムを悪用したもの、なのかもしれません。「捕まっているロストナンバーは突然廃工場内に出現し、それまでの穏やかな楽園から地獄のような状況に突き落とされて深く傷ついているようです。救出もすぐには信じてくれないかもしれません。工場への案内は、ターミナルの雑貨店主、ロンが引き受けてくれました。どうか速やかな救出と保護をお願いいたします」 鳴海は深く深く頭を下げ、しばらくずっと動かなかった。「出して!」 イオンは錆びた鉄格子に必死に捕まる。「お願い、出して! あれが来る前に!」「……ことばはよくわからないけど」 助けて欲しがってるのはわかるよ、とフォン・ルゥは微笑む。錆びた鉄籠のように見える地下牢に閉じ込められた少女を見つけ、その背中の真っ白な羽を見つけた時は、何と見事な配置だろうかと感嘆した。「でも、僕もあれがどうやって作られるのか、もう一度見たいしね」 がこんがこんと動き続けている工場の片隅では、繋がったパイプと幾つものランプを点滅させた機械が、ついさっき迷い込んだ一人の男を引きずり込んで、新たな『生皮本』を作り出している。それを操作しているのは、黒くて大きな一体の暴霊だ。「共同経営者に裏切られて死んだらしいから、自分の知らないところで何が起こってたのか知りたかったんだろうねえ」 僕そっくりだ、気持ちはよくわかるよ。 フォンは目を細めて身悶えるイオンを見て笑う。「何かが起こってるみたいなのに、何もわからない、いつまでたってもずっと部外者だ。ここは僕の世界なのに、君達みたいな奇妙な輩がうろうろすると、必ずやつらが現れて連れ去っていく……説明することもなく」 ゆっくり周囲を見回す。「今度も来るかもしれないねえ、君は僕らの世界の人じゃないし。今度こそ聞きたいねえ、一体君らは何をしてるんだ、そんなことして何の意味があるんだって」 知りたいよねえ、知る資格がなくてもさ。「……そういう部分では……お仲間じゃないの、みんな、さあ?」 もし来たら、僕はこれを使ってみようかなあ。 フォンは手にした薄い本を開く。毛皮のような装丁の本は、開くとがぅうっ、とうなり声を上げて鋭い牙を剥き出した。「これに噛みついて食べられたとしたら」 中身はどこへ行くのかな?「これも新たな事実の検証」 くすくすと楽しそうに嗤う。「早くおいで、僕のところへ」 同じような本をフォンは何冊も準備し始める。その目はイオンを見てはいるが、虚ろで優しい。「出してえ!」 イオンはまるで自分なぞ存在しないかのように振舞う相手に泣き崩れた。
『ここより永遠に』ノベル 錆び付いた街。腐り果てた場所。 『生魂花園(シェンフンガーデン)』はその名前とは逆に、街としても空間としても死にかけているような状態に見えた。 閉ざされた扉が圧倒的に多い。開いた扉からは例外なく妙な臭気が漂ってきていて、気分が悪くなる。 「ふム」 何でしょうかネ、ここハ。 背の高い痩身の竜人、ワイテ・マーセイレはきょろりと銀色の目を剥きながら周囲を見回し、はくり、と途中で買い求めた包子に噛みつく。上がる湯気さえ『生魂花園(シェンフンガーデン)』の静けさに一気に消えていくようだ。 それでもその空気に怯える気配もなく、包子を呑み込み終えると、 「こんなところで待ち構えているフォン・ルゥ君…」 片手だけでカードシャッフルしていた大アルカナを一枚めくり、 「……悪魔。良く分からない、ネ」 肩を竦めてみせる。 「相手が明らかに隠しているってことが分かって、それを知りたい気持ちは分からなくはないんだけどネ。まぁ、ロストナンバーを教えてくれたから良い人なのかナ?」 「良い人なものか」 無精伸ばしの白髪、緑の瞳を重く光らせてハクア・クロスフォードが吐いた。 「ディアスポラ現象で飛ばされただけの者を、自分の欲望のために利用しようとする人間が」 ハクアの胸に過るのは、特殊な体質ゆえに家族で捕まり、力を利用され、実験の道具にされた記憶だ。この行為は許せない、と激しく思う。だが、強く厳しくなりそうになる声を、あえて静かに冷ややかに保つ。 「何としても少女を助ける」 「ロン」 岩髭正志は灰色の髪を振って、先を静かに進む少年の後ろ姿に声をかける。 「待ってくれ、ロン」 「何だ」 立ち止まった少年は振り向かない。 「急ぐのだろう」 「もちろん、急いでいる、けど」 どうしたんだ、ここの荒れ方は。 正志はフォン・ルゥの関わる生皮本事件にも関わって、『生魂花園(シェンフンガーデン)』にやってきている。あの時もフォンに案内されて、街の中を通ってきた。確かに街は寂れつつあった、だがそれでも猥雑でしたたかな命の気配はまだ残っていたのに。 「おかしくないか」 「…」 ロンはようやく振り向いた。その視線が、あの事件で自分達を罠に誘い込んだフォンのものと、どこか似ている気がして、一瞬体が竦んだ。 『助けてくれるヒト達? よろしく』 右側の顔を隠した茶色の猫っ毛、大きな瞳、楽しそうな笑い声。 『組織の抗争、人殺し、そりゃあ何でもありな街だけど、少し前からいろんな流れが滞り始めているのは確かなんだ』 あの時はフォンを見逃すしか仕方がなかった。それを正志は今でも少し後悔している。見逃さなければ、今回のことは起こらなかったかもしれないのだ。 『誰もが何かを恐れて口を噤み出した、それだけじゃない。何か見えない組織が仕切り出した感じがするよ。この世界にあるはずのない何かがね。君達みたいなヒトとか』 薄笑いの向こうに見えていた悪意…それを読み切れなかった。 けれど、あの時のフォンにはそれでも何か、街への愛着があったような気がした。狂い始めた何かを知ろうとして、理由を探そうとして、何かが起こるのを食い止めようとして、確かにその手段はまちがっていたけれど、この街のこの荒れ方は、まるでフォンの恐れていた未来のようだ。 「何が起こったんだ、この街に…こんな短期間でこんなに荒れるなんて、何が」 「……」 「それに、フォン、だって……侵食されているというのはファージに、なのか」 確かに鳴海はファージが侵食した場合、真理数はそのままなので見分けることができないと説明はしてくれた。フォンがいつの間にか侵食されていた可能性もありえる、と。 「でも、どうして『フォン』が? 知りたがったから?」 なぜ、彼が侵食されたのだろう。そこに何か見えない大きな出来事が隠れているような気がしてならない。 「……」 ロンが無言で身を翻して歩き出し、慌てて後を付き従う。 「それこそ、フォンさん自身が知ってるんじゃないかな」 白のスーツに白のソフト帽、黒い皮靴、ヴォロスで買ったキセルを手にしたベルファルド・ロックテイラーが、目深にかぶった帽子を少し上げた。 「好奇心が旺盛な人って知識を得るだけでなく、得た知識を他人に話したくてウズウズしてるんじゃ?」 だったら興味ある素振りを見せたらいろいろ話してくれるんじゃない? ダイスを取り出し、指先で少し弄んでみせる。いざとなったら赤いダイスを当てて相手の動きを制するつもりだが、体力には自信がない。周囲を見回して優男ばかりなのに溜め息をつき、隙をついてなんとかするしかないかもしれない、と思う。 「…この本はなんだろうね? 誰がどうやって何のために。じつに興味がつきない……とか話しかけてみればどうかな」 同じ問い、同じ方向の働きかけをしたこともある。だが、それは巧みにかわされてしまっているのを正志は思い出す。 結局本は囮だろう。生皮本も、ロストナンバーも、フォンの欲望をみたすために、救出を引き寄せる手段にしか過ぎない。 『本にしたいやつならいるかもね……僕が触れた時だけ話せばいいんだ……むかつくことしか話さないから』 蘇ってくる声、フォンはベルファルドの問いを紛らしてしまうだろう。 フォンの希望は『知りたい』ということだ。どこからかやってくるロストナンバーについて、あるいは世界図書館そのものについて。そのためなら、非人道的な生皮本も利用する、けれど。 「どうしてそこまで知りたがるんだろう……たとえ知ったとしてもそれでどうするんだ…」 フォンとの関わりはいつもこのあたりで靄がかったように曖昧になる。 「そもそも、フォンはなぜ、そこまで知りたがるのか、か」 ハクアが整った顔立ちを不快そうに歪める。 「それにどこまで話していいのか」 付け加え、判断しかねて正志は唇を噛む。 「知らない方が良いことを知りたいのは生き物の性だよネー」 ワイテが再びカードを弄びながら呟いた。 「フォン君の問いには正直に答えるけど、真理に関わるようなことは忠告するヨ。あっし達の手が届かないところに飛ばされて、野垂れ死ぬ可能性もあるヨ。それでもいいのなら説明すル」 でも、旅人の約束は、とベルファルドが眉を寄せた。 「旅人の約束【現地の人間に<真理>についてなるべく話さないようにしなくてはなりません】は「なるべく」だから話してもいいよネ? たぶん話さないとフォン君、ずっと嫌がらせしそうだシ」 「信じるかな」 「信じてもいいし、信じなくてもいイ。だけどあっしが話したことは事実、そう応えるだけだネ」 「フォンがこだわっているのは、何をしているのかということもなのだろう?」 ハクアはワイテの軽い調子に眉を寄せた。 「ロストナンバーについて知りたいと言われても応えられない。だが、少女の救出に対しては、部外者の仲間を助けに来たのだ、とは応えられる。前回の依頼の時も、迷子の仲間を探しに助けに来たと告げればいい」 知りたいという気持ちはわかるが、この方法は間違っていると伝えなくてはな。 「話し合い…できるかな?」 実際に放してくれる…ワケはないよね。 ベルファルドが帽子の影でゆっくり瞬きする。 「でも……」 きっと話さなくちゃ、同じ事を繰り返すだけなんだろう。 正志は重い吐息をつく。 「生皮本を作る機械だけでも壊さなくちゃ……二度ともう作れないように」 「ここだ」 ロンが唐突に立ち止まって、顎で指し示した。 正面に巨大な金属の扉がある。扉付近に明かりが少しあるだけ、周囲は闇に沈んでいる。頑丈そうで一人二人の力では開きそうにはない。 「どこから入る」 「救出前から派手なことはしたくないが」 他に入り口もなさそうだしな、とハクアが指先に傷をつけ、流れる血で魔法陣を描こうとした矢先、ロンが静かに幾つかのボタンを操作した。ガコォオンと内側の遠くで金属がぶつかる音が響く。 「おい」 「大丈夫だ、フォンは地下だし、たぶんロストナンバーは正面のエレベーターを降りた左手の資材置き場あたりに居る」 「……どういうことかナ?」 ワイテが目を細めた。 「ロン君は極めてここにお詳しイ?」 片手でシャッフルされて動く大アルカナが、今にもロンの細首をめがけて放たれそうにも見える。 「それとも、お前も『敵』なのか」 ハクアが血に濡れた指先をロンに向けた。 「昔」 少年が冷ややかに嗤った。 「『依頼』を受けて、ここからハオを連れ戻った」 「えっ…」 「奪われるとなると同じ場所に立てこもる。子どもの発想ですよ」 「それはどういう……あっ」 正志がくるりと背中を向けたロンに叫ぶ。 「貴方は、インヤンガイにディアスポラで飛ばされた人を保護したことがある?」 そして、その人とフォンはひょっとして一緒に居た? 気づかなかったもう一つの物語が見え隠れする。 ロストナンバーの保護が遅れた場合、否応なしに彼らは現地の人間と関わるしかない。その間に現地の人間と深い絆ができてしまった場合、残された者はどうするのか。 「忘れるはずではなかっタ?」 ワイテが首を傾げてみせる。 「忘れていますよ、とっくの昔に。けれど『奪われた』という感覚だけは残っている」 ロンがふいに上空を見上げる。どこまで行っても美しい空など見えない、ごちゃごちゃとした建物が突き出し積み重なる工場街。 「大事な相手を、どこからか来た誰かに、理由もなく奪われた、と」 「……そういう感覚は…」 ファージの侵食を受け入れるんだろうか。 正志の呟きにロンは戻るまで待っています、と応じて目を閉じた。 「扉は開いたので」 普通に入ればいいよネ。 「お邪魔しまース!」 ワイテは明るく声をかけてずんずん先へ進む。確かに正面にエレベーター、しかも乗って下さいと言わんばかりに口を開いた鉄格子の入り口、大胆だな、と呆れるベルファルドに、こういうことはまっすぐ突っ込んだ方が何事もはっきりしてきますヨと、ワイテが応じる。 「で、はっきりした結果が、これ、か!」 がたん、と地下についた瞬間、ふいに襲いかかってきた黒い巨大な影に、ぎりぎりハクアの描いた魔法陣が間に合った。 「ギャアッッ!」 炎に包まれて一気に部屋の隅まで跳ね飛ばされた黒い影は、どうやら生皮本を作り続けていた暴霊らしい。ごぅんごぅんと鳴り続ける機械を守ろうとするように、すぐに体勢を整え飛びかかってくる。 「ウボァー」 ハクアが暴霊相手に次々と空中に魔法陣を描いていく背後を擦り抜け、進もうとしたワイテが気配に危うく飛び退いた。 「がふっ、がふがふっ!」 「ごあっっ、がああっっ!」 いきなり飛んできた毛むくじゃらの生皮本が、寸前までワイテが居た場所を、唸り、吠え、よだれを垂らしながら空中を噛みつつ交差した。ワイテのコートの端を噛みちぎり、忌々しそうに吐き出して同じ速度で戻っていく。その先に、 「いらっしゃいまセ~」 ワイテの声色を真似するかのように、正面に立ったフォンが笑み綻んで両手で本を受け止めた。 「おいしそうな人達で嬉しいですヨ~」 「人真似は止めなさいってバ!」 身を翻したワイテの胸近くも牙に噛み裂かれたらしく、中に仕込んでいた小アルカナが数枚散った。 「コインの8、聖杯の4、備えあれば憂いなシ、空腹の時はこれでもどうゾ!」 再び飛びかかって牙を剥く生皮本の口にジャグリングよろしく、取り出した包子を投げ入れる。 「食べ物与えたっておさまらないよ!」 暴霊とやり合うハクア、生皮本をいなすワイテの間を擦り抜けて、ベルファルドは走った。目指すはフォンの左手、生皮本と逆方向にある動物園の檻のように見える部屋、そこに一人の天使が泣き叫びながら格子に縋っている。 「説得どころじゃ、ないな」 本当はフォンに話しかけてみるつもりだった、『僕らロストナンバーは自分の世界から放り出された存在だ。だから本当は孤独だし、…みんなお互いを大切な仲間だと思ってるんだ。…だから、さ。あの子を放してくれないかな?』、と。 だが。 「こっちまで燃えそうだ」 どぅんっ、と地響きがして、機械周辺に火の手が上がる。 「うぎゃあああっ!」 暴霊が機械と周囲に積んだ生皮本に炎が回るのに悲鳴を上げてのたうった。たて続けに魔法陣で応戦し続けるハクアが、微かに肩で呼吸している。傍目には軽々と術を操っているように見えても、相手の力が想像以上なのだろう、襲いかかる影を擦り抜け、身を翻し、煌めく緑の瞳が傷みに満ちて燃える生皮本を見つめる、だが、攻撃の手は休められることがない。 「ったったっと!」 ぱしん、と倒れかけて必死に掴んだベルファルドの手が、ようやくイオンの閉じ込められた檻にかかった。 「いやあっ!」 突然の動きに、イオンが悲鳴を上げて後じさった。 「来ないで来ないでこないでえええっっ!」 背中の羽根が大きく震える。 「大丈夫だよ! 僕達はキミと同じだよ、ほら!」 ベルファルドは慌てて笑顔を作り、帽子を脱いでみせた。 「言葉が通じるかわからないけど、本心だ」 キミを護らせてほしい。 訴える視界に首を振りつつ涙を流すイオンが映る。 怖がってる? ああ、怖いよね、こんなところにいきなりあんなのと閉じ込められて、助けも来なくて、いきなり来たって信じられるわけがない、でも。 「お願いだ、僕を信じて」 「いやああああっっっっっっ!」 力の限り体を竦めたイオンが叫んだとたん、背中の羽根が大きく広がった。 「え」 次の瞬間。 「うわあああっ!」 ばしばしばしばしばしばしっっっ! 無数の羽根がベルファルドを襲う。 「な…にっ……っっ!」 数限りない柔らかな打撃、けれど目を開けていることもできないし、呼吸ができない、吸い込みかけた口に羽根が張り付いてくる。 「だ……ダイス……っ」 フォンに使うつもりだった、まさかこんなところで、こんな相手に使うとは思わなかった、けど。 必死に取り出した指で赤いダイスを弾き飛ばす。飛び散ってくる羽根にたたき落とされないでイオンに辿り着けるかどうかも微妙だけど、そこは【凶悪な幸運】に頼るしかない。 「い、け…っ」 がふがふがふと激しく咳き込みながら、ベルファルドは赤いダイスを見送る。出目は『4』、羽根の中に吸い込まれて消える微かな光に、歯を食いしばって目を閉じる。 「だめか…っ」 「いやああああんんんっっっ!」 切なげなイオンの叫びに目を開ける。と、そこには羽根を散らし、自らの白いドレスもずたずたにして身を竦めて泣きじゃくっている一人の少女。 「うわああああんんっ」 最後の反撃も効果がないと怯えきるイオンに、のろのろとベルファルドは体を起こした。檻には白い羽根が絡み付き、自分もよく見ると羽根まみれ、しかも。 「…げ」 その羽根が薄紅に色を変えて張り付いている部分の生地が焼けこげている。薄く立ちのぼる煙はその作用が現在進行形だと知らせており。 「わわわわ!」 慌てて体から羽根を払い落とし、気がついて檻をよく見ると扉近くに固まった羽根がどろどろと金属を溶かしていた。 「こんな力が……あったんだ…」 見かけだけでは計り知れない、確かに別世界の存在なのだから、想像していたものと違うことだってあり得るだろう、それでも。 扉をそっと押し開ける。イオンが真っ青になって振り仰ぐ。もっと別の攻撃力を持っているかもしれない、けど。 ベルファルドは静かに彼女の前に片膝を着いた。 「ひどい格好だよね、ボクもキミも」 ぼろぼろになったスーツの上着を脱いで、イオンの細い肩を隠してやった。 「うっ…ああああんっっっ!」 イオンがようやくしがみついてくれて、ベルファルドは小さく吐息をついた。 「はぁい、はいはイ、おいしいですかァ!」 ワイテは飛びかかる生皮本に買い求めていた食べ物とカード投擲で応戦する。 「がふっ!」 「悪いお口はこれですカ!」 袖を食い千切りかけた生皮本の口をカードで切り裂く。 「大人しくおいしいものだけ食べててくださイ!」 どすどすどす、と次々に口に詰め込まれたのは、周囲に放置されていたネジやナットの金属部品、よく見れば奇妙な形のフラスコや注射器などもあるのを、手当たり次第に襲いかかる生皮本の口に投げ入れていく。 「しかし、食べたものはどこへ行ってるんでしょうカ?」 首を傾げつつ、 「うまく躾けられたら生ゴミ問題解決ですネ!」 ワイテの動きはなおも軽やかだ。 その背後で、 「もう一発!」 「うがああっっ!」 暴霊がハクアの放った閃光に貫かれる。生皮本はほぼ焼き尽くした、機械はもう動きを止めた。これで新たな生皮本は作られることはもうないだろう。しつこく形を保ち続ける暴霊を何度攻撃したことか。 「ふ…っ」 自分の血で瞬間に空間に魔法陣を描き、攻撃を放つ、相手の攻撃を避け、なおその先を読んで攻撃を仕掛ける、その繰り返しで体力はどんどん削られていく、だが。 「逃亡の旅を思えば」 どこにも居場所の得られぬ孤独と、自らの血に縛られた運命を抱え、託された大事な命を守り続ける日々に比べれば。 「これで……終わりだ!」 絶叫を上げて、暴霊がぐるぐるした渦巻きとなり、みるみる体を薄れさせていく。その視界の彼方に、ベルファルドにしがみつくようにして檻から助け出されるイオンの姿があって安堵する。 「守れたのだな」 後は。 ハクアが振り向く先に、いつの間にか正志の前に立つフォンの姿があって戦慄する。 「きゅ、救出は成功、後は…っ」 「久しぶりだね、正志」 いつの間に。 瞬間、頭の中に過ったのはそのことばだけだった。 薄い笑み、茶色の猫っ毛、大きな瞳。 いきなりの攻撃、それぞれに飛び出していった仲間、さすがに一歩出遅れて、それでも背後からハクアが暴霊を仕留めたのは見た、ワイテがうまく生皮本をあしらうのも確認した、そして、ベルファルドがイオンを救出して、依頼は完了、後は無事連れ帰ることが最優先、だが。 「君ともう一度話せて嬉しいな」 虚ろな視線が微笑むのにぞくりとする。 こんな状況を予想していたような気がする。あの炎の書店でこの男を逃がしてから、いつかまたもう一度、この男と向かい合う日がくるような。 「逃げ…て…下さい」 掠れた声で望んだ。 「彼女を連れて……地上へ…っ」 「おまえを置いていくわけには」 ハクアの声に首を振る。 「彼は僕と話したいんです」 そうだろう? 微笑み返すが、袴の中の膝ががくがく震えている。 「僕も彼と話したい」 「エレベーターは健在、動くよ?」 フォンが正志を見つめたまま、エレベーターを指差した。 「その子にもう用はない、いらないなら置いてってくれてもいいけど」 「そんなことできるものか」 ベルファルドがしがみつくイオンを引き寄せる。 「はい、これでごちそう終了、おつかれさマ!」 ぐしゃっ、と最後の生皮本が地面に叩きつけられた。 「あっしもそんなことできませんネ」 ワイテが胸から落ちかけた小アルカナを見下ろす。 「聖杯の7、ここで終わりにはならないってこト」 「……行かない、と言ったんだ、あの日、ハオは」 「…フォン?」 「なのに……連れ去った、彼女みたいに、容赦なく……何の権利があって?」 「フォン……」 どろり、と流れ出したのはぬるぬるした黒い液体だった。息を呑む正志の前で、フォンの見開いた瞳から溢れ落ちるそれは、涙であるはずだった、のに。 「君達は何だ」 「フォン、それは」 「君達は何をしている」 「それは一体……っ」 工場を焼く炎の風に揺れたフォンの髪が揺れる。右側の顔がふわりと露になって、正志はことばを失う。 焼け爛れた、傷。潰れてしまった目。 「その傷は、いつのものだ」 ハクアの声が響く。 「ハオのために失った目だ」 突然、インヤンガイに現れて、殺されかけていた。 「関わり合うつもりなどなかったのに、巻き込まれた僕を庇ってくれて、彼も大怪我をした…その傷を癒したのは僕なのに?」 フォンが顔を歪める。 「君達は、何の権利があって、世界を侵す」 「それは違う…」 「違わない……僕は知っている……小さな街で仲のいい兄妹が居たことも」 「え…?」 「兄は妹を愛し…妹は兄を慕い……そこへあれがやってきたんだろう? コートを翻して……妹に兄を殺させ………街を荒廃に追い込んだ」 「……それって」 正志の脳裏に蘇る数々の報告書、その中にあった、館長捜索の一連の報告。 「まさか…」 「君達なんだろう……」 にいっ、とフォンは嗤った。 「君達が……世界をおかしくしているんだろう………だから……僕は……この街がおかしくなった時にすぐわかった………この街もあそこと同じように廃墟にしてしまうつもりなんだろう……」 どろどろと黒い涙が流れ続ける。 「君達のことを知り……君達を防ぎ………君達を消し去らなくちゃ……ナラナイ……そうでないと………僕の街が………世界が……オカシクなる……って……あの人も……あの人も……」 かふん、とフォンは妙な咳をした。 その唇からつうっ、とまた黒い液体が流れ落ちる。 「フォン……っ?」 「……まさし…ぃ……この世界を……変えなくちゃ…ナラナイ……んだぁ…」 「正志!」 ハクアの叫びに、今にもフォンに肩を掴まれそうになっていた正志ははっと我に返った。体を引く、と同時に、ハクアの放った風の魔法が一瞬にしてフォンを拘束するように取り巻く。 「どうして……連れて……クノカ……あの人は……君達は……はおを……ヒドイ目に……あわせてる…って……あの人は……僕の耳元で……世界の秘密…だよって……ああ」 フォンはハクアの魔法に縛られていながら、がくがくと奇妙な動きでずり落ちるように擦り抜けていく。 「ハクア!」 「く、そ」 体力切れか。 悔しげに呻くハクアの前でフォンがずるずると座り込み、耳を押さえる。 「耳が……イタイ……何か……ササッテ……るんだ……早く……世界を……変えなきゃ……ハオが……マッテル……」 「フォン! どうしたんだ!」 「正志、近寄るな!」 「でも、これは」 おかしいよ! 正志がハクアに掴まれた腕を振りほどこうとした瞬間、ぬらん、とフォンが立ち上がった。そのまま正志に覆い被さろうとする、とっさにワイテがカードを放つ、正志の首を掴もうとした腕をすっぱりと切り落とす、だが。 ぼたぼたぼたっっ。 「っっっ!」 滴ったのは血液ではなく、真っ黒の粘りのある液体。しかも切り口からそれを滴らせながら、フォンは切り落とされた腕を拾う気配もなく、満面の笑みを浮かべる。 「ろぉん……ふぇいぃ……世界は……変えなくちゃ……ならない……んだ………ぁ」 「マン、ファージ!」 唸った正志に背後でエレベーターを作動させながらベルファルドが叫んだ。 「早く乗れ!」 四人とも疲労困憊している、イオンも抱えて、このまま戦い続けるのはあまりにも不利、だが。 このままに、しておくことは、できない。 「報告しなくちゃならないっ」 正志は歯を食いしばった。 「まさ…しぃいいいい……」 「く、そおおおっっ!」 すがりつこうとするように揺らめいて近寄るフォンから、間一髪、背後のエレベーターに滑り込む。鉄格子が閉ざされる、その向こうで、フォンが満面に笑みを浮かべて四人を見上げる姿が、一気に下方に流れていく。 「あいつは何を話していたんだ」 「……たぶん」 フォンはマンファージになっている。だが、それだけではない、奇妙なことも口にしている。 地上へ戻り出したエレベーターの中でへたり込みながら、正志は必死に思考をまとめた。 「元々、フォンのところに、ロストナンバーが居たんです…」 そして、依頼を受けたロストナンバーが出向いて、保護した。その時にフォンかロストナンバーか、どちらかが同意しなかったのだろう。無理矢理に引きはがされるような状態になって、フォンは『助けてくれる人達』に疑いを持ち始めた。 「僕達について情報を得ようとして果たせなかった」 不審が募っていた、その矢先。インヤンガイでの大規模な捜索が行われた。対象は暴霊によって廃墟となった場所。 「そこに住んでいた兄妹を知っている、と言ってた」 愛していた兄を妹が殺し、その魂が人を襲っていた事件。 「フォンはそれら全てが僕達のせいだと思い込んだ」 人を狂わせ、街を滅ぼし、自分達の世界を破滅に追いやっていく『助けてくれる人達』とは何だ? 何をしている? カレラハ、ダレダ。 カレラヲ、アバケ。 フォンの体に巣食った黒い闇の声。 「それが何かのきっかけで……暴走し始めた」 「きっかケ?」 「……耳に何か刺さってる……って…………」 正志はのろのろと周囲を見上げた。 「何でしょう?」 エレベーターが地上へ着いたとたん、すぐに呼び戻されていくのに四人は顔を引き締める。 「まだ生きてるってことだよね?」 イオンを抱えたベルファルドが目を細める。 「マンファージだからネ」 そうそう簡単に死なないネ、とワイテ。 「追撃が必要になる」 ハクアがつぶやき、正志を見下ろす。 「刺さってる………」 正志は耳に手を当てる。 「何が?」 ひょっとして、それがフォンを暴走させた、もの? 「ロン!」 「ご無事で、とは言い難いようですね」 待っていたロンに、正志は叫んだ。 「世界図書館に早く!」 正志は知らなかった。 それは、この先に襲い掛かってくる脅威の、ほんの小さな前触れにしか過ぎなかったのだ。
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