波の音だけが淡々と繰り返される静寂の砂浜、それに覆いかぶさるようにして、夜闇は孤島の空を満たしていた。 ただ、ただ、ひたすらに、静かな夜。孤島を覆う真黒い空の一点が、音もなく光った。星よりも幾らか大きさのあるその光が群れる星々に紛れて、ぽつんと浮かんでいる。 光は走った。暗闇の中、真っ直ぐに何処かへと走っていく。 住人もわずかにしか存在しないその島に、異形の来訪者が現れたのはそれから数刻後のことだった。* * *「ブルーインブルーに、ファージ出たらしい。……退治頼む」 板チョコを齧りながら、湯木はごくシンプルに依頼の内容を説明してみせた。手に巻いていた包帯にチョコの染みがついてしまったのを気にしながら、先を続ける。「場所、二十人規模ん村が一個あるだけの小さい島じゃ。その南の砂浜に居ついとる」 砂浜にファージ変異獣がいる。ということは、ロストナンバー達はジャンクヘブンから船で島に行き、到着次第その足で島の南側へ向かうことになるだろう。また、砂浜が戦地とすると、多少砂に足がとられてしまうようなこともあるかもしれない。「付近に生息しとった海魔に寄生しとるけェ、強い。苦戦するかもしれんの」 左手に持った導きの書に視線を落とす。そこに綴られた文字列をゆっくりと目で追い、再びロストナンバー達全員を見渡した。「寄生した海魔は、でかいヤドカリ。全長十五メートル程じゃ。現地では砦蟲とか呼ばれとっての、体と貝は相当硬い。ほんでたぶん、変異したヤツ以外の個体も襲ってくる」 鎧のような体に硬質の貝殻を背負う海魔の肉体を穿つのは、並大抵のことではない。それがファージ変異体以外も襲ってくるというのだ。先程湯木が述べたとおり、苦戦することは充分想定しうる状況と言えるだろう。「人的被害はまだ出とらんが、島は小さい。いつ被害出てもおかしうないわ。じゃけ、気張ってこい」 湯木はチケットをロストナンバー達に配り終えると、残っていたチョコの破片を口内に放り込む。その視線は、説明が終わったにも関わらず未だ導きの書に落とされていた。 * * * 濃厚な塩の臭気。緑と黒が斑に入り混じる砂浜は、臭気とあいまってそれ全体が腐り果てたかのようである。その腐敗は打ち寄せる波にも不快な色を撒き散らし、その領域を広めようとしているようだった。 その汚れた砂に埋もれるようにして、幾体もの砦蟲達が居座っていた。巨大な巻貝が並ぶその様は砂の浜に突然遺跡でも現れたかのような光景を作っている。 そしてその砦蟲達の群れの奥に、ファージ変異獣と化した砦蟲が鎮座していた。現在の砂浜と似た色合いをした貝殻と、赤茶色の体。その至る所から半透明の触手を幾本も生やし、獲物を探すようにそれを周囲に這わせていた。 じゃり、とすぐ近くで砂を踏む音がすると、触手は一斉にそこへ向かって鞭のように飛んでいく。目標にかわされ、砂の地面を強く叩くと、標的を見失った触手はするすると元のように戻っていった。 異形は、腐敗の浜で悠然と獲物を待ち続ける。
木々を切り開いた広場に幾つか並び建つ小さな家屋の戸は、暗雲たち込める空を恐れるようにどれも隙間なく閉ざされていた。侵食されつつある浜の臭気が音をたてて吹く潮風によって村まで運ばれ、そこへ到着したロストナンバー達の鼻腔を刺激する。 「うわー、ひっどい臭い」 「そうね……服に臭いが残らなければいいのだけど」 日和坂綾は眉の間におもいきり皺をよせ、げんなりとした様子で鼻を押さえている。レナ・フォルトゥスも不快げな表情で彼女に同意した。しかし紡いだ言葉とは裏腹に、レナの瞳には深刻そうな色が浮かんでいる。 「……ついに、と言うべきなのかしら」 「え?」 レナの呟きに、日和坂は鼻を押さえたまま視線を彼女へと送った。レナの目は村の向こう、ファージ変異獣が現れた浜の方角に向けられ、そこから逸らされる様子はない。その呟きは、隣に立つ日和坂に語りかけたものなのか、それともただの独り言なのか。 「ここにもファージが出てきましたわね。それも、強力な海魔にとり憑いて」 ファージによる浸食はこれまでも幾つか観測されてきたが、その多くは壱番世界だった。少なくとも、レナの知る限りは。 「放置すれば、人類に損害をもたらす。早めに駆除したほうがよろしいですわね」 ファージ変異獣を駆逐しない限り、人的損害は避けられない。レナが今見据えているのは、これから戦う敵のねじろだ。被害を出さぬため、早々にファージを狩る。その意志は揺るぎないものだった。 「そうだね、ちゃっちゃと解決しちゃおう! で、そのために」 日和坂は持ってきていた大きめの鞄を一度地面に降ろし、中をごそごそと探り始める。その様子をレナが首を傾げつつ眺めていると、日和坂はやがてメモ帳のようなものを取り出して腕ごと振りあげるようにしてそれを高々と掲げた。 「敵のこと、調べてきました!」 「調べたって、今回の海魔の資料を?」 「というかー、ヤドカリのこと」 パラパラとメモ帳を捲る日和坂の手元を、レナが覗き込む。 「成体が陸上生活するとことか、壱番世界のオオヤドカリに近いんじゃないかなーって、それで……」 そうして二人はこれから遭遇するファージ変異獣への対策を話し合い始めた。 レオンハルト=ウルリッヒ・ナーゲルは結界を張りながら、村を軽く巡っていた。島の異常を恐れてか、住人達は皆家屋に篭っているようだ。ときおり家屋の窓から様子を伺うような視線が注がれるのを感じつつ、レオンハルトは歩を進める。ここで時間を消費している暇もあまりない。この様子からして、住民達が自らファージ変異獣に近付くことはないだろう。そういった事態さえなければ、村の結界だけで彼らの安全は確保できる。結界を完全に張り終えると、レオンハルトは待たせていた女性陣のもとへ戻ってきた。 「あ、おかえりなさーい!」 かけられた台詞にとくに返事をするでもなく、レオンハルトは二人の目前で足を止める。 「用は済んだ。行くぞ」 「そうね……しだり君だったかしら? 彼ももう先に着いてるかもしれないですしね」 島に到着してすぐ別行動となった彼一人、先に戦わせるのは危険だ。三人はその足で真直ぐに村の目先にある浜辺へと向かった。 水神の一族であるしだりにとっては、地上を歩くよりも海を行く方が落ち着くらしい。彼は孤島に到着してから一人海中に潜り、ファージ変異獣の発生した砂浜を目指している。 海中を進みながら、しだりは既に海の異変に気づいていた。平時ならば穏やかに感じるはずの水の感触。それが今は、しだりに対し悪意を持っているかのようにピリピリとした感覚を与えてくるのである。 「……早く、戻さないと」 調和を保ち、美しくあり続けるはずの自然が歪められていることは、しだりにとって許しがたいことであった。ファージがその原因となっているのならば、早くそれを排除しなければ。 しだりは、南を目指す。ますます穢れの強くなる海中を進む。そして彼はやがて、どす黒く染まってしまった醜い海の姿を目にするのだった。 浜に一歩、足を踏み入れただけでその濃縮された潮と腐敗の臭気はロストナンバー達の嗅覚を支配する。その浜の姿は、既に元来のそれを失い、ただ巨大な砦蟲の貝だけが幾つも幾つも並び聳える腐りきった不毛の地と化していた。 「数、すっごく多いね……しかも今まで以上にくっさいし!」 「だが、やるしかあるまい」 日和坂のいくらかげんなりした声色に対し、レオンハルトは怯む素振りなどまったく見せず砦蟲の群へ直進した。接近する者の気配を感じとったのか、砦蟲達も緩慢な動作で貝殻から顔を覗かせ始める。 「あたし達も、行きましょう」 「う、うん! よーし、やるぞ! 準備はバッチリしてあるんだから、覚悟しろーヤドカリ!」 日和坂は気合を入れ直すと、鞄から鉈と何か厳重に包装された謎の物体を取り出す。 「生態系破壊活動ごめんなさーいっ!」 叫びながら砦蟲の群へ突入する日和坂の後にレナも続く。すでに今のところ視界に納まる範囲にはファージ変異獣はいないようだったが、ほとんどの砦蟲は既に貝からその巨体を現し、群に現れた侵入者達を威嚇するように鋏を構えていた。 いち早く群の中へ突入したレオンハルトに向けて、一匹が鋏を振り下ろす。その動きは愚鈍そうな外見に反して素早く、鋏は標的の立っていた場所へ正確に叩きつけられた。瞬時に身をかわしたレオンハルトは眉一つ動かさず、その動作を観察する。砂浜という足場の安定しない場所にも関わらず、鋏をかわした彼の動きには一切の無駄がない。宙へ浮遊することのできるレオンハルトには、足場がなんであろうと問題なく動けるのだ。背後から迫ってきた別の砦蟲が鋏を突き出してくるのも難なく回避したが、そこへさらに三匹目が接近してくる。そうして複数の砦蟲に囲まれた状態から鋏の猛追を避けつつ一度離脱した。 「……なるほど、数の多さはやはり問題か」 レオンハルトがゆるりと片腕を持ち上げると、その手首から紅い液体が霧状に噴出する。彼の血液が創りだす紅い霧は周囲の砦蟲達を覆い尽くし、やがて、弾けるような音と共に幾つもの閃光を放ち始めた。閃光が起こる度、霧内の砦蟲達は悶えるように手足や鋏を振り回し、互いに衝突を起こしたりと、急な現象に翻弄される。 血の万魔殿――レオンハルトは自身の血に雷や嵐を司る魔を宿らせ、砦蟲達を捕縛したのだ。砦蟲達を覆う紅い霧は、雷鳴を幾つも轟かせて彼らの動きを鈍らせ、体力を奪っていく。 「なにアレすっごい! でも、私だって……漢探知、行っきまーす!!」 日和坂の手に握られているのは先程鞄から出した鉈と、謎の紙包み。何重にも梱包されたそれを強引に破り、中から取り出したのは、大量の魚の干物。謎の包みに封印されていたのは、数十年から数百年かけて魚の成分を熟成させた独特の臭気を持つ液体に鮮魚を漬けこんで天日干しする食品だった。 「く……臭いっ! ただでさえここ臭いのにさらに臭い!!」 つまりクサヤである。日和坂はファージに侵食された砂浜の腐臭に追加された強烈な発酵臭に耐えながら、大量のクサヤのうちの一枚を右手に構え――投げた。 投擲されたクサヤは、一番日和坂と距離の近かった砦蟲の顔面にぺちっと命中する。砦蟲は嗅覚を司る細長い触角でクサヤを探り、とりあえず変な臭いがするところを砂地を抉るように巨大な鋏で挟む。ファージ変異獣が擬態している様子がないことが分かると、日和坂はさらに何枚ものクサヤを取り出した。 そのクサヤを、砦蟲達向かって投げまくる。巨大な鋏があちこちで振り回される中を、日和坂は走りぬけていく。 「ファージどこだーっ!!!」 そんな体を張ったファージ捜索を行う彼女自身に向けても、容赦なく砦蟲の鋏は襲いかかる。日和坂は回避のために体を捻らせながらもとっさに鉈を持ち直し、鋏の関節めがけて反撃した。しかし標的が大きいとはいえ、勢いよく振りまわされる鋏の関節を正確に狙うのは至難の業だ。鋏は鉈を弾き返すと、もう一度日和坂めがけて突進する。 「ファイアボールッ!」 そこへ、レナの放った炎弾が命中した。鋏はその突如くらった高熱の塊に驚いたように引っ込められる。怯んだ瞬間を狙って、そこへさらに彼女のメガ・ファイアボールが何度も叩きこまれると、砦蟲は巻貝の中へと引っ込んだ。 「レナさん、ありがとう!」 「どういたしまして。それにしても、やっぱりあの殻は邪魔ですわね」 先程貝へ閉じこもった砦蟲はそれきり動く様子はない。あの殻をどうにかできれば、砦蟲は一気に弱体化するだろう。レナは不敵な微笑を浮かべると、呪文の詠唱を始める。言葉を紡ぐほどに、彼女の星杖に施された宝石やクリスタルは輝きを増していくようだった。 「――キロ・アシッド=レイン!」 詠唱を終えると、上空に黒い雲が立ちこめ始める。黒雲は徐々に広がり始め、そこから一斉に雨が複数の砦蟲に降り注いだ。強酸の雨を受けた砦蟲達の巻貝や体を覆う殻は、焼けるような音をたてながら溶かされていく。 「これで、少しくらい熱が通るようになっていれば……!」 レナは先程巻貝にこもった砦蟲に向けてオーブントースターの呪文を唱える。脆くなった身体で高熱にいつまでも耐え続けることなど、できるはずもない。巨大な鋏が黒い砂上に落ち、鈍い音が浜に響く。横たわる砦蟲が再び起き上がることはなかった。 「おおー、これなら鉈でもいけそうかな!」 日和坂は漢探知を再開すべく、鉈とクサヤを手に意気込む。抑えられることのない発酵臭にレナが眉を顰めているのには気づいていないようだ。 しだりが浜に到着した頃には、戦闘は既に始まっていた。既に数体の砦蟲の遺骸が横たわっているのを見るしだりの目はどこか悲しげである。海魔とはいえ、ファージ寄生獣に操られているだけの砦蟲は、彼にとって倒すべき相手ではない。海魔もまた、この島に存在する自然の一部なのだ。これ以上自然が歪められていくのを見るのは、しだりには耐えがたいことであった。 脚部はまだ海水に浸りながらも、しだりは念を込める。すると、海水が踊るように湧き立ち、砦蟲達に向かってうねりながら何本もの筋に分かれて飛んでいく。水流は砦蟲一体一体に覆いかぶさると急速に粘度を増し、彼らを地面に張り付けてその動きを封じた。そこへさらに海水を浴びせ、巨大な水球に砦蟲達を閉じ込める。 「少し、避難してて」 刹那、閉じ込められた砦蟲が水球の中から姿を消す。一体目が消えてから、次々と海水に包まれていた砦蟲達がいなくなっていく。しだりは決して砦蟲達を倒したのではない。消えた砦蟲達は、ファージ変異獣の支配が及ばないほどの距離の海中に転移されていた。ファージの影響さえなくしてしまえば、砦蟲達を倒す必要などない。 そうして、腐敗した浜にあれほど並んでいた巻貝の主達はその数を徐々に減少させていった。 襲いかかる砦蟲の鋏や脚を鉈でやりすごしつつ、日和坂はなんとか逃げまくりながら、クサヤを撒き続けていた。ファージ変異獣には、通常の砦蟲とは異なる特徴がある。決定的に異なる特徴が露になれば、倒すべき標的は一体に絞ることができるはずだ。 そうしてまた一枚、クサヤが投げられる。しかし、そのクサヤは砦蟲に当たることも、放物線を描いてそのまま地面に落ちていくこともなかった。干物は、なにか細長い物体に殴られて吹っ飛んでいったのだ。 「――発見!!」 伸びてきた触手が戻っていく先を辿っていけば、どの個体から出たものかは明白だった。日和坂は一体の砦蟲を見失わぬよう目線を固定したまま、急いでカラースプレーを取り出す。 もうクサヤを撒く必要はない。カラースプレーを右手に、日和坂は目標の砦蟲に接近する。しかしそれに駆け寄ろうとする彼女に、白っぽい半透明の触手が幾本も襲いかかってきた。その数は決して容易に避けきれるものではない。特に、足場の悪い砂浜では。 だが、その触手は彼女には届かない。日和坂へと触手達が到達する前に、一本の水流がそれらを蹴散らしたのだ。一瞬、その水流が飛んできた方向に視線を寄越すと、やや離れた波打ち際に立つ青い少年の姿がある。彼はもう、日和坂の方は見ていないようだったが、この方向に水流を放つ者がいるとしたら間違いなく彼だろう。 日和坂は、触手達が蹴散らされた隙をついて一気に標的との距離を詰める。そして、その巨大な巻貝に向けて、スプレーを噴射した。 「目印完了! みんな、ファージ変異獣はこいつだよっ!!!」 赤い染料で、「フ」と書かれた砦蟲は両手の鋏を振りあげ、ロストナンバー達を威嚇するように地面を殴り付けた。 ファージ変異獣の居所が判明した頃には、浜にいた砦蟲の数は最初と比較して半分程度にまで減っていた。その中のさらに半分以上はレオンハルトやしだりによって身体の自由を奪われている。 「ようやく、姿を現したか」 「レオンハルトさん!」 彼の手首から、また血の雫が伝い始めた。それは指先から砂地に落ち、血溜まりとなって紅い領域を広げていく。やがて、その水面が揺れ、湧き、波立つ。ずるりと、艶やかな鱗に覆われ、指間には水掻きのある異形の腕が這い出す。ずるり、ずるり、と、腕のもう片方も形を得、さらに蛙のように大きく避けた口を持つ魚のような頭部が現れる。首と思しき位置には湿った裂け目があり、呼吸するように開いては閉じるの動作を繰り返していた。半人半魚の魔はレオンハルトの血溜まりからその全身を引き出すと、水面から離れ、ファージ変異獣の方へ歩き出す。それと同時に、血溜まりからは先程と同一の形状の腕が這い出し始めていた。 「〈深き者〉――進め、その身を捧げろ」 〈深き者〉、それが血溜まりから次から次へと現れる半人半魚の魔の名だった。彼らは、どこか覚束ないような足取りでゆっくりとファージ変異獣を取り囲む。その身体へ辿り着く前に、何体かは鋏で薙ぎ払われ、何体かは触手によって弾け飛び、何体かは、魚の臭気を持つ故か、ファージ変異獣に喰われていた。それでも絶えず〈深き者〉はレオンハルトの血を媒介にその数を増やし、ファージ変異獣に群がっていく。 「随分、気色の悪い光景ですわね」 レナは、少しでもファージ変異獣の動作を鈍らせようと、グラビドンの呪文を唱える。強力な重力がかけられると、ファージ変異獣の鋏や触手は確かに鈍っていくようだった。 「よーし、畳みかけるよ! エンエン、火炎属性ぷりーず! 狐火操り火炎乱舞ッ」 そこへさらに日和坂の肩から飛び降りたフォックスフォームのエンエンが首の炎を燃え上がらせ、火炎弾を連続で飛ばす。レナもそこへアシッド・ウォータガンをぶつけて貝や殻の耐久性を削っていく。 しかし、ファージ変異獣の動きはまだ封じきられてはいない。一歩ずつ、ロストナンバー達に向かって前進を始めたのだ。ゆっくりと鋏を振りあげ、そして――下ろされる。その速度は、威力は、下向きの重力がかかっているが故に、先程よりもさらに威力を増していた。その衝撃はロストナンバー達の足元まで伝い、〈深き者〉達やエンエンの攻勢を崩す。そこへさらに幾本もの触手が伸ばされ、地に立つロストナンバー達を狙い、降ろされる。 なんとかそれらを回避しても、地に触手が叩きつけられる度、黒い砂が巻き上げられてロストナンバー達の視界を妨げる。そこへさらに触手が襲いかかり、彼らを追い詰めていく。既に〈深き者〉達も大半の数が削られていた。 「これは、ちょっと、きつ――ッ!」 「レナさん!」 必死で避けるうち、レナは砂に足をとられて転倒してしまった。その隙を狙って、触手が彼女のもとへ集まってくる。それらが一斉に振り下ろされる直前、厚い水の膜が彼女を覆った。下ろされた触手達はその膜に衝突し、弾き返される。 「……下がってて」 その声は、レナ達の後方から聞こえたものだった。波打ち際、しだりの立つ周囲の海面は湧き、幾つも枝分かれした水流がファージ変異獣に向かって一直線に飛ぶ。超高圧で放たれた水流は、レナの魔法により脆くなってきていた殻の一部に穴をあけ、ファージ変異獣にようやく見て分かるほどのダメージを与えることに成功した。 ファージ変異獣は大きく身じろぎながらも、まだロストナンバー達に対する攻撃の手を緩める気などないようだ。体勢を立て直すと、再び数えきれないほどの触手達を宙に揺らめかせる。 「丈夫にも程があるでしょ、こいつ!」 「だが……もう充分だ」 げんなりと肩を落とす日和坂の脇を、レオンハルトが通り過ぎる。彼は一人、ファージ変異獣の目前に進み出た。にわかに、彼の髪が波打つ。得体のしれない、普段のレオンハルトとはまったく異なる気配が、出現していく。 「燃えよ。その身に取り込んだ我が血が、汝を殺す」 語る彼の表情は、目前の異形を嘲るような尊大な笑みで満たされていた。ファージ変異獣は彼に向けて一斉に触手を放つ。しかしそれがレオンハルトに届く前に、異変は現れる。 まず、鋏の関節から、炎が噴き出す。次は足の付け根、触角の根元、口、そして、貝の入口から業火が噴出し、ファージ変異獣の全身を覆う。先にファージ変異獣が口にした〈深き者〉達は、全てレオンハルトの血から生まれいでた者である。喰われ、体内で元の血液に戻ったそれを地獄の業火に変え、体内からファージ変異獣を燃やしつくす。それを可能にしたのは、〈無価値の名を冠する者〉の力――封印すべき者、封印すべき力、それによるものである。 燃え盛る炎の中、地響きと共に、巨大な生ける砦は崩れ落ちた。 ファージ変異獣が倒れると腐りきっていた浜は元の姿を取り戻し、今はただ静かなさざ波の音だけを響かせている。しかしながら、その随処には砦蟲の死骸が横たわり、今回の事件の傷跡を残していた。 しだりは無言で動かぬ殻を撫で、その哀れな姿を見上げている。 「ね、しだりも一緒に貝殻撒かない?」 明るい調子で声をかけた日和坂に、しだりは首を傾げた。 「貝殻……? どうしてそんなの撒くの?」 「ヤドカリの生息数は、基本的に貝の存在数で決まるんだって。だから見える範囲全滅させても、ゾエアから育って行くと思う…物凄く時間かかるかもだけど」 調べてきたことを、日和坂は胸を張って説明する。その意味をまだ理解しきれていない様子のしだりに向かって、にかっと笑ってみせた。 「つまり、貝殻撒いとけば砦蟲が増えるかもってこと!」 「……そう。じゃあ、しだりも撒く」 そうして二人で巻貝を浜に撒き始めた微笑ましい光景を眺めながら、レナはまだどこか腑に落ちないといったような表情を浮かべていた。 「気になるか」 「ええ。何故、今になってファージが発生したのかしら。最近ファージに関する依頼は少なかったのに……しかも、こんなところに」 それも、壱番世界でなくブルーインブルーに。それが、レナには引っかかっているようだった。 「だが、<ディラックの落とし子>はどの世界群にも属さない。ファージ型の落とし子がいつ、どこに現れたとしてもおかしくはないだろう」 レオンハルトの言葉に頷きながらも、なにか言葉にならない不安を感じているのか、レナの表情は晴れない。 それでも。ただ、ただ、波の音はロストナンバー達をゆるやかに包んでいた。 【完】
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