(あの古木戸の向こう側。ふたりでいつもサンドイッチを食べた場所) そこでお茶会を開くのだと、アリッサは言った。 館長に、すべてを話してもらうために。 夜の帳が降りた、0世界。『ホワイトタワー』に向かう一行を、気づかれぬよう見張っていた、ふたりの男がいる。 特徴的な、『魚』の意匠と『蛙』の意匠の服――《赤い城》のフットマン。 小さく頷き合った彼らは、あるじに告げるべく、スワローテイルを翻す。 † † †「レディ・カリスから、お茶会の招待状をお預かりしました。10通以上ありますが、……本物です」 赤い薔薇の刻印が押されたペールブルーの封筒を、リベルはテーブルに並べた。「本物」とわざわざ念を押したのは、以前、アリッサ救出のために招待状を偽造したことがあるからだ。 リベルの表情は硬い。 静謐な瞳も落ち着いた声のトーンも、ふだんと変わらないように見えるのだが、激しい動揺を隠しているような、身体の震えを無理に殺しているような、不自然さがあった。「お茶会の会場は、壱番世界のイングランドへ向かう、ロストレイル6号の食堂車です。その席上にて、今回の依頼における作戦会議をお願いいたします」「ちょ、リベル姉さん」 図書館ホールに集まったロストナンバーの中には、シオンもいた。彼は今回、招待客として参加するつもりだったのだが、穏やかではない流れに、怪訝そうに口を挟む。「そういうの、『お茶会』じゃなくて、『冒険旅行』って言わね?」「冒険旅行ではありません。これは、お茶会の体裁を取った、トレインウォーです」 ――ざわり。 ホールの空気が、さっと緊迫した。「すでにご存知のかたも、いらっしゃるかもしれません。館長代理……、いえ、アリッサ・ベイフルック嬢は、協力者を募って『ホワイト・タワー』を急襲し、収監されている館長を拉致し、イレギュラーな手段を用いて壱番世界へ移動しようとしています。また、同時期に募集が行われたヴァン・A・ルルーさんの依頼内容もいささか不穏ですが……、これは保留としましょう。」 絞り出すように、リベルは声を放つ。「ホワイトタワーから館長を連れ出すことに同意したのは、李飛龍、百田十三、ラス・アイシュメル、マフ・タークスの4名。そして、コレット・ネロ、ベルダ、ティリクティア、三ツ屋緑郎の4名が、アリッサ嬢と館長をアーカイヴの遺跡へ送り届けることに協力する模様です。世界図書館の許可をいっさい得ずに行われた一連の行為を、レディ・カリスは反逆とみなしました」「……でも、アリッサのそれって、何か理由があるんだろ?」「その是非をも含めて、事情を問いただすため、いったん彼らの身柄を拘束するという方針です。皆さんは、ロストレイルで彼らの移動先に先回りしていただき、そして」「アリッサたちがおとなしく捕まるはずねぇよ。まさか、抵抗したらロストレイルの武器を使うんじゃないだろうな?」「……トレインウォーとは、そういうことです。反逆者を足止めするための威嚇射撃等は、十分あり得ます」「ふざけんな!」 シオンはテーブルを叩く。「そんな依頼、誰が受けるかよ! 本当はリベル姉さんだってアリッサたちが心配なはずだろ? そんなにレディ・カリスが怖いのかよ」「……はい。とてもおそろしいです。あなたは、あのかたの本当のおそろしさをご存知ないのです」 ふっと目を伏せたリベルの、肩がかすかに震える。「トレインウォーでは、世界司書が指揮官として派遣されますが、今回の担当司書は、事実上、カリスさま側の人質です。一挙手一投足を、ふたりのフットマンと4人のメイドに監視され、ひとことも言葉を発することは許されません。あやしい動きをしたら最後、命の保証もありません」「なんだって……?」「おそらく、ほとんどのロストナンバーがあなたと同様のお気持ちであることを、レディ・カリスは見抜いています。依頼を受けるふりをして裏をかき、土壇場でアリッサ嬢の味方をするであろう可能性を」「裏切りを許さないための人質ってことか。担当司書は誰なんだ?」「名も無き司書。あなたもよくご存知の、『無名の司書』と呼ばれている女性が、今回の指揮官です」「……な……!?」「カリスさまは、私を指名したのです。ですが――」 どんどんどん。どどんどん。 たのもー! カリスさまぁー! お話がありまーす! リベルが呼び出しを受け、招待状を預かり、担当司書の指名を受けたと聞いてすぐに、無名の司書は単身《赤い城》に乗り込んだのだそうだ。 最初、無視していたカリスは、まるで休業日のカフェの扉を叩くような遠慮のなさで正門を殴りつけノッカーを鳴らし続ける司書に辟易し、その言い分を聞くことにした。 ――いくらリベル先輩がお気に入りだからって、あんまりいじめないでください! ああ見えて、かわいくて女の子らしいひとなんですよ。人質が必要なら、あたしがやりますんで。 ――落ち着きに欠ける騒々しい司書を、お茶会の席に招きたくはないわ。今回の担当司書の条件は『トレインウォーの間、ひとことも言葉を発しない』ことよ。リベル・セヴァンならばそれが可能だけれども、あなたにできるかしら? ――うわ。そんなの絶対無理です。でも、一定期間喉をつぶせば、あたしでもいいってことですよね? 薬に頼ってでもなんとかします。 ――そうね。でもそれは最低要件に過ぎないわ。行動いかんによっては、命の保証もできかねるのだけれど? ――あー、はい。でもあたし、思い残すことって、あんまりないし。好きなひとたちには片っ端からプロポーズしてきたし、なんだかんだでみんな、優しかったし、今まですごく楽しかったんで。「そして、彼女はその場で、携帯していた擦り傷用の塗り薬を、飲んだいうことです。ヴォロス産の、麻酔効果のある薬草が原料で、飲んでも毒にはなりませんが、一定期間喉が麻痺して、声がでなくなるという」「……おれが調合したやつだ。姉さんドジで、しょっちゅう転んで、子どもみたいに膝小僧すりむいてっから、わざわざ持たせてやったのに……。変な使い方しやがって……。もう、作ってやんねぇからな」 畜生、と、シオンは声をくぐもらせた。「お聞きのとおりです。依頼内容は、以上になります。断ってくださっても、もちろんかまいません。……そして、任務遂行とは直接関係ありませんが、ひとつだけ、私個人からのお願いがあります」 一同を見回してリベルは息を吸い込み、一息に言う。「館長や世界図書館の動向にまったく関心のないかたも、多くおられるでしょう。そういった考えを否定はしませんし、ある意味、自然な気持ちであろうとも思います。ですが、たとえ、内心でそう思われていたとしても、『館長がどうなろうと、世界図書館が何を企んでいようとどうでもいい。自分には関係ないし興味もない』とは、どうか、言葉に出してはおっしゃらないでください。それはアリッサ嬢だけでなく、私たち世界司書にとって……、何より、関わったロストナンバーたちにとって、非常に残酷な言葉なのです」 † † † ロストレイルの12の車両は、12星座に対応している。 北海道遠征の1号は、防御にすぐれた機体である「牡羊座」。 謎の軍隊を追跡したときの8号は、遠距離射撃武器を装備した「さそり座」。 壺中天クエストに使用した11号は、高性能な電算精密機器を搭載した「水瓶座」。 そして、今、ホームに停車中の6号は、「おとめ座」。 正義の女神、おとめ座は、世界図書館の公式行事に使用される。12の車両中、最も華麗な内装を誇り、食堂車のメニューとサービスは、一流レストランにもひけをとらない。 そして、他の車両同様に、相応の武器も搭載している。 正義の女神は、戦いの女神でもあるのだ。 なじみ深い羽ばたきの音と、舞い落ちる青い羽根に、シオンは天を仰ぐ。 青いフクロウはホームを旋回し、人型となってシオンのそばに降り立った。「店長」「店は閉めてきた。とてもじゃないが、通常営業が可能な心理状態ではないからね」「乗るの? ロストレイルに」「わからない。状況による。それに、私たちの乗車が許可されるか、どうか」 ラファエルは、声を潜める。乗車口にいる『魚』のフットマンが、こちらを見ていたのだ。「……つい先刻、ジークフリートが捕らえられ、拘束された」「うそ。ジークさんが、なんで?」「ロストレイルが発車する前に、ひとりで司書さんを奪還しようとして、返り討ちにあったようだ。『蛙』と『魚』のフットマンと、トランプのメイドたちに」「……やつら、戦闘力もあるってことか」 シオンは、フットマンを睨みつけた。 ――そして、発車のベルが鳴る。===!注意!============このシナリオは、すでにOP公開されている以下のシナリオ(長編シナリオ)と同じ時系列で起きた出来事を扱っています。・『【建築家の視る夢】シークレット・ルーム』・『【彷徨う咆哮】ホワイトタワーの脱獄者』・『【彷徨う咆哮】アーカイヴの逃亡者』従いまして、上記シナリオにご参加の決定している以下の方、東野 楽園(cwbw1545)様、シヴァ=ライラ・ゾンネンディーヴァ(crns9928)様、ヴィヴァーシュ・ソレイユ(cndy5127)様、ロディ・オブライエン(czvh5923)様、流鏑馬 明日(cepb3731)様李 飛龍(cyar6654)様、百田 十三(cnxf4836)様、ラス・アイシュメル(cbvh3637)様、マフ・タークス(ccmh5939)様コレット・ネロ(cput4934)様、ベルダ(cuap3248)様、ティリクティア(curp9866)様、三ツ屋 緑郎(ctwx8735)様は、このシナリオへの参加・抽選エントリーをご遠慮下さい。重複参加があった場合、重複参加者の方の参加は取り消されたうえ、参加者枠がそのぶん減った状態でシナリオに挑んでいただくこととさせていただきます。このシナリオの参加者は、状況やプレイングによっては重傷や拘束などのステイタス異常に陥る可能性があります。あらかじめご了承下さい。===================
ACT.Special■その覚悟、その決意 人は、生まれて、子どもを産んで、孫が生まれて……、そうして繋がっていくの。 最初は愛や善意から始まったとしても、200年続いたら、それは妄執って言うのよ? ――リーリス・キャロン カリスを裏切れば、無名の司書が確実に危うい状況に陥る。 だが、カリスを裏切らずにアリッサ達に敵対したとしても、アリッサ達が危機的状況に陥るとは限らない。 ――チェキータ・シメール おいらは、皆無事に連れて帰りたいのにゃ。 そのために、列車に乗る前に届いた【録郎の案】に協力するにゃ。 ――フォッカー アリッサ殿がファミリーを信用しないのには理由があるのだろう。 一方、今のところ意見に正当性があるのはカリス殿の方だ。 カリス殿の依頼を反古にせず、アリッサ殿の企みの邪魔にならぬように振る舞おう。 ――イフリート・ムラサメ 豪奢な車両ですが、それに心躍らせている余裕はありませんね。 私は、アリッサちゃんを支援したいと思いますけれど、気取られないようにしなければ……。 ――七夏 カリスが裏切り者ではないのなら、彼女の為にも一行が間に合うことには意義がある。 しかし、館長が真実を話すには、彼らだけの時間が必要だ。 ――天摯 人質を取って目的を遂行するのが、世界図書館のやり方でござるか? 拙者は、賛同できぬ。そして、守りたい者に刃を向ける事も、できぬ。 ――雪峰時光 悪ぃ、おれ、女王サマ派なんだわ。老獪でおっかねー遣り口に惚れたっつーかさ。 人質は生きてこそ価値があんだから、妙な事しねー限り死にはしないんじゃね? ――夕凪 秩序と法は、感情という不確実なもので揺らいではならぬ、根幹である。 今回の問題は内々で処理すべき事柄だが、世界図書館上層が機能不全に陥れば、実質的な障害が出る。 ――ボルツォーニ・アウグスト 掟は情で曲げられるものではない。掟を破った者が罰せられるのは当然だ。 館長代理たるアリッサの今回の行動は、その影響の甚大さを視野に入れておらず、拙く短絡的と考える。 ――レオンハルト=ウルリッヒ・ナーゲル この事態を引き起こしたのが、ファミリーと、チャイ=ブレであるならば。 倒すに決まっている。私は、世界など超えたくはなかった! ――ハーデ・ビラール レディは以前、こう言ったと聞いた。 判断材料のすべてが『危険』を示すのであれば、全身全霊をもって、アリッサとあなたがたを阻止しましょう。 あなたがたの考えている『危険』と、わたしの考える『危険』が、同じものとは限らないけれど、と。 ――業塵 真実を聞かせてもらおう。 我々はレディに仕えているのではなく、世界図書館に協力しているのであるからな。 ――ガルバリュート・ブロンデリング・フォン・ウォーロード ACT.1■天津乙女(あまつおとめ) あまつかぜ 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ † † † レディ・カリスが用意した13通の招待状は、13名のロストナンバーの手に渡った。 ホームまでは連れ立ってきたはずのリーリス・キャロンとハーデ・ビラールは、なぜか、お互いの距離を置いて、別々にロストレイル6号に乗車した。 チェキータ・シメールは、銀の毛並みの猫にすがたを変えて、軽快に飛び乗る。 猫のすがたのほうが、周囲も心を許しやすいだろうし、情報収集にも有利だと考えたからだ。無名の司書の生存を第一優先事項としているので、カリスを裏切るつもりはない。 むしろ、あからさまな裏切りの兆候を見せて、人質を窮地に追いこみかねない仲間には、容赦なく攻撃を行うつもりだった。 七夏は、長い触角をそっと伏せ、薄羽蜉蝣のような繊細な羽根をたたんで、唇を引き結ぶ。今の段階では、誰がどんな立場で、どのような作戦を考えているのか、知る由もない。同様に、七夏がどう行動するのかも読めないはずだ。 ……気取られてはならない。 それでも、昆虫と意思疎通のできる七夏は、そっと業塵に頷いてみせる。 七夏に黙礼を返した業塵の目の下の隈は、今日はいっそう濃い。 野暮を嫌うレディ・カリスらしからぬ性急なトレインウォーに、真相の根深さを感じたからだ。 死傷者は出したくないと、強く思う。それは無名の司書のみならず、レディ・カリス自身をも含む。 夕凪は、赤い大きな瞳を皮肉げに細め、飄々と車内へ足を踏み入れる。まるで、気軽な小旅行にでも行くかのように。 とりあえず、レディ・カリスに挨拶くらいはしようと思っている。きれいごとをかなぐり捨てて、ロストナンバーたちにどう見られるかも承知で、このトレインウォーを決行した『女王サマ』に好感を抱いているのだ。 ボルツォーニ・アウグストとレオンハルト=ウルリッヒ・ナーゲルは、ちらりと視線を交わしただけで、表情は動かさず、一言も口を利かない。それでも、相通じる何かがあるらしく、ほぼ同時に、食堂車へと向かう。 『支配する者』であるボルツォーニは、あくまでも秩序だった裁きを望んでいた。彼はかつて、自領を、民を、守らねばならぬゆえに、腹違いの弟を手にかけ、継母を死に至らしめた。その覚悟が、治世者の責任であり現実というものだ。容赦など、しない。 レオンハルトは0世界に、ブラックウィドウの分身である小蜘蛛を残してきた。隠密行動に長けた小蜘蛛は今頃、逃亡者たちを追っていることだろう。 イフリート・ムラサメは、貴婦人の招待に応じた騎士たる礼儀正しさで、ゆっくりと搭乗する。 アリッサ側、カリス側、どちらに対しても能動的な働きかけをしなければ、アリッサたちの逃亡はうまくいくだろうというのが、ムラサメの考えである。 フォッカーは、ポケットに忍ばせたボイスレコーダーを、もう一度確かめた。出発前、当の標的のひとりである三ツ屋録郎から、エアメールが届いたのだ。録郎は、事態収拾のためにある作戦を立てている。その『共犯者』に、フォッカーはなるつもりだった。 だが……。 飛行帽の下の青い瞳を、猫獣人は慎重に巡らす。同乗するロストナンバーたちは、それぞれ考え方も価値観も違う。彼らにどこまで、この計画が通用するだろうか。手ごわくて容赦がなくていっさいの妥協をしないのは、何もレディ・カリスだけではないのだ。 それに、アリッサとて、彼女なりの決意を持っての行動である以上、はたして、緑郎が考えた『シナリオ』を、受け入れるか、どうか。 雪峰時光は、端正な顔に、彼らしからぬ憂鬱さと不穏さを浮かべた。拘束対象には、守るべき誓いを立てた少女、コレット・ネロが含まれている。 可憐ではかなげで、風にも耐えぬ風情で、守り手として挙手するものが後を絶たない少女でありながら、その実、誰よりも強靭な心と、冷静さと大胆さを合わせ持っていることを、時光は知っている。それでも、いや、だからこそ不安だった。あの少女は、誰かを守るためならば、我が身を犠牲にしかねない、そんな危うい要素があることも、事実なのだから。 雪峰の後を、憮然とした表情の――いや、甲冑に覆われて表情は伺えないにしても、その筋肉の動きは彼の心情を雄弁に語っている――ガルバリュート・ブロンデリング・フォン・ウォーロードが続く。 この列車が向かっているベイフルック邸が、おそらくは、全てが始まった場所だ。200年前、そこで、何が起きたのだろう。今や、あらゆるものがヘンリー・ベイフルックを指し示している。 天摯はすでに、食堂車の中にいた。足音も立てず、いっさいの気配を感じ取らせることもなく。 (館長の言葉にも示唆があった。内部に妨害者がいるか、世界図書館自体が何者かに監視されているからではないのかえ) 今しがた、シヴァ=ライラ・ゾンネンディーヴァに連絡をしたことは、誰にも伝えていない。 「時間稼ぎを手伝ってほしい。そして、アリッサたちを護ってほしい」という要請をシヴァは受けてくれたが、それがどう影響するかは未知数だったので。 「……わぁ。すごいですね……」 七夏は思わず、ため息を漏らす。 極上のヴィンテージ列車であるロストレイル6号の内装は、アールデコ様式の、上品で華やかなものだった。 客車も素晴らしいが、ことに、ダイニングカーの作りは群を抜いている。 クラシカルなランプが投げかける、柔らかな光。磨き抜かれたマホガニーのテーブルと、ゆったりしたソファ。煌めく半透明の器に盛られたテーブルフラワーは、よく見れば、小さな宝石で作られた花束だ。 ロストレイルの各列車には、それぞれ、その星座にちなんだモチーフが施されている。この「おとめ座」では、正義の女神アストライアが、繊細なガラスの浮き彫りとなっていた。 ダイニングカーを満たす甘やかな香りは、アンティークの花瓶にふんだんに活けられた、黄色の薔薇によるものだろう。 ――天津乙女(あまつおとめ)。 壱番世界の日本で開発されたこの品種は、《赤い城》の薔薇園でも栽培されている。おとめ座との符号を意識した、カリスの演出と思われた。 次々に搭乗する招待客たちは、赤いドレスの貴婦人に出迎えられた。 レディ・カリスは、いとも優雅に礼をして、彼らの席を指し示す。。 「おとめ座のお茶会へ、ようこそ。いらしてくださって、うれしいわ」 ……そして、その横には。 漆黒のドレスの女が、蒼白の顔を伏せ、従順な侍女のように控えていた。 サングラスとスカーフは取り去られ、髪は結い上げられ、薔薇のつぼみが飾られているので、一瞬、誰なのかわからないくらいだが……。 「……司書殿」 ガルバリュートが、うなり声を上げる。 「拘束されていたのでは……」 業塵も目を見張ったが、きついコルセットで絞り込まれた腰と、およそ歩行には適さないガラスの靴を履かされている様子に、重く頷いた。 「成る程。これもまた、拘束ということか」 いかにも残酷な貴婦人らしいと、業塵は痛ましそうに司書を見た。 無名の司書の後ろには、監視役として、ふたりのフットマンと4人のメイドが、ずらりと並んでいる。 「本日は、薔薇づくしの茶菓と、薔薇の紅茶をご用意しましたわ」 前菜は、青薔薇を閉じ込めたフルーツゼリー。 メインは、紅薔薇ソースのフォンダンショコラ。 プティフールは、黄薔薇といちごのミルフィーユ。 飲み物は紅茶の女王、キームン(祁門)と、薔薇花茶のブレンド。 「皆様のお気に召すといいのだけれど――ラファエル、シオン。招待客はお揃いです。そろそろ給仕を始めて頂戴」 「かしこまりました、レディ・カリス」 「それでは、『青薔薇を閉じ込めたフルーツゼリー』から、サーブさせていただきます」 いつの間に、そのようなことになったのか。 ラファエルとシオンが、ロストレイルのダイニングスタッフの制服を着て現れた。皆の着席を見計らい、白い皿に花開いた美しいスイーツを給仕していく。 お茶会など口実に過ぎないと思っていた一同は、本格的なもてなしを受けて、しばし黙り込む。 † † † (うまく、もぐりこめたようだな) ハーデが、ラファエルとシオンに目線で合図を送る。 ロストレイルに、乗るか否か。 発車のベルがなる直前まで決めかねていたふたりに、ハーデは言ったのだ。 司書救出に、一役買えと。 「私は本当に強い人間を尊敬する。何らかの傷を抱えて転移してきたお前たちが、ターミナルで笑えるようになったのは、彼女のおかげだろう? なら……、ひとりで死なせるな」 さらに、手のひらに隠れるほどの紙片を、ハーデは見せた。 「これを記憶しろ。リーリスが出発前、ターミナル中に撒いてきた手紙だ。もし可能なら列車に搭乗後、シオンも、この内容をリーリス名で知人全員に送信してくれ」 ━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━ 私たちの現状は、仮死状態と同じです。 もし、パスホルダーを喪うことで、元の世界に帰りたいと願う心が、 私たちを、ディラックの落とし子に変えてしまうのだとしたら。 もし、壱番世界のプラットフォーム化が、 この零世界に、アンカーとして繋がれたためだとしたら。 私たちが善意で世界を救いたいと考えるように、 世界が動かないよう、善意を摘み取る存在があったとしたら。 既にいくつもの世界にアンカーが打ち込まれて、定点化されているとしたら。 もしも今回のトレインウォーで、無事に戻らないロストナンバーがひとりでもいたら。 そしてレディ・カリスが、その理由を説明できなかったなら。 それは、真実が含まれていた証です。 探してください――真実を。 貴方と、貴方を育ててくれた、いとしい世界のために。 ━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━…━ ふたりが文面を確認したと見るや、ハーデは紙片を丸めて飲み込んだのだ。 「事実上のトレインウォーが始まるのは、おそらくお茶会の後だ。タイミングを見計らい、ゴーゴンの裔であるリーリスが『仕掛ける』。ラファエルは状況に関わらず給仕を続けろ」 ACT.2■Blue Moon チェキータは、ふと思い出す。 2頭の獲物を追いかけていたら二手に分かれてしまって、どっちを追うか悩みながらもまっすぐに進んでいたときのことを。今回はゆるぎなく目標を定め、上手くこなしたい。 銀色の猫は、ゆらりと尻尾を振った。小さな顔を上げるやいなや、無名の司書のそばに走り寄る。 人質の背後に控えていたフットマンとメイドは猫の動きに身構えた。が、膝に飛び乗って、うにゃあ、と、可愛らしく毛づくろいしたチェキータを見て、警戒を解く。 無名の司書とはあまり面識のないチェキータであるのに、この危機に守護獣たらんとしてくれている。声の出せない司書は、涙ぐみながら銀の毛並みを撫で、青みを帯びた月のようなゼリーをひとすくい、猫に差し出した。 「これは美味しそうじゃのう。さっそくいただくとしようか」 給仕のラファエルに目礼し、天摯は屈託なくスプーンを手に取った。前菜のゼリーに舌鼓を打ち、サーブされた薔薇紅茶をひとくち、飲もうとして……。 「おっと」 ことん、と、指からティーカップが滑り、横に倒れた。こぼれた紅茶はテーブルをつたって流れ、床にしずくを落とす。 「すまんすまん。せっかくのお茶をこぼしてしまった」 「お召し物は濡れませんでしたか」 「大事ない」 「すぐに、お代わりをお持ちします」 天摯が床にこぼした紅茶は、目には見えない微細な刃に練成された。床から浸透し、やがては動力部に到達し、ごく僅かな負荷をかけていく。 列車を止めるつもりはない。しかし、体感できないほど少しずつ遅れさせて、10分20分単位での時間を稼ぐつもりだった。 それが、アリッサたちにどう影響するかはわからないにしても、彼らには時間が必要だと思ったのだ。 ――大切な何かを打ち明ける、時間が。 業塵の額に、彼らしからぬ汗がにじむ。 彼はまだ、茶菓に手をつけていなかった。カリスに「薔薇はお嫌いかしら……」と言われ、いっそう緊張する。 華やか過ぎる薔薇のスイーツに気おされたとは、とても言えない。 (ふつうのお菓子だと思えば、大丈夫ですよ……) 隣席の七夏が助け舟を出してくれた。彼女は彼女なりに、何か思うところがあるらしいが、今は自然にお茶会を楽しんでいるように見える。それはそれで計画の遂行のため、必要なふるまいなのだろう。 業塵は頷く。おそるおそるゼリーに手を伸ばしながらも、彼の使役する蛾や蜘蛛を、気づかれぬように、皆の影に忍ばせる。 蟲たちは密やかに影から影へと移動して、この華麗な列車のあらゆる場所に潜むだろう。 蛾は、麻痺の燐粉を放つ。蜘蛛は拘束と、守る糸を使う。誰も傷つかないようにと願う業塵の配慮だった。 すべては、万一の補助のため。出番がないなら、それでいい。 「ボルツォーニさまには、こちらをお出しするようにと申しつかりました」 ラファエルはボルツォーニの前に、皆とは違う皿を置いた。淡雪仕立てのメレンゲを浮かべた、青薔薇のデザートスープだった。 「レディの計らいかな? 感謝する」 固形の食物が苦手であるのを意識しての差し替えに、ボルツォーニはカリスに謝意を述べる。 カリスは微笑んで頷き、ボルツォーニの隣席を見やる。 そこには、氷のように無表情なレオンハルトがいた。並べられた茶菓にまったく手をつけていないばかりか、食べようという意志をいっさい見せない。 「お好みに合わないようでしたら、取り替えさせますけれど」 「いや。私は、通常の飲食というものができないのだ」 「『目で食べる』という表現もありますわ。ことに茶菓は、視覚も重要でしょう?」 「見てくれに問題があるわけではない」 むべもなく言い、レオンハルトは本題に入る。 「お茶会など私には無意味だ。アリッサたちを拘束し、館長を速やかに保護する。それだけのことだ」 「質問がある」 フォンダンショコラを食べていたハーデが、カリスに顔を向ける。 「館長代理が抵抗したら、殺すのか」 あまりにも直裁な問いに、一同の動きが止まった。 カリスは落ち着いた態度を崩さずに、「いいえ」と、首を横に振るが、その口調は冷たい。 「でも、罪は、償わなければならないわ。アリッサに限ったことではないけれど。……償うことが可能な罪など、ないのかも知れないけれど」 フォッカーが、そっとボイスレコーダーのスイッチを入れる。 「アリッサを連れ返せたら、ひどい罰は与えないでほしいにゃ。それと、無名の司書さんを解放してほしいにゃ」 カリスは答えない。その言葉がまったく聞こえなかったように、白い手を上げてラファエルを呼び、空になった自分のティーカップに、新しいお茶を注がせた。 「あのふぁー」 夕凪はもぐもぐとミルフィーユをほおばっている。 「おれらの監視に手下付けるとして、女王サマ降車すんの?」 「そのつもりよ」 「ふーん。危ねーと思うけど」 「どうかしら」 「いっそ、女王サマもアリッサたちと茶会すりゃいいんじゃね? お供連れてさ。ま、捕まえた後の話だけどな」 時光が、たまりかねたように立ち上がった。 「……拙者も質問がござる。カリス殿は、なぜ、いち早くアリッサ殿の動向を知りえたのか? アリッサ殿やコレット殿らに先回りするということは、行き先と彼らの到着時間も把握しているのでござるか? ……不可解でござるな」 「質問の意味が、わかりかねるわ」 「もしや、そこにいる部下をホワイトタワー周辺に配置して、ずっと見張らせていたのでござろうか? とすると、カリス殿はアリッサ殿の造反を、前々から予期していたということでござるな」 カリスを睨みつける目に、力がこもる。 「館長代理の動向は、常に把握しておくべきではなくて?」 「レディだけの図書館ではあるまい?」 うっそりと、ガルバリュートが言う。 「今回のトレインウォーが、ターミナル中があっけに取られるほど性急だったのは事実であろう。これが独断だとしたら世界図書館の上層部、そう、『ファミリー』とやらに直訴もやむなしだが?」 「直訴ですって?」 ふふ、と、面白そうに、赤い唇がほころぶ。 「出来ないとお思いかな?」 「可能なら是非、していただきたいものだわ」 「筋を通すならトレインウォーなど起こさず、世界図書館上層部のみの話し合いで、決着をつけるべきではあっただろう。だが、上層部で議論が紛糾するようであれば、別の弊害も起こりえた。ゆえに、レディが決断したというのなら」 薔薇のスープを食べ終えたボルツォーニが、長い指を組む。 「反逆者は拘束されなければならない。裁かれなければならない。『同じ立場の旅人』『同じ0世界に集った仲間』などという曖昧な理由で、私は彼らを見逃したりはしない」 レオンハルトもまた、表情を変えずに言い放つ。 「それが効率的な拘束方法であれば、手段などかまわない。事情を問うのなら、口さえ利ければいい。足や腕を切り落としてしまっても、証言に支障があるはずもない」 「……それは。あまりではござらぬか! 如何なる咎があろうと、人質を取っての強引な追跡を遂行するのは……。拙者は、このようなやり方に賛同できぬ」 時光は鼻白んだ。コレットは今頃、どうしているだろう。壱番世界に来てしまったら、どうなるのだろう。このお茶会に集まった人々が本気で追撃を行ったら、まず、逃げられない。 かつて、敵国の将に、目の前で主と姫を殺された。黒髪を散らして倒れ伏す姫のすがたが、金髪の少女と二重写しになる。 「おサムライさんさー、気持ちはわかっけど、みんな、守りたいものって違うじゃん? 正義がひとつなら、誰も苦労はしねーんだよ」 夕凪が、のんびりと言う。時光はため息とともに、再び腰を下ろした。 「……ならば拙者は、拙者が正しいと思う事をするでござるよ」 何かを決意した声の響き。ハーデは無言で、時光を見つめた。 「――曖昧な理由。そうね、そのとおりなのよ」 カリスは静かにティーカップを置く。わずかの間だが、別の想いに囚われていたようだった。 「そう感じているのは、ボルツォーニさんだけではないの。ロストナンバーは、何故か、ターミナルに愛着を持たないようになっているの。他のロストナンバーへの関心も希薄で、思い焦がれるのは自身の出身世界のことと、個人的に親しい人々だけ。それは、どうしてなのかしらね?」 緋色の貴婦人は、列車の窓に視線を映す。 広がるのは、ディラックの空。 「心当たりがあるはずよ。館長のゆくえを探していたときも、ロストナンバーたちの反応は薄かったでしょう? 見つかった時も、アリッサに『良かったね』と言った程度。人狼化して、ホワイトタワーに収監されても、誰も騒ぎ立てはしなかった。……とても、おそろしいことなのに」 「ふむ」 ムラサメが口を開く。 「そういえば、ロストレイルの出発時、ターミナルはスーパー静まり返っていましたな」 「ええ。まるで、何も起きていないかのようにね」 「先だっての茶会において、レディは『危険』について、話しておられてたようだが」 茶菓をひとつ食べ終え、やや落ち着いた心持ちの業塵が、問いかける。 「判断材料のすべてが『危険』を示すのであれば、全身全霊をもって、館長代理とロストナンバーを阻止するという趣旨であった。『危険』の発生により、このトレインウォーは決行されたのだと、そう解釈しても宜しいのだろうか?」 「そう思ってくださって、かまわないわ」 「だったら、人質を取る必要はないにゃ!」 思わず、フォッカーが身を乗り出した。 「それは最初から、皆を疑ってかかってるってことだにゃ」 「全面的な信頼を寄せることが、良い結果を招くとも限らないの」 「……司書さんが、かわいそうだにゃ……。ひとことも話すなって言われて、喉をつぶしたにゃ。これが普通のお茶会だったら、楽しいお話がたくさんできたにゃ。……ひどすぎるにゃ」 フォッカーは涙を浮かべて、司書を見た。 猫獣人のあまりのいじらしさに、司書は蒼白になり、右手で鼻を押さえた。そして左手で、給仕中のラファエルの袖をぐいぐい引っ張り、何ごとかを身振りで訴える。 はっとしたラファエルは、蛙のフットマンに耳打ちをした。フットマンは顔色を変えるやいなや、慌ててタオルを持ってきた。司書の顔にあてがう。 ……鼻血噴出で、優雅なお茶会を台無しにすることは、なんとか免れた。 (こんなときに、まったく、世話の焼ける) ラファエルが、小さくぼやく。 (ふわもこに萌える余裕があるんなら、ひと安心じゃん) そういうシオンも、少しは落ち着いたようで、表情に生彩が戻ってきた。 その様子に、ムラサメが、「成る程」と、呟いた。 ロボット騎士道に生きる武者は、打開の糸口を掴んだらしい。 「さて、カリス殿。トレインウォーとは、世界司書が指揮官となって派遣され,発動されるものなのだろう? 見たところ、指揮官殿は、スーパーご気分が悪いようだ。声を発することができず、ストレスもたまっておられよう。このままでは、体調を崩し、倒れられるやもしれぬな」 「そんなこと」 「この状態は『指揮官不在』といえよう。我々は、指揮官殿の号令を聞いて動く立場であるのだから」 「いいえ。わたしが、指揮官の補佐をしていますもの。わたしの言葉は、指揮官の言葉と考えて頂戴」 「しかしながらカリス殿は司書にあらず。ゆえに指揮官の補佐にはなれぬ」 カリスはなおも口を開こうとした。しかし、ムラサメは片手で制止する。 「であるならば、このトレインウォーは成立しない」 リーリスは何も言わず、紅茶を飲んでいた。時おり、痛ましそうにカリスを見やりながら。 ACT.3■First Love ジェーンお姉さま。今日は顔色がよろしいわ。 ねえ……、薔薇園でお茶会を開きましょうよ。 エディやヘンリーと一緒に。 きっと、楽しいわ。 † † † わたしね、フェンシングを習い始めたの。 先生からも、筋がいいってほめられたのよ。 淑女は自分で自分の身くらい、守れなくちゃね。 お姉さまの分も、がんばるから。 いざというときは、わたしがお姉さまを守って、戦ってみせるわ。 † † † んもう、聞いてよ、お姉さま。 ヘンリーったら、どうしてあんなにイタズラ好きなのかしら。 森を一緒に歩いていたら、急に姿を消して……。 心配して心配して、探しまわったの。そうしたら、急に木陰から出てきたの。 ふざけて隠れてただけなんですって。 もう、許せない。 泣いて怒ったわ。慌てて謝ってくれた。 † † † ……え? ヘンリーにプロポーズされたの? ――そう。 おめでとう。 † † † どうして教えてくれなかったの、エディ。 ヘンリーはお姉さまに一目惚れだったのですって? わたし、ずっと誤解してた。 だってヘンリーは、『家族』になろうね、エヴァ、って、言ってくれたのよ。 一生、一緒にいようねって、言ってくれたのよ。 だから……、だからわたし……。 † † † ええ。そうよ。 あの穴に、ヘンリーを突き落としたのは、わたし。 殺意? もちろん、あったわ。 だけど、結局、殺し損なってしまったわね。 ヘンリーは0世界を発見して、戻ってきたのだから。 ……安心して。 もう二度と、誰かを殺そうなんて思わない。 わたしはもう、情緒に振り回されたりはしない。 ACT.4■Destiny ムラサメの指摘は、相応の効果があったようだった。カリスは考えを巡らし、頬に手を添える。 食堂車は、しん、と、静まり返る。 一同は息を詰め、強ばった口元を見守った。 やがて……。 貴婦人の唇は、朝日を受けた薔薇のようにほころぶ。 カリスは歌うように、シオンに声をかけた。 「シオン。そろそろ指揮官に、中和剤を飲ませてもよろしいのよ」 「へっ?」 「あなたのことだから、調合して隠し持ってきたのでしょう。喉のしびれを中和する薬を」 「お見通しかよ。やっぱ、カリス姉さんはおっかないや」 シオンは肩をすくめ、胸ポケットから、ガラスの小瓶を取り出した。 司書にサーブした紅茶に、一滴、二滴。 「飲んで」 司書は頷いて、冷めかけた紅茶を一気に飲み干した。 「……ふう」 その口から、かすれてはいたが、久方ぶりに声が発せられた。 「カリスさまぁ。このコルセット、すごく苦しいです。何も、メイドさん4人掛かりで締め上げなくてもいいじゃないですかぁ〜」 「司書さん……。よかったにゃ」 「フォッカーさぁん。心配かけてごめんねぇ」 一同の緊張が、やや、解けた。 ……が。 「これで、指揮官不在ではないでしょう?」 カリスの言葉に、事態はまったく変わっていないことを思い知らされる。 「大丈夫ですかな、司書殿。元気付けのために、これを差し上げよう」 ガルバリュートは、どこから取り出したのやら、自分のブロマイドを司書に渡す。 「ステキです、ガルバリュートさん。恋に落ちそう……」 筋肉無限大の濃いブロマイドを、無名の司書はうっとりと見つめた。 「司書殿は魅力的だが、拙者はドSの姫に絶対服従の運命で……。それに今は、こちらの美女を口説き、本心を聞きだす必要があるのでな」 「……本心ですって?」 カリスの眉が、わずかに動く。 「たとえば、姉上と、姉上の御主人と、その娘御について。もっとも、おおかたの察しはつきつつあるところだが」 「それは……」 ――刹那。 列車の窓を揺るがせ、雷鳴が轟いた。 闇を引き裂く閃光が、放射状に走る。 壱番世界のイギリスに、着いたのだ。 外は、嵐だった。 「ばかな。早すぎる」 天摯は、ロストレイル6号を、それとなく遅らせたはずであるのに。 「「いえ、定刻どおりです」」 ふたりのフットマンが、同時に、芝居がかった礼をした。 夕凪が、悪びれることもなく、ぼり、と、頭を掻いた。 「悪ぃな。茶会中に車内を透視してたら、何か、見つけちゃってさー。あんたが仕掛けたやつの動き、止めといた。女王サマ、急いでんのに、遅延はマズいじゃん?」 七夏とチェキータは、窓に駆け寄った。 速度を増して、地表は近づいてくる。 「アリッサさんたち……!」 標的たちが、そこにいた。 † † † ロストレイルの接近に、逃亡者たちは気づいたようだ。 駆ける 駆ける。 駆けている。 アリッサが。コレットが。ベルダが。ティリクティアが。緑郎が。 狼から逃げる、子うさぎのように。 館長は別方向に逃げたらしく、そのすがたは見えない。 そして―― † † † 「「足止めのため、対象への威嚇射撃を行います」」 フットマンたちは、おとめ座に搭載された武器『正義の棘』を使おうとした。 無数の刃が連続して放たれる仕様で、複数への近距離攻撃に適している。 「……そうはさせない」 ハーデの姿が、かき消えた。発射口に瞬間移動を行ったのだ。 「危ない」 今にも、正義の棘は放たれようとしている。 業塵が忍ばせた蟲が、それを制止させた。 ハーデは難なく、発射口を切り裂く。 「ワームで傷つく装備如き、光の刃なら一瞬だ」 † † † 「お可哀想な、罪深いカリス様。私たちが救わなければ、隠さなければ。自刃せぬよう、この方だけを見張らねば」 リーリスは、『魅了』を発動しようとしていた。 身体中に紅眼と口を出現させ、全てを魅了し、拘束する。 それこそがハーデの計画でもあり、人質とロストナンバーともども、カリスをも守るための行為であったのだが……。 「待ちたまえ」 ボルツォーニがリーリスの肩に手を置いた。 「事態の収束のためには、あまりおすすめしない」 † † † 「むン……!」 ガルバリュートのランス型ギアが、ロストレイルの屋根を突き破る。 行かなければならない。一刻も早く、彼らのもとへ。 「おいらも連れていってほしいにゃ!」 「よし、掴まれ!」 衝撃からフォッカーを庇いながら、ガルバリュートは壱番世界の大地に飛び降りた。 † † † 「う、動かないでください!」 七夏は、その糸で、カリスの服と空間を縫い付ける。 「ほんの少しだけでも、足を止めてほしいんです。そのためなら、どんなことでもします。土下座をしろと言われればします。羽をもげと言われればそうします。ですから、もうしばらくだけ……!」 「何をしている。我々は、早く追わなければならないものを」 レオンハルトは、カリスを拘束する糸をあっさり切った。 「こうしてはいられない。私は、館長を捕まえよう」 † † † 「拙者は、反逆者になるでござる」 言うなり、時光は、守るべき少女のもとへ急ぐ。 ロストレイルから降りた13人は、13様の行動を取った。 その決意と、覚悟のままに。 ACT.5■Red Queen 「見て!」 ふいに、ティリクティアが声をあげ、空を指した。 嵐の空を裂いて、列車が天をかけてゆく。 ベルダがそれを睨んだ。今まで……彼女たちを幾多の異世界へ送り届け、あるいは迎えてくれたそれを、こんな複雑な気持ちで目にするとは思わなかった。あの列車は、彼女たちを捕らえるためにディラックの空を駆けてきたのだ。 「アリッサさん。帽子とケープ、貸してもらうわ」 コレットが言った。 いつのまにか、彼女は荷物から取り出したブルネットのウィッグをつけている。そのうえにアリッサの帽子をかぶり、ケープを肩から羽織る。 「アリッサさん、今は無理だったとしても、いつか必ず、アリッサさんの願いがかないますように」 「コレットさん」 にこり、と微笑むと、コレットは雨の中へ駆け出していった。 遠目には、コレットはアリッサに見えるだろう。それが彼女の狙いだ。 雨に濡れたその少女がコレットであることを、ムラサメは知っていた。知りながら黙認し、騙されたふりをしてその後を負う。 いち早く追いついたのはハーデだった。頬にしずくを伝わせたまま、強く、その腕を掴む。 「怪我をしたくなければ戻っていただきたい、館長代理」 後を追ってきた夕凪も、すでにびしょ濡れだった。 「すげえ雨だな。風邪引くとなんだし、痛い思いする前に捕まってくんねー?」 ひときわ大きな稲光が、空を割く。 強く、風が吹いた。 その拍子に、帽子が滑り降りる。 「……あ」 ハーデと夕凪は、少女の正体に気づく。 「コレット殿! 怪我はないでござるか?」 時光は遠目にあってさえ、少女を見間違えることはなかった。 コレットを庇うように、追跡者の前に立ちふさがる。 「駄目よ、時光……。そんなことをしたら、あなたまで」 「後悔はしてござらん。守りたい者を守る……。それが侍としての矜持でござるよ」 † † † 暴風雨の中を、ひとりの男が足早に駆けている。 嵐にさらされてもびくともしないその屋敷を、彼は見上げた。ファザードへと駆け込もうとして……足を止める。 追跡者の気配がする。 「……誰だ」 エドマンド・エルトダウンの、三つ揃いのスーツはずぶ濡れだった。整えた髪も乱れている。 彼はステッキを携えていた。なめらかな黒檀のステッキだ。 持ち手の部分には、朱鷺の頭を持つ神の意匠。古代エジプトで崇められていたトート神である。 エドマンドはおもむろに持ち手を掴むと、一息に引き抜いた。 すらり。 軽い音を立てて、それは細い白刃の本性をあらわす。 仕込み杖だったのだ。ぎらり、と閃いた刃は、投げかけられた網——ブラックウィドウの糸を切り裂いた。 「館長」 影のように現れたのはレオンハルトだった。彼だけが、逃げた館長を見つけることが可能だったのだ。 駆け出すエドマンドを慌てて追うでもなく、レオンハルトはゆっくりと歩み出る。 慌てる必要などないのだ。すでに獲物は射程内にいるのだから。 「もうどこへも行けない。これはトレインウォーだ。今以上の抵抗はその立場を悪くするだけだ」 どこからともなく、次々に投げかけられる糸を、館長はすばやい身のこなしで避ける。 くすくすくす、と嵐の音に混じってあやしい女の含み笑いが聞こえた。 喪服の女がいた。彼女こそ、レオンハルトが血の万魔殿より召喚したブラックウィドウである。彼女が放つ糸がエドマンドを絡めとろうとする。 どうやら……わざと外して戯れているようだったので、レオンハルトは彼女へ厳しい視線を送った。 エドマンドはレオンハルトを振り返る。 そして、なにもない宙空に、仕込杖の刃を振るった。 「!」 エドマンドとレオンハルトの間は数メートル以上離れていた。にもかかわらず、レオンハルトの二の腕が、直接斬られたかのように血をしぶかせる。ブラックウィドウははっとそれに気をとられたかに見えた瞬間、館長は内ポケットから取り出した呪符——それはホワイトタワーを出るとき、協力者の百田十三から預かったものだ——を叩きつける。 異教的な装束の、童子のような、小鬼のようななにかが、ブラックウィドウに飛びかかった。 レオンハルトのように圧倒的な力を持つツーリストと一対一で相対するのはあまりに不利だ。だから逃走に徹したエドマンドの選択は正しい。 ただ失敗は、レオンハルトに斬りつけてしまったことだ。 流れる血こそ、彼の呪術の根幹と言ってもよかったのだから。 瞬時に、血により描かれる魔方陣。筋骨たくましい巨人の腕が、魔方陣から伸びてエドマンドを掴んだ。 「世界図書館は存続してもらわなくては困る」 冷徹に、レオンハルトは言った。 「ゆえに、館長を失うわけにはいかない」 「……わかった」 巨人の腕に締め上げられながら、エドマンドは言った。 「エヴァに……レディ・カリスに合わせてくれ」 「そのつもりだ」 † † † 雷鳴が轟く。 いつのまにか、かれらの前方——地面より数メートルのところに浮かぶ大柄なシルエットがあった。 漆黒のコートが風雨を孕む。 ボルツォーニ・アウグストの冷酷な瞳が、かれらを睥睨していた。 「あ、あの」 眼力に気圧されながら、それでもティリクティアは気丈になにか言おうとした。 だが彼女が言葉を発することはできなかった。どのみち、発せられようとしたのがいかなる弁明であったにせよ、不死の君主が聞き入れるはずもない。 ティリクティアの手から、トラベルギアのハリセンが濡れた離れ、腐葉土の上にポトリと落ちる。 「……っ!」 つま先が宙を掻いた。 ティリクティアの細い首を、ボルツォーニは片手で掴み、やすやすと持ち上げている。 「ちょっと待ちなよ、あんた!」 ベルダがコインを投げる。 それはボルツォーニの頬をかすめるも、牽制の役にさえ立ちはしなかった。彼は片手でティリクティアを放り投げ、その身体を受け止めたベルダが姿勢を崩す。 瞬間、ボルツォーニの姿は残像だけをのこして消え、ベルダの背後に立っていた。 黒いコートの裾がコウモリの翼のように広がる。 ベルダは異様な殺気に背筋を凍らせながら、はじかれたように振り向き、手刀をたたきこむが、中空に呪術的な文様となって浮かび上がる魔法の障壁がそれを阻む。 本気だ。 ベルダは悟る。この男には一片の慈悲もない。 その考えが正しいことを示すように、コウモリの翼は収縮して黒皮の鞭となり、ベルダを打つ。彼女の身体が地面に投げ出された。 「ベルダ……!」 ティリクティアが叫ぶも、しなやかな鞭はそのまま鋭い刃となって、ティリクティアの喉元をぴたりと指した。 「なにかに抗うものはおのれの力量を見定めておくべきだ。そうでないのは愚か者のすること」 ボルツォーニが告げる。 「ひどい。こんなのって……」 「私たちの言い分は聞く耳持たないって顔だな」 ベルダがボルツォーニを睨みつけた。 「弁明を聞くのはレディ・カリスのすること。私は召集されたトレインウォーに応じたまでだ。ゆえにもとより私は諸君と対話はしない。戦争をしているのだから。……だが逆に。戦争である以上、降伏するなら捕虜として扱う。戦争は虐殺ではないからな」 淡々と。紡がれる言葉は整然としていて、しかし、いかなる意味でも、それに抗うことができないことを、ティリクティアとベルダは理解する。 「すみやかに決めてもらおう。私は次にあのポーンを追わねばならない」 ボルツォーニの青い目がアリッサの消えた方向へ向けられた。 † † † 「アリッサ!」 緑郎がアリッサを引き止めようとする。 「館長に合流するなんてだめだ、ここで捕まらなきゃ」 雷光が、閃いた。 天を這いうねる、竜のような稲妻。 そのしたで、荘重にして典雅な洋館が嵐を背景に浮かび上がる。 ベイフルック邸——。緑郎たちは、暴風雨のなか、思いのほかその近くまで迫っていたのだ。 そして、その屋敷を背に、ひとりの女性が風雨もいとわず、立っていた。 厳しくも美しいおもてが青ざめているのは、雨に打たれているせいか。 レディ・カリス。 その手の中に、精緻な装飾が施された古めかしい盃のようなものがある。 「本当に愚かな娘ね。愚かで……なんて純粋なのかしら。本当に憎らしい娘」 賓客に乾杯を促すような優雅なしぐさで、彼女は盃をかかげ、だが次の瞬間、盃と見えたそれは、一振りの細身の剣に姿を変えていた。 彼女は、フェンシングの剣礼(サリュー)のように剣を顔の前に掲げると、斜めに刀身をふるい、そして返した剣先をぴたりとアリッサと緑郎へ向けた。 動いたのは緑郎だ。 アリッサの首に腕を回して引寄せる。 「おっと、それ以上近づいたら、館長代理は無傷じゃすまないよ!」 「……なんですって?」 レディ・カリスは眉をひそめた。 「僕の計画は邪魔させないってことさ」 「そう、計画……。あなたの計画だというのね?」 「おいらも共犯だにゃ。緑郎、あんたが捕まってどうするのにゃ?」 駆けつけたフォッカーが、打ち合わせどおりに緑郎に詰め寄る。 「悪い悪い。失敗した。なぁおばさん。イイ子のアリッサがこんな事すると思うの? おばさんさあ、もう年なんじゃない?」 緑郎は嘲るように笑う。 しかし、その時。 すでに周囲は、おとめ座でやってきたロストナンバーたちが取り囲んでいた。 緑郎の姿は、追い詰められた犯人の最後の悪あがき……舞台の観客にはそう見えたことだろう。 再び、雷鳴が響く。 レディ・カリスの手の中から、剣は消えていた。 雨を含んで重くなったドレスの裾をつかみ、捌きながら、彼女は告げる。 「館長代理と、あとのものたちをロストレイルへ」 ロストナンバーたちによっておのれの命令がすみやかに遂行されるのを見届けるでもなく、彼女は背を向けると、独りでベイフルック邸へと足を向けた。 その門前では、ひとりの紳士——エドマンド・エルトダウンが、レオンハルト=ウルリッヒ・ナーゲルにともなわれて彼女を待っている。 「この期に及んで、まだ逃げようとするなんて」 レディ・カリスは彼を睨んだ。 「わたしは、ずっと、怒っていた。愛するものを守りたいと言いながら、なにひとつ守れなかったヘンリーとあなたに。そして、親代わりのあなたに甘やかされて……、いいえ、あなたに放置されるままに空回りしていたアリッサに対しても。……あまり、怒らせないで。わたしは、やさしい女でいることもできたのに」 「エヴァ」 「アリッサしか、残っていないの。もう、アリッサしか、いないのよ。ベイフルックとエルトダウン、呪われた一族といわれたファミリーの、すこやかな部分を継ぐものは」」 「……エヴァ」 「さあ、行きましょう。きっとここには、あなたとわたしを待っているひとがいるはずよ」 エドモンドとカリス、いや、エヴァ・ベイフルックの横顔を、閃光が照らし出す。 (……まさか、こんな形でこの屋敷に戻ることになるとは、思っていなかったわ) 呪われた屋敷は、200年の時を経て、その本来の《家族》の帰還を受け入れた。 豪雨の止む気配はなく、洋館と、異形の列車に、鋭い銀の矢を放ち続けている。 † † † 帰りの車中にて、無名の司書はガルバリュートに言う。 「今回の件で、一番危険を侵したのはカリスさまなんです。館長代理でも館長でもありません。名ばかりの指揮官で人質だった、あたしでもありません。カリスさまがトレインウォーを起こした理由に、もう、ガルバリュートさんは気づいていると思います」 「アリッサ殿の心を護るため、ですかな。ゆえに拘束してでも、ベイフルック邸には行かせたくなかった」 情緒に流されることを封印した赤の女王が、200年ぶりに、情緒で動いたのだと……。 † † † 「なあ、女王サマ。ちょっと聞きたいことがあるんだ。や、大したことじゃないんだけど、何かさ、気になって」 濡れそぼったままのドレスを着替えるでもなく、カリスはひとり、客車に座っていた。 夕凪が、ハーデが、業塵が、天摯が、リーリスが、レオンハルトが、ボルツォーニが、七夏が、時光が、チェキータが、ムラサメが、フォッカーが、ガルバリュートが、静かに歩み寄る。 「何かしら?」 「何で、13通の招待状を用意したんだろうって思ってさ。なんか、不吉じゃん? それとも、何かの符号?」 「ああ……。とくに深い意味は、ないのよ」 知っているかい、エヴァ? アイスランドの伝説なんだけれどね。 クリスマスにやってくるサンタクロースは、13人いるんだ。 イタズラ好きな、楽しい連中だよ。 彼らは普段は山に住んでいて、12月12日になったら、最初のサンタクロースが下りてくる。 毎日、ひとりずつ。 最後の13人目のサンタクロースが下りて、全員が揃うのが12月24日。 クリスマス・イヴってことだね。 ——13人の、サンタクロース。 とうに、クリスマスは、過ぎたというのに。 わたしは、彼らに、何かをプレゼントしてほしかったのか。 皮肉めいた笑みを浮かべ、カリスはゆっくりと、首を横に振った。
このライターへメールを送る